愛を知らないTS少女   作:えせもんティウス

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成長

 

 

 なんとも香ばしい匂いが鼻を擽る。これは何だろう…珈琲の匂いだろうか。

 

 

 香りが立っているところを見れば、湯気が立ちのぼっている。

 

 

 鼻先にふわりと触れるその熱に、微かな苦みが混ざっていた。

 

 薄い茶色の液体がゆらゆらと揺れていて、それが小さなランプの明かりに照らされている。

 

辺りは薄暗くはあるが時間は早朝と言ったところ。

 

 雨はもう止んだのか、ぽたぽたとその余韻の音がするだけ。ムワッとした湿気が、草木の匂いが風に釣られて中にまで入ってくる。その中には少しカビ臭さも感じる。

 

 

昨日は雨がそれらを消してくれていたのだろう。

 

 

「あっ、起きたの?」

 

「おはようございます…。」

 

「うん、おはよう!」

 

 それとは違う、自然でない焙煎の香りで目が覚めると、詩音がそれに気付いたようで、挨拶を返してくれた。

 

 まだ重い瞼を開けるように目を擦り、昨日の事を思い出そうとするが、何かを思い出せない。

 

なんとも都合の良い頭だと自分でも思う。

 

 そもそも誰かに朝から『おはよう』と言われた事なんてあっただろうか。

 

朝から人が居た事なんてあっただろうか。

 

………いや、ない。

 

 詩音は白いカップを両手で包むようにして珈琲を飲んでいる。時々、寝癖を気にしてる様子なのか、髪を手で直していた。

 

その様子がなんとも女性らしく、可愛い人だと思った。

 

 

「ほら、ここに来て!目覚めの一杯に丁度いいよ!」

 

「ありがとう…ございます。」

 

 

 彼女の笑顔が朝から眩しい。その顔に何を求めているのかを考えてしまう自分が、嫌になってくるくらいに。

 

俺はまた、昨日と同じ場所へ座る。

 

昨日まではなかった、丸いフカフカの敷物が俺の場所にあった。

 

彼女が間違えて置いたのかと思った。

 

「これ、あの…。」

 

「ああ、それ?座りやすくなるかなって。気にしなくても良いよ。」

 

 それを確認したが、どうやら違ったらしい。そう聞かされた途端、胸の奥が妙にザワついた。

 

 

俺はとりあえず素直に座る。

 

 

 彼女が用意してくれた敷物は俺の身体の座り心地を良くしてくれたと共に、心の方は逆に気が張ってリラックスが出来なくなった。

 

 目の前の机を見れば、彼女とは違う一つのカップがあった。彼女とは正反対の何処にあったのかすら分からない黒いカップに珈琲が注がれている。

 

 

俺の前に。

 

 

湯気がゆらゆらと立ち昇っては、蜃気楼のように消えていく。

 

 

「それで────」

 

「どうして…」

 

 

 俺はもう理解が出来ない。心の奥底からの疑問がもう、溢れ出ては止まらない。叫びたかった。意味が分からない今の状況が怖い。

 

 身体が強ばる。全身に力が入る。拳が自然と作り上げられる。動悸が激しくなる。

 

 

言葉にするだけなのに。

 

 

(何で赤の他人である俺をここまで助けてくれるのか。)

 

 

と。

 

 

「……えっと────」

 

 

 彼女は途中まで何かを言いかけたが、俺の顔を見て止まった。

 

 

詩音の目が一瞬泳いだ。

 

 

口を噤んだ。

 

 

俺のほうが理解できてないのに──

 

 

なぜ、

 

 

彼女も…そんな顔をしているのだろう。

 

 

 

 

今思えば、

 

 

 

 

 

この一言が────

 

 

 

 

 

 

 

俺のすべてを変えていく始まりだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしてここまで助けてくれるんですか!!」

 

 

思わず声が震えた。

 

黒いカップの珈琲が僅かに零れる。

 

机に珈琲の残滓が生まれる。

 

 

 言ってしまった瞬間に、この関係に亀裂が、溝が入った気がした。

 

 

言葉の選びと、選択を間違えた。

 

 

でも聞かずにはいられなかった。

 

 

抑え込めなかった。

 

 

 

 赤の他人である俺をどうしてこんなに気遣ってくれるのかという

 

 

 

俺も彼女と同じ

 

 

 

 

恐怖

 

 

 

 

その感情を────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そう、だね…。どうして、だろうね。」

 

 

 無限に続いたかのような長い沈黙。その末に彼女はポツリと、声が掠れたかのように絞り出した。

 

カップを持つ詩音の手が、止まり何処か遠くを見る。

 

 そこに何かの思いを馳せているように、窓の外を見ていた。

 

 俺がそこを見てみても相変わらず亀裂の入った道路に、時間の影響で潰れたと思われるひしゃげた車。倒壊した電柱や、光が灯っていない信号機しか見えない。

 

 

窓の外、風に一枚だけちぎれたビニールが舞っていた。

 

 

 

(そこに、彼女は何を見ているんだ?)

