雨が降っている。
誰も居ない暗闇の中で雨音だけが、雫が落ちる音が辺りに響く。湿った土と、埃の匂いが混じり合った空気が、肺の奥まで入り込む。
「…疲れた。」
俺はそんな灯火が点っていない一つ屋根の下で、そうごちる。
カフェの中を見れば、割れたカップが棚の隅で傾いていて、そこに雨粒が一つだけ跳ねている。
桃色の髪の子に導かれて、俺はいつの間にか人気のない路地を抜け、目的地らしき建物の前に立っていた。
静かに建っていたそれは、
かつて“カフェ”だった場所──
──今は、瓦礫の中でかろうじて形を留めている、そんな場所だった。
確かに辺りは荒廃している。
が、俺の居た場所には気持ち悪いが人は居たはずだ。あのチンピラが。
だから人がいる“生存圏”いわゆる人の営みがある場所があるのだろうと俺は、桃色の髪の子が言った“カフェ”から推察した。
が、それがない。
なかったのだ。
今は桃色の髪の子は、すやすやと、それが当たり前かのように眠っている。
対面して、まだこの子が手入れしていたであろう、綺麗な椅子に腰を掛けた時に
『ちょっと!?そんな座り方ダメだよ!?』
と注意を受けた。
男の時みたいに、股を開いた座り方がダメだったらしい。
怖くてまだ俺が元男だとは言ってはない。
それがいつバレるのか分からない。
バレたら関係が終わるかも知れない。
そう恐怖を、プレッシャーを自分に言い聞かせて生きて行くしかない。
…それが今の俺の“在り方”だからだ。
そこから名前を聞きそびれるくらいに、心配の言葉や、どうしてあんな場所に居たのか、ああ言った場所には一人で行ったらダメだよと注意をひとしきり受けた。
そもそもが、現状を理解出来ていない俺は、それらに対し曖昧に、それらしい事を言ったりして、のらりくらりと躱した。
パニックになってあんな場所に居たんだ。とか、分かりました。とか、心配してくれてありがとう。とか。
当たり障りのない、言葉選びを心掛けた。
そんな会話と言うよりも、一方的な桃色の髪の子のボール投げになる状況が続くと、『…分かった。うーん、そうだ。私はもう寝るね。ここは安全だからあなたも寝て大丈夫だよ。』
とあの子は未だ夕方なのに寝始めた。
少し傷が入った程度の床の上に、会話をしているすぐ横に置いてった布団を敷いて──そのまま寝る姿はまるで疲れ切っているようだった。
それを見て
まだ
俺の知らない世界があるのだろうと
ふと、その寝顔を見た時に思った。
こうして、俺はようやく一息ついたはずだった──
…心はまだ、何一つ休まっていないままに。
カフェの奥で響く彼女の寝息と雨音だけが、この夜を照らしていた。
そうして、今に至る。
何をすればいいのか。あの子のために何が出来るのか。俺が役に立てる事なんてあるのだろうか。そもそもなんで俺を助けてくれたのか。
その全てに裏があるようで仕方ない。
見捨てた方があの子にとって、凄く楽だっただろうに。
何が楽になれるのかはよく分からない。
だけど────
その選択をしてくれた方が、まだ俺にとって“救い”だったのかもしれない。
これは直感で、でもどこか心がチクリとするその選択。
どっちが正しいのかなんて分からない。
けれど俺は確かにそう思った。
今は
(あの子の事が分からない。)
この一点だけが、深く刺さる。
“”疑う“”
それが俺を象徴しているようにも思える。
だけど深く考えない。
その方が
…良いからだ。
「まだ、起きてたの?寝れなかったの大丈夫?」
「っ…えっと、そう言えばあなたのお名前を聞いていないと思いまして…。聞いてみても?」
背後から、あの微かに甘い香りが漂ってきた。
寝るのが早すぎて起きたのだろう。あまりにも寝るのが早いと自分ですら思うくらいだったから。
だけど自分が何を考えてたのかなんて、悟られたくなかった。自分が思った事があまりに“重い”と自覚があったから。
だからこそその場しのぎの嘘を言う。
名前が気になるのは本当だ。
だから
(悟られる事はないだろう。)
とそう高を括った俺。
「そうなの?そんなに気になるのなら素直に言ってくれれば良かったのに。」
なんて事もないように、そう彼女は言ってくれる。後ろを恐る恐る見れば、眠そうに目を擦りこちらを見ている。
紅い瞳は、まるで深い夜のように静かで、俺に何かを問いかけているようで……だけど結局、何も分からない。
いや、それを分かりたくなかった。
理解したくなかった。
