終戦、八十年。
黙祷。

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秘封倶楽部のいちばん長い日

 

「眠いわ……」

「そうね……」

 

 夏の盛りの午前九時。秘封倶楽部のふたりはひとつ屋根の下で放心状態だった。

 

「なんだってこんなにやる気が出ないのかしら?」

「いや、メリー、それはあんたが言うべき台詞じゃないでしょうよ」

「あっ……ごめん」

「うん、まあ私だってそうだからいいんだけどね。結界暴きと睡眠とどっちが大事かって言ったら、間違いなく前者だし」

「優先順位が狂ってるわ……立派な依存症ね」

「だから、それは貴女にだけは言われたくなくってよ!」

 

 一週間ほど前から、ふたりだけのサークル活動は妙に忙しさを増していた。あちらこちらで結界の綻びが生じているのだ。それを見つけるのはいつもマエリベリー・ハーン(メリー)の仕事で、宇佐見蓮子(れんこ)にできるのはといえば天を仰いで現在何時何分と告げることぐらいなのだった。そしてその値がなんであろうと、一度結界を見たメリーは取り憑かれたようにその中へ向かっていくのである。

 

「よっぽど、宇宙標準時で計時してやろうかと思ったわよ」

「いやー、正直、そうなっても大して問題ないかもしれないわね」

「はぁ……まったくもう」

 

 徹夜明けの曖昧な感覚のまま、綿菓子のような会話を繰り返す。休日の微睡みのような幸福に浸っていたふたりは、そのうちほんとうに眠くなってきた。

 

「あーー……いけないわね、眠たい。」

「寝てもいいわよ?というか、そのために来たんでしょうに」

「いや、眠たいけど、寝付けないような感じがして」

「あちゃあ、お茶のみすぎたかしらね……私もあんまり寝る気にはならないわ」

 

 さすがになんの対策もなく深夜に向こう側へゆくのは危険極まりないため、最近の二人はまるで古の夜勤看護師が如き生活習慣にシフトしている。夜遅くまで活動し、昼間に寝て、それでも恒常性(ホメオスタシス)の必死の抵抗で閉じようとする瞼を紅茶緑茶で拭い去り……という具合に。

 古来より、睡眠時は身体を覆う結界が弱まり、物の怪の侵入を拒めなくなる、という経験則がある。普通のオカルトサークルとは一線を画す活動ばかりしているふたりだからこそ、神隠しの危険性は人一倍承知していた。もっとも、その結果昼間は完全無防備になってしまうのだが、メリーの家ならまぁ大丈夫だろうと蓮子は考えている。

 

「にしても、どうしてこんなことになってるのかしら?」

「こんなことって、破綻が毎日見つかってること?」

「そうよ。お盆とはいえ、いつもはこんなひどくないはずなんだけど」

 

 いかに国内有数の大学に籍を置くふたりといえども、理外の現象への考察は手探りで進めざるをえない。なぜこんなにも結界の綻びが見つかるのか、首を傾げるばかりだった。

 

「んー……わからないわね」

「でしょうね、徹夜明けの頭で考えたって思いつくわけもないわ」

「そうよね、早く寝たほうがいいわね、……いやできるんだったらとっくにそうしてるわよ!」

「あっはは、メリーってばほんと……たのしいわ」

「まったくもう、私は別に関西出身じゃあないんだから、こんなノリツッコミなんてしても恥ずかしいだけなのに……」

「いいんじゃない、馴染んできてるってことで」

「そもそもこういう文化をやるなら京都じゃなくて大坂でしょう!」

「ま、それはそうね」

 

 とんとんと会話が弾む。平和な日常を謳歌するというのはこんなにもたのしいのか、と柄にもなくふたりは幸せがっていた。いや、結界の中は平和でもなんでもないので、ほんとうに謳歌できているかはかなり怪しいものだったが。

 

 やがて眠気が回ってきて、ふたりはともに夢の中(むこうがわ)の世界へと旅立った。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 入眠してすぐ、ふたりはそれに気がついた。

 

『……深く、……と、……とに鑑み、……を以て、……』

 

 とぎれとぎれにしか聴こえない、だれかの声。意識が曖昧なのだろう、そう思って自己の輪郭に思考を及ばし、向こう側での存在を確かめる。同じ部屋で寝たのに別々の場所に飛ばされるなんてことはしょっちゅうだが、今回は運良くふたりで来られたようだ。

 

『……、他国の主権を排し、領土を侵すが如きは、固より朕が志に非ず』

 

「ねぇ、なにかしら、これ」

 

 メリーの指差す先には、棒の飛び出た四角い箱。音はそこから、激しい雑音を伴って流れているようだった。

 

「……ラジオ?」

「それはまぁ、私もそうだろうと思ってたところよ。じゃなくて、この声。誰なのかしら……」

 

 太古の文語体で語られるその文章は、少し聴いただけでもただの放送ではないとわかる。

 

『……終始、東亜の解放に協力せる、諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず……』

 

「なにかの、謝罪文?あるいは言い訳?」

「いや、そんな軽いものには思えないけれど……」

「だいいち、文語が放送で実用されてた時代なんてあったのかしら?」

 

『されども朕は、時運の赴くところ、堪え難きを……堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す』

 

「うーん……」

 

 肩をすくめてお手上げのジェスチャーをするふたり。そこへ、

 

「知らんのか?」

 

 唐突に呼びかける声があった。が、聞き取りづらいラジオ放送に注意を向けているせいで、ふたりとも気づけない。

 

「知らん、のか……」

 

 ようやく気づいた蓮子が振り返ると、一人の男が立っていた。制服に身を包んだ、物々しい格好の男だ。腰に吊られているそれは……日本刀、だろうか。

 頰を紅潮させて、激情を抑えているのがひと目でわかる。しかし蓮子は、その持ち前の知的好奇心を抑えきれずに、つい問いかけてしまった。

 

 

「……どなた、ですか?」

 

「知らんのか、と訊いておる!」

「わっ……!」

 

 ふたりは絶句した。抜き身の白刃が、蓮子の鼻先に向けられている。たまらず叫ぼうとしたが声が出ない。剣の切っ先にはそれほどの気迫が込められていた。

 