 

 

 

何度見ても俺には分からない。

 

 ペットボトルが乱雑にあったり、自販機が壊されているところだったり……

 

 

俺が色んなところを見渡しても────

 

 

それでも──彼女は何かを、確かに見つめていた。

 

 

俺には何も映らなかったのに。

 

 

だが、彼女には“何かが”映っている。

 

 

それは彼女の

 

 

記憶か、想いか、

 

 

それを、ただそうとしか思えかなった。

 

 

そこに彼女は一体何を見出しているのだろうか。

 

 

 

 

 

「…うん。やっぱり今日は、私…外に出て来るね。」

 

 

 

 彼女の中で何かが、決まった。詩音はそれを感じさせるように珈琲を一気に飲み込んだ。

 

まだ、俺の中の疑問が、恐怖が消えないままに。

 

「なん────」

 

「今日はもうゆっくりしてて良いよ!ちょっと、私は息を吸って来るだけだから。帰りは少し遅くなるかもだから、棚の中にある食べ物勝手に食べてて良いよ!」

 

 

 

俺が口を開こうとした瞬間、

 

 

 

「じゃあ……、行ってくるね!」

 

 

 

詩音はそう言って外に出て行った。

 

 

 

 俺に向かって捲し立てるように言った後、最後は裾を握って。いつものように微笑みながら、静かにその場を後にした。

 

 

静けさが戻った部屋に、珈琲の香りだけが残る。

 

 

 黒いカップの中の珈琲は冷めてしまっている。もう温もりはなく、本来あったであろう芳醇な香りは消え失せている。

 

 

あるのは苦味だけ。

 

 

まるで、

 

 

さっきまでの時間が幻だったかのように。

 

 

…冷たい珈琲が身に染みる。

 

 

「すぅ…はぁ…。」

 

 

一つ深呼吸をしてみた。

 

 それで、体の緊張が解けることもなく、胸の騒めきが消える事もなかったが、それでも幾分かはマシになった気がした。

 

 

「……俺は、一体何が言いたかったんだ?」

 

 

問いが、喉の奥に引っかかったまま動かない。

 

 

詩音のカップには、ほんの少しだけ珈琲が残っていた。

 

 

自分のカップに目をやる。中身はもう、空っぽだ。

 

 

それがまるで──

 

 

何も残っていない自分自身を映しているようで、

 

 

苦しくなる。

 

 

…探そう。

 

 

何か、温もりを。

 

 

それが飲み物であってもいい。

 

 

 

今の俺には、それすら必要だと思えたから。

 

 

 

「あっ…あれって。」

 

 

 カフェの入口にはちょっとした屋根がある。昨日はそこで俺は彼女と話したのを覚えている。

 

そこに目をやった時に、一つのノートがあった。

 

『詩音の日記』

 

 表紙に、そう書かれてあって、そこに『閲覧禁止!』と書かれてあるのが何とも彼女らしい。

 

 

俺はそれに導かれるように、手を取った。

 

 

そこに運命を感じたから。

 

 

 

「ちょっとおーー!!忘れ…も───」

 

 

 

彼女が帰って来た。

 

彼女は俺を見て動かなくなった。

 

 呆然と、唖然と、恐怖と、失望と、呆れに似た感情を、その全てを彼女から感じた。

 

 俺はノートを開く寸前だった。詩音の日記を、詩音の人生を垣間見る寸前だった。

 

 

俺は見たかった。

 

 

どうしようもなく

 

 

 (ガキ)

 

 

 彼女(詩音)について

 

 

 

 ────知りたかった

 

 

 

 

「見た…の?」

 

 

彼女のその言葉に俺は、怯えるしか出来ない。

 

 

 見ていないと伝えてもそれを、彼女はそれを知らないから。嘘をついてるって思われるだろうから。

 

 

「っ……。」

 

 

「見たのって……言ってるよね!!」

 

 

「見て、ない…です。」

 

 彼女の怒気を孕んだ声が、自分へ降り注ぐ。俺はそれに耐えられずに、本当の事を吐いた。

 

 

まるで、嘘をついて叱られている子のような声で。

 

 

「それって…本当の事なの?」

 

 

彼女の声が震えている。

 

 

“信じたい”。

 

 

でも、踏み込んだら壊れるかもしれない。

 

 

そんな迷いが滲んでいた。

 

 

 

「…はい。」

 

 

 

「どこまで知ってるの?」

 

 

 

(何も知らない。)

 

 

俺の中にある、たった一つの答え。

 

 

 

「…何も知らないです。」

 

 

 

僅かに、空気が重くなる。

 

 

 

彼女の目が、ほんの少しだけ細くなった気がした。

 

 

 

「何を見たの?」

 

 

 

「…分からないです。」

 

 

 

彼女の声のトーンが、一段低くなる。

 

 

 

「私について、知ってる?」

 

 

 

「…何も知らないです。」

 

 

 

その一言に、少しだけ眉が動いた。

 

