スラバ要塞の戦いは熾烈を極めた。
海と岩壁に守られた半島の要塞は中東連合側に残された最後の大規模抵抗拠点だった。ここを落とせば、長く続いた戦争もようやく終わりへ向かう。
その戦場でライナーの記憶に強く焼きついたのは、鎧の巨人の肩口を中東連合の対巨人砲弾が貫いた瞬間だった。
硬質化した装甲が砕け、衝撃が肉の奥まで届く。『鎧』の身体でなければ、腕ごと吹き飛ばされていてもおかしくなかった。ライナーは崩れかけた姿勢を無理やり立て直し、砲煙の向こうで次弾装填に入る敵兵達を見据えた。
痛みはあった。けれどそれ以上に重くのしかかったのは、鎧の巨人が通常兵器に正面から貫かれたという事実だった。
人類が巨人の力を超える時代はもう目と鼻の先だった。
各国は巨人に怯えていただけではなかった。巨人を倒すために兵器の開発に力を入れ、その積み重ねがとうとう『九つの巨人』にまで届いた。このまま軍事技術が進めば、いずれ巨人は切り札ではなくなる。
(いや……だからこそ、この戦争には勝たなければならない……!)
まだ終わっていない。巨人の力は今も戦争を支配している。そう世界へ見せつけていられるうちに軍備を再編しなければ、今まで力で押さえつけてきた国々は一斉に牙を剥くだろう。
ライナーは鎧を砕かれながらも前へ進み、砲兵陣地を沈黙させた。直後、頭上を影が渡った。雲間を裂いて、マーレの航空戦力が湾の上空へ差しかかる。対空砲を失った要塞にもはやそれを阻む術はなかった。
海の方角で、天と海を繋ぐ雷が落ちた。
閃光。数拍遅れて腹の底を殴るような爆風が届く。湾内に展開していた連合艦隊は、超大型巨人の出現ひとつで火柱と高波に呑まれて消えた。
海からの艦砲と補給を断たれた要塞はそこからは早かった。外郭が破られ、制圧部隊が内部へ雪崩れ込み、司令部の地図に残っていた最後の印が消される。
こうしてスラバ要塞は陥落した。
勝利を告げる兵士達の声があちこちで上がり、天幕の外には戦闘直後の興奮と安堵が入り混じった空気が漂っていた。ようやく終わりが見えてきた。ライナーはそう思おうとした。
島から帰って四年になる。母とはろくに顔を合わせられていないが、この戦争が終わればレベリオに戻れる。そう考えたところで、ライナーの思考は自然と次の戦士候補生達へ向かった。
ガビやファルコ達は、相変わらずマガト隊長にしごかれているのだろう。ガビは誰よりも前へ出ようとし、ファルコはその背中を追いながら危なっかしそうに顔をしかめているに違いない。ウドやゾフィアも含め、あの子供達は今まさに次の継承者として選別される立場にいる。
そろそろ継承権の見極めが始まる頃だろう。
ガビ達もまた、家族のため、マーレのため、世界のためと教え込まれながらこの道を進んでいく。『名誉マーレ人』という称号に目を輝かせ、戦士に選ばれることを誇りだと信じて、自分と同じ場所へ足を踏み入れようとしている。
もし、その先にあるものを最初から知っていたら。全く無意味な仮定だ。それでも考えてしまう。
自分はそれでも戦士を目指しただろうか。
フェリスは、それでも自由のために手を伸ばしただろうか。
収容区の薄暗い路地で、不自由でも生きていた方がまだましだったのではないか――ライナーは奥歯を噛み締めて思考を打ち切った。考えたところで、答えなど出ないのだから。
「おーい、英雄さーん。ご家族から手紙届いてたよー」
気だるい声に顔を上げると、ピークが天幕の入口に立っていた。片手に書類の束を、もう片方の手に一通の手紙を持っている。
「英雄様がそんな辛気臭い顔しないの。せっかく勝ったんだからさ。ご家族からの手紙でも読んで、少しは元気出しなって」
ライナーは少し戸惑いながら手紙を受け取った。
戦地に手紙が届くこと自体は珍しくない。始祖を奪還した英雄への称賛や激励ならいくらでも届くし、顔も知らない相手からの感謝の言葉や御守りが同封された便りなど、処理に困るほど送られてくる。
それに比べれば、母からの手紙は驚くほど少ない。
「珍しいね。お母さん?」
「ああ……たぶん、そうだ」
差出人には見慣れた母の名があった。ライナーは封を切り、便箋を広げる。最初の数行には身体を気遣う言葉と、新聞で活躍を見たという近況が綴られていた。
その先で、文章の調子が変わった。
ライナーの視線が一行の上で止まる。意味がすぐには頭に入ってこなかった。読み返しても、そこに書かれた文字は変わらない。便箋を持つ指先に知らず力が入った。
「ライナー?」
近くのピークの声がどこか遠く聞こえた。
「撃たれた……」
「え?」
「ガビとファルコが……」
