(1510年)
永正七年 八月
風の音が、変わった。夏の盛りの熱を穏やかに払い落とすように、涼やかな気が御殿の
俺は今、
ふっくらとした小座布団に座らされ、
(――転ばぬための座り方が、俺の初陣だ)
「若様、御覧くださいませ。小四郎様のように、すっ、と」
視線の先には、兄代わりの
「千世、お身体が傾かぬよう、お支えして」
「は、はい!」
緊張の気で声が跳ねたのは、年若い侍女だった。俺が生まれて間もない頃、まだ慣れない手つきで俺の産着を取り替えていた娘だ。今やその手つきも随分と落ち着いている。
その千世が、俺の小さな背をそっと支える。俺は見様見真似で膝を立てるが、この幼子の身体は言うことを聞かない。ぐらりと景色が傾いて、千世の腕にふにゃりと倒れ込む。畳の青い匂いが近い。
「まあ、亀童丸。お上手でございます」
部屋の隅で扇を持つ母上が、口元を扇で隠しながらくすくすと笑った。その声には、拙い挑戦そのものを愛でる響きがある。
「若様、焦ってはなりませぬ。立ち上がる時は、息をひとつ置いて」
まつゑは俺の足首を軽く撫でる。
「息が先、形は後。形ばかり整えても、心が乱れては立膝の甲斐がございませぬ」
「……い、き」
俺は口の中で真似をする。母上は嬉しそうに目を細めた。
稽古が一区切りつくと、まつゑがふと、歌を口ずさんだ。
「――人はいさ 心も知らず ふるさとは」
百人一首、
「――花ぞ昔の 香ににほひける」
か細いが澄んだ声。空気が一瞬澄みきる。
「よう覚えておりましたね、千世」
まつゑは微笑み、小四郎に向き直る。
「紀貫之様のお歌。人の心は移ろうかもしれませぬが、故郷の花は昔と変わらぬ香りで咲く……。都では人の心が様々に移ろいましょうが、我らが守るべきはこの
(人の心も知らず、か……)
まさに今の京の状況そのものだ。昨日まで味方だった者が、明日には敵になる。そんな目まぐるしい「うつろい」の中で、父上は戦っている。そして俺たちが守るべきは、この変わらない花の香り。まつゑの言葉は、単なる教養ではなく、今を生きるための教えだった。
稽古が終わると、俺はそばに置いてあった玩具に手を伸ばした。以前、小四郎が作ってくれた、竹の輪に薄布を張った小さな太鼓だ。それを両手で持ち、ぽん、と叩く。ころん、と小石のような可愛い音がした。
小四郎が、それを見て少し照れたように目を伏せる。母上が笑い、千世が手を叩き、まつゑが目で小四郎を褒めた。この穏やかな音と光景こそ、俺が守るべき「変わらぬもの」。そのために、息を整え、立ち方を学ばねばならない。
その日の午後、母上の私室は、沈んだ静けさに包まれていた。俺は母上の膝の上で、細い筆の擦れる音を聞いていた。母上は陶弘詮殿の妻、佳乃から届いた書状を丹念に追っている。表向きは季節の挨拶と、在京の夫たちの息災を伝える穏やかな文。だが、ところどころに差し込まれた故事や言葉の影が、別の意味を射していた。
「……まつゑ。佳乃殿の文、どう思いますか」
書状から顔を上げた母上の声には、憂いが滲んでいた。
「は。お目通しいたします」
まつゑは恭しく書状を受け取ると、そこに記された文字の連なりに静かに目を走らせた。
――「都辺の風色、尋常ならず。
――「
――「
まつゑはしばし黙考したのち、静かに顔を上げた。
「
「ええ……ですが、気になるのはこの『名家』の一文です。きっとあの家がなにかを――」
「御台様、それ以上は……」
まつゑが、すっと鋭い視線を御簾の向こうに走らせてから、声を潜めて母上の言葉を制した。あまり見ない光景だ。まるで、この部屋のどこかに見えざる耳があることを警戒しているかのように。名家。その名は、この御殿の中ですら軽々しく口にできぬほどの何かを孕んでいるのか。
「御台様、お心を強くお持ちください」
まつゑの声は、穏やかだが芯があった。
「佳乃様が案じておられるのは、それを利用する者かと。御屋形様は、その『影』がどちらに伸びるか、じっと見極めておいでなのでしょう」
「……つまり、御屋形様は、ただ戦うだけでなく、
