異世界から帰ったら江戸なのである   作:左高例

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最終話『忍び屋営業~そして伝説へ~』

 

 

 

 江戸の街にて治安を守るのは町奉行所、火付盗賊改方の同心たちが主である。

 その下に町人が作った自治の町年寄や、近所の騒動は大家や大工の棟梁が解決したりもするが、やはり大っぴらに事件を取り扱うのは同心らの役目であった。

 しかしながら江戸は八百八町というが、八代将軍吉宗の時代には既にその数を越える町数となっていたといわれる範囲を、合計二百人ほどの同心与力で治安維持するのは無理がある。外回りだけでなく訴状の処理など内勤も必要なのだ。

 

 そこで同心の下には町人から募ったいわゆる岡っ引きなどと呼ばれる者を雇い入れる。 

 しかしながら最下級の役人である同心にはまともに家来を雇う金も乏しいので、岡っ引きに与えられる給金は雀の涙である。

 女房を真っ当な仕事で働かせるか、岡っ引きがあちこちの店などから心付けの金を貰うかしなければ暮らしは難しいだろう。実際、奉行所の威光を笠に着て傲慢な振る舞いをした者も居たという。

 更に岡っ引きの下にも子分がいることもままあり、子分となれば滅多に金はもらえない。だがなにかしら、恩があるとか世間体とかを考えて本業の傍ら働かされているのである。

 

 さて九郎という男は、町奉行所同心と火付盗賊改方同心の両方から雇われている特殊な岡っ引きだ。本来ならばあまり仲の良くない部署同士の上に、火付盗賊改方では岡っ引きを雇うのは非公式でもある。

 事件をそれなりの件数解決してきたこともあって現場に出る同心与力からはよく知られていて顔が利く。何より、同心の中に居る奇人変人の相棒を引き受けるので一目置かれ──というか同類だと思われていた。

 そういう伝手を使って彼は商売を始める前に奉行所に菓子とふりかけに押し寿司を持っていき、

 

「うちの子分らにこれをあちこちで売り歩かせる商売をさせるので、見かけたらよろしく」

 

 と、気前よく配った。 

 同心たちは大喜びで小さめのパンケーキと寿司を手に取って食べる。片手で食べれて丁度よい大きさなので、なんなら仕事をしながらでもつまめるそれらは好評であった。

 

「うむ、美味い!」

「ぎゅっと押された米が腹に貯まる──おい端右衛門、モリモリ一人で食うな」

「このふりかけも家に持ち帰りたいな……」

  

 忙しいだけあって利便性の高い食事は好評である。甘い菓子は妻子への土産に包む者もいた。

 同心らがごく当たり前のように九郎に聞いてきた。

 

「それで九郎、今度はどこの女を引っ掛けて働かせてこれ作らせてるんだ?」

「売り歩きまでさせるのか……大変だろうに」

「おなごにお小遣いを稼がせるのが得意どすなあ九郎はん」

「人聞きの悪い邪推をするでない! なんだそのエセ京都弁は! 地方から来た農民を雇っただけだ!」

 

 知られているだけあって同心から負の方面で信頼感が酷い九郎であった。

 利悟やら伯太郎やら善治やらそれなりに付き合いのある同心は九郎の家庭事情などを知っているが、それを同僚にどうやって伝えても「嫁が沢山居てそれぞれ働かせて本人は定職につかずに、あちこちの商売に口出ししてアガリを貰ったりしている」とかそういう情報なので、酷い扱いである。

 筆頭同心の美樹本善治が寿司をつまみながら言う。

 

「そうだぞう。九郎のやつは追い出されて明日も知れない遊女や農民を働かせたりしてるだけで、言ってみれば弱者搾取……救済だからなあ、これが」

「ええい、菓子屋開くのも、この食い物工場作るのもかなり己れが金を出しておるのだからな。元が取れるまでどれぐらい掛かるか……」

「はっはっは、悪い悪い」

「搾取するなら手っ取り早く金貸しをして借金取りに農民を雇うか、賭場荒らしの捨て駒にでもしておる」

「そういう発想が出るあたりダメだからな?」

 

 釘を刺されるが、さすがに九郎も金貸しは言い訳の効かないヤクザすぎるのでやらないように決めていた。

 大事なのは儲かるか儲からないかではなく社会的な立場として嫁や子供から尊敬されるかどうかだ。特に他人から恨まれる仕事は避けたかった。

 なお下級とはいえ武士の同心らに対して九郎の口調はやたらとぶっきらぼうにしているが、岡っ引きや目明しになる者というのは元悪党や土地のヤクザなどを雇うことも多く、それらは基本的に多少はへりくだるものの言葉遣いが乱暴なのが普通なので、九郎が同心たち相手に普段の口調で応対しても然程気にされない。

 

「そうそう。一応聞いておきたいのだが、組織的に売り歩きをするのに許可証とかいらぬのかえ?」

「ん? あー鑑札か」

 

 善治は負傷痕の残る顎に手を当てながら思案した。

 鑑札は一種の商売許可証で、その職種ごとに幕府や奉行所が有料で発行して持たせていた木札である。

 仕事によってその取りやすさは異なり、例えば按摩などは盲人などが殆ど優先して得ていた。一部の特権的な職業に参入する者の数を制限する目的もあり、他所から来た農民や浪人などは取りにくいものもある。

 

「んー……あれは既存の商品に個別で規制が掛かってるんだよな。例えば塩とか味噌とか煙草とか。だからこの、麦餅とかふりかけとか寿司?なんてのはそもそも商品として存在していなかったわけだから、鑑札の対象外なわけだ」

「ふむ」

「大体、うちの手下をとっ捕まえるような輩はそう居ないから大丈夫だと思うな、これは」

 

 そう善治からも太鼓判を押されたので、九郎も一安心に胸をなでおろした。

 そしてさり気なく九郎の飼い犬と化している同心の小山内伯太郎が言う。

 

「じゃあ九郎さん、皆で買うだろうから奉行所に毎日届けてくれるかな? 次の日分の注文票を奉行所内で集計しておくから」

「毎度」

 

 内部から奉行所の者が買うように仕向けた伯太郎によって大口の注文を得る九郎であった。なお、伯太郎は嫁になった阿子が将翁の妹という戸籍(偽装)になっているので、呼び捨てで九郎を呼ぶのも気が引けてさん付けで呼ぶようになった。

 奉行所は同心だけではなく、屋敷を管理する下人や女中、門番なども多く勤めていて、ちょっとした軽食としてつまめるものは需要がある。

 大口は営業の者をローテーションで回らせるようにして稼ぎを平等にする算段である。

 同時に、これで売り歩き軽食の[忍び屋]は奉行所公認の商売というお墨付きを得たも同然である。

 

「ああ、より旨い物を食いたいときは、[緑のむじな]亭や[慶喜屋]へ来てくれるようにのう」

 

 九郎は店の宣伝も忘れずにしておいた。六科のところならば押し寿司ではないが上等な握り寿司が食えるし、慶喜屋でもお土産に買える高級菓子がある。慶喜屋での売上は九郎の財布にも入ってくるので重要であった。

 食い歩き同心の水谷端右衛門が静かに煙管を喫みながら、

 

(寿司! そういうのもあるのか! 今すぐ行きたくなったぞ……)

 

 と、楽しみにしているようだ。近頃出始めたばかりの寿司は、常連の彼もまだ知らなかったようだ。

 

「よし、次は火付盗賊改方へと売り込みに行くか。まったく、商売を始めるのも楽ではないのう」

 

 九郎はそうして、まず官憲へとつなぎを付けるために出向くのであった。

 こういったところに話を付けておくことで継続的な顧客になるし、いざという時に顔が利く。江戸で商売をする上で、そうした同心などに心付けをすることは定石であるのだったが、押し売りのような訪問販売を行うことで実質損をせずに親しくなる算段である。

 奉行所や火盗改の役宅には外回りだけでなく内勤の者も多くいるので街の美味い飯が配達されるというので大いに喜ばれることになった。

 

 

 

 *******

 

 

 

 さてそうして根回しも終えてから始まった、[忍び屋]による軽食とふりかけの棒手振り売り歩き。 

 

 体力だけは無駄にあり、明るい未来を目指して労働を始めた忍び連中が、店の半纏を羽織って売り歩きに行く。

 彼らは千駄ヶ谷にある調理場で作られた商品を買い取り、それを売った分だけ儲けになる。買い取り価格は原価に加えて百文あたり五文増えた価格になる。

 この場合の原価というのは総原価のことであり、原材料費と加工に掛かる時間+人件費を足したものである。その仕入れ価格から倍程度の値段で販売が行われる。

 つまりは例えば、その日1000文(約2万円)売り上げるつもりで仕入れると、仕入れ値は550文(約1万1000円)ということになり、営業班の儲けは450文(約9000円)、棒手振りとしては平均的な日当である。

 この収入でどれぐらいの生活ができるかというと、例えば六科の長屋ならば一月分の家賃を2日の稼ぎで払えるぐらいだ。独身者ならば月に7日も働けばどうにか暮らしていけるだろう。嫁と子供が居ても20日も真面目に棒手振りをすれば養うに十分な仕事であった。

 

 しかしながらこの棒手振りは扱う商品がそれほど重たくなく、割と高級なケーキと多数買いが基本な寿司である。

 寿司は一つ8文(160円)程度だが割と小さめなので沢山持ち運べ、ケーキは高級な砂糖を使っているので手のひらサイズが一枚24文(480円)で売れて利益率が高い。

 ただし、高いだけあって余った場合のリスクがある。誰にでも売れそうだし、余って晩飯に回しやすいのは寿司の方だろう。自分たちは半額で買えるようなものなのだ。

 ちなみにふりかけの方は保存が他二つよりも利いて軽くて容器も適当でいいので、寿司を売る者もケーキを売る者も竹筒に入れてついでに売るようにしている。

 とにかく、例えばケーキで言うと一日に42枚、寿司なら126個売るだけで約1000文の売上には至る。ケーキを土産や茶会などで一人で二つ三つ買う客もいるだろうし、寿司は一人六個買ってくれる客を二十一人見つければそれだけで達成だ。大口の販売先や小口で茶店や番小屋などの売り込み先を見つければ楽勝で捌ける数だ。

 

