賢者の石と黒髪の騎士   作:krn

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第十三章:ドラゴンと、ふたつの影

 

イースター休暇が明けて、数週間。

 

校舎に差し込む陽だまりが、休み前より一段と深くなっていた。

窓辺では、細かな埃が光の中をゆっくりと漂っている。

 

山のような宿題とともに、ハーマイオニーの勉強への熱も、明けてからいっそう強くなっていた。

 

カリンたち四人は、半ば押し切られる形で自由時間のほとんどを図書館で過ごしている。

 

ページをめくる音と、羽根ペンが羊皮紙を走るかすかな擦れだけが、広い空間に薄く広がっていた。

 

その中で、ひときわ規則正しい音を立てているのは、ハーマイオニーだった。

 

迷いのない筆致でノートを埋めていくその手元を、カリンはぼんやりと眺めている。

 

対照的に、向かい側ではロンが椅子に深くもたれかかり、ハリーも同じように集中力を切らしていた。

 

「まだ進級試験まで二か月あるぞ!いくらなんでも早すぎだろう」

 

ロンが声を上げた。

 

「違うわ。もう二か月しかないのよ。範囲は広いし、今のうちからやらないと間に合わないわ。――特に貴方たちは」

 

ハリーとロンに指が向く。

ハリーは苦笑いでそれを受け流した。

 

「カリン!コイツをどうにかしろよ、連日机に向かっていたら、歩き方を忘れちまうよ」

 

「まぁ……苦手だけど。言ってることは間違ってないしね」

 

そう言いながら、カリンはノートに目を落とす。

自分のノートがほとんど進んでいないことに気づく。

 

教科書に目を向けるが、文字はほとんど頭に入ってこなかった。

隣で、ページをめくる音がする。

 

「……ねえ、"次元転移の初歩"って、この呪文かしら」

 

小声で言いながら、ハーマイオニーが指で行をなぞる。

 

「たぶん。理論と一緒に覚えろって言ってた」

 

覗き込んだ拍子に、肩が触れた。

ほんのわずか。

 

――いつものことだ。

 

今さら驚くほどのことでもない。

 

それでも。

 

最近は、その“いつものこと”が、やけに心臓に悪い。

 

カリンは視線をページに固定したまま、小さく息を吐いた。

 

「……そこ、書き写しておいた方がいいかも」

 

「そうね」

 

ハーマイオニーがペンを取る。

その指先が、ふとカリンの手の上に触れた。

 

一瞬。

 

すぐに離れる。

 

「ご、ごめんなさい……! 少し手狭だったわね」

 

ハーマイオニーは早口で言い訳をすると、弾かれたように椅子を数センチ引いた。

 

視線を教科書の一点に固定したまま、羽ペンを強く握りしめる。

 

「……別に」

 

カリンもまた、短く答えて視線を逸らした。

 

指先が離れたあとも、その一点だけ、ページの冷たさが戻ってこなかった。

 

向かいでは、ハリーとロンが言い合っている。

 

ペンが羊皮紙を走る音。

ページをめくる音。

隣の呼吸。

 

それだけが、やけに近かった。

 

***

 

「ん……?」

 

ハリーがふと顔を上げた。

 

「どうした?」

 

「今、ハグリッドじゃなかった? あそこ、棚の陰にいたの」

 

四人の視線が一斉に図書館の奥へ向く。

図書館には似つかわしくない体格の影が、棚のあいだを落ち着きなく行き来していた。

 

手に取っては戻し、別の本を引き抜いては首を傾げる。

時折、誰かに見られていないか確かめるように振り返る仕草。

 

どう見ても、何かを隠している人間の動きだった。

 

「絶対なんかあるだろ、あれ」

 

「だね」

 

ロンが身を乗り出す。

退屈から抜け出す口実を見つけた顔だった。

 

ハリーも頷き、二人はすぐに席を立つ。

 

「ちょっと、二人とも! まだ宿題が……」

 

ハーマイオニーが抗議の声を上げる。

 

「ちょっと様子見てくるだけだって」

 

軽い返事。

 

「勉強は?」

 

「あとでやるって」

 

「さっきも同じこと言ってたわよ」

 

ぴしゃりとした声音。

 

それでも二人は気にする様子もなく、本を閉じ始めている。

 

ハリーがふと振り返った。

 

「ハーマイオニー、賢者の石を誰が守ってるか確認できるチャンスだよ」

 

短い沈黙。

 

ハーマイオニーは小さく息をついた。

 

「……ハグリッドが何か知ってるなら、確認する価値はあるわ」

 

自分に言い聞かせるような口調でそう言って、ノートを閉じる。

 

価値、という単語に、ロンが小さく笑う。

ハーマイオニーは聞かなかったふりをして、羊皮紙を束ねた。

 

カリンは椅子の背にもたれ、三人が立ち上がるのを眺めている。

 

自分は動かないつもりだった。

 

少なくとも、そのつもりだった。

 

「……カリン。あなたも行くわよ。一人で残したって、どうせ一文字も進まないでしょうから」

 