「やめて……やめてください!!」

 

 声を上げたのはむしろメリーのほうだった。なんならとうの蓮子よりも顔を真っ青にしている。

 

(だめ……蓮子が……蓮子がいなくなったら、私は……)

 

「…………」

 

 メリーの慌てように驚いたのか、男は出していた殺気と刃とを収めて、表情をゆるめた。

 

「すまない……つい殺気立ってしまった。こいつには最期を託しとったもんでな……」

「ああ、いえ、だい……じょうぶです。」

「そうか、よかった。」

「いや、こちらこそ……それで、すみませんが、あなたはいったい……」

 

「それを話す前にひとつ、もういちど訊いておきたいんだが……本当に何も知らんのか?この放送のことを」

 

「……ごめんなさい、寡聞なもので……」

「そうか……いや本当にすまない、何も知らないお嬢さん方に向かって刃を向けていたわけか……さすがに耄碌したかね、河を渡って久しいからな……」

 

 思ったより話の通じる人のようだ。メリーは思いきって一歩踏み出してみることにした。

 

「あの、わたし、マエリベリー・ハーンと申します。こっちは……」

「え、?あ、はい、宇佐見蓮子です」

「おぉすまんな、そっちから名乗ってもらうとは……

 俺は阿南惟幾、そうだな、阿南(あなみ)、と呼んでくれ。」

「あ、それなら、私のことは宇佐見って呼んでください。こっちはメリーで」

「ああ、わかった。」

 

「蓮子、よくそんなフレンドリーに話せるわね」

「ふふ、こういうのは得意なのよ」

 

「宇佐見君に、メリー君、きみらはいったいどうしてこんなところにやってきたんだ。どうも見ていて、彼岸の人間のようには思えんぞ」

 

 ふたりは顔を見合わせた。どうしてもなにも、自分でも理由がよくわかっていないのだ。

 

「ええと、私たち、京都で学生をやっているんですけど、そこのメリーがちょっと普通とは違って、この世とあの世の境目が見えちゃったり、こうやって夢の中で別のところに迷い込んじゃったりするんです。私はメリーと一緒になってその不思議を調べてます」

「なるほどな、どうりでなにも知らないわけだ……」

「あの、純粋に気になっているんですけど、これはいったい、なんなんですか?」

「そうだな、それを説明するなら、ちょっとした歴史の授業をやらねばならん。君らが学校で大東亜戦争……今は東亜太平洋戦争だったか。ともかくそれをどれくらい習ったのか、にもよるが」

 

「東亜太平洋戦争、って、何だったかしら」

「たしか、アメリカと戦争したんじゃなかったかしら? 千年前くらいに。それと中国とも戦争したって聞いたような気がするわ」

 

「そうか……。ならばことの始まり、満州事変から始めよう」

 

 

 


 

『拓け満州の大沃野』

 

 威勢のいいフォントで表示された大文字とともに、三人は荒野のただ中で浮かんでいた。

 

「今にして思えば石原(あやつ)も、愚かなことをしたもんだと思うがな。あのときはみんな信念を持ってやっていたんだ」

 

 眼下には開拓に励む日本人たちの姿が見える。

「ここは、日本……じゃないですよね。」

「満洲だ。吉林省だったかな」

「吉林、というと、中国の東北ってところですか」

「そうだ。

 もう何百年も前の話だがな……日本が大日本帝国と名乗っていたときのことだ。不景気に行き詰った我が国は、満蒙、つまり志那の……いやいまは中国か、とにかくこの東北に活路を求めたのだ。軍隊が動いてここら一帯を占領し、日本の植民地とした。昭和6年のことだ。」

 

「昭和……それって、日中戦争、ですか、歴史の授業で名前だけは聞いたような気がします」

「あぁ、そうなるのか……

 ややこしい話なんだがな。ほんとうに日中が戦争をはじめたのはもっとあとのことだ。それまでに中国でも日本でも紆余曲折があったんだが」

「あ、たしか、五・一五事件だとか、二・二六事件だとか、でしたっけ?」

 

「え、蓮子案外その辺詳しいのね」

「いやまぁ、名前だけよ、何があったのかはさっぱり……」

 

「……」

 

 その単語を聞いた途端、阿南大将は眉をひそめて目を瞑った。

 


 

 昭和11年2月26日、しんしんと雪の降る帝都東京。

 

『いいか、貴様ら。これは軍にとって、非常に悪いことだ。

 五・一五のときもそうだったが、いまの世の中にはどうも斯様な叛逆が仕方のないものと考えておる輩が多いようにみえる。

 だが光輝ある皇軍の行いとして、こんなことは絶対に許されてはならん!』

 

 阿南は、半ば激昂しつつ生徒たちへ訓話していた。

 

「このときの阿南さんは、さっきと同じような感じだったのね」

「あぁ、そうだ。尤もこれはさっきと違って確固たる信念をもって説教しておるのだが……」

「いったい、何があったんですか」

「言ったとおりだ。若い軍人らが蹶起した。国のため、民のため、政府を根本から変えるのだ、とか言って叛乱を起こそうとしたわけだ。

 それだけならまだいいんだが、問題は他の軍人だとか国民だとかが叛乱軍に同情的だったということだ。」

「それって……さっき仰っていた、不景気のせいなんですか」

「なんだ、話が早いな。最近は本当に、女子でも男子より頭の回るようなのが増えとるんだな、素晴らしいことだ……

 そう、全くそのとおり、世の中全体が不景気でふさぎ込んでおったからな、なにかこれを打ち壊してくれるようなものを求めておったのだろう。

 だからといって、無法の許されていいわけはないがな。」

 

『軍人勅諭にはなんと書いてあるか。「政治ニ拘ラス」である!

 農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとするものは、まず軍服を脱げ!

