デッドエンド/アフター ~ラスボス系ヒロインと行く生き返り争奪戦~   作:龍川芥/タツガワアクタ

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第一章 無私の愛、嫉妬の愛
空っぽの男と星を呑む女


 俺、レイワードは記憶喪失だ。

 この名前が本当に自分のモノなのかさえ分からない。

 普通の人が『自分』という彫刻を一から作り上げるのだとしたら……俺の場合は、完成品をある日ぽんと手渡されたみたいな、そんな感覚が近いと思う。

 

 慣れない体。空っぽの器。

 未だ実感のない、自分。

 

 けれど、()()()()ならきっと問題はなかった。姉から告げられた名を素直に自分のものとして受け入れ、失った過去ではなく未来に目を向けて、自分の人生を歩めばいいだけだから。

 だから、問題は……俺が()()()()()()()()で、欠落しているのは()()()()()()()()という点だった。

 

 地獄の第八層、『悪政獄』にて亡者として目覚めた俺は、初めから現世の記憶の一切を持っていなかった。欠落させていた、と言う方が正しいか。

 どうして自分が地獄に堕とされたのか。

 現世でどう生き、どう死んだのか。

 それすらもまるで分からない。どころか自分の名前すら、俺は憶えていなかった。

 最初から地獄に居た……嗚呼、主観としてはそういう表現がしっくりくる。

 他の亡者が言う『生前』は、俺にとってはあるのかも分からない彼方の幻像――それこそ現世の人間にとっての地獄のような、実感の湧かない話だったから。

 

 地獄しか知らない人生。

 覚えのない罪への罰を受け続けるだけの、無意味な日々。

 

 それでも……そんな記憶喪失の俺にも、大切だと言えるものがひとつだけある。

 ――ネルヴィ姉さん。

 記憶喪失の俺に『レイワード』という名前を与え、共に幾多の刑罰を耐えたひと。優しく清く、なぜ地獄に堕ちたのか分からないほどに正しい女性。

 現世の記憶を持たない俺には、俺の生前について頑として閉口し続ける彼女が本当に姉なのかすら分からないが……例え真実がどうであれ、姉さんは俺の姉で、俺の知るたったひとりの家族だ。

 

 そんなひとが、地獄全土を舞台とする『恩寵争奪』に巻き込まれた。

 望んでも居ない『腕輪』――八つ集めると生き返りという奇跡を手にできるアイテムのひとつを授けられ、それを奪わんとする賊に追われている。

 その最中、姉さんの弟である俺もまた見知らぬ亡者に襲われ、比喩でなく地獄の底に突き落とされた。

 きっと今も、姉さんは()()()に追われている。捕まれば、彼女を待つ運命は拷問と死のみだろう。

 

 『姉さんを助ける』。

 降って湧いたようなその目的が、空っぽのこの体を、かつてない勢いで突き動かしていた――。

 

 ――地獄の底の怪物、悪魔よりも恐ろしい大罪の化身と契約してしまうほどに。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 ――ちゃり、と。片腕にのみ嵌まった錆びた手枷が、俺を急かすように煩わしく鳴った。

 

 

 地獄の第八層、悪政獄。

 悪政を敷いた為政者、汚職を働いた聖職者、そしてその恩恵に与った親類縁者など……大衆を導く立場に居ながら彼等を苦しめた社会への裏切り者の為の刑場が、現世の記憶なき俺と姉さんとが堕とされた地獄の名であった。

 

 それは草木の一本すら生えていない、褐色にして不毛の荒野。

 荒涼とした景色にある起伏と言えば、石組みの廃墟と、木の代わりに地面から生えた金属製の磔台のみで、他には一切のものがない。

 それこそが悪政獄――悪政者の生前の驕奢を戒める、あらゆる贅沢の封じられた貧寒の獄。

 

 時間の感覚が薄い地獄とはいえ、既に数年はここで過ごしたか。

 その地を踏むことに……罪人の流した血が染み込んだような硬い赤土の感触に、これ程の安堵と喜びを覚えたのは、俺にとって初めてのことだった。

 普段なら忌々しささえ感じる赤一色の風景、空気に混ざる火刑の余熱も、今しがた味わった地獄の底の暗さと冷たさに比べればよっぽどマシだ。

 だが、それよりも驚くべきことは。

 

「……まさか、こんなあっさりと戻って来れるなんて」

 

 墜ちた者は決して戻れぬと謳われる地獄の底……そこから帰還を果たせたという事実。しかも、落下時の衝撃以外では傷ひとつ負うことなくあっさりと。

 

 そんな俺の、安堵とも驚嘆ともとれぬ呟きに、答える声があった。

 

「ふ――愚問よな。地獄の底は我が領域よ、出るに何の支障もないのは道理であろう。当然、()と共になければ、貴様は数刻のうちに魂の死を迎えていただろうがな」

 

