異世界から帰ったら江戸なのである   作:左高例

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83話『催眠の続きの話』

 

 

 

「よいか、お主は旨い蕎麦を作~る、旨い蕎麦を作~る……」

 

 九郎は六科の前で細長い縛るものを銭に結びつけた振り子を揺らしてそう唱えた。

 じっとそれを見ていた六科はやがて目の光を失い、

 

「うむ」

 

 と、頷くとせっせと蕎麦を作り始める。

 お房とタマも見守る中、六科が蕎麦を打って切り麺にして、返しを出汁で薄める動作も正確で淀みはない。

 いつもならば返しを入れる量を効果があるのか無いのか不明な微調整をしたり、塩を入れてみたりするのだが、それもない。

 茹でた蕎麦を丼に入れてつゆを上から掛けて、少なめに三人分用意した。

 同時にすする三人。

 

「まずっ」

「いつも通りなの」

「なんとかお勧めできないぐらいタマ」

 

 やはり微妙な味は変わらなかった。顔を顰めて丼を机に置いた。

 非常に不味いわけではないが、ギリギリお勧めできないレベルにはなっている。

 蕎麦の返し自体は九郎が味を調整して作っている。出汁は朝に多めに作っている。

 となると原因は麺打ちと、蕎麦の茹で加減ぐらいが原因なのだろうが、絶妙に全体を台無しにする味であった。

 お房が胡散臭げに九郎を見ながら告げる。

 

「九郎の催眠術とか云うの、役に立ってないじゃないの」

「ううむ、多分これは……」

 

 九郎は丼を六科の手元に置くと、彼は機械的にその蕎麦を食べる。

 お房とタマも渡すとシュレッダーの様に蕎麦を胃袋の中に処分して、呟く。

 

「旨い」

「これだ。六科の基本的な味覚が当てにならんから、曖昧な命令では受け付けないのだな」

「でも一々行う指示を全部脳に刷り込むのは手間だよね」

「命令が多いと不測の事態でバグを起こす可能性も高まるからのう……六科を洗脳して蕎麦味向上作戦は駄目か」

 

 草間大作のアバウトな命令を最大限解釈して動くGロボ程に気を利かせろとは言わないものの、これでは意味がなさそうだ。

 一工程の命令ならば恐らくかなり正確に作れるのだろうが……。

 命令を停止したゴーレムのように佇んでいる六科を、お房がつつきながら九郎に云う。

 

「っていうか本当に効いてるの、これ。いつものお父さんと変わらない気がするんだけど」

「[催(うなが)す眠りの術]……寝ぼけたように相手に行動をさせる術って話ですけど」

「効いてる筈だがのう。試しに他の命令をしてみるか」

 

 何か適当なことをやらせようかと九郎は考えたときである。

 裏口の戸が勢い良く開いた。

 

「話は聞かせてもらいました! 六科様が寝ぼけたように何でもしてくれるんですね!?」

「完全に別室に居たはずなのに話を聞かれておる……」

 

 入るなり大声で確認してきたのは、裏長屋に住むお雪である。

 按摩をしているのだが盲目だからか、他の感覚が鋭く特に聴覚が良いのである。

 彼女はもじもじとしながら九郎に提案する。

 

「では六科様にわたしを抱いてくれるように……」

「で、出たー! 昼間っから良俗に反するような助平発言!! 僕はええ興奮してきましたよ!!」

「ちがっ違うんです! ぎゅっと! 抱擁の方で!」

 

 タマの早とちりした発言に、お雪が慌てて否定の言葉を入れたが九郎はお房の耳を閉ざして若干ジト目を送っていた。

 ともあれ、催眠の程度を確かめる為には良いかと九郎も思う。

 

「よし、だが六科が自慢の腕力でお雪を絞め殺さないか調節せねばな」

「我が親ながら心配される点が特殊だわ」

「よいか六科よ……優しくお雪を抱くのだぞ……お雪を豆腐か何かと思え……」

「その例えもどうかと思うタマ」

 

 九郎の追加命令に、六科はやはり機械的に、

 

「うむ」

 

 と、頷いて六科を見上げてもじもじと待っているお雪を、正面から抱きしめた。

 

「はうっ……す、すばらしいですよぅ……うふ、うふふふ」

「なんかあれね。言っちゃあ何だけどお雪さんの趣味ってあれね」

「フサ子よ、人は見た目じゃないのだぞ」

「六科様は見た目も格好いいんですよーう!?」

「いかん、面倒くさい」

 

 とりあえず幸せそうにしているお雪から離れて、今日は休みな店の入口で話し合う。

 

