青色の午後
放課後の屋上は、ほんのり冷たい風が吹いていた。
イーゼルを立てて、青い絵の具をパレットに落とす。春の空はまだ少し淡くて、白と青が混じるような色をしている。
私の名前は水城あお(みずしろ あお)。高校一年生、美術部所属。身長は154cmと平均より少し低くて、胸のあたりでゆれる校章の位置がいつも気になってしまう。
少しだけ、自分の背の低さがコンプレックスだ。
身長以外にも沢山のコンプレックスが私にはある。
でも、この時間だけはそんなことを忘れていられる。青を描いているときだけは。
「おおっ……開いてる」
ガチャリ、とドアが開く音に、筆を持つ手が小さく震えた。
「え、ちょっと……誰?」
声が思ったより高くなってしまって、焦る。
入ってきたのは黒髪で制服のネクタイをゆるくした男の子。背が高くて、私より頭ひとつ以上高い。
ぱっと見ただけだけでも180cm後半はありそう。
「わ、びっくりした。誰かいたんだ? なにしてるの?」
「えっと……絵、描いてるの。見ればわかるよね?」
「うん、めっちゃ青いね」
「だからね、邪魔しないでほしいな?」
「えー、だめ?」
人懐っこい笑顔で笑うその子の声が、風に混じって優しく響く。
「だめじゃないけど……だめ、かな」
「可愛いなあ、あははっ!」
「か、可愛くないよっ……!」
いきなり言われて、耳まで熱くなるのがわかった。
な、なんなのこの人⁉
いきなり初対面でか、可愛いとか!
「俺、隣のクラスの藤崎颯真(ふじさき そうま)。帰宅部なんだ」
「……水城あお。美術部」
「へー、あおちゃん、か。名前も青なんだね」
「……うるさい」
私が密かに気にしてることを私の気も知らないでやわらかく笑う彼を見上げると、首が痛くなるくらい目線が高くて、また自分の背の低さを思い出してしまう。
「何しに来たの?」
「空を見に来たんだ」
「……ふっ、なにそれ、ボケなの?」
「え、違うの?」
「知らないよ!」
頬を膨らませて言うと、颯真くんはまた笑った。私の描いていた青い空の絵を覗き込んでくる。
「これ、今日の空?」
「うん。今の、この時間の青が描きたかったの」
「へー、すごいなぁ」
「そんな大げさなことじゃないよ」
「いや、すごいよ。青ってさ、なんか落ち着くよな」
「……そうかも」
そよぐ風が私の髪を揺らして、絵の具の匂いと一緒に春の匂いが混じった。
颯真くんが笑顔で空を見上げる。その横顔は、青空よりも澄んで見えた。
「また描くの?」
「……明日も、来るつもり」
「じゃあ、俺も来よっかな」
「え? 来なくていいよ?」
え? 来るの?
「なんで?」
「だって……邪魔だもん」
「ひどくない?」
「冗談だよ」
「ふふ、俺、あおちゃんの描く青、もっと見たいな」
思わず心臓がどくん、と鳴った。
私の描く青を見たいと言ってくれた人なんて、今までいなかった。
「……変なこと言わないでよ」
「変かな?」
「変じゃないけど……変だよ」
「どっち?」
「……どっちでもいいの」
私はそっぽを向いて、また筆を取った。
だけど、さっきまでより青がきれいに見えてしまうのが悔しかった。
◆
次の日も、その次の日も、私は屋上で青を描いた。
筆を運ぶと、風が髪を揺らして冷たくて気持ちいい。屋上の風は好きだ。空に近い気がするし、青を描くときにしか吸えない空気がある。
「おー、今日もいるじゃん」
その声に筆が少し揺れた。
「……また来たの?」
「うん、空を見に」
「ほんとに空を見に来てるだけなの?」
「あと、あおちゃんを見に」
「……やめてよ、そういうの」
「なんで?」
「意味わかんないし……」
ふわりと笑う颯真くんの笑顔が、空より眩しくて目をそらした。
昨日と同じように、私の隣に立つ颯真くんは、やっぱり背が高くて、影が私の影よりずっと大きかった。
――なんでそんなに背が高いの?
なんでそんなに、笑顔が自然なの?
