異世界から帰ったら江戸なのである   作:左高例

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80話『むじな亭のタマと江戸の人々』

 ──居候の朝は早い。

 

 と、緑のむじな亭に泊まりこんでいる従業員のタマこと、ぼくはそんなことを思いつつ毎朝一番に目覚める。

 店員なので別に居候ではないのだが、世話になっているのだから一番に働くのは当然だと思っているし、そうしなければ落ち着かない。

 九郎兄さんが買ってくれた布団からむくりと起き上がり、綺麗に布団を畳んで一階に下りる。この際は隣の部屋で寝ている兄さんを起こさないように静かに行う。まあ、彼が少々の物音で目覚めた試しは無いのだが。

 まだ日も昇らぬ薄暗い中、大きい水瓶から桶に汲んで顔を洗う。

 この水瓶は兄さんが飲用水として貯めているもので、瓶の内側に魔法の術符、[精水符]が貼り付けてありそこから染み出す水が一定の水量を保つようになっているという。

 共用の井戸水は苔むした味がして特に夏場は飲用に向かない。飲水販売の棒手振りが居る程なので飲めて美味い水はそれだけで店の価値を上げるだろう。

 

「うー冷た」

 

 水に浸した手が痛くなるような感覚を覚えながら顔にばしゃりと掬った水を掛けて眠気を払う。 

 うがいもした後でやや曇った鏡を見ながら寝癖を整える。女装をして伸ばしていた時はつかなかったが、兄さんと同じぐらいの長さに揃えるようになってからは癖が付くようになったのである。 

 当の兄さん本人は寝癖でぼさぼさになっていても気にしないので、大抵知り合いの女性の誰かが梳かしてやるのだが。

 

「手頃に女の子が気にして構われる点を作る……それが細長いあれのコツなのかなあ」

 

 言いながら店の竈にやってきた。

 竈の中、灰の上に置かれている赤い札──炎熱符を拾い上げてつまみ、目を瞑りながら暫く集中する。

 こう暖かなイメージを思い浮かべて……。

 

「んん……海綿体膨張!」

 

 ぼくの物騒な掛け声と同時に、炎熱符に火が灯った。指で摘んだ札が燃え出すのは最初は驚いたが、術者は焼かない炎である。

 兄さんが異世界とやらから持ち込んだ術符は、一応誰でも使えるようにはなっているが才能が無い人では術式の把握が出来ずに、殆ど直感めいた相性がなければ魔法は発動できないのであるが、兄さんの指導によりぼくは炎熱符を使えるようになっていた。

 前世がどうとか、兄さんも感慨深い顔をしていたけれどこうして使えるので彼がいちいち朝晩火の管理をしなくても良くなったのである。

 楽をするために教え込んだと云っても良い。

 余談だけど、江戸でこの魔法が使えるのは兄さん以外ではぼくとお七ちゃん、晃之介さんも少しだけ使えるらしい。

 

 ともあれ、竈で火力を調節する。この店の竈は兄さんが改造したことで、下の火をくべる炉を繋げてあるので一枚の炎熱符からの火で二つ鍋が使える。

 片方で米を炊いてもう片方は湯を沸かしておく。沸いた湯は土瓶に移して、小さな火鉢に掛けて使えるようにしておけばいつでもお茶が飲める。

 この時間になって一階にある部屋から店主の佐野六科さんがぬっと店に姿を現わす。

 

「おはようございます!」

「うむ」

 

 毎日変わらない挨拶を交わして、石像が歩いているようにのっしりと彼も顔を洗って髭を剃る為に外に出る。

 町人髷を整えるのは面倒なのか気にしないのかしていない六科さんだが、髭はしっかり剃っている。亡き妻であるお六さんに命じられて忠実に指令を守っているのであった。

 戻ってきた彼に湯のみに入れた白湯を渡すといつものようにぐっと飲み干して、毎日同じ手順で蕎麦粉と小麦粉を取り出し仕込みに入る。

 六科さんが一時期は朝食も作っていたのだけれど、

 

「朝から気分がだだ下がりになる」

 

 とは兄さんとお房ちゃんの意見なので手出しはしないことになっていた。

 今はぼくが用意をするのが毎朝の仕事だ。

 蕎麦粉を練り合わせている六科さんが棚から筒を取り出して、そこに入っている緑の粉を混ぜた。

 

「それは?」

「山葵(わさび)の粉だ」

「なんで!?」

「蕎麦つゆに混ぜる事もあるだろう。麺に混ぜても良い筈だ」

「……」

 

 六科さんは時々こんな謎改良を加える。いや、改良と云っていいものやら。なにせ本人は味がわからないので、周りの評価を聞かねばわからない。まあ、個人的な嗜好では刺激物や濃い味が好きみたいだけど。

 一応向上心らしいのがあるからやっているのだとは思うけれど……。 

 ちなみに店で出す品も、基本的に六科さんは蕎麦専門で他の一品料理なんかはぼくが作るようになっている。まずは蕎麦の腕前を上げてもらわないと。

 とりあえず捏ねている蕎麦にどばりと明らかに雑な量の山葵粉が入れられるのを横目に見ながらご飯と味噌汁を作る。

 

「お腹空いたの……」

「おはよう、お房ちゃん。顔洗っておいで」

「あたいのお味噌汁は卵を入れてね、卵」

 

