(1510年)
永正七年八月
秋の気配が深まる夕暮れ時、
「――人はいさ 心も知らず ふるさとは」
以前、乳母のまつゑに教わっていた
俺は、彼女の隣にちょこんと座り、意を決して声をかけた。二歳の舌では、まだ思うように言葉が紡げない。
「ちよ。また、そのおうたか」
瞬間、千世の動きがぴたりと止まる。彼女の大きな瞳が、信じられないものを見るかのようにゆっくりと俺に向けられた。そこにあったのは驚きというより、
彼女ははっと息を呑むと、慌てて膝を折り、小さな声で。
「は、はい。まつゑ様に教わりました、紀貫之様のお歌にございます。なんでも、貫之様が
声はわずかに震えていた。必死の取り繕いが可笑しくて、思わずくすりと笑う。
感じ取ることに集中しすぎていたか。
これほど驚かれるとは、少しやり方を変える時かもしれない。
夜、うたたねの底で、水面の輪がひろがる音を聞いた。黒い
「よしたかくん、観察は順調だけど、そろそろ『言葉』っていう新しい武器も使ってみたら? 君の笑顔と言葉が合わされば、最強の外交になるよ」
「……わかってる。見る事と聞く事に集中していただけだ。お前の作戦どおりにな」
「あら、作戦のせいにするの? 二歳児が黙って周囲を観察してるだけでも不気味なのに、言葉まで忘れたら、ただの人形じゃない。少しは愛嬌も振りまかないとね」
紀理の
「若様、今宵は十五夜にございます」
母上は、先日届いた佳乃からの
京の情勢について、彼女たちが本家から何か聞かされているか、様子を探るためだ。
月光が庭を白く照らし、虫の音が涼やかに響く。
母上は、
「珠姫、お芳の方、ようおいでくださいました。」
母上の声は絹のように滑らかだが、どこか試す色を帯びる。膝の上から、じっと光景を見つめていた。
珠姫が現れた。数え六歳。菊の意匠が施された小袖をまとい、幼いながらも堂々とした歩み。背後にはお芳の方が寄り添い、彼女の背をそっと支える。珠姫の立ち居振る舞いには、京の公家らしい気品が漂う。
「
珠姫の挨拶は完璧だ。だが、声には春の宴で感じた棘がなく、代わりに寂しげな響きが混じる。
お芳の方の視線が、俺と母上を一瞬だけかすめ、すぐに珠姫に戻る。目に微かな嫉妬が揺らめくのを、俺は見逃さなかった。
(母上は、彼女たちの言葉の端々から、京の動きを探ろうとしている。)
母上は扇をゆったりと動かし、穏やかに言葉を返す。
「珠姫、月が美しい夜です。さ、こちらへおいでなさい。」
珠姫は小さく頷き、お芳の方に導かれて母上の近くに座る。侍女が団子を差し出すが、珠姫はちらりと見ただけで、視線を庭の萩へと戻す。
「珠姫、お団子をいただいては?」
お芳の方の声は優しいが、珠姫は小さく首を振る。仕草には、子供らしいわがままと、どこか深い孤独が滲む。
(姉上……この御殿で、誰とも心を通わせられずにいるのか。)
俺の胸に、春の宴では感じなかった疼きが生まれた。彼女はただの「姫」ではない。父を遠くに持ち、実母を失い、養母に守られながらも、たった一人でこの場に立っている。
母上は、珠姫の沈黙を静かに見つめ、そっと口を開く。
「珠姫、京の
問いは、柔らかく、しかし鋭い。珠姫は一瞬目を伏せ、お芳の方が代わりに答える。
「
お芳の方の声は丁寧だが、どこか言葉を測るような慎重さがある。母上の扇が一瞬止まり、彼女の瞳が細まる。
「そうですか。
母上の言葉は、まるで水面に石を投じるように、静かに波紋を広がってゆく。
お芳の方は小さく息を呑み、珠姫の手をそっと握る。
「
曖昧な答え。だが、曖昧さこそ「名家の影」の手がかり。俺は、母上の指が扇を握る力をわずかに強めるのを見逃さなかった。
(母上は、珠姫の本家が何かを隠していると疑っている。だが、姉上自身は、何も知らない……。)
宴の空気が、月の光の下で一瞬だけ締まる。侍女たちの衣擦れの音がやみ、まつゑの視線が鋭くお芳の方を捉えた。
その時、俺は動いた。母上の膝からそっと降り、たどたどしい足取りで団子の皿に近づく。
一番小さな団子をつまむと、侍女たちの「まあ」という声の中、珠姫の前まで歩ゆく。
「……これ」
そう言って、彼女に団子を差し出す。
これは、世継ぎからの施しではない。弟から姉への、ささやかな贈り物だ。
珠姫は驚いたように目を見開き、俺の顔と団子を何度か見つめる。お芳の方が「珠姫」と止めようとするが、俺は真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
やがて、珠姫は小さく頷き、そっと手を伸ばして団子を受け取る。小さな指が、わずかに震えていた。
「……ありがたう。」
かすかな声が月光に溶ける。口元がほんの少し綻び、春の宴の硬さは跡形もない。
かすかな声が、月の光に溶ける。口元がほんの少し綻ぶ。その笑顔は、春の宴の硬い表情とはまるで別物だった。
にぱっと笑ってみせる。計算ではない、心からの笑顔。珠姫は一瞬戸惑い、目を伏せた。横顔は柔らかく、月光を浴びてほのかに輝く。
母上は静かに光景を見守り、扇で口元を隠す。だが、瞳には、俺と珠姫への慈しみと、なお消えぬ警戒が混じる。
「珠姫、亀童丸。仲良くしてね」
母上の声は優しいが、奥には、姉弟の絆が大内家の未来を左右するとの覚悟が宿る。
宴が終わり、珠姫とお芳の方が下がると、母上はまつゑにそっと耳打ちする。
「まつゑ、佳乃殿に書状を。珠姫の様子を伝え、京の動きをさらに探っていただきたい」
「かしこまりました」
まつゑの声は低く、鋭い。俺は、母上の膝の上で、彼女の手のひらの冷たさを感じながら、固く誓った。
この夜を境に、俺が守るべきものは、また一つ増えて重なる。母と大内家、そして孤独な姉。歴史の知識や戦略とは関係のない、俺自身の誓いだった。
夢の世界で、紀理が現れる。白銀の髪が月光のように揺れ、彼女は静かに微笑む。
「よしたかくん、珠姫ちゃんのあの笑顔、見たよね? あれ、君が引き出したものだよ」
「ただの、寂しがりな姉だった」
紀理は頷き、スマホの画面に、珠姫が団子を受け取る一瞬を映す
「歴史には、彼女の名も心なんて書かれてない。でも、君が隣にいるから、彼女は『珠姫』になる。君の誓い、私がちゃんと記録するよ。」
「ああ。姉上は名もなき姫ではない。珠姫という、ただ一人の姉だ」
言葉は、俺の中で確かな光となった。名もなき駒から珠姫という名を少しずつ
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※AIツール(ChatGPT等)を執筆の補助に使いながら、自分の構想をもとに書いています。AIの可能性などを模索し、比較などもしています。