異世界から帰ったら江戸なのである   作:左高例

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112話『石燕と巡る八丁堀七不思議』

 

 

 画師石燕は隠老(いんろう)なり。

 

 四時(しじ)此(こ)の楽事(らくじ)に眈(ふけ)て、老の将(まさ)に至らんとするを知らざるなり。

 

 惟(これ)同好の者至れば、欣然(きんぜん)として茶を烹(ほう)じ、勉然(べんぜん)として画を談ず。

 

 既に筆を下すと、直ちに百余図を成すに足る。

 

 奕々玄勝(えきえきげんしょう)、以て賞すべし。

 

 此に由(より)て弟子益々衆(でしますますおお)し。成編も且つ多し。

 

 皆な世の知る所なり。

 

 丙申の百鬼夜行を著す───

 

 

 

 

 ********

 

 

 

 

「最近妖怪描いてない!」

 

 石燕が筆を振り上げながらそんな文句を言い放った。

 神楽坂にある石燕の屋敷、仕事場兼居間である。乱雑に積まれた書籍と、多少なり整理された画材が部屋の壁を埋め尽くしている。埃っぽい臭いと墨の臭いが篭るので、日中は窓を開け放たれて風通しをよくしていた。僅かにワカメを干された潮の香りが吹き込んでくる。

 彼女の金で買って置いてあった高級な菓子をもしゃもしゃと頬張りながら寝そべっていた九郎が応えた。

 

「この前魍魎の絵を描いてたであろう……ええと、一ヶ月前……じゃなくて本当にすぐ最近」

「あの時描いた魍魎はお蔵入りだったからね……残念なことに」

 

 魍魎の三三と呼ばれる殺人者が巻き起こした、江戸を恐怖させる惨劇によって幕府は一定の処置を取らざるを得なかった。

 なにせ被害者には侍や大身旗本の子息が通う道場主も居て、同心すら襲われたからだ。

 人心浮足立ち、出版物も怨念や悪霊を囃し立てるような内容のものが多く、江戸の街は暗くなっていた。

 如何に質素倹約で華やかな浪費を止める享保の改革とはいえ、得体のしれぬ影に将軍城下の街が怯えていてはならない。

 そこで一時的に恐怖を煽る死体画、妖怪画などは規制されることになり、仏画などが奨励された。

 

「ええい、妖怪絵師であるこの私が悪霊退散、降魔調伏的な仏の絵を描かされるとはね。破ァ!って書き文字加えていいかな」

「いいんじゃないか?」

 

 石燕の描いている勇ましい雰囲気の仏は口から無属性のブレスを吐いているようなエフェクトが追加されている。

 謎ブレスは彼女お気に入りのオリジナル攻撃である。実際、鳥山石燕の描いた[加牟波理入道]や[火消し婆]などの絵にはビーム的なエフェクトが入っている。

 

「江戸では今まさにお祓い除霊が流行しているのだから困ったものだね。寺は坊主丸もうけでいいだろうけれど。この絵も寺から依頼されていてね」

「そういえば寺って悪霊退治とかするのか? 昔、仏教では悪霊なんて存在しないから除霊だのなんだのはしないと聞いたことがあったような……」

「ふふふ、何を言っているのかね九郎くん。多分死んだら輪廻転生するから悪霊にならない、という事かもしれないがそんなことはないよ。供養されなければ地上に留まる浮遊霊になるのは印度(インド)からの伝統だ」

 

 彼女は書きかけの、ガンを付けているヤクザみたいな恐ろしい顔をした仏の絵を九郎の前に広げて云う。

 

「実際この仏教でも重役な守護者、四天王の一人[広目天]は部下が富単那(ふたんな)という無残な死を遂げて供養されていない人間の悪霊だ。まさか超有名な四天王の部下は存在していないなんてケチをつける仏教関係者は居ないだろうさ」

「なるほど……相変わらず詳しいのう。しかし凄い顔だなその仏」

「広目天の梵名が意味するのは[目つきめっちゃ悪い]だからね。その分千里眼などの特殊能力を持っているとされているよ」

「おい、これ。[!?]って書き文字を入れるな。マガジン漫画の老け顔ヤンキーみたいになる」

 

 詳しくは検索エンジンで広目天を画像検索して脳内で!?を居れてみよう。

 それはさておき。

 

「寺といえば……『寺はあっても墓はなし』という不思議話があることを思い出した。此の絵を狩野派経由で依頼してきた玉圓寺が確かそうじゃなかったかな?」

「寺はあっても墓はなし? ……ううむ、まあ、確かに少しばかり変わっておるのかのう」

 

 寺とはつまり、葬式を上げて檀家からのお布施を貰うことで成り立つものではないか、と思った。

 近くに民家のない山寺などならばまだしも、百万都市の江戸にある寺はどうあっても近くの住民と繋がりがあり、墓地を作るのが普通のような気がした。

 

「玉圓寺があるのは八丁堀。つまり住宅が立ち並ぶ土地な上に、八丁堀にはなんと寺らしい寺が玉圓寺しか無いのに墓が無いのだという」

「更に不思議な話だな」

「ふふふ、これこそ[八丁堀七不思議]のうちの一つなのだよ!」

「まだあったのか七不思議」

 