 目をしょぼしょぼさせながらお房ちゃんが裏口に歩いて行った。

 この店の看板娘なお房ちゃんだけどまだ十歳なので、早起きさせて家事をさせるのも忍びない。と云うわけでぼくが朝の当番はするようになって、彼女もゆっくり眠れるようになった。 

 というか九郎兄さん、小さい女の子に朝飯作ってもらってーの起きてこないから叱られてーのってこれまでの生活態度がだらしない。 

 だらしない兄さん。

 だら兄だ。

 一番起きてくるのが遅いのが基本的に兄さんである。いや、正確には明け方に一度起きて厠に立っているんだけど。階段降りるのが面倒とかで、最近は窓から飛び降りて戻るときもあの青い着物でふわーっと空を飛んで戻ってる。幽霊話が新たに生まれたよもう……。

 まあそんなことを思いつつ、朝食の準備を整えた。

 今日は大根葉と細切り大根を入れた味噌汁だ。これがまた卵に合う。

 白身が固まる程度に温めてお椀に注ぎ、皆の分を準備した。

 山盛りのご飯。

 大根の味噌汁。

 小鯵の南蛮漬け。

 お漬物。

 

「ごきげんな朝食だ……」

「うん、美味しそうね。タマ、九郎を起こしてきてなの」

 

 お房ちゃんが座敷に並べている間に、ぼくが二階に上がって兄さんを連れてくる。

 がらりと部屋の障子を開けて布団で寝ている兄さんに飛び込むぼく。

 

「うぇーい! 兄さん爽やかな朝の爽やかさを性欲に返還してタマちゃん登場タマー!」

「朝っぱらからやかましいわ」

「ふべっふ」

 

 枕で迎撃された。

 なお兄さんが自作している柔らかな木綿枕なので痛くはない。念のため。木の枕とか多いけどこの柔らか枕は便利なのでぼくも愛用している。

 とりあえず起こしたのはぼくの兄的保護者存在な九郎兄さんだ。見た目は若いけど中々の色男である。

 色男ってのはまあ要するに情夫(いろ)男って意味なので色んな相手の細長いアレみたいなヤリ手の細長いアレ。でも皆何かと世話になってるのでそれを還元しようとしているんだね。多分。

 のそのそと起きだす仕草は老人臭く、見た目との不釣合いだけど似合っているのがどこか面白い。

 兄さんの手を引いて一階に降りて座卓を囲み朝食にする。

 

「いただきます」

 

 そう皆で云ってご飯を食べ始めた。

 

「一晩経ったら美味しいのね。この揚げた鯵の酢漬け」

「飯が進むのう……六科、味噌汁に唐辛子入れすぎではないか」

「うむ?」

 

 と、すっかり家族一同と云った雰囲気で食べる朝ごはんがぼくはとても暖かくて幸せな気分になる。

 兄さんと六科さんがおかわりをしてぼくがよそって、

 

「毎度云うけど自分の分は自分で注ぎなさいよ、二人共」

 

 お房ちゃんが呆れながらもご飯茶碗に盛るのであった。

 それから片付けをして、ご飯の残りをぼくが握り飯に丸く固める。

 六科さんが握り飯を作ると「むぅん!」と馬力を入れるので圧縮された戦場食みたいな物体が出来上がってしまう。

 それを持って六科さんと二人で、店の裏長屋にあるお雪さんの家へ向かった。

 

「お雪。朝飯を持ってきた」

「はい、いつもすみませんよーぅ」

 

 鈴のような声が返ってきて六科さんが部屋の戸を開け、中に入る。

 一輪草の白い花のような透き通るほど綺麗な肌をした、前髪で目元を隠している美しい女按摩のお雪さんが住んでいる。

 彼女は目が見えない──慣れているのでそこまで不便ではないらしいけれど──ので、六科さんがこうして食べやすい食事を持ってくるのが習慣になっているのだった。

 ただ、朝は弱いらしく朝食の席に出てくる事はない。本当に弱いみたいで、お房ちゃんから絶対に朝起こしに行かないようにと釘を刺されている。なんでも寝ぼけて六科さんと間違えて誰彼構わず抱きつくのだとか。

 なにそれ羨ましい! くそうどうして最初に言ってくれるんだ! わからなかったらうっかり起こしに行くのに!

 ふう。

 ともあれ、六科さんに惚れている可憐な美人さんである。長屋の男連中は皆一度は振られている。無駄に手を出そうとすると六科さんの物理攻撃が鎖骨を砕くので紳士協定が組まれているとか。

 

「うふふ、タマちゃんもおむすびをありがとう」

「いえいえ当然タマ!」

「六科様は以前に、お粥みたいなご飯をおむすびにしようとしたら手がでろでろになったことあるんですよぅ?」

「融通が利かなすぎる……」

「まあ勿体無いからわたしが全部舐めとったけれども……うふ、うふふ」

「あー駄目駄目助平すぎます! 朝から江戸の道徳が低下した感じタマ!」

 

 と、まあ時々変な方向に暴走することもある。

 六科さんは全然気にしていないというか動じていないというか、ちょっとずれた人なのでお雪さんの気持ちにさっぱり気付いていないのだけれど。

 按摩をしているお雪さんは一度揉み療治を頼んだ事はあるけど……変な趣味に目覚めそう。目覚めた。そんな倒錯的な経験でした。また頼みたいです。

 

