四月。
新しい教室。
私はおそるおそる席に腰を下ろした。
鞄はそのまま膝の上に置いた。
周りを見渡し、
そっと机の上に指先を置いては、すぐに引っ込めた。
教室の中では、
小さな声が行き交っていた。
互いの名前を呼び合い、笑い、
挨拶を交わす姿も目に入る。
机の横に、もうひとつの鞄が置かれた瞬間、
私は首を巡らせた。
片側にまとめられた髪。
乱れのない制服の着こなし。
彼女はまだ座る前から、
こちらを見ていた。
「おはよう。隣の席だね。よろしく」
その瞬間、
無意識に——
口が先に動いた。
「……きれい。」
言った途端、あまりのことに両手で口をふさぐ。
でも、もう遅い。
わ、私ったら今何てことを!
失礼なのかもしれないのに!
「ご、ごめんなさい! 思わず言葉が出てしまって……失礼しました!」
私は頭を下げて謝った。
「ふふ、いいの、いいの。顔上げて。失礼だとか思ってないから」
彼女は笑みを含んだ声で、手を軽く振りながらそう言った。
「よかった……」
私は小さく息をつきながら顔を上げた。
「ふふっ、かわいいね。名前、何て言うの? 私、あなたといい友達になれる気がする」
私の様子を見て、彼女は目を細めながらそう言った。
「え? か、かわいいなんて……違います。それを言うなら、むしろあなたのほうが……」
頬を熱く染め、慌てて手を振る。
今きっと、とんでもなく情けない顔をしているはず。
「あら? 私の言葉を否定するつもり?」
彼女は今度はからかうような笑みを浮かべた。
「い、いえ! そんなつもりは……!」
両腕を大きく交差させて否定する。
「あははは! 本当にかわいいね。じゃあ、名前は? 私は胡桃沢梅。みんな“クルミ”って呼んでる」
彼女は少し大きな声で笑い、自分の名前を名乗って、もう一度私に名前を尋ねてきた。
そういえば、まだ言ってなかったんだな。私の名前。
「……源春香といいます……」
少しうつむきながら小さく答えた。
「源春香ちゃんか。いい名前だね。じゃあ、春香ちゃんって呼ぶね」
やわらかな笑みを浮かべながらそう言った。
ちょっと待って、春香ちゃんって!? 会って一時間も経ってないのに!?
「春香ちゃんも、“クルミ”でも“クルミちゃん”でも好きに呼んでいいから」
私の戸惑いなどお構いなしに、彼女は私にも気軽に呼んでほしいと促す。
「えっと……会って一時間も経ってないのに、そんな気安く呼んでいいんですか……?」
気がつけば、反射的にそう口走っていた。
「いいの、いいの。こう見えて私、人を見る目があるし、春香ちゃんとは本当にいい友達になれる気がするの」
“本当にいい友達になれる”……私が?
中学の頃、私に気軽に接してくれた友達は多かった。
でも、彼女は……何か違った。
うまく言葉にできないけど、なんていうか、私に向けられる絶対的な信頼が感じ取れた。
ただ話しやすいっていう感じじゃなくて——
「春香ちゃんは……嫌?」
考え込んで黙ってしまった私に、彼女は不安そうに尋ねた。
「あ、いえ! 嫌とかじゃなくて! そんなふうに言ってもらったの、初めてだから……混乱してしまって……」
慌てて両手を横に振る。
「初めて……? ふ〜ん、そうなんだ……」
彼女はしばらく考えて——
「じゃあ、私が春香ちゃんの“初めて”ってことで! これなら文句ないでしょ?」
そう言って、ぱっと笑った。
やっぱり、とても綺麗だった。私とは比べ物にならないくらい……
「本当に……私なんかでいいんですか? 面白くもないし、話すのも下手で、動作も遅いし……それに……」
いつものように、自信のない言葉が口からこぼれた。
「いいの。そんな春香ちゃんでも。私こそ、春香ちゃんに迷惑かけちゃうかもしれないし」
私の言葉を遮るように、彼女ははっきりと言い、また少し茶目っ気を帯びた表情を見せた。
「だから、春香ちゃんがどうしたいか教えて。私は春香ちゃんのしたいようにするから」
そう言って、細めた瞳でまっすぐ見つめてくる。
胸の奥が、少し熱くなる。
分かった。彼女は本気で私と友達になりたいと思ってくれている——。
それはもちろん、嬉しい。入学してすぐ、一緒に過ごせる友達ができるのだから。
でも……私なんかが、こんなきれいで可愛い子と友達になってもいいの……?