 それは古風な美姫を思わせる……だが姫と言うには余りに尊大な語り口調の女。

 ――アダマリア。地獄の底で出逢った怪物にして、今は目を見張るような美女の姿をした謎多き存在。

 

 だが一息に『美女』と言っても、その姿は常人とは大きく異なる――否、人と呼ばれるどの種族とも違うものだった。

 エルフのように尖り、更に獣人のように毛の生えた耳。

 唇の間から覗く、ヴァンパイアめいて長い犬歯。

 死蝋じみて血の気のない美白の肌に、鋭い鉤爪の生えた手足の先。

 尾骶骨の下からは尻尾さえ伸びて、鱗に覆われたそれがぐるりとうねる。

 悪魔を思わせる黄金色の瞳の瞳孔は縦に裂けており、彼女が人でないことを本能的に直感させて。

 そして何よりも目を引くのは、その両の側頭から生えし王冠を思わせる巨大な角だ……長い銀の髪がその角に架かることでヴェールのようになっていて、それがまた尋常ならざる姿を一層不気味な色に際立たせていた。

 

 嗚呼、けれどそんな異形の彼女は、確かに魔性の美女でもあるのだ。

 長い銀の睫毛に彩られた金の瞳は、魔の力を使うまでもなく流し目ひとつで人心を蕩かせる、天然の魅了の輝きを宿し。

 薄桃の唇、蠱惑の舌が紡ぐその美声は、たった一言で幾多の男を破滅させうるだろう艶美の調べ。

 すらりと伸びた肢体に突き出た胸はただ歩くだけでも気品と色気とを際限なく放ち、露出した肌はさながら虫を誘引する蜜の如く。

 それは、傾国という言葉が最も相応しい、破滅の美を持つ女に他ならなかった。

 

 ネルヴィ姉さんも相当なものだと思っていたが……正直、アダマリアとでは勝負にならない。姉さんが国一番のお姫様なら、アダマリアは世界を滅ぼす魔王さえ魅了した(きさき)だろう。美の種類こそ異なるが、それでも明らかに格が違う。

 だからこそ……その人間の域を大きく逸脱した絶頂の美は、悪魔の誘惑を思わせる恐ろしさをも孕んでいるのだが。

 

 ――罪とは女である、とは、聖職者が誘惑を例えて言った言葉だったか。

   それは毎日のように目に入り、ときに抗い難く、ときに快楽を以て人を誘う。

   ならば最も美しきアダマリアをおいて、大罪の化身に相応しき者は居ないのやもしれぬとさえ、その魔性の美貌は思わせる。

 

 そんな魔性の美を彼女を前にして、しかし。

 俺は地獄の亡者にして記憶喪失が故に……生憎と、あるいは幸運にも、他者の美貌に熱を上げられるだけの感性を有しておらず。

 それよりも俺が気になったのは、彼女の語った地獄の底についての方だった。

 

「え。あの地獄の底には、きみ以外の何かが居るのか? そいつのせいで、地獄に堕ちた亡者たちは帰って来ない?」

「――さて、どうであろうな?」

 

 真剣に問うも、意地悪な笑みで誤魔化され。

 それに答える気はないと言わんばかりに、アダマリアは気儘に話題を変えた。

 

「それより、此処からは第八層……貴様の姉が居るという(エリア)であろう。さっさと案内(あない)せよ。私の気は短いぞ?」

 

 傲岸かつ一方的にそう言い放って、返答さえ待たないでずかずかと歩き出す。

 恐れも遠慮も何もない歩みは、彼女の正体、地獄の底にて出会ったあの巨大な怪物に相応しいものだったが……同時に、俺に冷や汗をかかせるには充分すぎる不注意さだった。

 慌てて駆け寄り、その背を呼び止める。

 

「アダマリア、ちょっと……!」

「貴様、我が(いみな)をそうも気安く呼ぶか――まあよい。それで、なんだ? 小僧」

 

 じとり、黄金の瞳に込められた怪物の怒気さえ、今は気にしている場合ではない。何故なら。

 

「気を付けてくれ。そんな風に堂々と歩いてたら、『悪鬼』たちに見つかってしまうぞ……!」

 

 半ば祈るような気持ちでそう伝えて……けれど、アダマリアはことの深刻さなどまるで介さず、「ああ」なんて気の抜けた声を上げた。

 

「悪鬼か、居たなそんなのも。1000年は地獄の底から出歩いておらん故忘れていたぞ」

「1000年――? と、ともかく。悪鬼は本当に恐ろしいんだ、もう少し慎重に、周囲の岩陰に隠れながら進んだ方が――」

 

