(1507年12月)
「よう育っておいでです。お父様も、きっとこの成長をご覧になれば……」
そう呟くその瞳には、時折、深い悲しみの
この人を守らねばならない。その想いが、日増しに強くなっていく。だが、この小さな体では、母の涙を拭うことすらできない。もどかしい想いを胸に抱いたまま、赤子の身体は抗いがたい眠りへと誘われていく。
次に目を開けた時、俺は懐かしい場所に立っていた。そこは、かつて俺が勤めていた県庁の、片隅にある資料室だった。窓の外は、見慣れたはずの山口の街並みが、まるで水彩画のように淡く滲んでいる。
書架には、分厚いファイルや古びた
「今夜も無事に来られたね、よしたかくん」
「ああ……。ここは、なんだか落ち着くな。もう、夢と現実の境目が曖昧になってきた」
微笑み合う。眠っている体はまだ赤子のままだが、この空間では、精神は明確に目覚めている。
「さっそく始めようか。初期の作戦、つまり赤子期間にできることの再確認からだね」
紀理が指先で机の上をなぞると、そこに一枚の大きな和紙が広がるようにして、
「ここは山口、東向御殿。父君の
「母上を取り巻く環境の把握が急務、ということだな」
「うん。それと同時に、
紀理の声はやわらかく、今や俺の参謀とも呼べる存在だ。
「泣くことすら、戦略か。面白いな」
「そうよ。たとえば、御殿に気難しい重臣が見舞いに来た時は、じっと静かにする。その人物に向けて、ふと微笑んでみせる。それだけで『聡明な
「なるほど……。赤子という、誰からも警戒されない立場を利用するわけか」
紀理はくすりと笑った。
「そう。赤子という存在は、周囲から見れば『無垢』で『無力』なもの。だからこそ、君がどれほど意図を持って行動しても、それに気づく者はまずいない。この時期こそが、誰にも悟られずに、自由に未来への布石を打てる唯一の機会なのよ」
「つまり、無意識を装って、意志を示せ、と」
「そういうこと。それと、もうひとつ大事なことがあるわ」
紀理の目が、真剣な光を帯びる。 彼女が机の上の見取り図にそっと手をかざすと、それは日本地図へと姿を変えた。
「これから君の行く末に深く関わるであろう、いくつかの『芽』が、この地図の上にはある。いずれ必ず、君と彼らが向き合わなければならない時が来るわ」
紀理は、特定の場所を指し示すことはしなかった。ただ、地図全体を眺めながら、静かに続ける。
「その時、君が持つ現代の知識だけでは、きっと足りない。歴史書や資料では分からない、その場の『空気』や、人の心の『熱』みたいなもの。そういうものを、実際に感じて、読み解く力が必要になる」
「では、この赤子の期間に、俺は何を磨いておくべきだ?」
「磨くべきは、『観察する目』。そして、人の心に働きかける
彼女の言葉は、すとんと胸に落ちた。知識だけではない。この時代の人間として、五感で世界を捉え直すことの重要性。
「じゃあ、次の作戦会議までに、御殿の中の『声なき声』を集めてみて。たとえば、誰が誰より近くにいるか。誰にだけ丁寧な言葉を使うか。そういう些細なことから、力関係や忠誠の度合いが見えてくるはずよ」
「分かった。この小さな体で許される精一杯の観察をしよう。ただ見るだけでなく、その意味を心で読み取る。それが、この時代での第一歩だ」
「うん。よしたかくんの『見る力』を信じているよ」
資料室の風景が光に溶け、紀理は最後に微笑んで消える。
霜の降りた庭に朝日が差し込み、東向御殿の
耳を澄ます。遠くで、侍女たちが小声で交わす会話の断片が聞こえる。まだ言葉の意味は掴めないが、その声の調子に、昨日の残り香のような楽しげな響きと、今日の仕事へ向かう緊張感が混じっているのを感じる。
鼻をかすめるのは、母上の着物に焚きしめられた香の匂いと、乳母のまつゑが持つ、薬草のような清潔な匂い。そして、
ぼやけた視界の隅で、何かが動いた。
(声なき声……か)
それは、言葉だけではない。視線、匂い、音、気配。この御殿を満たす、あらゆる情報。 俺は、この小さな体で、その全てを受け止めようと、五感を研ぎ澄ませた。
無言の策略は、もう始まっている。
現在は週1ペース金曜日での更新を予定しています。
裏で資料調べや構成を進めており、時代背景や物語に深みを持たせる準備中です。
執筆の裏話や進捗状況はNOTEにも書いていますので、
制作過程やChatGPTに興味がある方はぜひ覗いてみてください。
朗読版も用意しました。VOICEVOXで読み上げた音声を、Noteの記事内に埋め込んでいます。
https://note.com/miura_saemonjo/n/n1dbde4b0bb2b
※AIツール(ChatGPT)を執筆の補助に使いながら、自分の構想をもとに書いています。AIの可能性などを模索し、比較などもしています。