ハーマイオニーがこちらに向き直る。

 

その視線が、ほんの一瞬だけカリンの指先に落ち、慌てて逸らされたのをカリンは見逃さなかった。

 

「……ひどい言い草だね。まぁ、否定はできないけど」

 

カリンはわざとらしく溜息をつき、面倒そうな素振りを見せつつも、ハーマイオニーが椅子を戻すより先に、彼女の足元にあるバッグをさりげなく拾い上げる。

 

「……それ、私の」

 

小さく言いかけて、途中で止まる。

そのまま、言い直さずに視線を前へ戻した。

 

そして、並んでハリーたちの後を追った。

 

***

 

小屋が見えてくる。

 

煙突からモクモクと煙が上がっていた。

いつもより、かなり多い。

 

「ハグリッド!」

 

ハリーが先に駆け寄る。

扉の前で声を上げると、中からどたどたと足音がした。

 

「おう、誰だ――って、お前らか」

 

扉が開く。

熱気が、外へ流れ出した。

 

一歩、踏み入れる。

 

その瞬間、カリンはわずかに眉を寄せた。

 

ハグリッドの小屋は、火にかけられた大釜のせいでひどく暑かった。

 

暖炉の中では火が不自然なほど勢いよく燃え、赤い光が黒い鉄鍋の底を舐めている。

 

「それでお前さんら、何しに来たんだ」

 

ハリーは率直に言う。

 

「うん。賢者の石をどうやって守ってるのなと思って」

 

「そんなこと言えるわけないだろう」

 

途端に、しかめっ面をするハグリッド。

 

「ねぇ、ハグリッド。私たちは安心したいのよ。ダンブルドア先生があなた以外に信頼をしてるのは誰かしら」

 

ハーマイオニーのおだて声に、ハグリッドは誇らしげに、鼻の穴が膨らむ。

 

「まぁ……俺以外となると限られてくるだろう。スプラウト先生、フリットウィック先生、マクゴナガル先生、それからクィレル先生、スネイプ先生」

 

「スネイプだって!?」

 

ハリーとロンが同時に叫ぶ。

 

「なんだ。おまえさんら、まだ疑ってるのか。スネイプ先生は、ダンブルドアの味方なんだ。盗もうとするわけない」

 

ハリーとロンは懐疑的な目線を送る。

カリンは小さく息を吐いた。

 

ハグリッドの言葉は、疑っていない。

けれど、それをそのまま受け取るとは思えなかった。

 

「……あの番犬を大人しくさせられるのはハグリッドただ一人だよね?」

 

ハリーは心配そうに言う。

 

「あぁ。俺とダンブルドア先生以外は大人しくさせることなんてできやしねぇ」

 

ハーマイオニーが、目に見えて肩の力を抜いた。

 

ハリーとロンは顔を見合わせたが、それでも少しだけ表情を緩めた。

 

そのとき、ハグリッドがそわそわと立ち上がり、暖炉のほうを気にする素振りを見せた。

 

お茶を淹れるのかと思えば、やかんには手を伸ばさない。

 

視線だけが、火のほうへ戻る。

 

ハリーの目が、その視線の先を追った。

 

「ハグリッド、それは……」

 

ハリーの驚愕の声が響く。

 

暖炉の真ん中、燃え盛る薪のすぐ上に置かれた、真っ黒で大きな卵。

 

「ああ、それか……ええと……」

 

ハグリッドがうろたえながら説明を始める。

 

ノルウェー・リッジバック種。ドラゴンの卵。

 

ハリーとロンは興奮し、卵に駆け寄った。

 

カリンは、机の端に軽く手をついて、卵を見下ろした。

 

燃えさかる暖炉のすぐ近くで、殻の肌が熱でほんのり揺らいで見える。

 

「これ、孵ったらどうするつもりなの? ハグリッド、あなたは木造の家に住んでいるのよ」

 

ハーマイオニーが鋭く指摘する。

 

「……普通にまずいでしょ」

 

カリンが低く呟くと、ハーマイオニーが「そうなのよ!」と勢いよく顔を向けた。

 

あまりに距離が近かった。

 

カリンの視線と、短く合った。

 

合ったと同時に、どちらも逸らした。

逸らすときの速さが、ほとんど同じだった。

 

「……家の中で飼えるような生き物じゃないわ」

 

ハーマイオニーが続けた。言葉を、元の位置に戻すように。

 

だが、その声はわずかに上ずり、彼女の指先が所在なげにローブの裾を何度も握り直しているのを、カリンは見逃さなかった。

 

ハグリッドは何か言い返したが、カリンの耳には、半分しか入らなかった。

 

そのとき――

 

ぱきり、と乾いた音がした。

 

一瞬、誰も動かなかった。

 

暖炉の中。

真っ黒な卵の表面に、細いひびが走っている。

 

「……おい」

 

ロンが声を潜める。

ひびはゆっくりと広がり、内側から何かが押し返してくるように、殻がわずかに歪んだ。

 

「ハグリッド、これ……」

 