 豪奢な生活をした悪政者たちを戒めるため大した建物が存在しない第八層にも、石造りの廃墟や壁の残骸程度の遮蔽物は残っている。故に、それを使って悪鬼から身を隠しつつ進むのが地獄における常識なのだが……アダマリアは今、何の遮蔽もない大通りを悠々と進んでしまっていた。()()()()()()()()()()()()()

 だから俺は彼女を連れて、近くの廃墟に身を隠そうとして……。

 だが、結論から言えば――時既に遅し、であった。

 何故ならば、俺がアダマリアの腕を掴むよりも、その羽音が聴こえる方が先だったから。

 

 ――ばさり。

 音が、聴こえた。

 ばさり、また同じ音。

 地獄に生きる亡者として、この音は聞き間違えようもない。

 それは黒い翼の音だ。ざらついた翼膜が風を叩く音だ。

 今まさに羽音を立て地上に降り立つ、その黒い影こそが――。

 

「ああ、来た……『地獄の悪鬼』が――!」

 

 見上げれば、悪鬼は既に目の前に。

 ばさり。翼で勢いを殺し、異形の足が地を踏み締める。

 

 降臨したのは、明らかに尋常の生物ならぬ異形。

 人に似た四肢を持ちながら、しかし人間より一回り巨大な体躯。獣じみた関節を持つ細長い脚、地面に届くほど長い腕の先には、亡者を甚振るための鋭い爪が生えた指が伸びる。

 体の色は漆黒。体表に鱗や毛はなく、のっぺりとした肌の質感は磨かれた石に似て。

 背には膜の張った翼。片腕には、先端に返しの付いた三叉の黒槍が握られている。

 そして天を突く角の下、生物なら顔があるはずの場所には……ただ陶器が割れたような、無間の奥行きを感じさせる伽藍洞の穴だけがあった。

 

 顔のない、名も言葉も個体差も持たないがらんどうの怪物。

 それこそがこの地獄における獄卒――即ち、地獄の悪鬼。

 その恐るべき姿を、どんな亡者をも容易く組み伏せる異常の膂力と刑罰にあたっての無慈悲さを、俺が忘れた事は無い。

 膝が震える。何度も味わったあの痛みを思い出して、空っぽの腹から強い吐き気がこみ上げて来る。

 

「だ、駄目だ、もう逃げられない……! 奴らに捕まると、磔にされて火をくべられて……その状態で石を投げられたり、槍で刺されたりし続けるんだ……! とても痛くて苦しくて、死んでしまいたいとさえ思うけど、死んで楽になることさえ許されないあれが、また……!」

「ふむ。確か、それが『悪鬼』の特徴だったな。奴等は決して亡者を殺さん。地獄に堕ちた亡者を永遠に苦しめ続けることが、地獄の刑罰の執行者たるこ奴らの存在意義――人に『そうあれ』と願われ生じた者の本能故に、こ奴らはただそう在るのみ」

 

 危機を前に、余りに悠長に何事かを語るアダマリア……果たして、そんな彼女の態度を不満としたのか。

 カキキ、と。悪鬼が特徴的な異音を鳴らした。

 口も舌もない悪鬼ゆえに、それは決して鳴き声ではない。ただ虫を思わせる動作で無機質に首を傾げたときに、硬い表皮が擦れて音が鳴っただけだ。嗚呼、けれどそれこそが、どんな亡者も震え上がる、地獄の悪鬼の威嚇音。

 けれど悪鬼は知らぬだろう。刑罰の執行を告げる絶望の音は――それでも、今回ばかりは逆効果であったことを。

 俺が無力な拳を握り締めた、その意味を。

 

 ――悪鬼こそ地獄の罰の執行者。

 亡者が決して勝てぬよう神が手ずから創造した、とさえ語られる恐るべき存在。

 現に俺は今まで悪鬼に抗えたことなどないし、悪鬼に抗えた他の亡者もまた見たことがない。生前武勇を誇ったという者も、徒党を組んで立ち向かった者も、例外なく悪鬼の力の前に敗北し罰を受けることとなった。

 即ち、地獄の悪鬼とは……見つかれば終わりの、亡者には逃げ隠れる以外の抵抗が許されぬ、地獄における絶対的な強者。

 

 そんな絶望の前に在って、けれど幸運がひとつだけ。

 それは彼我の数の差だ。俺達がふたりなのに対し、降り立った悪鬼はたった一体。

 ならば……どちらかが犠牲になって気を引けば、もうひとりは高確率で逃げられるだろう。

 そして俺とアダマリア、相手のために身を捧げるべきなのは、当然――。

 

 右手首にのみ嵌まった手枷を掴み、俺は絞り出した勇気をかき集めて笑みを作った。

 そして言う。

 

