真夏の日差しがじりじりと照りつける中、ミズキの部屋はクーラーの心地よい冷気に満たされていた。ソファに深く身を沈めたミズキは、分厚い文庫本を広げ、活字の海を漂っている。
その傍らでは、お隣の幼女、ヒマワリが、色とりどりの積み木を並べては崩し、一人遊びに興じていた。ミズキの母親が長期で家を空けることになり、夏休みが始まったばかりのこの時期から、ヒマワリはミズキのところに預けられている。
「みーちゃん、これなあに?」
不意に、ヒマワリの小さな声がミズキの耳に届いた。積み木遊びに飽きたらしいヒマワリが指差す先には、ミズキが読みかけでサイドテーブルに置いていた一冊の本があった。
『アルジャーノンに花束を』
色鮮やかな花束と、一匹の白いネズミが描かれた表紙は、幼いヒマワリの目にも魅力的に映ったのだろう。ミズキはゆっくりと本から目を離し、ヒマワリの幼い顔を見つめた。
「これはね、ヒマちゃん・・・ちょっと悲しいけど、すごく素敵なお話だよ」
ミズキの声は、いつもと同じく、どこか気だるげで、それでいて不思議な響きを持っていた。ヒマワリはきょとんとした瞳でミズキを見上げる。
「ねえ、どんなお話なの?」
その好奇心に満ちた瞳に、ミズキは微笑んだ。そして少しだけ考える。この物語を、幼いヒマワリにどう伝えればいいだろう。
「うーん・・・。ねずみさんのアルジャーノンと、チャーリィっていう男の人の、お話かな」
ミズキはゆっくりと言葉を選んだ。
「チャーリィは、他の人たちよりもちょっと、頭の働きがゆっくりだったんだ。みんなが簡単にできることも、チャーリィにはとても難しかった。だから、みんなと違うと、少し寂しい思いをしていたんだ。けれどもある日、とある手術を受けられることになったんだ。それは彼の頭の動きをよくするという手術だった」
「ほんと?」ヒマワリの目が輝く。
「ああ、本当だよ。ただ、その手術を最初に受けたのは、白いネズミのアルジャーノンだったんだよ」
ミズキは表紙のネズミを指差した。ヒマワリは「ちゅー!」と声を上げてネズミを指さす。
「最初は、アルジャーノンというネズミがその手術を受けていたんだ。その手術を受けたアルジャーノンはすごく頭が良くて、難しい迷路もすぐに解けるようになったんだよ」
「へえ!」
ヒマワリの目が輝く。
「それで、チャーリィも手術を受けることにした。そしたら、チャーリィも少しずつ、少しずつ、いろんなことがわかるようになって、字も読めるようになって、難しいことも考えられるようになって・・・どんどん賢くなっていった」
ミズキは表紙の白いネズミにそっと指を滑らせた。
「・・・けれどね、ヒマちゃん。賢くなるっていうのは、良いことばかりではなかったんだよ」
ミズキの声が、ほんの少しだけ陰を帯びる。ヒマワリは何も言わず、ただミズキの言葉の続きを待っていた。
「チャーリィは、賢くなるにつれて、今まで見えなかったものが見えるようになった。みんなが自分をどう思っていたかとか、優しくしてくれていたと思っていた人が、実はそうじゃなかったこととか・・・。そして、賢くなったアルジャーノンが、だんだん元気がなくなっていくのを見て、チャーリィは、自分もいつかそうなるんじゃないか。そう不安になっていったんだ」
ミズキはそこで言葉を区切った。ヒマワリは、じっとミズキの顔を見上げている。その小さな顔には、先ほどの好奇心だけでなく、少しばかりの戸惑いのようなものも浮かんでいた。
「だからね、これは、賢くなることの喜びと、それからくる悲しみ、両方を教えてくれるお話だよ。でも、最後にはね、チャーリィがアルジャーノンに、お花を供えるんだよ。それが、表紙の花束なんだ」
そう言って、ミズキは再び表紙の花束を指さした。色鮮やかな花々が、静かにそこにあった。
「ねずみさん、かわいそう・・・?」
ヒマワリが、小さな声で尋ねた。ミズキは、ヒマワリの頭をそっと撫でた。