 また、千駄ヶ谷で加工したりする方は加工自体の手数料は低めなのだが、千駄ヶ谷村ので実店舗販売分の利益が彼らの日当に追加される。

 海からやや離れており、物流も村より手前の新宿でストップする村に取って、鮮魚や乾物であっても魚などは日々の糧に結構な量が売れる。近所の農家の女房などを炊き出しに雇って支払った金が、魚の販売で戻ってくるという方式であった。

 更にはそこで捌く魚の骨や頭など、それに小麦の精白で出たフスマや麦殻、従業員たちが使う厠の肥などは甚八丸が飼料や肥料として買い取るので無駄がない。

 彼らを千駄ヶ谷の村に住ませることで村は活気づき、またその営業だけではなく小作農として雇われた者も居て甚八丸の生産する農畜産物も増加できているのだ。

 

「──と、まあこんな感じで……ほ、ほら赤字にはならなそうだろう?」

 

 九郎は経営について豊房に説明をして、彼女はそろばんを弾きながら眼鏡を掛けてなにやら帳簿に書き込んでいた。

 資本金として金を管理している豊房の機嫌を取って金を出してもらったので報告である。

 これまでに手に入れていた九郎の財産など、慶喜屋を作ったあたりでもはや残っているのか残っていないのかさえ不明瞭な状態になったので、ここ暫く家の貯蓄を増やすのは女頼みだったのだ。

 豊房は眼鏡を外しながらため息をつく。

 

「ふーん。まあいいけど。でもこれ微妙に胴元の利益率が低いわよね。もうちょっと絞れるんじゃないかしら。ごまの油みたいに」

「発想がブラック企業のそれだぞ。いいか、そもそもちゃんとした収入で嫁を手に入れさせるのが目的なのだから、そこそこ暮らしていける程度には金をやらねばならん」

「慈善事業よね。江戸の町人には、これ以下の収入の人も沢山居るのだけど……」

 

 ちゃんとした仕事ではないのだが、それこそ薪割りや臨時の荷運びなどの仕事ではその日暮らしの収入しか得られない。そういった独身の低収入者も少なくなかった。

 彼らに紹介すれば、それこそ飛びついて働きに来るかもしれないが、

 

「少なくとも、この田舎から来た忍び共は真面目に働くからのう。サボりぐせがついておらぬし、怠けた姿を己れに見せていると嫁が遠ざかると意識しておる」

「なるほどね。でもこの仕事だと、働く人数を増やせば増やしただけ儲かる仕組みよ。ある程度名が売れたら拡張しても良いかもしれないわ」

「おっ、豊房、乗り気だのう」

「だって初期のままじゃうちに入る収入が大した額じゃないもの。折角始めた商売なんだから、ちゃんと儲けないと。皆協力してくれてるの」

「ありがたいのう」

 

 九郎の嫁や知人の人脈も使うことで大口の販路が開けてきた。

 お八は呉服屋の大店な実家の繋がりで江戸の裕福な旦那達に、夕鶴は萩藩、サツ子は薩摩藩、将翁はあちこちに薬売りとしての伝手を持ち、豊房も狩野派の絵師たちも片手で食える携帯食料を宣伝していた。

 他にも吉原や深川の遊郭街、近頃盛り上がりを見せている相撲部屋、歌舞伎座にて松本幸四郎が「伝承!」と宣伝を打っての公演で提供される弁当代わりなどなど、次第に需要を拡大させていくのであった。

 

 

 

 *****

 

 

 

 ぼつぼつと町中に怪しげな覆面がトレードマークな、寿司とケーキの販売員が出没し始めた頃。

 板橋にある料亭を貸し切って、人相の悪い男たちが集まっていた。

 そこではその日、江戸の街を裏から牛耳る四人の顔役ヤクザが手下を連れてやってきていた。料亭の広間ではその親分たちが顔を突き合わせている。

 

 一人は縦半分に割れた般若面をつけている四十代ぐらいの野武士風の男。

 相撲取りのような体格で手につけている毒爪が威嚇するように音を鳴らしている男。

 髪の毛に白いものが混じった老女はお歯黒をつけた歯をヤスリか何かで削って尖らせ、常に生肉をクチャクチャと噛んでいる。

 

 ちょっとお前らキャラ作ってるだろというぐらい異様な雰囲気の三人が、残る一人へ視線を向けていた。

 

「──それで、この『念仏』の治郎吉が親父の後を継いで、板橋を引き受ける襲名の集まりに参加して貰いかたじけねえことで」

 

 視線を向けられている一人は三人に比べれば年が若い男だった。ついこの前までは『長ドス』の治郎吉と何も変哲のないヤクザの二つ名を持っていたのだが、病死した親分からこのシマを引き受ける際に『念仏』と名乗りだしたようだ。

 腕から足、首筋にまで体中にお経が刺青で彫られている。町奉行所から刺青刑を受けて額に犬と書かれても、お経を書き足してフォローできそうな勢いだ。

 

(こいつも気合入れた格好しだしたけど、日常生活大丈夫かなあ)

 

 三人は素直にそう思った。この治郎吉を知らない遊郭などで楽しもうとしたら、遊女から爆笑されかねない。

 だがそれでもヤクザはハッタリが大事なのだ。特にここ十年ほどで、江戸に現れるイロモノな怪人数は増加していると言われている。そんな中でちょっと強面程度のヤクザがどうしてデカイ顔ができようか。

 

「ま、普段は互いに思うことはさておき」

「今日ぐれえは治郎吉の兄さんの目出度え席だ」

「クッチャクッチャ」

「そうともよ、大いに酒を飲んでくれ!」

 

 三人はそれぞれ、神田に広くシマを持っている般若面『鬼泣き』の右衛門。彼は長ドスで三十人以上敵のヤクザを殺してきたと自称している。彼が相手となれば鬼すら泣き出す。

 

 千住で博打の胴元や金貸し、見世物小屋のアガリで儲けている『念仏』の長兵衛が持つ毒の爪は、ちょっとでも傷つけられると相手が念仏を唱えて息絶えるという。

 

 品川で岡場所の元締めをしている老女『念仏』のお市は寺さえも支配しており、彼女の一党が作り出す死体で寺は念仏が絶えない。

 

 そして板橋を拠点とする若きニューリーダー『念仏』の治郎吉……この四人はそれぞれの本拠以外にも広く影響力を持っており、他に小物のヤクザは無数に居るとはいえ彼ら四人を知らぬ者は居ない顔役である。

 ただしヤクザの世界は死や分裂、他勢力の参入などが多いので入れ替わりが激しく、ここ十年で勢力を伸ばしてきた顔役といったところだったが。

 界隈の茶店や籠屋、宿に屋台などはこのヤクザに頭を下げている者が殆どである。自分たちが顔を利かせているので安全に商売ができる、とヤクザは言っている。

 

「ちょっと待て」

 

 そう声を上げたのは般若面の男、『鬼泣き』右衛門だ。

 他の三人はキョトンとした顔を向けた。

 

「いや、あのさ。かぶってるんだけど」

「なにが? お前が?」

「クッチャクッチャ」

「かぶってねえよ! 俺のアレはよ! そうじゃなくて、おかしいだろ! なんで四人の大物ヤクザが居て、うち三人の二つ名が『念仏』なわけ!?」

「そんなこと言われても、もう俺彫っちゃったし」

「なんで彫るかな!? その前に気づけよ!」

 

 一人だけ違う二つ名を持つ般若男は不満を全員にぶつけた。

 

「そもそも前から二人名前かぶってるなーとか思ってたのに、三人目まで合わせるか普通! もう治郎吉は『耳なし芳一』の治郎吉とか名乗れよ!」

「それだと芳一か治郎吉か名前がわかりにくいし……」

「じゃあ長兵衛! 『毒の爪』の長兵衛とかでいいじゃん!」

「それ装備の名前付け足してるだけで捻りが無いし……」

「お市さん!」

「クッチャクッチャ」

「この人いつ見ても生肉を食ってる!」

 

 般若男は頭を抱えて嘆いた。折角これからは個性が大事なヤクザの時代だというので、わざわざ般若面を半分にして被っているというのに! 子供に指を差して笑われたことだってあるのに!

 

「まあまあ、待ちいや般若の」

 

 毒爪が宥めるように言う。

 

「俺の二つ名『鬼泣き』なんだけど」

「ともかく、お前さんはこれじゃあ今一全体としての纏まりがねえって言いてえんだな?」

「あ、ああ」

「じゃあこうしよう。『念仏』の右衛門」

「俺の二つ名を変えて解決しようとするな!?」

「だいたいおめえ、ちょっと強そうな剣術使い気取った名前名乗っても『じゃあ切り裂き同心と戦ってみれば?』とか言われて言葉に詰まるだろうが」

「うっ……それは……あの惨殺キチガイとは絶対やり合いたくないし……逃げてもいいのがヤクザの喧嘩であって……」

 

 トーンダウンする般若男であった。

 基本的にヤクザという人種はこの時代、武士を恐れていない。むしろ日頃から喧嘩に殺し合いをしている自分たちの方が、道場でお上品に剣術を学ぶ武士などより余程強いという自負もあった。

 刀を抜く前に背中からブスリと刺せば誰だってイチコロだ。

 だがまあ、例外もある。町奉行所ならともなく火付盗賊改方となれば特に厄介な実践派武士揃いである。中でも切り裂き同心中山や、五十五人逮捕の筆頭同心瀬尾などは土地のヤクザは絶対に目につかないように行動をする。影兵衛など背中から突きに行った鉄砲玉があっさり避けられ、拷問の末に親も兄弟も売ってヤクザ一家壊滅したこともあり、界隈では有名であった。

 

「それよりも、集まったのは襲名のこともあるが、大事な話があるからなんだが」

 

 全身お経男は話の合い間を見てそう切り出した。

 

「話ってのは近頃うろつく、妙な連中のことよ」

「……というとアレか。『天狗』の九郎一味の手先みたいな連中……」

 

 と、般若男が返すと、お経男は頷く。

 江戸中の街に突如現れた覆面姿の売り歩きの男たち、『忍び屋』のことである。

 彼らはヤクザが裏から牽制しあっている売り場のシノギをまったく解せずに、自由気ままにあちこちで商売を始めたのだ。

 勿論、法的に規制されているわけではないのだが、そういった商売には流儀というものがあり、筋を通すものであった。そうでなくては余計な被害を招くだろう。

 当然ながら彼らヤクザ衆も、九郎がヤクザだということは重々承知だ。本人は否定するだろうが。

 九郎は腕っぷしの強さを武器にしていて官憲と結びついた、たちの悪いヤクザであり彼らのような大物のヤクザからはひたすらに評判がよくない。暴れて他のヤクザ一党を潰したこともあるし、賭場荒らしをしたこともある。かといってこうしたヤクザ同志の繋がりには見向きもしない。