「……アダマリア。悪政獄の住人じゃないきみに、あの刑罰を受けさせるわけにはいかない。

 俺が囮になる。だから、その隙に上手く逃げ延びてくれ。そして、どうか姉さんを――」

「――くく」

 

 言葉を断つように遮った、音。

 俺は最初、それが何の音か分からなかった。

 玉を転がすようだった音は……気付いたときには、はっきりと肩を震わせ猛る悪逆の哄笑に変わっていて。

 

「ふ、ふふふふはははははははは!」

 

 アダマリアが、哂う。

 妖艶な美女は豪傑がするように大口を開けて大笑し、この危機的状況で何が可笑しいのか目尻に涙さえ浮かべて……そうやって、彼女は()()哂っていた。

 

「は――小僧。貴様はほとほと愉快な道化よなぁ」

「え……?」

「そうさな、私に1000年ぶりの笑声を上げさせた褒美という訳でもないが――良い機会だ。貴様が現世へと蘇らせる大罪の化身、その力の一端を見せてやるとしよう」

 

 言って。

 何の気負いもなく――まるで舞踏会の一幕のように優雅に、彼女は悪鬼の方へ一歩踏み出した。

 恐れもなく、衒いもなく。悪鬼の腕の届く位置、絶望の死域に身を躍らせる。

 

 当然の帰結として……その華奢な背の向こう、異形にして巨躯の悪鬼が反応した。

 反射的に、機械的に。悪鬼は眼前の罪人を、即ちアダマリアを捕らえんと、ぐわりとその怪腕を伸ばす――。

 

「アダマリア――!」

 

 長い指が蝶を絡めとる蜘蛛糸のようにアダマリアの体を掴み、黒く鋭い爪がその白い肌に痛々しく食い込む……そんな一秒後の未来を幻視して、叫び。

 

「は。薄汚い手で触れるな、下郎」

 

 ――ばちん、と。

 そんな乾いた音と共に、悪鬼の腕が肘先から消し飛んだ。

 黒い腕だった残骸が、砕け散った硝子片じみて、舞う。

 

「――な」

 

 俺の絶叫は、それで絶句に変わってしまった。

 

 辛うじて目端で捉えたのは、アダマリアの羽虫を払うような動作。

 それが悪鬼の腕を破壊したと考えるしかない、が――まさか、そんな、ばかなことが。

 

 だって地獄の悪鬼とは、見つかれば終わりの、逃げ隠れる以外の抵抗が許されぬ絶対的な存在……少なくとも俺にとってはそうだったのに。

 けれどアダマリアは、そんな悪鬼を前にして、怯むどころか寧ろ傲岸に言い放つ。

 

「格の違いも分からぬか、人形。罪の何たるかも介さん機構風情が、賤しくも罪たる我が身に触れるだと? 既に道化は間に合っておるのでな……不愉快ゆえ、殊更惨たらしく殺すとしよう」

 

 死の宣告が孕んだ怒気――否、殺気を感じ取ったか。悪鬼がやはり昆虫を想起させる無機質な動きで、残った片腕により槍を構えた。

 俺も何度も貫かれたことがある、鋭利なる三叉の穂先がアダマリアの柔肌へ向けられる。予想される動作は刺突。いかなる金属とも違う鋭利な切っ先は、悪鬼の有する異常の膂力と相乗し、容易く彼女の肌を裂いて深々と臓腑を抉るだろう。

 けれど、何故だろうか。

 俺の目には悪鬼の方こそが、脅威に抗う弱者であるかのように、小さく頼りなく見えてしまって――。

 

 そんな悪鬼に対し、アダマリアはゆるりと右腕を構える。

 細く白く美しい、艶めかしい曲線を描く、ただの女の腕だ。

 闘争と最も縁遠い優美さで虚空をなぞる指先、目を惹いてやまない蠱惑の細腕は、されど――構えられた槍よりもなお強烈に、死と破滅とを想起させて。

 

「丘を呑む海竜の上顎よ、我が腕として原初の暴威を示すがよい――」

 

 命じる声は呪文のように。

 果たして、それが開戦の合図であった。

 

 悪鬼が隻腕で槍を突き出す。

 そこに人と同じような裂帛の気迫は、声はない。

 無言のまま、無貌のまま、どこまでも無感情に。人らしい反応の一切を持たぬが故に、それは完璧な不意打ちめいて。

 三叉の穂先はただ無機質に、亡者を貫く黒い鏃となって疾走する――。

 

 俺では反応すら出来ず貫かれたろう一撃は、しかし何故か、今は酷く緩慢に見えた。

 間延びした時間、粘度を増した世界……その中に在って、けれど精彩を欠かぬ者がただひとり。

 アダマリア。

 嗚呼、罪なるかな――今まさに、世界は彼女の独壇場と化していて。

 

「――心なき者よ。絶滅の波頭の前に、散れ」

 