ハリーが言いかけたとき、

ばきり、と今度ははっきりと音が割れた。

 

殻が弾ける。

中から現れたのは、ぬらりとした黒い頭部だった。

 

「……生まれた」

 

ハグリッドが息を呑む。

 

次の瞬間、小さなドラゴンがぎこちなく体を持ち上げ、濡れた翼を震わせた。

 

目は、まだ開いていなかった。

けれど、口だけが、反射のように開いた。

 

細い煙が、喉の奥から漏れる。

 

カリンの体が、先に動いていた。

 

ハーマイオニーの腕を強く掴み、自分のほうへ引き寄せる。

 

「きゃっ……」

 

短い悲鳴とともに、ハーマイオニーの背中がカリンの胸にぶつかった。

 

カリンの腕が、彼女の華奢な肩をしっかりと抱きとめる形になる。

 

小さなドラゴンが放った火の粉は、ハーマイオニーが立っていた場所の数センチ手前で、空しく空気を焦がして消えた。

 

やりすぎた、と頭のどこかで思う。

 

思うのに、指先が動かない。

 

すぐに腕を離さなければならない。

 

ごめん、と笑って距離を置くべきだ。

 

なのに、カリンの腕は、ハーマイオニーの肩を抱き寄せたまま、一秒、二秒と硬直していた。

 

ハーマイオニーも、振りほどかなかった。

 

彼女の背は、カリンの胸のあたりに軽く寄りかかっている。

 

手は、カリンの腕に置いている。

 

ノーバートが、小さく鳴いた。

 

その声で、カリンは自分の手をようやく緩めた。

 

「……大丈夫?」

 

短く訊く。

声が、思っていたより低かった。

 

「……ええ。大丈夫」

 

ハーマイオニーは視線を合わせないまま答える。

 

ほんの一拍遅れて、

 

「……ありがとう」

 

その声も、わずかに揺れていた。

 

「見ろよ、こいつ!」

 

ロンが声を弾ませる。

 

ドラゴンはすでに暖炉から半分ほど身を乗り出し、ぎこちなく床へ降りようとしていた。

 

ハグリッドが慌てて手を差し出す。

 

「おっと、ノーバート! 気をつけろ!」

 

「ノーバート?」

 

ハリーが顔をしかめる。

 

「もう名前つけたのか……」

 

そのやり取りを横目に、カリンはゆっくりと腕を離した。

 

遅すぎるタイミングで。

 

指先に残る感触が、なかなか消えない。

 

視線を逸らす。

 

その時。

 

カリンは窓の外、わずかに動いた影を捉えた。

 

窓の隙間からこちらを覗き、冷笑を浮かべて走り去る金髪の少年。

 

ドラコ・マルフォイだ。

 

「……見られた」

 

カリンが呟く。

 

小屋の中の空気が、一拍だけ止まった。

 

ハグリッドが、青ざめた。

大きな手のひらが、自分の口のあたりを押さえる。

 

ハリーとロンが、ほとんど同時に窓のほうへ駆け寄った。

遠目から金髪が見える。

 

「あいつ、どこから見てた?」

 

ロンの声が、焦りで裏返る。

 

「……分からない。窓越しだから、角度的には机の上の卵までは見えたはず」

 

ハリーが低く言った。

ハーマイオニーは、動かなかった。

 

「……どうすんだ、これ」

 

ロンが、誰にともなく言った。

 

ハグリッドは口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。

 

ノーバートは、机の上で、まだ濡れた翼をぎこちなく動かしている。

 

小さな生き物は、自分のせいで部屋の空気が変わったことに、まったく気づいていなかった。

 

「……いったん、寮に戻ろう」

 

ハリーが言う。

 

「ハグリッド、ノーバートのことは、また相談する。今夜は、もう」

 

ハグリッドは、何度か頷いた。頷き方が、弱かった。

 

***

 

夕食終わりのグリフィンドール談話室。

 

暖炉の火は低く爆ぜ、影を長く伸ばしている。

 

一週間――

 

ノーバートが生まれてから、彼らの生活は一変していた。

 

カリンがスネイプの特訓中の間も、ハリーたち三人はノーバートの世話を手伝っていた。

 

「……また、傷が増えてる」

 

カリンは、隣に座るハーマイオニーの指先を、思わず引き寄せそうになって手を止めた。

 

彼女の白い手の甲には、ハグリッドの小屋でドラゴンの世話を手伝った際についた、小さな引っ掻き傷が赤く残っている。

 

「平気よ。少し掠めただけだわ。……それより、ロンのほうこそ」

 

ハーマイオニーが視線を向けた先では、ロンが片手を庇うようにして、羊皮紙の上で羽根ペンを持ち直していた。

 

「平気だよ、ただの火傷だ。いつ木造が燃えるのかが気になるけどね」

 

苦笑い混じりの声。

 

ドラゴンのノーバートは、この一週間で数倍の大きさに成長していた。

 

それは同時に、いつこの秘密が露見してもおかしくないという、破滅への秒読みでもあった。

 