 

 気を利かせて六科さんと二人分ぬるめのお茶を出してぼくは店に戻った。

 店を開ける為の仕込みをあれこれとしなければならない。

 経営方針として清潔感のある店内を兄さんから指示されているので毎朝床から机もすべて磨いておく。やり続けると当たり前っぽく思えるけど、結構やってない店は世間に多い。

 掃除をしながら歌を口ずさむ。

 

「ターマターマタマ売女(ばいた)の子♪ 白い膿が、股から出た♪」

「訴訟リスクを抱えてそうな歌だのう……」

 

 呆れた顔で座敷に座っている兄さんが云う。意味はわからないけど。

 棒手振りの業者から野菜や魚、豆腐など食材を購入して代金を付箋に書いて出納帳に貼っておく。

 これを管理するのはお房ちゃんの仕事だけど、小さな子がお金の計算をしながら一喜一憂する姿はなんとも頼もしい。

 暫くしているとまだ暖簾を出していない入り口が突然開けられて人が駆け込んできた。

 黒い喪服に身を包んだ眼鏡の、江戸に一人ぐらいしか該当しなそうな女性だ。

 

「大変だよ九郎くん!! このままでは江戸は消滅する!」

「いきなりどうした石燕」

「真相を探るべく私達は奈佐に飛んだ……!」

「飛ぶな」

 

 現れたのは絵師の鳥山石燕さんだ。兄さんと一番仲が良い、運命の赤い細長いやつで繋がってそうな人である。

 胸が大きいしぼくも可愛がってくれてあと胸大きいし膝枕とか頼めばしてくれるしあと胸大きいし店の売上にも貢献してくれてあと胸大きい上にお金持ちで胸が大きい人。

 正直兄さん羨ましい!

 ともあれ、お酒好きでトンチキなことを言い出す変人ではあるのだけど、兄さんはそれに付き合ってあれこれと遊び歩くのである。

 

「と云うわけで九郎くんを借りて行くね。江戸の危機なのだよ!」

「はぁい。兄さん、行ってらっしゃい」

「仕方ないのう……」

 

 面倒くさがりだけどなんだかんだで彼女の頼みを聞くのは兄さんからしても、ある種慣れというか放っておけない感じがするからだろうか。

 もしくはお小遣いをいつも貰っている引け目かも。

 ……い、いやそうじゃないと思いたいけど。

 石燕さんはお房ちゃんも手招きして呼んだ。

 

「あ、それと房も来たまえ」

「えー」

「江戸の危機なのだよ!!」

「さっきからそればっかりじゃない先生。勢いで誤魔化そうとしてない?」

 

 やや不満そうにしながらも、兄さんと出かける準備をするお房ちゃん。

 ぼくが店に入るようになってから、彼女も石燕さんのところに絵の勉強に出かけたり遊びに行ったりすることも増えた。良い事だ。

 お房ちゃんはぴぴっと指をぼくに向けて云う。

 

「あたいが留守の間もお店はバンバン繁盛させるのよ」

「了解!」

 

 ぴっと手を上げて応える。

 頑張ろう。

 

 

 三人は出て行ってそろそろ開店の時間になり、ぼくは暖簾を店の外に掛けた。

 緑地にお房ちゃんが狸の絵を描いている可愛らしいものだ。これのお陰で店の名前が売れた感じはする。

 緑のたぬき亭と。

 間違ってる!

 やはり店名も掲げるべきだろうかと店の前で思い悩んでいると声が近づいてきた。

 

「だからあ、確かに設定は出したけど実際書くのは時間無いし、僕文才無いから連載は無理だって! 一話目で永遠になるって!」

「うーん面白いと思うんですけどねえ、真田十勇士女体化物。じゃあ設定だけ雨の字にでも渡して書いて貰いますか」

「そうしてよ。っていうか僕が書くと下手に何人か知ってるお陰でどうも萌えないゴミと化しそうで……根津甚八なんてアレが女体化して両乳を振り回す忍術とか使いそうじゃん」

「それは嫌ですねー確かに……おっと、お店開いてますよ」

「いらっしゃいタマ!」

 

 にこやかに挨拶をするのは店の常連である、動きやすそうな脚絆に半纏、取材用の筆紙をまとめた鞄を腰につけている胸の大きな女性記者、お花ちゃん。

 そして同心の黒袴を着ているけれど顔は黒頭巾をすっぽりと被っていて怪しい人は町方同心で変化の術の達人らしい、藤林尋蔵さん。

 お花ちゃんの情報収集や取材に、同心である藤林さんが時々協力している関係らしい。

 

「早めのお昼にしましょうか」

「そうだね。タマ君、手軽に食べれるお勧めはあるかい?」

「酢でしめたコノシロのお寿司なんてどうでしょうか!」

「おっそれ初めて食べるかも。あとお茶もお願い」

 

 朝に買ったばかりのコノシロを刺し身にしてもらい、塩をまぶして酢で漬けたものがある。

 それの下に一口で食べれるぐらいの大きさのご飯を握って載せる。兄さんが提案したお寿司でまだ江戸には広まっていない形だ。

 手軽に食べれるし良いと思うんだけどなあ。

 