 優雅可憐に踊るように、されど迫る三叉の穂先より遥かに疾く。

 アダマリアは構えた腕を、ふわり、横一線に薙ぐ――。

 

 瞬間――(ゴウ)と怒濤のように。

 薙ぐ腕に追従して虚空より現出せし()()()が、突き出される槍など容易く超えて、悪鬼の頭頂から腹までを一閃した。

 細い刃の類ではない。曖昧な魔法の気配でもない。

 それは現実を圧する実体を持つ、剣より長い牙の群れにして、それを備えし異形の大顎。

 

 地獄に顕現せしその牙は、船底を砕く荒波の具現。

 声は嵐に歌う濁流の唸りであり。

 そしてその姿とは、下顎を持たぬ海竜の首。

 

 うねる大蛇にも似た水害の化身……悪鬼さえ遥かに超える巨体にして異形の頭部そのものが、気付けばアダマリアの右腕そのものと化していて。

 

「――」

 

 ごっそりと、という言葉が当てはまるのだろうか。

 悪鬼は今の一撃によって上半身の全てを消失し……断末魔の声さえ上げられず、そのまま硝子みたいに砕け散って赤土に消えた。

 実に呆気なく。

 それで、戦いとも呼べぬ蹂躙は終わった。

 

 ――悪鬼が、死んだ。

 ありえないものを見た俺の前で……けれど当然の結果とでも言うように、元の女の腕を取り戻したアダマリアが嗤う。

 

「ふ――我が第一首腕(だいいちしゅわん)は真竜、それも始海竜レヴィアの大顎(おおあぎと)よ。斯様な悪鬼程度()()()にもならぬわ」

「第一、首腕……?」

 

 意味も分からずそう繰り返すのがせいぜいの、そんな俺の忘我の呟きを何と取ったか……彼女は見せつけるように、今しがた振るった右腕を強調するようにゆるりと掲げた。

 

「そうだ、我が身は八つの大罪を宿せし大罪の化身。故に、それぞれの罪に対応した生物――その中で最も大罪の名を冠するに相応しき存在の首を、八つの腕の形で有する。

 亜竜ならざりし真なる竜は『高慢』の大罪の象徴。その中で最も『高慢』の罪に相応しいのは、聖典の中で大洪水を引き起こしたと語られる荒ぶる海の化身――全ての(いのち)を己が胎内(はら)に回帰させんとした原初の母、始海竜レヴィアを置いて他にはおらぬ」

 

 始海竜レヴィア……その名を姉さんが語るのを、一度聞いた事がある。

 確か、それは聖典の怪物。伝説に謳われる大洪水・大絶滅を引き起こしたとされる母なる竜。

 しかし、真に驚くべきはそこではない。悪鬼を一撃で葬り去ったその力すら、八つのうちの一つに過ぎないと、そう彼女は言ったのだから。

 ひとつひとつが世界を滅ぼす力を持つ腕にして首。それが、八つ。

 嗚呼、それでは、まるで。

 俺の前に立つアダマリアとは、地獄の悪鬼などより余程恐ろしい、無上の怪物のようではないか――。

 

 果たして、そんなこちらの内心を……背筋を凍らせる畏怖を読んだのか。

 アダマリアは愉快で堪らんとばかりに、にたりと口の端を吊り上げた。裂けるように弧を描いた唇の間からちらりと牙が覗くその表情は、美しさより悍ましさが勝る、正に悦に浸る邪悪そのもので。

 

「感涙に、あるいは絶望に噎ぶがよいレイワード。貴様の契約した怪物は、現世の全てを水底に沈める腕を持つ、最強最悪の魔王であるぞ」

 

 現世に這い出すと宣う地の底の美しき怪物は、その手伝いをすると誓った俺に向けて、地獄で最も高慢に嗤った。

 万物(ひと)を見下し、天罰(かみ)さえ畏れず、世界(ほし)すら手中と驕り高ぶる――それは真竜(ドラゴン)の笑みが人の(カタチ)に収まった、美しくも歪んだ、醜くもどこか輝くような表情(もの)で。

 

 改めて、確信を得る。

 アダマリアが蘇るというのは、即ち現世に地獄が溢れるのと同義であろうと。

 そうなればきっと何百万、何千万の生者が死ぬ。

 ならば当然の帰結として、俺は、彼女の復活という野望に心から恭順することはできない……。

 けれど、今は。

 

「……それでも、きみが姉さんを助けてくれるなら。誓って、俺も約束を守る」

 

 今はこの誓いだけが、俺とアダマリアを繋ぐ糸。そしてこの糸こそが、姉さんを助けられる可能性のある唯一の命綱。

 だから、手を放すという選択肢は最初からなかった。

 悪鬼さえ容易く屠った彼女なら……きっと、()()()()()()にも打ち勝てると思うから。

 