 江戸の七不思議とか本所七不思議とか様々な話を既に石燕に聞いていたので九郎は呆れるように言った。

 彼女はメガネを光らせながら、

 

「正確には八丁堀・三大七不思議のうちの一つだね」

「増やしすぎだ、増やしすぎ」

「語る人によって違ってくるんだよね……まあ、中には被っているのもあるから実質十二不思議ぐらいなのだが」

「統一しろよ」

「私に言われても」

「それはそうだが」

 

 さらさらと石燕は広目天の絵に仕上げを描き込んで完成させる。

 『知らなかったか? "竜王"からは逃げられねえビキィ』とか書いている。もう完全に少年マガジンのノリだ。九郎はため息をついた。

 

「よし! それなら九郎くん。これから絵を届けがてら八丁堀に赴き、七不思議を私達で纏めてしまおうではないか!」

 

 筆をしまいながらそう告げてくる石燕に、九郎は食いかけの菓子を全部口の中に放り込んで起き上がった。

 

「ふむ、多少は気になるからな。よし、行くか」

「ふふふ、まあ慌てず──あれ!? 九郎くん私のお菓子は!?」

「あーすまん。全部食った」

「大事にしてた蜂蜜きなこ餅ー! 手に入りにくいのに!」

「……石燕ちゃん、一緒にお酒を飲もうか」

「誤魔化そうとしている!」

 

 苦情を云う石燕に、奥の廊下から湯のみに酒を入れて夕鶴が運んできた。

 

「美味しい美味しいお酒を持ってきたであります! さあ機嫌を直すであります!」

「……夕鶴くん。口元にきなこ付いているよ」

「はっ!?」

「私だけが食べれなかった……」

 

 がっくりとした石燕を慰めるのに少しばかり時間がかかったという。

 

 

 

 ******

 

 

 

 

 八丁堀、岡崎町に石燕が依頼されていた寺はあった。

 徒歩で向かったのであるが、行くまでに九郎はあれこれと屋台を寄り道しながら石燕に菓子や甘酒の酒割りを買ってやり、どうにか調子を戻してやった。珍しく九郎が金を払っていたが、石燕の財布から予め預金を下ろしていた分からだ。

 

「そう、己れの金だからな」

「ふふふ、わかっているよ」

「……しかし石燕の財布から取り出した金を『己れの金だ』と主張している事自体がなんか対外的にマズい気がするのはどうしてだろうか」

「いいんだよ九郎くん。私は九郎くんが細長いものでも気にしない」

「慰めんでいい」

 

 幾つかの小さな堀を越えて目的の玉圓寺の目の前に辿り着いたのだが──。

 

「……小さいな」

「肩身が狭そうなお寺だね」

 

 玉圓寺は左右に屋敷の塀があってみっしりと隙間に嵌っているような、寺社地も殆ど無い建物であった。

 小さなお堂と、僧坊が寝泊まりする古びた精舎があるだけで、墓がないのが不思議というか、墓にする土地が無さそうである。

 

「聞けば不思議だが見れば何の不思議もないな、ひとつ目の七不思議」

「あ、九郎くん一応これは私達が遭遇した二つ目の七不思議だよ」

「なに?」

 

 聞き返すと来た道の方を指差して石燕が告げる。

 

「さっき小さな橋を通ったではないか」

「そうだな」

「あれは地蔵橋とか呼ばれている橋で──」

「ああ」

「七不思議そのものだよ」

「不思議!?」

 

 思わず目を剥いて来た道を二度見した。

 何の変哲もない小さな石橋で、堀も狭く九郎の居た現代には埋め立てられているか地下に消えていそうな、そんな記憶に残らないような場所だったのだが。

 石燕は手元の[七不思議公式図録]と勝手に題してある紙束にさらさらと絵と字を書いてみせた。

 

「その名も『地獄なのに地蔵橋』、という不思議だ」

「地獄なのに? とはどういうことだ」

「そうだね。この八丁堀には同心与力の役宅があり多く住んでいるだろう?」

 

 頷く。九郎の知り合いもここに住んでいる者が多い。暇があれば顔ぐらいは見ていこうかと思っているが。

 

「悪人を捕まえ懲らしめる彼らは獄卒みたいに揶揄されることがある。だから獄卒の住む土地、地獄の八丁堀というわけさ。そこに地蔵という名前の付いた橋があるのは不思議だなあということらしい」

「ははあ……」

「まあただ、地蔵菩薩は地獄に落ちた亡者を救済する菩薩だから地獄に居ても不思議ではないのだけれどね」

「微妙にもやっとする七不思議だのう……」

 

 とはいえ、七不思議ということで九郎がすぐ連想する[学校の七不思議]のように一から七まで怪異に満ちたようなものは、この時代の怪談として主流ではない。

 例えば「あの辺りいつも薄暗くて気味が悪い」とか「木のコブが人の顔に見えた」とかそういう日常の細々とした怖いのか怖くないのか微妙なラインを面白おかしく不思議だと呼んでいたのである。