 一匹狼の喧嘩屋かと思っていたのだが、手下を作って他のヤクザのシノギを冒したとなれば話は別だ。なにせ、彼らの儲けに関わってくる。他人のアガリをかすめ取るのは盗みを働くのと同じであり、それを許してはおけなかった。

 

「やるか」

「やろう」

「片っ端からだ」

「クッチャクッチャ」

 

 そして、江戸のヤクザは躊躇わない。

 九郎の誤算としては、ヤクザという存在に関して現代の一般人よりは詳しくあるのだが、江戸時代のヤクザがまったくもって武士などよりも殺しに容赦がないことは認識の外であった。

 現代では暴力沙汰になるとすぐに警察が飛んできて、隙あらば組長ごとしょっぴこうとするのでヤクザであっても大っぴらな行動は軽々しく取れない。

 だが江戸時代のヤクザはすぐに殺しに行っていた。

 なにせ市中で発生した通り魔的な殺人事件など解決するほうが稀な時代だ。それがヤクザ同士の抗争ならばなおさら、町奉行所も面倒だから放って置くことが多かった。

 般若面と毒爪、お経刺青にお歯黒生肉は顔を見合わせて、頷いた。

 

「では各方──明日一斉に」

「自分のシマに来た覆面野郎共を」

「皆殺しということで」

「クッチャクッチャ」

 

 やると決めたらすぐにやる。それが江戸のヤクザの流儀だ。

 ──こうして、商売を始めた忍び屋に不穏な刺客が差し向けられることになった……

 

 

 

 ******

 

 

 

「すぅ──しぃ──食いねぇ───」

 

 神田明神近くは一年中祭りのような人の賑わいをしており、多くの屋台や茶店が連なって客を取っている。

 売っている食べ物も饅頭や団子から、甘酒に水飴など多種多様だ。 

 神社仏閣では火の取り扱いに厳しいため、屋台でも火鉢を使うものは少ない。もし火事が起こった際には一般家屋とは桁違いに被害が大きい上に、燃えた際に取り返しのつかない御神体や仏像などを保管しているためだ。それ故に、蕎麦屋台や天ぷら屋台などはなく、食事系というよりおやつ系のものがよく売られていた。

 その隙間に入るように、忍び屋の寿司売り歩きは参入した。

 

「あら、寿司屋さんが来たわ」

 

 明神前の通りに茶店を出している看板娘が顔をほころばせて、前掛けの裏に入れている小銭入れを確認した。

 茶を飲みに来ていた旅人風の客が首を傾げて尋ねた。

 

「なんだい、アレ」

「お寿司って言って、酢の飯に酢じめの魚を載せた食べ物ですよう。ここのところ毎日来てて、食べやすくて私も買ってるんで」

「へえ。酢の飯ね。話に聞いたことはあるけど、京都大阪あたりでは割と高いものだったけれど……」

 

 魚を塩と飯につけ込んで発酵させ、酸っぱくなったものを食べる『なれずし』は古代から日本で食べられていたもので、すしといえばそれを指していた。

 だが江戸時代に入ってから飯と魚の切り身を、酢や酒で混ぜ込んで食べる『早寿司』が誕生したと言われている。正確な年代は不明だが、薩摩での酒を混ぜ込む酒寿司の発生年代から推定すると江戸初期頃には存在自体はしていた可能性がある。

 しかしながら忍び屋では綺麗に押し寿司にして売っているので見た目もよく、ぎゅっと詰まった米は腹の中で膨らんで満腹感も大きいということで、茶屋や棒手振りなどのサッと食事を済ませたい層に人気なファストフードになっている。

 

「はいはい、お姉ちゃんいつものですねー。一個おまけしちゃおう」

「本当? ありがと!」

「でゅふふふふ」

 

 忍び屋の覆面営業は、腕をギュッと抱かれて照れた声を出す。

 この売り歩きの仕事の良いところはこうやって自分の裁量でサービスできることだと彼は思っていた。これが商品の九郎から借りているのならば、勝手におまけなどしたら帳尻が合わなくなるのだが、基本的に全部自分が一度九郎から買い取ったものを売るという形態なので、稼ぎが減るだけで可愛い子におまけできる。

 

「美味そうだな。兄さん、俺にも三つばかり売ってくれ」

「はいどうぞ!」

 

 男が受け取った寿司を口に放り込むと、ほろほろと酢飯が口の中で解けていき、一晩酢でしっかりと漬け込まれて白くなった魚の身が、噛みしめると唾液が吹き出るような酸味と旨味に溢れ、生臭さはまるで無くて幾らでも食べられそうな気さえした。

 

「こっちにもくれー!」

「おーい、こっちも四つだ」

「へいよー!」

 

 神田は一等地だけあって売れ行きが早い。その覆面も、寿司桶を四つ担いでやってくるぐらいだ。それでも二刻以内には無くなる。

 こういった観光地を回る者と、普通の住宅などを回るものでは売り上げに差が出ることもあるのだが、その分繁盛する地域は他の場所に動けなくなるので、九郎が直々に頼む大口顧客への訪問販売などが他の者に任されそちらで売り上げが伸びる仕組みだ。

 

(いやぁー農民上がりで商売なんて出来るのかと不安だったけど、売れるって楽しいなあ……)

 

 覆面も仕事を始めてから毎日が楽しくてたまらなかった。

 売れないか、無理やり売りつけないといけない営業仕事は心がすり減るものなのだが、鯉に餌をやるように持っていくだけで人が寄ってきて次々に買われる商売はやみつきになりそうな快感があった。

 なにせ、右から左に持っていくだけで自分の懐にチャリチャリと銭が入ってくるようなものである。農民の生活はなんだったのか。これまでの人生に疑問すら感じた。

 まあ……

 

(恵まれてるってことも考えて、謙虚に生きないとな!)

 

 とも、殆どの覆面は考えている。江戸に来て暫くの間は仕事も無いし、都会の冷たさにそのまま無宿人として乞食生活になりそうだったのだ。金の儲け方なんかまるでわからなかった。

 今、食いものも寝るところも働く場所も与えて貰っての生活を送っているが、そうしながらも自分より貧しい江戸住民の姿も見た。哀れに思うし、他人事じゃなく感じる。

 だからか、忍び屋の営業では売り歩きながら、乞食などに施しをする者も多かったのである。

 

 次から次へと寿司は売れる。消費物ならば毎日でも売れるという九郎の考えは的中し、これまでに無い味わいの寿司はリピーターも非常に多かった。

 特に江戸では外食、中食の文化も強く、せっかちに食事を済ませる者も多い。そこに寿司の需要は当てはまった。

 更に好みの問題で言うと江戸の男は日に五合は米を食う根っからのご飯派であり、三日魚を食わなかったら骨が抜けるとまで言われる魚好きである。

 同時に米と魚が食えて手軽な寿司が売れないはずがなかった。

 また、これを真似しようにもこの時点では江戸に於いて酢が高級品であるため、種酢から大量に作っている忍び屋に追随して仕入れられる店は無かった。

 

(いやぁー売れた売れた! もうちょっとで売り切れるけど、終わったらまた店に戻って寿司を補充するかなあ。あ、材料の魚買っていこうかな)

 

 売り歩き営業にはついでに仕入れの仕事もある。朝の一番に魚市場から購入してくるのだが、なにせ需要が大きいので幾ら仕入れてもすぐに消費してしまう。

 酢じめや乾物にしたりして余っても保存を効かせるので、暇があれば補充するように九郎から言われていた。無論、経費で落ちる。

 疲れを感じさせぬ足取りで日本橋魚市場にでも寄ってから帰ろうかと思って歩いていたら──

 突然、肩がぶつかるように正面から歩いてきていた男と接触した。

 

「おっとごめんよ──」

 

 瞬間、覆面の忍びは口で謝りつつ──条件反射のように咄嗟に腹部を手で守った。

 ぎ、と金属同士が触れ合う音がしたかと思ったら、正面からぶつかってきた男が手に短刀(どす)を構えており、自分の腹を庇った手元の袖がざっくりと突き破られていた。

 刺された。覆面は尻もちを突きながら後ずさりして下がる。仕事道具の桶が地面に落ちて大きな音を立て、残った寿司が地面に幾つか落ちた。周囲を歩く人が何事かと視線をやる。

 

「ひっひぃーっ!? お、お助けぇー!」

 

 言うが早いか、尻もち状態からサッと起き上がった覆面は天秤棒に結びつけた桶を担いで急ぎ路地裏へ走り去っていくのであった。

 残されたヤクザ──『念仏』の右衛門の手下である、殺しも厭わない凶悪な街の荒くれは。

 

「……?」

 

 訝しげにドスの手応えに首を傾げつつ、注目が集まっているので唾を吐き捨てて現場を離れるのであった。

 

 

 さて、路地裏に逃げた覆面は壁に背をつけてヤクザの様子を窺いつつ、胸を撫で下ろす。

 

「び、びっくりしたぁー! なんだったんだろう!? 暗殺!? 都会ってやっぱり怖っ!」

 

 切り裂かれた袖の中、手首のところには黒く塗られた指ほどの幅をしている薄い鉄の板が覗いている。

 彼は手首の僅かな振りでその板を手のひらに移して握り直す。尖っている部分もなく、見た目は完全に五寸ほどの鉄板だ。

 

「危ないなあ……念のために持っててよかったぁ寸鉄」

 

 寸鉄、と彼が呼ぶのは棒手裏剣とも呼ばれる鉄製の暗器である。短くて尖っていないので殺傷能力も低いように見えるが鍛えられた彼が用いれば三間(約5.4メートル)の間合いから投げても、まず肉に突き刺さり骨まで届く威力が出る。

 それを用いて土を掘ることもでき、また壁に刺して足場にも使える。今回のように咄嗟な刃物での攻撃も、一撃ぐらいならばなんとか受け止めることもできる。そして隠しやすく、一般的な棒手裏剣よりも更に武器には見えない彼特注の武器であった。

 

 『板隠し』の鉄三。寸鉄一つでの戦闘技術や工作技術を忍びの技能として教え込まれた田舎忍者であった。

 

「どうした?」

「なにかあったのか」

 