「もう、限界だね。……ハグリッドが手放さないなら、私たちが強制的にでも引き剥がさないと」

 

カリンは低く、けれど苛立ちを隠さずに言った。

 

ハグリッドのせいで、ハーマイオニーの手に傷が増えている。

 

その一点が、説明のつかない苛立ちをカリンの中に残す。

 

「分かってる。でも、どうするの? あれを連れて外に出るなんて――」

 

ハーマイオニーが眉を寄せ、カリンの顔を覗き込む。

 

あまりに距離が近い。

 

カリンは一瞬だけ視線を外した。

 

「……どうにかするしかないでしょ」

 

それだけ言って、椅子の背にもたれる。

 

距離を取るために。

 

「……チャーリーだ!」

 

唐突にハリーが叫んだ。

 

「チャーリーって、ロンのお兄さんの?」

 

「そう。ルーマニアでドラゴンの研究をしてる。彼にノーバートを預かってもらおう」

 

ハリーの瞳に希望の火が宿る。

ロンもまた、パッと顔を輝かせた。

 

「名案だ!さっそくハグリッドを説得しなきゃ」

 

ハリーとロンは、透明マントを被り、談話室を出ていった。

 

「あの2人だけで大丈夫かしら」

 

「……まぁ、なんとか説得させるでしょ」

 

暖炉の火が、低く音を立てて揺れた。

 

談話室に残されたのは、カリンとハーマイオニーの二人だけだった。

 

他の生徒はすでに寝室へ引き上げている。

時計の針だけが、誰もいない空間でかすかに音を刻んでいた。

 

ハーマイオニーは、膝の上に本を広げたまま、もう長いこと同じページを見つめていた。

 

カリンはそれに気づいていた。

気づかないふりをしていた。

 

「……眠くないの?」

 

先に口を開いたのは、ハーマイオニーのほうだった。

 

「別に。そっちこそ」

 

「私は、あの二人が戻ってくるまで起きていようと思って」

 

「ふうん」

 

それ以上続ける言葉を、カリンは探さなかった。

探してもうまく繋がらない気がした。

 

本の縁を指でなぞる音。

薪が一本、崩れ落ちる音。

 

二人分の呼吸が、同じ間隔で、火の音に混じっていた。

 

ハーマイオニーが、小さく身じろぎをした。

 

ソファの座面が、わずかに軋む。

 

その動きで、彼女の肩がカリンの肩に触れた。

 

触れたあと、離れなかった。

 

カリンは視線を火に固定した。

 

離れない理由を考えるのはやめた。

 

――考えたら、負ける気がした。

 

ハーマイオニーは、何かを言いかけて、やめた。

 

開きかけた唇が、そのまま閉じる。

代わりに、彼女の手が、膝の上の本をそっと閉じた。

 

「……傷、まだ痛む?」

 

カリンは火を見たまま訊いた。

 

「少しだけ」

 

「……消毒、ちゃんとしたの」

 

「ええ。マダム・ポンフリーのところに行くほどじゃないわ」

 

「そう」

 

会話は、それだけで途切れた。

けれど途切れたあとの沈黙が、気まずくはなかった。

 

肩の触れた部分だけが、服の布越しに、妙に暖かかった。

 

カリンは、自分の心拍が少しだけ速くなっているのを感じていた。

 

理由を考えた瞬間に、何かが壊れる気がして、また思考を止める。

 

***

 

ハリーとロンが戻ってきたのは、夜更けに近い時刻だった。

 

透明マントを脱ぎながら、ハリーが片手に手紙を掲げる。

 

「なんとかハグリッドを説得できたよ……」

 

顔には疲れが滲んでいる。

 

「よかった」

 

ハーマイオニーが、短く息を吐いた。

吐いてから、ゆっくりと立ち上がる。

 

離れるまでの一瞬、カリンは自分の肩が冷えていくのを感じた。

思わず、肩をさする。

 

「すぐに、手紙を出しましょう」

 

「でも、ふくろうじゃ1週間もかかるだろ。その間にマルフォイが告げ口してきたらどうすんだよ」

 

ロンが、ソファに腰を落としながら言った。

 

沈黙が、一度落ちた。

 

「……それは確かに問題ね。時間がかかる以上、その間のリスクは無視できないわ」

 

ハーマイオニーの声は落ち着いているが、指先はわずかに強く本を握りしめていた。

 

「だろ? だからまずいって言ってるんだ」

 

ロンが食い下がる。

 

カリンは椅子の背にもたれたまま、小さく息を吐いた。

 

「……式神を使おう」

 

短く言って、懐に手を差し入れた。

 

指先が、薄い紙の束に触れる。

一枚抜き出し、指先で軽く弾いた。

 

「は?」

 

ロンが間の抜けた声を出す。

 

「これなら、不眠不休で飛ばせる。ルーマニアまでなら一日もあれば届く」

 

「一日……?」

 

ハリーが目を見開く。

 

「そんなことできるのか」

 

「まぁね」

 

カリンは気のない調子で答えた。

 

