【RTA】鬼滅の刃RPG『長い長い人の歴史のほんの一欠片』獲得チャート 作:バブ辻オギャン
「後継をどうするつもりだ?」
四百年前。かつて自分が『十二鬼月』上弦の壱・黒死牟などではなく、人間であり、鬼殺隊の剣士――『継国巌勝』であった頃。
それは、澄み切った青空の下で、ふと口をついて出た問いだった。
「我らに匹敵する実力者がいない。呼吸術の継承が絶望的だ、極めた技が途絶えてしまうぞ」
目の前に立つのは双子の弟、継国縁壱。
神の寵愛を一身に受け、生まれながらにして世界の、武の真理をその双眸に見据えていた男。この世で自分が最も妬み、最も憎み、そして心の底から羨望した男。
今の鬼殺隊があるのは、紛れもなく彼のおかげだった。
彼が鬼殺隊の者たちに呼吸を教え、剣術を教え、その結果として、ただの人間であるはずの剣士たちは鬼と同等、あるいはそれ以上の力を発揮できるようになった。それまでの無力な組織が、一躍として鬼を脅かす存在へと変貌を遂げたのは全て、彼の功績に他ならない。
だが、誰も彼には届かなかった。
縁壱は誰にでも分け隔てなく剣技や呼吸を教えた。懇切丁寧に、求められれば拒むことなくその極意を授けた。
しかし、誰一人として、縁壱と同じようにはできない。
どれほど血を吐くような修練を重ねようとも、彼に追いつく者は出てこない。それどころか、自分ですら彼の足元には到底及ばない。
消えていく。
衰えることのない執念を燃やし、途方もない時間を費やして焦がれ、強く求めた剣技の果てが。
神の御業の如きその技が、やがて世に残されず完全に消えていく。
後世に何も残せない。自分たちの到達した高みに誰も立てない。その事実が、当時の自分の胸を焦がすような焦燥感で満たしていた。
なのに。
「兄上、私たちはそれ程大そうなものではない、
それなのに弟は、どこまでも仏のように穏やかな、底抜けに晴れやかな様子でそう返すのだ。
「私たちの才覚を凌ぐ者が今この瞬間にも産声を上げている、彼らがまた同じ場所までたどり着くだろう」
何が面白いというのだろう。
何が喜ばしいというのだろう。
自分がどれほどの苦悩の末にその境地に辿り着いたというのか。なのに、後から来る名もなき凡百の者たちが、やがて自分たちと同じ場所にたどり着くなどと、そんな無責任な言葉がどうして平然と言えるのか。
「何の心配もいらぬ。私たちはいつでも安心して人生の幕を引けば良い。浮き立つ気持ちになりませぬか、兄上」
それぞれの呼吸の後継がいない。自分たちの技を完璧に継承できる者が誰もいない。
その重大な問題に対して突如として奇妙な楽観視をする事も、自分が命を削って極めた技が誰にも引き継がれずに消えるかもしれないという不安や恐れすらも。
そんなものは一切ないかのように微笑むその姿は、吐き気がするくらいに気味が悪かった。
――お前が笑う度、ただ気味が悪くて仕方なかった。
自分たちは特別なのだ、選ばれた者だけが至ることのできる高みにいるのだと、そう信じ込み、慢心していた自分のちっぽけな自尊心を、その底抜けの無邪気さが、まるで塵屑のように踏みにじっていく。
自分たちを超える者が現れる。そんな見たくもない未来への確信を示すようなその言葉に、胸の奥底から激しい吐き気がこみ上げた。
――何が面白いというのだ。
自分たちを超える者、同じ才覚を持つ者が現れる現実のどこに、そんなにも面白さがあるというのだ。
脳裏に焼き付いたその日の弟の横顔が、崩れゆく視界の中でゆっくりと色褪せていく。
頸を斬り落とされた肉体の痛みよりも、あの時感じた底知れぬ劣等感と嫌悪感が、なぜか今、最も生々しく蘇っていた。
――ぐらりと視界が揺れ動き、頸に熱い感覚が走る。
(な、にが……)
思考よりも早く、本能が危険信号を鳴り響かせた。
反射的に左手で頸を抑えようとして、しかし、その指先が触れた感触に、凍りついた精神が音を立てて砕け散った。
自分の頸が、既に綺麗に斬り離されていた事に気づく。
(斬られた? あの一瞬、あの一撃で……)
にわかには信じられない現実。
現実逃避に走ろうとする己の理性を、頸から発せられる熱が残酷なまでにねじ伏せる。
(私の視界すら欺き、予兆すら捉えさせぬままに……?)
音もなく、気配すら残さず、完璧な一太刀が全てを奪い去った。
その冷徹な事実を突きつけられ、閉ざされたはずの脳裏の奥底で、何百年の封印を破るようにして過去の記憶の扉が音を立てて開かれる。
鮮やかに、まるで昨日のことのように蘇るのは、人間時代の怨毒の日々。
神々の寵愛を一身に受け、生まれながらにして世界の理をその双眸に見据えていた弟に対する、骨まで焼き尽くすような凄まじい嫉妬心。
この世の理の外側にいる、目障りで憎き弟。
そして――あの忌まわしい、赤い月夜に見た悪夢。
(死ぬのか? 負けるのか? 私は、今……あの夜のように……)
あの夜、目の前に現れたのは、老いて、あまりにも醜く衰え果てた弟だった。
二十五の歳を迎える前に死ぬ――そんな痣者の理を踏みつけに、齢八十近くまで生きていた弟は、酷くしわがれた声で『兄上』と呼び、それから容赦なく自身の頸を斬りかけた。
あと一呼吸。
あの夜、ほんの一呼吸でも弟の寿命が長ければ、自分は頸を斬られて負けていた。
それなのに、その一撃が放たれる事は終ぞなかったのだ。
直立したまま寿命で死んで勝ち逃げし、惨めな想いをさせた。そんなあまりにも憎き記憶。
『あの方』をも死の淵へと追い詰め、一歩間違えれば完全に殺しかけたその剣技は、老いてなお全盛期と変わらぬ恐るべき威力と、常人には捉えられない神の御業の如き速度を誇っていたと――そう思い込んでいたというのに。
なのに、今は――。
(この女は、まさか――!!)