「はい、どうぞ!」

「へえ、これがお寿司かあ……なれ鮨とは全然違うんだね」

「そういえば伊作のところで出してる稲荷寿司は食べましたか? かなりいけますよ」

「くう……あのケモ野郎め、最高の嫁だけならず商売でも成功しやがって……! あーあ、僕にも人形が動き出してお嫁に来ないかなあ!」

 

 黒頭巾を付けたまま寿司を口元に運ぶと、すっと布を透過するように消えていく。

 茶を啜っても口元の布が濡れた様子は無い。

 何度見ても不思議だなあと思うけれどそんなもんかな。

 人形が動くと云えば、

 

「日本橋に超精巧な少女人形を作るお店があるらしいタマ」

「なんだって!? それは本当かい!」

「この前九郎兄さんが、そこの跡継ぎを見つけてきたとか何とか」

「ようし、今日の警邏はその辺りに行こう! ありがとうタマ君!」

 

 ウキウキとし出す藤林さんにお花ちゃんが口元に手を立ててぼくに囁いてきた。

 

「どうも知り合いの男連中は趣味が悪くて困りますねえ。人形とか狐とか一夫多妻願望とか」

「あっはっは。ぼくは全部バッチコイだけどね!」

「タマの字、悪い大人になっちゃいけませんよ。いい男になってください。唾つけておきますから」

「バッチコイ!」

 

 などと言って、二人はひょいひょいと手早くお寿司を食べてお茶を啜り、料金を払ってそれぞれ別方向に別れていった。

 お花ちゃんも可愛いんだけど、活動的すぎるから行き遅れ気味で大変だなあ。

 

 

 続けてやって来たお客は、

 

「おーう。やってるか?」

「久しぶりだねえ、タマ助君」

「あ、影兵衛さんと睦月さん。わあ、お子さんですか!?」

 

 悪党面に快活な笑みを浮かべている武士と、線は細いがしゃんとした女性。火盗改同心の中山影兵衛さんとその奥さんだ。

 睦月さんの胸元に、布に包まれた小さな赤ん坊が抱かれていた。

 

「どうだ可愛いだろ! 名前は新助(しんすけ)ってんだ」

「いやあーお父さんに似なくて良かったぁー」

「どういう意味だおら」

 

 笑いながら影兵衛さんは軽くげんこつを落としてきた。

 最近子供が生まれて、この怖ぁい切り裂き同心も丸くなったと噂されている。

 しかし本当に赤ん坊はやわっこくて可愛い。

 ぼくも赤ん坊産みたい。

 無理か。

 

「ほら、タマ助君も抱いてみる?」

「いいの? いいのー?」

「あっ、拙者ァ抱かせて貰えねえのに……」

「旦那さまは下手だから駄目ですっ! すぐ泣かせるんだから」

「ちぇっ」

 

 江戸で最も危険な男も、奥さんの前では形無しみたいで和む。

 受け取った赤ん坊は暖かくて、重くて、壊れそうで可愛いけど怖くなってすぐに返した。

 

「よし、ちょっと飯を食っていこうぜ」

「体に良さそうなものはある?」

「はい! 乳をやる時期は白米のとろろ飯を食べると良いって昔聞いたからそれを出すタマ!」

「わあ、じゃあお願い」

 

 二人を店内に案内して、座敷に上がらせる。

 授乳期は脂っこいものや生魚は止めたほうがいいらしいのは遊女をしていた女衆が言っていたことだ。

 その点さらりと食べられるとろろ飯は消化も良い。

 山芋を摩り下ろして、蕎麦のかえしを薄めたつゆと共に膳に盛って出した。 

 脂っけの好きな影兵衛さんは少し物足りないだろうから焼いた鰯も追加してある。

 

「こいつぁありがてえ」

「今日は非番ですか?」

「おう。だから嫁と息子連れてな」

「旦那さまったら、まだこんなに小さいのに春駒を買おうとか、相撲を見せようとか言い出すんですよ?」

「早い早い」

 

 笑いながら云うと影兵衛さんは罰が悪そうにそっぽ向いた。

 

「あ、それとタマ公。これを……」

 

 影兵衛さんが包みを渡して来て、ひそひそと告げる。

 

「九郎の銃をぶった切った弁償だから渡しといてくれ」

「それにしては軽いような……」

「中見てもいいぜ?」

 

 言われたので開けると、手紙と一枚の切手が入っていた。

 

『ごめんね』

『お詫びに九郎の言う事聞く券』

 

 の、二枚。

 

「いや……ちょっと今あれじゃん。拙者勝手に金使えないじゃん? だから代わりにさあ」

「ははは……」

「ほら旦那さま、とろろ飯が美味しいよ?」

「おっとメシメシ」

 

 そして二人は食べ終わって送り出す。すっかり仲良し夫婦でいいなあ。

 

 

 感慨に耽っていると次のお客さんが訪れた。

 

「空いてるかい?」

「はいはい、四名様入りますー!」

 

 振り返ると老人が一人、子供が三人の団体さんだった。

 千駄ヶ谷に住んでいる作家の天爵堂さんと、そこに居候している雨次くんに茨ちゃん。あと、生徒のお遊ちゃんだった。

 四人を座敷に案内させて注文を取る。

 

「僕は……軽いお茶漬けなんか出来るかい」

「はい、昆布茶でさっぱりしたのができますよ」

 

