(1510年)
永正七年二月 亀童丸 満2歳 数え四歳
春の陽光が庭に差し込み、母の腕の中で過ごした宴の余韻がまだ身体に残っている。やがてまつゑに抱かれ、東向御殿の寝所へと運ばれる。花びらの香りが遠ざかり、瞼は自然と重くなっていく。
意識は、二歳の身体が求める安らかな眠りの底へと、静かに、深く沈んでいった。
ふわりと、意識が浮上する。 そこは、見慣れた真っ白な闇の底。重力も、音も、匂いもない、思考だけが純粋な輪郭を持つ、俺のもう一つの現実だ。
「お疲れ、よしたかくん。今日の主役は大変だったねぇ」
声がした方を見ると、白銀の髪を揺らしながら、紀理がいつものように悪戯っぽく微笑んでいた。その手には、もちろん俺の分身であった古びたスマートフォンが握られている。彼女の姿を見ると、四十年の人生を生きた「俺」の感覚が、すっと身体の中心に戻ってくるのを感じた。
「ああ……色々とな。ただの幼児でいるのも、存外に骨が折れる」
「ふふ、でしょ? でも、最高の特等席だったんじゃない? 大内家の奥向き、女たちの戦の最前線。面白そうなデータがたくさん取れたよ」
「正直、怖かったぞ。あの笑顔の裏に、剣より鋭い火花が飛んでいた」
紀理が楽しげに指を弾くと、俺たちの間に光のパネルがふわりと浮かび上がった。そこには、今日の宴の出席者たちの顔と名前が、複雑な線で結ばれている。
「まずは、やっぱりこの人からだよね」
紀理が指でなぞったのは、姉である珠姫の姿だった。
「珠姫ちゃん、数えで六つ。お母さんは、義興さんの最初の正室で、京の公家のご出身。彼女を産んで、すぐに亡くなられた。珠姫ちゃんからすれば、自分の血筋こそが本流っていうプライドは、相当なものだと思うよ」
「だろうな。今日のあの挨拶も、幼いながらに完璧だった。だが、俺を見る目には、どこか棘があったように思う」
俺がそう言うと、紀理は嬉しそうに指を鳴らした。
「やっぱり気づいたかぁ。鋭いね。それでね、彼女を養育してるのが、側室のお芳の方。あの人、元は珠姫ちゃんのお母さんの侍女だったんだ」
「そうなのか」
「主の忘れ形見を守り続けるっていう忠誠心と、今や奥向きを仕切ってるのが君のお母様と言う事に、あの人の胸の中でずっとせめぎ合ってる。君を見た時、一瞬だけこぼれた嫉妬の光。ちゃんと見てたでしょ?」
「ああ。あれは、俺というより、母上に向けられたものだろう」
「うん。お母様は、君を産んだことで事実上の正室、『御台様』になった。でも、公式にはまだ側室なんだよね」
「……つまり、立場が完全に固まったわけじゃないってことか」
「そう。その一点が、お芳の方にとっては最後の砦で、いつか覆せるかもしれない希望にもなってる」
「なるべく良好な関係でいたいけどな」
「あと珠姫ちゃんが大きくなって、有力な大名に嫁いだ時によしたかくんの障害になるかも」
「政略結婚か」
「うん。でも、それを決めるのは結局、義興さん次第かな」
「そうだな。今の俺には、まだどうにもできない話だ」
紀理の言葉は、今日の宴で感じた漠然とした不安に、明確な形を与えていく。珠姫は、ただの子供ではない。彼女自身が、政争の駒となりうる存在なのだ。
「それから、もう一人の重要人物」
紀理がパネルをスワイプすると、佳乃の落ち着いた横顔が大きく映し出された。
「陶家の佳乃さん。あの人は、味方につければ百人力だよ」
「母上とは、かなり親しい間柄のようだったな。単なる主君の妻と家臣の妻、というだけではない、何か特別な信頼関係を感じた」
「さすが、目のつけどころがいいね」
紀理は満足げに頷いた。