「御意。退くべき時を知るお方なればこそ、進むべき道も見誤りませぬ。我らは、この山口を盤石にして、御屋形様がお戻りになる場所をしっかりと守り抜くことこそが務め。佳乃様も、その覚悟でこの文を寄越されたのでしょう」
まつゑの言葉に、母上は扇を握った指を、そっと緩めた。俺は母上の衣の紐をきゅっと握る。そうだ。守るんだ。この人を、この館を。そのためには、もっと情報を、もっと力を。
夜の訪れとともに意識が深く沈んでいく。ふと気づけば、俺は懐かしい黄昏の公園に立っていた。錆びたブランコが長く影を落とし、空は記憶の中にある茜色に染まっている。その向こう、丘の上の木々の合間には、
「お疲れ様、よしたかくん」
その静寂を破って、聞き慣れた声が響く。振り返ると、
「今日のお稽古、派手に転んでたね。でも息が先、形は後、覚えたでしょ」
「うるさい。あれでよいのだ。必死にやる姿を見せることが、皆を安心させる」
「はいはい、ご立派ご立派。それで、佳乃さんからの手紙、ちゃんと読めた?」
「ああ。近江の苦戦、そして名家の影……。紀理、あの『名家』とはどこのことだ?母上もまつゑも、ひどく警戒していた」
紀理が夕暮れの神社を見上げ、少し考える仕草をする。
「うーん……難しい質問ね。私のデータにあるのは、あくまで公になった歴史だけ。そんな水面下の探り合いはわからないわ」
「そうか……」
「ただ、」
紀理は続ける。
「歴史の大きな流れで言えば、この先、よしたかくんは
「いや、違う」
俺は紀理の言葉を遮った。昼間の光景が脳裏に蘇る。母上の憂いを帯びた顔、まつゑの鋭い視線。
「未来の話じゃない。もっと身近で、根深い問題だ。あの警戒の仕方は、外部の敵というより、内部に繋がりがある相手に向けるものだ」
「内部に繋がりが……?」
「春の宴を思い出せ。姉上の、
俺の言葉に、紀理ははっとしたように目を見開いた。
「まさか!あの『名家』って、珠姫ちゃんのお母さんのご実家のこと?」
「ああ。母上とまつゑのあの警戒……記録にも噂にも残らぬ、水面下の探り合い。俺がこの場で感じ取った『空気』こそが答えだ」
「それで、ご実家はどこなの?」
「わからん」
「そう……」
紀理は息を呑み、そして深く頷いた。彼女の表情からいつもの軽やかさが消え、真剣な光が宿る。
「そうか。見えない敵は、すぐそばにいたんだね。だとしたら、父上……
彼女の言葉が、すとんと胸に落ちる。そうだ。父上が戦っているのは、武力だけが支配する世界ではない。
「今は、君の存在そのものが、お母様や館の人々を繋ぎとめる『変わらない花の香り』だよ。君が健やかに育っているという事実こそが、相手の動きに対する最大の牽制になる。だから焦らないで。君が立つべき時は、必ず来るから」
紀理はウィンクし、言葉をひとつ贈る。
『み風立ち 香は同じでも 色うつる
息たて直し 今を立ち上がれ』
「作:紀理。評価は厳しめでどーぞ」
「悪くない」
俺は笑いそうになるのをこらえた。昼間の稽古と、母上の不安げな顔が浮かぶ。
「俺は、明日もう一度やる。立膝も、息も。可愛い幼子を演じるだけでなく、それを土台にする。都の風がどう吹こうと、この館が揺るがぬように」
「うん。その意気」
目を開けると、闇は深く、虫の声は高く澄んでいた。布団の端に置いた
色は移る。だが、その中で、俺は息をひとつ――整える。
そして、立つ。明日も、その次も。守るべきもののために。
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裏で資料調べや構成を進めており、時代背景や物語に深みを持たせる準備中です。
執筆の裏話や進捗状況はNOTEにも書いていますので、
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※AIツール(ChatGPT等)を執筆の補助に使いながら、自分の構想をもとに書いています。AIの可能性などを模索し、比較などもしています。