ブレザーの紺色の制服は、寝たせいか少しはだけていた。それが妙に色っぽく見えて──思わず視線が逸らせなかった。
それにすぐさま気付き慌てて目を瞑り、再び暗闇を見つめる。
見てしまったら、今の“現状”を利用しているように思えて
──怖かった
そう、一言では言い表せない思いがあったからだ。
身体が女になった自分を、
彼女が“普通に”扱う
──そのことが、ずっと怖い。
優しさに慣れていない自分。助けられた理由が“女だから”だとしたら……そんな風に考えてしまう自分が───
何よりも気持ち悪かった。
結局は身体が完全に女になったとは言え
どこまで行っても
俺は…
────“男”であるから
彼女の優しさに
”“恐怖””
それをしてしまう。
「ちょっと、となり座るね。」
「はっ…はい。」
彼女の動きには迷いがない。
何一つとして立ち止まったりなんかしない印象を抱く程に。
俺がそれを断る隙すらない。
まるで、俺の事なんか気になんかしていないように。
そう思ったら、また痛くなる胸の奥。
これをもう表には出さない。俺一人で解決したらいい事だからだ。
甘えてしまったら、俺はきっと壊れる。
だからこそ俺には、そんな資格はないからだ。
胸がまた、さらに締め付けられる。
手が、震える。
自分でも止められない震えに気付き、情けなさで顔を俯る。
「怖がらなくていいのに。何か私悪いことしたっけ?」
彼女が静かに隣に座ったと思ったら、急に顔を覗き込んで、彼女は自分が悪いことをしたかどうか確認して来た。
雨音が、それを肯定するようにぽつりと響く。
「いっ、いえ別に何でもないです。」
「それなら良いんだけど…。」
その時に別の意味で心臓の鼓動が早くなるのを感じて、自己嫌悪で死にそうだった。
顔にそれが出てしまったのか、彼女に少しそれを見せてしまった。今は普通に横に座ってくれているが、次にまたそんな事をされたら、精神を殺さなきゃやってられない。
“興奮”
それは自分が受け入れたらダメな事だからだ。
「……本当に大丈夫?」
「…大丈夫です。あなたの名前の方が気に…なります。」
雨音が大きくなる。
自分にとっては耐え難い数泊の間を置いて、彼女はまた心配をしてくれた。
その心配の言葉を流すようにして、俺は名前が気になると、そう切り出す。
「…分かった。大丈夫なんだね。」
「…はい。大丈夫です。」
俺は彼女と目を合わせる。
言葉が少し詰まってしまったが、相手が今度はそれを気にする事はなかった。
なんてこともないよって暗に伝えるために。彼女と目と目を合わせる状態になった。少し小っ恥ずかしいくらいが今は丁度良い。
「じゃあ、その後あなたの名前も聞きたいなって。まずは私から教えるね。私の名前は────」
俺はこの時、時間が止まった気がした。何かが、また変わるってそう思った。
言葉では言い難い“何かが”
(名前だけで、大袈裟なのかもしれないな。)
とその感じた事に対して蓋をする。
「────
「し…おん。」
が、名前を聞いて俺の口から思わずその名前が零れる。
それを反芻してしまうくらいには頭に衝撃が走った。
ただの名前、その人を表す称号でしかないそれ。
けれどそれが、それこそが、この人の“全て”を“”傲慢“”にも表していると思ったからだった。
「あっはは!何その反応。私の名前、いい名前でしょ?次はあなたの名前を聞かせてよ。」
「私の、な…名前…は…」
「うん…ゆっくりで大丈夫だよ。」
今度は俺の番。
彼女は健気にも待ってくれているが、俺にはその“名前がない”。
だってこの世界に来て一日目であり、自分について自問自答したとて何も自分を知らないからだ。
荒廃していて、それでいて人類が居るのかすらも分からない世界で女として転生したのは分かった。
けれどそれだけ。
見た目は、まだはっきりと見ていなく、胸があるのと身長が彼女より少し低いくらいなのは分かっている。
自分の瞳の色、そしてどんな顔をしているのかは分からない。
鏡を未だに怖くて見ていないからだ。
女に転生した事実なんか頭で、声で、骨の髄まで分かっているのに。見ることだけが出来ない。
名前も、見た目も、何一つ自分を説明できない。それだけで、この世界に取り残された気がする。
だから今の俺の名前は────
(自分ですらも分からない。)
それが答えになる。
詩音は指先で、無意識に制服の袖をくるくると弄んでいた。
「分かり…ません。」
「ん?どうしたの?なになに?名前?」