だけど、彼女は“私がいい”と言ってくれる。
私の何を見て、そんな気持ちになったのかは分からない。
けれど——こんな私でも、誰かの支えになれるなら……その手を、握りたいと思った。
「わ、私も……あなたみたいにきれいで可愛い人と友達になれたら、嬉しいです……」
震える声をなんとか紡ぎながら答えた。
「“あなた”? 距離感ありすぎじゃない?」
彼女はくすっと笑って、
「それに、ずっと敬語だし。やっぱり春香ちゃんは私と友達になる気ないんだ?」
ぷいっと顔を背け、目を閉じた。
「い、いえ! そんなんじゃないです! ただ、急にタメ口は……しにくくて……で、でも、さっき言ったのは噓じゃないです! 信じてもらえないかもしれませんけど……だ、だから……」
「ぷっ! あははは!」
すると、彼女は吹き出した。
「ああ、ごめんごめん〜。必死に弁明する顔があまりにも可愛くて、つい……ぷっ!」
涙まで浮かべ、必死に笑いをこらえながら机に突っ伏す。
「え……え?」
私は戸惑うばかりだった。
怒ったわけじゃ……ない?
「……あはは……もう、春香ちゃん、反則だよ」
しばらくして体を起こした彼女は、私を見てそう言い、
「タメ口でいいよ。そのほうが、私も楽だから」
笑いながら手を差し出した。
「この手、握ったら——タメ口ってことで」
そう言ってから、また顔を正面に向けた。
——これは“試し”だった。彼女なりの
『タメ口するか、しないか。貴方が決めて』
差し出された手が、まるでそう言っているみたいだった。
胸の鼓動が、自分でもはっきり聞こえる気がした。
これを握れば、強制的にタメ口になる代わりに、彼女と本当の友達になれる。
握らなければ、これまで通り——少し人から距離を置いて、無難にやり過ごすだけ。
……もう、背景の一部みたいな存在にはなりたくない。
誰かの力になりたい。私も、自分だけの何かを持ちたい。
そのためには……このままじゃ駄目。
もう、礼儀正しいだけの自分のせいで、誰かに距離感を感じさせちゃいけない。
もっと自然に……人と過ごさなきゃ。
この人は、それを教えてくれる気がする。
少なくとも、そばで見て学べそうな気がする。
だったら——!
私はそっと、彼女の手を握った。
彼女がまた、こちらを振り返った。
「よ、よろしくね……えっと……ク、クルミちゃん」
うつむいたまま、顔を見られずにそう言った。
「だ〜め、顔上げて。友達は上下関係じゃないでしょ? 上げないなら、この手、一生離さないから」
そう言われ、私はゆっくり顔を上げた。
彼女はまたこちらを見て——
「うん! よろしい。私もよろしくね、春香ちゃん!」
笑顔でそう答えてくれた。
さっきまでの緊張感が嘘のように薄れ、手から伝わる体温が広がっていった。
温かくて、やわらかい。
その温もりは、言葉より先に心をほぐしてくれるみたいだった。
私はそっと手を離し、小さく息を吐いた。
彼女は相変わらず笑っていた。
その笑顔が、さっきまでの混乱をすべて包み込んでくれるようだった。
「……そんな顔も出来るんだ、春香ちゃん」
クルミちゃんは私の目を見て、ほんの少しだけうつむいた。
ついていくべきだろうか——
少し迷っちゃったけど、いつの間にか私の視線は彼女と同じ方向に落ちていた。
彼女は自分の手の甲を見つめていた。
さっきまで、私が握っていたところ。
私は少しの間そこを一緒に見つめながら、ふっと顔を上げた。
クルミちゃんもちょうど私を見ていた。
静かな笑み。
口角だけがわずかに上がった、ほんの小さな表情。
「……うん、それでよし」
小さく息を吐き、そう言って、彼女はこくりとうなずいた。
——キーンコーンカーンコーン——
そのとき、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。