 期待の眼差しを向けたのが意外だったのか。

 アダマリアは黄金の目を見開き……しかしすぐににやりと細めた。細い喉が抑えきれぬ愉悦を響かせる。

 

「くく――やはり貴様は笑える小僧よ。私は嘘を好まぬ故な……虚言で冷笑失笑を誘う道化も悪くはないが、真剣なまま人を笑わせる大莫迦の類こそ、我が下に侍る道化としては相応しい」

 

 嗚呼、それは嘲弄であったのだろう。

 けれど何故だろうか。俺にはその怪物の笑顔が、やけに純粋なものに思えて。

 数瞬の思考の空隙は、きっと見惚れていたのだろう。

 そして……心のままに、訊いた。

 

「……えっと、申し訳ないんだけど、今の言葉は一体どういう意味だろうか。きみの使う言葉は俺には少し難しくて、だからその、真意を量りかねるところがあって……」

 

 見惚れていた、とは言うが。結局、長い沈黙の殆どは、彼女の言葉を理解できずに生まれたもので。

 恥ずかしながら尋ねた俺に、アダマリアは今度こそ笑い飛ばせず、眉間に複雑な皺を作った。

 

「は! そういう愚かしさが悪くないと言っておるのだ。

 ああ、だが勘違いするでないぞ、私が気に入ったのは貴様の臆面のない愚直さであって、その絶望的な察しの悪さではない。……その顔は分かっておらぬ顔だな? まあよい、つまり、せいぜい擦り切れるまで使い潰してやると言うことだ。

 貴様の姉を救うというのも、私からすれば道端の小石を数個どかすのと何ら変わらん児戯であるしな……『腕輪』集めの片手間に、ちょちょいと済ませてやろうではないか」

 

 尊大に鼻を鳴らし、俺の察しの悪さに呆れ、思い出したかのように悪辣に嗤い、そして余裕綽々と歩き出す。

 その背を眺めながら、俺は先の戦いを、そして彼女の言葉を思い返す。

 恐ろしい力を見た。邪悪な物言いを聴いた。彼女こそ世界を滅す魔王に成り得ると確信した。

 それでも……やはり俺は、思うのだ。

 

 地獄の底で出逢った怪物変化、八つの大罪の化身を名乗るアダマリアは――その実、()()()()()()()()()()()、と。

 喜怒哀楽、快不快……彼女が見せるそれらの感情は、俺や姉さんの持つものとそう違うようには視えなくて。

 けれど、俺や姉さんが決して持ち得ない恐るべき力、怪物らしい尊大な態度もまた事実で。

 

 怪物と人。両極の特徴を有するアダマリア、果たして彼女の正体とは何なのか。

 どうしてあれほどの強大な力をその身に宿しているのか。

 なぜ地獄の底に、あんな暗く寂しい場所にたった独りで住んでいたのか。

 

 分からない事ばかりの背を、それでも信じて追従する。

 姉さんを助けるため……だけではない。

 アダマリア。彼女のことを、もっと知りたいと思うが故に。

 

 ……だから、まあ。

 これはちょっとした軽口、会話の糸口のつもりだったのだ。

 

「……そういえば。アダマリアってそんなに凄いのに、空は飛べないんだな」

 

 怪物――特に竜などは飛行できるイメージがあるが、ここまでを徒歩で来たということはアダマリアはそうではないのだろう。

 特に他意なくそのことを言って――。

 

 ぶちん、と。

 何かが切れる音が聴こえた気がした。

 

 嗚呼、察しが悪いと言われた俺にも分かる……俺は今、間違いなく地雷を踏んだ。

 くわ、とアダマリアが牙の生えた口を開き叫ぶ。

 

(うるさ)いわ、黙れ小僧! それは私の問題ではない、死した罪人を地の底へ縛り付ける地獄において、自在に(くう)を飛べる者は罰の執行者たる悪鬼のみ! それが絶対の法則(ルール)なのだから、私には何の落ち度もないわよ! ごほん――全く、そういう愚かしさは求めておらぬと言っておろうがッ」

「ご、ごめん……ただ俺は、アダマリアが飛べるなら、姉さんの所へもっと早く駆け付けられるかなと思っただけで――」

 

 ぶちん、先と同じ音が再び聴こえた気がして、俺は慌てて口を噤む。

 これはもしや……火に油を注ぐ、というのをやってしまったか――。

 

 後悔するも時すでに遅し。

 がしり、と。

 焦る俺の襟首が、悪鬼を瞬殺した魔王の腕に掴まれた。

 

「よく分かった、よぉ~く分かったとも。貴様はいち早く姉の下に駆け付けたいのだな?」

「へ?」

 