「今日はどんな青?」
「え?」
「空、昨日より青い気がする」
「……そうかな?」
「だって昨日よりいいことあったし」
「いいこと?」
「うん、こうしてあおちゃんに会えたし」
「……ふふっ」
「え、笑った?」
「笑ってないよ」
「笑ったでしょ」
「笑ってないって」
筆を持つ手が少しだけ震える。
颯真くんの言葉はいつも急に距離が近くて、困る。
「なんか、あおちゃんって、ツッコミ優しいよね」
「……なにそれ」
「ツッコミもふわふわしてる」
「ふわふわしてないし」
「ほら、今のも」
「……もう」
小さくため息をついて、私は空を見上げた。
澄んだ青が広がっている。私の描く青よりももっと透き通っていて、だけど、いつか私もこんな青を描けるようになりたいと思った。
「ねえ、あおちゃん」
「なに?」
「俺さ、背高いじゃん?」
「……知ってる」
「見たい景色とか、見せてあげられるかもなって思った」
「……」
またそういうことを言う。
ずるい。
「私だって、自分で見えるし」
「そっか。でも、見えないときは言ってよ」
「……言わない」
「えー、言ってよ」
「言わない」
「言ってくれるまで通うから」
「えっ、通うって……」
「屋上、毎日来るよ」
「……颯真くんって、ほんとに変」
「変じゃないよ、普通」
「それが変なの」
私よりずっと高い位置から笑う颯真くんを見上げると、胸の奥がぎゅっと鳴った。
私が描く青色の絵の中に、颯真くんの影が少しずつ混ざっていく。
筆先が空をなぞるたびに、私の心が青色に染まっていく。
そんなの、ずるい。
でも――
少しだけ、うれしかった。
◆
放課後のチャイムが鳴ったと同時に、窓の外に雨粒が打ちつけ始めた。
――今日は描けないかも。
そう思ったのに、気づいたら絵の道具を抱えて屋上への階段を上っていた。
雨の匂いが好きだった。アスファルトが濡れて、空気の色が深くなる匂い。晴れの日の青よりも、少しだけ暗くて静かな青が見られる気がしたから。
ドアを押すと、屋上のコンクリートは雨に濡れて、灰色になっていた。空は青と灰色が混じった色で、重たくて落ちてきそうだった。
「描けるかな……」
自分でも小さな声で笑ってしまった。キャンバスを濡らさないように庇の下で準備をして、筆を取る。
雨の日の空の青が描きたくてたまらなかった。
「おー……雨、強いな」
「わっ」
急に声がして、筆先が跳ねてしまった。
「もう、颯真くん……びっくりするから」
「ごめんごめん。今日もいるかなって思って」
振り返ると、髪に小さな雨粒をつけた颯真くんが立っていた。
制服の肩が少し濡れている。いつものようにゆるんだネクタイ、私より頭一つ以上高いその背。私を見下ろす目が、どこか楽しそうに笑っている。
「何しに来たの?」
「青色を見に来た」
「……ほんと好きだね、それ」
「だって、あおちゃんがいるから」
「……」
「なんで黙るの?」
「なんでもないよ……」
雨が強くなってきて、コツコツと屋上の床を叩く音が大きくなった。
「今日、傘持ってきてないんだよなー」
「え、ばかじゃないの?」
「ばかかも」
「帰れなくなるでしょ」
「じゃあ、あおちゃん、送って」
「……は?」
颯真くんはにやっと笑った。
「傘、持ってるでしょ?」
「……持ってるけど」
「じゃあ駅まで一緒に帰ろ」
「えぇ……」
「だめ?」
困ったような笑顔で言われると、断れなくなる。
私よりずっと背が高くて、いつも無邪気で、ばかみたいなことばかり言うくせに、時々こんな風にちゃんと目を見てくるから、ずるい。
「……わかったよ」
「やった」
「その代わり、ちゃんと私のペースで歩いてよね」
「うん」
私たちは屋上から正面玄関へと降りる。
下駄箱近くの傘立てから傘を取り出すと、すぐに開いた。
雨が傘を叩く音が近い。
颯真くんが私の隣に立つと、傘の下に入るのに少しかがんだ。
「意外とせまくないね」
「……私がちっちゃいからでしょ」
「いや、あおちゃんがちっちゃいのは可愛いから」
「……っ、言わないでよ、そういうの」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「ふふ」
颯真くんの笑い声が近くて、くすぐったい。
私の傘は小さい。颯真くんの肩が少し濡れていくのが見えて、私の心臓がどくどく鳴る。
「……もう少し近づきなよ、濡れるよ」
「いいの?」
「よくないけど、いいの」
「よくわかんないけど、いいね」
「そういうとこだよ」
「なにが?」
「ばか」
「えー」
頬が熱くなるのを感じながら、私は傘を少しだけ傾けて颯真くんに近づいた。