「佳乃さんの旦那さん、陶弘詮さんは、ただの重臣じゃないんだ」
「弘詮……聞き覚えがある名だな」
「うん。昔は当主代行を務めたこともあって、陶家の中でも古参の実力者。今は義興様から周防の留守居役を任されていて、家中をまとめる立場にある」
「その妻である佳乃さんが、母上と固く結びついている」
「そう。陶家が御台様を正式に支えているってことだね。昔ほどの勢いはないけど、今も武門の中心には違いない」
「佳乃さんも、弘詮さんが右田家から陶家に戻った時に苦労してる」
「右田家?記憶にないな」
「あー……そっちはね、話すとすごーく長くなる、陶家の複雑なご事情でね。一言で言うと、右田家が本家筋なのに、力関係がねじれちゃった、って感じかな。今はまだ、その程度で大丈夫。この話は、またいずれ必要になったら詳しく解説するよ」
「中々、面倒そうだな」
「うん。それよりも佳乃さんの事。人望が厚いし、彼女が『御台様こそが御殿の主』って示してくれた」
「そうか。今日のあの二人が手を取り合った場面は、強いメッセージだったんだな」
「うん、あれは静かだけど誰にも無視できない一手だったよ」
紀理の説明を聞きながら、俺は今日の宴の光景を反芻する。母上が浮かべた穏やかな笑みも、佳乃が見せた揺るぎない敬意も、すべてはこの乱世を生き抜くための、緻密に計算された「戦」だったのだ。父という絶対的な権威が不在の中、母上は佳乃という最強の味方を得て、この大内家の内側を守っている。
「……母上は、強いお方だ」
「うん。でも、だからこそ危ういんだよ」
紀理の声のトーンが、少しだけ真剣なものに変わる。
「お母様は、君という世継ぎの存在を盾に、御殿を治めている。でも、その盾がまだ、あまりにも小さくて脆い。君が成人するまで、あと十年以上。その間に何が起こるかわからないからね」
「俺が、強くならねばな」
声に出さず、心の中で呟く。今はまだ、母の腕に抱かれることしかできない無力な幼子だ。だが、この頭脳と、紀理という相棒がいる。
「今は、今日の光景を忘れないこと。誰が笑い、誰が頭を下げ、そして誰が嫉妬の目を向けたかをね。その全てが、君がこれから歩む盤上の駒の配置になる。あの姫君の視線は忘れないでね」
その言葉を最後に、紀理の姿と光のパネルが、ゆっくりと白い闇に溶けていく。
目を覚ますと、東向御殿は夜の静寂に包まれていた。どうやら宴のあと、まつゑに抱かれてここまで戻されたらしい。
寝所の片隅で母上がうたた寝をしている。近くには侍女が控え、灯明が静かに揺れていた。
その寝顔は、「御台様」の威厳を脱ぎ捨てた、ただ一人の優しい母親のものだった。俺は、小さな身体をもぞりと動かし、その顔をじっと見つめる。
そして、再び固く誓った。この人を、この人が守るすべてを、この手で守り抜く。盤上の駒がどう動こうと、決して揺るがぬ王になるために。
幼き日の誓いは、春の夜の闇に、静かに、しかし深く刻み込んでゆく。
現在は週1ペース金曜日での更新を予定しています。
裏で資料調べや構成を進めており、時代背景や物語に深みを持たせる準備中です。
執筆の裏話や進捗状況はNOTEにも書いていますので、
制作過程やChatGPTに興味がある方はぜひ覗いてみてください。
朗読版も用意しました。VOICEVOXで読み上げた音声を、Noteの記事内に埋め込んでいます。
https://note.com/miura_saemonjo/n/n1dbde4b0bb2b
※AIツール(ChatGPT等)を執筆の補助に使いながら、自分の構想をもとに書いています。AIの可能性などを模索し、比較などもしています。