「……それなら、時間の問題は解決できるわね」

 

ハーマイオニーが小さく頷く。

 

「マルフォイが動く前に、ノーバートを引き渡すことができるかも」

 

「だったら決まりだな!」

 

ロンがぱっと表情を明るくした。

緊張が、わずかにほどける。

 

カリンは札を手紙に貼り付け、息を短く吹きかけた。

 

紋様が、内側から淡く光を帯びる。

 

紙が、空気を含むように膨らんで、ゆっくりと鳥の形に折り上がった。

 

窓を開ける。

冷えた夜気が、頬を撫でた。

 

「行け」

 

小さく呟くと、式神は羽ばたき、そのまま闇の中へ溶けていった。

 

「すごい……」

 

ハーマイオニーが、思わず呟く。

 

「あなたのそういう魔法、何度見ても」

 

言いかけて、彼女は口を閉じた。

 

「何度見ても?」

 

カリンが先を促す。

少しだけ、意地悪な気分だった。

 

「……感心するだけよ」

 

ハーマイオニーは、視線を逸らした。

 

その頬が、少しだけ赤く見えた。

 

***

 

「チャーリーから返事きた」

 

式神を飛ばして三日目の夜。

カリンは、ハリーに手紙を渡す。

 

ロンが覗き込む。

 

「来週の土曜の深夜、チャーリーの友達が何人か箒で迎えに来てくれるって。天文台の塔の上で受け渡す」

 

ロンが声を落として読み上げた。

 

「塔?」

 

「人目につかない場所で、かつ箒が乗りつけやすい場所ってことだろう」

 

ハリーが手紙を折り畳みながら言う。

 

「……一週間後ね」

 

ハーマイオニーが呟く。

 

「それまで、あいつを隠しきれるかどうか」

 

ロンが眉根を寄せた。

 

「火傷痕、どんどん増えてる。寮母に見られたらまずい」

 

「マルフォイは?」

 

カリンが短く訊いた。

三人の表情が、同時に曇る。

 

「……今のところ、告げ口してきた気配はない」

 

ハリーが言う。

 

「あいつのことだ。黙ってるってことは、むしろ良くない」

 

「……タイミングを計ってる」

 

カリンが続けた。

誰も否定しなかった。

 

暖炉の火が、低く爆ぜた。

 

ハーマイオニーが、膝の上で両手を組み直す。

組み直した指先の爪が、わずかに白くなっていた。

 

手の甲の掠り傷は、まだ完全には消えていない。

 

あと一週間、と頭の中で数える。

 

一週間だけ、耐えればいい。

 

そうすれば、ハグリッドの小屋に、彼女が行く理由はなくなる。

 

***

 

一週間は、息を詰めるように過ぎた。

 

授業中、カリンは何度か、ハーマイオニーの指先がノートの上でわずかに震えているのに気づいた。

 

ハグリッドの小屋にノーバートを見に行くたび、彼女の手の甲には新しい傷が増えていた。

 

カリンはそれを見るたびに、口の中でなにか小さな言葉を噛み潰した。

 

「ハグリッドが」と言いかけて、やめる。

「行かなくていい」と言いかけて、やめる。

 

言えば、ハーマイオニーは「平気よ」と返すに決まっていた。

 

そして、彼女はそう言いながら、次の日もハグリッドの小屋に行くはずだった。

 

だから、カリンは言わなかった。

 

代わりに、移動の途中で彼女の右側を歩くようになった。

 

人通りの多い廊下では、ハーマイオニーが人にぶつかりそうになるたび、カリンはわずかに腕を伸ばしてその動きを止めた。

 

ハーマイオニーは、それに気づいているのかいないのか、何も言わなかった。

 

ただ、何も言わずに、一度も避けなかった。

 

***

 

その夜も、カリンは特訓の後、ふらつく足で談話室へ戻った。

 

暖炉の前。

ハーマイオニーが、いつもの場所で本を抱えたまま顔を上げた。

 

「……また、遅い」

 

咎める声ではなかった。

ただ、確認するような、いつもの声。

 

無言で、いつもの軟膏が差し出される。

受け取ろうとして、カリンは少し動きを止めた。

 

ハーマイオニーの手の甲。

昨日まで赤かった引っ掻き傷の上に、新しい火傷の痕が薄く重なっている。

 

「……増えてる」

 

ぽつりと言うと、ハーマイオニーは慌てて手を引っ込めた。

 

「平気よ。少し掠めただけ」

 

「……掠めただけ、ってよく言うね」

 

短く返す。

ハーマイオニーは何か言いかけて、やめた。

 

代わりに、軟膏の蓋を開けて、カリンの手をそっと引き寄せる。

 

「……自分のは、もうやったの」

 

「私の分はもう塗ったわ。次は、あなたよ」

 

ハーマイオニーは、強引にカリンの手の甲に軟膏を乗せた。

 

「今やらないと、いつやるの」

 

「あとで」

 

「……本当にそう言って、やったことあるの?」

 

「……あとで」

 