 しかる後ならば何をしてもよろしい。だが、陛下の赤子としてこの皇軍に身を置く以上、その御顔に泥を塗るような真似は決して許されんのだ!』

 

 痛切な演説が講堂に響く。生徒でもない蓮子とメリーまで、恩師から叱られているような気分で訓話を聴いていた。

 

「あとにもさきにもこれほどに怒ったことはなかったな……。

 なにせ、陛下から直接お言葉を賜るまで、解決するかも怪しかったのだ。」

「えっ陛下って……天皇陛下のことですか?」

「そうだ。昭和の御代にはまだ陛下がさまざまな大権を持っておられた。しかし陛下は、それを重荷として心を悩ませておったから、なるべく信頼できる臣下に任せて、いずれは大権を手放そうと苦心されておったのだ。

 その結果がこれだ……まったく不甲斐ないにも程がある。聞くところによると陛下のご聖断がなければ、陸軍と海軍が東京で戦をやっておったかもしれんというではないか」

「そんな……」

 

『叛乱軍将校は軍人として許されない誤りを犯したが、彼らにもただひとつ救われる道がある。己の非を悟り切腹して陛下に詫びることだ!』

 

 もはや訓話というよりも悲痛な叫びであった。

 

「いったいこの軍は、この国はどうなってしまうのかと、このときはそればかり考えておった」

「……あの……」

「どうした」

「いや……こんなひどい状況から、いったい日本はなんとかなったのですか?

 もう、どうしようもないような……」

 呟くようなその質問を受けて、阿南はふたたび目を瞑った。

 

「あのねえ、メリー、日本はこのあと戦争に負けるのよ。たしか日中戦争を終わらせられなくて、アメリカにも手を出したらこてんぱんにされたって、歴史で習ったでしょう」

「ごめんなさい、近代史はまともに勉強してなかったから……」

 

「宇佐見君、そしてメリー君、といったか」

「は、はい」

 

 ふと見ると、阿南大将は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。

 

「たしかになんともならなかった。大日本帝国は負けて亡び、奇跡的に日本国として生まれ変った。

 しかしだ。負けても再興できたのはただの奇跡ではない。実際、負け方によっては、一歩間違えれば日本という国が消えてなくなっていたかもしれんのだ。」

「は……そんな、そんなこと……」

 

 蓮子はわからない。いわんやメリーも。

 二千年代も今は昔、日本はこの緩やかに廃れゆく世界にて一、二を争うような地位を獲得していた。「強い日本」にネイティブとして生きる彼女らには、遠い過去に亡国の危機があったと言われても、すぐには納得できない。

 本来なら歴史教育がそのギャップを埋めるのであろう。しかし時代の変化とともに、歴史の捉え方、教え方も変わっていた。戦争を、悲劇ではなく系統誤差として捉え、ひとまずその大域的な原因だけを考える姿勢。別に蓮子やメリーはそのやり方が嫌いではなかった。それが現代の標準だからだ。

 

「見てもらったほうが早いだろうな。歴史で教えられておるなら、だいたいの流れは掴んどるのだろう。

 このあと中国本土に侵攻したわが帝国は、広すぎる大陸に攻めあぐねて国家総動員まで始める。もはや完全に軍人が政治を動かしておったのだ。それで、アメリカが中国の支援を続けとるのが悪いという話になってだな。しかもあちらさんから、中国と戦争するなら石油の輸出を止める、などと言ってきおった。もうこちらもあちらも戦うしかなくなってしまったのだ……」

「そっか、まだ石油が重要な資源だった時代なんですね。」

「あぁ、そうだ。それにイギリス・オランダも加わってくず鉄やらゴムやらの物資の貿易も軒並み止まってしまったから、中国で戦争を続けようと思ったら、必然米英蘭とも戦わねばならんということになってしまったわけだな。

 そして当然、我が国は負けた。この時代、アメリカと日本の国力の差は天と地ほどのものだったのだ。それこそ百倍はあると言われていた。それでもはじめのうちは、大和魂といえばいいのか、とにかく先制の勢いであわよくば勝てるかもしれないところまで頑張ったのだがな。畢竟、わが国には短期決着も長期持久も、不可能だったのだ。」

「ミッドウェーとガダルカナルで負けたのがまずかった、と聞いたことはあります。

 けれど、そもそも、百倍の強国を相手に戦争を仕掛けるなんて……この合理主義、科学主義の国日本が、どうしてそんな非合理的な過ちを犯してしまったのですか」

「合理主義の日本、か……すごい話だ。あの頃はむしろ、精神で以て米英に勝つ、とか言っておったぞ。」

「精神で……メリー!出番よ」

「いや、そういう話じゃないでしょう……精神論と相対性精神学を一緒にしないでくれないかしら」

「あはは……

 でも、そうして精神論を叫んでたってことは、まともに戦ったら勝てないということは、当時の為政者もわかっていたはずですよね」

「そうだ。それでも戦うしかなかった。どうしてそうなったのかは、諸説あるようで俺にもよくわからん。われわれ軍人のなかに、戦争を望む者が多かったせいだ、というのが通説らしい。だが聞くところでは、君らのような普通の国民のなかにも、戦争を望んでおったのは多くいたようだ。だからこれはもう、時代の流れ、とでも言うべきものだったのかもしれん。」

「そうだったんですか?

 そんな勝ち目のない戦争、仕掛けるだけ無駄だって、少し考えればわかりそうなのに」

「いまはそうだろうが、あの頃はそれがわからない、わかるだけの教育が受けられていない者も多かったということだ。」

「あぁ、そう言われると……20世紀のはじめにはまだ日本人が一億人いた、って話は知ってます」

「そうね、しかもさっき言ってたでしょう、不景気のせいで中国に攻め入ったって。きっともう引くに引けなくなっていたんじゃないかしら」

「まさにそのとおりだ。中国との戦争をやめれば、百倍不利の戦争などせずとも良かった。だが軍と国民の不満を押し切ってそれを決断することは、陛下にすらできなかったのだ。

 もはや開戦より他になし、となったとき、陛下は誰よりも心を痛めておられたに違いない。あのお方は平和を尊び争いを厭う、まさに聖人のような君主であった。そのはずが戦争の最高責任をとるお方になられてしまうのだから、なんと悲運というべきか、いやしかしやはり軍の責任は重い……」

「……昭和の時代の天皇陛下も心優しいお方だったのですね」

「そうだ。もう遠い昔の話だから言ってもいいだろう、俺は……中国に転任するときに、陛下御自ら御送別を賜ったのだ。松花堂弁当を陛下の召し上がる横でともにいただくことができて……すまない、歳をとると涙もろくていかんな」