 乾燥昆布を細かく刻んで湯で出しを取って、少し塩気を加える簡単な物だ。

 対面に座った雨次くんが悩み顔で考えている。

 きっと買い物とか行ってもかなり時間を掛けて選びそうな性格をしている、生真面目な少年だ。じゅるり。

 

「ええと、僕はなにがいいかな」

「若者向けにはさつま揚げを使った天茶漬けなんてどうタマ?」

「じゃあ、それで。茨も同じのでいいよな」

「……」

 

 頷く。この子は喉が悪いのであまり喋れないそうだけど、しっかりものな雰囲気があって兄さんイチオシの良い子だ。ごくり。

 

「わたしもー! 大盛りにしてねっ!」

「了解~」

 

 元気そうにお遊ちゃんも云う。天真爛漫な感じでもちろん大好物な属性なんだけど、手を出すと刺してきそうな危険っぽさを感じる。吉原でも居たなあこんな思いつめてお客に入れ込んでた娘。

 注文を殆ど同じに揃えることで調理の手間を楽にするのだ。 

 四人分の出汁を作りつつ、蝿帳……蝿や虫が集らないようにしている棚に入れている蓋を被せた皿からさつま揚げを取り出した。

 蕎麦や一品にも使えて数日は保存が利くので兄さん行きつけの薩摩なお店で買いだめしてあるのだ。

 これを蒸して温め、ご飯の上に載せて出汁を掛ける。漬物の小皿も用意して運んだ。

 

「はい、お待たせしました~」

「美味しそうね雨次!」

「ああ、そうだねお遊」

 

 雨次くんの隣に座っているお遊ちゃんが嬉しそうに云うので、彼も笑みをこぼして返した。

 率直に言ってモテる顔立ちをしている上に、ちょっと苦労人属性が女の子受けしそうな感じなのだろうか。

 さらさらとした出汁漬けはご飯が出汁を吸って膨らむので満腹感は大きい。牛蒡などの野菜も入って柔らかくむされたさつま揚げも良い旨味が出ているだろう。

 

「そういえば天爵堂さんが町まで出歩くのは珍しいタマ」

「そうかい?」

「爺さんはいつも家で本を読んでるからな……」

「僕だって人並みには町に来るさ。閉じこもってばかりでは偏った文しか書けないからね」

 

 孫のような雨次くんの言葉に反論する天爵堂さん。彼は学者であれこれ本を書きつつも黄表紙の作者もしている、根っからの文系なお爺さんなのだ。

 しかし、血は繋がってないらしいんだけど雰囲気やら喋り方やら、二人は似ている。本当の祖父と孫のようであった。

 

「お代わり!」

「早っ……お遊、ちゃんと味わって食べたのか?」

「なによーほら、茨だって食べ終わってるじゃない」

「茨も……」

「いいさ。二人分、お代わりを頼むよ」

「はい、毎度ー!」

 

 少し恥ずかしそうに丼を差し出す茨ちゃん可愛い!

 そして二人分を作っていると店に新たにお客が入ってきた。

 

「はぁぁぁいこの後おじさんどう考えても奇声を発して暴れ回りまっすぅぅぅ」

「外でやれ!」

「あ、甚八丸さんに小唄ちゃん。いらっしゃーい」

 

 入ってきたのは千駄ヶ谷の地主、根津甚八丸さんとその娘の小唄ちゃんだった。

 雨次くんの幼馴染一員である。

 甚八丸さんは抱えた駕籠を板場の近くに下ろした。

 

「ご注文のお野菜と卵届けに来たぁぜ」

「どうも! はいこちら代金です」

 

 甚八丸さんは沢山の小作農家を抱えていて、広い庭で鶏もいっぱい飼ってる。それで取れる野菜と卵を契約して週に一回ぐらい持ってきてくれるように頼んであるのだ。 

 卵なんかは貴重だから直接生産者から買えるのは便利だなあ。

 これも兄さんの人脈のおかげである。

 さすがですお兄さま!

 甚八丸さんは先客の四人を見てにんまりと笑い小唄に語りかける。

 

「おんやぁ? 新井の爺っつぁん御一行が仲良くお食事中じゃないですかぁウタさん。ハブられてない? ねえ君ハブられてない?」

「雨次いいいいい!?」

「小唄、お店では静かに」

「ううう」

 

 項垂れる小唄ちゃん。負け組の香りが仄かにして親近感湧く。いや別にぼく負け組じゃないけど。

 

「ということでぇ、俺様達も飯食ってくか。卵は新鮮なうちが旨ぇからなんか作ってくんな」

「じゃあ卵丼にしますねー」

 

 これも簡単だ。野菜を幾つか小さく刻んで、適度に薄めた蕎麦のかえしで煮て、上から溶いた卵をかけ回し半熟ぐらいに火が通ったらどんぶり飯に掛ける。

 黄色い卵の大地に海苔を載せて出来上がりである。

 蕎麦のかえしってなんでも使えて便利だなあ。

 

「おう、うめえうめえ」

「今度これ作ってやるからな、雨次……」

 

 そして食事を終えて、甚八丸さんは千駄ヶ谷へ戻り小唄ちゃんを含んだ一行は版元へ向かうようであった。

 

 

 

「ういーっす」

「やってるな、邪魔するぞ」

「腹減ったぜー」

 