 

「ふふふ、安心したまえ九郎くん。そこらのおどろおどろしさ不足は絵師たる私が補おうではないか。こんな感じで」

 

 石燕が描いて見せた地蔵橋は、無数の地蔵の首がくっついて石橋の形になっている怪奇スポットであった。

 都内某所。場所は伏す。

 そんな勢いを感じる悍ましい絵だった。普段のコミカルさを感じる鳥山石燕の絵柄ではない。

 

「どこに安心しろというのだ……」

「さ、それより玉圓寺で話を聞いてみようか」

 

 玉圓寺は見た目通りというかお堂の中に入ってもどこか肩身の狭い雰囲気を感じる。

 住職が出迎えて、石燕の描いた広目天画を嬉しそうに受け取った。次はそれを掛け軸の職人に持っていくのだそうだ。

 こうした睨み画とでもいうべき、眼力の篭った絵は当時様々な寺や武家、商店に養蚕家などで大事にされていて、仏から猫まで色んなモチーフで描かれている。魔除けの効果があったとされたのだ。

 

(確かにこれを飾っておけば"不運(ハードラック)"と踊(ダンス)らない感じはするな)

 

 !?のエクスクラメーションとクエッションマークに関してはどう解釈されるのか気になったが、

 

「ところで和尚。ここの寺には墓がない不思議があると聞いたが、どういった理由だろうか。教えてくれぬか?」

「ええ、はいはい」

 

 案外聞かれ慣れているのか、笑顔で頷いて彼は応える。

 

「元々この玉圓寺はそれなりの広さがある寺だったのですが、寛永の頃にですね。あたりに同心与力の組屋敷を作るということで、八丁堀にあった寺社は全て移転することになったのです」

「ふむ」

「ただ当時の和尚は考えました──他が居なくなれば、葬式とか墓地管理とか玉圓寺が独占できるじゃん、と」

「おい」

「それで頑なに、裏の亀島山精舎は何百年前からある徳の高い建物だとか、あと当時の寺社奉行と裏取引があったんでしょうね。それで玉圓寺だけはこの場に残されることになったのですが……その代わり土地の大半は召し上げられて、墓も作ってはいけないと条件が付けられてしまいましてこの有様で」

「無残だのう」

 

 屋敷に挟まれて自販機のようになっている寺の中で、九郎は首を振った。

 

「ふふふ、実際のところ葬式仏教化しているとはいえお釈迦様は葬式否定派だったぐらいだからね。放置してれば誰か片付けてくれるだろうみたいな感じで」

「そういえばお釈迦様はなんで死んだんだったか」

「[とりゅふ]を使ったキノコ料理に当たったらしい」

「豪華だなおい」

 

 諸説あるが、豚だとかキノコだとか言われているので石燕は豚が探したキノコを使った説を取っているようだ。

 トリュフは微妙に種類は異なるのだが案外世界中で見つかることがある為に、インドにあっても不思議ではない。

 

「さて、とても現実的な理由で『寺あっても墓は無し』は解明されたね」

「理由を知るまでは不思議に思うからマシな方かもしれんな」

 

 宝石を嵌めないとドアが開かない洋館とか、トイレのない警察署とかそんな感じの不思議みたいなものだ。よくある話である。

 石燕は墓場が無く運動会しそこねた妖怪が寺に集まった絵をさらさらと描いて記録した。

 二人は寺を出て三つ目の現場へ向かった。

 

「さあて九郎くん、次は直接的な名前だよ。その名も『鬼の住居に幽霊が出る』」

「ほう。季語が二つ入った俳句みたいだな」

「ねたばれすると、この鬼ってのはさっきも獄卒に例えられた同心のことなのだけれどね」

 

 二人は地蔵橋の方へ一旦戻り、橋から西へと向かう。

 この辺りは同心の組屋敷よりも与力の屋敷が目立った。

 与力は同心の上司にあたり、各奉行所に二十五人ほど配属されているがかなり裕福な暮らしをしている。

 江戸の人気な職業三つ──相撲取り、火消し、与力と並んでいるが、与力の暮らしっぷりはそこらの旗本より余程良かったらしい。

 町中で暮らし、江戸城に上がる義務も無かった与力は形式張った行事に金を使うこと無く、また江戸の店や大名屋敷から様々な付け届けを貰うことが多かったのでそうなった。 

 また家屋敷として、おおよそ一人あたり市中に三百坪で玄関のついた住居が認められていた。

 

「この与力屋敷に挟まれた小路が通称[幽霊横丁]……七不思議の一つだね」

「眩暈坂や暗闇坂のようなものだろうかのう」

 

 通りを見ながら九郎は云う。

 左右を高い壁の塀に挟まれた通りは、昼間だというのに影になっていて薄暗い。塀の向こう側に丁度木が植えてあるので余計にそう感じた。

 横丁だというのに誰も歩いておらず、店なども見えない。もとより八丁堀に店は少ないのだが。

 

「噂によればこの幽霊横丁には生首が浮かんで徘徊していることがあるとか……よし、九郎くん行ってみようではないか」

「ふむ、そうなると本格的に怪談だな」

 