「天皇陛下とお二人で……!?」

 

 このときにまでにふたりは、自分が只者ではない人物と話していることを悟っていたが、さすがにこれには驚かずにいられなかった。

 

「阿南さん……貴方はいったい、どんなお方なのですか……?」

 

 畏敬の念を込めてメリーは尋ねた。

 

「俺は……そうだな。たしか誰かが言っていた……

 帝国陸軍の葬儀人、と」

 

 

 


 

 

 戦局が絶望的となった昭和19年の末、阿南は任地のオランダ領東インドから内地への異動を命じられた。

 

『若者多数を失い、生きて再び皇土を踏むの面目無しと迄覚悟した身』

 

 血の滲むような筆致で、日記へと記す。

 

「はっきり言って帰りたくはなかった。統帥の乱れのせいもあるが、俺の指揮のもとで数多くの若者が(あた)ら命を散らしていったのだ……それだけでなく戦死もできずに無念の餓死や病死を遂げたものも多かった。

 こんな指揮官が生きて帰ってよいはずがないだろう?」

「……そうかもしれません。ですが、まだできることがあるのに死を以て責任を取ろうとするのは、逃げでもあります」

「ちょ、メリー……!」

 

 急に言葉を強めたメリーに、蓮子は慌てふためいたが、阿南大将はむしろ我が意を得たりというように破顔した。

 

「そのとおりだ、よく分かっておるな。俺も常々、信念として『死ぬことだけでは義務を果たしたことにはならない、生きていられるだけ生きて戦力になれ』というのを部下にも言っておったからな、帰還命令を断るわけにはいかなかった。

 そして、陛下の信任があったからなんだろう、帰ってきたからには陸軍大臣をやれ、と方々(ほうぼう)から言われた。さすがに参ったよ、敗軍の将が大臣をやるなどありえない。だが……そうだな、本当にメリー君の言うとおりだ。生きて帰ったからには、できることをやらねばならんと思ったのだろう。4ヶ月後に大命を受けた鈴木首相から直々にお願いされたときは、断る気も起きなかった。陛下が望んでいるはずの終戦、そのための内閣であれば、大臣として惜しみなく仕えよう、とな。

 しかしこれは、まさに針の筵だった」

 

 


 

 

 かつて陸海軍が戦火を交えかけた帝都は、いま文字通りの火の海と化していた。

 

「ひっ……!」

 

 その惨状を間近に見て、ふたりは息を止めた。

 

『おかあさん、おかあさん……!』

 

 眼の前で母親が火だるまとなって泣き叫ぶ幼子。

 

『あつい……あつい……みず……』

 

 肌が焼けただれ、水を求めて川へ飛び込む若者。

 

『おのれ……鬼畜米英……!!

 絶対に許さん……!!』

 

 血走った眼で仇を求め、上空を睨みつける少年少女。

 

「なに……これ……」

 

 ふたりはこの東京に実在として居るわけではないはずなのに、灼けるような熱さと、身震いするような恐怖とを感じていた。

 

「こんな……これが……」

「きちくべいえい、って、アメリカと、イギリスのことかしら……

 鬼畜、米英……文字通りね……」

 

 なにか当時の国民に似た敵愾心を生じさせる、秘封倶楽部のふたり。

 

「鬼畜米英、か……」

 

 対してひとり、阿南は曖昧な目で遠くを見つめていた。

 

「たしかにそのとおりだが、われわれもまた中国では日本鬼子と呼ばれていた。

 これほど徹底的ではないが、わが軍も中国の都市に対して似たような爆撃をしていたのだ。

 彼らなら、良い鬼が悪い鬼を退治している、と見るかもしれないな……」

「そんな……そんなわけないじゃないですか!!

 この街に住む人たちが、こんな小さなこどもたちが、いったい何をしたって言うんですか!!」

 

 慟哭するような声色で叫ぶメリー。それでも阿南は、口を真一文字に結んで答えた。

 

「それが戦争だ。だからこそ、こんなものはあってはならないし、終わらせなくてはならんのだ……陛下の御心もそこにあったに違いない。」

 

 だが、と続ける。

 

「陛下の御心がそこにあっても、陸軍の意思はそうではなかった。

 あ奴らは、……いや我々は、最後まで徹底的に抗戦するつもりだったのだ。そうまでは言わずとも、このまま降伏すれば陛下の身が危うい、日本という国がなくなるかもしれない、というのがたいていの陸軍軍人の心情だった。」

「そんな……じゃあどうしようもないじゃないですか……」

「だから針の筵と言ったのだよ。つまり俺は、終戦への道筋をつけつつ、抗戦を唱える陸軍とどうにかして折り合いをつけていかねばならんかった。

 はじめのうちは俺も、本土決戦で敵に出血を強いれば、国体を護持して講和することができるはずだと思っていたがな。ほかでもない陛下が、それはならん、との意向を示されたのだ」

 

 

 


 

 

『つまり、陛下のご懸念として、本土決戦は危険である、と?』

『そのとおりです。陛下はおそらく、陸軍のみなさんのように本土決戦に希望をみてはおられない。むしろ本土決戦がために国体護持が危うくなると見ておられる』

『しかし――恐れ多くも陛下は陸軍の戦力を過小に見積もっておられるのではあるまいか。本土決戦を戦って一撃を加えるだけの力は残っているはずだが……』

『それが残っていないということを、梅津参謀総長は大陸戦線で見てきたのです。しかも米軍の空襲、あれを防げないことには本土決戦に用意した戦力もすべて焼き払われてしまうでしょう。』

 

『……』

 

『もはや事態は切迫しております。少なくとも陛下はそう考えていらっしゃる――ここに至っては陛下の御聖断をお願い申し上げ、終戦の方向へ持ってゆくほかありません。』

『そうか……』

『阿南大臣の立場は承知しております。しかし……』

『……わかった。陛下の御直断があれば、なんとかなるかも知れない。』

『では、阿南大臣は和平の方針へ賛同いただけるということでよろしいのですね。』

『ああ、自分は和平に賛成する。陸軍全体も、自分が責任を持って抑える』

『ありがとうございます……

 たいへんなお仕事になると思いますが、どうかご武運を。』

 