ハーマイオニーが、軽く息を吐いた。

 

指先が、そっと触れる。

軟膏をすくい、傷口にのせる動きは、いつもよりわずかに慎重だった。

 

触れるたび、指先の力が、ふっと抜ける。

 

そのたびに、カリンは何も言わずに手を預けた。

 

***

 

土曜の昼、ロンが医務室に運ばれたと知らせが入った。

 

ハリーたちと急いで医務室へ向かうと、ロンがひどい状態でベッドに横たわっていた。

 

ロンの手は普段の倍ほどに腫れ上がり、傷口が不気味な緑色に変わっていた。

 

「……噛まれたのか」

 

カリンが眉を寄せる。

 

「……ひどいな」

 

ハリーが思わず顔をしかめた。

 

「痛むの?」

 

ハーマイオニーがベッドの縁に手をかけて、少しだけ身を乗り出す。

 

「平気だよ、これくらい」

 

ロンは笑おうとしたが、顔が少し歪んだ。

 

「毒があったみたいで、マダム・ポンフリーに腫れが引くまで泊まれって言われちゃったよ」

 

「……じゃあ、今夜は動けない」

 

ハリーが低く言った。

 

四人の間に、短い沈黙が落ちる。

 

「……どのみち四人での行動は目立つ」

 

カリンはハーマイオニーの手の甲をかすめ見る。

 

小屋の手伝いでの火傷が、まだ赤く残っていた。

 

「ここまで凶暴だと、銀狐が気配を薄めても意味がない」

 

「透明マントがある」

 

ハリーが言った。

 

「……僕ともう一人とノーバートぐらいなら隠せるはずだ」

 

「……私が行くわ」

 

ハーマイオニーが言いかけた。

 

「いや」

 

カリンが遮った。

思ったより強い声が出て、自分で少し驚いた。

 

「箱、重い」

 

「だから私が」

 

「ハーマイオニーの腕じゃ持ち上がらない」

 

短く、事実だけを言う。

 

これ以上、彼女の体に消えない痕が残るなんて、考えたくもなかった。

 

ハーマイオニーは、反論しかけて、口を閉じる。

 

「ハーマイオニーは、残って」

 

言葉を、ゆっくりと押し出した。

 

語尾が、わずかに固かった。

 

ハリーが、ロンと顔を見合わせた。

 

「……じゃあ、カリン頼む。ハーマイオニーは談話室で待機」

 

「……分かったわ」

 

ハーマイオニーは、小さく頷いた。

 

頷くまでに、ほんのわずかな間があった。

 

彼女は、自分の反対側の手のひらで、火傷の痕を隠すように強く握り締めた。

 

***

 

土曜の夜、十一時を過ぎていた。

 

談話室には、もう誰もいない。

暖炉の火だけが、低く、規則的に音を立てている。

 

ハリーが透明マントを広げた。

 

「行こうか」

 

カリンは、軽く頷いた。

 

ソファのそばで、ハーマイオニーが立ち上がる。

立ち上がってから、両手を組み、組み直した。

 

行き場のない指先が、ガウンの裾のあたりで、所在なげに動いていた。

 

「……気をつけて」

 

短い声。

声を出してから、彼女は唇を結んだ。

 

それ以上、何かを言いそうになって、堪えた顔だった。

 

カリンは、彼女の目を一度だけ見た。

 

暖炉の光が、ハーマイオニーの輪郭を柔らかく縁取っている。

 

顔の半分は影に落ちて、表情がよく読めない。

読めないのに、心配しているのだけは、伝わってきた。

 

「……戻ったら、起こす」

 

カリンは、わざと軽い声で言った。

 

「起きて待ってる」

 

ハーマイオニーは即答した。

即答してから、自分の声の早さに気づいたのか、視線を一瞬だけ落とす。

 

「……不測の事態に備えなきゃだし」

 

理屈で上書きする癖は、相変わらずだった。

 

カリンは、口の端だけでわずかに笑った。

 

「……行ってくる」

 

マントの下に身を滑らせる。

 

肖像画の扉が、軋む音を立てて開いた。

廊下に出る直前、カリンはもう一度だけ振り返った。

 

ハーマイオニーは、ソファの前で立ち尽くしていた。

 

両手を組んだまま、こちらを見送る形で、動かなかった。

 

カリンは、視線を前に戻した。

戻したあとも、彼女の輪郭が、暖炉の光と一緒に、目の奥に残っていた。

 

***

 

夜の廊下は、冷えていた。

透明マントの下で、ハリーとカリンは息を潜めて歩いた。

 

木箱は重く、ノーバートが中で暴れるたびに、木肌が鈍く軋んだ。

 

天文台の塔への螺旋階段を昇りながら、カリンはハーマイオニーの顔を思い出していた。

 

何かを堪えた顔。

言いかけて、言わなかった唇。

 

――何を言おうとしたんだろう。

 

考えて、すぐにやめた。

考えたら、階段を踏み外しそうだった。

 

塔のてっぺんに出ると、四月末の夜風が冷たかった。

 