空間から切り離され、空中へと落ちていく自身の頸と、そこから見下ろす視線が捉えた先。
そこには、文字通りの刹那で完璧な一閃を放ち、崩れゆく自身の背後に静かに降り立つ、一人の女の姿があった。
刀を静かに振り終え、ゆっくりとこちらを振り返るその女の目には、驚くべき事に何の悪感情も宿っていなかった。
まるで底の知れない深淵を覗いているかのような漆黒。
黒曜石のようなその瞳には、敗者に対する一抹の哀れみもなく、鬼に対する蔑みもなく、敵を打ち破った事への歓喜も何も宿っていない。
その目には殺気も、そして闘気すらも一切感じられなかった。
それに加えて、自分が何百年もかけて極め続けてきた透き通った視界による動作予知すらも完全に潜り抜け、自分を上回ったという現実。
何より、先ほど相対した柱が零した――『生まれつきの痣者を知っている』という趣旨の発言。
それから、彼女の圧倒的な強さの理由を嫌でも理解できてしまった。
(この女は
視えているのだ。
自分と同じ世界――いや、自分よりも更に深く、より澄み切った、それ以上の高みの世界が。
互いに全てが『視える』という条件は同じである筈なのに、そこに到達している者の『練度』と『器』には、正に天と地ほどの圧倒的な差があった。
自分には見えていなかった何かを、彼女は確かに見ていた。
数百年という鬼の年月、その技量を遥かに超越する、純然たる『才能』の力――。
『いつか、これから生まれる子供たちが私たちを超えて、更なる高みへと登りつめてゆくんだ』
再び脳裏を激しく過るのは、憎き弟のくだらない楽観。
(何が面白い、そんな未来のどこが喜ばしい……!)
嗚呼、そうだ反吐が出る。
(後から生えてくる凡百の若木が、自分たちの積み上げた領域を軽々と踏み越えていくことの何が面白い……!)
ただひたすらに、虫酸が走るほどの嫌悪しか湧かない。
自分がどれほどの血を流し、どれほどの誇りを捨ててまで『強さ』にしがみつき続けたと思っている?
それをいとも簡単に手放し、後進に道を譲るかのような生き方など、自分には理解できる筈もなかった。
――あの夜。
赤い月夜に、魂にこびりついた『敗北』と共に誓ったのだ。
どれほど年月が流れようとも。
どれだけの数の人間を屠り、喰らおうと、どれほど強大な力をその身に蓄えようとも、あの瞬間に受けた精神への斬撃だけは、頸と違って決して癒えることがなかった。
鬼狩りの歴史の中で最も優れた、そして最も圧倒的な剣士が死んだ以上、自分には永遠に誉の死が訪れることはない。
負けるわけにはいかないのだ。あの日の屈辱を、あの圧倒的な力の差を塗り潰すためには、ここで立ち止まることなど絶対に許されない。
勝ち続ける事を選んだのだ。負ける未来を否定したのだ。
人間としての誇りも、そのしがらみの全てを投げ捨てて。
ただ強さを求め、生き残り、勝ち続ける為だけに。
人間を喰い、命を弄び、醜い化け物に成り下がってでも――。
「ぐぅアアア!! ぬァアアアア!!!!」
喉の奥を引き裂くような、獣の遠吠えにも似た絶叫が静まり返った無限城の一室に響き渡る。
地面へ落ちる頸を自らの両手で必死に拾い上げ、ボトリと転がった切断面へと、焦りと恐怖に歪んだ顔のまま無理やり押し付ける。
――まだだ、私はまだ戦える。
負けない事を選び、勝ち続ける未来だけを選んだのだ。
例えどのような不覚を取ろうとも、例え頸が斬られようと、ここで死ぬものか――。
「ぐ、ゥぬァアアアアアアッッ!!!!」
切断面から発せられる熱と激痛。
それはあの夜、縁壱から味わった斬撃以上の苦しみだった。
まるで全身の血管に熔けた鉄を流し込まれたかのような、細胞が根底から焼き尽くされるような異常な灼熱感。その斬撃の余韻だけで身体が強張り、内臓が内側から次々と灼かれるような激痛が走り続ける。
その理由は、痛いほどによく知っていた。
あの刀――縁壱と同じ、真紅に赫く変化した日輪刀。
水も、炎も、そして自身が扱う月の呼吸すらも含め、あらゆる派生の呼吸を生み出し、指導した縁壱が唯一、誰にも教える事ができなかった現象――『赫刀』。
あの女が手にしているその刀は、紛れもなく、かつて恐怖の象徴として脳裏に焼き付いたあの赫き凶刃そのものだった。
『私たちの才覚を凌ぐ者が今この瞬間にも産声を上げている』
――認められるものか。そんな言葉、認めてなどなるものか。
あの戦国の時代、そして今日に至るまでの四百年の長きにわたる歳月に、誰一人として、自分ですらその足元にも及べなかったというのに、何故、そのような存在が現代に生まれてくる。
(速さも、才覚も、何もかもがまるで生き写し……)
女の齢は、せいぜい二十歳と少し。
それは奇しくも、自分がかつて鬼狩りとして過ごし、縁壱と再会した時の年齢に酷く似ていた。
(だが、違う。これが縁壱であるものか……! 『再来』など……! 神の寵愛を受けた者など……!!)
肉体は崩壊していない。
しかし、『赫刀』のあまりにも強すぎる威力と特異な性質故に、驚異的な再生速度を誇るはずの上弦の体質ですら抗えない。
頸の切断面は未だ完全には塞がらず、止血もできないまま、激しい痛みを伴って焼き焦げ続けていた。
それが余計に、あの忌々しい過去の敗北の記憶に、新たな、そしてより絶望的な見解を無理やり植え付ける。
あの夜、老いて尚全盛と変わらないと思っていた剣技も、そしてその威力も――縁壱の本当の全力には及んでいなかったという事実。
自分は、何も知らなかった。
弟の背中を追いかけ、同じ高みに立とうと足掻き続けたというのに、そんな縁壱の本当の実力すらも、最後まで見抜くことはできなかったのだ。
鮮明に蘇り、一層強く、重く魂に刻み込まれる敗北感。
焦がれ、焦がれ続けた弟の真の実力すら見抜けていなかったという現実。
それがより自分を惨めにする。
(だが――)
ここで絶望して、何になるというのだ。
負けを認め、潔く消えて何が成せる?何を残せる?