雨音と青の匂いが混じる中、颯真くんの笑顔が視界の隅で揺れる。
私の描く青色は、雨の日の匂いが似合う青だと思った。
でも、颯真くんといると、雨の日の青も少しだけ暖かく見える。
◆
「はい、これ運んで」
「おっけー!」
美術室の窓から青空が見える。
春祭展示の準備で、美術部は今日も慌ただしかった。先輩たちは大きなキャンバスを運び出し、作品の並び順を相談している。
私は自分の作品――あの屋上で描き続けてきた青の空の絵を前に立っていた。
他の人に見せるのは、やっぱり恥ずかしい。
「おー、あおちゃんの絵、ついに出るんだ」
「わっ、颯真くん……もう、勝手に入ってこないでよ」
「呼ばれたから来たんだけど?」
「呼んでないよ?」
「あおちゃんの先輩に呼ばれたんだよ、『暇なら力仕事頼む』って。うちらが仲良いこと知ってたみたい」
「……そうなんだ」
颯真くんは、ひょいと絵を覗き込んだ。
「やっぱ青だね」
「そうだけど……」
「いいな、これ」
「簡単に言わないでよ」
「簡単じゃないよ?」
颯真くんはそう言って、またいつもの笑顔を見せた。
軽くて、柔らかくて、でもなんだかまっすぐで。
「展示、どこに置くの?」
「ここ、窓際……光が当たると色が飛ぶかもしれないけど」
「飛んだらまた描けばいいじゃん」
「簡単に言うけど……」
「だって、また描けるでしょ? あおちゃんの青」
「……」
私の胸の奥が、静かに暖かくなる。
「ね、運ぶの手伝うよ」
「え? いいよ、重いよ?」
「だいじょーぶ」
颯真くんは私の背より大きなキャンバスを軽々と持ち上げた。
「わ、すご……」
「背が高いとこういうとき便利だね」
「……ずるいなあ」
「ん?」
「なんでもない」
私は横に立って、持ち上げたキャンバスの端を支える。
颯真くんと私の肩が触れた。ちょっとびっくりして視線を向けると、颯真くんは気づいていないのか、空いた窓から空を見ながら笑っていた。
「明日、晴れるといいな」
「なんで?」
「あおちゃんの絵、青空と一緒に見たいから」
「……」
ずるい。
またそういうことを言う。
「でも、晴れてる青もいいけど……」
「けど?」
「雨の日の青も、すきだよ」
「……ふふ」
「なに笑ってるの?」
「颯真くん、ほんと天然だよね」
「え、俺なんか変なこと言った?」
「わかんない。でも、いいと思う」
私たちは展示する場所までキャンバスを運び終わると、その場に座り込んで青い空を見上げた。
少しだけ汗をかいて、春が終わった新緑の風が心地よかった。
「展示、がんばってね」
「うん」
「俺、ぜったい見に来るから」
「……来なくてもいいよ?」
「来るよ」
「……そ」
胸の奥で、小さな青い光がまた一つ灯った。
きっと私は、颯真くんと出会ってから、青色の意味が少しずつ変わってきている。
◆
学園祭当日の朝は、空がとても青かった。
雲ひとつない晴天で、朝から生徒たちの笑い声が校庭に響いていた。教室前の廊下には焼きそばの匂いや甘いクレープの香りが混じって、いつもの学校が知らない場所みたいに賑やかだった。
私の心臓はずっとドキドキしていた。
「水城! 準備オッケー?」
「はい、先輩」
美術室の中は展示用に整えられたキャンバスたちが並び、色とりどりの作品が並ぶ中、私の青の空の絵も、その端に置かれていた。
颯真くんが『空と一緒に見たい』と言ってくれたから、窓際に置くことを決めた。光が当たると青が少し飛ぶけど、それでもいいと思った。
だって今日の空は、私がずっと描きたかった青色だったから。
「おー! いたいた」
声がして振り返ると、颯真くんが制服の袖をまくって走ってきた。
「はぁ、はぁ……迷った」
「……なんで迷うのよ」
「美術室、何階か忘れた」
「ばかじゃないの……」
「えーひどいなあ」
笑いながら、颯真くんは私の絵の前で立ち止まった。
「これだよね?」
「……うん」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
颯真くんはじっと絵を見つめていた。
今日はいつものように「青だね」なんて軽く言わなくて、目を細めて、本当に空を見るように。
「すごいな……」
「……なにが」
「空がここにあるみたいだ」
「……」
「昨日の空も、一昨日の空も、あおちゃんが見てきた空が、ここにある気がする」
「颯真くん……」
「この青、俺、好きだな」
心臓が、どくん、と跳ねた。
「そ、そう……」
「うん。あおちゃんが描く青って、あったかいんだね」
「……」
「空って、さみしい色だと思ってたけど」
「うん……」
