神楽坂にある鳥山石燕の屋敷は、庶民からすれば豪華なことに内湯があった。
水瓶を注いで外の竈で火を起こすことで湯を温められる作りだ。広さはそれほどではなく、精々二人向い合って入れる程度のものだ。
屋敷に住まうことになった六人は、昨日入っていなかったこともあり朝風呂と洒落こむことにした。
無論、並んで寝ていたら最年少な石燕が寝小便を垂らしたので、全員それとなく朝の気分が沈んでいたので風呂ですっきりしようという意図もあった。
九郎が浴槽を[精水符]で満たして、[炎熱符]で程よい温度にした後に順番で入っていく。
「うううう……私の怜悧で妖艶で知的でいついかなるときも飄々としている印象が……」
「ほれほれ、落ち込んでおらんでしっかり洗うのじゃよ」
「お肌が水を弾くのが嬉しくはあるのだがっ擽(くすぐ)ったいっ!? いやちょっとスフィくんそんなところまで洗ってくれなくとも」
「何を言っておる。漏らしたのじゃから念入りに──って、あっ」
「あうっ……」
体が幼児である石燕を前に座らせて、糠袋と手ぬぐいで丁寧に体の隅々まで一緒に入ったスフィが洗ってやっていたのだが。
内太腿の付け根をごしごしとしていたらその刺激で、
透明な液体が始め勢い良く、そして柔らかい太ももを伝うように湯殿の床を流れていく。
「やー……」
「……まあ、幼いと風呂場でするわな。風呂の中じゃなければいいのじゃよ」
「享年三十なのだよ私はこれでも!? なんで我慢が効かないのだ我が体よ!!」
「よかったのー、体が幼女で。大人じゃったらアレじゃぞ少々」
「うああああん! ふぎゃああー!」
体は子供、頭脳は大人。
大人の時は若返りたいものだと思っていたが、悩みは尽きぬようであった。子供相応の泣き声を朝から放つ。
むしろスフィの言う通り、幼女の姿で良かったのだろう。
アラサーの女が事あるごとに漏らすとなると、今とは違った哀れみ方をされてしまうのだから。
次に豊房とお八が風呂に入る。
当代の鳥山石燕である豊房は何度かこの屋敷を受け継いでから内湯を使っているが、月に一度か二度ほどであった。
なんというか用意するのが面倒なのである。水瓶にたっぷり水を汲んでこなければならないし、火の管理もある。
住み込みであった夕鶴も桶に水を張って体を洗うのが主であったようだ。彼女も、湯屋に行くと目立ちジロジロと見られるのには慣れなかったのである。何せ、萩には江戸のように湯屋があちこちにあるわけではない。
二人は体をざっと洗い、湯船に向い合って入った。
「ふう……」
「あー……いい湯だぜ」
「ところでお八姉さん」
「なんだ?」
「胸大きくならなかったわね」
「喧嘩売ってんのか」
あまりこうして近くで風呂に入ることもないので、豊房はジロジロとお八の胸を見ながら言う。
同じ長屋暮らしだ。近くの湯屋で出くわすこともあるが、基本的に湯屋は薄暗いし他人を見ない。
ふにゅふにゅと豊房は自分のささやかな、そこまで豊かではない房を揉んで溜息を吐いた。
「わたしもそんなにアレだもの」
「まあ……死んだお前の母ちゃん──あたしの姉ちゃんだけどそれも平らだったらしいからな。血筋ってやつじゃねえの?」
「絶望的だわ」
「あ、でも死ぬ前はそれなりに大きかったような……」
「どうしてかしら。死ぬ前だと力が溢れるのかしら」
「……ああ、そうだ。昔だったから記憶が曖昧なんだけど……お前を産んだらちょっと大きくなったんだった。そうそう。子供ができると大きくなるんだよ確か」
「へえ……じゃあ希望はあるのね。大きい胸を見せつけて──」
「……」
「……」
「なんか本末転倒な気がするぜ?」
「わたしもそう思った」
微妙な敗北感をお互いに感じつつ湯から上がる。
湯上がりに着替えをするのだが、石燕の着物が問題であった。復活した彼女は、簡素な黒のローブしか着るものを持っていない上に四歳程度の幼女が着る衣服は、豊房らのお下がりすら用意されていなかった。
一方でスフィは貫頭衣である修道服を再び被っている。流石エルフというか、体臭が少ない体質で数日着たきりの服でも殆ど臭わず、むしろ僅かに甘い匂いがすると思う(作者考察)。
そんなわけで、石燕は風呂あがりに屋敷へ置いていた喪服を見つけたのだが、さっぱりサイズが合わないので巻きつけるようにして着用していた。
「先生の着物どうにかしないといけないわね」
「あたしの実家から布持ってこようか」
「服は布から縫うのかこの国は……大変じゃのー」
スフィの居たペナルカンドの街は基本的に、現代日本と変わらず既成品のある程度サイズフリーな衣服を吊るし売りしているのが普通であった。
そもそも彼女は修道服を普段着ているのであまりファッションに興味は無かったが。何せ、店に行くと露骨に子供服を勧められるのでは選びがいもない。
「古着屋もあるのだがね。噂によると江戸中の古着屋に置かれている幼女用の古着は、どこぞの同心がクンカクンカして回っていたという怪談を聞いたからあまり気乗りがしない」
などと相談をしている四人を尻目に、風呂場に最後の二人が入っていった。
「……ぜ?」
「なんかおかしなことが無かった? 今」
全員で首を傾げたが、それはともかく。
朝食の準備でも、と各々が動き出した。
二組が風呂に入っている間に炊飯はできていたので味噌汁を用意した。わかめだけは只管常備されているのでわかめの味噌汁だ。
「っていうか本当にわかめ屋敷だね……使ってない部屋にまで干したわかめが置かれている」
「夕鶴さんが市場で契約して、取れただけ買い取るようにしてるの。干せば保存が利くからって」
「仇討ちを放っておいて怒られないんだろうか……」
「萩藩の人も買いに来るみたいだぜ」
父親の仇討ちに、と送り出した萩藩ではあるが基本的に仇討ちは成功率の低い旅路だ。
それを女一人で向かわされたのだから同情的にもなるし、買えば仇討ちに使う費用になるというので援助気分で購入していくのだろう。
「援助で購入……つまりエンコーだね!」
「これ。人の商売をそう誤解されるような表現するでないぞ。これはそうじゃのう……夕鶴がウリをしてるから皆が喜んで買っていくというだけで」
「それも大概だよ!?」
「しかしなんかこー……夕鶴のねーちゃん、とっぽい顔してあれだよな。意外と進んでるというか……」
照れもせずに性交についてしたり顔で語ったのがお八は余程驚いたようだ。
「もう二十二ぐらいだものね。仇討ち中ってお嫁にいけないのかしら」
「黄表紙の物語本ではよくある展開だがね。仇討ちに出た若い武士は、旅先の女と恋に落ちてしまう……」
「するとその恋の相手が、性転換した仇本人なのじゃろー?」
「流石にそんな展開は見たことないよ!?」
などと話をしていると、風呂場の扉ががらりと開いた。
中から腰に手ぬぐいを巻き、髪の毛から水を滴らせた九郎が夕鶴を担ぎあげて運んできた。
「おうい。一緒に入っていたら何やらのぼせたようでな。こやつを涼しい所に寝かせてやってくれ」
一同は頷き、同時に叫んだ。
「なんで一緒に入ってんだ!?」
「なんでと言われても」
元現代人。元異世界人。現、江戸人の九郎であるが。
湯屋で混浴にすっかり慣れているので特に違和感無く、女とふたりきりでも風呂に入ることに躊躇いがない。
*******
怒られた九郎は流石に夕鶴が股間を凝視してきてそのうち湯あたりしたとは説明できずに、適当に謝っておいた。