そうだ、勝ち続ける事を選んだのだ。このような醜い姿になってまで。
「ァ、ギ、ゥァアアアアッッ!!!!????」
もう、
誇りも、過去の執念も、理屈も、全ては生き延び、勝つためだけの糧にすぎない。
頸の切断面から、自身の血と肉を無理やり変異させ、おぞましい形をした無数の刀を直接生成し、千切れた胴と頸を生々しい肉の糸で無理やり接合させる。
もはや恥も外聞もない。美しさのかけらもない。
ただひたすらに、醜悪なまでに『生』に固執する。
「ッ、ヅァァアア!!!!」
そして次の瞬間、身体中から幾本もの凶悪な刀をまるで産毛の如く無数に生やす事で、周囲を完全に死角なき斬撃の要塞へと変貌させ、次なる破壊の攻撃へとその身を移す。
――もはや刀を振るう必要すらなく、己の意思のみで幾千の斬撃を放てる。
それはかつて、剣の道を極め、数々の修羅場をくぐり抜け、あらゆる理を究めた果てに辿り着いた『剣術』とは程遠い。
そこには、高尚な武の気高さなど微塵もなかった。
ただひたすらに醜く、あさましく、『生』そのものにしがみついた境地。
『十二鬼月』最強の鬼としての誇りも、侍である事すらも完全に投げ捨てた成れの果て。
そんな惨めな姿に堕ちた自分自身に対して、心のどこかで微かな引っかかりや、哀れみを覚える自分も確かにいた。
だが、もはやそんなことはどうでもいい。
どうでもいいのだ、今は――。
「――ッア"ア"ア"ア"!!!!!!!!」
喉の奥を焼き切るような、大気を震わせる狂乱の叫びと共に、己の肉体の全て暴走させて大量の斬撃を解き放つ。
それはもはや、かつて磨き上げた『月の呼吸』の美しい型などではない。
剣技としての『武』の機微すら完全に失われた、ただの死物狂いのがむしゃらの攻撃。
腕、頸の切断面、そして背中からおぞましく生え揃った無数の肉の刃。その一本一本が意思を持ち、それぞれの方向へ向けて、狂気的な密度の斬撃による弾幕を四方八方へと激しく舞い散らせる。
頸は未だ、胴体とはしっかりと繋がっていない。ぐらぐらと不安定に揺らぎ、肉の糸だけでかろうじてぶら下がっている状態だ。
しかし、それでも肉体の崩壊そのものは既にピタリと止まっていた。
即ち、それは鬼の弱点であるはずの『頸斬り』の克服という、生物としての進化の事実に他ならない。
それは『十二鬼月』の中で、自分こそが最も『あの方』に近づき、昇華した。
そんなある種の歪んだ、しかし揺るぎなき誉でもあった。
(これで……これで、どんな攻撃も無意味――!)
そうだ、頸を斬られようが、どれだけ肉を両断されようが、自分は死なない。
日の光さえ浴びなければ、自分は無限の時間を生き続ける究極の生命なのだ。
そんな底知れぬ進化への酔いと、勝利への確信に満ちた思考を、まるで紙屑のように切り裂くが如く。
再び、空間を焼き焦がすような猛烈な熱を伴った斬撃が襲い掛かった。
――ズシュッ……!
視界の隅、漆黒の闇の中に舞っているのは、つい先ほどまで肉の刃を振るっていた己の『左腕』だった。
遅れてその現実を認識し、視線を向けた場所。
そこには再び、あの忌々しい女――縁壱の再来が、刀を完璧な軌道で振り終えた姿勢のまま、冷徹なまでの静けさでこちらをじっと見据えていた。
その手にある刀は、紛れもなく、かつて縁壱が見せたのと同じように輝く刃の『赫刀』。
それによる激痛で悶えるも、しかし、それ以上に歪んだ自信が己を鼓舞した。
あの『赫刀』が相手でも、頸斬りを克服さえすれば意味はない。
まだだ、まだ自分は死なない。
負けないのだ――。
(そうだ……日の光以外で、私は……!)
次の思考を脳裏で紡ぎ、さらなる再生と反撃の号令を下すよりも前。
――ザシュッ!! と、今度は、自らの身体で最後に刀を持っていた『右腕』が、肩の付け根から綺麗に切断され、宙へと舞い上がった。
それだけに留まらず、宙へ舞い上がった右腕は何十、何百と細かく賽の目状に斬り刻まれた。
(まだ……ッ!)
それ以上言葉は紡がれなかった。紡ぐための余裕すら、今の彼女の剣速は与えてくれなかった。
両腕を完全に斬り落とされ、しかもあの『赫刀』による特殊な再生阻害のせいで、致命的な切断面の傷が一向に塞がらないという現実。いくら死なないといっても、反撃ができなければ意味はない。
ならばと、反射的に失った腕の代わりに背中から、足の甲から、追加で更なる無数の肉の刃をまるで触手のように大量に生み出す。
周囲一帯を埋め尽くすほどの凄まじい斬撃の密度を高めて、避ける事も叶わない最後の反撃へと転じようとした。
――その刹那。
(……なんだ、これは…………)
今度は真正面。
自分の持つ透き通った視界での先読みすらも置き去りにし、距離を縮めて放たれた神速の一撃。
それが、無理やり肉の糸で接合されていた自分の『頸』めがけて、容赦なく滑り込んでくるその瞬間を、上弦の壱は捉えてしまった。
不思議なほどに、周囲の世界がゆるやかに流れ始めた。
凝縮された時間、その静止したような一瞬の中で、目の前をかすめる赫い刃の鏡面に、奇妙にも映り込んだ『今の自分の姿』を前に、反撃の思考が完全に固まった。
そこにあったのは、もはや『鬼』の面影を残していない醜悪な化け物の姿だった。
ただでさえ異形であった六つの目は、恐怖と動揺のあまりどれも焦点が全く定まっておらず、かつて丁寧に結い上げ、誇りとしていた長髪は、無数の肉の変異と激しい戦闘の末に引きちぎれ、まるで惨めな落ち武者のように乱れ崩れている。
更に頭部からは、鬼としての歪な角が牛のように不気味に突き出していた。
『十二鬼月』としての荘厳さも、武を極めた者としての気高さも全てを投げ捨て、ただひたすらに生き延びることだけに執着した、見る影もない醜さしか残っていない姿。
――生き恥。
(何だ……この醜い姿は…………侍の姿か? これが…………)
そして、そんな迷いの生じたその思考の真最中に、今度こそ頸が完全に切断された。
何本もの肉の刃で突き刺され、必死に固定されていたはずの頸は、まるで子供のお手玉のように軽々と宙を舞い、そして無惨にポトリと地面へと落下した。
残された胴体は支えを失ったようにガクリと膝をつき、再び緩やかな肉体の崩壊が始まった。
(まだだ……)
手も足も出ない敗北。
恥を承知で、剣技すら捨てて行った最後の抵抗すらままならなず、無慈悲に一蹴された現実。
心が負けを認め、頸斬りを克服したのにも関わらず、身体が崩壊を再開する。
それでも――。
(まだ……終わらん……)
――
自分は死なない。頸を斬られようが、腕を落とされようが、そんなものは関係ない。
自分はついに『頸斬り』を完全に克服したのだ、敗北するなどありえない。
日の光を浴びない限り、自分は何度でも蘇り、いつかはこの者たちをも凌駕する、いやしてみせる。
それが許された生物なのだ。この程度の損傷は時間稼ぎに過ぎない。
(まだ負けではない、私はまだ……負けてなど……!)
