はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
アメリカンドリーム
私が初めて彼と出会ったのは、私のボクサーであるブライアン・ホークが、リングで血だるまになって倒れている瞬間だった。
目に飛び込んできたのは、信じがたい三連閃。
オーソドックススタイルから放たれる右ストレート。人中に突き刺さるような一撃が、相手の意識を揺さぶる。
すかさず軸足を切り替え、距離を詰めるサウスポースタイルへ。連動する足の動きに呼応して左フックが伸び、揺れたテンプルを追撃する。
さらに一歩詰めて、間合いをつかんだ右のショートアッパー。顎を捉えるその一撃は、猛獣が獲物を仕留める瞬間のように、凄まじい衝撃を残した。
人中、テンプル、そして顎。
人間の急所を寸分の狂いなく撃ち抜く三連撃。
ホークの脳は容赦なく揺さぶられ、視界の奥に稲妻が走る。
反射も、根性も、そこには通用しない。
肉体が、全ての命令を拒絶した。
ドサリ、とホークの肉体がマットを震わせる鈍い音が、会場を静寂で包んだ。
練習生たちの息が詰まり、次いで歓声とも悲鳴ともつかない声が湧き上がる。
フローイング、スイッチ、アンド――フェイスブレイカー・スリー。
呼吸をするように放たれたあの連撃は、もはや技術の枠を超えていた。
無駄を削ぎ落とした、純度100%の選択肢。
破壊であり、同時に芸術だった。
私は悟った。
この男は、ホークとは別の意味で世界を獲れる。
そう確信せざるを得なかった。
「……神よ」
久しく口にすることのなかった言葉が、胸の奥で震えた。
この瞬間に立ち会えたことに、私は感謝する。
しかし、皮肉な話だ。
彼はプロボクサーにはならない。
どれほどの実力を持っていようと、その未来は閉ざされている。
なぜか?
今になってみれば、答えは残酷なほど単純だ。
彼の野望は、リングの外にあったのだから。
「ホォオオーーーク!!今までの全てを思い出せぇええーー!!」
世界王者を決める決戦の舞台。
耳をつんざく咆哮が、私を過去から現実に引き戻した。
その声の主、獅子御 誠司。
この男との出会いこそ、私が神への感謝を思い出した理由だ。
あの日、ニューヨークの片隅でホークを拾い上げたときでさえ、私はここまでの奇跡を想像していなかった。
だが今、目の前でその奇跡が試されている。
鷹村の剛腕を浴び、マットに沈んだホークが、ゆっくりと上体を起こす。血の気を失った顔は蒼白、呼吸は荒く、足取りはもはや綱渡りのように危うい。
それでも、その瞳は違った。
諦めを拒み、なお燃える炎がそこにあった。
リングでしか生きられない男の、最後の矜持。
その炎が、消えることはない。
たとえ、この戦いが彼にとって最期の夜になろうとも。
……もし、獅子御と出会わなければ、ホークはこの高みに辿り着くことはなかっただろう。
そして今、その背に私は、かつてのラルフ・アンダーソン軍曹の影を見ていた。
誇りを取り戻し、一流のボクサーに還ろうとした男――。
戦争が奪い、堕ちた魂を、リングが救ったあの夜。アンダーソン軍曹。彼の瞳にも同じ炎が宿っていた。誇りを取り戻した者にしか宿らない、純粋な光。
その輝きは、ホークの目に重なる。
セコンドでリングを叩きながら、獅子御は声を張り上げる。
その姿は、奇妙な矛盾を孕んでいた。
なぜならホークの敵は、彼が世界に導こうとやまない男、鷹村 守なのだ。
それでも彼は叫ぶ。
勝敗の向こうにある何かを信じるように。
彼の声には、計算も策略もない。
ただ、ホークを奮い立たせるためだけの純度があった。
……不思議な男だ。
どれほどリングを知り尽くした私でさえ、その答えを見つけられない。
獅子御という男は、いったい何を見ているのか。
そして、彼が信じる「世界」とは何なのか。
ホークの相手は、他ならぬ彼が世界に導こうと願ってやまない、鷹村 守だというのに。
その矛盾に、私はいまだ答えを見つけられない。
「君は、相手が親友だからといって、手を抜くような真似はするかね?」
試合前、控室で私がそう問うた時のことを思い出す。彼は短く息を吐き、真っ直ぐな瞳を私に向けて言った。
「ここで寝返るのは、俺の道じゃありませんよ。……きっと、守くんもそう言います」
その声に、曇りは一片もなかった。
まるで、彼にとってこの戦いは友情の証明であり、同時に矜持の選択なのだと語っているかのようだった。
ホークは間違いなく強大な壁だ。
生まれながらに王者であることを約束されたかのような、圧倒的ポテンシャル。
だが、その天性に加え、獅子御が手ずから植え付けたバックボーンがある今、私は敗北という二文字を一度たりとも想像したことがなかった。
そう、この試合のゴングが鳴る、その瞬間までは。
……現実は、残酷で、美しい。
鷹村 守は、私たちのブライアン・ホークを追い詰めている。
緻密さと爆発力を兼ね備えたコンビネーション。
足運びひとつ、肩の沈みひとつに、何百、何千時間の修練が刻まれている。
ジャブが矢のように突き刺さり、フックが稲妻のように走る。
その一撃一撃に、ホークがわずかに遅れ始める。
私の胸が、熱を帯びるのを止められなかった。
この光景は、敗北の予兆であると同時に、積み上げてきた者だけが見せる真実だったからだ。
「ブライアン!ボクシングは、積み上げてきた者が勝つ!積み上げたものを全部出し切れぇえ!!」
セコンドから響く獅子御の声は、もはや怒号ではない。
祈りだ。
彼の魂の叫びだ。
ホークは矢のように放たれるジャブをかいくぐり、反射でカウンターを返す。
打ち抜く拳の一撃に、命を削る音がする。
リング中央で繰り広げられる攻防は、もはや人の域を超えていた。
何を犠牲にして、この瞬間に辿り着いたのか。
その重みを知る者だけが、今、この場所に立っている。
私は、ただ見つめることしかできない。
だが、それでいい。
彼に出会えてよかった。
そして、なによりも――。
彼が導いたボクサーたちの戦いに立ち会えたこと。
それが、私というトレーナーの人生に意味を与えてくれたのだと、今、心から思う。