「それで、その催眠術どうするの? あっもしかしてお金持ちの未亡人とかにそれを掛けて遺産とか騙し取るのかしら」

「被害者が一人しか想像できない」

「お主らは己れをどう見ているのだ……」

 

 九郎は二人の頭を鷲掴みにして揺さぶる。

 

「というか兄さん、その催眠術覚えたはいいけど乱用しないようにって前に云ってたですよね」

「仕方あるまい。乱用はともかく、どれだけ使えるかはきっちり理解しといたほうが良いだろう。次はやはり石燕にだな。これであやつの酒量を減らせぬかと」

「それは名案なの。先生は飲み過ぎだわ」

 

 頭に置かれた九郎の手を掴んで揺らす動きを止めさせながらお房が云う。

 彼女は自身の腹をさすりながら、

 

「この前ったらお酒一升一気に飲んでお腹が膨らんでちゃぷちゃぷ音が鳴ってたもの。それへこんだら皮に痕が残るわよ若くないんだからって云ったら先生がへこんだの」

「残酷すぎる……」

「もう一寸手加減をだな……」

 

 さすがに憐れんだ感情を浮かべる。

 ともあれ暴飲暴食では体のためにもよくあるまい。ただでさえあまり体が強いとは言いがたい、風邪を引きやすい体質をしているのだ。

 今まで健康に良さそうな贈り物を──石燕の金で買った──渡して様子を見ていた九郎が、[洗脳(カウンセリング)]と云う手段に出ることにしたのも無理はあるまい。

 

「それじゃあひとまず皆で行くか」

「はーい」

 

 そうして三人は神楽坂にある石燕の屋敷へ向かい、暖簾を出していない休業日の店内には六科とお雪が残された。

 ぼそりと、低い声が響く。

 

「ところで俺はいつまでこうしていれば」

「むっ六科様!? 起きて……? え、ええと……もう少しだけ……」

「そうか」

  

 果たして催眠術に掛かっていたのか、いないのか。

 お雪にはわからなかったが、しばしそのまま彼女の幸せ時間は続くのであった。

 

 

 

 *****

 

 

 

 神楽坂の邪悪な大地、鳥山石燕の妖怪屋敷。

 そこに三人は入るなり、ぷんと酒の匂いがして顔を顰めた。

 嬉しそうな顔をした石燕が座ったまま柄樽を抱きしめながら三人を迎えた。

 

「やあ君達! いいところに来たね! 丁度、下り酒の問屋から新酒が手に入ったところでね! まだ日は明るいが一杯始めようではないか!」

「早速駄目なの……」

「子興! 肴を持って来なさい! 炙った烏賊でいいから!」

「女は無口な方がいい、と。それはともかく、お主ら、かかれ」

 

 九郎が懐かしい歌を合わせながら、子供達に指示を出すとお房とタマが石燕を左右からがしりと掴んだ。

 彼女は首を左右に振りながら云う。

 

「何をするのかね九郎くん!」

「いや催眠術を掛けてみようかと思ってのう」

 

 目の前に出される振り子を見て彼女は顔色を変えた。

 

「それは九郎くんの卑劣な術! 人の心を操る許しがたい術だよ!」

「いやー正直、気休めだと自分でも思うがのう」

「ふ、ふふふ! だが残念だったね九郎くん! 私の右目、[阿迦奢の魔眼]は幻術を無効化するのでその催眠術とやらは通用しないのだよ!」

 

 石燕は僅かに色の違う右目をウインクさせながら、挑発的に笑った。

 何やら彼女の、妖怪が視えたりする効果があるらしい自称魔眼である。あと十年若ければ微笑ましい気がするが、少しばかり痛ましい。

 九郎は懐から細長い一寸程の幅の布を取り出して石燕に見せた。

 

「おお、そうだ石燕。そういえばお主の魔眼とやらは格好良いと前から思っておってのう」

「そうかね!?」

「うむ。封印されてる感じで眼帯とかしてたらもっと格好良いぞ。これを巻いてやろう」

「わー先生邪気っぽくて素敵ー」

「眼鏡眼帯熟女……業が深いタマ……」

「そ、そんなに似合うというのなら付けてもいいよ?」

 

 石燕がそう云うので、眼鏡を外して彼女の右目を覆うように眼帯を巻いてやり、上からまた眼鏡を掛けさせた。

 

「よし、魔眼は封印されたな」

「……しまったー!」

 

 振り子を揺らし始めるのを見て石燕は巧みな罠に嵌められた事に気付いた。

 ちょろいのである。

 お房の指が石燕の瞼をこじ開けつつ、洗脳音声が三方向から掛かる。

 