 俺の襟首を掴んだままにっこりと笑うアダマリア……けれどその額には青筋が浮かび、目は全然笑っていなくて。

 弁解の余地など与えられず、次の瞬間、俺の足はぶらんと宙に浮いた。猛烈に嫌な予感がして冷や汗が背筋を流れるが、もう遅い。

 

「そんなに言うなら見せてやろう、飛行など不要とする我が健脚を! 全く果報者よなあ貴様も! おっと、貴様の望みを叶えてやるのだ、まさか文句など言わんよなぁ――!」

「え、ちょ、待っ――」

 

 瞬間、アダマリアは風になった。つまり彼女に掴まれたままの俺も同様に風になった。

 全身に掛かる猛烈な加重、意識を千々に引き裂く暴風は、辛うじてアダマリアが超高速で走っているのだと言う事だけを猛烈な吐き気とともに伝えて来て。

 

 正直、その後のことは覚えていない。

 ただ……人智を超越した速度に耐え切れず絶叫した俺の悲鳴が、地獄の荒野を超速で駆け巡ったことだけが確かだった。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 同刻。悪政獄、奈落に程近いとある集落にて。

 屋根と床のない、ただ土の上に石を積み上げただけの廃墟の中で、()()は己の胸を押さえていた。

 レイワードと同じ灰色の髪の、若く美しい女性であった。だが全盛にて固定されたその美貌は、みるみるうちに苦しみに歪み、そのまま彼女は赤土の床に力なく倒れ込む。

 

「――っ、ぁ……ぇあ――ッ」

 

 ひゅうひゅうと、その喉からは乾いた音だけが漏れる。

 顔は青くなり、体に力は入らず、髪や肌が赤土に汚れてなお、異常は緩まることなく続く。

 息が、吸えない。

 否。空気を吸えてはいるが、肉体に活力として還元されていないのだ。

 当然の帰結として、脳は、全身の臓器は機能を低下させていき、遂には波が引いて行くように生命を維持する力を失う。

 

「――ゕ、ぁ――」

 

 遠のく意識。

 白目を剥き、目からは涙、口から唾液と泡とを溢して。

 そうして苦痛に胸を押さえたまま、絶望と共に彼女は死に絶える――。

 

 瞬間、呼吸を妨げていた『視線』が消滅した。

 

「――ッあ! はぁっ、はっ――」

 

 息を吸う。吸える。歓喜が全身を巡り、消えかけの生命が呼吸を燃料として再び赤々と燈る。

 取り上げられた呼吸の回帰が予想外だったか、意志に反してごほごほと深く咳き込んだが……嗚呼、その苦しみも生命の続いた証であった。尤も、地獄の亡者に与えられた成長のない仮初の命を、果たして生命と呼んでいいのかは分からないが。

 

 ともかく、瀬戸際で一命を取り留めた灰髪の女性……そんな彼女が呼吸を整え立ち上がるのも待たず、圧し潰すような声が降る。

 

「――なァ、いい加減教えてくれねえかなァ。アンタが神様に貰った『腕輪』の在処をさァ。そうすりゃ命は取らねえって言ってんだから、さァ。女にしては良く耐えたじゃねえか、もう充分だろ? さっさと楽になっちまえよ、なァ?」

 

 男の低い、そして野卑な声であった。

 品や格式のようなものをまるで感じられない、野生の獣めいた声色の持ち主は、やはり獣が如き大男だ。

 

 大陸東部の血を継ぐ、日に焼けた浅黒い肌。外見から察するに、年齢は――即ち享年は二十代後半か。

 背は高いが、単に長身と言うには少々輪郭が異常である。筋肉質だが前傾で固まった姿勢、長い首に大きな腕は、肉食の猛獣が二足で立っているようなアンバランスさがあった。ろくに手入れされていない黒い毛髪は散らかりながらも長く伸びていて、それがまた魔狼の毛皮じみている。

 とはいえ獣人の類ではない。雰囲気がそうであるだけで、彼の種族は純人、普通の人間だ。尤も、そう勘違いされてもおかしくはない並み外れた凶相なのもまた事実だが。

 

 そんな、街中で出会えば思わず避けてしまいそうなほど人相の悪い大男へ、しかし彼女は――レイワードの姉たるネルヴィは、まるで怯えを見せなかった。

 残存する窒息の苦痛に喉と胸とを押さえながらも、あくまで強く気高く。抵抗の意志を示すように、キッとコーダウを睨み返している。

 

「……話す気は無い、ってことでいいのか? なァ」

「――当然、でしょう。わたくしが、復活の奇跡を望む相手は、この地獄の中でただひとり……それは、断じてあなたのような、賤しい賊ではありません」

「そうか。なら仕方ねえなァ……次は気が変わるよう、もうちょいギリギリを狙ってみるとするかァ」

「――!」

 