 そして次に来たのが道場主の晃之介さん、その弟子である双子のようにそっくりなのはお八ちゃんとお七ちゃんである。

 率直にぼくは告げる。

 

「相変わらず晃之介さんは谷底みたいですねえ」

「谷底? 何がだ?」

「ほら、両手に絶壁を抱えていて」

「だあああれの胸が絶壁だくるぁあああ!」

「痛い! もっと!」

 

 お八ちゃんと云う胸が嘆きの平原な少女が言論の自由を弾圧してくる。はっきり言ってこの二人は少年のような胸をしている。本当に少年なのでは? 訝しんで水浴びを覗いて殴られたぼくを誰が責められようか。

 片方のお七ちゃんはあまり気にしていないのだが、恋する乙女なのに胸が膨らまないという台無し感溢れるお八ちゃんは怒るのである。

 苦笑しながら晃之介さんが告げる。

 

「ま、お八の胸はどうでもいいとして」

「良くねえよ!?」

「何か力の付く物が出せるか? 鍛錬上がりで二人共腹を空かせていてな」

「なら鰻飯が一番タマ! ちょっと座って待ってて」

 

 三人を店に入れると、すぐ近くの露天で焼いて販売している鰻売りの朝蔵さんから、捌いて焼いただけの鰻を三本買う。

 

「へい毎度。……ところで録山先生のところのお八さん、増えました?」

「この勢いで増えてくれれば一人ぐらいぼくに惚れないかなあ」

 

 などと言いつつ店に戻る。

 やはり蕎麦のかえしに、砂糖を足して甘辛くしたタレを焼いた鰻に塗りつけてもう一度焼きを入れ、味を染み込ませる。

 それを解して飯に混ぜ込み丼によそう。朝に作った大根の味噌汁も添えて三人に出した。

 

「お待ち~」

「いい匂いがするぜ、こりゃあごちそうだ」

「おいおい、支払いは大丈夫かよ師父(しーふー)」

「これぐらい払える。見くびるな」

 

 言って三人、体育会系なのでわしわしと丼飯を食べるのであった。

 すると話し声と共に店に誰か入ってくる。

 

「とっぷげらいんぱるす! 麻呂の描いた妖怪画に文句をつけようなんて笑止千万ですなればあああ!!」

「明らかに変でしょ! なにが[婚活妖怪シキョーン]だよっ! 馬鹿にしてんの!?」

「説明しよう。婚活妖怪シキョーンに取り憑かれたら行き遅れるのだ! あとイマイチ絵が売れない。お祓いでもされればああ?」

「むきゃあああ! この阿呆ムカつく! 人より絵が売れて遊女にモテるってだけでぇっ!」

 

 一人は丸く剃っている眉をした若い男の人、吉原でも有名だった絵師の北川麻呂さんだ。彼に描かれた遊女は人気が出て、更に絵を見て身請け人になったって人も一人や二人じゃなく居たらしく持て囃される絵師さんである。

 もう一人は石燕さんの身の回りを世話している百川子興ちゃん。喪女な石燕さんの気に当てられたのか中々良い相手が見つからないのが悩みだそうで。

 晃之介さんが顔を上げて、声を掛けようか少し悩んだ様子であったが子興ちゃんが先に晃之介さんに気付いて駆け寄ってきた。

 

「もうっ! 聞いてくださいよ晃之介さん、あの助平艶絵師が人を馬鹿にするんですよ!」

「あ、ああ。大変だな」

「小生だってちょおおっと出会いが無いだけで本当は引く手数多なんだからっ! 家事は何でも出来るし!」

「た、確かに子興殿は魅力的だと、うん。俺は思うぞ」

「本当? ほうら見なさいこの阿呆絵師! あんたの曇って腐って爛れた目じゃ見通せない魅力をちゃんと見てるんだから。わかったら海に帰れ!」

 

 しどろもどろに告げる晃之介さんの言葉に我が意を得たりと胸を張る子興ちゃん。その胸は豊満であった。 

 晃之介さんは巨乳派だ。うん。わかるよ。でも貧乳もぼくは余裕の守備範囲だよ。ただお八ちゃんはからかうと面白いからいじり倒すけど。

 麻呂さんは芝居が掛かった様子で云う。

 

「その曇りなき眼(まなこ)で見定めよ! ううぇええ麻呂はイケてる面の男苦手ぇ、だってイケてるもん。遊女に聞いた女にモテるコツ第一位は──『顔が格好いい』ざけんな! 諦めてそこで人生終了じゃん九割の男は!」

「タマちゃん、小生にお茶と、お茶請けある?」

「綺麗に流したタマ……この前作った餅を使ったあんころ餅と梅漬けを持ってくるタマ」

 

 と、自然に晃之介さんの隣に座った子興ちゃん。晃之介さんが動揺している。

 婚活妖怪なのにすぐ近い良い男手を出さないというか……いやっこれは精一杯の彼女から仕掛けた接点なのかも。二人の対面で並んでいる七八姉妹がニヤニヤしている。

 餅の外側を餡で包んだオハギめいたお菓子と、甘さを打ち消す梅漬けを子興ちゃんに出して二人が他愛無い会話をしているのを微笑ましく見守るのであった。

 

「じゃあ麻呂にこの店で一番の物を持ってきてくれ!」

「はい」

 

