紅い瞳がずっと見つめていたのは、“俺”だったのか、それとも
──“俺ではない誰か”だったのか。
その答えは、詩音だけが知っている。
「うっ…いっって…。」
カーテン越しに射す日光を浴びながら、このまま目覚めないほうがマシだった、そんな頭痛と共に目が覚めた。
昨日は鏡を見たあと、次なる謎の電動ポッドを動かそうと、一生懸命、彼女の期待に応えようと奮闘した。
けれど自分には結局は扱えず…コーヒーを飲むのは諦めた。
凄く彼女に申し訳ない気持ちと、自分への失望が、胸の奥でごちゃ混ぜになっていた。
どうして、こんな事すら出来ないのかと。
知らなくて当然───そのはずなのに。
けれど、どういうわけか、身体はまるで電動ポッドに“覚え”があるように勝手に動いた。
無意識的にそう動いたのだ。
それでも自身は“それを知らない”。
……だというのに、なぜか“覚えている気がした”。それが、自分でも不思議だった。
その後、散々試行錯誤したあげく、結局は詩音が置いていった水と携帯食を、ただ口にするだけで朝を終えた。
昼以降は…その後、生きてる心地がしなかった。
献立のように置かれていた、お肉の缶詰や、魚の缶詰、それらを食べても味がしなかったくらいには…。
何故なら、ずっと“彼女が帰って来た時”に備えて、身体を緊張状態にさせていたからだ。
素直に『電子ポッドの使い方、分からないから教えて下さい。』と言ったら彼女がどう言う反応をするか、分からないから。
怒られてもいい、失望されてもいい──
それでも、彼女に教えてほしかった。
だから“ずっと待った”。
身体を強ばらせたまま。
心を休ませないようにして。
感じた思いを──忘れないようにして。
文字通り…“ずっと”
…眠気を押し殺しながら
詩音の温もりが染み込んだ桜の花びらのパジャマの中で
ただ、詩音を──待っていた。
『……ごめんね。』
最後に微かに彼女の匂いを感じるまでは。
起きた時刻は分からない。
それほどまでに時間が過ぎている。今は昼前なのか昼真っ只中なのかどちらかすらも分からない。
「どうして…なんで。」
押し寄せる眠気と戦いながら、“何故”と問う。
その問いを問う相手は自分なのか詩音なのか、どちらなのか自分ですら分からない。感情の整理が出来ていない。感情が狭間で揺れ動いている。
意識が途切れる瞬間────
確かに“詩音は居た”
“距離を置く”
そこにどんな意味合いが込められているのか、理解はしていた。だからこそなんで、彼女がそこに居たのか。理解が出来ない。距離を置くのなら徹底的に取ればいいのにと、そう自分勝手に。
それでも、どこか
心の中で
彼女は、“来る”
と確信していた。
けれど想像の通りではなかった。
『あれ、起きてたの?』とか『どうしてこんな時間に起きてたの?』とか、何気ない会話から、始まるものだと勝手に俺は思っていた。
それが、違った。
昨日は、眠気を感じぬように、俺が座ってる椅子に腰を掛けたはずだ。それが布団にくるまれていた。
天井を睨む事になるとは思わなかった。
詩音が布団を敷いて、そのうえで俺を寝かしてくれたのだろうか。
服を見れば、桜の花びらのパジャマ…じゃない。今度は、窓辺に咲くあの紫の花があしらわれていた。胸はキツくない…まるで、自分専用に用意されているみたいだった。
どこか彼女を感じ、そして得体の知れない優しさが続く。
重い肩を無理やり起こす。重い空気を、沈む気持ちを晴らす為に、机の上を見る。
やっぱりそこには案の定、置き手紙があった。
(いつまで…続くんだ?これが……。)
終わりが見えない先。
曖昧で、よく分からない優しさに充てられている気持ち悪さ。本当に分からない。理解したいのに、俺には理解が出来ない。
意地でも理解しなくちゃいけない。
そう決めたのに、砂塵のように呆気なく、その覚悟が吹き飛ばされそうになっている。
机に、いつもの椅子に座って、その置き手紙を確認しようとする。