 スッと路地裏に覆面の男が二人現れる。同じく神田で売り歩きをしている仲間である。

 鉄三の悲鳴を聞いて何事かと、目立たぬように急ぎ救援に来たのである。

 

「くそっ、怖いお兄さんに襲われて、寿司を幾つか落としたぁ……」

「マジか……罰当たりなやつだな。やっちまうか?」

「えええでも喧嘩とかしたこと無いなあ、うちは」

「おれも。訓練では親戚のおじさんに叩きのめされてたけど、あれ絶対鬱憤混じってたよな……」

「とりあえず相手の後でもつけて、九郎さんに報告しておくか。この寿司、残りはよろしく」

「わかった! 食っとく!」

「売っといてくれって言ってんの!」

 

 鉄三は寿司桶を二人に渡し、自分は覆面を脱いで素顔になる。忍び屋の前掛けと半纏も脱ぐと、覆面の強烈な印象も無くなったせいでさっきまで寿司を売っていた男とは思われないだろう。

 そうして寸鉄を帯びた鉄三は、自分を襲った相手の情報を集めるべく尾行を開始するのであった。

 

 

 

 *****

 

 

 

 また、千住での事である。

 千住は奥州街道や日光街道の起点として人が行き交い、それに伴って商業も盛んな街だ。旅籠だけで五十は存在し、その分だけ飯盛り女や岡場所を求めてやってくる客も増える。

 酢でしっかりと締めた寿司も保存が利くが、旅人に嬉しいのは軽くてそれだけで飯のおかずになるふりかけであった。

 江戸の土産として大勢がふりかけを買い求め、またこれも飯を手早く食べるための調味料としてせっかちな江戸民にも好まれた。

 そこで売り込みをしている覆面は、寿司とケーキではなくふりかけメインで販売をしていた。

 

「さぁーさぁーいらっしゃい! 江戸の土産に旅のお供! これひとつでおかず要らず! 夕の九つ過ぎていてもぱっと用意できる飯の友! 仇討ちの姉はこいつで助太刀の天狗を惚れさせた上に養った! 何はなくとも江戸のふりかけ、わかめしそを買っていきねぃー」

「こっちにくれ、十袋だ!」

「へぇー仇討ちの話は本当かい? 一つくんな」

「どうぞどうぞ、是非土産話にもなりまさぁ」

 

(よし! 見込みは当たりだ! 高級・お土産わかめしそ! いい売れ行きだ!)

 

 彼が提案したのは薄利多売であったふりかけの高級化である。実際、わかめと紫蘇に魚を干して、胡麻に炒った麦や雑穀に塩などと配合して作るふりかけは押し寿司などより手間が掛かっている。なお追加で雑穀を混ぜたのは九郎の知識による脚気対策もあるが、量をかさ増しするためでもある。

 しかしながらこれまでは庶民にお買い求めやすい価格で提供していたところを、単色版画で生産した鶴の絵柄がついた紙袋に入れて江戸土産で割高に販売したところ、これが結構なヒットした。

 日常的にふりかけを常食するならまだしも、土産物という売り方ならば高くても買う人は多かった。しかも売り文句が、『仇討ちの杉姉が作って売り歩きしながら仇を探した』である。杉姉とはふりかけを作った夕鶴のことで、見事に仇討ちを果たした彼女とその弟の話は講談にすらなっている。その本人公認の商売なのだから売れるというものである。

 これによってふりかけの利益率は跳ね上がり、営業の儲けもかなり増えた。

 

(いやあ、ふりかけ粉末の増産で棒茄子も貰ったしなあ。ひょっとしたら天職かも! 棒と茄子の意味はわからなかったけど)

 

 と、覆面は楽しげにふりかけをどんどん売りさばいていく。彼は忍びとして火薬や薬物を調合する技能に長けており、乾物にとって効果的な乾燥室の設計などで役に立ったので、九郎からボーナスまで支給されたのである。

 順調に彼が売り歩いていると突然奇声が発せられた。

  

「おんどりゃああああ! 誰に断って商売しとるんじゃああああ!」

「ひっひぃー!?」

 

 同時に、すりこぎのような木の棒っ切れで人相の悪い男が問答無用で殴りかかってきた! 暗黒街千住の支配者、毒爪の長兵衛が差し向けた刺客である!

 その覆面はどちらかと云うと裏方の準備担当であり、荒事は苦手な方だった。せいぜい体力があるぐらいだ。相手は間違いなく一撃を見舞おうというだけではなく、先制攻撃で殴り倒した挙げ句にボコボコにして殺害するつもりだった。

 

「ひゃあああ!」

 

 無様! 情けない悲鳴を上げて、覆面は腰に巻きつけていた鹿革で作られた鞄を思わず投げつけながら腰を引いて下がった。

 邪魔だとばかりに男は鞄を棒で殴りつけると──ぼふっと音がして、鞄から何か飛び散った。

 

(あっ、やっば。中の袋、口が緩んでた……!?)

 

 逃げるのも忘れて薄い煙のような粉末を僅かに浴びた男を覆面は慮るように見た。

 

「てめっくぉらああああ……えっえっ」

「うわあああ! やばあああ!」

 

 男は突如、顎が外れたように口を開き、目がぎょろぎょろと不審に動き回って、胸を押さえて地面に膝をついた。

 鹿革の鞄の中には、トリカブトとトラフグの肝とシビレタケを乾燥させて配合していた秘伝の猛毒『源氏殺し』が、鹿の膀胱を鞣して作られた特製の袋に入れて保存されていたのだが……どうやら口が緩んでおり、殴られた拍子に飛び散ったようだった。

 即効性のある猛毒粉末を浴びた男は呼吸困難と心機能の低下症状に襲われて行動不能になっている。かつて覆面の先祖が毒薬の由来となった源頼朝、範頼、頼家に毒を盛ったように、量次第で死んだり重病になったりする危険な薬物だ。

 

 彼は『鞄毒(びょうどく)』の濁木(にごりき)良太郎。日本史の中でも後ろ黒い役割を受け持っていた、毒使いの忍び一族出身である。(正月にキノコ鍋を食べたらうっかり有毒で彼以外滅んだ)

 

 だが、問題は。

 

(や、やばい! こんな毒使って殺しなんてしてたら間違いなくとっ捕まるし、毒っぽいもの持ってる商人が売るふりかけなんて誰も買ってくれなくなる!)

 

 殺すつもりなんてなかった。ただ管理が雑だっただけだ。折角カタギの仕事を始めたばかりだというのに! 彼は決断して行動をした。

 

「うわー! 急にこの人が中風で倒れたー!」

 

 とりあえず誤魔化すことにした。覆面の叫びに、周囲の皆が振り向いて気の毒そうに目線を突然の病気で倒れたヤクザへ向ける。

 

「すみませんそこの水売りの方! 緊急事態なので水を全部ください!」

「お、おう!」

「こっちの長椅子も借ります! ええい、ベロが喉に詰まってる……こいつで!」

 

 良太郎は近くにあった茶屋の長椅子にヤクザを横たえさせて、どんどん顔色が悪くなっていく男の口から舌を引っ張り出した。唾液で濡れているのと、噛まれる危険性を考慮して自分の覆面を剥ぎ取り、手に巻き付けて舌を掴み気道を確保する。

 何事かと集まって囲んでいた人々が見守る中で、茶屋の娘などは「あら」と意外そうな声をあげた。覆面でふりかけを売っていた良太郎はここ数日見かけていたのだが、その素顔を見るのは初めてで──優男気味ではあるが結構な男前であったのだ。

 口を開けさせた良太郎は水を流し込んで、次に胸と背中をついて全部吐き出させた。そして別の鞄に入れていたフイゴを取り出す。風を送ることは薬物の調合や乾燥、使用時にも使うことがあるので持っていた道具だ。だが、特製の細い管を通して口の中に突っ込むことで人工呼吸器にもなる。

 片手で動かせるようにしてるフイゴで神経麻痺で呼吸困難になっている患者の肺に空気を送り込み、もう片方の手で胸を押しまくる。心肺蘇生法は彼の一族に伝わる秘伝の解毒不可能な毒を喰らった者を助ける方法である。キノコ毒にはほぼ通用しなかったが。

 

「ぬあああ!」

 

 片手で胸骨がへこむほど押しつつ、片手で規則正しくフイゴを動かして空気を送る作業を一人でやるのは死ぬほど大変だった。だが、ここで死なせては下手すれば雇い主の九郎から捕まる。良太郎は必死だった。

 いい男が偶然病気で倒れた他人を善意から助けようと必死になってると同情心が湧くし、手伝いも申し出るのが人情というものである。彼は覆面を脱いだことで周囲からの目線がかなり好意的になっていた。覆面の怪しい男がやるのとでは大違いだっただろう。

 

「俺も手伝うぞ! どうすればいい!?」

「あたいも!」

「磨呂も!」

「頑張れよ兄ちゃん!」

 

 ──そして、皆の応援を受けて。

 喰らった毒の量が少なかったことが幸いしたのか、四半刻ほどで男の呼吸と心臓の鼓動は安定し、男は意識を取り戻した。

 大勢が拍手をして良太郎に「よかったな兄ちゃん!」だの、ヤクザに「この人に感謝するんだぞ!」だのと声を掛ける。

 

「う、ううう……なにが、一体? 俺は……」

 

 朦朧としていた意識をはっきりさせようと頭を振る。親分の長兵衛に命令されて、ここらで売り歩きをしている覆面の男を痛めつける算段だったのだが。

 良太郎の方はなんで襲われたのかもよくわかっていないので、勢いで乗り切ることにした。

 

「大丈夫ですか。貴方は突然、胸を押さえて倒れたんです! 心の臓がとても弱っていて……ひょっとしたら江戸患いの酷いやつかも」

「え、江戸患い……」

 

 江戸患いは脚気のことで、当時の江戸住民で副食もなく米ばかり食べていた不摂生な者によく掛かる病気であった。

 重症化すれば体のしびれ、そして心不全にまでなる危険な病気である。男はその発作が来たのかと、顔を青くした。

 

「どうにか助けられましたが……ここにいる皆さんの協力もあってのことです」

「それは……すまねえ。その、助かった」

 

 謝りながらもヤクザは、恥ずかしさと後悔の念がこみ上げて死んでしまいたかった。

 この若者は自分が突然襲われたというのに(手に持っている覆面で狙った相手だというのはわかった)、そのヤクザものが苦しみだしたからといって命を助けてくれたのだ! なんてお人好しというか、徳の心を持つ男だろうか!