 六科さん、出番です。

 彼は頷いてようやく本日一杯目の蕎麦を出すのであった。

 

 

 いい感じに騒ぐ麻呂さんを撃退してから、ややあって次に来たのは三人の同心であった。

 

「や、お邪魔するよう」

「少女の残り香がする……」

「これで一週間は呼吸に困らないなあ」

「本気で邪魔するなよお前ら」

 

 初老の人が後ろに続いた若い二人に半眼で告げた。

 椅子に座るなりぼくは煙草盆を差し出すと、

 

「あんがと」

 

 と、告げて懐から煙管を出したのは町方の筆頭同心美樹本善治さん。渋目だけど飄々としたおじさん。

 続いて席についたのが同じく町方の小山内伯太郎さんと菅山利悟さん。特徴としては両方共こども好き。ちょっと駄目な勢いで。

 

「軽く済ませて行きたいんだが、握り飯と味噌汁を頼めるかい」

「はいですー!」

 

 お櫃からご飯を取り出して、中に出汁漬けに使った昆布に醤油を絡めた具を入れて握っていく。

 味噌汁は朝の分が無くなっていたので新たにしじみ汁を用意していた。滋味がある味わいで兄さんや石燕さんも好きな汁だ。

 準備している間に三人の話が聞こえる。

 

「だからお前ら早く所帯持てって。特に利悟。ぶっ殺すぞ、これ」

「凄まじく辛辣なんですけど美樹本さんが!?」

「だってお前、もう同居して何ヶ月だよ阿呆か」

「やれやれ、利悟くんはもう認めた方がいいんじゃないかな。墓穴に腰まで突っ込んでるって」

「お前もだ伯太郎。人が用意した見合いを即座に蹴りやがって」

「だって相手に『犬百匹と同居しても平気?』って聞いたら引かれたので。猫派とは分かり合えないですわ」

「規模の問題だろう」

 

 どうやら上司が身を固めない上に性癖を拗らせた部下を説教しているようだ。

 利悟さんなんかは幼馴染な美人さんと同居してるのにまだ手を出していないというか流されていないというか、童貞拗らせちゃってるなあ。

 ぼくなら一秒で手を出す自信がある。

 というか石燕さんと出会った時一秒で手を出したし。

 

「わかった、こうしよう利悟くん。まず君が瑞葉さんと結婚して女児を作り、その女児と僕が結婚する」

「死ね」

「死ね」

「おかしい……完璧な計画の筈だったのに……でも利悟くんをお義父さんとは呼びたくない……」

 

 などと言い合っている三人に、握り飯と味噌汁を出すと手早くそれを食べて仕事へ戻って行くのであった。

 瑞葉さんは結ばれるといいなあ。

 幼馴染なんて素敵じゃないか。

 暫くしたらふらりと、別の同心が入ってきた。

 固い感じの顔つきをした、体格の良い人だ。この人も町方の同心で水谷端右衛門さん。

 よく店に来るけど大抵一人で来て静かに食べて帰っていく。結構食いしん坊なところもある。

 

「腹に溜まるものを」

「はい、お任せあれ!」

 

 この人は変わったメニューでついでに量が多いと喜ばれる。

 やはり登場、蕎麦のかえし。そこに浸けこんでいたのはお豆腐である。

 それをかえしごと煮て火を通し、つゆの色を染み込ませた温かい豆腐をどんぶり飯の上に載せる。そして上からつゆを掛ける。これだけ。豆腐丼の出来上がりである。

 この丼の魅力は迫力だ。丼めしの上にたわんだ大きな豆腐が乗っていて湯気を立てている。味は濃い目のかえしでしっかり付いているので飯にばっちり合う。

 

「はいどうぞ」

 

 すると彼は「うわあスゴイことになっちゃってるぞ」とでも云ったような顔つきで豆腐を突き崩しつつ飯を食う。

 その間に小鉢に一品、珍しい物を作って出す。

 

「こちらは半熟卵の天ぷらです~」

 

 「そういうのもあるのか」彼はやや驚いた顔をして、黄身はとろりとしている卵の天ぷらを摘んで、しょっぱいつゆのかかった豆腐丼を無言で食べるのであった。

 満腹そうにしながら帰っていく。そろそろ昼下がりでお客も少なくなる頃合いだ。

 

 

 

「失礼」

 

 言いながら暖簾をくぐったのは狐面を付けた狩衣と旅装束を合わせたような変な服装の人──阿部将翁さんである。

 

「将翁さん、いらっしゃい」

 

 今日は男の人の姿なんだな、と思いながら席に座らせる。

 時々彼はどういうわけか男女が入れ替わる。まったく姿形も代わり、女性状態だと胸はぼいん尻はばいんそして目からど助平光線が放たれる淫靡な美女になるのだが。

 ちなみに男状態でも目から男女問わず惑わす誘惑の眼差しを放つ。見切り技能を習得していないとくらくら来てしまう。

 彼が席に座ると、六科さんが頷いて蕎麦を茹で始めた。

 将翁さんはこの店に貸しがあり、それを返すには蕎麦の味を向上させなければならないという契約があるらしい。

 そのために店に来た時はいつも蕎麦を頼んで味を評価していく。

 

「ここ最近」

 

 狐面を外した彼がそう呟いた。

 

「調子も良いようで」

 

