黒いカップから立ちのぼる湯気が、仄かな香りを連れて鼻腔をくすぐる。
一口含めば、温かさが静かに身体の奥へと染み込んでいく。
「はぁ…美味いな。」
俺はあのポッドを使用する事が出来た。
その達成感で、思わず笑ってしまいそうになる。
手をかざせば、ほんのりと掌に熱が帯び、紫の粒子がふわりと舞いながらポッドの底へと集まっていき、
やがて、湯が音を立てて湧き始めたのだ。
手を、かざしただけだった。
やってみれば、恐ろしいほどに簡単だった。
「ははっ…本当に俺はな…。」
詩音の言葉を信じていなかった自分に、今さらながら腹が立つ。
最初から信じていれば、良かったものを俺は、なぜ疑ってしまったのだろうか。
思えば前の世界では、どれだけ高いコーヒーを飲んでも味なんて分からなかった。
このインスタントみたいなコーヒーの方が、ずっと美味いなんてな。
「それにしても…距離を置く…か。」
でも俺は、伝えなきゃいけない。
“俺は大丈夫だ”って──彼女に。
彼女はずっと
嘘で塗り固められた俺じゃない自分を。
その────あたたかくて、怖いくらいの
偽物なんかじゃなかった、
“本物の優しさ”で。
あの瞳は、紅く、静かに、優しく光っていた。
すべてを包み込むように、慈しみに満ちて──怖いほどに、まっすぐで。
最初の日、途中で寝ちゃったのは、きっと俺に呆れたからだろう。
嘘だと、全部見抜かれていたんだ。
あの人には。
それでもなお彼女は受け入れようとしてくれた。
雨が降りしきる夜の中、俺を寝かせて、カフェの入口に座っていた彼女はきっと、“俺の名前”を考えてくれていたんだろう。
これはただの、自惚れかもしれないが、人差し指を俺に指して、“名付け宣言”した言葉は本物だっただろうから。
「ふぅ…。」
珈琲を飲み、逸る気持ちを抑える。
こんなにも今を“生きている”と実感した事がなかった。だからこそ、感情が昂り過ぎる。
コーヒーがあって心の底から良かったと思う。
前世の社畜時代から、いつも隣にあった“相棒”のようなものだった。
「…気分転換に、外でも歩いてみるか。」
感情は落ち着いたが、身体の方の興奮は収まらない。今は、少しでも身体を動かしたい気分だ。
どれだけ自分がリラックスできていたのか──
カーテン越しの赤い光が、それを物語っていた。
だが、自分の中の有り余るエネルギーが、何かやらなければと、行き場を探してるから。
散歩で、それを少しでも紛らわせればいい。
「…行こう、俺も。」
中身が空になった黒いカップをコースターの上に置く。
この可愛いピンクの花が刺繍されているコースターも前回なかったから、詩音が用意してくれたのだろう。
囁かな気遣いにも彼女の優しさを感じる。
カフェの地面には、木製のフローリングが貼られている。しかしどこか手作り感が拭えず、不器用な人が作ったとしか思えない。
剥がれたフローリングの隙間から、かつての塗装がうっすらと覗いていた。
壁のあちこちには修繕の跡があり、それでもなお、小さな穴がいくつか残されていた。
その全部が、詩音と言う訳ではないだろうが、彼女は“今を生きている”のだろう。
ここは確かに荒れ果てていて荒廃している世界。
だが、彼女の優しさが俺に色を与えてくれた。
俺の目でもう一度、この世界を見てみよう。
この世界はただ、荒廃している世界じゃないと。
ひしゃげた車や、折れている電柱、風に舞う枯葉などの“風景”がそう見せていただけ。あの路地裏での“光景”がそう思わせただけ。
俺にとって
この世界は
もう
彼女の優しさによって彩られた
────“美しい世界”だ。
窓辺の紫の花柄のコップに活けられた、二輪の紫の花が、それを肯定するかのように微かに揺れた。