それだけの事なのに、数歩でそこに着くと言うのに、一歩一歩が重く、距離が遠い。
置き手紙のある机が、遠くに見えた。
たった数歩なのに、足が動かない。胸の奥で『まだ見なくていい』と誰かが囁いた。
そこに“優しさ”があれば、疑ってしまうから。期待があれば、逃げたくなるから。
“出て行け”と書かれてあったら、今の俺なら喜んで出ていくだろう。そんな気がする。その方がよっぼど気が楽になれるだろうから。
(────俺は…見る。)
そう決意し、一歩目を踏み出す。
口が、思いが溢れて開く
「『ありがとう!』って書かれてたら…。俺は何て…返せばいい?」
何に対しての感謝なのか。何を喜んだのか。何を求めているのか。想像しか出来ないが、もしそうなら…
また、一歩重くなる。
「『ごめんね』って言われたら、それは…何の“贖罪”だ?」
何に対しての、謝罪なのか。自分が何かしたのか。詩音が何か俺にしたのだろうか。別に俺は気にしないのに。
息が沈む。
「『もう会わない方がいいかも』って書かれてあったら…」
そう零した時、思わず、胸を抑える。想像した時、胸が張り裂けるような痛みが走ったから。
「はぁ…ふぅ……。」
一歩の重圧に耐え、折り畳まれた置き手紙に着いた。
深呼吸をして、緊張を解す。どんな内容でも良いように、ちっぽけな想像力を働かせ、その身を守る準備に入る。
「……よし!」
覚悟を決め、勢いよく丁寧に四つ折りにされてる手紙を開く。
見た時の感情は分からない。
俺はきっとバカみたいなことを期待していた。
詩音が見ている“誰か”が、そこにいた。
その“誰か”は、俺が思い出せない
…分からない。
おはよう、かな?
寝顔、ちょっと間抜けだったよ笑
昨日はごめんね。何か、ちょっと、言いすぎたかも。
でも、ちゃんと食べてる? 水、足りてる?あんまり減ってなかったから少し心配かも。
この電子ポッド、たぶんだけど……
あなたなら、もう分かる気がしてるの。何となく…。
まあ気が向いたら、コーヒー淹れてみて!
……飲めなくてもいいけど笑
「………。」
目を閉じて、考えないようにする。だが、目を閉じたとて、目の前の現実からは逃れられない。それを俺は学んでいる。
明るい文面なのに、信じている相手が“俺じゃない”気がして、胸が痛んだ。
俺ではない、
その“誰か”が、俺の中にいるのか、それとも俺の背後に立っているのか…それすら、もう分からない。
「…これ、は?」
スルッともう一枚の手紙が、開いた拍子に抜け落ちていたようだ。床を見れば同じように四つ折りにされた手紙があった。
もう、見てしまえと、面倒くささを感じながらそれを拾い上げ見る。
全てがどうでもいい気がしてきたからだ。
乱暴に、もう一つの四つ折りの手紙を開ける。
それと……今日、お客さんが来るかもしれないの。私の昔の知り合いみたいな人。
すごく真面目で、ちょっと不器用だけど、悪い人じゃないよ。たぶん。笑
でも、無理に話さなくていいし、気を遣わなくて大丈夫。
“今のあなた”を見て、何か思うことがあるかもしれないけど……
それはその人の問題だから。あなたはあなたのままでいて。ね?
じゃ、いってきます。夜には帰ると思うから。ちゃんと寝るんだよ〜!
詩音より
乱暴に開けた影響か、少し紙がクシャッとしている。
少し後悔した。
この二枚目の手紙を見て、また俺は分からなくなった。
感情の波が、一度引いたと思えばすぐに押し寄せてくる。そんな感じだ。
一枚目では確かに“俺ではない誰かを心配”していたが、二枚目では“
幻滅と、嬉しさが交わり、交差した。
もう、意味が分からない。
違うなら、違うと突き放してくれればいい。
それなのに、優しさと信頼が、別の誰かに向いている気がして。
そのズレが、今の俺を細かく削っていく。
…苦しい。
それでも。ほんの一瞬、嬉しいと思ってしまった自分が、余計に苦しかった。
それが…苦痛だ。
(俺は…何者なんだ?)