九郎はすっかり気分的に枯れているのであれだが、江戸といえども男女が狭い浴槽でふたりきり入ることなどそう無いのだ。変に意識をしてしまうのも仕方あるまい。九郎も相手が阿部将翁のような女であったのならばふたりきりは拒否するのだが。
そもそも彼は、六十五歳から八十五歳まで魔女と世界中を放浪していて一緒に湯浴みや水浴びをすることも珍しくなく、その後魔王城の生活でも風呂に入っていると侍女が背中を流しに来たり魔王が水鉄砲や片栗粉片手に乱入したりと、女と一緒に入ることに慣れている。
朝飯をそれぞれの膳に盛って食べながら呆れたような説教が行われていた。
「まったく……クローはデリカシーが必要じゃな」
「わかったわかった。悪かったのう」
「……そういや豊房は昔、九郎と一緒に湯屋に通ってたっけ?」
「それはそうだけど……」
手元の急須を傾け、茶を飯に掛けていた豊房は言葉に詰まった。
確かに彼女が小さい頃──といっても数年前だが──は、気にすること無く一緒に風呂に入っていた。
股間も見た記憶があり、邪魔っぽいわねとしかその時は思わなかったのだが。
あの春画で強調されたかのような大きなアレが、アレするわけで──
「──! おいフサ子! こぼれておるこぼれて!」
「え? あっつ!?」
考えに没頭していた豊房は急須を傾けたまま茶碗を溢れさせていた。
熱にびっくりして慌てて茶碗から手を離そうとするが、そうすればなみなみと入った湯茶が座っている膝下に振りかかる。
咄嗟に九郎が手を伸ばして茶碗を受け止めて床に下ろした。多少は零れて九郎の指も痛みを覚えたが、被害をどうにか抑える。
「大丈夫か」
云いながら、豊房の手を掴んで[氷結符]で適度に冷やした。小さな水ぶくれができていたが、自然と消える程度であると確認し九郎は安心する。
ほっと息を吐いて、間近から豊房の顔を見ると何故か彼女はぼーっとした、湯上がりで僅かに桜色の頬を緩めて九郎を見ている。
「大事な手だろうに、む? どうしたフサ子?」
「あ、あの、ええと」
「くくく~お主の手はオレのメシ・サケ・オンナに使う金を稼ぐ大事な手だからのう……!」
「勝手に後ろから変な声を出すな石燕」
アテレコする石燕を半眼で睨んだ。
「金ぐらい己れでも稼げる」
「具体的にはどうするんだぜ?」
「今日あたり鹿屋にたかりに──いや、商売の種を見つけに行く」
「真っ当と言っていいのやら……って九郎。いつまで豊房の手を握ってるんだぜ」
「おっと、済まぬ」
十分冷やしたと判断した九郎がさっと離れると、豊房は「あっ」と声を出して恨みがましくお八を見た。
彼女は素知らぬ顔で口笛を吹いて、
「日本橋まで行くならあたしも付いて行くか。実家に寄って必要なもの取ってくるから」
「おお。己れも顔を出しておいた方が良いな」
「じゃあわたしも──」
豊房が言いかけたが、石燕がそれを遮った。
「房は黄表紙の挿絵を描く仕事が来ているではないか。それをやりたまえ」
「ううう、でも」
「依頼を果たさない絵師はあっという間に落ちぶれるよ。描かなければ報酬は貰えないのだしね」
「ところで、石燕でもあまり儲かってなかったというが絵師とはどれぐらいの金が入るのだ?」
九郎は同居する女の収入に興味津々だ!
その事実に、女達は一瞬顔を見合わせる。勿論誤解である。単なる興味で聞いただけで、女の収入に合わせて月に何本酒が飲めるとかどれだけ自分が稼がなくとも生活できるかなどを考えていたわけではない。本当だ。
現役の絵師である豊房が一応、答えた。
「そうね。上下の幅はあるけれど、版元に依頼される黄表紙とか狂歌本の挿絵で一枚につき一朱ぐらいかしら」
一朱は、一両の十六分の一である。
この年代での貨幣価値では一両を約八万円として計算しているので、ざっと挿絵一枚5000円といったところか。約4000文で一両と計算すれば、250文の収入だ。これは野菜や魚を売り歩く棒手振りが一日に稼ぐ金額とほぼ同じである。
筆の早い絵師に仕事が絶えなければ年に200枚は描く──トップレベルに多作な歌川国貞などは年に600枚は出していた。ただし、弟子の作品を自分の名義で出した分も含む──にしても、ざっと考えて年収100万円程度である。
多作な国貞、北斎ほど普通は描けないのでそれ以下と考えれば、なるほど大した儲けではない。(なお、江戸後期になれば多色刷りの発展などにより絵師の稿料も上がる)
しかしここは現代とは違う貨幣、物価の江戸だ。前も述べた通りに三人家族ならば月に一両でどうにか食べていける。年に換算すれば、年収12両──96万円で生きていけるのだ。
されど絵師の100万円の収入は純利益ではない。筆、墨に加えて場合によっては絵の具になる顔料代も含む。歌麿などは、顔料に砕いた雲母を混ぜて絵の具を光の反射で輝かせる通称[キラ付け]という手法まで使ったのだからより材料費が掛かる。
下手をすれば、年に200枚を描く売れっ子絵師とて家族がいれば生活は厳しくなりかねない。
「肉筆画なら幾らでもふっかけられるんだけど。妖怪の肉筆って案外少ないわ」
版元から依頼されて描く大量生産の版画絵とは違い、肉筆は一品物の特別製だ。時間も掛けて描くし報酬も、歌麿や石燕ならば十両以上は要求する。
とはいえ版画に於いて絵師への報酬が安いのも仕方がないのである。版画は一冊二百文から三百文で売るのに、絵師以外にも彫り師や刷り師など多くの手が入り彼らにも報酬が必要だ。
単に彫るだけ、刷るだけと思ってはいけない。彫り師は絵師が輪郭だけ描いて描写を省いた髪の毛の質感を一本一本彫り入れたり、刷り師は一部を強く刷ることで光沢を出したり、空摺りをして立体感を出したりと職人の仕事なのだ。
九郎は豊房の収入を聞いて、一番よく購入する物品に換算して納得した。
「なるほど一朱か……良い酒なら一升、普通の酒で二升分ほどだのう」
「……」
「……」
「……」
「何故無言になる」
「こう……女の日当を即座に酒に変える算段をしておるからじゃなかろーか」
「しとらんわ!」
この女達は自分を何だと思っているのだろうか。九郎は憤慨しつつ、早いうちに金を稼いで甲斐性のあるところを見せなければ、と思う。
石燕はぶかぶかの着物を動きやすいように捲りながら庭の方を見つつ告げる。
「私は生活費の足しになるものを裏にある蔵から掘り出してこようかね」
「そういえば焼け残っておったのう、蔵」
江戸商人の憧れが蔵持ちになることである。土壁に白塗りをして、地下室まで工事した蔵は火事が起きても中の財産を保護する。
ただし工事費が非常に掛かるので大店でなければ持てないのである。その蔵を個人で持っているのだが……
「あそこにはガラクタや壊れた瀬戸物などを適当にしまい込んでいて、殆ど価値がないものばかりなのだが中には売れるものがあったかもしれない」
「盗賊を騙すために敢えていらんものを詰め込んでおったのだったか……」
「騙せなかったけどね」
「盗む側が建築していれば仕方ないことだ。嘆いても今更さ。あっ思い出すだけで涙が」
「全然振り切れてない!」
流石にほぼ全財産を掻っ払われたのには堪えているようである。幼くなって涙腺も緩いためか、涙ぐんでいる。
「それなら私は今日は家事でもしておこうかのう。夕鶴は倒れておるし。楽器が残ってたじゃろ? あれも弾いてみたいでな」