 石燕が手を差し伸べてくるので、九郎はそれを握って横丁の通りへ並んで入った。

 通りの向きも関係しているのか風もあまり入らずに淀んだ空気をしている。火消し用の水瓶や何かに使う竹材などが乱雑に通りの左右に置かれていて、どこか町中で一部だけ切り離された静かな廃墟感があった。

 

「しかし生首が飛んでいる、か。何故にまた幽霊は鬼の住み家でそんなことをしているのだろうな」

「捕縛された罪人の霊が首となって恨みを主張しているのかもしれないね」

「どんな罪人かとか説はあるのか?」

「ふむ。根っからの悪党、盗賊ではなく武士の首だとされているね。月代があったのだろう。同心に恨みを持っていて、ここで別の七不思議に関わっている有名な武士といえば一人しか居ない」

「それは?」

 

 石燕はにやりと笑って、講談を語った。

 

「長宗我部元親の孫、長宗我部盛澄(ちょうそかべもりずみ)……江戸幕府を顛覆させる計画を立てていた丸橋忠弥(まるばしちゅうや)という名前の方が有名だね?」

「……誰だ?」

「え。知らないのかね。由井正雪の乱で江戸焼き討ち担当の。槍の名手で旗本相手に無双が期待されてたけど決行前に捕まった」

「ううむ、覚えがない。さてはマイナーキャラだな」

「そうか……」

 

 少しがっかりしたように肩を落として、石燕は云う。

 

「なにせ大きな事件だったものだからそれなりに、人口に膾炙された人物なのだが時代は流れると知名度も下がるものだね」

「ともあれ其奴が同心に恨みを?」

「大怪我をしながら同心の一人が見事に召し捕った、と語られているからね。その同心は特別に褒美も貰ったそうだ」

「それで生首がうらめしや、というわけか」

「よく考えればその首、生じゃないよね。明らかに幽霊だもの」

「新鮮な首が飛んでたらそれはそれで怖いが」

「それに実際の所、その同心などより影兵衛くん辺りの方が恨みの総数は多そうではある」

「あやつが切った分の首が飛んでいれば道がぎっしりと埋まるだろうなあ」

 

 などと会話をしながら幽霊横丁を通って行く。

 物騒なあだ名や怪談が付与されているとはいえ、云わば薄暗くてちょっと雰囲気の悪い街のデッドスポットというだけでもある。

 と、二人が歩いているとふわ、と何かとすれ違った気配がして足を止めた。

 足音は感じなかったし、歩いていて体が見えれば普通に横に避けるはずだ。

 

「おい」

「う、うん」

 

 一、二の三で同時に同じ向きにすれ違うと、その視線を避けるように再び何か頭の位置にある物体が回りこんで目の前に現れたような気配を感じた。

 慌てて九郎は石燕の腰を掴んで飛び退る。

 

「腰が!」

 

 石燕の腰耐久力が減少した。後で湿布を貼らねば翌日まで響く。

 そして視線を正面に向けると、酷く幽かな気配で空間に浮かんでいるように見える物体がある。それは首というより、それをすっぽり布で包んだような物体に見えた。

 

「あれ? 九郎くんに鳥山先生。こんな所で何してるの? 逢引? 事件?」

 

 軽くて僅かに喉を鳴らすような若者の声がその頭から聞こえてくる。

 九郎は目をこすってよく凝らして見ると、砂埃を体中にまぶしてカモフラージュしている男の迷彩した全体が見えてきた。

 町奉行所の隠密同心、藤林尋蔵である。

 

「お主、ちょっと人間がやっていいステルスっぷりを超えていたぞ……」

「すてるす? いや、日頃から隠身は練習しないといけないからさあ」

 

 忍びの技を使うこの同心が、地形へ溶け込みながら本人の気配を限りなく消し、視線外しの術を使うことでいつもの覆面以外の体を殆ど認識できなくしていたのである。

 薄暗い路地とはいえ、驚くべき技能であった。頭だけは出ていたものの。

 彼は体の埃を払い落としながら告げる。

 

「まあただ……女の子には全然浮ウけない特技なんだけどね」

「だろうなあ」

「正直気持ち悪いし」

「酷い! っていうか頭領も同心与力の上司も、僕の見合い話するとき相手方に『よく隠れたり変装女装したり趣味の話になると早口になって気持ち悪い』って紹介するからお見合いの話が来なくなったんだけど!」

「しかしお主、そこらのおなごが『私影が薄くていつ見ても覆面被ってて素顔わからない上に妄想モテ話を語る男の人が好みです!』とか言ってたら嫌だろ」

「嫌じゃないよ! そして二人は恋に落ちて幸せな家庭を築くよ!」

 

 くねくねしながら主張する尋蔵に冷たい目線を送った。そんな都合のいい相手が居るわけがない。だから結婚できないのだ。

 

「しかしそんなに隠れてどうしたのだ。己れはてっきり、幽霊横丁の生首かと思ったぞ」

「あ、八丁堀七不思議のやつ? ひょっとしてそれを調べに来たのかぁ……丁度今僕も、その七不思議の一つに関わってきたところだよ」

「というと?」

 