「そうだね。けれどね、ヒマちゃん。かわいそう、だけじゃないんだよ。きっと、色々な気持ちが詰まっているんだ。だから、ヒマちゃんがもっと大きくなったら、一緒に読んでみない? きっと、ヒマちゃんだけの『アルジャーノン』を見つけられると思うよ」
「うん」
ヒマワリは、まだ完全に理解できたわけではないという顔をしながらも、こくりと頷いた。再びブロック遊びに戻るヒマワリの横顔を眺めながら、ミズキは本のページをそっと閉じた。夏休みは、まだ始まったばかりだ。
◆◇◆
夏の日差しがじりじりと照りつける午後、ミズキの部屋にはクーラーの涼しい風が満ちていた。ソファで気だるげにもたれかかるミズキの傍らで、ヒマワリは床に広げたスケッチブックに夢中になっている。クレヨンを握る小さな手は真剣そのものだ。
「ヒマちゃん、何描いてるの?」
ミズキは伏し目がちに問いかけた。
「うちゅうじん!」
ヒマワリは顔を上げずに答える。ぴょこんと揺れるツインテールが可愛らしい。
得意げな声に、ミズキは「へぇ」と短い返事を返した。昨日の晩にやっていたテレビの宇宙人特集に、すっかり影響されているらしい。
ヒマワリの描く宇宙人は、どれもこれも目がぎょろっとしていて、手足が細長く、ちょっとしたホラーじみている。
「宇宙人ねぇ・・・。そうだな、ヒマちゃんはE.T.って知ってるかな」
「いーてぃー?」ヒマワリがぴたりと手を止め、首を傾げる。
「うん。すごく昔の映画なんだけどね。E.T.は、遠い星から地球に来た宇宙人なんだ」
ミズキはゆっくりと言葉を選んだ。
「そのE.T.は、宇宙船に置き去りにされてしまったんだ。地球にひとりぼっちで、家に帰りたいと思っていた。それを、エリオットという優しい男の子が助けてあげるんだよ」
ヒマワリの瞳がキラキラと輝く。ミズキはそんなヒマワリの頭をそっと撫でた。
「E.T.は最初、地球の言葉を話せないんだけど、エリオットとは心で通じ合っているんだ。そして、E.T.は色んな不思議な能力を持っているんだよ。指先が光って、枯れていた花を元気にしたり、エリオットが怪我をした時には、その怪我を治したり、自転車を空に飛ばしたり、ね。エリオットと一緒に月をバックに自転車が飛んでいくシーンは、本当に綺麗なんだ」
ミズキは遠い昔を懐かしむように目を細めた。
「・・・けれど、E.T.は地球の環境が合わなかった。どんどん弱っていって、E.T.がエリオットの家にいることを突き止めた大人たちがやって来て、お医者さんたちが何とか助けようとするんだけど、ダメだった・・・」
「いーてぃーさん、しんじゃったの・・・?」
ヒマワリの顔に不安の色がよぎる。
「一度はね。けど、お迎えの宇宙船がやって来るのを感じて、E.T.は息を吹き返すんだよ。そしてエリオットは、彼を宇宙船に返してあげようと行動するんだ。お兄ちゃんと友達の力を借りて、E.T.を助け出して、宇宙船が迎えに来る場所に連れていくんだ・・・。そして、E.T.は、自分の故郷に帰っていくんだよ」
ミズキはそこで言葉を切った。ヒマワリはまだ絵を描く手を止めたままだ。「ちょっとかなしいお話?」ヒマワリが小さな声で尋ねた。
「うん、最後はね、E.T.が帰っちゃうから、エリオットは寂しいんだけど・・・でも、E.T.は、最後にエリオットにこう言うんだ。ずっとここにいるよってね。離れ離れにはなってしまうけれど、いつだって心の中にいる」
ミズキは再びヒマワリの頭を優しく撫でた。
「だから、会えなくなっても、心はずっと繋がってるんだよ」
ヒマワリはミズキの顔を見上げ、それからまたスケッチブックに目を落とした。さっきまで描いていた宇宙人の絵に、今度は大きなハートマークを付け加えている。
「ヒマも、いーてぃーさんみたいなお友達、できるかな!」
「うん。できるよ、きっとね」
その無邪気な笑顔に、ミズキはほんの少しだけ、口角を上げた。この子もいつか、E.T.がくれた優しい心を、誰かに伝えられる日が来るのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、ミズキは再びソファに身を沈めるのだった。