豊房は仕事、夕鶴はダウン、お八は外出、石燕は頼れぬとなればスフィが炊事洗濯などを今日は担当することになった。
また、屋敷には三味線──鍋島化け猫の皮を使っているらしい──があったのでそれの練習もしたいようだ。
「ふむ。では予定も決まったな」
「クローは昼どうする?」
「外で食ってくるからよいぞ。日本橋までちょいと遠いしのう」
「お金持ってるの? 九郎」
「……」
「ま、まあ気にするなって。今日の所はあたしが奢るからさ」
お八が笑いながら九郎の背中をバシバシと叩いた。やはり稼がねばならない。年長者として。
*******
お八と街を歩く際に九郎はなるほど、と感心したことがある。
彼女の着ている着物は左右に深いスリットが入り、足の可動範囲が広くてそれなりに大股でずんずんと歩ける。履き物も下駄ではなく恐らく自作の頑丈そうな草鞋である。
それらのおかげで、お八と並んで歩くと移動が素早い。女向けの着物というのは普通動きにくい代物なのである。それこそ、あくせく動きまわって働く下品(げぼん)の女衆はかつてお七がしていたように相当肌蹴て着こなしていたように。
一方で、着物のまま六天流の修行も行うお八は動きやすい下半身と袖のない上半身でかなり江戸でも変わった服装ではあった。頭も、首までの髪をばい髷という小さくお団子を作る程度に結っているのもあってチャイナドレスの麗人めいている。
「ん? どうした九郎。こっちをジロジロ見て」
「いいや。お主も大きくなったなと思ってのう」
「へへっそうだろ。ほら背丈だって並んでるんだぜ。まあ、ちょいと江戸じゃデカイ方だけど夕鶴のねーちゃんに比べりゃ低いからいいよな別に」
身の丈五尺三寸余(160cm)といったところで、九郎とほぼ変わらないぐらいに育っている。
「九郎は大きくならねーよな。いや時々なってるけど」
「そうだのう……」
彼の体は、一番馴染んでいる少年の姿で基本的に固定されている。自分の意志で肉体年齢を操作できるけれど、一晩寝たりするとこの姿に戻っているのだ。
江戸に来たとき、若返りの魔法がまだ効果を発揮していると知って九郎はそれを解除するためにイリシアの転生体を探すことになった。
見つけて、魔法を解き、普通に老いて普通に死ぬ人生に戻ろうと思っていた。結果的にはイリシアの生まれ変わりを見つけ、魔法を制御できるようになったのだが。
(スフィを一人にするわけにはいかぬからなあ……)
自分の死を延々と何十年も引きずり続ける長命の仲間が居ては、おちおち死にきれるものではない。
彼の意志としてはもはやスフィが死ぬまで寿命を先延ばしにするつもりだが。
(江戸で生活する分には、外見だけでも年を取っていった方がいいかもしれん)
スフィは馴染む魔法で平気だろうけれど、九郎が数十年も同じ姿では怪しまれるだろう。
下手をすれば小石川の秘密研究所で人体実験を受けるかもしれない。
昨日も周りと自分の姿で、年齢相応というものがあると実感したばかりだ。江戸で生きる人に合わせて姿を変える方が賢明ではある。いつでも元の少年には戻れるのだから。
「己れはこれから成長期だからな。きっとすぐに大きくなるぞ」
「そ、そうなのか?」
「うむ……今思えば、十四ぐらいの頃はこの身長だったのに十八の頃には180近くなっておったからな……三年四年で20cmも背が伸びたので成長痛が酷かった気もする……」
「あー……よくわかんねーけど、九郎が大人だと背ェ高いもんな。師匠と同じぐらい」
江戸では共に頭一つ目立つ大男である。
それ以上に巨体なのが根津甚八丸だが、彼の場合は更に体重まで四十貫(150kg)はあり、相撲取りとボディビルダーの中間のような体型で非常に大きく見える。
「そういやとてつもなくデカイ侍を前に見かけたぜ」
「ほう?」
「その時は江戸に、南蛮船で象を連れてきてたんだ」
「象って、パオンか」
「そうそうパオンって鳴く奴。将軍が好きらしくてな。それで町中を見物許可されながらノシノシ歩いてたら、途中で制御できなくなったみたいでな。幕府の役人が大慌てになってたんだが──」
指を立ててその光景を思い出しているのか、面白そうな表情で言う。
「頭に深く笠を被った、甚八丸のおっさんを二回り以上も大きくしたような侍が躍り出て来てな、その象と相撲を取るような形で押さえつけたんだ。腕が丸太みたいに太くて凄かったぜ。なんでも噂によると、将軍側近の家来とかなんとか。隠密みたいな立場だから名前なんかは誰もわからないんだと」
「ははあ……御庭番というやつか。しかし江戸はやはり個性の幅が広い」
「変わった噂じゃ、顔を隠した上様だって話も!」
「暴れん坊だのう」
そんなこともあり、象が来る度に象押さえ係として大奥の番人から外に連れだされるオークのシンであった。
「あー……ところで九郎?」
咳払いをして、何気なさを装いつつお八は問いかけた。
「どうした?」
「前にほら、こう……約束したよな? あたしの嫁入りの面倒見てくれるとかくれねーとか」
「ぬ……」
そういえば。
男勝りでろくに嫁にいけそうにないとボヤいていたお八を励ましたような。
そして彼女はもう十八。江戸ではすっかり結婚適齢期なのに、嫁にも行かずに武芸を嗜み同心の手先をしているという。
「……すまん。忘れておった」
おまけにその約束よりも大事なことがあったとはいえ、江戸を留守にしていた九郎である。
果たせるはずもない。
というか、九郎としては勝手にどうにかなるものだと楽観視していた。お八は確かに男勝りな性格だが、乱暴者というわけでもない。裁縫も料理もできるようになっていたし、見た目は可愛いらしいのだ。特に額が。まったく意識はしていないが、九郎が好みの額をしている。
とはいえ九郎が放置していたのはお八も承知の上である。一体、誰が江戸を留守にしている男にそれを期待するだろうか。
彼女はわざとらしく、それでいて仕方無さそうに頷いて、
「まあ、他所に嫁にいけなくなるのは仕方ねーとしてほらあれだ……ちゃんとあれしろよ」
嫁の貰い手が居なかったら貰ってやる──九郎は冗談交じりでそう言っていたのである。
微妙に期待の混じった言葉に、九郎は肯定をした。
「そうだのう。お主の実家にも行かねばならぬ」
婿探しの面倒を見れなくてすまなかった、と謝りに。
そう云う意味である。確かに九郎は責任を感じている。帰って来たらよく知ってる親戚の子みたいな存在が行き遅れになっているなど、普通の感覚からすれば残念に思うだろう。
「ふぇっ!? い、いきなり挨拶を!?」
お八は思いっきり受け入れられたと思い、そのまま実家直行の展開に慌てた。
「帰ってきたことも告げておらぬからな。日本橋店の方で良かったか?」
[藍屋]は九段下と日本橋に店があり、九段下が本店ではあるのだがそちらは武士向けに固い仕事をしているのだ。そちらを跡継ぎの長男に任せて、旦那であるお八の父は日本橋店を切り盛りしていることが多い。
問われたお八は何故か顔を真っ赤にさせて手をわたわたと振り回し、叫んだ。
「ん、ええと、ああ……その、ほら! あたしって軽く家出気味だったから、先に行って九郎が来ること伝えるからよ! じゃあ後で来い!」
「む? あ、ああ。では鹿屋の要件を終わらせてから向かうのでな」
走り去っていく彼女を見送り、九郎は「むう」とよくわからなさを声に出すのであった。