 彼は指を一本立てて面白そうに告げる。

 

「その名も七不思議が一つ、『一文無しでも世帯が持てる』!」

「……魅力的な話だのう」

「そうそう。九郎くんも鳥山先生から捨てられたときはここに来るといいよ」

「捨てないよ! ……それで、どういう理由で出来た不思議なのだね?」

「うん。この先にあるのは一種の貧民街でね」

 

 寂れた雰囲気にあっている内容のことを振り返りながら言った。

 

「同心の組屋敷なんかは、個人の裁量で町人に部屋を貸し出してもいいってことになってるんだ。それでこの先に居るのは、仕事の手伝いはしてくれるんだけど定職が無くて生活が厳しい人たち。まあつまり、僕の知り合いも多くて」

「ふむ」

「家賃を貰わなくても赤字にはならないから向こうも家賃がただ同然な上に与力屋敷で余ったご飯なんかを届けてやるんだ。

 それで一文無しでも暮らせる場所ってことになったのさ。僕のこれはほら、住んでる忍び系の仲間のところに、忍んで差し入れを届けるという相互の訓練で」

「ははあ……」

 

 九郎は納得顔で頷いて、

 

「つまり己れが一文無しでも、石燕やらお房から家に泊めてもらってメシを貰えたりしても──もしかしたらそう憚らぬことではないのではないか? 江戸的に普通というか。決して悪い感じではないというか」

「いや、それはない」

 

 それはきっぱりと否定された。

 やや落胆しつつも九郎と石燕は尋蔵と別れ、次の場所へ向かう。

 これまでに見つけた謎は四つ。

 『地獄なのに地蔵橋』

 『寺があっても墓は無し』

 『鬼の住居に幽霊』

 『一文無しでも世帯が持てる』

 続けて訪れたのは──八丁堀町湯屋であった。

 看板には江戸初期からの伝統的なシンボルマーク、[矢]が描かれている。これは矢は弓で射るもの、[弓射(ゆい)る]から[湯入(ゆい)る]に掛けた洒落である。

 

「次の謎はここ! その名も『女湯に刀掛けがある』!」

「ほう」

「よ、よし九郎くんそれでは行こうではないか! ついでにお風呂入っていこう!」

 

 どきどきしながら石燕は誘ってみる。

 普段は一人用の内風呂にしか入らず、温泉に出かけても押しきれずに結局一緒に入れなかったわけだ。

 しかし彼女の上位互換(ライバル)である阿部将翁などはナチュラルに九郎と入浴していたと聞かされている。

 ここは一つ仲を深めるためにも……と思って、七不思議発見にかこつけて連れてきたのであるが。

 

「そうか。まあ、別に構わんが」

「むふー」

 

 九郎もあっさりと頷いて二人は湯屋に入った。

 そして番台で金を払い、左右の暖簾が掛かった脱衣所へ入っていく。

 江戸の湯屋、その多くは度々禁令が出たとはいえ混浴だったのだが───

 

「……女湯に刀掛けがある、なんて話がある時点で男女分かれてるよね!」

 

 またしても九郎と入浴の機会を逃してしまって。

 がっかりとした石燕は膝をついた。あと刀掛けは確かにあった。それだけだった。

 

 湯屋から上がり、外の茶屋で涼し気な風を浴びながら九郎は饅頭を食べていた。中に梅肉の入った餡のもので、甘酸っぱくて中々美味い。

 石燕が遅れて湯屋からのそのそと出てきたので声を掛ける。

 

「あったか?」

「うん」

「まあ、己れも見たことあるし」

「えええ」

 

 不満気に呻く。

 

「ここの女湯は午前中に同心与力が入りに来てな。仕事の話とかをするらしい。己れも影兵衛に連れられて一度来た」

「確かに女は朝忙しいから入りにこないと思うけれども、わざわざ女湯で仕事の話を? 奉行所内とかですればいいではないか」

「……男湯の会話が聞こえるようになっているから、男湯に入った連中が怪しいことを話していないかの調査もあるとか」

「わざわざ地獄とか鬼の住み家なんて呼ばれる八丁堀の湯屋で悪い話をするかね?」

「ふむ……つまりそういうことだな」

 

 同心与力はわざわざ女湯に入りたいので、それっぽい理屈を付けて刀掛けを置くことで合法性を主張している。

 思っていたよりアレな結論が出てしまった。

 

「……さて、次の不思議を訪ねに行くかね」

「次はどこに?」

「同心の組屋敷に行こうではないか。その名も『奥様あって殿様無し』」

 

 そうして、とりあえず知り合いの同心であり新婚な菅山利悟の家を目指した。

 最下級の役人とはいえ、身分が保証されている公務員と同じ扱いの同心組屋敷はそれなりの広さがある。

 独身者などは最低限の住み家だけを残して後は他の住人に貸し出してしまうが、夫婦となると部屋数も必要だ。

 組屋敷は長屋よりは広い集合住宅がみっしりと詰まっていて、その合間合間に与力の拝領屋敷が点在している。右も左も同僚の家な構造である。

 二人は利悟に与えられている棟へと向かって、無造作に玄関を開けた。

 