 こうして阿南は、天皇の望む和平と、陸軍の望む交戦との板挟みに遭いつつも、終戦に向けた工作へ取り組んでいくこととなった。

 

「もし阿南さんが賛成しなかったら、どうなっていたんでしょう」

「わからん。終わらなかったのかも知れないし、もっと早く終わったのかもしれない。

 いや、早く終わるというのは厳しいか。俺は大臣として、いや臣下として、陛下のためにできる限りのことはしたつもりだ。賛成しないというのは陛下の御意志に背くということになる。そんな状態で終戦などできるはずがない」

「なるほど……」

 

 メリーは思った。この人は素晴らしい人だ。けれど、この人がそこまで慕う「陛下」とは、いったいどんな人だったのだろうか。会うことは叶わずとも、いちど声くらいは聴いてみたい。

 

「ほんとうに、このときの天皇陛下は素晴らしいお方だったのですね」

「ああ、そうだ、わかってくれるかメリー君!

 わたしは、陛下があらせられたからこそ、戦争を終わらせることができたのだと、いまでも思っているよ。」

 

 

 


 

 

 だかしかし、陸軍全体の意思という大きな壁を前に、阿南は天皇の意志に背くような発言を繰り返さざるを得なかった。

 抗戦派の不満を抑えられずに大臣を下ろされて内閣が倒れてしまえば、いよいよ終戦は絶望的となる。発言としては真逆であっても必ず陛下の望む終戦へと繋がると信じ、降伏拒否の姿勢を貫いたのだ。

 とくに象徴的なのは“日本への降伏要求の最終宣言(ポツダム宣言)”への対応協議における一幕である。宣言受諾という方向性においては閣内である程度の一致をみていたものの、阿南が

『政府として発表する以上は、断固これに対抗する意見を添え、国民が動揺することのないよう、この宣言をどう考えるかの方向性を示すべきである。』

 と主張したために話がまとまらず、最終的に鈴木首相は記者会見にて

『共同声明はカイロ会談の焼き直しと思う。政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺(reject)し、我々は戦争完遂に邁進する』

 との発言に至った。

 

「このときのことはほんとうに後悔している……広島、満州、長崎の同胞にはいくら詫びても詫び足りない。」

「……というと、どういうことですか」

「そうか、いまどきは原爆の話もあまりせんのか……

 一言で言えば、爆弾一発で都市が灰燼に帰したのだ」

 

 その言葉を、メリーはすぐには信じられなかった。

 

「は…………!?

 爆弾、一発で……?」

「そうだ。場所を変えようか……」

 

 

 そういって数瞬、三人は都市の上空へと移動していた――

 

 

「……えっ、これって……」

 

 ――否、都市()()()()()の上空であった。

 

 一面に広がる焼け野原と、瓦礫、廃墟、そして屍体。

 

「八月七日、原爆投下から一日後の、広島市街だ。」

「そんな……噓でしょう」

「嘘のような、本当の話だ。アメリカはそれほどまでに強大な科学力を持っていたのだ……もっとも噂では、日本も似たような兵器を研究はしていたようだがな。」

 

 衝撃が大きかったのか、メリーは目を点にしたままどこか遠くを見つめている。一方の蓮子は、科学史の授業のうっすらとした記憶を必死に思い返していた。

 

「聞いた……気がします。核融合発電の技術は爆弾から生まれた、というような……

 原爆、というのは、もしかして原子爆弾のことですか」

「原子爆弾、そうだったな正式にはそんな名前だ。科学のことは俺はよく分からんが」

「大学に帰ったらちゃんと調べてみますがたぶん、重水反応か軽水反応か、いやそれより前だから弱崩壊による熱放出かな……」

「おう、さっぱりわからんが、なるほどそういう原理の話はいまもするんだな。……だが爆発自体よりも、もっと恐ろしいものがあったらしい。

 聞くところによると、無事に被爆を生き延びたものも、原因不明の病に体を侵されて、一人また一人と亡くなっていったそうだ……原爆症というものだと。」

 

 それは、現代ではもう存在しない病……ではなかった。

 

「原因不明……核反応に伴う……まさか、急性放射線障害!?」

「なんて、惨い爆弾……」

 

もはや、目の前に広がるものを、その先に続く長い長い悲劇を直視できず、両手で顔を覆うメリー。

 

「もちろん、原子爆弾を投下したアメリカは絶対に許されてはならない。それは間違いのないことだ。

 だがしかし、俺が、俺があのとき余計なことを言わなければこんな……言葉にできない惨状はなかったのかもしれない。」

「いや、それは……こんなものを見せつけられてしまったから、降伏やむなし、ということになったのではないのですか?」

「……当時は通信網も交通網も壊滅していたからな。陸軍の大半はこの惨状を知らない。俺だって、ここまでひどいことになっておったのを知ったのは河岸を変えてからだ」

「そんな……」

「ついでにいうと、宣言受諾を決定づけたのはむしろソビエト連邦の参戦のほうだ。曲がりなりにも中立条約を結んでいた相手だったからな、少なくない衝撃があったのだろう。

 もっとも、それで散っていった満州の同胞が報われるかといえば、そんなはずはないが……」

 

目の前の地獄絵図を見つめながら、焦点をぼかし、山一つ、さらに海一つ向こうを透かし見る阿南。

 

「あ……まさか、一番最初に見た、あの人たちは……」

 

荒野を開拓する日本人たちの姿が、メリーの脳裏へいやに鮮明によぎる。

 

「本土ですらここまでやられているんだ。むろん外地にもわが陸軍は展開していたが、ドイツを下してその勢いのまま攻め込んできたソ連軍に、なすすべもなかった……」

 

三人は、自然と瞑目していた。

 

 

 


 

 

 

 そして八月九日、ポツダム宣言の受諾に関する最高戦争指導会議が開かれる。争点は「国体護持」の一条件のみによる宣言受諾か、日本自身による戦争犯罪の処分など三条件を加えたうえでの受諾か、というところだった。ここでも阿南は陸軍の意志を代弁する立場を取る。

 