*******
日本橋にある[鹿屋]は薩摩藩の品物を扱う、江戸でも珍しい店である。
売りに出される品は様々で、薩摩芋や蜜柑などの食料品、鼈甲や珊瑚などの装飾品、茶や煙草に菓子などの嗜好品など様々にある。
[鹿屋]自身が扱っている商品もそうだが、窓口として薩摩藩の商人らがこの店に品物を下ろしていることも種類の豊富さには理由がある。
また、遠く薩州の品が珍しいという客だけではなく、藩邸に江戸詰で滞在している薩摩人らも故郷の品を求めにやってくる。それ故、留守居役や家老などお偉方にも名が通っているという。
そんなこんなで、店はチェエエエイチェエエエイと掛け声でいつも賑わっていた。正直異様であり、知り合いでなければ近づかないか妖怪ポストに相談するレベルだった。
はずだった。
「む? 妙に静かだ」
客入りもまばらで、呼び込みのマスコットキャラ[さつまもん][からいもん][きもねりん]の姿も見えない。
店主や従業員でも変わったのだろうかと訝しく思いながらも九郎は暖簾をくぐる。
見回すと店内もどことなく活気は無いが、見知った薩摩顔の──とはいえ個体識別はつかないのだが──従業員が目を見開いて九郎を呼んだ。
「九郎どン!」
「お、おう」
従業員は二体に分裂した。
いや、奥から似た薩摩男が現れて近寄ってきただけだ。二人は九郎の左右へと回って肩を掴む。
「よかァとこさめきイくイやったッッ! わっぜこンちかぐィ鹿屋どンがエっとオっちょンじっとよッッ~!!」
「ささッおッさイッち会っちが! ィよかこッ聞かせっば、えろオこンとこイオイらも助かッもすッッ!!」
九郎は真顔で頷いた。
「……ああ! そうだな!」
「よかどッッ!!」
適当に返事する九郎。相変わらず言葉の翻訳ができなかった。薩摩らしい激しい声音が左右から脳を揺らす。
基本的に、相手が江戸時代だろうが奈良時代だろうがアイヌ人だろうが琉球人だろうが会話ができる能力を、異世界転送によって九郎は付与されているのだがそれでも薩摩弁は効果対象外のようであった。
殆ど暗号であるために魔法の効果から外れているのだろうか。実際に、第二次世界大戦では一時的に薩摩弁を暗号代わりに通信へと使っていたこともあるのだが。
ともあれ話は通じなかったが、九郎はさつまもんに引っ張られて店の奥へと向かった。
日本橋に大店を構えるだけあって、鹿屋の広さはそれなりのものだ。店の従業員で用心棒代わりのさつまもんが寝泊まりする部屋に、庭もあるぐらいであった。その奥まった一室、企画会議室として九郎が来るようになって使っているところへ連れて行かれた。
「鹿屋どンッ! ひっど!」
「よかこつがアっど!」
謎の呪文を唱えながら障子を開けて九郎を中に送り出す。
押されてたたらを踏みながら部屋に入ると、その奥で布団に鹿屋黒右衛門が仰向けになっていた。
顔色は悪く、心なしかでっぷりとしていた彼の顔もやつれているようだ。
「お、おいどうしたのだ黒右衛門。病気か?」
「これはこれは九郎殿……お久しゅうございます……」
よろよろと上半身を起こしてかすれた声を出す黒右衛門に九郎は近づいて座った。
「妙に店に活気が無いと思ったら……」
「いえ、実は軽く事業で失敗をしましてな……それで気分が落ち込んでしまい……」
「大変だのう」
金をたかりに来たと云うのに、言い出しにくい空気である。
まずは話を聞いてみなければならない。九郎は先を促した。
「九郎殿が旅に出ている間も安定はしていたのですが、新しいことを始められませんでした。
それで最近、江戸では動物が流行りものとしてウケるようになりまして。ほら、上様が象などを珍重している影響もあるのですが」
「その話は聞いたのう。それでどうした? 白熊でも持ってきたか?」
黒右衛門は力なく首を振った。
「薩州には……というか九州には熊はおりません。しかし見世物として、危なくて冷や冷やしつつ勝負事でもあるという珍しいものを考えついて両国の見世物小屋にて公演をしたのです」
「ほう……何をやったのだ?」
この店は九郎の助言もあって、見世物や芝居の公演にも一枚噛んでいる。キグルミヒーローショーめいたものはそれなりの人気を誇り、バイオレンスと不条理な薩摩寸劇もある程度の集客は見込めた。
黒右衛門が独自に考えた見世物とは、
「ところで九郎殿は波布(ハブ)をご存知ですか?」
「ハブというと……あの南の島に居る毒蛇のか」
「ええ。危険な蛇で毎年何人も死人が出ております。しかし危険な蛇という名目は人に興味を沸かせる。そう考えて奄美から生きたハブを送らせたのです」
見世物になる生き物でも、特殊な生態があれば確かにそれだけで興味を引くものだ。九郎は頷いた。
ただの蛇より巨大な毒蛇。無害な魚より人喰い鮫。ホームレスの中年よりゾンビの中年。ドイツ労働者党より南極基地のナチ残党。どれも大人気な名作要素である。多分。
また、ハブは変温動物であるためにエネルギー消費が少なく抑えられ、長い船旅でも少ない餌で生きていけるので連れてくるには問題ないだろう。
「発想は悪く無いと思うが……」
九郎の頭のなかでキングコブラを笛の音で操るターバン男が浮かんだ。それに限らず、危険な蛇を使って大道芸をする例は世界中で少なくないだろう。
それだけ普遍的にウケる題材だということだ。つまり映画のアナコンダシリーズも名作なのだ。
「しかしただ蛇を籠の中に入れて見せるだけでは甘いと考えました。江戸のお客は娯楽に飢えている。より過激に、より興奮をと」
「ふむ」
「そこで私は、周囲を囲んで上だけ開いた小部屋の中に人を入れて将棋を打たせました」
「将棋……?」
「その中にハブを何匹か放り込む! これぞ題して『
「アウト感漂っておる!」
企画がお笑い芸人を使うバラエティみたくなっていた。
或いはライオンとデスマッチをする古代ローマのグラディエーターだろうか。
黒右衛門は拳を握り熱心に主張する。
「両者共に勝負がつかないかぎり小部屋から出られない。ハブが威嚇しまくり時には飛びついてくる部屋で逃げながら将棋の駒を進める。観客はハラハラしつつ将棋の勝負にも興味を持つ……と、理論上は完璧な企画だったのです」
「競技者の安全以外はな」
一体どんな弱みを握られれば波布将棋に参加させられるのだろうか。闇を感じたが深くはツッコミをいれないことにする九郎であった。
しかし黒右衛門は熱い勢いから一転し、溜息をついて顔を抑えながら事情を話した。
「最初のうちは狙い通りウケたのです。評判を呼び次の公演時には客席は満席に! あまりの盛況に町方の同心与力もやってきたとか。
しかしその満員御礼の際、事故でハブが客席に……!」
「うわ」
「客席は大混乱。逃げ惑う人が将棋倒しになり、大勢の怪我人を出したことで奉行所から呼びだされて、急度叱(きっとしかり)後に重過料を幕府と怪我人への慰謝料として支払うように命じられまして……」
急度叱は叱刑の一つ、つまり奉行所まで責任者を呼び出して町奉行が叱りつけるというものである。叱るだけ、と現代で思うと軽いものだと思われるかもしれないが、身分差が明確に分かれている時代で裁判官自らに罪を怒られるというのは恐怖を感じただろう。
おまけに急度叱は通常の叱よりも強力なもので、身分を保証する者の署名入りで反省文まで提出させられる。この場合鹿屋は薩摩藩の許可を得て経営しているので、薩摩藩の偉い立場の者──検史か或いは公儀人にまで話が行ったかもしれない。