「おい、利悟。居るか? 梅饅頭を買ってきてや───」

 

 玄関から見えた部屋の中で。

 利悟は口から血を流してうつ伏せに倒れていた。

 指に血を付けて畳に[幼児]と書いてある。

 

「……」

「……」

「あの……お二人共、お久しぶりです」

 

 ひょこりと利悟の嫁である瑞葉が部屋から顔を出して見てきた。

 九郎は嫌そうに死体へと指を向けて聞く。

 

「それは?」

「ええと、発作みたいなもので……大丈夫です、血じゃなくて西瓜ですから」

「畳が傷みそうだのう」

「どうしてあんな病気を?」

 

 石燕の問いに、彼女は近づいてきてはにかんだように笑った。

 その腹が着物の上からでも張っているように見える。

 

「やや子が出来ましたから心が不安定になっているようで……」

「やることやってんだなあ」

 

 腹の膨れ具合と利悟が祝言を上げた時期を鑑みるに、それ以前に仕込んでいたようだが。

 自分も色々怪しげな催眠術とか使ってやっただけはある、と思った。

 九郎は楽しげに、

 

「はっはっは。青田狩りは返上だな。瑞葉よ、梅饅頭は食うか? 酸っぱくて美味いぞ」

「ありがとうございます」

「よしよし、祝儀をやらねばな。石燕」

「はい」

 

 慣れたように彼女から財布を渡されて無造作に小判を取り出して瑞葉に押し付ける。

 彼女は安月給の同心女房からすればかなり高額な祝儀に泡を食ったように驚いた。

 

「こ、こんなに……」

「よいよい。利悟の異常性癖快癒祝いも兼ねてある。仲良くな」

 

 すると利悟ががばりと起き上がって、西瓜まみれの顔を向けて叫んだ。グロテスクだった。

 

「まだだぁー!! まだ拙者は終わっていないぃいいー! 子供好きだもん! 稚児趣味最高!」

「はっはっは。ファッション稚児趣味野郎と呼んでやる。名誉だぞ」

「うあああ畜生! 女の子が生まれたら九郎には近寄らせないからな!」

「うわっ汚っ西瓜投げるな、すまんそれじゃあな」

 

 妻の妊娠で精神的に不安定な夫。

 そう呼ぶには凄まじく駄目な感じの稚児趣味同心の末路に、ひとまずその場を離れるのであった。

 

「不思議を見つけに来たのに追い出されたではないか」

「まあいいじゃないか。ああして割れ鍋にはしっかりと綴じ蓋があるものだな」

 

 声が掛かる。

 

「おんやぁ? お二人さん、仲良くお散歩かい?」

 

 庭先で釣り竿を片手にテグスの調整をしていたのは白髪の同心、美樹本善治である。

 非番の知り合いが多いが、月番ではない南町奉行所では内勤のみが出ているのであろう。

 

「ああ。ちょいと八丁堀の七不思議を探してな」

「七不思議ぃ?」

「確か……『奥様あって殿様無し』だったか」

 

 首を傾げながら応える九郎である。どうもこれはよく意味がわからなかった。

 善治は庭に置かれた椅子を二人に勧めて、手で軽く合図を送るような仕草をした。

 そして不思議についての説明をする。

 

「そりゃ与力の奥さんの話だな。っていうかそこの鳥山先生だって知ってるんじゃないの、おい」

「ふふふ……言葉の微妙な違いだから九郎くんにはわかりにくいかと思ってね。大体、私が全部言葉で説明してたら面白くないではないか」

「ははぁ」

 

 善治はにやりと笑った。

 そこに、彼の妻が三人分の茶を盆に載せて持ってきた。

 善治の妻は年の頃が瑞葉とそう変わらない、二十手前ぐらいに見える。善治が五十手前ぐらいなので、歳の差はかなりある夫婦だ。

 

(確か、死んだ同僚に娘を預けられたとかそんな感じだと聞いたが)

 

 まあ幸せな夫婦なのだろう。娘も一人居るぐらいだから。

 石燕が茶を受け取りながら、善治と妻の並んだ状態で九郎に説明をする。

 

「つまり言葉の問題なわけだ。九郎くん、[奥様]とは何のことだね?」

「嫁とか妻のことじゃないのか?」

「いいや、違う。正確にいうと、[奥様]や[奥方]と呼ばれるのは二百石以上の旗本の妻だけなのだよ!」

「そ、そうだったのか?」

 

 初めて知った、とばかりに驚く現代人の九郎である。

 

「では善治の嫁はなんと呼ぶのだ?」

「この場合は……そうだなあ、堅苦しく言えば[御新造様(ごしんぞさま)]かな、おい」

「うふふ、[お前]でいいですよ」

「おいおい。かみさんをそんな呼び捨てにしたことはないって。後が怖い」

「仲いいのだね……」

 

 笑い合う夫婦を呆れたように石燕が見て、話を続けた。

 

