主人公は、優しさに触れ、
たった数日、されど数日の中で、少しずつ変わり始める。
自分という存在を、確かにしようと。
それは友情か、
それとも──
愛か。
静かだった。
詩音も、琴音もいない。
この廃墟のようなカフェに、“俺だけ”が残された。
風が吹いて、隙間風から窓際のカーテンがふわりと揺れる。
けれどその揺れすら、今の俺には過剰すぎて。
誰もいない空間が、ようやく“俺の居場所”として認めてくれた気がして────
そのくせ、どこか寂しかった。
(…俺って、誰なんだろうな。)
気持ちを切り替えるために、いつも使うテーブル以外の場所に、献立のように置かれてあったペットボトルのお茶と、乾燥パンを食べて、口の寂しさを紛らわせる。
誰かの面影を纏っている。けれどそれは“俺”ではない。
自分の名前もなくて、
過去も知らなくて、
なのに“誰か”として期待されて、見つめられて、そして…怖れられる。
詩音は、俺を最初からずっと、誰として見ているんだろう。あの紅い瞳には底知れない暗闇がある。今ならそう感じとれる。
琴音は、何を見ていたんだろう。俺を誰かと重ねていたのは事実だ。俺の無意識の動作を、彼女は見ていたのだから。
だけど
俺は一向に
(──その子の名前を、俺はまだ知らない。)
意図的に、詩音が、琴音が隠して…いや、その子の名前を
でも、今なら少しだけ、
“その子”の痛みに、手が触れたような気がした。
手が、震えていた。
これが、この身体の悲鳴だと、言うのなら。
本当に自分が分からなくなって来る。この身体の異物でしかないこんな自分。自身が存在する価値を疑ってしまう。
机の上には、今日の最悪な目覚めの原因とも言える、意識的に見ないようにしていた、小綺麗な電子ポッドがある。
すぐ横には黒いカップと共に、珈琲の素が置いてある。
温かい物でも飲もうと、俺の椅子へと、身体を落ち着けるために座る。
お茶と乾燥パンとは、また別の充足感が欲しかった。
確かな“温かさ”を感じる物を。
電子ポッドを見やる。
何の変哲もないように見えるそれ。どこからどう見ても、変な機能やら、凄い技術を感じる事は、ない見た目。
二日目の時は、温かく、湯気が出るくらいの珈琲を詩音は飲んでた筈だ。
そのからくりはもう、手紙で伝えられてはいる。
電子ポッドに手をかざして、ちょっとだけ力を入れてみて!
頭の中でその手紙の言葉が響く。
「…本当にそれだけ…なのか?」
俺は真剣に、その手紙と向き合ってなかった事に気付く。あまりにも現実味が無さ過ぎて、鼻で笑って除外していたその方法。フィクションの世界でしか有り得ないだろうと、それをしようとしなかった俺。
そもそもが
荒廃している街や、詩音のコスプレかのような桃色の髪と紅い瞳。琴音の翡翠の瞳。数日しか生活していないのに、否応なく突き付けられる“非現実的”なこれまでの生活。
────フィクションみたいな世界なのに。
俺は一体、何から逃れようとしていたのか。
”今の現実”から逃れようとでも、していたのか。
ここは元々がフィクションみたいな世界だった。なのに前世を引き摺って、自分だけがずっと取り残されていた。
琴音や詩音の時間は常に動いていた。
俺だけだった。
時計の針が止まったままだったのは。
“信じる”
と
“信頼”
それを一回でも俺は詩音にやって来ただろうか。自分を偽る為に嘘を吐いて、勝手に悟られないだろうと高を括ったり、俺は常にプレッシャーを自分に与えてきた。
バレたくないと言うその一心で。
「…そう…だよな。」
これまでの俺を思い出す。
俺が
心の底から彼女を信じた事は“ない”。
あの曖昧な優しさに充てられ俺は“疑い”そして“恐怖”をしていた。
ずっと、背を向けていたのは俺だった。
曖昧なのは俺だった。
詩音は“距離を置いた”とて、手紙と言うツールを用いて“向き合ってくれた”と言うのに。
一日目の彼女の紅い瞳が想起される。美しい紅玉のような深紅の瞳。
最初の出会いの時を。
────心配を滲ませた
その瞳を
それが俺だけに向けられていたような錯覚を起こしたほどに。
けれど
ずっと彼女はその瞳を、本当に俺だけを見つめてくれていた、そんな気がする。
それが俺ではない“誰か”だったのなら、一日目の時に
一日目の夜に感じた、あの問い掛けて来ているような瞳。月に照らされ輝々と輝いていた瞳、それは俺が心の中で全て、理解したくなかった彼女のその瞳。
それは
“優しさ”
だったのだろう。
…俺は彼女の優しさを拒絶して来た。
“優しさ”なんて、ずっと“無関心”の裏返しだと思っていた。
「俺って…ほんと、ガキのまんまだったな。」
出た言葉を、俺自身に咀嚼させる。
お茶を飲んで、乾燥パンを食べ、自分の行動にも、この出た言葉を記憶させる。
『どうしてここまで助けてくれるんですか!!』
本当に酷い事を俺は言った。
彼女は今、何を思い生きているのだろう。
俺は彼女の”優しさ“を常に“拒絶”して来たのだ。
身体の本能なのか、自己防衛なのか分からないが、反射的に。誰かに優しく、そして踏み込んで来て貰えた事なんか一度もなかったから。
常に他人の顔を伺ってきた人生だったから。
俺自身にその顔が向けられた事はなかったから。
琴音が去って二時間も経っていない。
カーテンから刺す光は弱まってはいるが、まだ明るさが残っている程度に、時間は経っていない。
だけど、俺はこの二時間の間に、自分の時計の針が何倍も加速した気がする。
弱々しくも、強くあろうとするその背中で────
俺の口から自然に出た言葉…
『正直…言って苦しい。だけど詩音のためなら、何だって…出来ると思う。』
詩音と最初に出会った時の、あの明るくひょうきんな性格を凝縮したような、口調の中に感じた、そこに彼女が“気丈に振舞っていた”と感じた自分の感性。
それに蓋をしたが、それは正しかったんだと思う。
「あの時の俺は…そう言う事だったんだな…。」
あの日記を見ようとした時。
そこにトラウマや想いがあったかのように、過剰に反応したように見えた詩音。…まあ俺が悪いことに変わりはないが。
そこに感じた
“見られたくない”
と言うあの時の彼女の感情は本物だった。
ようやく俺は“本心”を彼女から垣間見たのだ。それに微かに喜びを感じた自分に…今でも嫌悪感は抱くが。
「もう、誰も信じたくなんかなかったのに…。」
その時に呟くように言ったあの時の詩音の言葉が何だったのかは分からない。だけど、あの一言が彼女の“核心”を付いていたのだろう。
「あとで…詩音に、謝ろう…。」
普通の人ならちょっとずつ動く、その針を、俺は動かしていなかった。
…ようやく俺は普通と言うスタートラインに立ったに過ぎない。
その普通に並ぶ為に、俺はまず彼女を信じなくてはならない。
(…やってやるぞ。俺は。)
電子ポッドに手をかざして、ちょっとだけ力を入れてみて!
頭の中にその言葉が残響のように響く。
今度は“真剣に信じてみよう”
これが彼女の言葉だ、文字だ。
それが全てだ。
「はぁ…ふぅ。」
深呼吸をして電子ポッドを見据える。
胸が軽くなった。自分の中の何かが呼応するように、俺の思いに答えた気がした。
「……よしっ!」
手に力を加え
────そっと手をかざした
百合要素のタグ…ようやく回収しそうですね笑