※ジュナ→ぐだ♀前提 ぐだ子の強制売春、中絶、DV・性的虐待表現有 家庭環境のよろしくないJKぐだ子がとある出逢いを経たのちのこと ガールズバーで勤務しており、そこに「いくらか年上」のインドラ(子持ち大企業CEO、40代)がやってきて──
▼R-15タグつけてるのは「小学生には読ませられないし中学生にはしんどい、高校生からはいけるかな?」という意図です
▼ぐだ子の源氏名の由来:立香は六花とも書けるので、それで「ユキ」(テレプシコーラ参考)
▼書いてるうちに「なんでアルジュナは好きな子の窮状がわからなかった?」って思いましたが、インドラパパに愛されて経済面でも苦労しなかったであろうアルジュナに、不幸な子の窮状なんてわからないよなぁ……「育ちの違い」は確かにある
pixivより転載


1 / 1
【現パロインぐだ♀】蓮の花

 父に言われた。

「お前は愛嬌を振る舞うぐらいしかできないんだから、それで稼いで来いよ」

 母に言われた。

「あんた、産んでやったんだから将来私たちを養いなさいね」

 それに、いつも沈黙で答えている。

 

 高校2年生の夏。立香は落ち込んでいた。

 外面だけは良い母に、三者面談で「この子は高卒で十分で言ってるんですよぉ」とありもしないことを言われたのだ。

 担任の教師は「そうなのか?」と目配せしてくれ、立香は目線で否定した。そしてそれでも担任は、口では「そうですか。では就職を?」と母親に尋ねる。

「この子は風俗に就職させるつもりで」

 担任が呆気にとられた様子で、──それでも、立香が親と学校の許可を取りガールズバーで働いていることを知っている彼は、「それは避けた方がよろしいかと」と小さく抵抗する。

 途端、母親は激高した。

「子どもの進路を親が決めて何が悪いんですか!」

 母親は、彼女の夫よりも恫喝の上手い女だった。

 

 母親はさっさと帰った。立香は、担任の教師に宥められる。

「先生は応援しているよ。大学受験したかったらいつでも相談して」

 それは、彼女にとって何の救いもない言葉だった。

 皆、聞こえの良いことを言って来る。けれど、彼女をあの親から救い出そうとする人間はひとりとしていなかった。

 立香は、正しい助けの求め方を知らない子どもだった。

 それでも、彼女なりに懸命に生きていたのだ。いつか両親を捨てる──その覚悟が整わなかっただけで。

 立香は、ぼんやりと敷地内のベンチに腰かけていた。

 蝉の声がする。気温と湿度が高い。今日も35℃に達するだろう。自分で使える金銭が収入より遥かに低い手取り──奪っていくのは両親だ──のため、スポーツドリンクを買うのも躊躇われた。水で我慢する。水は安くていい。

 からからに乾いた身体。からからに涸れた涙腺。これ以上どうしていいか、立香は暑さにもよって思考力を奪われていた。

「おい」

 ──不意に、声がかけられる。大人の男の美声だな、などと思いながら声のした方を向く。

 そこに、今は座っているとは言え、たとえ立っていても首を傷めかねないほどに見上げる背丈の男性がいた。

 その白髪に碧眼の男性は、仕立ての良いスーツを着ていた。何が入っているのか、高そうな鞄も持っている。2~30代ほどだろうか。黒い肌に、この暑いのに汗ひとつ掻いた様子もない。熱中症にならないだろうか、それにしてもどこかで見たような……と己のことを棚に放り上げてぽかんと見上げていると、彼は言った。

「おい、娘。2年C組の教室はどこだ」

「えっと、東棟の2階の……」

「面倒だ、案内しろ」

「はぁ」

 そう言われ、立香は素直に立ち上がった。なんとなく逆らえない雰囲気を感じさせる男性であるし、立香はただ純粋に人の役に立つことが好きだった。

若く見えるが、恐らく誰かの保護者なのだろう。しかし2年C組は立香のクラスである。国際化が進んだ昨今の日本、肌の浅黒い者は同級生に何人もいる。さて、誰の保護者なのだろう。立香は頭を動かしつつ、謎の男性を教室へと導いた。

「ここです」

「ふむ」

「それじゃあ、私はこれで」

「あぁ待て」

 そう言って、彼は鞄からそれらを取り出す。

 まだキンキンに冷えているスポーツドリンクのペットボトルと、塩タブレットだった。きょとんと目を瞬く立香に、彼は笑った。

「この酷暑、水だけでは凌げんだろう」

「い、頂けません。それはあなたの」

「オレはこのあとすぐそこの自販機やコンビニで買えばいい話だ。案内してくれた礼だ。受け取れ。安心しろ、どちらも未開封だ」

 そう言われ、それ以上拒める立香ではなかった。これ以上拒絶しても礼を失するだろう。彼女は、それらを受け取った。

「……有難うございます」

「礼は良い。あまり夏の間外にいると身体を壊すからな、早々に涼しいところに行くといい」

 そう言って、彼は教室に人並み外れた長躯を屈め入って行った。

 しばらく呆けていた彼女だったが、はたと腕時計を見る。

 「バイト先」に出なければならない。

 そこは彼女にとってつらくて、それでも優しい人がいる場所だった。

 

「あら、ちゃんとポカリ飲んでるのね。偉いわね」

 「バイト先」の休憩室でスポーツドリンクを飲んでいた立香に、マタ・ハリが声をかける。彼女はこの店の店長だ。器量としては高級クラブのママとしても申し分のないのだが、彼女はこの店から離れようとしなかった。

 ここはガールズバー「サンシャイン」。藤丸立香は源氏名を「ユキ」として働いていた。昔読んだ漫画を参考にしている。「ユキ」は愛想が良く、愛嬌を振りまいてはやって来る客の財布から金を搾り取っていた。

 それでも、彼女はいつも痩せていた。

 マタ・ハリはいつでも優しかった。立香が入店したての高校1年のときの失敗も、笑って許してくれた。恐らく、同情からだと立香は認識している。

 マタ・ハリには立香の事情を話している。そうでないと勤務を許さなかったからだ。

 そんな彼女に、愛おしいものを見る目で言われる。

「塩タブレットもあるのね。お金に余裕ができたの?」

「いいえ。親切な人に頂いたんです」

「それはよかった……。変なものは入ってないわよね?」

「多分大丈夫です。最初に一口飲んでしばらく経ちましたけど大丈夫だったので」

「んも~自分のことになるとガバ判定になるんだから。いい、ユキちゃん。お客から勧められたものを飲み食いしちゃダメよ。その人とどこで会ったの?」

 マタ・ハリに問われて、立香は答える。

「学校でです。ウチのクラスの誰かの保護者の、メチャクチャ背の高い男の人でした」

「あぁ、保護者。まぁ、それならある程度信用してもよさそうだけど……」

 それでもなお心配そうにするマタ・ハリに、立香は微笑んだ。

 母ですら、ここまで心配はしてくれない。周囲は言わずもがなだ。

 立香が、己がただの一般的な女子高生で、親も「まとも」だと思われていたかったのだ。

 ──学校に許可をもらってのこととはいえ、実質上の風俗に働いていることも、できれば知られたくなかった。

「さて、そろそろ時間ね。ユキちゃん、準備できる?」

「──はい、大丈夫です」

 立香は笑顔を浮かべた。それは自慢の、「愛嬌のある笑顔」だった。

 

「アルジュナ。お前、赤毛をサイドテールにした、金色の眼の女生徒を知らんか」

「立香ですか? 校内ではその特徴は彼女ですね。同級生ですが……彼女が何か?」

「立香。立香か。苗字は?」

 立香に片想いをしていたアルジュナ。この時点で、彼は父親に3馬身ほど追い抜かれることになる。

 

***

 