ボーッと手紙を見る。この手紙から、何を感じ取れば良いのか分からない。二つ目の手紙から落ちた桃色の一つの髪が、彼女の存在を確かに証明していた。
──トントントン…。
控えめにノックされた音が、張りつめた空気に小さく波紋を落とす。
その瞬間、胃がきゅっと縮んだ。
(来た……)
詩音の置き手紙を思い出す。
それと……今日、お客さんが来るかもしれないの。
すごく真面目で、ちょっと不器用だけど、悪い人じゃないよ。たぶん。笑
でも、無理に話さなくていいし、気を遣わなくて大丈夫。
大丈夫、とは言われた。けれど、その言葉が届くには、まだあまりにも心の準備が足りていなかった。
心を落ち着ける暇もなく、扉を開ける。
「……あれ?」
玄関の前にいた少女が、不思議そうに目を細めた。
ヒビの入った窓から差し込む光が、まるで舞台照明のように俺たちを照らしていた。
「詩音の拠点にしていた場所、よね? あなたは……」
黒を基調とした制服姿。年齢は詩音と同じくらい。
真っ直ぐな黒髪に、どこか整いすぎた表情。翡翠色の瞳が冷たく、でも情を感じる。
──けれどその翡翠の瞳だけが、揺れていた。
「琴音って言います。……あなたが、“今ここにいる”人?」
重い荷物を持ってそうなリュックを、入口付近へと無駄のない動きで置いた。
「は、はい…。」
少し戸惑って頷くと、琴音は小さく礼をした。
距離はある。でも、その目だけが、俺の輪郭を測るように、じっと見ていた。
「……どうぞ。」
「ありがとう。」
カフェの中は、いつも以上に妙に静かだった。詩音の不在が、白い壁の色すら変えてしまった気がした。
積もった埃の上を歩く足音が、不自然に響く。
「ここに来るの、いつぶりだろ……。」
声色から、それほど時間が経った訳ではないと分かった。が、懐かしむほどの時間が、彼女にとって流れたのだろう。
そう言いながら、琴音は詩音が座る定位置のすぐ横という、示し合わせたかのような場所に腰を下ろした。
座っている瞬間の彼女は、記憶を静かに踏みしめているようだった。
「……詩音に言われて来たの。」
「うん、…聞いてる。」
長い沈黙に耐えかねて、まずは彼女が口を開く。
言葉は交わしているのに、何かがかみ合わない。
お互いに何かを探っている。
俺は「詩音の知り合い」について。
琴音は「俺の正体」について。
何となくだが、揺れ動く彼女の翡翠の瞳からそれを感じた。
「……あなた、前にどこかで会ったっけ?」
その言葉に、少しだけ息を呑んだ。
(やっぱり……“”過去の誰か“”に似てるって、思ってるのか)
「多分……ない、と思う」
否定するのが、精一杯だった。
だって俺はその──“誰かの代わり”じゃない。
でも、それを否定しきれるほど、この身体のことを知っているわけでもなかった。
「……そっか」
琴音は、うっすら笑った。
「私、ずっと詩音の隣にいた“あの子”が、ちょっと苦手だったんだ。」
唐突な告白だった。
「あっ、はは…少し私おかしいでしょ。」
琴音が小さく笑うが、それが壊れそうで──でも、どこか懐かしくもあった。
前髪を弄りながら、その指を忙しなく動かしながら、緊張した面持ちで言う。
「明るくて、まっすぐで、詩音のことばっかり見てて……そういうのが、羨ましかったのかも。」
俺とは正反対のような眩しい人物。琴音はその姿を俺から見出している。
(どんな人…だったんだ?)