 

 

信じたい。でも、信じ切れない。

 

 

彼女の瞳がまっすぐ俺を射抜くように見ている。

 

 

 

 

「その、私と同じ制服はなに?」

 

 

 

 

 

「…着るものがなくて、拾ったんです。」

 

 

 

詩音は腕を組み、目線を落とす。

 

 

 

 “嘘じゃないの?”と、言外に語っている。

 

 

 

 …もう、どうしようもない。

 

 

 

 

 

俺だって、自分のことを分かっていないのに。

 

 

 

 

「何で、あんな場所に居たの?」

 

 

 

 

「それは…パニックになって、それで───」

 

 

 

 

言葉が詰まる。

 

 

 

声が出ない。

 

 

 

俺はまるで、尋問をされているかのようだった。

 

 

「……もう良い!!!」

 

 

 けれど最後に言葉()を紡ごうとした時、彼女がもう耐えられないと言った様子で、俺の首のリボンを掴む。

 

 

手が小さく震えている。

 

力は籠ってはいるが、痛みはない。

 

そんな絶妙な力加減。

 

 

そこにも

 

 

彼女なりの

 

 

 ────優しさ

 

 

それが滲み出ていた。

 

 

 

 

「──もう、誰も信じたくなんかなかったのに…。」

 

 

 

 

詩音が何かを呟いた。

 

俺にそれは分からない。

 

彼女の声が、今が、その全てが分かる予感がしたからだ。

 

彼女は裾を握る。

 

 今までとは比較にならないほどの強さで、皺が出来るのではないかと疑うほどに。手に血が滲んでしまうのではないかと、思うくらい血管が浮かび上がるほどに。

 

 

呼吸が荒い。

 

 

その音が、俺の胸の奥まで入り込んで、心臓が跳ねた。

 

 

何か、ようやくとんでもない事をしたと。

 

 

ようやく自分(ガキ)が自覚出来たくらいには。

 

 

「すぅ…はぁ…。」

 

彼女が一息つく。

 

先程までの自分が回想される。

 

けれど彼女には“芯”がある。

 

芯がない自分とでは、比べるのも烏滸がましい。

 

「あなたは…」

 

「…はい。」

 

 思わず唾を飲み込む。鳥肌が立つ。身構える。想像する。“彼女がいなくなったその先を”。どのように生きていくのか。自分はどんな考えをしながら生きていくのかと。

 

この浅はかな考え自体が“逃げである”と

 

俺は気付けない。

 

……いや、

 

それに

 

“気付かないふり”

 

をする。

 

 

“被害者”だと。

 

 

俺がそう思えるから。

 

 

 

 

 

………楽

 

 

 

 

だから。

 

 

 

 

「……一旦、距離を置きましょう。」

 

「っ…えっと。」

 

 

(違う。俺は、そんなの。違うんだ…!)

 

 

俺の思いに反して出た言葉は、僅かな言葉。

 

 

胸は熱いのに、身体は動いてくれなかった。

 

 

「そのまんまの意味だよ。大丈夫…ここには居てくれて良いからさ。あっ、だけど今度から食べ物とかは置いとくからそれ、食べといてね。」

 

 

 それは虚をつかれた返事だった。俺にとってそれは“苦しみ”の選択になる。

 

 

逃げられないから。

 

 

言外に“漁るな”“探るな”と言われている。

 

が、

 

まだ、残ってて良いとも言われている。

 

 

 彼女から感じる優しさ…と恐怖が入り混じって…俺は今、何を見ているのだろう。

 

彼女の瞳か、彼女の一挙手一投足か。

 

いや、

 

どれも違う。

 

 

今は

 

 

────自分自身

 

 

を見つめなければならない。

 

 

 胸にストンと自問自答をした末のその一言が、響き落ちる。

 

 

 

“距離を置く”

 

 

 

それは一見、残酷な一言だ。

 

 

けれども彼女は

 

 

“機会”

 

 

をくれた。

 

 

そう──思おう。

 

 

 外は皮肉にもまだ、輝々とした日照りが降り注いでいた。太陽が辺りを照らしていた。亀裂から生えている草木がゆらゆらと揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

だけど奥底まで、

 

 

その日照りが届く事はなかった。

 

 

 冷たく、湿って腐ったような臭いを発する井戸の底にまで光が届くはずもなく────

 

 

 

俺は、きっとまだ“ガキ”だ。

 

 

 

けれど──

 

 

 

それを自覚したことが、たぶん……初めてだった。

 

 

………でも、

 

 

 

俺は

 

 

 

 

 彼女が怒っている姿に密かに喜びを感じている自分がいた。

 

 

 

『心底気持ち悪いやつだ』

 

 

 

あの時の痛みはない。

 

 

それを“不思議に思わなかった”

 

 

自分が、

 

 

一番気持ち悪かった。

 

 

 

俺は……

 

 

 

何なんだろうか────

 

 







ここから本編がようやく始まるかもですね。



コーヒーのタグようやく回収です笑
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