雲は薄く、月がぼんやりと滲んで見える。

 

待つことしばし、箒に乗った四つの影が、風を切って降りてきた。

 

チャーリーの友人たちは手際よく、革紐で木箱を吊り上げる装置を組み立てた。

 

「ノーバートをよろしく」

 

ハリーの声は、わずかな安堵が混じっていた。

 

「任せとけ」

 

短いやり取り。

箱は、夜空に吊り上げられ、小さくなっていった。

 

カリンは、最後まで空を見上げていた。

 

生き物が去っていく、というのは、こういう重さなのかと、ぼんやり思った。

 

――ハグリッドの小屋に、もう彼女が行く理由はない。

 

それだけが、頭の隅で、静かに確認されていた。

 

「……戻ろう」

 

ハリーが言う。

カリンは頷いて、足を向けた。

 

そのときーー

 

階段への扉が音を立てて開く。

 

「……おやおや」

 

湿った声が、風に乗って届いた。

 

「こんな夜中に、何をしているのかな?」

 

フィルチだった。

カンテラの光が、二人の足元を舐めるように上がってくる。

 

カリンは、息を一度だけ深く吐いた。

ハリーが、隣で唇を噛む音がした。

 

逃げ場は、なかった。

 

***

 

教員棟の廊下を、フィルチは上機嫌で歩いた。

ミセス・ノリスが、尻尾を立てて、彼の足元についてくる。

 

「夜歩きだぞ、ミセス・ノリス。夜歩きだ。今度こそ、お仕置きの口実ができるってもんだ」

 

カリンは、何も言わなかった。

隣のハリーも、口を開かなかった。

 

言い訳を探しても、状況が変わらないことを、二人とも理解していた。

 

廊下の角を曲がった時だった。

 

向こうから、別のカンテラの光が近づいてきた。

 

光の主が、近づくにつれて輪郭を持つ。

 

マクゴナガル先生だった。

 

そして、その斜め後ろに——

 

マルフォイとハーマイオニーが、立っていた。

 

ハーマイオニーがいる。

 

カリンは、一瞬、息を止めた。

 

ハーマイオニーは、ガウンの上に羽織り物を引っ掛けた格好だった。

 

顔は青ざめていて、唇が結ばれている。

両手は、自分の前で固く組まれていた。

 

目が合った。

ほんの一瞬だけ。

 

ハーマイオニーは、すぐに視線を落とした。

落とした視線が、わずかに震えていた。

 

マクゴナガル先生が、冷ややかに口を開いた。

 

「ポッター、ツキヨミ。あなた達もですか」

 

二人を一瞥する。

 

「全員、私の研究室まで来なさい」

 

それだけ言って、先生は踵を返した。

 

フィルチが、不満そうに口を尖らせる。

自分の手柄を取られた顔だった。

 

カリンは、ハーマイオニーの横を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ視線を投げた。

 

——なぜ、ここにいる。

 

訊きたかった。

訊けなかった。

 

ハーマイオニーは、視線を上げなかった。

ただ、カリンの後を、半歩遅れてついてきた。

 

その半歩の距離が、いつもよりも遠く感じられた。

 

***

 

マクゴナガル先生の研究室は、冷えていた。

 

暖炉に火は入っていない。

机の上のランプだけが、部屋の半分を照らしている。

 

四人は、机の前に横一列に並ばされた。

 

マクゴナガル先生は、長いこと、何も言わなかった。

机を挟んだその先で、深く椅子に座り込んでいる。

 

動きのないことが、怒鳴られるよりも重かった。

 

「……まず、言っておきます」

 

先生が、ようやく口を開いた。

 

「夜間に寮を出ることが、どれほどの規則違反か。あなたたちが、それを知らないとは思いません」

 

四人は、何も言わなかった。

 

「ポッター」

 

先生の視線が、ハリーに向く。

 

「あなたには、失望しました。グリフィンドールの評判を、あなた自身が傷つけるとは」

 

ハリーが、下を向いた。

 

「ツキヨミ」

 

視線が、カリンに移る。

 

「留学生として、あなたがホグワーツにいる意味を、よく考えなさい」

 

「……はい」

 

短く答える。

それ以外、答えようがなかった。

 

「そしてグレンジャー」

 

マクゴナガル先生の声が、最も低くなった。

 

「あなたには、本当に、失望しました」

 

ハーマイオニーの肩が、わずかに震えた。

 

「あなたが、このような無分別な行動に関わるとは、思いませんでした」

 

「……申し訳ありません」

 

小さな声。

 

カリンは、横目で彼女を見た。

 

ハーマイオニーは、両手をきつく組み合わせていた。

指先の関節が、白くなるほど、強く握っていた。

 

——違う。

 

カリンは、口の中で言葉を組み立てかけた。

 

彼女は、ただ、自分たちが心配で出てきただけだ。

ノーバートを運んだのは自分だ。

 

ハーマイオニーは、何もしていない。

何もしていないのに、いちばん重い視線を浴びている。

 

——違う。

 

