(1511年5月)
春の陽光が、庭の若葉をきらきらと照らしている。
俺は縁側に座り、千世が広げてくれた
不意に、背後から母上とまつゑの足音がした。
「亀童丸、大事なお話があります」
振り返ると、母上は常と変わらぬ穏やかな笑み。ただ、隣に立つまつゑの表情が、いつもよりわずかに硬い。何か、重要な話だ。
母上は俺の隣に腰を下ろし、静かな声で告げた。
「近々、
陶弘詮。先日会った新三郎の祖父で、母上が文を交わす佳乃殿の夫。父上が最も信頼を置き、この山口の館の
「弘詮殿は、
そこまで言った時、母上の声が僅かに揺らぎ、表情にふっと影が差したのを俺は見逃さなかった。
(……陶家、か。名を耳にした途端の、母上のこの僅かな
歴史の知識が、目の前の母の心の痛みを、一つの可能性として俺に示していた。
母上の変化を、まつゑが見逃すはずもない。すかさず一歩進み出て、言葉を引き取った。
「弘詮様は、若様にとって、いずれ誰よりも頼もしき後ろ盾となられるお方にござります。ご安心あそばせ」
力強く、言い聞かせる調子。その言葉は俺だけでなく、母上ご自身の胸にも向けられているように聞こえた。
母の奥に隠した哀しみと、まつゑの
いつの間にか二人は、単なる主従を越え、一つの目的を共有する者の空気を纏っていた。
来るべき男の顔を、俺はまだ知らない。だが、その名が母上の心に落とした影の濃さだけは、はっきりと感じ取ることができた。
あの日を境に、館の奥向きの空気は日に日に張り詰めていく。まつゑが侍女たちへ小声で
他県の知事が来庁するのに似ているか。いや、それ以上に肌を刺す静けさが、この時代の
そして、来訪の当日を迎えた。
やがて、陶弘詮が姿を現した。年の功を感じさせる落ち着いた
「
母上へ向けられる口上は、どこまでも丁寧で隙がない。挨拶を終えると、弘詮は俺に向き直り、深々と
「若君様におかれましても、ご機嫌麗しく、
(やはり、ただの老臣ではないな……)
会話の合間に、弘詮がふと笑みを浮かべた。
「孫の新三郎も、先日は若君様より大層良いお刺激をいただいたと喜んでおりました」
弘詮の口から、新三郎の名が滑り出る。今日は連れてきていないようだが、あの純朴な孫すら、この男は懐に入れた駒の一つとして、躊躇なく使うのだろう。
挨拶が一段落すると、
「これは、土岐頼忠公の手になると伝わる
広げられた
(赤い房はなし。本物か?)
なぜか前世の記憶が、目の前の名画の
弘詮の探るように注視するのを感じていた。やがて、孫に語りかけるような穏やかな声が響いた。
「若様。この鷹、いかがでございますか」
母上やまつゑが固唾をのんでいる。
俺は、絵から目を離さぬまま、静かに、そしてはっきりと答えた。
「このたかも、まだとんでおらぬ。いまは、ただ、そらをみているだけじゃ」
言葉が放たれた瞬間、弘詮がまとっていた穏やかな空気が、ふっと消えた。その気配の変化を感じ取り、鷹図から弘詮へと視線を移す。
彼の瞳の奥の光が、僅かに揺らいでいた。 俺の言葉が、この男の心の芯に届いた証拠だ。
値踏みされているだけでは終われない。この男の器の底を、今度は俺が測る番だ。弘詮を、さらに真っ直ぐに見据えた。
部屋の静寂を破り、俺はあえて舌足らずな子供の口調で、しかし明確な意志を込めて問いを放った。
「そなたは、このやまぐちに……どのようなえをかく」
弘詮の老練な仮面が一瞬、剥がれ目が細まり、口元に微かな
針が落ちる音さえ聞こえそうな沈黙が、数瞬。
弘詮ははっと我に返った。だが、眼光はもはや俺には向けられていない。彼の目は、母上もこの部屋をも通り越し、主君の権威を象徴する、山口
「大内家の当主たるべき場所」へ、これまでで最も深く、
平伏のまま、弘詮は厳かに口を開いた。
「……恐れながら。それがしは絵を描く者にあらず。御屋形様が描かれる
見事な答えだ。
俺、個人への
弘詮はゆっくりと顔を上げると、型通りに退出の挨拶を述べ、静かに立ち上がる。そして去り際に、一度だけ、俺の方を振り返った。
いずれ筆を握るのが、俺になるという事実を、この男は嫌でも意識したはずだ。
この腹の探り合いは、まだ始まったばかりだ。
陶弘詮が退出した後、座敷には静かな余韻が漂っていた。部屋には母上と俺、そしてまつゑだけが残り、
春の陽光が
母上は俺を抱き上げ、そっと頬を寄せる。長く艶やかな黒髪が、ふわりと頬をかすめた。掌の温もりに、幼子らしく身じろぎし、笑みを浮かべる。
だが心の奥では、弘詮の深い眼差しを反芻していた。
(あの男の言葉は、忠誠を装った試練。だが、こちらの一言もまた、心に一石を投じた。これは互いの器を測る第一歩……)
母上が静かに口を開く。
「亀童丸、あなたの言葉は、まるで鷹の眼差しでした。あの絵のように、遠くを見通す力。弘詮殿も、きっと驚かれたことでしょう」
声には、母としての誇りと、息子のあまりに早熟な才への微かな
まつゑが控えめに進み出て、母上に囁く。
「御台様、弘詮殿が献上された鷹の絵。あれも若様の御心を試すためのものかと存じましたが、若様のお答えは、見事に意図の上をゆかれたご様子」
母上は扇で口元を隠し、静かに頷く。
「ええ、まつゑ。ですが、陶家の目は、なお我々を見据えている。この子の未来を盤石なものにするには、もっと多くの手を借りねばなりませぬ」
その言葉に、俺は心の中で強く誓う。母上を、大内家を、そしてこの時代に息づく人々を守るために。弘詮のような老練を味方につけ、筆を握る力を自らの手に。
やがて夜が来る。いつものように夢の気配を待った。だが、紀理はすぐには現れない。
しかし不思議と、焦りはなかった。この静寂は、紀理が俺を試しているのではなく、俺が俺自身の力でこの一歩を踏み出したことを、静かに認めてくれている証のように思えた。
闇の中で目を閉じる。耳に残るのは、弘詮の低い声と、鷹図の鋭い眼差し。胸に宿るのは、母上の温もりと、守るべき未来への覚悟。
明日の朝、また一歩、前へ。
この小さな体で、戦国の世を切り拓くために。
現在は週1ペース金曜日での更新を予定しています。
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※AIツール(ChatGPT等)を執筆の補助に使いながら、自分の構想をもとに書いています。AIの可能性などを模索し、比較などもしています。