這いずるように、地面に転がった頸から新たな肉体を再生させようと執念を燃やす上弦の壱。
しかし、その耳に冷徹で、しかしどこまでも透き通った女の声が届いた。
「星の呼吸 拾ノ型」
その再来は、今度は膝をついて崩れゆく胴体のほうには見向きもせず、床に転がって往生際悪く蠢く『頸』のほうにのみ、明確な標的を定めていた。
そして彼女を中心に、空間そのものが円を描くように美しく、かつ厳かに展開される。
幾重にも折り重なる曼荼羅模様の如く、数百、数千という数え切れないほどの精緻な斬撃が、逃げ場を完全に塞がれたたった一つの『頸』めがけて、一斉に解き放たれた。
それはまさに、文字通りの『神の御業』――。
「
視界を焼き尽くすような、一切の濁りがない純白の炎が、あらゆる現実を飲み込みながら広間の全て占領した。
ずっと自分は剣の道を極めたかった。
幼き日、手に馴染まぬ重い木刀を握りしめ、来る日も来る日も振るい続けた。手のひらに血豆ができ、それが破れて鮮血が滲み出ても、激痛に顔を歪ませながらなお木刀を握り直した。
何度も、何度も、気の遠くなるような回数だけその動きを反芻させ、ひとつひとつの型を泥臭く身に着けていった。
師に『いい構えだ』、『綺麗だ』と褒められた時は、心の底から満たされた。
昨日よりも僅かに速く太刀を振れるようになった時、自身の力の向上を自覚して、胸が浮き立つような誇らしくも誇らしい気持ちにもなったのだ。
だが――それは結局、亀の歩みに他ならなかった。
真の、類い稀なる神童の前では、何の意味も持たない虚しい努力に過ぎなかった。
自分が命を削り、血を吐く思いで追い求め、心から欲した才能と剣の道。
それらは所詮すべて、縁壱にとっては童遊び以下だった。
――悔しかった。
そうだ。あの夜に、縁壱が母の死をきっかけに突然家を出る事さえなければ、寺へ送られて出家させられるのは自分であった筈なのだ。
跡取りとして育てられた自分ではなく、最も圧倒的な才能を持つ縁壱こそが継国家を継ぐ。
その理不尽な現実が、たまらなく悔しかった。
――本当に?
ふと、消えゆく魂の底から、どこか冷ややかな問いかけが響く。
自分は、あの狭く薄暗い三畳の部屋に押し込まれ、着物も食事も、兄弟でありながら悲惨なまでに質素なものに虐げられていた縁壱の日々を、ただ心底から忌避していた筈だった。
自分がその惨めな立場に転落することを恐怖していた、才ある弟が妬ましかった、それだけの筈だ。
――
再び、冷ややかな問いかけが響くが、それを無視する。
そうだ、自分はただ『そう』だっただけだ。純粋に剣の道を極めたかったのだ。
自分自身の夢を、ただまっすぐに貫きたかった、それだけの筈だ。
それだけだ、
この思いの丈は、誰にも分からないだろう。
後世の者どもにも、誰一人として理解できる筈もないだろう。
――人を妬まぬ者は、運がいいだけだ。
己の存在理由すらも瞬時に根こそぎ叩き潰してしまうような存在に、人生で一度も出会ったことがないだけの幸運な人間に過ぎないのだ。
――出会った事がないだけだ、神々の寵愛を一身に受けた者に。
己の積み上げた全てを、影すら残さず焼き尽くしてしまう程に、鮮烈で強烈な太陽の如き存在に。
そう――今、自分の頸を容赦なく焼き尽くし、眼前で冷徹に佇んでいるこの女のように。
星光の炎が静かに揺らめき、破砕された畳と崩落した太い柱の破片が散乱する無限城の広間。
花柳麗は、目前で数百もの肉片と化した上弦の壱の頸を見下ろしながら、冷徹に思考を続け、その青白い双眸を僅かに細めた。
(一瞬、頸の中に新しい臓器が作られていた……あれが頸斬りを克服した証?)
一度、頸を綺麗に切断したのにも関わらず、上弦の壱は即座に出血を止めて身体の崩壊を強引に食い止めた。
そして同時にその時、麗は自身の『透き通る世界』の視界を通じて、彼の肉体の中に新たな臓器――それも異常な速度で脈動する『心臓』と『脳』が複数生み出された瞬間を完璧に捉えていた。
先ほど、上弦の壱の腕だけを意図的に斬り落としたのもそれが理由だ。
『心臓』と『脳』の繋がりが正しいのなら、それを狙って斬り刻んだ場合、再生する時間に違いが生まれるだろう。
もしもその『仮説』が正しいのなら、全ての鬼の元凶である鬼舞辻無惨と戦う際にも、その理論が確実に通じる筈だからだ。
そして、結果は正しかった。
先ほど、麗が上弦の壱の腕――その中に生成された『心臓』と『脳』を斬り刻んだ時、目に見えて止血する時間が遅れていた。
しかし――。
(報告によると、遊郭で倒された上弦の陸は兄妹同時に頸を斬らないと死なない絡繰りだった。でもこの鬼は違う……何度心臓と脳の繋がりを断っても、また新しく体内に臓器を生み出す……)
それは鬼という生物の終着点とも呼べる、あまりにも歪で理不尽な在り方であった。
頸を落とし、身体を細かく刻み、どれほど潰しても死なない。
命の理を歪め、死を意地でも受け入れないそれは、ただひたすら浅ましいとしか言えないだろう。
獣のように唸り、死を否定し、醜く変貌しようとも生きたいと願う。
そんな彼の在り方に、麗の胸中にはただ憐憫しか湧かなかった。
人を喰い重ね、人としての誇りも捨て去り、道理から完全に外れたその姿。
彼は一体、何を思って鬼に身を堕としたのだろう――。
「…………ふぅ」
麗は短く息を吐き出すと、再び日輪刀を静かに深く構える。
目前で蠢く、先ほどまではれっきとした『身体』であった上弦の壱、その異形を鋭い視線で睨み据えた。
頸が完全に消滅した瞬間、どろりと黒く溶けだしていったその『身体』は、まるで錆が落ちるかのようにぼとぼと、と肉片を地面に落とし、そしてそのひとつひとつから、不気味な泡立ちと共に細く鋭い触手のようなものが無数に生え伸びていく。
それらはまるで飢えた大蛇のように鎌首をもたげ、死角から麗に向けてじっと殺気の狙いを定めていた。
――シュァアアッ!!