 ぼくに言ってるのだと、はっと気付いて頷く。

 

「はい! 毎日楽しく暮らしてます!」

「そいつぁ何よりだ。ああ、吉原の紫太夫の話ですがね──」

 

 と、医者として吉原に出入りしている将翁さんが語る、かつての姉代わりだった皆の話をぼくは喜んで聞くのであった。

 この人は何を考えているかわからない、いつも涼しく遠くを見ているみたいな顔つきをしているけど……とても優しい人なんだ。

 雑談を終えた後、彼は蕎麦の評価をして去っていった。

 

 

 時間を見て湯屋に六科さんと出かけて早めのお風呂を済ませた。

 日も暮れだして仕事を終えた人達が来るようになった中で、目立つ三人組が現れた。

 目立つ、というか彼らだけ迫力が違う。

 

「おうっ! 酒とうまかもん見繕っちくれい!」

「焼酎を頼んど!」

「一杯引っ掛けたら風呂に行っがよ!」

 

 ええと、さつまもんの甲乙丙さん。

 正直さつまもんは何人か居るんだけど見分けがつかない。

 でも迫力だけは全員共通しているみたいだ。

 でも丁度良かった、夕方の魚売りで取れた物を冷水で冷やして保管してたんだ。傷みやすいやつだったから。

 キビナゴを桶から出して包丁で頭を落とし、縦に切って骨を取る。刺し身にして甘めに作った酢味噌を用意する。

 薩摩の人達は大皿に盛って食卓の真ん中に置けば、自由に小皿に取り分けて食べてくれる。これを[肝練方式]と呼ぶとか呼ばないとか。

 三人は出されたキビナゴの刺し身に大声を上げた。

 

「なごじゃッ! 懐かしかぁ~ッ!」

「おいは薩摩を出てからなごう食っちょらん!」

「いや、こげんうまかもんはなかぞッ! ようやったッ!」

「どうも~」

 

 この江戸近海じゃあんまり取れないらしいから口にできないんだって。

 まあとにかく喜んでくれたようで何より。迫力は他のお客さんを圧倒するようだけど、お金払いは良いんだ薩摩の人達。まあ、払わなかったって話が伝わると死罪になるから。

 三人が機嫌よく帰っていったら、今度は暗い雰囲気の人が入店した。

 不機嫌そうに眉を寄せている、医者か学者みたいな髪型をした中年の痩せた目付きの悪い人。

 

「佐脇さん」

「ここの鏡が曇っているからと九郎に頼まれたことをすっかり忘れていたんだ。すぐに磨くから邪魔するよ」

 

 彼は日本橋で小さな古鏡屋をやっている佐脇嵩之さん。不機嫌そうに見えるけど元からそういう顔つきをしているらしい。

 妖怪画を主に描く絵師でもある。絵かきって変わった人が多いなあ。

 仕事道具を入れた道具箱を持ったまま店の奥へ行き、四半刻もしないうちに鏡磨きを終えたようで出てきた。

 

「お疲れ様でした」

「ついでに何か食べていこう。酒の肴を頼む」

「はーい」

 

 こんにゃくの田楽を作る。さっき作った酢味噌に木の芽と山椒を混ぜてこんにゃくに塗りつけ、軽く炙る。

 それと下りものの上酒。このお店は兄さんと出資者の石燕さんが酒好きだから色んなお酒が置いてある。一番安いのは兄さんが適当に混ぜた謎のお酒だけど。

 彼は黙々と田楽と酒を味わって、

 

「ご馳走様。中々だった」

 

 そう言って帰っていった。ふと見送ったら提灯を持って歩く彼の背中に、なんか女性の影が追跡していた気がするけど大丈夫だろうか。

 

 

 店もこの日の営業を終わりかけと云った時間帯。

 すると兄さんと石燕さん、お房ちゃんが戻ってきた。

 

「はあ……疲れた……」

「ふふふ……どうだね、まさに江戸の危機だっただろう」

「ろくでもないと思ってたけど想像以上にろくでもなかったの……」

「何があったタマ」

 

 ぐったりした三人が座敷について項垂れている。

 本当に何があったんだろう。もはやお房ちゃんのツッコミさえ品切れしてる感じがする。

 

「とにかく腹が減った……何かあるか?」

「残ってるのは蕎麦ぐらいタマ」

「じゃあそれでいい。三人分頼む」

 

 六科さんに目配せすると彼はてきぱきと作り始める。 

 そして出来上がった湯気の立つお蕎麦。

 三人の前にそれぞれ出して一斉に啜った。

 

 

 

「うわまっず──超不味い!」

 

 

 

 異口同音でそう叫んだ。仲いいなー

 六科さんは無表情のまま腕組みをしつつ頷く。

 

「山葵粉入り蕎麦……失敗か」

「みたいですねー将翁さんの評価も低かったし」

 

 思いっきり噎せている三人を見ながら、そう思うのであった。

 

 

 

 

 今日は色んな人がお客に来た。

 九郎兄さんと出会って、手を伸ばしてもらって、ぼくの世界も知り合った人の輪広がった。

 晩酌をする兄さんと石燕さんにお酌をしながら幸せに毎日を過ごしている。

 

 この日々ができるだけ長く続きますようにと願いながら。

 

 とりあえず、モチには注意しようと思う。なんとなく。

 

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