 その男性がその通りを歩くと、あまりにも衆目を集めた。

 白髪に黒肌、規格外に身長の高い男。片耳にはピアス。サングラスをかけていたが、顔立ちが整っていることは簡単に看取できた。

 そこは所謂風俗店がある通りだったが、彼がホストだと思う者はいなかった。女を煽てるにはあまりに媚が見当たらない。恐らく客だろうと思われたが、どう見ても高級クラブに行きそうな質の良さがあった。

 しかし、彼が入ったのは──ガールズバー。

 

 立香は驚いた。学校で会った推定誰かの保護者の男性が自分の勤務している店に入ってきたからだ。以前会ったときはサングラスをかけていなかったが、これはわかる。これだけの大男はそうそういない。

 しかし、ただの偶然だろう。彼女の父も母もキャバクラやホストに入れあげて立香の財布から金を持っていくので、親が風俗に通うということは彼女にとって意外でも何でもなかった。確認したことはないが、どこの家庭もそんなものだと、根拠もなく思っていた。

 黒服が案内に行く。立香がグラスでも洗うか、と思ったとき。

「あの赤毛の娘がいい」

 そう、よく通る声で、自身を示されたのだと立香は気付いた。

 カウンターチェアに座り、身長に見合った長い脚を持て余す。それから、男はサングラスを外し、言った。目が合う。

「モエ白、置いてるか」

「あ、はい! 今お入れしますね!」

 立香はドっと心臓が高鳴ったが、ガールズバー勤務歴1年を超えてそれなりに顔色も操作できるようになった。そもそもが自分の感情をひた隠しにできる。感情を出せば両親から殴られ、学校で無表情でいれば「どうしたの」と尋ねられたので。

 シャンパングラスにモエ・アンペリアルを注ぐ。グラスの中でシャンパンがしゅわっと泡立つ。それを、慣れた手つきでそっと彼の前に差し出しました。

「どうぞ」

「頂こう」

 それから優雅にシャンパングラスを持つと、上品に飲む。洗練されたその仕草に思わず見つめてしまう立香。

(きれいな顔……)

 やってはならないことだというのに、惚けてしまう。

 ──しかし、不意にその手の大きさに気付く。そして、少し血が引く。

 「男性の手」は、彼女にとってトラウマでしかなかった。

 それに男は何かしら気付いた様子だったが、口に出しては特に何も言わなかった。代わりに、男は尋ねて来た。

「お前の名前は?」

「ユキです」

「こういう場ではキャストの名はちゃん付けするのだったな。さて、『ユキちゃん』」

 この男の図体と容姿だとあまりにそぐわない、「ちゃん付け」。立香が失笑する寸でで堪えていると、彼は言った。

「好きなドリンクを言え。奢る」

「あ、じゃあオレンジジュースでいいですか」

「構わん。というより、お前は未成年だろう。酒は最初から入れる気はない」

「……えっと、なんで未成年って……」

 学校で逢った少女とは別人のふりをして尋ねる。

 男は、けろりと答えた。

「ん? どう見てもお前は幼い。明らかに成人に達しとらん。ハタチまでここに勤めてたら言え。そのときは酒を奢ろう」

「はぁ、有難うございます」

 その物言いにホッとする。

 彼は、とぼけたふりをしてそう言ってくれたのだろう。立香は目立つ見た目をしている自覚はあったので、学校での邂逅は特徴を憶えられた可能性がある。あるいは、全く眼中になかったか。どちらにせよ立香としては助かったので、その後は男と他愛無い会話をした。何を話したかすらのちの立香は思い出せないほど些細な会話だった。

 やがて1時間も経った頃、男は立ち上がった。

「会計」

「あ、はい」

「また来る」

 そう言って男は、カードで会計を済ませたのちさっさと立ち去った。

 それを見送った立香は、グラスを片付ける。

 あの男と話す間は、夢見心地だった。声は低音で、体格はどう見ても男性のそれだったのだが、それでも比較的居心地のいい相手だった。

 上の空のままその後やって来た客に接し、それでも「生きてるだけで100点満点」とチップをもらった。できればシャンパンを空けて欲しいのだが、チップはチップとしてもらうことにしている立香である。

(どちらにせよ私の財布からは消えるんだけど)

 立香は営業が終わるまで、そんな気持ちを隠しながら愛想よく笑っていた。

 閉店し、黒服がレジ締めや掃除をしている中。更衣室に入った立香は、ふと自分のロッカーを開ける。

 鞄を開けると、スマートフォンが目につく。画面を起こした。

 そこに、LINEであることが書かれていた。

 ──帰りたくない。

 しかし、そこにマタ・ハリがやってきて「どうしたの?」と尋ねてくるので、「なんでもないです」と言いながらスマートフォンを鞄に突っ込んだ。

 彼女は今日も彼女の安らぎを祈って家に帰そうしてくれるだろう。

 自宅が、決して安らぎに繋がるとは限らない。寧ろ苦行になることもある。立香がそうだった。

 しかし、この現実を乗り越えなければ明日はない。

 立香はいつも通り笑顔を振りまいて、この日も帰宅した。

 

「あぁ、君が立香ちゃん? お父さんから話は聞いてるよ。さて、早速だけど君の部屋に行こうか」

 

 ……。

 

***

 

「へ? この店が買い取られる?」

 翌週、立香がバイト先のガールズバーに顔を出したとき、店長のマタ・ハリがそう言った。他のキャストもざわめいている。

 マタ・ハリはやや焦った様子で言う。

「オーナーは変わるけどね、この店はこのまま営業していていいって言われたわ。寧ろそのままでいろ、ですって。だから安心して。今のはただの業務連絡だから」

「買い取った人ってどういう方です?」

 キャストが尋ねる。マタ・ハリは笑った。

「とってもお金持ちよ。今日、この店に顔を出すんですって」

 

 そのオーナーとやらはどういう人物なのだろうか。立香は客に愛想を振りまきながらそんなことを思う。

 優しい人だといいな、と立香は思う。怖い人は嫌だ。怒鳴って来る人も嫌だ。しかし、マタ・ハリがそういう人物の人柄を見抜かず前のオーナーから店を買い取らせるとも思えない。恐らく人柄はまともなのだろう。

「ユキちゃん、カフェパのレモン!」

「有難うございますー」

 客に頼まれ、立香はにっこり笑ってスパークリングワインを開けた。

 その客が退店した頃のことだ。

「いらっしゃいませー」

 立香は目を瞠った。あの黒肌の男がやって来たのだ。また来るとは言っていたが、こんな短いスパンで来るとは。

 男は迎えた黒服に何事か言った。それから黒服は声を上げた。

「ユキちゃん御指名でーす!」

 目を瞬きながらも、立香はやって来た男に接客する。

「こんにちはー。また来てくださって有難うございます」

「オレはお前を気に入ったからな。それでは、『ユキ』。ブリュットをもらおうか」

「は、はい」

 いきなり呼び捨てにされたことと、それなりに高いシャンパンを頼まれて慄く。そっとグラスを差し出すと、相変わらず優雅にグラスを呷る。その様を眺めていると、「あぁそうだ」と彼は言った。それから、それなりに大きい声で言う。

「オレがこのバーのオーナーになったインドラだ。宜しく頼む」

「へっ!?」

 店内がどよめく。新しいオーナーが現れたのもそうだが、何より──

「あの……国家予算超えた資金力を持つと言う企業のCEO……と同じお名前ですね……」

 立香がそう言うと、男──インドラは、にやりと笑った。

「繰り返すが、お前のことは気に入っている。だからこの店を買った。これから毎週来るから毎週奉仕しろ」

「……!」

 立香は思わず息を吞む。

(たかが場末のガールズバーの、まだ酒も飲めないキャストを気に入ったからと、店を丸ごと買い取った?)