空間を切り裂く空切音が爆ぜる。
肉片の群れから一斉に放たれる触手の猛烈な連撃。
しなる鞭のように大気を激しく打ち鳴らし、何十もの鋭利な触手が網目状に広がりながら、周りの強固な地面や巨大な木造の壁ごと一瞬で引き裂き、切り刻んでいく。
四方八方から容赦なく襲い掛かる死の境界線。
しかし、麗はその破壊の暴風雨の只中にあっても、まるで揺れる柳の葉のごとく軽やかに舞う。
身体を僅かに傾け、ミリ単位の無駄のない動きで重心を移動させるだけで、掠りもせずに全ての触手を完璧に避けていく。一筋の髪の毛すら、その刃に触れることはない。
(もう完全に人体の形すら捨てたのか……)
掠れば肉体の欠損が確定する程に鋭く、そして神速の領域に達した攻撃の網。
麗はその間隙を事もなげに潜り抜け、踏み込みと同時に刀を左右へと交互に、極限の速度で一閃させる。
「星の呼吸 壱ノ型
目前に鮮やかな八の字を刻む形で解き放たれる純白の斬撃。
空間を滑るように走った光の軌道が、迫り来る何十本もの触手を一瞬で綺麗に両断し、切断された肉片が宙を舞う。
そして、宙を舞うそれらを、麗は透き通る視界で刻一刻と観察しながら、沈着に考察を続ける。
(触手の中には心臓も脳もない……それなのにまだ生きている……? 何か見落としている攻略条件がある? いや、これは……)
触手を両断し、細かく斬り落とす度、上弦の壱の再生力は目に見えて弱まり、解き放たれる攻撃の速度も確実に落ちている。
最初に見せた『月の呼吸』と称した凄まじい斬撃の弾幕……あの『血鬼術』も使ってこない。――いや、使えない。
その現状を前に、麗はある仮説を立てた。
この『頸斬り』という弱点を克服した上弦の壱にも、不死を貫く為の細胞の限界は間違いなく存在するのではないか? そして、その終わりの時は確実に目前へと迫ってきているという仮説を。
(なら、話は簡単だ)
麗の双眸が冷徹な光を帯びて静かに輝く。
無数の肉片が床の上でどろりと蠢き、再生と崩壊の狭間で不気味なうねりを上げる中、彼女は無駄な迷いを一切断ち切った。
再生が追い付かない程に、再生するための細胞の力が足りなくなる程に、徹底的に斬り刻む。
二度と新しい脳も、新しき心臓も作れないようになるまで、そして触手の一本も生成できなくなる程に。
目の前にある肉片を全て、塵に至るまですり潰し、完全に斬り捨てる。
無駄な駆け引きなど不要。
たった一つの、どこまでも単純で確実な答え。それを、ただこの手で成すだけだ。
「星の呼吸」
麗が呟いたその瞬間、空間が微かに震える。
崩れかけた広間の天井、その漆黒の闇の裂け目から、再び頭上へと凄まじい勢いで振り下ろされる無数の音速の触手たち。
それは、空間を切り裂く破裂音を伴い、辺りにあるもの全てを叩き潰さんと猛威を振るう死の連撃であった。
もちろん、それらの攻撃は麗の身体能力と透き通った視界の前では、いかに無数であっても簡単に避けられる程度のものに過ぎない。
本来であれば、軽やかに舞い踊るようにその軌道から身を躱し、相手の死角へと入り込むことが最も効率的な選択だ。
しかし、麗はあえてその触手たちの猛攻を避けることをしなかった。
自ら足場をしっかりと固定し、その身をもって、迫り来る攻撃を真っ向から迎え撃つことに決める。
「漆ノ型
麗の身体から放たれた全集中の一撃が、一瞬にして周囲の大気を凍りつかせる。
まるで空間そのものを引っ掻き引き裂く龍の鉤爪の如き、凶悪で、かつ異常なまでに緻密な複数の斬撃の群れ。
麗は生み出したその幾重もの光の軌跡を、自らの前方へとまるで堅牢な盾のように真横へ幾重にも重ね合わせた。
ズシュゥアアアッ!! と、凄まじい衝突音。
赫い刃の纏う強烈な高熱と神速の太刀筋に穿たれた触手たちは、驚くべきことに、刀身に触れた瞬間からまるで激しい高熱に炙られた雪のように、ジリジリと音を立てながら蒸発したかのように破壊されていく。
耐え難い熱量と斬撃の余波に耐えかね、触手は黒い血煙と生臭い血潮を辺り一面に盛大に撒き散らしながら、たまらず後退を余儀なくされた。
切り飛ばされ、床に叩きつけられた触手たちは、これまで通りならば即座にうねりを取り戻し、すぐさま元通りに再生しようと蠢くはずだった。
しかし――その再生速度は、先ほどまでとは比較にならないほど、目に見えて遅くなっていた。
麗にとって、自身の『赫刀』は一度でもその身に受ければ、細胞の焼き焦げが内部から蓄積していく事実は、以前から数々の戦闘を通して分かっていた事ではある。
しかし、どうやらこの『赫刀』による特殊な斬撃がもたらす痛みはこちらの想像を絶する程に凄まじいらしく、肉体的な限界をとうに超えた上弦の壱の肉体ですら例外ではないらしい。
痛みに喘ぐようにうねり続ける触手たち。
もはや、そこにはかつての威圧感や恐怖を振りまいた『十二鬼月』の面影は微塵もない。
言葉を発するだけの声帯すらもすでに失い、ただ無数の肉片と化したその身体は、途方もない痛みと細胞の崩壊にもがき苦しむ痙攣の動きを、ただただ機械的に繰り返すばかりであった。
「……」
ただ、やはり。
「……嗚呼」
目の前の、もはや『生物』と形容することすらためらわれる姿。
原型を完全に失い、床一面に撒き散らされた肉片の塊。
どろどろとした黒血を撒き散らしながら、そこから生え出た無数の紫黒の触手を狂ったようにうねらせ、なおも床や柱を削り取りながら惨めに掻きむしり続ける転がる肉片。
そこにかつて、堕ちたとはいえ『剣士』であった面影すら微塵もない。
ただ生き残るためだけに醜悪に蠢く塊と化した、上弦の壱のその様子。
「なんて哀れな……」
麗はただ、冷たい静寂の中でそう呟くしかできなかった。
痣は寿命の前借りに過ぎず、全盛期はすぐ終わる。
呼吸を極め、身体の奥底から滾る熱量を刃へと乗せ、肌に憎き弟そっくりの痣を刻み込んだ日。
己が至高の領域へと一歩踏み出したのだという万能感は、やがて『二十五の歳を迎える前に死ぬ』という残酷な呪いとして自らの肉体を苛み始めた。
もっと鍛錬を重ねれば、縁壱に追い付けたのだろうか……そんな口惜しい思いを一蹴するが如く突き付けられた世の理。
所詮、神の寵愛を受けていない者はその域にすら届かず、無駄に命を消費するだけに過ぎないのだと知ってから、自分の中で何かが砕け、壊れた。