擦切れるような、静寂の中に、雨音に溶け込むかのような声が暗闇に消えて行く。彼女はそれを名前をボソッと呟いたのかと思ったのだろう。
耳を俺の口元付近に寄せて来た。
彼女の温もりが、ブレザーの制服越しに感じられる。体温がかなり熱い。熱を帯びている。生きている。
それほどまでに、近い。
だけど俺は逃げない。
心臓の鼓動が早くなる。
心臓があまりにうるさくて、彼女の声が遠くなる気がした。
「分からない…んです。」
「……えっと。それって本当?」
彼女が耳を傾けるのを止め、俺に向き直る。
「記憶喪失…いや、あの悪い人に何か盛られた?いや、心の問題?うーん、あれでもないし、これでもない────」
彼女の目は俺が出した答えに、困惑と心配と思考を巡らせているのか右往左往している。
俺だって名前が分からないと、相手から突然言われればそうなるだろう。少なくとも動揺して謝りまくるはずだ。
けれど彼女はそれをしない。
強い人だと思った。
原因を探ってくれている。
俺なんかのために。
その瞳に写っているのは────
“女の自分”
それ以上でもそれ以下でもない事実があるが。
彼女は答えを出したのか、俺に改めて向き直る。人差し指を俺に向け、高らかに宣言するかのように。
「────じゃあさ、私が考えてあげるね。」
彼女の瞳がさらに輝きを増した気がした。彼女の光が、全てが輝いているように見えた。
雨音が消え、雨音の地面に滴り落ちる音すらも消え、不思議な事に彼女の姿と彼女の声しか俺には聞こえなかった。
俺はこの身体の
名前も、
顔も、
過去も知らない
でも今この瞬間、
(この人に名前を呼ばれたい)
そんな感情だけが、唯一“本物”だった。
「本当…ですか?」
「うん!本当だよ!あなたにピッタリな名前、考えてあげるね。名前がないと私も困っちゃうし…ね。あはは。」
「ありがとう…ございます。」
彼女に…詩音に名前を考えて貰える事になった。
俺はもう彼女に感謝しか出来ない。だけど今回ばかりは雰囲気が違った。彼女が怒ったような顔で俺を見ているからだ。
何かしたのか、何をしてしまったのか俺には分からない。
ただ、俺は感謝を述べただけなのに。
…分からない。
「大丈夫だよ本当に。いちいちそんな感謝ばっかりじゃ、私の荷が重くなっちゃうよ。」
頬を膨らませながら、その雰囲気を出した理由を語った。
詩音はどうやら俺のそれに対して、怒っていたらしい。
どうしてだろうか。
(感謝を伝える事は悪い事なのか?)
「すみません…。」
「そう言うとこ!」
そう考えた俺は謝った。
悪いことだと俺はそう思ったから。
けれど詩音は、今度は笑いながら俺の謝罪について今度は指摘して来た。何をどうすればいいのだろう。
あまりにもまだ、
相手の事が分からなさすぎる。
沸点が分からない。
「…ねぇ、今日はもう、おしゃべりはおしまい。そういう日も、あるよ。」
目に迷いが出ている。瞳が忙しなく動いている。恥ずかしそうに、けれどどこか嬉しそうに。
「…もう“友達”じゃん。それくらい分かるよ。」
彼女は意を決したように、言葉を詰まらせながらもそう言ってきた。
「えっ、どうしてですか…?まだ、自分は大丈夫ですよ。」
詩音は無言で指を指し示した。
その場所を俺は見る。
カフェの奥に、小さなランプがぽつんと光っていた。きっと詩音が灯したものだろう。
「はい、分かり…ました。」
「うん、ゆっくり休んでね!」
「あっ、あと────」
「…どうされました?」
「ううん。やっぱ何でもない。」
一瞬だけ口を開きかけて、何かを迷ったように目を伏せる。
制服の裾を、そっと──
だけど確かに、ギュッと握りしめていた。
その様子に対して気にはなりはしたが、それ以上会話が続くことはなく、彼女が用意してくれていたであろう寝る場所へと辿り着いた。
その時に彼女の方をふと見れば、まだ外の方で涼んでいた。
何を考えているのだろう。
布団の横には、ささやかな防水ポーチに入った歯ブラシとタオルが置かれていた。火の気のないカフェの奥でも、ランプの近くには少しだけ本が積まれていた。
本を見る気力はもう、ない。
タイトルは後からいくらでも見れるだろう。彼女について知るのは明日からでもいいはずだから。
今は…
ただ、
「友…達。」
頭の中で出来た新たな疑問。
言いようもないその言葉。
…疲れた。
今日は…もう…寝よう。
「…おやすみ。」
微かに彼女の匂いが、した。