 それは、あまりにも身に余った。

 ただ、この男に気に入られた、というのは悪くない響きだった。たとえ、彼女が本当は忌避している「男性」だったとしても。

 だから立香は笑って言ってのけた。

「お買い上げ有難うございます!」

 インドラは、それにやや眉を顰めた。

 

 アルジュナは、ふと気付く。

「お父さん、最近ご機嫌ですね」

「まぁな」

「新しい愛人でも作りましたか」

「……違う」

「違うんですか」

「これから口説き落とすところだ」

「はぁ、本気か遊びかは知りませんがご精が出ますね。ま、頑張ってください」

 アルジュナは知らない。このとき、恋敵に大幅にリードを許したことを。

 

***

 

 それから3か月経った。秋が訪れつつあった。

 

「ユキはいるか」

「あ、いらっしゃいませインドラさん!」

 インドラは宣言通り、毎週1度はやって来た。立香はすっかりなじんだもので、インドラが来ると無邪気に笑うようになった。

「息災か」

「はい! 超元気です!」

 手慣れた様子でカウンターチェアに腰かけるインドラに、立香はにこにこと笑う。その笑顔に僅かに笑いながら、インドラは注文した。

「黒霧島のストレートを頼む」

「あれ、珍しいですね。今日はシャンパンじゃないんですか」

「今日は日本酒の気分だ。あるか?」

「ありますよー。今お出ししますね」

 そう言いながら、立香は棚を見分した。

 ──不意に、眩暈がした。

 がた、と水場の縁に手を突く。それにインドラも含めた周囲が立ち上がった。

「おい、大丈夫かユキ」

「はは……ちょっと眩暈して」

「顔色も悪い。今日はお前の売り上げの埋め合わせはしといてやるから、帰れ。病院に行くなら送るが」

「大丈夫です、お気遣いありがとうございます。でもひとりで帰れますから……店長、悪いんですけど」

「えぇわかったわ、症状が重いようだったら連絡してね」

「大丈夫? ユキちゃん」

「お大事にね」

 マタ・ハリや他のキャストに声をかけられる。そして彼女は、ふらふらと着替えて退店したのだった。

 しばらく歩いてから、彼女がふと思いついて足を向けたのはドラッグストアだった。

 

 その日から1週間、彼女は学校も店も休むことになる。

 

「シフトが入ったと聞いて来たが……大丈夫か?」

 インドラが店を訪ねたとき、立香はいつも通りの顔をしていた。明るく笑う。

「はい! ご心配頂き有難うございました。この通り今は元気です」

 そう言って狭いカウンターの中で体操までしてみせる。「ユキちゃん邪魔」と他のキャストに言われて謝る立香。それにまだ不服そうなインドラに、立香は苦笑した。

「本当に、『今は』元気なんですよ」

 言外の拒絶に、インドラは溜息を吐いた。

 それから言った。

「よし、ユキの快気祝いだ。ドゥミ・セックを頼む」

「ドゥミ・セック頂きました!」

「お前も好きなドリンクを言え」

「えっと、じゃあリンゴジュースで」

 立香は笑った。

 その笑顔を見て、インドラは僅かに眉間を寄せた。

(本当の顔ではないな)

 

 そのまま閉店まで居座ったインドラ。彼は立香が着替えている間に、店長のマタ・ハリに何かしら話していたのを黒服が目撃した。

 インドラが去ったのち、マタ・ハリが「しょうがないわね」と言わんばかりに両手を広げていた。

 

「ユキ」

 立香が裏口から出たとき。そこに大男が声をかけてきた。立香は一瞬怯えるが、それがインドラであることに気付き息を吐いた。

「吃驚しました、お店で逢ってるんだから用事があるならお店にいるときに──」

「店長と交渉してきた。お前、そのうちオレに同伴する気はないか」

「はい?」

 さて、ガールズバーにおいて、同伴と言うものはあまり歓迎されるものではない。確かにキャバクラなどでは同伴は売り上げに繋がるのでいいのだが、ガールズバーでは「接待」行為は法に触れる。ただ、「純粋に遊びに行くだけ」という言い訳はできる。

 インドラはこの3か月でわかったことだが、ガールズバーの客としてのマナーやルールはきちんと守る。同伴と言う法律スレスレの行為はしてこなかった。そもそもが他の立香の固定客も同伴を求めて来ることがなかったので、こういう経験ははじめてだ。なので、立香は首を傾げる。

「同伴、したことないんですけど……」

「問題ない。オレが車で迎えに行く。お前はついてくるだけでいい」

「はぁ。じゃあ──」

 彼らは予定を詰めた。

 

 数日後、指定された場所で待っていた立香を迎えに来たのは、少々意外な車だった。

 立香はスマートな車で来ると思っていた。しかし、やって来たのはごついアメリカ車だった。

 出てきたインドラはいつも通り仕立ての良い服を着ていた。立香をエスコートすると、助手席に彼女を乗せる。立香がシートベルトを締めたのを確認したインドラが、車を発進させる。

 立香は問いかけた。

「あの……私、もっとドイツ車とかで来るかと思ってました」

「オレも正直アレに乗りたい。が」

 インドラは言った。

「アメ車でないとオレが運転席のシートに収まらん」

「あぁ……大柄ですもんね……」

 立香はインドラの口から身長の話を聴いていた。曰く、「いまだに高校生の息子を幼い子ども扱いできる程度には身長差がある」。年頃の息子(推定同級生の誰か)の気持ちに想いを馳せたものだ。

 立香は鞄を膝に乗せたまま、尋ねる。

「あの……それで今日はどちらに?」

「着けばわかる」

「レストランとか……?」

「行けばわかる」

 そう言ってはぐらかすので、立香は困惑した。

 40分ほども運転していたかと思うと、不意に立香は気付く。

 この辺りは、確か──

 

「わーっ海だ!」

 立香ははしゃぐ。

 スニーカーで飛び出した先は、青さが深みを増してやや波の立っている秋の海だった。

 インドラは車に背を預け、「あまり走るな、転ぶぞ」と言うのみだ。

 立香はそれを聴かず、海の中に突撃せんばかりに走る。しかし、ふと足元の何かに気付いた様子だった。しゃがみ込むと、立香はそれを手にしてインドラの元へと駆けて行った。

「見て見て、貝殻!」

「ここは貝殻がよく採れる海岸だからな。……ひょっとして、1度もここには来たことがなかったか」

「あ、はい。電車でもう少しかかったところに行ってましたね。友達と遊ぶのに」

「親ならここに連れて来るだろうに。近いぞ」

「あ、それは……」

 立香はやや顔を伏せた。

「お父さんとお母さんには、ほとんど遊びに連れて行かれたことがなくて……」

 立香は、言ってから後悔する。

 こんなこと、客に言うつもりはなかったのに。

 慌てて顔を上げると、インドラは眉根を寄せながらも慈悲深いと言う器用な微笑みを浮かべていた。立香の橙色の頭に手を乗せる。

「そうか。なら、オレに言え」

「え?」

「行きたいところがあったら連れて行ってやる。同伴でも、同伴でなくてもな」

 インドラの言葉の意味することを、立香は噛み砕く。

 そして、真っ先に過った考えは──

(なら、あの家から連れ出して)

 けれど、それは言えなかった。自身を気に入って店のオーナーにまでなった人物だが、恐らくあれだけの金持ちならば気紛れを起こしただけだろう。戯れだろう慈悲に、立香は内心で歯噛みする。

(どうせいつか離れるんだから、そんなことは言わないで欲しい)

 代わりに立香が言ったのは、

「有難うございます」

 という当たり障りのない答えだった。

 

 このあと、秋でもまだ営業していた海の家で焼きトウモロコシとイカ焼きを食べた2人は、イカ焼きの匂いを漂わせたまま店に出てきたので、顰蹙を買うことになる。主に「海に行きたくなるじゃん!」と。

 