『戦局は五分五分であって、負けとはみていない。』

『いや、たしかに局所局所では勝っているかも知れないが、ブーケンビル、サイパン、レイテ、ルソン、硫黄島、沖縄、みな負けているでは無いか』

『それらはみな海軍の戦いだ、戦争では負けていない!陸海軍で感覚が違っている。』

『勝つ見込みがあるなら構わないが……』

『とにかく国体護持が危険である。条件付きであってこそ国体が護持できるのであって、手足がもがれてはなにも守れないではないか』

 

 会議は丸一日を通して行われたが結局決着はつかず、翌十日未明、天皇の出席する御前会議となっても、阿南の立場は変わらなかった。

 

『本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて一億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか』

 

 しかし、そんな極論に意味のないことは、阿南も分かっていた。なにより陛下の前で、陛下の意志に背くような発言を繰り返すのは、あまりにも忍びないことであった。

 外務大臣と海軍大臣、および枢密院議長が終戦やむなしとの立場を取り、一通り意見の出揃った午前二時、鈴木首相は決定的な言葉を口にする。

 

『意見の対立のある以上、甚だ恐れ多いことながら、私が陛下の思し召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います』

 

『――それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である。』

 

 “御聖断”が、示された。

 

 

 

 

 閉会後、陸軍省の吉積軍務局長がなかば怒り心頭に鈴木首相へ詰め寄った。

 

『総理、この決定で良いのですか、約束が違うではないですか!』

 

 しかし、

 

『吉積、もうよい!』

 

「……阿南さん」

 

 蓮子はおもわず呟いていた。間に割って入った陸軍大臣の姿に、メリーも目を丸くしている。

 

『御聖断は下ったのだ。あとは承詔必謹と心得よ!

 これ以上の妄動は陛下への叛逆となる』

『……大将……

 解りました、承ります。』

 

 陛下の意志を明確に知った阿南の意志は、鉄よりも固かった。

 

「本当に、辛い立場にいらっしゃったんですね……」

「あぁ、だが俺はこの内閣に入れて良かったと思っているよ。この内閣なくして終戦はなかった。そのためならこの身一つぐらい、安いもんだ」

 

 同じことを阿南は、陸軍大学同期の安井国務大臣にも言っていた。

 

『自分はどんなことがあっても鈴木内閣と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う』

 

 


 

 

 しかし阿南は、陛下の意志に背いた発言だけでなく、陛下のためを思って、終戦の方向から外れた発言をすることもあった。

 というのも、国体護持条件による受諾、に対する連合軍の回答は「天皇は連合軍最高司令官に従属(subject)する」というものであったのだ。いちどは確定したと思われた終戦が危うくなり、再び議論は紛糾した。

 

『ソ連は不信の国である。アメリカは非人道の国である。保証なく皇室を任せることは絶対にならん!』

 

 だがこれについて、阿南は天皇から直々に諭されることとなる。

 

『あなん、もうよい。』

『陛下――』

『心配するな、朕には確証がある。』

 

 

「――これを拝聴したとき、ああ、この人はまさしく日本の君主なのだ、と心の底から思ったよ」

 

「阿南さん……」

 

 もう蓮子もメリーも、まともにことばを口にできなくなっていた。阿南惟幾陸軍大将、この人の生き様のあまりの壮絶さ、そしてそこに垣間見える優しさ、それらに圧倒されていた。

 

「このあと、すこし暇があったから実家に帰って、家族とゆっくりやろうとしたんだがな、やれポツダム宣言に反対しろだとか、軍事政権を樹立しろだとか、うるさい奴が多くてろくに一家団欒もできなんだ。まったく軍人とは辛いもんだと、心底思ったよ」

 

 阿南は愛妻家で、子煩悩でもあった。大陸戦線で次男を喪って以来、その遺品を常に身に侍らせていた。

 

(こんな優しいひとが、亡国の危機のために身を磨り潰すような仕事をすることになるなんて……)

 

 メリーはもはやいたたまれなくなって尋ねた。

 

「あの、これでうまくいったんですよね……?

 天皇陛下から直々に言われて、みんなおとなしくなったんですよね?」

 

「あぁ……最後の聖断は下った。いや正確にはこのあと、十三日の最高戦争指導会議で改めて天皇からの御聖断を仰いだのだが」

 

 


 

『このままの条件での受諾はよろしくありません。これでは国体の護持は覚束なく、是非とも敵側に再照会をかけるべきと具申いたします』

 

 もはや大勢は宣言受諾に傾き、反対は陸軍大臣以下三名のみとなった御前会議にて、阿南は力なく意見を述べた。

 

『では、陛下の御聖断を賜りたく存じます。』

 

 鈴木貫太郎首相が、重々しい声で天皇の意見を仰ぐ。

 そしてとうとう、明確な聖断が下された。

 

『外に別段の意見がなければ私の考えを述べましょう。

 私は、これまで通り宣言受諾を是とするに相違ありません。

 はっきり言って連合国側は我々に対し、たんなる敗戦国への待遇以上の好意的な態度をもって接してきています。これを考えれば、むろん陸海軍の将兵には堪え難いことであるのは痛いほど分かっていますが、わが身がいかになろうとも一刻も早く万民の命を助けるべきと思います。

 明治の大帝が三国干渉の折に感じたであろうお気持ちをしのび奉り、臥薪嘗胆を胸に、ここはどうか、恥をこらえて終戦を受け入れていただきたい。

 もし国民へ何らかの呼びかけをするのがよいということであれば、私はいつでもマイクの前に立ちます』

 

 

 阿南は泣いていた。ほかの大勢も涙していた。わがこと終われり――そんな呟きが聞こえたような気がした。

 

「これで、終わったんですね。」

「あぁ、そうだ。終戦の詔勅を陛下の玉音で以て全国民に伝える、ということも一致した。」

「あ……もしかして、一番最初にあったラジオは……」

 

メリーは気が付いた。さっき声を聴いてみたいなどと考えていたが、とっくに聴いていたのではないか。

 

「察しが良いな、そのとおりあれは玉音放送だ。まあ、だからあとは承詔必謹あるのみ、となるはずだったのだがな……。

 陸軍のとくに青年将校たちはとても、詔を承りて必ず謹む、などとは考えなかった。」

「そんな……いや、そっか、そうですよね、負けているつもりがないんですから。

 でも、それじゃあいったいどうやって戦争を終わらせることができたんですか?」

「なに、簡単なことだよ。俺が自決すれば、すべて丸く収まる。」

 