「酒を止めよ酒を止めよ」

「健康志向、健康志向」

「水を弾く玉の肌になるタマ~」

「うう、うううう」

 

 苦しげに石燕は呻いて、やがて脱力した。

 タマとお房が手を離し様子を窺っていると、彼女は顔を上げて妙に瞳をきらめかせながら云う。

 

「──私は綺麗な鳥山石燕」

「なんか綺麗になったの……」

 

 いつもにやりとした不敵な笑みを浮かべてからかうような表情をしている石燕が、なんかこう美少女系のオーラを放っていた。あと肌が艶やかになっている。

 明白な変化だった。うっかり女神が居る泉に落っことしたような反応だ。あなたが落とした石燕はこの綺麗なのですか? いいえもっと肝臓が悪そうなの。その問いに正直に応えてしまった結果である。

 

「さ、催眠術の効果かのう……」

「いや、先生が演技をしているだけな可能性もあるの……」

 

 判断に迷っていると、奥の台所から皿に焼けたイカを載せた子興がやってきた。

 

「師匠~炙ったイカって云ってもタマちゃんとお房ちゃん居るんだよね? これだけじゃ足りなくない?」

 

 すると石燕は振り向いて綺麗な眼差しを子興に向けた。

 

「子興。イカなんか出したら皆の腰が抜けてしまうではないか」

「うわっ……ど、どうしたの師匠。妖怪にでも取り憑かれた? あとイカで腰が抜けるって猫じゃないんだから」

「皆の食事は私が用意するから、お前はこの酒とか云う私に不必要な飲み物を絵師仲間にでも配ってきなさい」

「師匠が酒を手放したー!? も、もしかして……余命!?」

 

 云うが早いか、ほろりと子興は涙を流して膝から床に崩れた。

 健康に悪い生活をしているとは思っていたが、ここで飲めなくなるほど悪くなるとは。肝臓か、膵臓か。

 いや、管理をしていた自分が悪いのではないかと自責の念に彼女は涙する。

 

「発想の程度が末期だのう……」

「死ぬまで手放さないと思われてるのかしら……」

 

 そんな子興へ、石燕は近づいて背中を撫でながら優しい声で云う。

 

「そうではないよ子興。私は気付いたのだ。寂しさを埋めるのに酒を嗜んでいたが、よくよく考えればお前や、九郎くん達が居てくれる。そうすれば私は酒に頼らずとも、楽しくてなんて素晴らしいのだろうとね。だからこれはもっと必要としている人に持って行っておくれ」

「師匠! 師匠……死なないよね!?」

「何を死ぬ必要があるのかね。この期待と希望に満ちた世界に。酒が無くとも花に鳥に風に月。いくらでも心を慰めるものはあるのさ」

「綺麗すぎて気持ち悪い!」

 

 子興は涙目で叫んで、九郎にとち狂ったような石燕を任せる目配せをして、ひとまず酒を抱えて屋敷から脱出するのであった。

 

「さて、私は食事を作ってくるから待っていたまえ」

 

 そう云って台所に消えていく石燕を見送り、三人はひそひそと相談をし合う。

 

「酒まで処分するとは……やはり効いているのか?」

「いやあ先生ならおふざけでやる可能性もあるの。言葉も一々胡散臭い感じだし」

「騙しで肌までふわっとしてる感じになってたら凄いと思うけど。心なしか、肌色まで明るくなってるタマ」

「前まで肝臓をやられたような肌色をしていたからのう」

 

 などと、変化に戸惑いつつ様子をみようと待っていると、それぞれの食事の膳が運ばれてきた。

 

「さあ、たんとお食べ」

「……」

「……」

「……」

 

 出されたそれに皆は一様に微妙な顔をした。

 お房が飯碗を持って静かに口にするのは雑穀ごはんである。脚気にも効果があり、通じも良くなる栄養豊富なものだが、

 

「ぼそぼそするの……」

 

 農家ならまだしも、普段は白米を食べているお房が咀嚼しながらがっかりした声を出す。

 タマは味噌の色がかなり緑がかった、臭木(くさぎ)の葉がたっぷりと入った味噌汁を飲む。

 

「舌をえぐるような苦味で涙が出てきた……」

 

 おまけに匂いがキツい。子供受けしない味噌汁のかなり上位ではないだろうか。顔に皺を作ってすすりこむ。

 九郎は小さな皿に載せられたおからと野菜の煮物を箸の先でつまみながら、釈然としない。

 

「まずくはないが……おかずにならんし食った気がせぬ……」

 