積み重ねた努力も、血の滲むような修練も、天意の前にはただの戯言に過ぎないのだ。
どれほど命を削ろうとも、凡夫は太陽の領域へと踏み入ることすら叶わない。ならば、人の身を捨ててでも、不老不死の理を得て幾百年もの時間をかければ――そう自分に言い聞かせて鬼へと身を堕とした。
だが、現実はどこまでも自分を嘲笑う。
痣の寿命を超え、天の理を超え、老いて衰えても尚、己が頸を斬りかける程の圧倒的な膂力を有する弟。
そしてそんな弟の実力を、全盛期から変わっていないと妄信していた惨めな兄の自分。
老衰し、皮と骨ばかりとなった八十の縁壱が見せたあの一閃。あれすらも全盛期の輝きなどではなく、己の浅はかな推量など遥かに凌駕する真の絶技であったのだと、今になって思い知らされる。
何時からだろう、ただ剣技の理を深め、鋭く極めるのではなく、無駄に『型』を増やすことに注力するようになったのは。
何時からだろう、もはや『型』という名の斬撃の射出を、不気味にうねる肉の刃から放つただの『血鬼術』を、誇らしくも呼吸と呼び続けるようになったのは。
あの赤い月夜からずっと、自分は刻一刻、縁壱に負け続けている。
あの夜からずっと、自分は惨めで醜いままだ。
(まだ、だ……)
視界は朧げだ。
あれだけ苦悩し、ようやく手に入れた『至高の領域』――透き通った視界はもはや、今はどこにも存在しない。
世界を形作る筋肉の収縮も、骨の軋みも、流れる血液の脈動すらも、何もない闇の向こうへと消え去っていた。
(まだ、私は……)
思考する以外の感覚がない。
手足の感覚も、肉が引き千切られる痛覚すらもすでに潰え、ただ滅びゆく肉片の中で、怨念の如き意識だけが微かに渦巻いている。
あれだけ固執し、憧れた『侍』の象徴である刀すら持っていない。
今の自分はただもがき、地上をのたうち回り、意味もなく触手を振るって喚いて暴れる赤子以下の存在。
――それでも。
(負けて、な……)
縁壱が、弟が死んだ以上、自分に誉ある死が訪れる事はないのだ。
最強の鬼狩りの手によって討たれる。そんなあり得た未来の影を永遠に追いかけ続ける呪いに縛られた以上、自分は勝ち続けねばならない。負けることは決して許されない。
縁壱に届く者など。
神の寵愛を受けた者など、二度とこの世に現れてたまるか。
そんなものを認めてしまえば――。
(そうだ、お前など……)
お前のような女は認めない、認めてなるものか。
神の寵愛、その再来――忌々しい女の姿を思い浮かべ、残された憎悪が激しく燃え上がる。
弟と同じ、一切の殺気も出さずに世界を見透かし、神速の領域で『赫刀』を振るう存在。
世の理を嘲笑い、踏みつけにする者など――
縁壱こそが、唯一無二の太陽だった。
金輪際現れない鬼狩りの最強であった筈なのだ。そんなものを、それに並ぶ者など、目の前にいる存在を認めるなど――。
――思考が止まる。
(今、なに、を……)
――今、自分は何を考えた?
ふと、思考の淵に冷たい疑惑が落ちる。
もはや肉片の再生すらままならなくなり、振り回していた触手の勢いもほとんどなくなった。
それなのに、今も自分は死んでいない、負けていないと豪語している。
何故、ここまでして――。
頸を落とされ、身体を潰され、それでもなお死を受け入れず、泥を啜るようにして負けを認めない今の自分は、間違いなく『生き恥』そのもの。
侍の誇りも何もかも、全てを捨て去った見苦しい怪物。
なのに、今も自分の身体は再生を続けようとしている。
みっともなく芽吹く肉の糸で崩壊を遅らせようとし、生への執着を撒き散らしている。
鬼殺隊で最も優れた剣士が死んだ、故に誉ある死は訪れない。――それなら、
縁壱の再来、神の寵愛を受けた者。
同じ条件、同じ強さ、それなのに何故、自分はこの女に負ける事を必死に拒否している――?
(な、ぜ……)
何故、自分は――。
『兄上の夢は、この国で一番強い侍になることですか?』
(もう、やめろ――)
暗闇から響く声。
その声を一時も忘れた事はない。
『俺も兄上のようになりたいです』
その言葉も、数百年経ってもずっと脳の奥底に深く、鋭く刻まれ続けている。
だから蓋をした、二度と思い出したくないから、それから目を逸らし続けた。
頼むから、やめろ――。
『俺は――』
頼むから、もう何も喋るな――。
『この国で二番目に強い侍になります』
(もうやめろ、私はお前が嫌いだ)
お前の顔を見ただけで吐き気がする。
お前の声を聞くだけで腹が立ち、顳顬が千切れそうなほどに軋む。
それなのに、それなのに何百年も生きていて、鬼となり数百の時を貪り尽くしてなお、最も鮮やかに記憶しているのは、この世で一番忘れたい弟の顔。
こうして溢れ出し、脳裏を焼き尽くす記憶は、あれだけ命を削って焦がれ、血を吐いて追い求めた神の如き剣技ではなく――日輪刀どころか木刀すら握っていない、ただの無垢な幼子だった頃のお前の姿。
父の顔も思い出せない。
母の顔も、思い出せない。
かつて妻とし、家族として暮らした女の顔も、己の血を引く子供たちの顔すら、もう何ひとつ思い出せないというのに。
――それなのに、お前だけが鮮明だ。
あの日。自分が弟に猛烈な嫉妬を抱いた日。
母が病に倒れ、死した後に読んだ日記。それは気味が悪いと、哀れだと見下していた弟がその実、ただ母の側身にまとわりついて甘えていたのではなく、半身が不自由となり病痛に苦しむ母の身体を、幼い身でありながら必死に支えていたのだと知った、あの絶望の瞬間からずっと。
(私は……)
母の体調の異変にすら気づくことができず、支えることすらできなかった自分は、どこまでいっても決して『高潔』な侍にはなれないのだと突きつけられた。
既に死んだ人間は助けられない。救えなかった過去は手遅れであり、やり直すことなど叶わない。
だからこそ、自分には『強さ』だけしかなかった。
ただひたすらに誰よりも強くあること、それしか歩むべき道が残されていなかったのだ。
故に、負ける訳にはいかないのだ。
これ以上、どれだけ惨めな生き恥を重ねようとも、無力なまま敗北して終わる事だけは絶対に認めない。
(刀……)
もはや身体の感覚はないに等しかった。
『腕』や『指』といった肉体の境界すらとっくに曖昧になり、溶け崩れる肉片の中でどこが自らの肉体なのかすら識別できない。
無限に続く暗闇の中、必死にもがいて身体の一部を、異形に変じた触手を必死に伸ばして、何か……『何か』を掴もうと足掻く。