「自決……」

 

 その単語の意味がしばらく理解出来なかった。

 

「まさか阿南さん、身一つくらい安いもんだ、って、ほんとうに……」

「あぁ、実際こうでもしなければ、陸軍は納得しないだろうし、それに玉音放送を聞くのは、忍びなかったからな。

 もっとも、彼岸にわたってからは、たまに拝聴してはあのときを思い出しているのだが」

「……じゃあ、さっきはそれで、ラジオを聴いているところにお邪魔してしまったということですか」

「そういうことになるのか。それで俺もつい気が高ぶってしまったのだろうな。すまない。」

「いえ、とんでもないです、私たちの方こそほんとうにごめんなさい」

「いいんだとも、いや本当に、君たちはよくできた学生だな。陸軍の若い連中にもこれぐらいの礼節があれば、あんな事件も起こらなかったのかも知れないな……」

 

 

 

 

 

『かくなる上はクーデターより外にないのであります!

 阿南大将、どうかご同意を!!』

 

 御聖断の後、阿南は昼食を取る間もなく、義弟でもある竹下正彦中佐から翻意を迫られていた。

 どう答えるかなど、はじめから明らかだった。

 

『竹下よ、最後の御聖断が下ったのだ。悪あがきはするな。軍人たるもの、聖断に従うほかはない。』

『では……!』

『言っておくが、ぼくが辞職したところで終戦は確定的だよ。』

『――失礼ながら、大臣の決心変更の理由をお伺いしたく存じます』

『陛下はな、この阿南に対して、お前の気持ちはよく分かる、苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して申されたのだ。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張することなどできなかった。』

『……』

『とにかく御聖断は下ったのである。今はそれに従うばかりである。不服のものは()()()()()()()()()()!』

 

 阿南は陸軍首脳会議後の訓示でも似たようなことを言って将校らを諫めた。

 

『君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん』

 

 

 

「阿南さん……」

「これでおおかたの仕事は終わったわけだ。まあ、終戦詔書の内容に一言二言口を挟みはしたがな。」

「……」

 

 

『鈴木首相。終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかり申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと思い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助けするつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としては甚だ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点は何とぞご了解いただきますようお願いいたします。』

 

 詔勅へ署名した後、阿南は総理大臣室を訪れて、本心からの謝罪を首相に伝えていた。

 

『阿南さん、あなたの気持ちはわたくしがいちばんよく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました。

 今上陛下はご歴代稀な、祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明の加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません。』

『わたくしもそう信じております。』

 

 

『……』

 

 

 すべてが溶け合ったような沈黙の後、阿南は脇に抱えていた新聞紙の包みを手に取り、言った。

 

『これは南方第一線から届けられた葉巻です。私はたしなみませんので、総理に吸っていただきたく持参しました。』

 

 机にそれを置くと、短く敬礼して静かに退出していった。

 

『首相……阿南さんは……』

『……阿南君は(いとま)()いに来たんだね』

『……』

 

 隣で話を聞いていた迫水書記官長は、目を潤ませて阿南の去って行った扉を見つめていた。

 

 

「あぁ……」

「……」

 

蓮子とメリーも、天を仰いでこぼれないようにするのが精一杯だった。

 

 


 

 

 八月十五日、深夜一時。

 陸軍大臣官邸を訪れる者の姿があった。

 

『貴様、今さら、なにしに来たか!

 

 ……いや、いい、よく来てくれた』

 

 阿南の訓示の甲斐なく実行に移されたクーデター計画(宮城事件)の首班から、説得の依頼を受けてやってきた竹下中佐であった。

 

 湯上がりの上裸姿で二枚の半紙へ何かを書いている義兄の姿を見て、中佐は全てを察した。しかしそれでも、阿南の表情はいつもと変わらず穏やかであった。

 

(あにき、ちっとも変わらぬ)

 

 さきほどまでの蹶起の興奮は冷めてゆき、中佐は答えた。

 

『お止めはしません。時期としては今夜か明晩あたりと思っておりました』

『それならいい。かえって良いところに来てくれた』

 

 そう言って中空に掲げられた半紙を見て、蓮子とメリーは息を呑んだ。

 

 

 

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

 昭和二十年八月十四日夜

 陸軍大臣 阿南惟幾

神州不滅ヲ確信シツヽ

 

 

 

「阿南さん……」

 

 もう一枚の半紙には辞世の句が書かれていた。

 

「……あぁ、懐かしいな。これはさっき話したが、陛下から御送別を賜ったときに詠んだ句だ」

「ほんとうに、あなたは、陛下に仕えて、生きて、死んだ、のですね」

「そうだ。あの陛下に仕えることができたのだから、遺すような言葉などありはしない、そうだろう?」

「……」

 

 阿南と竹下は酒をあけ、水入らずの語り合いとなった。母親の没後ずっと断酒していた阿南にとって、末期の酒はあまりにも美味だった。

 そこに、蹶起部隊から連絡のためやってきた井田中佐が現れ、目を伏せがちに宮城事件の次第を告げた。

 

『大将、いままで黙っておりまして申し訳ございません、畑中と椎崎とが主導して近衛が蹶起しました。森師団長を……斬ってしまいました。時間がなかった、と……』

『そうか……森師団長を斬ったのか。お詫びの意味を込めて私は死ぬよ。』

『わたくしも、あとからお供いたします』

 

 とたんに、阿南は目の色を変えて頬を引っ叩き、

 

『なにをバカなことをいうか!!