そうなればお前は何をしていたのかと同じ藩のお偉方からも当然叱られるだろう。藩御用達でさえあった商人がそうなっては、落ち込むのも当然だ。
重過料の方は所謂罰金刑である。罰金を受ける側の収入や社会的立場に比例して金額は上昇するのだが、それからもごっそりと取られたはずだ。
そんなわけで鹿屋は公演の失敗で藩の信頼と金を失って落ち込んでいるのであった。
九郎は感慨深く頷く。
「大変だのう……」
同情しつつも町中でハブなんぞを使うのが悪い気もしなくはない。
日本に生息する蛇の中でもハブの攻撃性は非常に高いのだ。何せ名前からして『喰(は)む』が由来になったとされている。一方で蛇は『這(へ)ぶ』という言葉から来たという説もある。這うやつより喰らいついてくるやつの方が危ういのは自明の理だ。
だが──九郎は後ろめたい安心も覚えていた。
もし、何事も無く九郎が居ない間も鹿屋が発展を続けて、お高く止まった大店中の大店になっていたとしたら。
前にちょろちょろと助言した彼の恩なども忘れて、もう得体のしれないアドバイザーとは関わろうともしなかったかもしれない。
しかし実際はヘマをしてすっかり店は活気を失い、主も気弱になって、
「九郎殿……どうかまたお力添えを……」
「よいぞーぅ?」
「うわあいい笑み」
こうして頼ってくるのだから、力の貸し甲斐もある。九郎は安心させるよう、にっこりと笑った。
「よし。では早速お主の好きな儲け話と行こう。今度は安全かつ大きなシノギだぞ。おまけに藩への信頼も回復するし、幕府に目を付けられることもない」
「そ、そんな魔法のような商売があるのですか!?」
「ある。だが今すぐに儲かるというわけではなく、準備期間が必要だがのう。あと助言料も前金で十両貰うぞ。後金は、儲かってからお主の心付けでよい」
「ぜひ! ぜひお願いします!」
これまでも九郎の助言により売りだしたキャラクターグッズや、芋の調理法などで大きく儲けて藩への聞こえも良くなっていた鹿屋だ。一にも二にも無く飛びついてきた。
枕元にあった小さな小判箪笥から十両を取り出して九郎に差し出し、頭を下げる。
金を懐に仕舞いこんで九郎はその話を出した。
「お主がハブの話をしたので思いついた。ハブで損した金はハブで取り戻すぞ」
「と言われますと」
「ハブ酒を作って売るのだ」
「ハブ酒!?」
──水に漬け込めば酒へと変える酒虫の話は、奈良時代の日本霊異記から登場するのだが、生き物を酒に漬け込む歴史は案外に浅い。
というのもアルコール度数が高くなければどうしても腐るので、風味付け程度ですぐに飲むのならまだしも長時間漬けてエキスを出すとなれば、例外を除き蒸留酒が生み出されてからのことだ。
そして薩摩藩は芋、黒砂糖を使った蒸留酒である焼酎や、琉球焼酎──泡盛が身近にある。
「しかしあの、気味の悪い蛇を漬け込んだ酒と言われましても……一体どのような酒なので?」
「薬酒だ。精力増強に特に効果がある──という名目で売りだせ」
「精力増強ですと!」
黒右衛門が膝を打って唸った。
「武士となれば世継ぎを残すのが役目。庶民でも昨今は色街に繰り出し女遊びを楽しむ時代……そこで役に立つのが夜に活力を与えるというハブ酒だ」
「確かに子作りを促進するものとすれば、武士階級でも買い求める客は多い……何せ、上様は夜の方でも将軍という噂だからそれにあやかろうと買いにくるでしょう。そして庶民もたまの贅沢に吉原などに行く時には、精力増強の薬酒があるとすればやってくる」
江戸で精力増強の薬を販売していることで有名なのは、四つ目屋忠兵衛という店での長命丸、女悦丸という丸薬であるが。ちなみにそれらは男女の陰部に塗りつけるものだが、概ね材料は胡椒とか山椒とかそういう刺激物である。
使うとチンチンが痒くなる効果オンリーな丸薬と、いかにも効きそうな邪悪感丸出しなハブ酒、どちらが売れるであろうか。
特にハブ酒は蒸留酒をそのまま使うのでカッと体が熱くなり、錯覚としても効きそうな雰囲気は出るだろう。
「更にハブ酒を売りだせば薩摩焼酎の販売数も上がるであろう」
「ええ……江戸で売られている焼酎は酷いものが多いですが、薩摩は違う」
江戸で下酒といえば焼酎のことであり、どれぐらい下だったかというと買っているところを見られたら近所で噂されるので買いたくないと女房が断るぐらいである。
というのも、実際に全国で作られる焼酎は質が悪いものが多い。
出来の悪い酒を蒸留してなんとか飲めるものにしたり、酒粕を水に浸して再発酵させたものを蒸留したりと、酒の滓から作られる下酒なのであった。
ただしそれが九州薩摩になると、そもそも日本酒を作るほどに米が作れないので最初から焼酎を作ること前提で雑穀と醪(もろみ)を使って酒を作っているのだ。薩摩芋が流入した十八世紀からは芋焼酎も作られだしただろう。
そういう理由もあり、他所で作られる焼酎と薩摩の焼酎は、ギリギリ飲める産業廃棄物としっかりした酒ぐらいの違いはあるのだが江戸ではそういう違いを知るものが少なかった。
「材料となるハブはタダ同然であろう?」
「輸送費こそかかりますが、むしろ積極的に駆除しているぐらいですよ」
ハブを捕獲すれば数千円の報酬が得られるのでハブハンターが居ることは現代でも有名だが、薩摩藩の支配時代にも同じ制度があった。
当時はハブを殺すか、卵を駆除すると玄米が現物支給で得られたとある。それぐらい現地で被害が出ているのだ。
「薩摩の厄介者が金を生む薬になるとは……これで駆除が進めば奄美の島民の安全も確保されて労働時間を更に増やせるでしょう!」
「いやそのへんの問題はデリケートだから触れぬが」
砂糖黍作りに酷使された奄美人の恨みは根深い。あくまで目的はハブであり、薩摩藩の活動は範疇外だ。
「漢方と言い張るといいかもしれん。人は舶来の薬という名目に弱い」
「漢方! いい響きだ……漢方素材であるハブを漬け込んだ酒! これはいけますよ! 大名にも売れるかもしれない!」
「待て待て。ここは更にお墨付きがあればいいのだが……薩摩藩に薬に詳しい者はいたか?」
「……おります! おりますよ凄まじく都合がいいのが!」
どんどん好条件が重なるのを感じて黒右衛門は興奮している。
「富山の薬売りです。文を運ぶ飛脚とて、薩摩に入れば隠密と見られて始末されるこのご時世で……」
「いやそれもどうかと思うぞ。飛脚可哀想すぎるであろう」
「飛脚どころか幕府の徒目付さえも難癖をつけて始末しておこうとかやる薩摩藩で……」
「悪の独裁国家か何かか」
「富山の薬売りだけは幾つかの制約を交わして行き来を許しているのです。彼らにお墨付きを貰うと、それは全国に居る富山の薬売りが認めたということ」
江戸時代において日本全国でネットワークを築いていたのは、まさに富山の薬売り集団ぐらいであった。
薩摩さえも自由に他国を行き来して商売を行い、お互いに情報を共有し、各地で他の土地の話や、江戸での情報を人に伝える。
土地の名士から大名まで彼らを受け入れる者は多く、富山の薬売りが認めた薬は日本全国で販売可能になる。
「彼らとて、薩摩藩の作った薬に難癖を付けて出入り禁止になるよりは効能を認めて、『こちらも売らせてくれ』と頼むかもしれませんな」
薩摩藩への薬販売を独占していることで富山の薬売りが得ている利益はかなり大きい。