 ……立香はその日、大事に大事に持って帰って来た貝殻を、紙を乗せた机の上に置いた。潮の匂いがする。

 たとえ戯れの慈悲だったとしても、あの海は美しかった。

「……ふふ」

 立香が思わず顔を綻ばせた。

 ──しかし、扉の下から漂って来た匂いに気付く。

 酒臭い。大抵は1階のリビングで酔い潰れている父の匂い。それがこちらに漂って来たということは──。

 ノックもなしに扉が乱暴に開かれる。思わず椅子から立ち上がった彼女に、酒臭い息を吐く父は言う。

「おい立香、あれから2週間経ったな? もう『できる』よな」

「お、お父さん……」

「お前もすっかり色っぽくなったなぁ。ほら、ベッドに乗れ」

 立香はそう言われ、それでも貝殻を見て──抵抗を試みた。

「や、やだ」

「あ? 何言ってんだお前。父親の俺が抱いてやるって言ってんだ。今にはじまったことじゃないだろ」

「それでも、やだ……!」

 懸命に拒絶する彼女。それに苛立った父親は、立香の頬を張った。

「あうっ」

 立香はベッドに投げ出される。

 それから、父親が圧し掛かってきて──

 ……ベッドの軋む音が響くばかり。

 

「立香?」

「えっ?」

 不意に、視界にアルジュナの顔が入り込んだ。それで、自分がぼんやりしていたことを知る。

 場所は学校。2年C組の教室。制服は立香もアルジュナも中間服。ざわめきが聞こえはじめて、そこで立香ははじめて自分が目も耳も働いていなかったことに気付く。

 アルジュナは心配そうだ。

「大丈夫ですか? 保健室に行った方が……この間1週間も休んでいましたし」

「あー、うん。大丈夫。『質の悪い風邪に罹ってた』だけだし、今日はちょっと『寝不足なだけ』」

「そうですか……? いつでも私を頼っていいですからね」

「……うん、有難う。アルジュナ」

 そして離れていくアルジュナを見送る。

 アルジュナは、優しくて親切で良い人だと思う。身長はそれなりに高いので偶に威圧感を覚えるけれども。

(でも、インドラさんほどではないからな……)

 インドラと接するときは大抵カウンター越しでインドラは椅子に座っているから、あまり身長差を感じることはない。それでも先日の同伴のように並んで立っていると、その大きさに畏怖すら抱いてしまう。

 それでも、最近は怖い、と思わなくなった。

 ──昨夜の出来事で、それも上塗りされてしまったけれども。

 机に伏せる。穏やかなざわめき。学校は落ち着く。

 子どもでいられるから。外では、悪い意味で子ども扱いされない自分が。

 立香はそのまま授業がはじまるまで寝てしまい、教師に起こされることになる。

 

「ユキ?」

「えっ?」

 またぼんやりとしてしまった。立香は源氏名を呼ばれ、呼んできた相手を見る。

 インドラが憂えるような顔で尋ねて来る。

「どうした? また体調が悪くなったか?」

「あ、いえ、そんなことはないです」

「前もそう言って眩暈を起こして1週間出てこなかったではないか。オーナー権限で休んでも」

「いいです」

「しかし」

「いいんですって!」

 思ったより大きな声になった立香。周りの客もキャストも黒服も、驚いた様子で彼女を見る。1番驚いているのはインドラで、そんな自分に驚いている立香。立香は自分の手で口を塞ぐ。

 そこに助け船を出したのはマタ・ハリだ。

「はいはい、ユキちゃんはちょっと気が立ってるみたいね。オーナーも皆さんもごめんなさい。ちょっとユキちゃんのこと休ませるから他の子入って」

「あ、じゃあこんばんは。オーナー、お酒何入れます?」

「……コーヒーリキュールをもらおう」

 マタ・ハリが立香を連れて奥へと引っ込むのを見てから、インドラはヘルプで入ったキャストにそう頼むのだった。

 

「ユキちゃん、このところのあなたは変よ。どうしたの?」

 バックヤードにて、立香をパイプ椅子に座らせたマタ・ハリは、彼女の手を包みながら膝を突く。

 立香の表情は明らかに曇っていた。インドラもそれを察して尋ねたのだろう。昨日の彼女はまだ明るかった。インドラの同伴で海に行ったと言う話を聴いて、それを話す彼女の表情がとても明るかったので、マタ・ハリはもう大丈夫だと思ったのだ。

 それなのに、今日になってこれだ。恐らく、夜に何かあった。

(何があった?)

「……何かあったの?」

 マタ・ハリはやんわりと尋ねる。包んでいる手が冷たかった。

 けれど、彼女は俯いていたかと思うと──ぱっと、顔を明るくした。

 それが異常な行動だとマタ・ハリには理解できた。しかし、咄嗟に言葉が出ない。オーナーのインドラに「いずれ高級クラブを持たせてやる。お前にならできるだろう」と言わしめたマタ・ハリですら、言葉を詰まらせる、有無を言わさぬ表情だった。

 それは笑顔と言う名の、鉄壁の無表情だった。

「大丈夫です。私は、大丈夫。働けます」

「ユキちゃ──」

「大丈夫。店長、安心してください」

 立香は、その表情のまま、言い切った。

 心のシャッターを下ろされた気がした。

 マタ・ハリは溜息を吐いた。

「……今日はもう帰っていいわ。今日はお客が少ないし、女の子も少なくていいでしょ」

「……」

 そのとき、マタ・ハリは立香の笑顔と言う名の無表情が強張った気がした。

(言えない。言えない。誰にも言えない。誰にも相談できない。こんな汚い自分を知られたくない)

 

 しかし、そうは問屋が卸さない。

 立香が裏口から出たとき、待ち構えていた巨大な影があった。その人がいたことには驚いたが、その体格はもう見慣れてしまった。それでも立香は膝が崩れそうになる。

「インドラさ、」

「送っていく。何、悪さはせん」

「あの、車は……」

「酒を飲みに来るのに車に乗ってくるわけがなかろう。オレはお前を送ったらタクシーで帰る。行くぞ、お前の家はどっちだ」

 そう言って、立香の右腕を掴む。

 咄嗟にその手を振り払った。

「やっ……!」

「……」

「あ、ごめんなさい……」

 振り払われた手を見つめるインドラに、立香はすぐに罪悪感を覚える。

 けれど、男性に手首を掴まれて引っ張られるのは、恐怖だ。少なくとも彼女にとっては。

 インドラは、ひとつ溜息を吐き。

「……え?」

 そっと、彼女の手を握った。

「先ほどは強く引っ張って悪かった。──お前は男が怖いのだろう?」

「そ、んなことは」

「嘘を吐かんでもわかる。恐らくお前の他の固定客も何人か気付いているのではないか? だから、今まで同伴をすることもなかったのだろう」

「……」

 立香の固定客は年代がばらばらだ。20代から前期高齢者まで多様だ。共通していることは皆、優しいことだ。それでも男性と言うだけで、立香は本当に怖かった。けれど、客に怖い目に遭わされたことはない。客は常に一定の距離を置いてくれていた──インドラに言われて、それを理解する。

 男性は皆ろくでもないものだと思っていた。けれど、それは彼女の親に関わる男性がろくでもないものばかりで、本来の人間性は多様なものだ。性別で傾向が違っても、間違いなくこの世の大半の男性は「良い人」なのだ。それを、立香は狭い世界にいたからわからなかったのだ。

 不意に、視界が晴れた気がした。今はもう夜なのに、街の灯りがやけに明るく見えた。

 インドラが、ふと淡く微笑んだ。

 手を握る力が、とても優しい。

「で、お前の家はどっちだ」

 

 暗い夜道の中、恐らく彼女の親ほどの年齢の男性と手を繋ぎながら歩く。これが昼間ならできなかっただろうが、今は暗い。だから、赤い顔もばれていないはずだ。立香はそう願いながら、できるだけゆっくり歩いた。インドラも立香の歩調に合わせてくれる。