 以上の三品で料理は終わりであった。

 はっきり言って美味しくない。

 いや、石燕の腕が悪いというわけでは決して無いのだが、料理自体の選択が箸が進む味では無いのである。

 妙な食感の飯。やたらえぐ味と苦味がある汁。甘いような塩っぱいようなふんわりした煮物。

 寺で修行でもしているような気分になる食事であった。

 しかし栄養自体は割と取れている健康食である。

 

(……いや、しかしのう……)

 

 子供の反応が特に酷いが、中身は老人である九郎からしても、今まで食っていたものから一気に老けた気がして渋面を作った。

 そういえば六十代はこんな食事をよくしていたものだが、体が若返ったおかげかどうも味気ない。

 石燕一人だけぱくぱくとそれらの食事を取りながら云う。

 

「健康的な食事と云うのは食べていて体が浄化されるようだね。皆の健康と長寿の為にこれからは私が毎食作ってあげるよ。いっそここで暮らすといい! ふふふふふ」

 

 毎日毎食、このような渋く苦い料理が続くと云うのか。

 それを想像したお房が酷くげんなりした表情で、九郎に告げる。

 

「……九郎、止めさせなさい」

「……うむ」

 

 仕方なく九郎は石燕の催眠術を解除するのであった。

 なお、出された料理は皆が美味しく頂いた。出された食べ物は無駄にしない。 

 こてんと催眠を解かれて寝こけた石燕を放っておいて、お房が口直しに茶とかりんとうを棚から用意してため息混じりに云う。

 

「結局、その催眠術とかの効果ってよくわからないの。先生も自爆覚悟で仕掛けてきたんじゃないかって思うし」

「疑い深いのう」

「試しにあたいに掛けてみてよ。なんかわかりやすいの無いかしら」

 

 お房がそう云うので、九郎とタマは「さて」と首を傾げて考えた。

 最初から疑っている相手に催眠術を掛けるというのも難しい気はした。九郎としても、どれほど効果があるのやら確かにわかっているわけではない。

 タマが指を立てて九郎に提案する。

 

「お房ちゃんがやらなそうなことやらせるとか」

「例えば?」

「デレさせる……みたいな?」

「……よくわからんが」

 

 かりんとうを舐めているお房の前に、再び九郎は振り子を用意して揺らした。

 

「お主は素直な言動になーる」

「何よそれ」

 

 やはり彼女はやや睨むような訝しんだ目付きで、振り子を見る。

 そしてややあって、お茶を啜って彼女は云う。

 

「やっぱり変わらないじゃない」

「ううむ、そうだのう」

 

 変化は無い様子で、お房は大きく肩を竦めた。

 

「怪しい術を時々使うけど、そんなに人を変えられるわけないのよ九郎お兄ちゃん──」

 

 そう発言して。

 

「──はっ!?」

 

 お房は思わず口を手で塞いだ。

 九郎とタマはぽかんと見ている。

 彼女は今、変な呼び名を云わなかっただろうか。

 

「ど、どうしたタマ? お房ちゃん」

「別になんでもないわよタマお兄ちゃん──はうっ!?」

 

 我慢しきれずにしゃっくりが出るように。

 彼女は九郎とタマのことを[お兄ちゃん]と呼んでしまっているのであった。

 お房は顔を赤くしながら、ぐりぐりと両手で頬をこねて勢いを付けて指をさし、正確な発音に気をつけて叫んだ。

 

「九郎お兄ちゃん!」

「おう」

「タマお兄ちゃん!」

「はい」

「あああっもう! なんで変になってるのよこれ!?」

 

 頭を抱えて恥ずかしそうに悶える。

 九郎の催眠術で無意識に、同居している歳上な二人を兄と認識していることが口に出てしまうのであった。

 それを聞いた二人は目頭を押さえて涙をこらえた。

 

「すまん、己れちょっと歳のせいか涙もろくて」

「今日を記念日にするタマ……」

 

 兄と呼ばれたことが嬉しい二人である。

 もっとも巧妙な洗脳は、本人が洗脳されていると一切自覚なく行うものであると云うが。

 

「いいから早く解きなさいよー!」

 

 叫びにむくりと石燕が起き上がり、状況を瞬時に把握。

 そして意気揚々と胸を張り云う。

 

「どうしたのかね九郎お兄ちゃん!」

「いや……お主から云われたらまったく嬉しくないのう」

「酷い!?」

 

 

 

 

 ******

 

 

 

 

 結局その後も、石燕の屋敷で子供達は絵を描いたりして過ごしていた。

 意外にタマも何度も絵の被写体になって、その出来を確認したことからか、絵心があるようでお房とあれこれ筆絵を描き合える。

 酒を処分してきた子興は帰るなり再び新たに酒を買いに行かされたので涙目になっていたが、

 