 おれひとり、死ねば良いのだ。いいか、死んではならんぞ!』

 

 その声には、はじめ蓮子とメリーに一喝したとき以上の気魄が込められていた。

 

『……思えば竹下、貴様が終戦阻止を頼んできたとき、できないなら腹を切れ、とか言っておったな』

『は、その節は、申し訳……』

『いや良いんだ。あのときにはもうそんなことはとっくに覚悟しておったからな。

 自惚れじゃないんだがな、おれが死ねば、陸軍は収まる。そんな確信があるよ。だから君たちが余計に死ぬようなことはならん。苦しいだろうが生き残って、日本の再建に努力してくれたまえ』

『あにき……』

 

ふたりの中佐はもはや、涙をこらえるほかになにもできなかった。

 

『いやぁ、六十歳の生涯、顧みて満足だった。惟茂はお父さんに叱られてかわいそうだが、この前帰ったとき、風呂に入れて洗ってやったんでよくわかったろう。皆と同じように可愛がっていると伝えてくれ。そうだな……綾子には、お前の心境に対して信頼している、感謝して死んでいくから、と言ってくれないか。』

『はっ……しかと、承りました』

『ありがとう……

 さて、』

 

 末子や夫人への遺言をのこした阿南は、おもむろに席をたち、戻ってくると白いシャツを身につけていた。

 

『これは陛下から拝領したもので、お上が肌につけておられたものだ。これを着て自分は逝こうと思う。武人としてこの上ない名誉だよ……

 そうだな、あとは、惟晟と一緒なら満足だ』

 

 そう言って次男の遺影も傍らに置いた。

 

『おい、君らはもう下がれ。一晩付き合って貰ってすまなかったな、ありがとう。』

『い、いえ、最後までお供を』

『いいから下がれと言っておる。死にゆく武士の頼みと思ってきいてくれんか』

『……』

 

 竹下と井田はなにも言えず、ただ無言で最敬礼をして立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 


 

 腹からこぼれる熱に、どうしても呻き声が漏れる。

 苦しい。痛い。これが散っていった皆の気持なのか。

 

『あにき、あにき! 介錯を……』

 

 なにやら義弟が叫んでいるのが聞こえる。余計なことをするな、陛下に捧げたこの命、最後の決着は自らつけたい。

 

「……無用、……あっちに行け!」

 

 必死に言葉を絞り出す。そろそろ手足が覚束なくなってきた。早く、とどめを。頸動脈を探り、短刀を当てる。

 

(大君の深き恵みに浴みし身は――)

 

 ひと思いに、切っ先を押し込んだ。

 

(言ひ遺こすへき片言もなし)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 三人は再び、ラジオの前に立っていた。

 

『……汝臣民の衷情も朕能く此を知る。

 然れども朕は、時運の赴くところ、堪え難きを……堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す』

 

「わかってくれたか……陛下のこのお言葉の重みが」

 

 ふたりはこたえなかった。こたえられなかった。ゆきばのない感情が、目からあふれてこぼれ落ちていた。

 

「ごめんなさい……なにも知らないでいて……こんな大切なことを知らないまま生きていて……ごめんなさい」

 

「おう、やめんか、頭を上げてくれ……謝ることではない。

 ただ……、そうだな」

 

 そういって、阿南は顔をあげ、ふたりに背を向けた。なにかをこらえているようにも見えた。

 

「ほんとうによかったよ。君たちのように賢いお嬢さんたちが、この戦のことを知らんままにならずに済んで……

 これで、俺もわざわざ腹を割って話した甲斐があるというものだ。ま、陸軍の奴らには君らよりこの戦のことをわかっとらんやつも多かったんだがな。文字通り()()()()()、陛下の御意志を話してやったわけだよ」

 

「……阿南さん……」

 

 その大きく頼もしい背中は、屈折に歪む視界のなかでひどく小さく見えた。

 

「……さて、俺はそろそろお暇させてもらう。久しぶりにこんな長々と話したもんだから疲れてしまったな」

 

「ごめんなさい、本当にありがとうございました……!」

 

「ありがとう、ございました……」

 

「いや、きみたちこそわざわざこんな老いぼれの話を熱心に聴いてくれて本当にありがとう。君らの前途に天の佑けがあることを祈っているよ。

 もしよかったら、君らの友人にも、この話をしてやってくれ。それが俺にとって、陛下にとって、そしてあの戦で散っていったすべての人にとっての、一番の望みだと思う。

 では、またいつか、君らがこっちに来たときにでも会おう。それまで自決なんてするんじゃないぞ!」

 

 笑顔を向けて去っていくその姿を、蓮子とメリーは、なにか熱いものが身体から流れ出していくような感覚に襲われながら、いつまでも見つめていた。

 


 

 

 

 ほどなくして二人は目覚めた。

 

「おはよう……。」

 

「おはよう、メリー。まだ夜だけどね。」

 

「夜って、何日かしら」

 

「八月十五日。」

 

「そっか、今日なのね……」

 

 メリーは思った。阿南大将のような人々が必死で守り抜いたこの日本という結界の中で、自分たちは終戦の日を、平和を謳歌しながら終えようとしている。

 別に悪いことではない。一般人にはそれが当たり前だろう。しかし、封じられた境界を暴く、がモットーの秘封倶楽部で、終戦という境界をないがしろにする……はたしてそれでよいのだろうか。

 

「もしかしたらいままでの境界のゆるみは、これに関連していたのかも知れないわね。」

「そうね、日本にとっての、境目だものね。」

「あるいは古典的にみれば、地震、飢饉、それとも戦争の予兆だったりするのかもしれないわ。」

「……なにか、私たちにできることって、ないのかしら」

 

 災害は忘れた頃にやってくる。それに天災と人災の区別などないのだ。

 

「ねぇ、メリー。」

 

「なにかしら?」

 

 だが、ひとの一生にとってはあまりに長いスパンで起こる災禍であっても、それを伝えていく手段を人類は持っている。

 

「こんどの博物誌の内容なんだけど……」

 

「あぁ、なるほど。書くしかないわね」

 

 次の執筆テーマが、決まった。

 

 




この小説は東方Project(秘封倶楽部)の二次創作であり、またいかなる人物、団体、国家、歴史とも無関係です。
演出の都合上発言の時系列を意図的にずらしたところもありますので、あくまでもフィクションとして受け取っていただければ幸いです。

(ぶっちゃけほとんどウィキペディアのパクリです ごめんなさい)

中学三年の折、原作(いちばん長い日)を授業で見せてくれた国語の先生に感謝します。



※この小説はかぼちゃ(星降寒南瓜(セイオロサムなんきん)京都秘封茶会会誌『酉京都夢幻通信』22号に寄稿したものです

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