 幸せな夢だ。家に着けば覚める夢だ。だから、できるだけ時間がかかればいい。

 立香のその内心に気付いているのかいないのか、彼女の方を見ずにインドラは話し出す。

「……『店ではないからおしゃべりをする気はない』というのなら、オレが今から話す話を拒絶してもいいが」

「え、聴きますよ。なんですか?」

「……これは、オレを捨てた女の話なんだが」

 いきなり重いジャブで殴られる。立香はなんとか堪えながら、思わず言う。

「え、あなたみたいな方を捨てる女性が……?」

「いたんだ」

 短く答えたインドラは、話を再開する。

「オレの妻だった女の話だ。……どういう女だったかはもう忘れた。1度は確かに愛したはずの女なんだがな。オレが仕事に追われていたら、気付いたらいなくなっていた。離婚届を置いてな」

「……」

「それは構わん」

「構わないんですか……」

 大企業のCEOと言うのはこんなものなのだろうか、立香がそう思っているとインドラは言った。

「オレが今なお許せんのは、息子を置いていったことだ」

 僅か、ほんの僅かに立香の手を握る力が強くなる。それは彼が押し隠している激情からだろう。しかし、立香はもうそれ程怖いとは思わなかった。

「息子さんを……?」

「あの女は、実の子を置いていった。マンションに帰って来たときに目にしたのは、暗い部屋で灯りも点けず、ソファで眠りこけていた息子だった。……出て行くのはいい。オレが合わなかったのだろう。それでも、子どもを置いていったことだけは許せない。今でも許せないんだ」

 インドラはふ、と息を吐いた。

「すまん。愚痴になったな」

「大丈夫です。……あの。これは私の勝手な見解なんですけど」

 立香は言った。手を握る力を強めて。

「奥さんは、あなたになら息子さんを任せられると思ったんじゃないでしょうか」

「……」

「奥さんひとりだと息子さんをまともに育てられる自信がなかったかもしれない。でも、あなたなら少なくとも周りに頼ると言うことを知ってるでしょう。CEOとして部下を持っているんですから。ベビーシッターなり雇えばいい。多分、そこに信頼があったんだと思います。あなたに許されないとは、わかっていたと思うんです。それでも息子さんを置いていったのは、何より息子さんへの愛情からではないでしょうか」

 長々と話した立香。それに、インドラはふ、と笑む。

「都合のいい話だ」

「え、すいません」

「謝る必要はない。……そうだったらいいのだがな、と思っただけだ」

 インドラは微笑んだ。

「有難う、ユキ」

 ──不意に、立香はある衝動に駆られる。

 それをそのまま、口にしようとした。

「あの、私の本名は──」

「待て、ユキ」

 唇に人差し指を当てられる。それはインドラのものだった。

 インドラは、優しく囁いた。

「確かにオレは店のオーナーだ。従業員のことを知るのも大事だし、オレはお前の名前を把握している。だが……まだお前とは『キャストと客』のつもりだ。客に無理に名前を名乗らなくていい」

「……」

「……時期が来たら、オレから問う。そのとき答えてくれればいい」

「……」

「ところでお前の家はそろそろか?」

「あ、ここです」

 そう言って、ごく一般的な民家を示す。

 中に入ろうとした立香は、不意に引っ張られる。そう言えば手を繋ぎっ放しだった。

「あの、ここでお別れですよ」

「あぁ」

「……あの、家に入れないんで、手を……」

 立香がそう言った瞬間、インドラは彼女の手を持ち上げた。

 優しく口付ける。

 それから、手を放した。

「おやすみ、ユキ」

 ひら、と手を振ったインドラ。彼はポケットからスマートフォンを取り出し、いずこへかと去って行った。

(き……気障だな~~~~)

 そう思いつつも、立香は手の余韻が消えない。キスされた部分に唇で触れようとして、寸でで躊躇う。この手を洗いたくないな、などと思いながら玄関の扉が開いた。

 途端、顔の間近をすり抜ける何か。それは壁に突き立った。ビィィィン、と音を立てたそれは、包丁だった。

「この雌猫……」

 そこにいたのは、母親だった。あるいは、立香を排泄した女。

 中年の女が、包丁を持った手を示して立香を強く睨みつける。心の底から憎々しげに。

「またあの人と寝たわね! このアバズレ! 前に──して大して日が経ってないじゃない! あんたなんか娘じゃない!」

「お母さん落ち着いて」

 最早母親にそう言われて傷つく心は持ち合わせていない。そもそもがこの両親に期待する余地はない。しかし生命の危機には応対しなくてはならない。

 今は、「なんとしてでも生きてこの家を出る」が目標になっていたからだ。それは、インドラとの出逢いからだった。

 だから、なんとか履いていたスニーカーで母親の手から包丁を蹴り飛ばす。

「なっ……」

 娘にこれほど激しい抵抗に遭うと思っていなかったのか、母親が目を剥く。しかし、母親は立香を突き飛ばした。立香は壁に後頭部を強打する。そこで軽く意識が混濁し、その上に母親が跨って来る。首を絞めて来た。

「苦しっ……」

 立香は抵抗を示す。手を外そうとするが、母親の憎悪の感情は筋力を上げているらしい。引っ掻いても取れなかった。

「死ね、死ね、お前なんて死んでしまえ!」

「ぐっ……」

 呪詛の言葉を吐かれながら、立香は意識を失いかける。

「おい! やめろ!!」

 父親の声がした。そこで、母親の手が首から外れる。

「ゴホッゴホッ……!」

 酸素を肺に取り込もうと、立香は咳き込む。その間に、父と母の口論が起きた。しかし立香の意識が遠のいたとき、父の声がした。

「大丈夫だよ。愛しているのはお前だけさ。立香は、便利な肉便器だ」

 意識が途切れた。

 

「ん? 寒いの? ハイネック着てるけど」

「あ、はい。ストール巻いていいですか?」

「いいわよ、女の子は身体を冷やしちゃ駄目だからね」

 

***

 

 その日、立香は担任教師に呼び出された。

 何かした覚えはない。授業態度も良いはずだし、比較的自由な校風の中の範囲でも普通のはずだ。立香がそう思いながら職員室を訪ねると──彼は苦しそうに言った。

「藤丸。学費が払われていないんだが……」

「──は?」

「何か経済的な事情があるのか?」

「え、その……」

(おかしい。確かに私はガールズバーの給与を学費として口座に振り込んだはずだ)

 担任はおずおず、と言った様子だ。

「その、今からでも奨学金は受けられるぞ」

「──とりあえず、親に訊いてみます」

「そうか。わかった。そう急がなくていいからな」

 担任はそう言うが、公立校と言っても学費が納まっていない生徒はまずいだろう。立香は職員室を辞してから、スマートフォンを取り出した。

 電話に出た母親は、昼間から酔っ払っているらしい。酒焼け声でしゃっくりをしながら言った。

「お母さん、担任から学費が払われてないって言われたんだけど」

『あぁ、私とお父さんがパチンコで使っちゃったわ』

「は?」

『すっかりスッちゃったわ~あはははは!』

(この人は、何を、上機嫌で)

 立香は俄かに混乱に陥る。

 賭博に、娘の学費を使う。それは、世間一般的に──

 母親の声が急に低くなる。

『いい、立香。学校辞めたっていいのよ。それで今働いてるガールズバーなり、あぁ……キャバクラなりソープなりでもいいわ。そこで働いて私たちを養いなさい』

 それは決定事項と言わんばかりの声音だった。

 立香は、今まではそれに唯々諾々と従っていただろう。

 しかし、立香は今までの彼女ではなかった。

「──やだ」

『は?』

「絶対学校は辞めない!」

 思わず大きな声を出す。廊下で電話をしていたのでその声はそれなりに響いて行き交う生徒や教師がなんだと彼女を見る。その中で立香は決意表明をしていた。

 電話の向こうからは、冷え冷えとした声がする。

『そう。なら、学費はあんたが払うのよ。それに今まで通り家に生活費を入れること。それができなきゃあんたは学校を辞めなさい』

 あまりにも理不尽な要求だったが、立香は承諾せざるを得なかった。

 