それを手放すとは思えず、多少怪しい薬とて認めるだろう。実際、漢方では毒蛇を用いることもある。
そして富山の薬売りがそのネットワークを使って、どこかの藩の殿様にでも売りつければそれは評判を呼び、参勤交代で江戸に来たときに再購入も考えられる。
「となるとこれは中々に大きなシノギになり、藩での事業になるかもしれませんが……江戸での販売は私鹿屋が請け負うことは間違い無いでしょう」
「藩への借りも返せるわけだな」
「まあ実際のところは叱られたわけですが、私の店から藩に何万両か貸し付けているのでそう強くは云えますまい」
「はっはっは。多分それ踏み倒されるぞ」
「はっはっは。まさか」
未来のことはさておき、今は新たな商売のハブ酒である。
江戸に於いて酒は高級品だが焼酎は安物だ。しかし、薬酒となると高級品より更に上のグレードで売れる。安くて輸出品目として魅力がなかった焼酎が輝くのである。
例えば高い酒が江戸では一升で250文(約5000円)。焼酎が一升80文(約1600円)。食事として蕎麦が16文(約320円)。
しかし薬となれば、一升の1/18である100mlで100文(2000円)取ったところで、買い手が付くのだ。
こうなれば焼酎一升分売れば1800文。ハブを漬けるだけで、焼酎が20倍以上の値段になる。別にこれはボッタクっているわけではなく、富山の薬売りも原材料費の千倍の値段で薬は売れと言っているぐらいで、薬というのは売り手が幾らふっかけても良い代物であった。
特に性に関する薬となれば、健常者に売れるのだから需要は常に存在することになる。
「ただし、先に云ったとおりに今すぐ儲かるわけではない。ハブ酒づくりから始めねばならぬ」
「どうするのですか?」
「まずは生きたハブを水だけ入れた樽とか桶で、餌を与えずに100日ほど生かしておけ。水は汚れる度に変えてな。そうすることで腹の中の糞を完全に除去できる」
「100日も生きていけるので!?」
「多分大丈夫だったはずだ。むしろ、それでも生きておる生命力がまさに効きそうであろう。その後、ハブを濃い焼酎に漬け込み三ヶ月以上寝かせば徐々に酒の色が変わりハブ酒になる」
妙に九郎がハブ酒の作り方がペラペラと出てくるのは、中学の時にバイト先の大人に幼馴染共々南の島へ連れて行かれて作ったからである。夏休みの自由研究として纏めたことがあったのだ。
「つまり最初の出荷分が出来上がるまでに、半年は掛かるわけだが……これはむしろお主のやらかしたことの、ほとぼりを冷ます期間によかろう」
「なるほど」
ハブでやらかした直後にハブ事業を再開したら睨まれることは必須だ。
しかし半年も期間を置けば、この江戸のことである。他の業者がサメ事業をしたりゾンビ事業をしたりしてハブのことは忘れられるだろう。
「やりましょう。まずは現物を作ってから周囲を説き伏せますが、私財を使って作れるだけ作ろうと思うぐらい行けますよ、これは」
まさにこの時代、ハブ酒はハブの生息地を抑えていて蒸留酒づくりの盛んな薩摩藩のみが作れる薬酒である。
胡椒を塗りつけるぐらい性に興味がある民衆なのだから、多少ハブがグロテクスなぐらいはむしろ売れるポイントになるだろう。
「ところで九郎殿。『ハブ酒』という呼び名ではいかにも生臭い。何か良い名前は……」
「無論考えておる」
九郎は自信満々に応えた。
「名づけて『
「ハブメイジン……! 素晴らしい! 誂えたような呼び名だ……! 波布という名前と銘腎という名前が、恋をしたかのようにくっついている……!」
※日本将棋連盟とは一切関係はありません。
なお、江戸時代では精液のことを腎水(じんすい)と呼び、腎臓の働きで精液は生み出されるとされていた。故に腹上死を腎虚と呼んだのである。
だからこそ飲むと下半身の元気を生み出すという名目で売られるハブ酒には似合っている名前なのだ。それ以外命名に理由はない。
九郎は興奮する黒右衛門に当てられたかのように、彼も得意げな顔になり続けた。
「まあ待て。更にこれは薬でもあるのだ。お主、目の前に濃厚でキツイ味の薬があったらどう飲む?」
「それは……水で流しこんだり、少量を薄めたり……はっ!?」
「そう。金持ちや大名向けに値段を凄まじく釣り上げた原液と、庶民でも少し節制すれば手を伸ばせる程度の値段で売る薄めたものを別に用意することで材料あたりの利益は更に上がる! 僅かな原液で大量生産が可能だ!」
「おおっ!」
「濃い方は更に豪華な名前にしよう。『
「こぞって買いますよ!」
※日本将棋連盟とは一切関係ありません。
こうして──九郎は、鹿屋に精力増強の薬酒、『波布銘腎』のアイデアを売りつけて当面の稼ぎを手に入れたのである。
まさしく金の卵を産む蛇を見つけたとばかりに鹿屋はハブ酒づくりを初めて、当初は気味悪がられていたのだが九郎の予想通り大評判となり、日本各地の大名や武士からも注文が相次ぎ、業績は鰻登りになるのであった──
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後に鹿屋が莫大な利益を得ることを考えると、十両の儲けとはいかにも少ないと思うかもしれないが。
そもそもハブ酒づくりが薩摩に親しい商人にしかできないので、九郎は半刻ほど口先を動かすだけで十両(約80万円)をポンと所得しただけで十分であった。
儲けた後で後金をもらうことを約束してあるし、ハブ酒の宣伝方法や別の店がマムシ酒などを作り出したときの対処法など、まだ助言して金を引っ張る内容は色々とある。
(一度に大金をせしめるのではなく、何度も小分けにして得ることでむしろ相手からは頼りになると思われるのだな)
懐に入れた十両の重さを満足気に押さえながら、九郎はそんなヤクザめいたことを考えていた。
軽く売り物を教えてやるだけで十両稼いだのだ。誰にも甲斐性なしとは言わせまい。
(この金で高い酒でも買って今日は呑もう)
そう計画しながら、お八を先に行かせた呉服屋の[藍屋]へと向かっていった。
大暖簾を捲って、布地を多種多様に吊り下げている店内は久しぶりに入るとその色とりどりさに息を飲む。江戸の市中ではまだ倹約令の影響で地味な色の着物を着た人が多いが、徐々に取り締まりもゆるくなっていっているようである。
こうした店頭に反物を並べる販売方法は後の三越である三井高利が考案し、実行したことで店を発展させたと言われている。それから他の店もあやかりこうして真似をするようになった。
[藍屋]は問題なく繁盛しているようで上流階級に見える客が多く居た。長屋の経営や古着屋にも手がけているのでもはや自然と儲かる店になっているのだろう。九郎が助言などしなくともまったく問題はない類の店だ。
九郎がぼさっと店の中を見回していると、番台に座っていた中年の男が気づいて、九郎と目が合った。
確かお八の兄で次男坊の方だと記憶している。
「これは義弟(くろう)様」
「うん……うん? なんかおかしくなかったか今」
「父がお待ちです。どうぞ奥へお上がりください」
微妙に言葉に含んだ違和感を覚えつつも、店の者の案内で座の奥にある階段を上がり、二階へと進まされた。
そこにはお八がなんとも言えない表情であぐらを掻いて頬杖をついていた。九郎を見つけると、申し訳無さそうな──それでいて、
(仕方ねえよな?)