「ところが例外的に与力の妻は世間的に[奥様]と呼ばれるのだ。だが、普通旗本で奥様と呼ばれる家柄だと、夫のことは[殿様]と呼ぶ。家庭内や身分が下な相手から呼ばれる場合にね。しかし与力は殿様ではなく[旦那様]と呼ぶようになっている。そのちぐはぐさが、七不思議になっているのさ」

「ふむ……どうも己れからすれば面倒な呼び変えだが、そういうものなのだな」

 

 現代人である九郎は区別の付け方がよくわからなかったが、とりあえずは納得した。

 石燕がメガネを光らせながら冗談めかして云う。

 

「つまり例えば、残念ながら私が九郎くんに嫁いでも、九郎くんの奥様にはなれないというわけだね!」

「はへー」

「……お嫁さんになれないわけではないがね!」

「そうだな」

 

 気の抜けるような返事に対して石燕がぷるぷると小刻みに震えながら赤くなる。何を自分は主張しているというのか。

 無残な事故を目撃したような表情で善治が額に手を当てて、言いにくそうに九郎に聞いた。

 

「あー……九郎。お前さん、あれだよな? 鳥山先生と仲いいよな?」

「そりゃあまあ。己れが使うのツーと言えば石燕がカーと金を出してくれるような」

「待て。その情報はどうでもいい。自分で云うな自分で。……ところで、お前さん誰かと婚約してるとか無いか?」

 

 あまりに見かねた善治が、もうこいつらくっつけよ可哀想だと思ってお節介に手を出そうとした。

 彼は利悟の祝言にも手を尽くしたように、縁談を勧めるおじさんでもあるのだ。

 石燕がはっとした顔をするが、とりあえず話の流れを聞いてみようと言葉をつぐんだ。

 

「婚約? ああ、二つぐらいしておるが」

「してるのかよ!?」

「誰と!?」

 

 意外すぎる情報に石燕も叫んで詮索した。

 彼はため息をついて肩を落とし、

 

「うちの娘というか、お房とお八が良い相手が見つからんまま行き遅れになっていたら責任を取ると約束してなあ。とりあえず己れのような老体じゃ可哀想だから、相手を探してやろうと思っているのだが……」

「こ、子供との約束かー」

「まだ大丈夫だね……ふう」

 

 正式なものというか、口約束みたいなもので安心する善治と石燕である。

 九郎は率直に頼んできた。

 

「お主らも良い相手が居たら教えてくれ。まあ、うちの妹分を嫁にやるわけだから審査は厳しいが」

「具体的には?」

「高収入で誠実で浮気をせずに家族想いで健康で社会的立場もしっかりしていてあと己れより強いこと」

「無茶云うな!」

「婚活舐めてるのかね九郎くん!」

「なっなんだお主ら……」

 

 高望みした勘違い婚活女子みたいな条件な上に、九郎より強いという段階で江戸の男九割以上が脱落しそうである。

 ちょいちょいと善治は指招きして、九郎を睨みながら石燕に耳打ちする。

 

「先生よ、とりあえずお宅の娘さんらを嫁に行かせないと危ないぞ」

「そ、そのようだね。なんというかこう、時間切れみたいなアレがあるとは初めて知ったよ」

 

 とりあえずお房とお八に関して姉貴分としていい相手を探そうと思う石燕であった。

 あくまで姉貴分として。 

 その副次的に九郎がフリーになるかもしれないが。

 

 

 そして九郎と石燕は再びぶらぶらと歩き出す。

 時刻は既に夕焼けが迫ってきていた。

 

「次で最後の七不思議か。なんとか見つけきりそうだな。で、最後はなんだ?」

「『佐瀬勇太夫の裏表』」

「……なに?」

「『佐瀬勇太夫の裏表』だよ」

「なんだそれ」

 

 まったく要領を得ない言葉だった。

 佐瀬勇太夫、は人名のように聞こえるがその裏表とはなんだというのか。

 石燕も困ったような顔で云う。

 

「実は私も正確にはわからないのだ。もしかしたら[牛の首]のような怪談かとも思ったが……」

「牛の首、というとあれか。非常に恐ろしい怪談で聞くと死んでしまうから内容は口に出せない、という名目で本当はそんな話存在していない」

「そうだね。だけどそれにしてはまったく詳細が不明だ。だから私は別の方向からこの不思議についての考察をしてみたのだよ」

 

 軽く咳払いをした。

 

「最初に[八丁堀三大七不思議]なんて言ったとおり、幾つも他に不思議なものがあるのだがその中でこの佐瀬勇太夫の裏表ともう一つだけが個人を特定している七不思議なのだ」

「それは?」

「敢えて私の選ぶ七不思議からは外したけれどね。[血染めの玄関]という」

「物騒な感じだな」

「そうでもないよ。これはさっき話した丸橋忠弥の捕縛に功績があった、間米藤十郎という同心は町奉行から何でも褒美をくれてやる、と言われたわけだ。そこで彼は、自分の組屋敷に玄関を作らせてくれと頼んだ。玄関を持っているのは、与力の拝領屋敷だからね」

 

 彼女はそう言いながら大きな通りから路地に入って狭い道を進んでいく。

 