 そんな相手を、事情も知らないのに殴り殺そうとしていた自分が無性に許せなかった。ヤクザである自分は虫けらのようなものだと常日頃から思っている。虫けらが、人を助けるのに必死になれる善人を殺しても世の中を悪くするだけだ。ただの虫けらではなく害虫だ。

 彼にとってこれまでの人生は、人に殴られ、親に貶され、他人に蔑まれ──そして自分も相手にそうしてきた。

 だが、この人は見ず知らずの自分を助けようとしてくれた。

 幾ら人間の屑でも、彼は泣きたくなった。

 

「すまねえ……ごめんよう……」

「いえ、無事ならいいんです。お大事にしてください──ところで」

 

 彼は集まった皆にもニッコリと笑みを振る舞って、まだたっぷりと残っているふりかけを取り上げた。

 

「このふりかけを白飯に掛けて食べるだけで、江戸患いを予防するのに効果がある!(って九郎さんが言ってた) 皆さんも是非食べてください! 忍び屋、夕九(ゆうここのつ)印のわかめしそ、お試しあれですよ」

 

 ──と、売り出したので、集まった皆は笑いながらも売り切れになるまで買っていくのであった。

 

(良かったぁー誤魔化せたぁー!)

 

 自分の毒で死にかけた相手を救った上に商品アピールに使った良太郎は胸を撫で下ろし、源氏殺しの猛毒は蝋か何かで厳重に封印しようと決めるのであった。

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 板橋宿にて。

 

「のう兄弟」

「なんじゃい兄弟」

「俺ら愛想が今一で、客引きも心細かったから二人組を組んでみたんじゃったのう」

「そうじゃな。正直知らん人と話するの怖いんじゃが、調合とか料理とか儂ら苦手じゃけん」

「じゃな……ところで兄弟」

 

 覆面を被った男二人は、にわかに通行人の数が減った板橋の路で荷物を下ろした。

 周囲には十人。いや、それ以上のヤクザものが二人を取り囲んでいる。武器も様々、ドスから木刀、石礫を手にしている者も居る。

 全身念仏男、治郎吉の命令によって忍び屋を始末しに来たヤクザだ。念を入れて大勢を集めたらしい。

 覆面二人は大きくため息をついた。

 

「俺らは真っ当な商人なんじゃから、殺さんよう手加減はしろよ」

「わかっとる。嫁を貰うためじゃ」

 

 覆面の男たちの片腕──それぞれ右腕と左腕がビキビキと音を立てて筋肉がはちきれんばかりに盛り上がった。

 

 最大の暗器は暗殺拳。拳一つ指一本で敵を始末する筋力強化の鍛錬と薬物によって超人的な腕力を作り出そうとした忍び一族。

 彼らはその腕力で鉱山を掘ることを表家業にしていたが──江戸時代に入り全国の鉱山が徐々に掘り尽くされていく中で彼らもまた没落していった。

 

 『右腕』の生島。『左腕』の足島。歪なまでに鍛え上げた片腕の力は、鎧の上からでも人を殴り殺すことが可能である。

 

 

 二人を襲ったヤクザたちは、凄まじく手加減されても実戦ガチンコ向きの戦忍びには一切敵わず、戦意が完全に折れて転がされた。

 

 

 

 

 

 ****

 

 

 

 

「アイタタタタタイタタタタ!!」

「クッチャクッチャ」

「ぎゃああああ! なんなのおばちゃん!! 痛い痛い痛いー!」

「クッチャクッチャ」

「頑張ってください番頭!」

「苦情対応は任せました!」

 

 品川宿にて。

 たまたまそこに巡回して営業指導中だった、忍び屋の番頭である朝蔵が頭を噛みつかれていた。

 相手は髪の毛が灰色っぽくなっている化粧が濃い女だ。お歯黒を塗りたくった歯を尖らせ、いきなり朝蔵に噛み付いてきた。

 品川の裏社会を恐怖のどん底に突き落としている最凶の女ヤクザ、お市自らが始末にやってきたのだ。

 

「いてええええー! お助けー!! 妙に振りほどけ無いしこの人ー!」

「一体なにやったんですか番頭!」

「分が悪いですよ番頭!」

「知らねえよ! お前らもこのおばちゃん引き剥がすの手伝えよ!」

 

 ──この朝蔵という男、忍びとしては万能型で何をやらせても並の忍びより上手に出来る、非常に有能な男である。

 勿論素人に突然絡みつかれても軽くねじ伏せる体術も使えるのだが──不思議とこの黒牙女はその技を抜けて噛み付きを継続してくる。

 

「ごめんなさい!」

 

 覆面部下の一人が天秤棒を棍棒のように扱って、朝蔵を後ろから噛み付いている黒牙女を殴ろうとした。

 すっと後ろに目がついているかのように避けた。そして棒の一撃は朝蔵に直撃する。

 

「あいたァー!?」

「番頭ー!」

「うげぇーっ! 頭からの血で前も見えなくなってきた!」

 

 だらだらと血が流れて顔に付着している朝蔵はひたすら重傷に見える。

 

「こ、こうなったら一旦逃げましょう番頭! 手に負えません!」

「どうすんだよ!?」

「番頭が噛まれている間に情報を集めたけど、この人はここらを縄張りにしているヤクザで、生肉を齧ってたら無害だそうです!」

「俺のドタマが齧られとるんじゃろがい!」

「大丈夫です! 近くのももんじ屋から生肉買ってきました! ほーらほーら」

 

 肉食動物に餌をやるように、棒の先に生肉をつけて差し出すと黒牙女は朝蔵から離れてそちらにかぶりつく。

 その隙に脱出した朝蔵は、手下二人と商売道具を持って一目散に背中を向けた。

 

「撤退ー! もうなんかヤバイぞ品川ー!」

「怖……近づかんとこ」

 

 

 

 *****

 

 

 

 一日で四箇所もヤクザから襲撃を受けた九郎は、その夜に緊急事態として忍び屋に皆を集めて対策会議を行うことにした。

 

「──それで結局、被害らしい被害は朝蔵が無様にやられたぐらいか……」

「強かったんですよ! 本気で!」

 

 九郎がしみじみと呟くと、覆面の上から包帯を巻いている朝蔵が泣きそうな声でそう主張する。

 

「しかし偶然か、示し合わせてのことか……正直、恨みを買うには手広くやりすぎてさっぱりわからん」

 

 これまでに幾度も悪党一味を捕縛したり、影兵衛と壊滅させたり、晃之介に挑んできた妙な武芸者と戦ったり、喧嘩を売ってきたヤクザを潰したり、悪徳遊郭に詐欺商人を破滅させたり……

 九郎という男、道を歩けばトラブルに遭遇するのでとにかく妙な悪党と関わることが多い。

 人の世にはびこる悪の種は尽きぬというが、同様に彼が巻き込まれる事件も尽きることがない。

 

「しかしよくこの、江戸の怪物みたいな九郎さんを狙ってくるよなあ」

 

 従業員の言葉に他の皆も頷く。つい最近に江戸へとやってきた比較的新参の者たちだが、空は飛ぶは雷は落とすわ村に居る暴れ牛を押さえつけるわで、妖術と怪力を持つ九郎の実力は目の当たりにしている。

 更に昔から知っている江戸出身の忍びらが盛った九郎の武勇伝などを飲み会などで話すので、とにかく江戸でも有数の実力者だという印象を持っている。

 

「違う違う」

 

 と、朝蔵が手を振る。

 

「そりゃうちの旦那はちょっと有り得ないぐらいヤバい男で江戸の裏社会では触ると祟られる系だと思われてるけど」

「そんなに思われてるのか己れ……」

「しかしまあ、言ってみればこれまでは個人の暴れん坊だったから構わないようにしていたわけで。だけどこうして、手下を作ってあちこちにシノギを伸ばして活動を始めたから問題視されたんじゃないかってあっしは考えやすがね。それで本人には敵わねえから、手下相手に嫌がらせだか警告だかを」

「んー……あー、つまりアレか」

 

 九郎は嫌そうな顔をして言う。

 

「己れが商店を始めたのではなく、ヤクザの組を作ったと思われている……?」

「まあ……怪しい覆面を着たいかつい男を何人も雇ってるし……」

「ヤクザ連中も表の顔だと、駕籠担ぎとか火消しとかそういう荒っぽそうな仕事をしてるやつも多いからなあ」

「参ったのう」

 

 その発想はなかった、とばかりに九郎は肩をすくめてため息をついた。

 慶喜屋を作った際には神楽坂の屋敷近くだったので、ついでとばかりに近くのヤクザは追い払って町年寄や大工などに話も通して、ある意味「九郎親分のシマ」とでも言うべき状態にしていたから問題はそこまで起こらなかったのだろうが。

 今回のは江戸市中全域をターゲットにした商売なので、当然ながら他の地域をシマにしていたヤクザからすれば自分らのところを侵略する斥候か何かにしか見えなかっただろう。

 

「ええい面倒くさい。何人居るかも知らん江戸中のヤクザに一々仁義なんぞ通してられるか。こちとらお上から認められとる商売なのだ」

 

 大体、責任者である町奉行や長官以外のメンツはそうそう変わらない官憲と違って、ちょくちょく入れ替わる上にあちこちいるヤクザを把握することすら難しい。

 

「いっそやっちまいます? 九郎親分の天狗組、一斉に江戸をシメる的な……」

「馬鹿者。折角カタギの仕事をしているのにヤクザに落ちてどうする。嫁や子供に自慢できるような仕事をしてなくてはならん。少なくとも、表向きには」

 

 九郎は従業員の「ヤクザになったらどうか」という提案をすぐさま却下した。

 裏で云うと九郎もかなり危ういところに両足を突っ込んでいるので潔白とは言えないのだが、ヤクザの子供だとそこらの町人にまで後ろ指さされ組になってはいけない。 

 

「己れもこれまでよくチンピラを殴り倒してきたが、ヤクザにヤクザ的な対応をしていたらいかん。特に仕事中は人の目があるからのう」

 

 彼個人がヤクザ相手に揉め事を起こすこととは、また条件が変わってきたことになる。

 なにせ商売に関わってくるのだ。毎回、出先でヤクザに騒動を起こされたり、或いは仕入先へ嫌がらせをされたりしては収入に響いてしまう。 

 