 再びネルヴィが窒息する。

 苦し気に悶え、痙攣し、そしてまた苦痛に溢れた死の淵に立って……呼吸が戻り、辛うじて生還する。

 もう何度目かも分からない責め苦にも、しかし彼女は態度を変えない。コーダウを睨む目は、依然として強い意志の光を宿し続けている。

 

 そんな拷問の風景を見かねたのか……この状況に口を挟む者が居た。

 

「コ、コーダウさん、もうそれくらいでいいんじゃないですか。この人、数時間はこの調子だが全然口を割りませんし……」

 

 それは、コーダウ、と呼ばれた彼の手下たる亡者のひとりだ。元は別の層に居た中年の男で、その目元に出来た痛々しい青痣が、彼がどうやってコーダウの配下となったかを雄弁に語っている。

 そんな頭目への忠誠心も何もない彼は、何度も何度も死の間際まで追い込まれ、苦しめられる若い女性の姿を見て激しく良心が傷んだのだろう。

 だから頭目にして即席の拷問官たるコーダウに勇気を出して異を唱え……嗚呼しかし、その半端な善性、絞り出した勇気は、彼を前に余りに蛮勇であった。

 

「あァ?」

 

 ぎん、と。

 不快げに眉根を寄せたコーダウに眼光鋭く睨まれ、男は激しい恐怖と共に己の過ちを悟る。

 

「あ……イヤ、その――」

 

 罪人のちっぽけな良心など、瞬く間に恐怖によって塗り替えられ……彼は青い顔で咄嗟に弁解しようとするも、しかし、そのための余地は与えられなかった。

 視線が飛び。

 男が唐突に、苦し気に顔を歪めて己の胸を押さえる。丁度、さっきレイワードの姉がそうしていたように。

 

 コーダウは、苦しむ男に指一本触れていない。どころかこの数秒で見せた動きなど、首を僅かに傾けた程度だ。

 だが男は、最後の息を使ってコーダウに手を伸ばし許しを請う。

 

「あ、あ……! すみま、すみませんでじだッ……や、止めで、ぐだ……!」

「ガタガタ抜かすな、男だろ。なら最期くらい潔く死ねよ、なァ?」

「そぉ、んな――」

 

 あくまで冷酷に突き放す言葉が、生きる希望の全てを奪い去ったかのように。

 男は胸を押さえたままどさりと倒れ、痙攣して、やがてぴくりとも動かなくなった。

 息絶えた男の体は瞬く間に色を失った石灰となり、そして崩れて形さえも失い、地に混ざり風に攫われ消えていく。

 即ち、それが亡者の死であった。

 否、それは殺害だ。ほんの僅かな叛意を示したというだけで行われた、『魔法』による無慈悲な虐殺。

 

 同じ境遇の仲間の死を目の当たりにして……コーダウの手下たち、彼が力ずくで従えた十数人ほどの男の亡者たちが恐怖に震え上がる。次は自分がああなる番かもしれない、と。

 そんな手下の動揺を見て、コーダウはがしがしと頭を掻いた。それもまた、獣がするような粗雑さだった。

 

 今の男を殺したのは、どんな口答えも許さぬことを示し、恐怖によって集団の支配を強める為の見せしめではあったが……これほどの恐慌となると流石に逆効果であろう。

 自分の手で作り出した緊張状態を少し緩和させるため、彼は得意とは言えない弁舌に頼ることにした。

 

「あー。そりゃまァ、オレだってちょっとどうかとは思うんだよなァ。オレより若い身空で死んだ女を甚振って拷問してさァ。そこまでして『腕輪』を一つ手に入れたって、八つ全部が手に入る保証なんてどこにもないのになァ。地獄に犇めく何百何千万の亡者、その中のたった1人になるのなんてどれだけ難しいか、ちょっと想像もできねえし、なァ」

 

 言い訳のようにそう言って、彼は死んだ亡者から視線を戻す。

 未だ窒息の余韻が抜けきらないのか、呼吸荒く地面に手を付いたまま……それでも目尻の涙さえ拭わず気丈にこちらを睨み付ける、『腕輪』を授けられたという女性、ネルヴィの方へ。

 そんな彼女を拷問にかける男、コーダウは、獲物を前にした猛獣が唸るように熱っぽく続けた。

 

「でもさァ、男に生まれたからにはよぉ。デカい夢見なきゃ嘘じゃねえかよ、なァ?」

 

 生き返りという野望の為、レイワードとその姉より平穏を奪った略奪者。

 獲物を凝視するその左眼は――ふたつの瞳孔とふたつの力とを同時に持つ、異形にして重瞳(ちょうどう)の『魔眼』であった。




・地獄の悪鬼/始海竜レヴィア

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・簡易画、地獄の構造

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