心の中で何かが、ずっと蠢いている。
形容し難い、ふつふつと沸騰しているお湯のようなそんな熱が胸の奥で鳴っていた。
鳴って“いた”。
だけどこの熱は時間が経てば指数関数的に下がっていく。心の胸の奥の熱い情動が全て抜けきって、最終的に冷めてしまう。
それが俺の逃げだと、肝に銘じたとしても根っからの精神性は変わらない。抜けていって冷んやりと、変わろうとする情動に対し、その感情の芽を自分で潰すように。
他人はいつだって、”ただの他人”。
それが俺のポリシーで俺の生き方だった。
だけどそれは直感的に、そんな生き方はまずいと思う俺も何処かに居た。俺は相手の全てを知りたいと言う欲求が抑えられない。それで何人もの相手の女性を“被加害者”にしてしまった。
そんな俺に天罰が下ったのだ。
俺は呆気なく脳卒中で死んだ。
激痛と共に、表面上だけ取り繕ってきた人らに最後は囲まれて、死んだ。
“本音で語り合える友達が欲しかった”
際の間際にそんな事を思ってしまった俺がそこにいた。
そんなものは自分が、時間が掛かるその事実が嫌で、自ら失って来たと言うのに。
俺は男も女もどちらも“弱さを知っている人”が好きだった。
俺は“被害者”だとずっと思っているガキみたいな精神性だった。
親の顔色や地域の人、先生や、そのほかの親族や、全てを総括して
親から『あんたなんか産まなきゃ良かった』と本気のトーンと感情のトーンが混ざった声で言われた時の絶望。
話の全てを記憶から消してしまいたいほど、心が死んだとしか言えない痛みが、虚脱感が、息が出来ないくらいの苦しみが、涙と言えない空っぽの雫が、それに連なる虚無感と錯覚が、それらがありありと脳裏に蘇る。
────────鮮明過ぎるトラウマとして。
その時から世界が止まって見えていた。
人を信じられなくなった。友達も分からなくなった。人の顔色が分からなくなった。自分を信じられなくなった。頭の前頭葉にずっとモヤモヤが生まれた。頭のキレが悪くなった。色が消えた。何を見ているのか分からなくなった。
“信用”しか出来なくなった。
“信頼”が全く出来なくなった。
だけど俺とは違う弱さを持っている人たちは、大抵がもうしっかりとした“大人な精神”を持っていた。
自立を、前を、上を、陽のあたる場所へ向こうとしていた。
でも、俺は────
……“
そこから深い関係…要するに俺が求めていた
───────本音で語り合える友達
それを“時間を掛けて構築しよう”と、してくれているのに、俺は蔑ろにしてしまった。
人の弱さは自分も一番知っているのに。
ガキっぽさなんかこういった人たちはちっとも求めていなかった。
それを理解していながらも、やっていた時もあった自分には腹が立つ。ただ、それを辞めることなんか出来なかったが。
だって自分はその人たちにそれを認められたかったから。
そんないつまで経っても不変の
だが、だからこそ本音で語り合うのには時間が必要だったと認識させられた。
時間さえ掛ければ作れたそれを、早く本音を言って欲しいと自らが急かしてしまって相手を傷付けてしまって関係が終わる。
そんな自分とは決別したい。
それを捨てて
───”本当の意味での大人”になりたい
と
俺は加害者側の癖に“傲慢”にもそう思った。
そんな、矛盾した相反する気持ち、自分の弱さを知る事への恐怖、信じてるの一言が言えないある意味残酷な自分、優しいつもりでも何とも思っていない自分、それらの鬱屈とした、漠然とした、
そんなものが
真っ暗とした暗闇の中で
─────“生前の後悔”が再生された。
目を覚ますとそこはもう暗闇ではなかった。
目の前に広がるのは閑静な路地裏。そこかしこに瓶の酒やら小便の匂いが漂っていて、臭い事この上ない場所。
そんな所にもう一人の男が目の前にいる状況。
そんな場所に、俺はいた。
(死んだはずの俺が、何故ここに?)
そう疑問に思いはしたが、それは当然だと自分でも思う。死んだと思ったらまさかの次がこれで、意味不明な場所である。
普通は俺みたいなやつは地獄に行くと思ってたから。
ある意味それも正解な場所であるが。
「なあ…わかるだろ?いいこと、しようぜ?お前とさ」
「………。」
「おいおい、そんな目で見られたら…たまんなくなっちゃうだろう?なあ?お前。」
目の前の男は金髪でいかにもな目つきの奴が、手をポッケに入れ威圧的に俺を前かがみで見てくる。
目の前の状況に違和感を覚え、
下を見て──すぐに理解した。
……俺は、女になっていた。
(───女に…なってしまった)
しかしその動揺を、おくびにも出す訳にはいかない。
チンピラにそれを察せられてしまうと何をされるのか、分からないからだ。
現にもずっとヨダレを垂らした犬みたいにハァハァとセクハラするぞ、と言いながら自分の困ったような顔を見て楽しんでいる。
心底気持ちが悪いやつだと思った。
そう思った時に、ズキリと少しだけ何故か何処かに痛みを感じた。
「そろそろ返事をしねぇと──────」
男がニヤニヤしながら拳を大振りに振り上げてくる。
それに対し息を呑んだつもりの声が、どこか高く、くぐもっていた。
(喉が細い。喉仏が……ない?)