「いいな、生島足島兄弟。喧嘩を売られても適当に逃げろ。ヤクザに囲まれたのに一方的に全員殴り倒すカタギの商売人がどこにおる。それが悪いとは言わんが、目撃していた町の人からすればお主らも危ないやつだと思われて物が売れなくなるぞ」 

「申し訳ないけん」

「舐められたら終わりかと思ったんじゃ」

「まあ、今回はそういった緊急時の対応を教えてなかったから厳しくは言わんが……」

 

 豪腕を持つ忍び二人は素直に謝った。幾ら腕力を鍛える術を学んだといっても、そこらのヤクザ相手に逃げ切れぬほど鈍間(のろま)なわけではない。

 特にヤクザという連中は喧嘩殺し合いで実戦慣れしているので、そこらの平和ボケした武士よりも強いということはあるかもしれないが、そもそも鍛えるという習慣も無いし生活もだらしないことが多いので体力的にはそこらで天秤棒に魚を担いで売り歩く町人以下な者が多い。

 忍び屋の従業員なら全員余裕で逃げられるはずだ。中には馬と並走して一日中走ることさえ可能な者も居るぐらいで。

 

「でも無抵抗だと延々と嫌がらせが続きません?」

「対応はする。だがまずは相手のことを知ってからだな。現場に出てくる下っ端ヤクザなんて仕留めててもキリがない。一人ぐらい捕まえてくれば黒幕を吐かせたのだが……」

「鉄三が調べに行ってるらしいですけど……あっ帰ってきた」

 

 入り口から──ではなく、屋根裏から降り立ってくる鉄三。この忍び屋には無駄にそういった趣味で作られた、屋根裏や床下から登場するスペースが作られている。

 

「大変ですよ九郎の旦那! どうやら、江戸の四大親分とかいうヤクザが旦那っていうか俺たちを狙ってるみたいで!」

「なに? 四大ヤクザだと……!」

「知っているんですか、九郎さん」

「いや全然知らん。あと江戸の連中、すぐに四天王とか五人衆とか二十四人衆とか名乗りだすから特別感がまったく感じぬ」

「ぶっちゃけるなあ」

 

 とにかく、鉄三は襲撃を受けた後でヤクザを追跡し、神田のヤクザ『般若面』の右衛門が黒幕だと知った。

 久しぶりの潜入調査だったので鉄三はノリノリで右衛門が住処にしている油屋の床下に入り込み会話を拾ったのだ。油は特に神田のような寺社が多い場所では灯籠などに使うため大きな利益を上げるシノギであり、寺や武家屋敷に出入りするこの仕事は賭博場などにも顔を利かせる都合の良いものだったのだ。

 ともあれ、そこで拾った会話では、

 

『殺せなかったが追い返したか』

『へい右衛門親分……刺さった気がしたんですが、妙な手応えで』

『どうも、他の場所での動きを見張らせていたのだが、長兵衛の手下は襲う直前に病でぶっ倒れ逆に敵に助けられ、治郎吉のところでは襲いかかったヤクザが全部返り討ちにあったそうだ。品川のババアは自分が出ていって噛み殺したようだが……』

『四大親分の刺客が他のところでも失敗を……』

 

「ちょっと待って。あっし、噛み殺されたことになってるの!?」

「まあ……番頭メッチャ血出てましたもんね」

「頭からの出血は目立つからなあ。噂に尾ひれついてもおかしくないんじゃないですか番頭」

 

 一人ボロ負けした挙げ句に死亡扱いを受けている朝蔵はがっくりと頭を垂れた。他の忍び、この店では自分の部下に当たる連中は撃退しているというのにいいところ無しだ。

 それはさておき鉄三の聞いてきた情報を、江戸の裏社会に詳しい朝蔵が付け加えると、

 

「どうやら神田の右衛門、千住の長兵衛、板橋の治郎吉、品川のお市というヤクザが結託して襲撃をしたみたいでさ」

「それはどういった連中だ?」

「千住の長兵衛が割と昔から勢力を持っていた以外は、ここ十年ぐらいで頭角を現してきた武闘派ヤクザでして。他にも零細ヤクザは居るけれど、江戸ではこの四人が裏社会の半分以上に影響を及ぼしているかと」

「んー……厄介なことになったのう。正面から抗争仕掛けるわけにはいかんし」

  

 それだけ大規模となれば相手の兵隊もかなりの数だろうし、組同士の戦争となったらその末端までもがこちらを狙ってくる。

 下手をせずとも九郎や従業員の家族まで狙われたりする可能性も高い。戦闘力の高い関係者ばかりなので返り討ちにできることもあるだろうが、女子供が狙われるのは避けたいし、いつまでも遺恨が残りかねない。

 またそこまで敵対せずとも、彼らがこちらの商品に悪評を垂れ流したりするなど地味な嫌がらせが続いても困る。早めに対処しなくてはならない。

 

「仕方ない。その親分にのみ話を付けて穏便に解決するとしよう。皆も協力してくれるな」

「へい!」

「というわけで明日の仕事はクレーム対応で休みだ。人員を分けてその親分四人の住居から嫁、愛人、子供の居所まで全員で調べていつでも忍び込めるようにしといてくれ」

「穏便!?」

「おいおい、勘違いするでない。差し入れにうちの商品を持っていくだけだ」

 

 九郎は無害そうな笑みを浮かべて云う。

 

「ヤクザとは関わらぬ、ただの商売人としてあちこち出没することを認めて貰えれば良い」

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 般若面の右衛門は真っ青な顔をしていた。

 毒の爪の長兵衛は真っ白な顔をしていた。

 念仏の治郎吉は小刻みに震えていて、小声でお経を唱えていた。

 

 翌々日の事である。板橋にある料亭に集まった三人は、今にも死にそうな表情を浮かべて顔を突き合わせていた。

 

「……出たか?」

「出た」

「もうやだ関わらない俺。仏門入りしたい」

 

 これは右衛門のことだが──

 昨晩の事である。昼間の間を使って優秀な忍びの連携により、完全に住処と関係者を特定された三人に挨拶が行われたのだ。

 真夜中。突然枕元に誰かが立ったかと思うと縛られて身動きが取れなくなった。

 猿ぐつわも掛けられながら、目立たぬ暗色の服と覆面を付けた複数の男が自分の寝床で動き回るのを目にしていた。右衛門と一緒に床に入っていた遊女上がりの愛人も、本人が眠りから醒めないほど素早く縛り転がされる。

 

 一切の抵抗もできず、言葉による誰何すらできない。意思疎通の手段すら不可能な相手に囲まれて、さすがのヤクザも恐怖に震えた。

 まな板の上の鯉。抗争の果てに起こるのならばともかく、昨日まではまったくの日常で──明日も変わらぬ日々が送れると思っていた夜に、生殺与奪の権利を完全に握られている状況に陥ったのだ。

 

 そこに鬼火──いや、天狗火のように青ざめた色で薄ぼんやりと発光している羽織を身に纏った青年が現れた。

 妖怪変化が人の振りをしているともっぱらの噂である、江戸の天狗。

 右衛門は息を飲んだ。絶対人間ではない恐ろしさを感じる。

 

「そう怯えるでない」

 

 目を細めて天狗は云う。彼の左右には六人も黒ずくめの忍びが控えていた。

 少なく見積もっても自分が手下にしている武闘派ヤクザよりも遥かに規律が取れた兵隊に思える。あれが九郎天狗の配下のヤクザか、と戦慄した。あらくれや無頼などではなく、殺し屋のようだ。

 

「うちの商品を持ってきただけだ。寿司も、麦餅も美味いものだぞ」

 

 そう告げて品物が入った箱をそれぞれ差し出した。

 

「『女子供』にも人気の食べ物だ。分けて食うが良い」

 

 九郎は笑みを絶やさないまま一方的な言葉を続ける。

 

「己れらはいつ何時でも、お主が便所に隠れて一晩過ごそうが商品の配達に現れる。意味はわかるな? 便利だということだ」

「──!」

「なにか商品に不満があり、うちの店の者に苦情を寄越すのならば……またこうして己れが直接、詫びに来てやろうか」

「──……」

「手下やお友達にも紹介しておいてくれ。うちの食い物は最高だと──余計なことをするべきではないと」

「……」

「『普通』にうちの店を利用する分には歓迎しよう。安心しろ、お主の面が潰れぬよう──他の長兵衛や治郎吉にも『挨拶』に向かう。なあに、皆で手を引けばなにも困ることはない……それではな……」

 

 まず、仄かに発光している九郎天狗が透けていき、透明になってどこかへ消えた。次に音もなく黒ずくめ達が部屋から立ち去り、その出際に手裏剣を投げて右衛門を縛っている手元の縄だけ断ち切る。

 手が自由に動かせるようになった右衛門は呆然としながら、縄と猿ぐつわを外す。

 右衛門は自前の暴力に自信を持っているやくざ者であった。背中から切りつけ、砂を掛け、転げ回って相手の足を狙う。そういった戦法でこれまでならず者のみならず、武士が相手でも倒してきた。

 だが今度の相手は、同じ土俵にすら立てないことがまざまざとわからされた。

 殺し合いをすれば何がなんだかわからないまま暗殺されて終わるだろう。部下の数も、シマの広さも、喧嘩の強さも関係なく、寝ているところへ幽霊のように入ってきて──それで殺される。

 背筋が凍りついた。屈辱を感じないかと云うと嘘になるが、まず決して手を出してはいけないという恐怖があった。

 怪物のように強いと噂を聞いていても、実際に目の当たりにするまで人はたかをくくるものだ。特にハッタリを利かせるヤクザなら尚更である。だがこうして、命を握られてしまっては……

 

 右衛門が昨晩のことをぽつりぽつりと話すと、他の二人も似たような体験をしたという。

 九郎が黒幕である彼らを直接排除しなかったのは、ひとえにヤクザ組織を潰してもヤクザ者は減らないからだ。統率の取れていないヤクザが街に溢れるだろうし、新たな組織が出てイタチごっこになる。

 なので、睨みを利かせた彼らに管理させることにしたのである。

 

「へ、下手にあの天狗の組織に何もしらねえチンピラが因縁を付けたら……俺らの責任ってことでやられるんじゃないか……?」

「手下だけでなく、他のヤクザにも天狗一味には手を出さねえように言っておかねえと……」

 