(かた、な……)
『人間』を辞め、『侍』としての誇りをドブに捨てても尚、それでも。
鬼に堕ちてまで振るい続けた己の生存証明であり、唯一の生きる意味であった侍の魂である『刀』――それを必死に求める。
どんなに不格好でもいい。
どれだけ醜悪な肉と血の創造物であろうといい。
刀さえ、それさえもう一度手の中に握ることができたなら、自分はまだ抗える。
まだ折れずにいられる、もう一度立ち上がり、この理不尽な戦いを続ける事ができる――。
そして、暗闇の中で『それ』を掴む。
(月の、呼吸――)
同時に――時が止まる。
かつて誇った透き通った視界を完全に失い、ドス黒い暗黒で満ちた視界では、今己の触手が握りしめた『それ』の姿形は微塵も分からない。
だが、人の身体を完全に捨て、醜く悍ましい肉の怪物と化した今の鈍い触覚であっても、今握った『それ』がどのような形をしているのかは、痛いほどに分かった。
あの夜。赤い月夜の悪夢の果て、息絶えた老いた弟の遺体の足元で拾い上げたもの。
真ん中から二つに両断され、吹いてもただ外れた擦れ音しか鳴らない、がらくたの木製の笛。
かつて幼き日の自分が気まぐれに作り、弟に与え――そして彼がその命を全うし死ぬまで、片時も離さず懐に大切に仕舞い続けていた、あの出来損ないの笛。
それを、自分は大切に握っている。
(――――ぁ)
声にならない吐息が、崩壊していく肉片のどこからか漏れ出た。
――崩れていく。
己が執念のままに生み出した無数の触手たちが、床一面に散らばった醜悪な肉片の全てが、黒い灰へと変わりながら崩壊を加速させていく。
『赫刀』によって刻まれた細胞の灼熱はもはや消えることなく、内側から肉を、血を、そして幾百年かけて積み上げてきた存在そのものを焼き尽されていく。
もはや、崩壊は止まらない。
このまま、地獄へ落ちるのを待つだけだった。
(よ、りいち……)
『人間』である事を捨て。
もはや『鬼』である事すらも捨て、誇り高き『侍』である事も捨てたというのに。
ここまで足掻いても、類稀なる『才能』を前には意味がないというのか――。
(ここまでしても、駄目なのか……)
あれほど目障りで、憎く疎んでいた存在。
この世で最も嫌悪した弟――その絶対的な才能の再来を、神の寵愛を一身に受けた者を、どうしても認めたくないと醜くのたうち回りながら抗っていた事実。
あれだけ縁壱の力に、強さを羨み、死に狂うほどに欲していた自分がその実、命を投げ打ち、人としての尊厳を踏みにじってまで足掻いていたのは――神の寵愛を受けた、縁壱という男の『唯一性』を守る為に戦っていたという残酷な事実。
この数百年の意味を嘲笑う現実。
それが、滅びゆく魂への最後の駄目押しだった。
かつて、あの日の夜。
弟が死んでから、弟が使う『日の呼吸』の名と型を知る剣士たちも、『あの方』と共に徹底的に狩り尽くし、殺し尽くした筈だった。その痕跡すらも、歴史の暗闇へと葬り去った筈だった。
それなのに、今も尚『日の呼吸』とあの『耳飾り』は脈々と受け継がれて残っている。
そして何より。
(私には見えなかった、辿り着けなかった……)
『道を極めた者が行きつく場所は皆同じ』、そうお前は言っていたのに。
自分はそれを見れなかった、辿り着けなかった。
『日の呼吸』にすら属さない、新たな呼吸を打ち立てた一人の凄絶な女剣士――弟の再来という存在は、今、こうして完璧にお前の到達した世界へと届いているというのに――。
(縁壱……)
――お前は、唯一無二の太陽だった。
お前に憧れる者は皆、お前の放つ圧倒的な光と熱に焦がれて手を伸ばす。
そして己の無力さを思い知らされ、身を焼き、ただ惨めにもがき苦しみ、最終的には灰となって消し炭となっていくのだ。
炎柱もそうだった、当時の水も、風も、全ての剣士が同じ思いを味わった。
そして、自分もまたその例外ではなかった。
消し炭になるまで――皆が焦がれて手を伸ばし続けるしか道はない。
お前の言う通り、全ては『人の歴史のほんの一欠片』だった。
お前という才能も、長い時を前には『絶対』ではなくなる。
簡単に届く者が現れる、理は容易く歪められる。
嗚呼、ならせめて。
どう足掻いても届かないのなら、凡夫の足掻きは神童の戯れに勝てないと言うのなら。
こんな惨めな命なんて、人生なんて要らなかった――。
そうだ、ただ。
(私は、ただ――)
――縁壱、お前になりたかったのだ。
――ゴゴゴゴ……!
辺りの空間全体が、地鳴りのような重厚で凶悪な振動に激しく震え狂う。
上弦の壱が今際の際に繰り出した、死物狂いの広範囲への衝撃。それは麗の髪先一つにすら掠る事など微塵もなく、服にすら傷をつける事は叶わなかった。
しかし、彼女という絶対的な存在を除いた『それ以外のもの』は、決して無事ではいられなかった。
狂乱の中で暴虐の限りを尽くした肉の触手と、そこから幾重にも放たれた何百、何千というより細くうねる触手の斬撃。
それらの暴威に晒された広間の強固な地面、太い木造の壁、そして遥か高所に位置していた天井。ことごとくが絶え間ない斬撃の網によって容赦なく細かく細断され、表面にドス黒い傷痕を深々と刻み込まれていた。
「……不味いな」
ミシミシと悲鳴を上げる構造材と歪む梁、そして支えを失い崩落を始める巨大な支柱。
空間を構成していたすべてがボロボロの破片へと変貌し、怒涛の勢いで段々と、しかし確実に崩れていく。
――ガァンッ!
巨大な重量感を伴って、一塊の巨大な瓦礫が麗の真っ直ぐ頭上から一直線に落ちてくる。
「星の呼吸 弐ノ型
麗は手首の微細な動きのみで日輪刀を高速で回転させ、己の周囲と頭上を護るように、完璧な一周を描く円状の斬撃を上空へ滞留させる。
人外の領域へと到達した凄絶な身体能力と全集中の呼吸によって放たれたその鋭利極まる斬撃は、一瞬にして周囲の空気を切り裂いて真空状態を生み出すに留まらず、周囲の圧力を急激に変動させ、渦を巻く凄まじい突風を発生させた。
――ドォオオンッ!! と、発生した凄まじい風圧と衝撃波は、頭上から降り注いでいた無数の瓦礫や巨大な岩塊を、まるで羽毛のように一瞬で遥か彼方へと吹き飛ばし、綺麗に砕き散らした。
だが、この崩壊の始まりは、それだけに留まるものではなかった。
――ビシッ……! ビシシシシッ!!