琴音の視線は上を向いていて、誰かを懐かしむように、慈しむような瞳をしていた。
「でも、本当は…」
琴音が一息つくと、その場の空気が変わる。
「…私ね、あなたに会いに来たわけじゃないの。……でも、あなたの顔を見た瞬間に、少しだけ……揺れたの。」
「……。」
翡翠の瞳が、俺を射抜く。
「あなた……あの時……詩音の代わりに──」
覚悟を決めた瞳だった。
琴音は手をギュッと握り締めて、俺にとって“核心”をつく言葉を言ってくれる雰囲気を感じ取った。
けれど…彼女は───────
「ううん…やっぱり何でもない。」
「…え。」
俺の中で、何かが揺れる。
それを言って欲しい。けれど、彼女を傷付けたくない。言えば、彼女に深い傷跡を残す事になるだろうから。
「私も、やっぱり信じたくないから。…ごめんなさい。」
視線を俺から逸らし、気まずさを感じさせながら言葉を続ける。
「……俺は、何も知らないよ」
そんな真剣に向き合ってくれてるだろう琴音に対し、やっと出た言葉は、重苦しい現実から逃れようとした、ただの事実だった。
「そうだよね。あなたは、違うんだよね」
そう言った琴音の目は、どこか遠くを見ていた。
「……でもね、不思議なの。確かに明るくはないんだけど…ちょっとした動きとか、座る時の姿勢とか…。」
「え?」
「……昔の“彼女”と、ちょっと似てる」
「……。」
それは、俺にとっても気味が悪いことだった。
無意識に出る仕草。俺が“知らないはずの何か”が、身体のどこかに残ってるみたいで。
「だからね……私、少し怖いの。」
琴音の声は、今にも泣き出しそうだった。
「もしあなたが本当に、あの子なら──って。そんなわけ、ないのに。ない方がいいのに……」
“ない方がいい”
その言葉に、妙な苦みを感じた。
「詩音が、あなたに“あの子”を重ねてるの、分かるの」
「……。」
「だけど…たぶん私はまだ、あの子がいなくなったことを、ちゃんと受け止められてないんだと思う。」
泣きそうに瞳が揺れている。されど涙を彼女は出さない。
「それでも私は、まだ“あの子”を、過去にできてない。」
琴音の手が、ぎゅっともう片方の腕を掴む。
「ごめんね。来るべきじゃなかったかも」
「いや……来てくれて、ありがとう。」
自然に、そう言葉がこぼれていた。
「ごめん、時間がない。」
本当に話をしに来ただけらしい。
彼女は急ぐようにカフェの入口へと向かいリュックを緩慢な動きで背負う。
けれど、俺には十分だった。
話をして数十分しか、経っていないだろうに、濃密な時間が、過ぎ去ったと思えるくらい、流れる時間は遅かった。
まだ、日光の日照りがカーテン越しで揺れている。
「…ねぇ。」
去り際を、見送ろうとしたところ、彼女の足が止まり、身体だけ俺へ向き直ってきた。
情が込められているかのような翡翠の瞳が“俺を見る”。
「詩音が、あなたを“あの子”みたいに見るの、苦しくないの?」
「………っ。」
その言葉に琴音の迷いが、不完全な
「正直…言って苦しい。だけど詩音のためなら、何だって…出来ると思う。」
俺のその答えに、琴音は少し驚いた顔をしたあと、納得したように小さく頷いた。
「ねえ、もし……また会ったら、名前、教えてくれる?」
少し明るく、無理をしたような物言いで、声を震わせながら、笑顔で前髪を弄りながら言って来た。
「うん、分かった。」
俺の名前は、まだない。
「……詩音を、よろしくね。……私は、ちゃんと、ちゃんと、笑えるように…なるから。」
俺に背を向け、彼女はそう言った。
泣きそうな声だった。
いや、泣いているのだろう。雫が、一粒一粒が、後ろ姿から見ても分かるくらい落ちている。
それでも決して彼女は、俺の方を向かない。
「また、来るね…。」
そんな弱々しくもあり、強くあろうと立ち去る背中は──
ほんの少し、彼女が昔と決別できたように見えた。