とでも言いたそうな、そういう顔で苦笑いを浮かべた。
そしてもう一人はお八の父親である、藍屋の主人が九郎に頭を下げた。
「これは九郎様。お久しぶりでございます」
「あ、ああ」
何か、異様な雰囲気を感じる。
丁度時刻は昼時であった。主人は店の者に指示を出すと、すぐに膳に盛られた食事が三人分並べられる。
「積もる話もありましょうが、まずは一つお食事でも」
「う、うむ。豪華だのう。鯛があるが」
「いえ。何せ、九郎様が帰ってきてめでたいですからな。はっはっは」
こう、有無を言わせぬ言葉の強みを感じた。
九郎は手早く食事を済ませようと、箸を手にとった。
鯛の切り身を山椒味噌で焼いたものと飯。汁物にはうつし豆腐が用意されている。うつし豆腐は単純に云えば、鯛で出汁を取った湯豆腐のようなもので、うっすらと鯛の脂が湯に浮いていてそこから掬った豆腐を生姜醤油で食うのだが、これが中々に旨い。
のだが。
すごく主人が凝視してくるので九郎は戸惑っていた。
「え、ええと。ハチ子や、着物や布団は譲ってもらえるようになったかえ? 金は先ほど稼いできたのだが」
「ああ。店の人が屋敷まで運んでくれるってよ」
「それはよかった……代金は」
「まあその話は食後に」
「あっはい」
主人にきっぱりと言われて九郎は素直に頷く。
急いで飯を掻き込み、うつし豆腐の汁まで醤油を混ぜて啜った。鯛の味が滲みるようだ。そういえば鯛も久しく食べていなかった。異世界にいた鯛に最大限似た生物は鯛に足が生えている姿で食べる気がしなかったのだ。
食事を片付けると、主人が何やらお八に耳打ちをして、やはり仕方無さそうな顔でお八が席を外した。
何処かへ歩いて行くお八の足音を気にしたが、するすると主人が近づいて膝を合わせる距離にまで来たので、思わず身を引く。
「九郎様」
「ど、どうした」
厳かに、じっと目を見ながら告げる彼に九郎は唾を飲み込んで尋ねる。
すると主人は九郎の手を握り、さっとそこに何かを握らせた。
四つにわけられた小判型の分厚い何か──というか分厚く束ねた小判である。
切餅という表現で云うならば四つ。一つ二十五両が両替商の保証した紙で包まれている。つまり、百両だ。
言わずと知れた大金であった。九郎が得意満面で稼いだ額の十倍である。
「これは……ええと?」
「お八の。持参金でございます」
「持参金」
というのは一般的に、嫁入りなり婿入りなりする片方の実家が持たせる金である。妙に、強く文節を切って告げる主人にたじろぎながら言葉の意味を吟味した。
九郎の手が大金で塞がっているのでその肩を今度はがしりと掴んで正面から顔を合わせる。
「九郎様が、私どもの愛娘であるお八の結婚相手を見つけてくださる──そうでなくとも、いざというときは責任を取ってくださる。そう約束されましたな?」
「え、ええと」
「されましたな」
「う、うむ」
有無を言わせぬというが、もはや「うむ」としか言いようが無い。
「その持参金はお預け──いや、差し上げます。相手が見つかれば九郎様から手渡してください。見つからなければ九郎様への持参金としてください。預けたわけではないので返却はなさらぬように」
「いやあの、お八の親であるお主からあやつの婿は見つからなかったのか?」
「幾度か試みましたが、お八がそれを望みませんでした。いいですか九郎様。いいですね?」
「う、うむ」
肩を握る手に力が入っている。九郎はそこはかとなく脂汗を掻き始めた。
「あの子は目に入れても痛くない、大事な娘です。私どもからすれば、あの子の幸せを願うばかりです。だから──決してお八を不幸せな目に合わせなさるな。あの子は九郎様と関わって幸せなのです。どのような形でもこの際構いません。あの子が納得さえすれば、そして幸せになるのならば構いません。ですから、どうか不義理な真似はしないでください」
「わ、わかっておる」
お八の婿を探さなかったことが余程怒っているらしい……。
九郎はそう感じて、とにかく頷いた。確かに、不義理をしていたのは彼でその結果が行き遅れ気味で家出をした娘だ。
(その怒りも尤もだ……)
これでお八が九郎のことなど幼い頃に知り合った謎の男その一ぐらいの思い出で終わっていれば何も無かったのだろうが。
彼女はしっかりと約束も覚えていたのだ。無かったことにはなるまい。
「とにかく、どうにかお八を。あの子の人生を。九郎様に九郎様の都合がおありでしょうが、そこを曲げてでも。私の命を掛けてお頼み申しますよ……!」
「あ、ああ」
「話は聞かせてもらったァ!」
九郎が呻くように返事をすると、突然障子が叩きつけるように開け放たれて、口に鯛の骨を咥えた中年の侍──中山影兵衛が飛び出してきた。
彼はもごもごと骨を動かしながらわざとらしく目を閉じて云う。
「たまたま通りすがったもんで首を突っ込ませてもらうぜ。ほら拙者正義のお節介焼きだから」
「どこからツッコめばいいのだ。というかお主居たよな? 隣の部屋あたりで待機して鯛とか食っておったよな?」
通りすがりで鯛を食いかけな様子を見せる状況などありえない。そして二階に通りすがりで現れるのも。
だが彼は柳のように九郎の追及を受け流し、
「その話、この中山影兵衛がしかと聞き届けたぜ。もし九郎が、お八嬢ちゃんの婿も見つけずに責任を取って嫁なり妾なりにしねえで独り身のまま可哀想に一生を過ごすようなことにならねえように、拙者が責任の一端を担おう」
「おお、恐ろしい……うちのお八が、そんな」
「安心しろよ旦那さん。というわけで九郎。手前が不義理したら責任取って拙者が斬り殺しに行くんでシクヨロ」
「なにいいい!? こやつ、凄い笑顔でとんでもないことを!」
さらりと。
そして限りなく本気で影兵衛は九郎へ殺人宣言をした。
にたりと笑いながら手元で刀をチャキチャキと鳴らして、踊りでも踊るように身を揺らし云う。
「何せ今度は正義の鉄槌を食らわすわけだからなあ……拙者全然負ける気がしねえぞーう? 責任取らねえ不義理野郎とか瞬殺すぎるけどなるたけ抵抗していいからなよっしゃ楽しみ!」
「よっしゃ云ったな!?」
「ご安心ください九郎様。たとえ娘の為とはいえ、恩人を死に至らしめる事になった場合は私も首を括って死にますので! 共に死にますので!」
「誰も得をしない未来が見えてきたな!?」
わたわたと。
お八の父親と、殺人執行人な影兵衛に詰め寄られて九郎はひとまず認めるしか無かった。
その時、がたりと外の廊下で音がしたのだが室内の誰もが気付かずに。
布団類などを選ぶために一旦席を外していたお八が部屋に戻ってきたときに、廊下に落ちていた蕎麦の麺を見て首を傾げるのみであった。
********
ダンジョンに潜るよりも疲れた気がする。
そんな心持で、九郎はお八と並んで神楽坂へ戻る途中であった。
大事な末娘が行き遅れる瀬戸際になった父親は強固だった。とにかく、九郎には断る論理は存在しなかったのだ。
お八を不幸せにしないこと。
それを守らねば影兵衛が斬り殺しに来る。恐らく彼は何の躊躇いもなくやってくる。そして斬り合いになったとしても「手前が不幸にさせたから悪いんじゃねーか」と言われればまったくもって九郎が勝てる道理は存在しないだろう。