「でも、この青はさみしくない」
「……」
涙が出そうになって、慌てて瞬きをした。
「……颯真くん」
「ん?」
「ありがと」
「え?」
「その……来てくれて」
「あー、うん! 来るって言ったしね!」
「うん……」
颯真くんが笑った。
あの笑顔を見た瞬間、私の中で何かが変わった気がした。
この人の言葉で、私の青は変わっていく。
私が描く青は、きっと颯真くんが見てくれるから、これからももっと変わっていく。
そう思ったら、胸の奥があったかくて、苦しくなった。
――あ、これ、恋だ。
私はやっと気づいた。
颯真くんの笑顔と、私の青が重なるこの瞬間が、恋だってことに。
「ね、あおちゃん」
「な、なに……?」
「この後さ、一緒に回ろう?」
「え……」
「クレープとか、たこ焼きとか、食べたい」
「……ふふっ」
「なんで笑うの?」
「ううん、なんでもないよ」
学園祭の喧騒の中で、颯真くんと私だけが小さな青の空の下にいるようだった。
私が描いた青の空の前で笑う颯真くんを見ながら、私はそっと心の中で決めた。
――この青は、あなたに見てほしい。
これから先もずっと、私の描く青は、あなたに見せたい。
◆
学園祭が終わった放課後、校舎の廊下は夢から醒めたみたいに静かだった。
あのあと颯真くんと一緒にクレープを食べて、ゲーム研究会の展示で遊んで、たこ焼きで舌をやけどして笑いあった。
いつもよりたくさん話したのに、文化祭の最後、別れ際に口から出かけた言葉が押し込められて、ずっと喉の奥に引っかかっていた。
「好き」って言いたかった。
でも言えなかった。
言ったら、今のこの距離が変わってしまう気がして、怖くて。
だから私は、彼と別れたあと屋上に来ていた。
この空の青の下でなら、誰もいないここでなら、口に出せる気がしたから。
そんなことを思っていると、ガチャ、と扉の音がして、振り返ると颯真くんが息を切らして立っていた。
「はぁ……はぁ……あおちゃん、いた……」
「なんで……来たの?」
「いるって思った」
「……バレてたんだ」
「だって、ここ、あおちゃんの場所でしょ?」
「……」
私の場所。私の青色を描くための場所。
颯真くんは私の隣まで歩いてきて、いつものように笑う。
「今日の空、すごく青かったよね」
「……うん」
「俺さ、あおちゃんの青が好きなんだ」
「……」
「絵の中の青も好きだし、あおちゃんが空見て笑うのも好き」
「颯真くん……」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
風が吹き抜けて、私のスカートを揺らす。
「俺、あおちゃんが好きなんだ」
その言葉が、空に透き通っていった。
頭が真っ白になって、でも胸の奥だけが青く光った。
「……っ、私も……!」
声が震えてしまう。
「私も……好き、だよ……!」
言えた。
ずっと言えなかった言葉が、やっと私の口から零れ落ちた。
颯真くんが少し目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「……そっか」
そして、私の頭にぽんと手を置く。
「ありがと、あおちゃん」
「……私、背が低くて、颯真くん見上げるの大変なんだけど」
「うん、知ってる」
「でも、今だけは……そのままでいい」
「うん」
私よりずっと高い場所から、私だけを見てくれる颯真くんの目が、青空みたいに澄んでいた。
私がずっと描いてきた青は、ずっと寂しかった。
でも、これからの青は違う。
颯真くんと笑った青、泣いた青、怒った青、隣で過ごした青。
全部が私だけの青になる。
颯真くんの笑顔が眩しくて、空を見上げると涙が零れた。
「泣いてる?」
「泣いてない……」
「泣いてるよ」
「泣いてないって……」
笑いながら泣く私の肩に、そっと颯真くんの手が重なった。
その手のぬくもりが、空の青よりずっとあたたかかった。
◆
次の日も、私は屋上で青を描いた。
「おはよ、あおちゃん」
「おはよ、颯真くん」
いつものように笑い合って、でももう「好き」は伝えてある。
それだけで、私の描く青は昨日までより少しだけ優しい青になった。
私より頭ひとつ高い颯真くんが隣にいる。
私の描く青色の中に、颯真くんの笑顔がある。
これからの私の絵は、きっとこの青空みたいに澄んでいく。
私が好きな青色は、これからもずっと変わらない。
だけど、その青がこんなにあたたかくなるなんて、あの日屋上で出会ったときの私には想像もできなかった。
風が吹く。
空を見上げると、あの日と同じ青がそこにあった。
私と颯真くんの青色はきっと、これからも続いていく