 インドラのスマートフォンに、電話がかかる。

「オレだが」

『オーナーですか。ガールズバー“サンシャイン”の店長です』

「マタ・ハリか。何かあったか」

 そのときは丁度休憩中で、秘書のヴァジュラがコーヒーを持ってきていた。本当は酒を飲みたいところだが、仕事中に飲むわけにいかない。そう言うわけで、コーヒーを喫しながらインドラが電話口に問う。マタ・ハリは戸惑っている様子だった。

『あの、ユキちゃんのことなんですけど』

「ユキがどうした」

『様子がおかしいんです。なんだか、生き急いでいるみたいな……私が訊いても“大丈夫です、働けます”の一点張りで……オーナー、今度お店に来られたときにユキちゃんに訊いてもらえます?』

「今日行く」

『え? 今日はいらっしゃる日では……』

「とにかく行く。ユキは今日シフト入ってるのか」

『……入ってます。このところ連日で。確かにユキちゃんはナンバーワンですが……』

 それで、インドラは彼女が異変に気付いた訳を理解した。

 

「あ、いらっしゃいませインドラさん!」

 そこには、晴れやかに笑う立香がいた。

「──」

 店の中は賑わい、それでもオーナーであるインドラが来たことで黒服が集まる。

 コートを脱ぎ、黒服に渡してからカウンターチェアに座る。

「何が宜しいですか?」

「……ユキ。お前、大丈夫か?」

「──はい、大丈夫です」

「『何が大丈夫か』はオレは訊いてないのだが」

「……」

 立香は黙って微笑む。それは拒絶の意思を持っていたことを、インドラは知っていた。

 代わりに、インドラはスマートフォンを取り出す。メモアプリを開いた。そこに文章を打ち込み、立香の前に置いた。

『そんなに言えないことか?』

「……」

 立香はとりあえず「ご注文は?」と言いながらインドラのスマートフォンを弄る。

「シードルを頼む」

「わかりました」

 そう言ってからスマートフォンを返してくる。立香が酒瓶を探す間、インドラはスマートフォンを見た。

『親に無茶ぶりされたんです。でも、平気です』

「……」

「お待たせしました!」

 そう言いながらシードルの入ったグラスを差し出してくる立香に、受け取りながらスマートフォンを差し出した。

『金か?』

『そんなところです』

『オレが用立ててやろうか』

『お気持ちだけ受け取っておきます』

 それを見たインドラは、再び文章を打ち込む。それを、立香に見せた。

『何かあったらオレを頼れ』

 立香は、微笑むだけだった。

 

 立香は、強くなれた気でいた。店の店長、何よりインドラのおかげで。

 それでも、彼女を挫くものはある。

 

「ただい──」

 家に帰って来たとき、玄関に複数の男物の靴があった。それを見て、立香は悪寒に囚われる。思わず背中が玄関の扉にぶつかった。

 その声と物音で、居間から人がやって来る。複数の男性だ。

「やぁ、君が立香ちゃんかい」

 中年の男たちが、舌なめずりしながら尋ねる。脂ぎった男たちの後ろで、父親が言った。

「お前の部屋で相手してやれ。朝まで存分に、順番に、な。金ならもう俺がもらったから気にしなくていいぞ」

「ひ、──」

 

 ……翌朝、帰って行った男たち。そのあとで立香はシャワーを浴びる。

 臭い、臭い、汚い。どれだけ擦って洗っても、穢れが落ちない。

 ……あの人に気をかけてもらう価値もないのだ、自分は。

 立香はどん底の気持ちでそう思った。

 しかし、今日も学校はあるし店のシフトもある。立香は、シャワーを止めて体を拭き、脱衣室に出る。

 そのとき、自分から精液の臭いがした気がした。

 

「アルジュナ。私、臭わない?」

 アルジュナは、不意に立香にそう尋ねられて驚く。

 立香は自分の身形などに、最低限身嗜みには気を使っているが、そういったことを気にする方ではなかったはずだ。アルジュナの記憶で、だが。

 アルジュナは、不安そうな彼女の近くに顔を寄せた。一瞬彼女の身体が跳ねた気がした。それがなぜかはわからなかったものの、立香の匂いを嗅ぐ。

「石鹸の香りですね。いつものあなたの香りです」

「そっか……よかった。アルジュナがそう言うんならそうなんだろうね」

 アルジュナは、最適解の答えをしたはずだ。しかし、立香の台詞とは裏腹に表情が曇って行った。

「あの、りつ──」

「あ、私もう行くね。ばいばい」

 そう、今は帰りのSHRが終わったところだった。鞄を引っ掻けて軽やかに駆けていく立香の背中を、アルジュナは見送ることしかできなかった。

 あるいは、「動けない」ことが、父親と彼の差だった。

 

「おい、ユキ」

 その日出勤したとき。やって来たインドラに、不意に低い声をかけられて彼女は怯える。

「な、んですか」

「……」

 インドラはスマートフォンを取り出した。恐らくメモアプリを開くためだろう。立香の予想は当たった。

 そして、ぴしりと固まる。

『お前、男と寝たか?』

 強張りながらも、彼女はそのスマートフォンを受け取った。

『あなたには関係ありません』

『それなら訊くが』

 インドラは文章を打ち込んだ。

『同意の上か?』

「──」

 立香の顔色が蒼褪める。唇がはくはくと開閉される。立香がスマートフォンを握る手が震えていたので、それを見て取ったインドラがスマートフォンを取り上げる。

 文章を打ち込むと、カウンターの上に置いた。

『頷くか横に振るで答えていい。もう1度尋ねる。本当に、同意の上か?』

 ──立香は、静かに首を横に振った。

「そうか……」

 呟いたインドラは、再び文章を打ち込んだ。

『オレの家に来ないか』

「!?」

 いきなりの同居勧誘に、立香が目を瞠る。

『マンションだ。警備もしっかりしているから不届き者は入って来られん。まぁお前と同じぐらいの息子がいるが、あいつはオレと違って節度のある男だ。お前に手は出すまいし無用な噂はしまい』

「──」

 不意に、思い出す。

 インドラは、子どもがいる。インドラは恐らく、確実にわかっているはずだ。息子が立香の同級生だと。

 それが、立香の最後の矜持を庇うべき事実だった。

『お気遣い、有難うございます』

 立香は、今にも泣きそうな顔だった。それに、インドラは言葉を失ったようだった。

 

 その矜持が砕けたのは、年の明けた頃だった。

 

***

 

 立香は、嫌な予感がしていたのだ。

 このところの体調、体温、顔色の悪さ。それから導き出せる答えを、彼女は知っていた。馴染んでしまうほどに、知っていた。

 だから、ドラッグストアで「それ」を買って来た。

 トイレで確認する。そして、──答えを知った。

 途端に吐き気がする。ひどい吐き気だ。実際に彼女はそのままトイレで吐いてしまう。胃の内容物が広がっていた。あぁ、このところろくに食事も採れていなかったら貴重な栄養だったのに。

 トイレを出てから、「それ」をゴミ箱に捨てる。それから、母親に「それ」を伝えようとした。

 その瞬間、立香は肩を強く引かれる。

「っ、お父さん……」

 昼間から酒精を漂わせた父親が、立香の肩を掴んでいた。この人はいつの間にか仕事を辞めていた。母親も同様だった。働けるようになった娘に寄生して生きていた。その寄生虫は、立香の肩を掴む手に性的な色を帯びさせる。