不吉で鋭い亀裂の音が、麗の足元から一気に駆け巡る。
目視する間もなく、強固であったはずの足場の畳と木板全体に、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が縦横無尽に走り抜けていく。
次に大きく崩れ、底へと落ちていくのは天井ではなく、自身が今立っているこの『地面』であると瞬時に理解した麗は、すぐさま跳躍し、安全な柱や壁際へと退避するための行動に移ろうとする。
しかし一瞬――深く腰を落とし、足裏へと重心を乗せて踏み込んだ際の微細な感覚で、彼女はその即座の移動が不可能であると察した。
麗自身の超人的な身体能力と脚力が生み出す踏み込みの圧力に対し、既にズタズタに引き裂かれ、損壊していた地面ではそれに耐えきれず、跳躍の力を伝える前に脆く砕け去ってしまう。
「仕方ない……」
麗は無駄な抵抗となるであろう、移動による退避を即座に諦め、意図的に全身の力を抜き、そのまま足元から一気に崩壊していく地面の行く末を静かに見守る。
そして次の瞬間、足場が完全に消失したことで突如として訪れる、強烈な無重力と重量の感覚にその身を委ねた。
――ゴォオオッ……!!
再び始まる、果てなき落下。
重力を無視して上下左右に無数の建築物や部屋、回廊がどこまでも連なる、狂気の異空間『無限城』の中。
縦横無尽に変化する複雑極まりない城郭の隙間をまっさかさまに落ち続けながら、麗は風に藍鼠色の長髪をなびかせ、次なる着地の場所を探すべく、その澄み切った双眸の『視界』を四方八方へと鋭く張り巡らせる。
その研ぎ澄まされた彼女の意識からは、既に滅び去った上弦の壱の事は、完全に消え去っていた。
後方から途切れなく響き渡る、地鳴りのような巨大な崩壊の音。
無数の部屋や柱、木造の廊下が組み合わさった『無限城』の巨大な城郭が次々と崩れ落ち、そのままどこまでも無限に続く異空間の底へと激しく加速しながら落下の途についていく。そんな壊れゆく光景を後目に、時透有一郎はただ前だけを見つめ、全集中の呼吸を限界まで高めながら必死に走り続けていた。
「…………」
無言のまま、彼の視線は暗闇の彼方へと向けられている。
自分を逃がすために一人で上弦の壱の前に残った師――花柳麗。
彼女の異常なまでの強さは、日頃の稽古やこれまでの数々の過酷な戦いを通して、痛いほどによく理解している。自分などでは到底足元にも及ばない、剣士という存在の一つの到達点である事も。
彼女の秘めた底の知れない強さと、先ほど相対した上弦の壱が放っていた圧迫感に溢れるおぞましい鬼気。有一郎は頭の中でその二つの存在を比較し、その度に『師範なら絶対に勝つ』と彼女の勝利を確信していた。
しかし、その確信と同時に、胸の奥底には言いようのない複雑な感情が渦巻いてもいた。
『お前は……私が……継国家に残して来た子供の末裔……つまりは……私の子孫だ……』
上弦の壱、かつての名を『継国巌勝』だと告げた存在が静かに語ったその一言。
その衝撃的な事実が、有一郎の脳裏で未だに激しく燻り続けている。
あの男はかつて、剣士として、そして鬼殺隊として最高峰の高みに至りながら、それらの誉れも仲間も全てを自らの手で捨て去り、外道へと堕ちて歴史を裏切った。
鬼殺隊の歴史における、ただの忌むべき最大の罪人。……本来であればそれだけの存在であり、恨みや怒りを向けるべき相手である筈なのに、何故か有一郎の心には割り切れない奇妙な違和感が残っていた。
「…………」
自らの血脈、己の遠い祖先だと名乗ったあの男。
『十二鬼月』の頂点である『上弦の壱』という圧倒的な地位に君臨し、数百年の長きにわたって数え切れないほどの無垢な人間の命を弄び、奪い続けてきた。
その果てに――あの男は一体、何を得たというのだろうか?
人としての尊厳を、誇りを捨ててまで足掻き続けた先に、彼が手に入れたものなど本当にあったのだろうか。
有一郎は、自らの起源の一つでありながら――しかし、結局あの鬼の『名前』すらも最後まで分からないままだという事実を胸に。
ただ、背後の崩落から逃れるように、そして己の果たすべき役目を全うするために、未来へ向けて力強く歩み続けていくのだった。
(嗚呼、何も……何も手に入れる事ができなかった)
何百年もの長き時で、数え切れない程に人を喰らい、刀を振るうふりを続けるだけの『侍』ごっこを続ける意味も。
死を否定し、生にしがみつく為の意味すらも、理由すらも完全に無くしてしまった。
求め続けた極致の強さには未だ届かず、真に欲したあの高潔な精神は永遠に手に入らない。
そして、醜悪な化け物に成り下がった自分にできる最後の悪あがき――弟という『特別』の価値を守り抜くことすらも、何一つ叶わない――。
弟の再来に、自分という存在を焼きつける事も叶わない。
何もできない、何も得られず、何も残せず。
『黒死牟』という、堕ちた忌み名すらもあの女に刻めず、消えていく――。
(なぜ私は何も残せない、なぜ私は何者にもなれない)
――なぜ、私とお前はこれ程違う。
(私は一体、何の為に生まれてきたのだ)
虚無の闇が、意識の残片を呑み込んでいく。
(教えてくれ、縁壱……)
切断され、砕け散った笛の残骸と共に。
心の底から憎み、そして誰よりも強く焦がれ、強く焦がれ――。
上弦の壱・黒死牟、継国巌勝は一切の跡形もなく塵となり、『無限城』の深淵へと消えながら落ちていく。
「縁壱、お前になりたかったのだ」
兄上が抱く劣等感の正体は力の強弱ではなく精神性であると捉えた場合、この台詞がより味のあるものになるんですよね。
何故なら「縁壱ではない自分」を完全否定する、どれだけ力を得ても永遠に満たされない呪いそのものなんですから。
兄上について本気で語るにはこの後書きの余白は短すぎる……
あと最後に、刀を求めて藻掻く兄上が笛を手にする展開は一話を書いてた当初から決めてました。やっとお出しできて嬉しい。