「師匠が帰ってきた! 酒中毒の師匠が!」

 

 と、何故か喜んで買いに戻った。

 その後はやはり石燕と酒を飲むことにした。

 空が薄暗く、月が早くも上がっている。気温は低いが風が無いので火鉢を持って縁側に並び、熱燗を飲めば寒さも感じなかった。

 

「まったく、迂闊に怪しい術を使うのはやめてくれたまえ」

「そうだのう、必要なときだけに取っておこう」

「しかし昼間に健康に良い物を食べたから、酒が旨いね!」

「程々にな」

「大丈夫だよ九郎くん。私はこれでも自制している」

 

 本当だろうかと窺うが、いつも通りの人を喰った顔つきだったのでその真偽は確かめられなかった。

 温かくなって醸しだされた匂いが立つ酒を口に含む。

 やはり上方から船で運ばれてきた酒は出来が良い。木樽に入れられて揺らされている効果だろうか。

 

「しかし房はずけずけと物を云うようで、好意は隠す気質だったのだね」

「お主も知らなかったのか?」

「人の心などわからぬことばかりさ」

 

 おどけたようにそう云う彼女に、九郎はふと石燕が催眠中に口走った言葉を思い出した。

 

「寂しさを埋めるために酒を飲んでいる……とか云っておったが」

「……そうだね。まあそれにも変化はあるのだが。寂しさにも種類があってね」

「?」

「なんでも無いさ。しかし一人で夜酒も良いものだ。今日は月も綺麗だしね。九郎くんは李白の詩を知っているかね?」

「李白……確か中国の歌人だったか? いや、名前ぐらいしか覚えておらぬのう」

 

 現代日本に居たのはもう六十年以上も昔で、高校のころもあまり勉強には身が入らなかったので記憶に無かった。有名な歌人とはうっすらと覚えていたが、それだけだ。

 石燕は月を見上げながら、静かに詩を口にする。

 

「花間一壼酒

 獨酌無相親

 舉杯邀明月

 對影成三人

 

 月既不解飮

 影徒隨我身

 暫伴月將影

 行樂須及春

 

 我歌月徘徊

 我舞影零亂

 

 醒時同交歡

 醉後各分散

 

 永結無情遊

 相期遥雲漢──」

 

 彼女は唱え終わって、

 

「[月下独酌]と云う詩だね」

「どう云う内容なのだ?」

 

 頷き、説明をした。

 

「酒があるけれど一人酒ではつまらない。杯に映る月と、自分の影と三人で飲もう。

 月は酒を飲めないし、影は私の動きに従うけれどせっかくの春だ、楽しもう。

 私が歌えば月は動く。私が舞えば影もまた舞ってくれる。

 宴が終われば皆は帰ってしまうけれど、月と影ならいつでも酔えば会える。

 いつだって遊べるのだから、いつかはあの星の海でまた会おう……とまあ、意訳だがこんな感じでね」

 

 聞き終えて、九郎は唸った。

 

「何と言うか……一人酒をそこまで優雅に歌える者は、凄いな。綺麗な歌だ」

「まったくだよ。私はこれを知った時、世界をこんなに美しく捉えられると驚き、嫉妬までしたよ」

 

 だから、と石燕は続けて云う。

 

「私はそこまで世界が美しく見えなかった。今はそうでも無いかな。舞ってくれる影を、照らす月を見つけたからね」

「ふむ。よくわからぬが……確かに、今宵は良い月だな」

「そうだね」

 

 石燕は同意して、小さく笑った。

 

(暗い夜でも明かりと影をくれる、君がいれば……なんてね) 

 

 そんなことを思いつつも、少し歯の根が浮くようなので、口にはしなかったが。

 後ろからは三人、お房とタマと子興の笑い声が聞こえる。

 月下独酌も悪くはないが──。

 

「九郎くん」

「なんだ?」

「私は汚い鳥山石燕かね?」

「いいや。お主はただの鳥山石燕だろうよ」

「ふふふ、正解者にはもう一献……」

 

 隣に親友が居れば、なお良いだろう。

 石燕は九郎に酒を注ぎながら、俗っぽいかなと笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

 

 ******

 

 

 

 

「え、ええと六科様、今日はお房ちゃん帰ってこないみたいですよーう!」

「そのようだな」

「いいいいい、一緒に寝ませう!」

「構わんが」

「はううう……」

 

 

 機能停止したように眠る六科と、ヘタれて手が出せないお雪で。

 この後めちゃくちゃ何も無かった。

 

 

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