「なぁ立香、しよう」

「やだ……」

「あぁ!? 父親に逆らう気か!?」

「あっ……」

 立香は父親に突き飛ばされる。以前母親に突き飛ばされたことからの学習で頭を庇った。しかし、父親はさっさと立香の上にのしかかる。

 それから、ディープキスをしてきた。

「っ……!」

「おい立香、お前ゲロ吐いたのか? 口の中酸っぱいぞ」

「だ、れのせいで……!」

「──あ?」

 途端、空気が冷える。

 立香は顔を殴られた。1発、2発、3発。口の中が歯で切れて血の味がする。

 それから、服を脱がされにかかった。

 立香は焦る。

「やだ、ここじゃやだ……! お母さんが見ちゃう……!」

「今はパチンコ行ってて当分帰ってこねぇよ、あのババアは。ったく、昔はお前みたいに美人だったんだがなぁ。すっかりあいつには勃たなくなっちまった。ったく、顔で結婚してやりゃこっちに寄生してきやがって……それに見せつけてやりゃいいよ、あの女がいかに自分が女として腐っちまったかわからせてやれ」

「っ──!!」

 ──立香は、ぷつんと糸が切れる音が聞こえた。

「ってぇ!」

 父親を、力の限り突き飛ばした。

 それから玄関へと走る。靴を履いている余裕もない、ドアを開いて外に飛び出した。

 1月だから空気は冷えている。雪の降る地域ではなかったから、幸い雪で靴下が濡れることはなかったが、冷えたアスファルトが足を冷やした。

 それでも、足を止める気はなかった。

 逃げなければ、逃げなければ、逃げて──どこに行こう?

 

「あら、ユキちゃん? どうしたの? 今日はシフト入ってなかったはず──待って、靴下裸足ね。それも私服でしょ? どうしたの? 冷えちゃうわ、中に入って……」

「……さんを」

「え?」

「インドラさんを、呼んでください……!」

 

 

 マタ・ハリからのヘルプコール。それも、立香のためだという。

 大車輪で仕事を終わらせ車を走らせて来たインドラが見たのは、毛布に包まってバックヤードの隅に座り込む立香の姿だった。この寒空に靴を履いていない。「靴下は今干しているところなんです」とマタ・ハリが補足する。どちらにせよ、エアコンの風も届いていなそうな隅で膝を抱えて俯いている赤毛の少女を見て、インドラはマタ・ハリに言った。

「……ここはオレに任せて欲しい。そのために呼んだのだろう」

「はい……ユキちゃんがどうしても、と」

「わかった。少し出ていてくれ」

 マタ・ハリが店の方に出る。扉が閉まり、インドラと立香は2人きりになった。しぃん、と静まり返る部屋。

 インドラは、そっと身を屈めながら立香の前にしゃがみ込む。1mほど距離を取ったのは、彼女の警戒を解いた方がいいだろうという判断だった。

「ユキ」

「……」

「オレを呼んだそうだな」

「……」

「『何かあったらオレを頼れ』というオレの言葉を忘れなかったんのだな。……良い子だ」

「……っ」

「ユキ、オレにどうして欲しい?」

 しばし、沈黙が下りる。

 鼻を啜る音がした。嗚咽が漏れて来た。それでも、インドラは待った。

 ばっと、顔を上げた立香の顔は涙と鼻水まみれだった。それでも、それは間違いなくインドラがはじめて見る素の立香の顔だった。

「──インドラさんっ!」

 立香は、インドラにしがみついた。涙や鼻水がスーツに付いたが、インドラは気にせず彼女を抱き締める。嘗て幼い息子にそうしたように、宥めるように背中を軽く叩く。

 彼女はしばらくそうしていたかと思うと、絞り出すような声で言った。

「……また、お父さんの子どもを妊娠しました」

「──」

「小学校の頃に初潮を迎えてから何度も、何度もしてるんです。その度に堕ろして……痛い思いして……他にも色んな男に抱かれてまた妊娠してるんです。もういや……好きでも何でもない男の子どもなんて産みたくない……!」

 それは、必死の歎願だった。血が滲むほどの、彼女の悲鳴だった。

 インドラは不意に、立香の身体の硬さに気付いた。それは、骨だった。彼女の身体は、それ程に栄養を失している。

 立香は、苦しそうな声で訴えた。

「……助けてください……!」

「わかった」

 インドラは即答した。毛布に包まった彼女を、そのまま抱え上げる。目を瞠る立香に、インドラは言う。

「とりあえずお前には住む場所が必要だな。……あぁ、オレの家が嫌なのはもうわかっている。オレのマンションとは別のところのマンションの部屋をやる。それにとりあえずお前の身の回りの世話をする奴らを派遣するから大人しく世話させろ」

「あ、あの」

「『助けて』と言ったのはお前だろう? 惚れた女に尽くすのは当然だ」

 立香を軽々と抱えたまま、インドラは不敵に笑う。

「ほれたおんな」

 立香は思わず鸚鵡返しに言う。は? 惚れたって?

 しかし、インドラは不意に声を低めた。

「……堕胎したいのなら、病院で中絶薬をもらえ。オレが払う。入院加療が必要らしいが、諸々の準備はちゃんとする。もし薬で失敗したら、なるべく痛くない方法を医者に訊いてみる」

「──」

 立香が「産みたくない」という気持ちを優先してくれた。そのことに彼女は震えた。親には、「産むなら学校を辞めて自分で育てろ」と言われ続けていた。

 立香は、自分の胎を意識する。望まれない子どもに、罪悪感を覚えた。

 それを察知したのか、インドラが頬に口付けて来た。それは、決して不快ではない──むしろ。

「お前は、自分の心を優先しろ。オレが守ってやる」

 そう、言い切ってくれたのは彼がはじめてだった。

 再び目から涙が溢れだす。ぽろぽろとこぼれる雫。その目元に口付けたインドラは、ひっそりと尋ねた。

「……それで、諸々の手続きには、まずお前の名前が必要だ。……お前の名前は?」

 立香は、言った。

「私の名前は……立香。藤丸立香です」

「そうか。お前の親も、名前だけは良いものをくれたんだな」

 

 そこからの日々は目まぐるしかった。

 まず産婦人科に行き、そこで中絶薬を処方してもらい入院した。堕胎は成功したが、次に栄養失調気味の身体をどうにかすべく、立香の家として宛がわれた部屋で胃腸に優しく栄養バランスの取れた食事を1日3食与えられた。料理や配膳、他風呂の用意やベッドメイク、掃除までしてくれたのは「ヴァジュラ」と名乗る、恐らく男女の2人組だった。インドラに似ている気がしたから親族だろうか……と立香は考えたが、どちらも中性的な容姿だったため、彼女は安心して過ごせた。

 インドラはと言うと、頻繁に彼女の元を訪ねて来た。立香が店に出られないという旨も店には伝えてある、とインドラは最初に告げた。

「オレが養ってやるから、マタ・ハリに『立香は店を辞める』と伝えてもいいんだぞ」

 そういう彼に、立香はやっと出てきた素の微笑みで答えた。

「大丈夫です。あなたに食べさせてもらえるのは嬉しいですけど、あそこは優しい場所だったから……少なくとも高校を卒業するまでは続けたいです」

「……そうか」

「あの、ところで、『オレに任せろ』的なことを仰っていただいたのは嬉しいんですけど……その、学校の学費、どうなってます?」

「あぁ」

 しれっとインドラは答えた。

「もうお前の親から手帳とカードとお前の印鑑を奪っ……譲ってもらった。そのうち聞こうと思っていたんだが、暗証番号を教えてもらえるか。親からは訊けなかったからな。まぁオレが口座に学費を振り込むだけだから無理に教えろとは言わんがな。そのうち学校側にもオレが保護者になると伝えて置く」