組み立てかけた言葉を、カリンは飲み込んだ。

 

言っても、状況は変わらない。

ハーマイオニーが、自分の口から言い訳をしないことも、知っていた。

 

代わりに、カリンは、机の下で、わずかに左手を動かした。

 

ハーマイオニーの右手の、組まれた指先のあたりに、自分の指の側面が、軽く触れる程度に。

 

ハーマイオニーは、視線を上げなかった。

 

ただ、組まれた指先が、ほんの少しだけ、力を緩めた。

 

「グリフィンドールから、五十点ずつ減点します」

 

マクゴナガル先生が告げた。

 

ハリーが、息を呑む音がした。

 

「五十点……」

 

マルフォイだけが、どこか勝ち誇ったような顔をしている。

 

「マルフォイ、あなたもです。夜間に教師の許可なく校内をうろついていた。それに、密告を装って他の生徒を罠にかけようとするなど、学校の風紀を乱す行為です」

 

その言葉に、マルフォイの顔がみるみるうちに青ざめた。

 

マクゴナガル先生はゆっくりと四人を見回し、眼鏡越しに鋭い視線を向けた。

 

「グリフィンドールは合計、百五十点の減点。スリザリンは五十点。さらに、四人には罰則が課されます。詳細は明日通知します。……今夜は各自の寮に戻りなさい」

 

マクゴナガル先生は、それだけ言うと、四人を退室させた。

 

***

 

研究室の扉が、背中で閉まる。

 

廊下は、夜の冷気が降りていた。

 

四人は、しばらく誰も動かなかった。

 

最初に動いたのは、マルフォイだった。

 

何も言わず、地下牢への階段のほうへ歩き出す。

 

すれ違いざま、彼の視線が、ほんの一瞬だけハリーに向いた。

 

何か言いかけて、けれど、結局、口は開かれなかった。

 

自分が同じ罰則を受ける身であることを、思い出したのかもしれない。

 

マルフォイは、舌打ちだけを残して、暗がりに消えていった。

 

ハリーが、壁に手をついた。

 

「……百五十点」

 

呆然と呟く。

 

「……グリフィンドール、最下位だ。全員から恨まれる」

 

声が、ほとんど震えていた。

カリンは、ハリーの背中に、軽く手を置いた。

 

「明日考えよう。今は、戻ろう」

 

短く言う。

 

ハリーは、しばらく動かなかった。

それから、ゆっくりと頷いた。

 

「……先に戻ってる」

 

ハリーは、二人を見て、少しだけ口を開きかけたが、結局、何も言わずに歩き出した。

 

足音が、廊下の向こうに遠ざかっていく。

廊下には、カリンとハーマイオニーだけが残った。

 

松明の光が、二人の影を、石畳の上に落としている。

 

二人は、しばらく、何も言わなかった。

 

ハーマイオニーが、先に口を開く。

 

「……ごめんなさい」

 

掠れた声だった。

 

「私のせいで、五十点、余計に引かれた」

 

カリンは、息を吐いた。

 

「そういう問題じゃないでしょ」

 

「でも」

 

「……なんで、出てきたの」

 

声が、思っていたより冷たく響いた。

 

ハーマイオニーが、びくりと肩を揺らす。

 

「……遅かったから」

 

ハーマイオニーの声が、わずかに震えた。

 

「ノーバートが暴れてるんじゃないかとか、箱が落ちたんじゃないかとか、迎えの人が来なかったんじゃないかとか、いろいろ、考えて」

 

一息に言って、彼女は口を閉じた。

 

閉じてから、自分の言葉の感情の量に、彼女自身が驚いたように、顔を伏せた。

 

カリンは、黙っていた。

 

理屈ではなく、心配だった、とハーマイオニーは言っていた。

 

それを理屈の薄皮で包み直すのが彼女の癖なのに、今、薄皮がうまく張れていない。

 

そのいつもと違う言い方が、自分の胸の奥を強く締め付けられる。

 

「……ごめん」

 

カリンは、低く言った。

 

「なんで、あなたが謝るの」

 

「巻き込んだ」

 

「巻き込まれてないわ。私が、勝手に出てきたんだから」

 

ハーマイオニーは、顔を上げた。

 

上げた時、目がわずかに潤んでいた。

 

潤んでいることに、彼女自身、気づいていないかもしれない。

 

カリンは、視線をすぐに逸らした。

 

逸らさないと、何か言ってしまいそうだった。

 

「……戻ろう」

 

短く言う。

 

「ええ」

 

二人は、並んで歩き出した。

 

歩幅が、いつもより合っていなかった。

 

ハーマイオニーの歩く速度が、わずかに遅い。

 

カリンは、それに気づいて、自分の歩幅を縮めた。

 

縮めたことに、ハーマイオニーは気づいていないようだった。

 

気づかれないまま、二人の肩は、廊下の半ばで、軽く触れた。

 

触れて、離れなかった。

 

松明の光が、石畳の上に、二つの影を落としている。

 

影は、ほとんど一つに重なっていた。

 

 

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