 このようにとばっちりを恐れて、他のヤクザまで管理をさせるのが目的であった。

 現在の江戸でも大ヤクザといえる三人が手を出すなと言えば、元より九郎の評判を聞いている他のヤクザも「相当ヤバイんだな」と関わらなくなる。わざわざこの大ヤクザらに因縁を付けられるのも嫌だし、そもそも見逃すのは売り歩き商売程度である。無理に喧嘩を仕掛ける合理性は皆無だ。

 こうして広まった噂は尾ひれを付けつつ、江戸に根を張るヤクザたちの中で代々語られる禁忌扱いになっていくのであった。

 

 

「……ところでお市のババアは?」

「さあ」

「そっちにも脅しが行ったはずだけど……」

 

 

 

 ****

 

 

 

 四大ヤクザの枕元で脅しをする予定の九郎であったが、品川のお市に関しては朝蔵が「汚名返上の為に是非やらせてください!」と土下座までしてきたので、仕方なく朝蔵に任せてみたのだ。

 しかしながら夜も明け、集合場所の忍び屋に帰ってきた朝蔵はまたボロボロの血まみれになっていて、どう見ても返り討ちにあっていた。

 

「朝蔵……お主弱いな……」

「本気で相手が強いんですって!? なんなのあのおばさん! 不気味なんだけど!」

 

 そのお市は品川の旅籠を毎日ぶらぶらと寝る場所を変えつつ生活をしているようだった。

 ヤクザとしての活動としては恐怖で他のヤクザや店の主人などを支配していて、逆らうヤクザは血祭りに上げられ、自然と彼女の元にはシノギのアガリが収められる。ただし品川の治安自体は守られていて、地元の評判は悪くない。

 朝蔵は完璧な潜入術でお市が寝ている宿に忍び込み、気配を極限まで消して彼女を縛りつけようとした。

 近づいた瞬間、カッと目と口が見開かれて噛みつかれた。

 抵抗し、体術で競り合ったのだが心が折れるまで噛みつかれた挙げ句、九郎宛の手紙まで貼り付けられて追い返されてきた。

 

「果たし状……?」

 

 そこには『御殿山にて勝負』と書かれている。どうやら九郎に向けたもののようで、刺客を返り討ちにした挙げ句に正々堂々とも言える果たし状に、九郎はやりにくいように「むう」と呻く。

 

「どうもあのおばさん、品川宿で好き勝手するヤクザ全員噛み殺して今の地位を得た武闘派も武闘派のようで……」

「本当に人間か? 食人鬼的な妖怪の類じゃなくて?」

「夜見たらちょっと泣きそうな怖さでしたけど……夜闇に浮かび上がる、黒黒として逆に目立つ全て尖った歯に、死体のように白粉で真っ白の肌。感情の浮かんでいない魚類のような目に、口から垂れた生肉……」

「……」

「……」

「……」

 

 全員が想像して静まり返り、そして九郎が呟いた。

 

「いや待て。二回聞くがまず本当にそれ人間か? っていうかヤクザなのか? 完全に正体不明の化物じゃないか?」

「そうかな……そうかも……」

「ど、どうします、九郎さん……」

 

 九郎は腕を組んで眉間に皺を寄せた。まるで相手の正体や目的が掴めない。品川を支配しているヤクザというか、品川には誰にでも噛み付く──文字通りに──謎の怪人がいて、どういうわけか敵対している。

 しかしながら今回問題が起きた場所──神田は観光地で、千住板橋品川は街道の入り口に近い。商品もよく売れるだろう。妙な怪人が居ても依頼でも来ない限りは放置していたが、今後の商売も考えてどうにか排除しなければならなかった。

 

「よし、勝負とあるのだ。受けてみよう」

 

 九郎は皆を見回してそう告げた。ここで逃げては社員の士気にも関わる。ひとつ、体を張っていいところを見せてやらねばならない。

 

「任せておけ。怪人など戦い慣れておる」

「いや本当に強いから気をつけてくださいね」

 

 朝蔵が言い訳がましくそう言ってくるが、九郎は大して気にも留めずに──だがしっかりと準備をして出かける準備をした。

 従業員の忍び一同も、社長の勇姿を見るべくお弁当の準備をしてついていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

「イタタタタタぐああああ! いったああああ!」

「クッチャクッチャ」

「ああっ九郎さん!」

「あんだけ自信ぶっこいてたのに即噛まれてる!」

 

 品川の御殿山はその名の通り、高台に御殿山城と呼ばれる将軍家の休憩所が作られていた場所である。だが元禄の頃に火事で御殿は燃え尽き、八代将軍徳川吉宗の頃には一般開放された。

 景色も良いので茶店が並び、品川に来た旅人も多く足を運ぶ名所である。

 高台の上、かなり目立つところで九郎と怪人お市は決闘を行っていた。九郎が出向いた昼頃には既に中央部は人払いされており、ただし周辺では見物客が大勢集まっていた。

 

「出た-! お市の姐さん必殺の噛み付き地獄ー!」

「おーやれやれ! お市姉さん!」

 

 さすが縄張りだけあってお市の方を応援する地元の者もかなり居る。

 それよりも気になるのが、

 

「イタタタってコラお主らぁー! 『畸人変人対決』って看板を出すな! 客を呼ぶな!」

「営業ですよ九郎さん!」

「それより出血に気をつけて!」

 

 今日の分の営業として持ってきた寿司とケーキを観客に売りまくる部下たち。見世物扱いである。

 

「くそっ……余裕かと思ったら疫病風装が効果を発揮せん……!」

 

 斬撃、打撃、投擲など様々な攻撃を勝手に避けてくれる疫病風装(ひらりマント)で作った羽織を身に纏っているのだが、この怪人が噛み付く攻撃には発動しないのだ。

 原因は一つ考えられる。この装備は攻撃を感知して避けるのであって、人が触れなくなるわけではない。例えば嫁や子供が抱きついてきて、顔を擦り寄せてくる行動などで完全回避してたら怪我をさせてしまう。では怪人が抱きついてきて、顔を擦り寄せ噛み付いてくるのは? 同じく回避してくれない。

 これを着て晃之介と試合をする際にも、彼は掴みからの技で対処してくることを覚えて無効化されているぐらいだったのだが……初見で相手が無効化してくるとは思っていなかったのだ。

 余裕をこいていた九郎は先制で組み付かれ、腕の付け根を思いっきり噛みつかれた。ぶちぶちと肉が千切れる感覚がして、噛まれている右腕が碌に動かせず、大きめの血管がやられたように出血が始まっていた。

 

「ぬああああ!」

「クッチャクッチャ」

「ああっ九郎さんがマジ気味の手刀をドスドス入れてる!」

「でも見ろ! 攻撃を当てる度に歯が食い込んで凄い痛そう!」

 

 無理やり怪人を引き剥がそうと引っ張るが、食い込んでいる歯が緩むことがない為に九郎の苦痛は増すばかりであった。さながら、ペンチで肉を挟んだままそのペンチを引っ張るようなものだ。とてつもない咬合力は無理やり押せば肉ごと引きちぎれる強さを感じさせる。

 なのでチョップの嵐を噛んでいる女に叩き込む。腰の入る体勢で打ち込むものではないので威力は低くなるが、剛力の九郎が放つものだ。女の鼻が折れて鼻血まで出るが、それでも噛むのを止めない。

 

「ええい、やりにくい!」

 

 こうなれば握力だ。九郎の掴む力は人体の骨ぐらいなら軽く砕ける。噛んでいる顎を掴んで砕こうと──やり過ぎか? と一瞬躊躇した。

 その瞬間、自分が掴み技で狙われているのを察したお市がサッと噛み付いていた九郎の右腕から離れて、

 

「馬鹿なああああ!? 動きがっ……捉えられん……!」

「ああっ今度は逆側の手に!? 寿司四つですね毎度」

「凄い早さだ! はい麦餅追加入りまーす」

 

 即座に体勢を変えて今度は九郎の左腕に噛み付いた。尖り尖ったお歯黒牙が、肉を切り裂き噛み潰す!

 ぶしゃりと九郎の左腕から血が吹き出る。先程まで噛み付いていた右腕も、血で真っ赤に染まっている。悪いことに右腕も負傷で力が入らなかった。

 左腕を噛みつかれているまま振り回すが上手い具合にしがみついており、傷口が深くなるばかりで離れる気配はない。

 

(滅茶苦茶痛いぞこれ……! アホみたいに早いし粘り強いし……! ええい、こうなれば容赦はせん!)

 

 衆人環視の中だが、無様を晒すよりはマシだと九郎は血が滴る右手で術符を腰から取り出した。

 どうせ見世物扱いなのだから多少派手なことをしても演出だと思ってくれるだろう。

 

「[電撃符]──ってぐああああ!」

「……!!」

「雷が落ちたぞ!?」

「天狗の仕業じゃ!」

 

 取り出したるのは雷を操る電撃符であった。青い電流火花を飛び散らせ相手に電撃を流し込んだまではいいのだが。

 その相手は肉に牙が食い込むほど九郎と密着していたのだ。巻き込まれる形で九郎にも電流が走りまくった。 

 冷静な状態ならば電流のコントロールもできるのだが、それどころじゃなかったのである。

 だが相手の顎の筋肉が電気で痺れ、その隙に九郎は腕を振りほどいた。

 

「どっ──せい!」

 

 左拳を握り、踏み込みと同時に突き出す。拳に練り上げた力の流れを込めて最小の動きで相手に触れた瞬間に発する。力を込めたことで左腕の上腕部から血が吹き出た。

 土嚢を殴るような鈍い音と同時に、鞠でも打ったかに思える勢いで怪人が吹き飛んだ。

 九郎は内心舌打ちをする。完璧には決まらなかった。腕の肉が噛みちぎられたことで僅かに攻撃が遅れ、相手は当たると同時に勁を吸収して足から流し、大きく吹き飛ぶことで威力を殺した。

 

化勁(かけい)まで使って受け流しおった!? っていうか江戸に妙な技術を持つ怪人集まりすぎではないか!?)