「あ、もうホームルームか。春香ちゃん、今日のお昼は?」
小さくため息をつき、微笑みながら尋ねられる。
「私はいつもお弁当……」
席に座りながら、苦笑いまじりに答えた。
もしクルミちゃんが購買派だったらどうしよう……
「本当? よかった。私もお弁当持ってきたから、一緒に食べよう」
その明るい声に、不安は一瞬で消えた。
「一緒に……」
小さく息を飲み、
「うん!」
と笑顔で答えた。
入学早々、友達ができて、一緒にお昼を食べれるなんて——嬉しかった。
「おかず、少し交換しない?」
また茶目っ気のある笑み。
「いいけど……私のおかず、美味しくないかも」
少しうつむいて答える。
「う〜ん? もし食べてみて本当に美味しくなかったら、私のおかずあげる。ならいいでしょ?」
目を閉じ、やさしく微笑む。
あまりのきれいさに、胸が高鳴った。
「ん? 春香ちゃん?」
返事もせず見惚れていた私に、彼女は首をかしげた。
「あ、ごめん! ちょっと考えごとしてて」
私は少し顔が赤くなって、口元を手で隠し、そっと視線を逸らした。
「ふ〜ん、私を前にして他のこと考えられるんだ?」
からかうような声。
「そ、その……やっぱりクルミちゃん、笑顔がきれいすぎて……返事忘れちゃって……それで……」
しどろもどろに視線を逸らしながら言う。
「もう、春香ちゃん。さっきも言ったけど、私は——」
Changsup Park, [2025-08-14 오후 2:47]
そのとき。
——ガラッ——
教室のドアが開く音がした。
無意識に前を見ると、担任の先生が教壇に立っていた。
「皆、静かに。ホームルーム始まるぞ」
その声で、わずかに残っていた教室のざわめきが静まり、やがて消えた。
「今日は終礼で学級委員長を決めるから、立候補や推薦したい人考えておくように。それじゃ、出席取るぞ」
伝達事項だけ告げて、先生は出席を取り始めた。
学級委員長か……
私は立候補するつもりも、推薦できる知り合いもいない。
けど、“棄権”とだけ書くのはちょっと……誠意がないように見えるし……。
「胡桃沢梅」
「はい」
クルミちゃんの返事に意識が戻ったそのとき、視界の端に小さな紙が置かれていた。
反射的に横を見ると、クルミちゃんが笑顔で紙を指さしている。
開くと——
『春香ちゃん、私は確かにきれいで可愛いけど、春香ちゃんも可愛いからそんなに気使う必要ないの。もっと心楽にしていて欲しい。分かった?』
……私が緊張しすぎてるって気付いて、そうならないよう気を使ってくれてるんだ。
ペンを取り、小さく——
『うん、分かった。ありがとう、クルミちゃん』
と書いて折りたたみ、返した。
クルミちゃんは一瞬、目を大きく見開いたが、何も言わずに開いて読んだ。
そして口元を押さえ、くくっと笑い、私を見てもう一度笑った。
視線を逸らしたかったけど、勇気を出してうなずくと、
クルミちゃんも私に応じてうなずいた後、また首を上げて前を見た。
「源春香」
「はい」
返事をして自然に前を向く。
クルミちゃんは本当にきれいな人だ。
でも、それだけじゃない。
私のような子にも配慮してくれる、繊細な心を持っている——。
そう思うと、胸の奥が暖かくなった。
これが、私とクルミちゃんの出会いだった。
このときはまだ知らなかった。
この出会いが、どんな意味を持つのかを——。
少しひんやりとした四月初めの教室の空気が、
どこかよそよそしく感じられた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
今回はCFSの春香と梅が初めて会話し、少しずつ距離を縮めていく様子を書きました。
次回はどんな物語が待っているのでしょうか。ぜひご期待ください。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。