「ただ功績を得たとはいえ玄関を持ったということはその組屋敷を実質自分の一族専用にしたわけでやっかまれるのではないかと思った。

 大体、頼むのだったら玄関の許可じゃなくて与力にしてくれと頼めば良かったと後から後から後悔をしだす。

 すると表に玄関を堂々と作ることに気が引けて──裏口の方に玄関を作ってしまった。

 [裏表]とはそのことではないか、と考える。名前が違うのは、仮にも本人の一族はまだ住んでいるのだから直接名指しすることを避けたのか。そんなところではないかな、と思う」

 

 石燕が振り向いて、夕日の差した裏口の玄関を九郎に見せた。

 裏に作りながらも玄関は綺麗に整えてあって、夕焼けが門を赤く染めている。

 

「[血染めの玄関]だ」

「ふむ……しかし、物騒な名前だが、中々立派ではないか。それに、夕日に良く似合う」

「……そうだね」

 

 暫くその、後ろめたさから隠した玄関を眺めて九郎と石燕は家に帰るのであった。

 

 

 

 

 *******

 

 

 

 

 地獄なのに地蔵橋。

 寺はあっても墓は無し。

 鬼の住居に幽霊が出る。

 一文無しが世帯を持つ。

 女湯に刀掛けがある。

 奥様あっても殿様無し。

 佐瀬勇太夫の裏表。

 

 七つの不思議を石燕は纏めて、注釈と絵を付ける作業を終えて滑るような手の動きで徳利を取った。

 

「よし、今日の仕事終わり! さあ九郎くん飲もう!」

「おう」

 

 正確にいえば飲もう、の段階で徳利を直接口に運んでいるのだったが、九郎は一応頷いた。

 石燕の口から離された徳利の中身は半分ほど減っていたが、そのまま九郎の酒盃に注がれる。

 

「くうー! 美味いね九郎くん。五臓六腑に染み渡るようだよ」

「酒ばかりでは具合が悪くなるぞ。ほれ、夕鶴が作ったワカメのぬたでも食え。いけるぞ」

 

 酢味噌で味付けされたワカメの小皿を渡されて、箸の先でつまんで食べて再び酒を飲んだ。

 

「いやあ、久しぶりに九郎くんと謎探しをしたね。歩き疲れて足が浮腫(むく)んでしまったよ」 

「歳だな」

「違うよ!? ピチピチだもん私」

「そうか……歳のせいで辛いなら己れが揉みほぐしてやろうかと思ったが」

「はい九郎くん年増の足をお願いします!」

「迷いがねえ。後でな」

 

 とりあえずは酒を飲むことを優先させて、九郎は書き上がった原稿を眺めてみた。

 石燕が不敵な笑みを浮かべて九郎に聞く。

 

「その七不思議、一つの共通点を持って揃えてみたのだよ」

「共通点?」

「他には[医者や儒者が多い]とか[提灯掛け横丁がある]とか聞くからにどうでもよさそうなのもあったのだが除外した。

 私が選んだのは、『有るべきものが無い、無いはずのものが有る』という点だね」

「……なるほど」

 

 地獄に無いはずの地蔵橋。

 寺に有るべきの墓。

 鬼の住居に居ないはずの幽霊。

 一文無しでは暮らせないはずの世帯。

 女湯に無いはずの刀掛け。

 奥様ならば有るべきの殿様。

 表にあるべきの裏玄関。

 

 そうした不思議の集まりであった。

 

「本来から欠けているものや、異物が割り込んで見えたときに人は不思議なものだと考えるのだろうね」

「……となると、己れなど江戸の世からすれば不思議存在極まりないかもしれんな」

 

 明らかに世間から浮いている存在の九郎は面白そうに笑った。

 もしかしたら自分も不思議の一つとして、講談にでも残るかもしれない。そんなことを思った。

 無論不思議というのは現代的価値観や術符、装備による魔法的現象のことでありその生活様式ではない。女性から金を貰うのは不思議ではない。預けているだけだから当然だ。

 石燕は嬉しそうな表情をして。

 

「勿論。九郎くんは特上の不思議ネタだよ。だからこそ、この不思議狩人、妖怪絵師の鳥山石燕からすれば欠かすことの出来ない存在なのさ」

「そうかえ」

「だから九郎くん」

 

 じっと彼の目を見ながら、石燕は云う。

 

「私にとっては、もう君が居るのが普通なのだから……その、ちゃんと一緒に居てくれたまえ、よ?」

「……安心しろ、石燕」

 

 老いない体を想う。この魔法が残っているのはきっとなんらかの意味があるはずだと。 

 だから死なない間は、と江戸に居る皆のことを考えながら、言った。

 

「お主が餅を喉に詰まらせて死にでもしないかぎり、婆さんになって看取るまで居てやるから」

「……ふふっ、それは気をつけないといけないね」

 

 何の気なしに放たれる、そんな嬉しい言葉を聞いて石燕は微笑んだ。

 

 

 いつか隠居老人になって、二人で茶を飲んでいる姿を幻視する。

 幸せそうな未来だった。 

 

 

 

 

 

 

 

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