それでもいきなりというわけではなく、残りの期限を一年後とした。一年以内に彼女が納得する婿を見つければ良し。見つけなくても責任取れば良し。
そもそも。
お八はどう思っているのだろうか。
九郎は隣に並んで歩く少女の顔を見て思案した。
彼は別段、お八が嫌いというわけではない。
活発なその性格は好ましいものがあり、一般人なら初日で逃げ出す晃之介の修行を耐え、料理に裁縫など女らしさも忘れずに努力していた。
いい娘だ。
正直、この嫁不足の江戸でどうして他に男が居ないのかと思うぐらいにいい娘である。
九郎からしても嫌うところはひとつも無い。素直にそう感じる。
彼がじっと見ているのに気づいたのか、お八はやはり仕方無さそうに笑って云う。
「あのさ、色々実家が騒いで悪かったな」
「いや──ハチ子は家族に愛されているのだな」
「でも、その……あれだ九郎」
照れくさそうに、お八は云う。
「あたしは今、幸せなんだぜ」
「……」
「好きなこと出来て、仲の良い友達もいるし、九郎も側にいるし。だからさ」
にっと、惚れ惚れするような笑顔で彼女は告げる。
「きっとその時が来ても、そんなに大きくは変わらねえんじゃねえかな。今と」
「……そうか」
たとえお互いの立場が変わっても。
こうした日常さえ続いていくのならば、お八はそれなりに幸せであるようだと、告げた。
だから、
「そんなに深く考えるなよ」
一年後でも明日でも、九郎の嫁になっても大丈夫だと、そうお八は笑いながら九郎の背中を軽く叩いた。
九郎は少し気が軽くなった気がした。
(そういうものか……)
すぐにでも駆けずり回ってお八の婿を探すべきかとも悩んでいたのだが。
成るように成る。そう考える他は無かった。見つかるときは見つかるし、どうしてもお八が他に嫁に行きたくないのならばそれでもそう困ることではない。
ともかく、一年後の自分が多分なんとかするだろう。
「わかっておるよ。もしそうなったらその時は宜しくのう」
「おーよ」
お互いに笑って、拳を軽くぶつけあった。
「さて。酒でも買って帰るか」
「お。早速持参金を使うのぜ?」
「己れが稼いだ金でだ!」
*********
九郎が藍屋に入る少し前。
『いいかお八! 私が押して押して押しまくり言質を取って若干うんざりされつつ、呼んできた中山様で脅して責任を果たさせるように仕向ける!』
『すげえ気合だな親父……』
『最後の機会かもしれん! そもそも女五人と同棲とか思うところがないでもないが、この際お前が幸せならもう目を瞑る! で、お前は少し引き気味に、まー仕方ないから? ちょっと付き合ってみる?みたいな態度をする』
『なんで?』
『女がガツガツ攻めてくると、うわこの女面倒くさい……と思われるからだ! 私の追及にうんざりしていた九郎様は都合のいい感じなお前の態度との落差でコロッと行く! そもそも断る明確な理由が無いのがあの人の弱みだ! わかったな!』
『お、おう……というか実際、久しぶりに会った親父のその勢いに引いてるぜ』
などと親子の会話があって、だいたいその通りに進んだのであった。
********
神楽坂の屋敷にて。
九郎たちに先んじて、店の者らが荷車に載せた布団や着物を運び終えていたようだ。
とりあえず茶でも飲むかと一同集まり、九郎が話題に出した。
「ところで、お八の実家でのことだが」
一年以内に婿を探さねばどうやら嫁に貰うことになるようだ、と予め皆に告げておくと。
石燕は愕然と、スフィは「ほー」とむしろ興味深そうにした。夕鶴は「目出度いでありますなー」とバリバリ煎餅を齧っている。
そして豊房は──頷いて、何か画集のようなものを取り出して差し出した。
お八がそれをぺらりとめくると、詳細な似顔絵と職業や住所などが書かれている人物帳のようだ。
「こんなこともあろうかと、お八姉さんの夫候補を百人ほど見繕っていたわ」
「なんで!?」
「好きなのを選べとは云わないわ。だって云わないもの。さ、明日からひとりずつ会って見合いしていくのよ」
「いやいらねえって別にこんなの!」
「いらないの?」
「ああ!」
「この画集に載ってるの全員?」
「あたりめーだ!」
意固地になったように、画集を突き返すお八。
だが豊房は得心が云ったように、画集の一枚を開いて見せた。
そこには眠そうな目をした、髪を結っていない髪型の、見知った顔がある。
名を九郎。職業は助屋及び同心の部下。いつもぶらぶらしていて収入不安定とある。
「いらないなら貰うことにするわ。はい九郎。持参金お父さんが持ってきたの」
「ちょっと待てええええ!!」
「お父さん、何かただならぬ様子でこれを押し付けて行ったのはこういうことだったのね」
「フサ子!? おい、豊房!」
「お父さんと約束したらしいじゃない。わたしの旦那になるって。約束は守らないといけないわよね。だっていけないもの」
九郎に五十両の小判を手渡す豊房である。
あの蕎麦屋の貯金殆ど全てではないだろうか。嫁や子供にこれからも金が掛かるというのに、六科はこれを慌てて持ってきたのだ。
というのも彼はたまに打った蕎麦を、大家である藍屋に持っていくのだがその際に九郎が詰め寄られているのを偶然立ち聞きしたのであった。
このままでは九郎をお八に持っていかれて、豊房が残されると思った父親は、こうして持参金を預けていったのだ。
九郎は。
左右を豊房とお八に挟まれて、思考を奪われた顔になっていた。
ついさっきまでお八の責任を取る気が固まりかけていたところでこの横槍である。
どちらを断っても不義理になり、或いは影兵衛が襲い掛かってくるだろう。バッドエンド一直線である。まずは時間が必要だった。冷静に状況を見直す時間が。
「わかった、わかったから。フサ子もハチ子も、まずは己れ以外に良い相手がおらぬか一年探してみよ。それで見つからなかったら嫁にでも何にでもなるが良いだろう」
「どっちを?」
「だぜ」
「両方とも平等にだ。生活は今とさほど変わらぬが、まあそこは枯れた老人の元に来たのだから仕方ないと思うのだな」
九郎は内心冷や汗を掻きながらそんなことを云った。
中々に最低なセリフを吐いているものだと自覚をするが、これで諦めてしっかり婿を探してくれれば何よりだ。
というか一人ならまだしも二人から来られるとは思っていなかったので、混乱して雑な解決法が閃いたのだろう。
(自分が女の立場ならぶん殴って他所で男を捕まえてくる)
そう確信して、二人の反応を待った。
すると。
顔を見合わせた豊房とお八は。
「……まあ」
「仕方ないぜ」
「じゃあその時はよろしく」
そう声を合わせて了承した。
九郎はぎしり、と首を石燕とスフィの方に向けて、聞いた。
「……どうしてだ?」
「九郎くんは時々凄まじく軽はずみだね……」
「なんなら先に私と結婚しとくか? ……なんちゅって」
提案しつつ噛みながら冗談めかしてそっぽ向くスフィであった。
「いやー自分も相手が居なかったらお願いするでありますよーボリボリ」
相変わらず煎餅を齧りながら、呑気に夕鶴はそう云った。
期間は一年。
果たしてお八と豊房の結婚相手は見つかるのか。
ただひとつ確かなことは別に誰と九郎がくっつこうが、大して変わらない日常が続いていくということだろう。