一日目。
主人公は外の景色を“見ていた”ようで、“見ていなかった”。
詩音の言葉も耳には入っていたが、心はどこか遠くにあった。
荒れ果てた世界も、そこにいた人々も、主人公の眼差しは捉えていない。
彼にとって、見えていたのはただ一人──詩音だけだった。
今日は朝から珈琲の香ばしい匂いがする事がなかった。
目が覚めて彼女が居た所を見れば、あったのは、電子ポッドのような物と一つの手紙だけ。
そして俺の席には、黒いカップと共にコーヒーの素があった。
暗にこれで、朝から珈琲を飲んでと言っていると思って良いだろう。
しかし
どうして電子ポッドなんかあるのだろうと、疑問に思う。
この世界は、どうしようもない程に荒れ果てている。そう思わずには居られない。
電気なんか通っているなんて思ってすらいない。
なのに、どうしてか、コンビニで有り触れている白く丸みを帯びた、小綺麗な電子ポッドがポツンと机に置いてある。
それが逆に、この世界の異様さを物語っている。
(……そもそも、この場所って本当に廃墟なのか?)
それを知れば謎が深まる。思考が止まらない。頭の中のモヤモヤがそれを邪魔する。そこに壁が存在するかのように。
日常的に有り触れた存在が、今目の前に“非日常”なのに、それが当然のように置かれている。
この状況。
俺は…
意地でも
────理解をしなくてはならない。
まずは置いてあった手紙を見る事にした。ノートを破って書き置きしたようで、切れ端が少し残っている。
それでも丁寧にその置き手紙は畳まれて置いてあったのを見るに、そこに何かしらの“想い”がある。
置き手紙を見る。
そこに
────答えがある。
たぶん、あなたならもう分かってると思うけど…
この電子ポッドの使い方は、簡単!!
電子ポッドに手をかざして、ちょっとだけ力を入れてみて!
美味しいコーヒー、置いとくね♡
彼女の文字を見た。
柔らかい文字で、優しく、相手を思いやるような字で。
だが、俺にはそれが、息を吐く余裕が消えるものだった。
そこに込められた想いを見れば、
俺が
“電子ポッドを使用できる”
という
“期待”
俺に課された希望のようなもの──
けれど、それは同時に、逃れられない宿命のようにも思えた。
そんな期待をしてくれて、いたとて
俺は使い方を知らないというのに。
改めてポッドを見て、
(魔法でも使えば良いのか?)
手に熱が帯びたのを気付かないままに、鼻で笑いながら思った。そんなフィクション…有り得ないだろうに。
置き手紙を机の上にそっと置く。洗面所に視線を見やる。あえて、意識せずに見ていた
が、それ以前に、それらを考える前に
「ふぅ……鏡を、見よう。」
直感的に俺は思った。
自分を変えるのならば、
彼女の想いを汲み取るのならば────
(自分を…見る…)
正直言って、鏡を見るのは怖い。
見れば、自分が崩れそうで、
少しあった自分が消えそうで、
俺が
生活が変わってしまいそうで、
昨日みたいな事になりそうで、
俺が彼女に“期待されている”ことが、
どこか嬉しくもあった
──それが、一番残酷だった。
だけど
俺は、俺は────
そこに少しでも“”真実“”があるのならば
俺は、
(────見よう)
これは小さな一歩だ。
だけど俺を、俺自身を認めなければ、
これは
俺にとって“大きな一歩”となる。
彼女の生活感を感じる今の場所。見ないようにしていた彼女の生活空間。それが、まだ、ここにある。彼女の温もりがすぐ傍で、感じさせられる。
朝日が照らす窓際に目を向ければ、紫の花柄のコップがあった。
…そのコップに活けられていたのは、ひときわ背の高い、薄紫の花。
朝日に照らされて揺れるその姿は、まるで──
誰かの想いを、まだここに咲かせているようだった。
「ふぅ…よし!」
トイレの鏡へと向かう。
一昨日と昨日と今日で、
まだ“三日目”
それでも、もう“三日も過ぎた”
彼女の優しさに充てられ、それにずっと甘えて良いはずがない。
まずは自分の認識を正さなければならない。
今が“男ではない”と言う事実を、真実を受け止め、受け入れるしかない。
それが自分を認める為の一歩目だからだ。
諸刃の剣のような覚悟を決め、鏡の前に着く。
「……っ!!」
“男”だったはずの自分がそこにいた。
いや、“男であろうとする自分”が、
そこにいなかった。
代わりに居たのは
肩幅が少し狭まり、髪が頬にかかるようになった“誰か”。
その身を恐怖が包み、反射的に目を瞑る。俺は自分を見なくてはならないのに、また逃げてしまった。自身がどんな姿かを自身で説明つかなければ、何だと言う。
鏡の前にだけは、今なお立っている。
(俺は…逃げない。)
呼吸が段々と浅くなるのを感じる。洗面台に置いた手に自然と力が入る。額に汗が滲む。
さっきの決断が間違いだったのではないのか。そんなちっぽけなきっかけで、自分が変わってしまっていいのか。まだ、あの子が気にかけてくれている…その事実だけで良いじゃないか。俺がそのままでも彼女を享受できるから良いじゃないか。
剣が脆く、崩れる。
感情の波と思考の渦が自身の中で巻き起こる。
楽をしたいという“感情的な自分”と変わろうとする…いや、変わらなければならないと思う“理性的な自分”
そんな相反する二つの自分。
ふと、窓辺のコップに活けられている“二輪”の花を見やる。
青でもなく、紫でもなく──その間にある、名もなき感情のような色。
さっきも見た花。
けれどさっきは角度的に一輪にしか見えなかったその花。
「…あなたなら大丈夫…
不思議と勇気が貰えた。
そこに
(もし、昔の俺が今の俺を見たら、どう思うだろう)
そんな思いが払拭し、過去の自分が今の自身を滑稽だと馬鹿にするが、俺はそれを振り払う。
「……っ。」
俺は女になって初めて”自分自身をしっかりと見た”。
見ればなんてことはない。
“女の自分”。
寝てる間に詩音が着替えさせてくれたのだろうか。
彼女の桃色の髪を感じさせる桜の花びらが舞っているパジャマを着ている。
こんなもの、誰に見せるというのだろうと思いつつも、それを着て眠っていた自分を想像して、思考が止まる。
(通りで胸がキツかったわけだ。)
思考を区切る。
俺の見た目は、肩まで伸びているセミロングの灰色の髪に、灰紫の瞳。中性的な顔立ちで、それが女寄りの顔。
総合的に見て、今の俺は美少女だと言って差し支えない。最初にチンピラに絡まれたのも納得が出来ると言った具合だ。
けれど、俺の中では知らぬ間に論争が巻き起こる。
なんで女になったんだと。どうしてこんな自分の認識とは違う容姿なんだと。せめて醜くあってくれれば良かったんだと。
いつまでも“弱者”でいられない…が、俺は“強者”にもなり得ない。
こんな容姿が自分にあっても宝の持ち腐れだと思う。
「はぁ…。」
自然と溜息が漏れ、身体の緊張が解ける。
やはり一日だけでは、何も変わらなかった。
視野は広くなった気がする。
それだけ。
けれど、確かに感じた手応え
“一歩の前進”
それが、どう転ぶのかは分からない。
でも、もう“見てしまった”
──それだけで十分だった。