「何してんですか!?」

 立香の知らないうちにだいぶ事が進んでいたらしい。しかも物騒な文言が加わっている。

 ふと、そう言えば立香は与えられるばかりで──制服まで買い与えられてしまった──、家に顔を出すと言う発想が抜け落ちていた。

 しかし、そこで恐怖が走る。

 あの家に再び戻る。それは彼女の地獄の門が開くと言うことだ。できれば閉じておきたい。パジャマを握りしめる立香に、インドラは言う。

「今のお前の家はオレだ。だが、元の家から取って来たいものがあれば、オレも一緒に行く」

「──いいんですか?」

「勿論だ。……あと、これは回復してきたお前に言いたいことなんだが」

「?」

 ソファに座る立香に、手を取ったインドラが言った。

「惚れた、とは言ったが、ちゃんとこういうことをするのはだいぶ久しぶりだからな……」

「??」

「その、……結婚を見据えた交際を申し込んでいいか」

「──」

 立香は、ぽかんと顔を上げる。

 インドラはとても真剣な顔をしていた。……頬が赤いのは気のせいだろうか。

 立香は、笑い出した。

「ふっ……あはは、あはははは!」

「笑うな」

「だって……ここまでしてくれた上に『惚れた』なんて言わせた相手からの気持ちなんてわからないわけないじゃないですか……!」

「笑うな」

「ふふっ……ここであなたのことを振ったら、外に追い出します?」

 意地悪な質問だとわかっていても、立香は尋ねた。

 インドラは溜息を吐いた。

「そんなわけないだろう。1度『助ける』と言ったからには自立まで助けるしその後も何かしらお前が困ったらサポートする」

「ほとんどそれ父親じゃないですか……」

「お前の父親になる気はないがな。保護者でいるのはお前が学生のうちだ。……で、返事は?」

 インドラに迫られ、立香は笑みを深くした。

「了承しました」

 インドラは、それを聴いて──立香の額に口付けた。

 それに、立香は不満そうな顔をする。

「……唇にはしてくれないんですか」

「お前が高校を卒業するまではしない」

「ケチ」

 ぷー、と唇を突き出す彼女の頭を撫でると、インドラは「それでいつ元の家に行く?」と話題をすり替えたのだった。

 

 身体も回復し、学校にも再び通えるようになった頃。立香はインドラに頼み、元の家に行った。

 立香は家を見上げると、思う。

(こんなにみすぼらしい家だったっけ)

 ──帰って来る立香を飲みこむその家は、とても堅牢で強固に見えたのに。

 今はもっと頼れる「家」ができて、それは脆そうに見えた。

 インターフォンを鳴らすと、直接家人が出てきた。

 父親と母親だった。

「……なんでしょう」

「立香の持ち物を取りに来た。ついでに言っておくことがある」

「え?」

 疑問の声を上げたのは立香だ。そんなこと、ここに着くまでひと言も言わなかった。立香は疑問に思いつつも、とりあえず自室を目指すことにした。

 久し振りに入った立香の自室は、不意に潮の香りがした。そうだ、これを取りに戻ったのだ。

 立香は持ち歩いていた鍵で机の抽斗を開いた。そこには、去年の秋の想い出があった。

 小瓶に詰めた貝殻だ。何を差し置いてもこれだけは持って行きたかった。それをポケットに入れると、立香は学校で使う教科書やノート、卒業アルバム、お気に入りの本他諸々の手続きの書類や財布を持っていく。持ち込んだ鞄は重くなった。衣服などには目もくれない。インドラが買ってくれるからだ。この1か月ほど、インドラに構われまくってすっかり彼に貢がれることに慣れてしまった立香だった。

 自室の部屋の扉を閉じ、内心で別れを告げる。さよなら、悍ましき記憶の詰まった部屋。

 ──途端、階下から怒鳴り声と、大きな物音。

「インドラさん!?」

 驚いて階下に降りると、意想外な光景が広がっていた。

 廊下で転がっている父親。インドラの足元に転がる包丁。インドラの背後で失神している母親。

 ぽかんと呆けながら降りてきた立香の前で、インドラは襟元に声をかける。

「今のは録音と録画をしたな? ヴァジュラ。よし」

「あの……今は何を……? 父と母、呻いてますが……」

「あぁ、刺されそうになった。父親の方にな」

「えっ!? 傷とか大丈夫ですか!?」

「オレを侮るな。あんなのオレの敵ではない。まぁ母親がオレを羽交い絞めにしたのはさすがに驚いたが」

「えっ!!?」

 立香は驚く。

「ど、どうやって潜り抜けたんですかその修羅場を」

「簡単だ。オレを母親が羽交い絞めにして父親が包丁を持って突貫してきたんだが、まず父親の包丁を蹴飛ばしてから母親の手を振り解いて拳を腹に叩き込んだ。そのあとまた立ち上がって来た父親を蹴っ飛ばした。以上」

「以上って」

 ひょっとしてこの人、格闘技でもやっていたのだろうか。しかし足癖の悪さを考えると、ひょっとして元ヤン……? 立香がそこまで考えたところで、インドラはスマートフォンを取り出していた。それから、立香に言う。

「ところで、この父親は『俺の女を返せ』とか抜かしていたが……お前はどう思う?」

 ──感情が凪ぐ。あぁ、この父親は娘を女としてしか見ていない。それで、立香は言った。

「もうどうでもいい男ですね」

「そうか。ならいい」

 そう言ってから、インドラは電話を掛けた。

「あ、通報です。男に刺されそうになりました」

 

 その後警察が来て俄かに騒ぎになり、父親と母親は警察に連行され、インドラと立香は話を聴かれたが特に偽ることもなく答えたので「ではまた後日お話を伺いに行くかもしれません」と連絡先を控えられた上で解放された。

 インドラは立香がシートベルトを締めたのを確認してから車を出す。それからスマートフォンが鳴ったので、画面を一瞥したインドラは立香にそれを放り出す。

「出てくれ。ヴァジュラからだ」

「は、はぁ……?」

 仕事の話をされてもわからないのだが。そう思いながらも言われるがままタップする。

『あ、CEO?』

「ごめんなさい、立香です。代わりに出てくれと言われて」

『んー? 立香に聞かせていいのかな? まぁいいや、報告するね。撮影した動画は警察に送っておきましたってCEOに伝えておいて。それじゃ』

「は?」

 スマートフォンは勝手に通話が切れた。再びぽかんと呆ける立香。それでもインドラにそのまま伝えると、「計画通りだな」と彼は呟く。

 その言葉に不穏な陰を感じた彼女に、インドラは言った。

「オレが父親になんと言ったと思う? 『お前らの娘はオレがもらう』、だ」

「──は」

「事実だろう? 『お義父さん』と『お義母さん』に報告しただけだ。それが思わぬ激高をした父親が包丁を持ち出して──これでオレがマスコミを封じれば、お前の名誉は守られる。親は世間に出て来られなくなる。これでお前を邪魔する者はいなくなった。ハッピーエンドだろう?」

 立香は、複雑な感情を抱いた。

 けれど、それはすぐにある感情によって取り払われる。

 世間一般的に見て、あまりいい感情とはいえないだろう。それでも、立香はそういう気持ちにならざるを得なかった。

「えぇ。清々しました」

 

 この後、立香はインドラの庇護下で健やかに日々を過ごすことになる。

 ガールズバーのバイトは余裕を以て続けて、大学の学費も出してくれると言ってくれたインドラに報いるために勉強も頑張った。高校3年のときの三者面談では、担任教師(この学校では3年に進級する際クラス替えを行わない)が立香の保護者がアルジュナの親であることに気付いたものの、立香を進学させてくれるといってくれてホッとしたものだった。立香も健康そうだ。

 立香がインドラに結婚の話を本格的にしてきて、インドラは「とりあえず息子と顔合わせしよう」という話になり、そこでひと騒動が起きることになる。

 最終的に息子にも仲を認められ、大学卒業後CEO夫人の座に収まった立香は健やかに男児──ジュナオルと名付けられた──を産むことになる。

 そんなインドラは、立香に時折に尋ねるのだった。

「立香、今お前は幸せか?」

 立香は決まって答えた。

「私はあなたに救われたんですよ」

 

 

 

 

 

End.


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。