 

 妙な技術を持つ怪人たちを部下にして商売を始めた九郎は驚嘆しながら、血まみれの右手を前に、左手を引いて半身で構えた。使用不能になった右手を盾にして左拳を打ち込む算段だ。

 離れた妖女も、顔面は噛みちぎった血糊と九郎チョップの打撃で血まみれ、片目は腫れ上がっている。おまけに拳を受け止めた右手も動かない様子だった。

 しかしながら闘志は萎えておらず、ガチガチと真っ黒い歯を噛んで威嚇するように鳴らせる。鉄漿(おはぐろ)どころか、鉄で固めたような硬さの歯である。

 

(次で決めねば……痛いしのう)

 

 もうなんか大きめの血管が破れたような出血をしている。嫁や子供には、鰐か何かの大怪獣と戦った名誉の負傷ということにせねば……!そう考えた。

 お市も熟練したテクニシャン系レスラーのような構えをして、今にも飛びかからんとした。九郎も迎撃に踏み込もうとする。

 緊迫が御殿山に走った。観客は皆、寿司を食う手を止め固唾をのんで見守っている。

 

 そして次の瞬間─────

 

 お互いがつんのめるように足を止める。二人の間に、女性が手を広げて止めるように立ちはだかっていたのだ。

 

「なっ!?」

 

 その女はやや上を向くように顔を向けていて、口が裂けたように大きく開き──ガチガチと尖った歯を鳴らした。

 

「お主は……鮫太夫!?」

 

 二人の間に立ちはだかった女は、陸に打ち上げられた魚のように潤んだ目をしていた。

 

 

 

 ****

 

 

 

 鮫太夫。その太夫という通り名のまま、彼女は吉原にいた遊女であった。

 ただし人気は最上位の太夫という程ではなく、ただの通称である。マニアックな人気があったぐらいの娘であった。

 無感情な顔つきに、何より尖った歯をむき出しにしている個性的な容姿は、噛みつかれるとなにかご利益があるという噂で客を取っていたのである。

 そのような娘だったが、年季も上がり吉原から出るときに九郎の仲介によって忍びの一人と祝言を上げ、この品川にて汐待茶屋──ちょっとした魚料理と酒や茶を出す店を開き暮らしていた。

 だがまさか、

 

「この怪人というか、品川を支配してる女ヤクザが……攫われて遊郭に売られた娘を探しに来ていた、鮫子の母親だったとはのう……」

 

 戦いは引き分け、二人は傷の手当をして品川にある鮫太夫の茶屋で話し合いをすることになった。

 傷を改めて見るとちょっとエグいぐらい歯型が付いていたが、九郎は目を背けて布で巻いて放置する。常人ならば後遺症が残りかねないが、彼の魔法による自己治癒能力でなんとか治るだろう。

 

「クッチャクッチャ」

「……ぇぇ」

「なんと言っておるのか?」

 

 今一聞き取れない言語で会話している親子の通訳を、鮫子の夫である不印(ふいん)に尋ねる。

 

「ええと、とりあえず探しに江戸まで来て、品川で娘を見つけたものの、もう結婚して幸せそうだから関わらないでいいかなって思って見守っていたそうです」

「ふむ」

「でも娘が開いてる店……うちにならず者が入って暴れるのを見て」

「暴れたのか?」

「はい。まあ、ノコギリで撃退しましたけど」

 

 この不印も一応は忍びで、専門は拷問技術であるがそこらのごろつきよりは余程強い。

 

「とにかく、それで娘の住む町の治安が不安になったので、片っ端から悪党ごろつきを噛み付いて退治していたらいつの間にかヤクザの親分に祀り上げられていたそうで……」

「微妙に既視感を感じるのう……」

 

 本人は碌に喋らないのだが、噛まれて敗北したヤクザ集団が一目置いた挙げ句に勝手に手下を名乗り、ごろつきを退治してくれた店などがアガリを献上するようになったのである。

 まあ無論、手下が暴れたときは粛清の噛み付きが襲ってきたのだが。

 

「クッチャクッチャ」

「……ぅぅ」

 

 謎の咀嚼音と小声で母娘は会話していて、それを再び不印が通訳した。

 

「ええと、娘に旦那を探してくれて、腕っぷしも強い九郎親分がこのあたりまで縄張りにしてくれるなら安心できるから、故郷に帰りたいそうです」

「そうか? 別に敵対する理由もないなら住んでも構わんのだが……」

「クッチャクッチャ」

「大勢の人に関わるのは苦手で不本意だし、故郷も心配だそうで……」

「まあ……わからんでもないが」

 

 どう見ても人付き合いが得意そうには見えない。というか意思疎通が可能かすら怪しく見える。

 

「わかったわかった。品川は不印が居るから滅多なことでは鮫子の店は大丈夫だと思うが……己れの店の者も売りに来るだろうし岡場所は歌麿の顔も利くからな。物騒な連中が暴れないように気をつけておこう」

「クッチャクッチャ」

 

 ──と、言うことになった。

 

 

 そして翌日になり、お市は故郷へと旅立っていく。

 

「クッチャクッチャ」

「……」

 

 二人でやり取りをして、お市は一度鮫太夫を抱きしめて背中を撫でると、ゆっくりと背中を見せて去る。

 それを見送る鮫太夫の目にも涙が浮かび、九郎と不印は思わず目頭を押さえた。

 

「なにはともあれ……離れ離れになっていた母娘が会えてよかったのう。怪我をしたのも無駄ではなかったと思える」

「そうですね……」

「なんで鮫子の母親、街道を行くのではなく浜から海に帰っていくのかさっぱりわからんが……」

「お、泳ぎが得意なそうで……よくわかりませんが」

 

 まるで身投げのような構図だったが、海に入ってすぐにお市の姿は見えなくなり──

 

 その日、品川沖で停泊していた複数の船が、巨大な鮫の姿を目撃したという噂だけ聞こえてきた。

 

 鮫の頭の両脇──頬にあたるところは白粉でも塗ったように真っ白だったという。

 

 鮫太夫の故郷に関しては、九郎も不印も元雇い主の楼主も誰も知るところではない──

 

 

 

 

 *****

 

 

 

 

 そうして江戸の表と裏から邪魔されることなく始まった、天狗一味の忍び屋稼業。

 とにかく売れに売れ、更には富農の甚八丸とも大いに提携した商売は非常に上手くいき、大規模化していくことになる。

 ただし厳しく九郎が決めて社則にしたのは『自分たちを守る以外にはカタギの仕事をすること』だ。

 町の官憲やヤクザから一目置かれているからといって、それをかさに横暴な振る舞いやボッタクリ商売、押し売りなどを固く禁じて、破った者は内部から粛清するように決めた。

 もし危害を加えようとする悪漢に会ったならばひとまず逃げ、その後全員で対処する。具体的には枕元に立つという手段で非暴力的に脅すことにした。実際、かなり覿面に効果があった。

 中にはその説得に応じない者も居たが、どれだけ警戒をしようとも警備ごと縛り付けて枕元に立つ忍び集団に耐えきれる者は、ヤクザでも旗本でも幕末の志士でも存在しなかった。

 

 働く元忍びの連中には仕事をしながらも、自分らの子供などには出来る範囲で忍びの技術を継承させることも勧めた。

 本人たちは役に立たないものだとばかり思っていたが、案外こうして江戸で仕事をする上でも体力や逃げ足、自衛そして──それこそ脅しの手段として使うことができる。

 彼らの多くは後ろ黒い仕事がしたいわけではないが──この皆でわいわいとやれる職場が好きであり、それを守るために力を貸したい、子供の代にも孫の代にも残したいと思っていた。

 子孫にもそういった皆の為に技能を使えるように伝えたかったのだ。

 その結果──この忍び屋、及び甚八丸の大農家では代々忍びの技能を持つ従業員を抱えることになる。事業が拡大する上で一般人も多く雇うが、店を守るには充分すぎる戦力であった。

 

 甚八丸の農家も、江戸時代は田畑の売買が原則禁止されているのだがそれは中期頃から形骸化したこともあって、周辺の農家から土地を借り受けて農畜産の規模を拡大させていく。

 彼の大農地はそのうちに領主の如き規模になるのだが、江戸に流通する鶏肉や卵、そのうちには牛乳に羊毛や豚肉などをほぼ独占して得た金は莫大でそれを上手く活用して上から睨まれぬようにした。

 結果、明治時代になっても領地を維持したどころか金の貸付で政府に恩を売りまくり、政界にまで強い影響を及ぼす大規模農業経営体へと成長した。また、忍び屋と提携し各自忍びの特殊技能を活かした結果、製薬や流通、金融などにも経営を広げた。

 更に第二次世界大戦後、GHQの農地改革により所有する農地全てを小作農に分け与えることになったが──流通から肥料の調達、農業指導に給付金まで手厚く小作農に給付していたので、それが無くなっては困る、それに根津家には良くしてもらっていたと八割ほども戻ってきて戦後も変わらず日本最大の農家を維持したという。

 

 さてはて、遠い未来にはそんな大きすぎる影響を及ぼすことになる、忍びを雇い入れて農家を大規模化させる商売を始めた九郎と、それを支える農地を管理する甚八丸だが──

 

 

「ブヒャハハハハハァァ! みっ見ろーっ! く、く、九郎がババアから噛みつかれまくって大怪我してるぅー! いよっ女たらし! 色男! ぷひーザマァーカンカン!」

「やかましい筋肉達磨! お主もあの親鮫女と戦ってみろ! 全身ズタズタだわ!」

「そりゃあすげぇ~戦わせてくれぇ~ウヒヒ! 九郎を噛み付いてボロボロにしたババア見てみてぇでーっす! 連れてきてみろよ~」

「うわ腹立つ! クソっ腕が治ったら覚えてろよ!」

 

 

 ……まあ、いつもどおり馬鹿な言い合いをしていて、先のことはさっぱり考えていないのであったが。

 

 

 




異世界から帰ったら江戸なのである、これにて完結になります! ご愛読ありがとうございました
なっっっっげ!!
ここまで追いかけて読めたら大したもんですよ! 毎日投稿なのに半年近く掛かったよ!

江戸なのであるは短編オムニバスなので思いつけば無限に続けられるんだけどさすがに人間関係も煮詰まってきたし、書きたい展開はだいたい書いたので終わることになりました
RE江戸の方は言ってみれば、人間関係リセットしたらまた書き下ろしで別展開のエピソード書きやすいって思いつきだったんですね

諸々と忙しかったので感想返しはできていないのですが、後でじっくり読ませて貰います。ありがとうございました
それと個人名出すのもアレなので匿名でお礼申し上げますが、全話網羅する勢いで誤字報告してくださった方(1名)、いやホント凄いな…ありがとうございます! 通りすがりの校正のプロかな?
他の誤字報告してくださった方もお世話になりました! なろうの方に反映させてないから、現状このハーメルン版が誤字の一番少ないWebバージョンになってますねー

それではまた別作品で! アルトザダイバーとRE江戸もよろしくです!
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