自身の体の異常性にまたもや気付き、ようやくはっきりと女だという自覚が生まれた。
「殺しちまうぞ?」
拳が迫る。
それを避けようとするが、体の感覚が全くと言っていい程に違う。
それに戸惑う元男の俺。
大きな声を出すことすらも出来ず、もう避けられないと俺は悟った。
(どうすることもできない……もうダメだ──)
と、思ったその瞬間だった。
「とぉぉぉりゃややああ!!!」
風に乗って優美な桃色の髪を靡かせた女が、大きな声を出し、今まさにドロップキックを繰り出さんとしていた。
まるで俺を助けてくれようとしているみたいに。
「アウ…!」
「ふぅ…完了っと。あなた怪我とかしなかった?大丈夫?」
「………はい。」
言葉がうまく出なかったけど、どうにか絞り出した。
「なら、良かった!」
「………。」
桃色の髪の女は見事なドロップキックをあのキモ男にお見舞いして見せた。
寒気がするほど嫌悪感を覚えた奴だった。
そんな奴を一撃で倒した目の前の子は、凄い人だと何処か他人事みたいな感情が生まれる。
その後何事もなく俺を心配して来たその桃色の子に対し、俺は唖然としながら沈黙をするしかなかった。
顔を見れば、飲み込まれるほどに美しい真紅の瞳が顔を覗かせている。
その美しい瞳が俺を、俺だけを見ている。
心配を滲ませているその表情を。
────俺だけに。
「…やっぱり、私と一緒にカフェにでも行かない?怖かったでしょ。」
「…………。」
「その反応は困っちゃうなぁ…て。」
桃色の子は小さく目を伏せて、制服の裾を弄んでいた。
まるで“何かを言い出せずにいる”ように。
「……行かせてください。」
「…うん、いいよ!この返事も少しおかしいかもだけど。じゃあ私に着いて来て!」
そう言われて桃色の子に着いて行く。
鼻にこの場に似つかわしくない、微かにローズの匂いが俺の鼻腔をくすぐる。あの桃色の子がこれを出しているのだろう。
どうしてあの子がここに来てくれたのか。どうして助けてくれたのか。どうして心配をしてくれてるいるのか。どうしてこんなにも優しくしてくれるのか。
(何か見返りが欲しいのか?)
そう自分が心の中で思った時、また心にズキリと痛みが走る。
前までは、こんなこと一度もなかった。
「胸…痛そうにしてるけど、大丈夫?」
痛みは止まらない。
だけど俺は平気なフリをするしかない。
「……大丈夫です…。」
俺は嘘を吐く。
自分を守るために。
まだ桃色の子がどんな人なのか分からないから。
自分の声は虚空を切るように消えていった。
それで十分だ。
前を進んでくれた方が、俺には“楽”だったから。
「……やっぱり怖かったんだね。カフェまで手を繋ごっか。」
だけど
その子は傍に来てくれた。
(────来てくれるんだ)
と俺は思った。
差し出されたその手を素直に受け入れる。
瞳は相変わらず心配を滲ませている。こんな、その人にとってはなんでもないであろう俺に対して。
────笑顔で。
「…ありがとう…ございます。」
「だから、全然大丈夫だよ。私がしたくてやってるんだからさ。」
その手は暖かった。
さっきの男との対面で、体が憔悴している俺を、桃色の子はリードするかのようにサポートするかのように“一緒”に歩いてくれている。
「にしても…その、制服越しでも分かるくらい胸大きいよね。あはは…。」
怒られているのかと、身構える。顔はどんなに心配をしてくれていそうでも、相手が内心で何を思っているのかなんて分からない。
「…っす…すみません。」
桃色の子はそんな俺の返答に少し困ったように笑った。
「いや、全然怒ってないから大丈夫だよ。…私、あんまり胸ないしさ。だから、ちょっと羨ましくなっちゃって。」
「全然、そんなことないと思います。」
「そうかなー?あなたにそう言って貰えると嬉しいな。」
俺の言葉に少し照れたように笑う彼女。そんな彼女のローズの匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
普段は香水の匂いなんか嫌いだったのに、不思議と全く臭くなかった。
「とりあえず、行きましょう。」
それがちょっと嫌で逃げる。なんでそれが嫌なのか自分でも分からない。
「うん、そうだね!」
それをその子はそのまま受けっ取ってくれた。
明るく、ひょうきんに。
裏なんか何一つなさそうに。
その姿に対して、気丈に振舞っているように俺は見えた。
(考え…すぎか…。)
助けてくれた相手に対し失礼だと思い、言葉にしない。
俺と桃色の子はこの地獄みたいな路地裏を再び歩きだす。
目に入る光景は、凄惨の一言。
ここまで整備、人の手が入っていない場所があったのかと驚愕する程までに。
ボロボロの朽ち果ている段ボールに、青カビが生えてる酒瓶、路地裏の壁には湿気もあるのか黒かびも生えている。
こんな場所に、いやこの世界にカフェなんか存在するのかと疑うほどに。
「もうそろそろ路地裏を抜けるよー!」
「分かり────」
そんな桃色の子の先導で抜け出た先は、一言で言い表すとするのならば“荒廃”していた。
「ました…。」
「…?」
倒壊しているビルに、そこかしこに転がっている瓦礫。赤錆だらけの車に、真っ二つに折れている信号機。
ここが日本なのかも疑わしくなってくる光景だ。
そんな光景にも関わらず、
俺は───
一人
人生が変わる直感がした。
この子と出会ったことで、きっと────