ピークの顔から血の気が引いた。彼女はひったくるように手紙を取り、件の一行に目をやる。
ガビとファルコが訓練帰りに何者かの銃撃を受けたこと。二人は現在入院していること。詳しい経緯はまだ分からず、軍や治安当局が調査していること。
便箋には確かにそう書かれていた。
手紙の日付は、スラバ要塞攻略が始まる数日前のものだった。攻略の準備に入って以来、前線への軍便はひどく滞っている。命令や報告が優先され、私信の類は補給物資と共に後回しにされるからだ。
つまりこの報せから、すでに十日以上が経っている。今この瞬間二人がどうなっているのかは分からない。
ピークは何か言いかけたが、すぐには言葉にならなかった。ライナーもまた、便箋から目を離せずにいた。
天幕の外では、勝利を告げる兵士達の声がまだ響いている。だがその声は、厚い壁を隔てたようにライナーの耳に届いた。
◇◇◇◇
レベリオへ戻ってからも、砲火で削られた感触は身体の奥に残っていた。だが今のライナーにはそれを気にかける余裕すらなかった。
帰還した彼が真っ先に向かったのは、軍直属の病院だった。本来なら帰還直後に軍高官との会議が控えていたが、マガトが短く「行ってこい」とだけ告げたので、礼もそこそこに本部を後にした。
白い廊下を歩く間、手紙の文面が何度も頭に浮かんだ。
ガビとファルコが何者かに銃撃された。
命は取り留めたと書かれていた。それでも実際にこの目で見るまでは安心できない。胸の奥に嫌な重みを抱えたまま病室の扉を開けると、真っ先に飛び込んできたのは、寝台の上から身を乗り出すガビの声だった。
「ライナー!スラバ要塞、落としたんでしょ!ラジオで聞いたよ!」
「病院では静かにしろって言ってるだろ、ガビ!」
隣の寝台でファルコが慌てて彼女を窘めていた。
ガビは寝巻きの上からでも分かるほど、脇腹に厚く包帯を巻かれていた。ファルコも左腕に包帯を巻いているが、二人の顔色は思っていたよりずっと良かった。
ライナーはしばらく言葉を失った。
「……母さんの手紙には、もっと酷い怪我みたいに書かれていたんだが」
「カリナおばさんも大袈裟なんだよ。私なんてもう退院するって言ってるのに、医者がまだ駄目だってうるさくてさ」
「撃たれたんだから当たり前だろ」とファルコが言うと、ガビは「はぁ?」と威圧した。
「大した怪我じゃないし。ファルコだってちょっと掠っただけじゃん!」
「掠っただけって言い方やめろよ!普通に痛かったんだからな!」
二人のやり取りを聞いて、ようやく肩の力が抜けるのを感じた。
生きている。くだらない言い合いができる程度には元気でいる。その事実だけで、胸の中に詰まっていたものがほどけていった。
「無事でよかったな」
「子供扱いしないでよね」
頭を撫でられ、ガビは不満そうに眉を吊り上げたが、手を払いのけることはしなかった。続けてファルコの頭にも手を置くと、照れくさそうに目を伏せた。
「で、何があったんだ?手紙じゃ詳しいことは分からなかったぞ」
「えー、そんなことよりさー。戦争の話聞きたいんだけどー」
「順番だ。先にお前達の話を聞かせろ。戦争の話は、その後で好きなだけしてやる」
ライナーがそう言うと、ガビは不貞腐れたように語り始めた。
「収容区の外で変な連中に絡まれたんだよ!こっちは何もしてないってのに、私達を見てニヤニヤしてさ。『こいつらが例のガキ共か……』とか意味わかんないことぶつぶつ言っててね。急に襲い掛かってきたから、返り討ちにしてやったの」
「お前、銃を持った奴らに立ち向かったのか……」
「あ、違う違う。最初は向こうも素手だったよ。でもま素手の勝負なら、私が負けるわけないでしょ?向こうから殴りかかってきたんだから、私がやり返しても文句は言えないだろうし、気兼ねなくやっちゃった」
でも、とガビは声を一段潜める。
「そしたらあいつら、急に銃を抜いてきたのよ」
ライナーの表情が硬くなる。ガビはその反応にも気付かない様子で、ますます勢いを増した。
「撃たれて、ファルコと路地裏に逃げ込んだんだけど、あいつら追ってきてさ。こっちは突き当たりで、もう駄目かと思った時に助けてくれた人達がいたんだ」
「助けてくれた人?」
「うん。すごかったよ。本当に、上から降ってきたみたいにいつの間にかいてさ。襲ってきた奴らが銃を向ける前に飛び込んで、あっという間に倒しちゃったんだよ!」
興奮気味に語るガビ。そこへファルコが補足する。
「それで僕達を襲ってきた奴らは逃げていきました。助けてくれた人達に『追手が戻る前に病院へ行け』と言われて僕達が走り出したときには、その方々も居なくなっていて……」
「犯人は捕まったのか?」
ライナーが尋ねると、ガビの顔から得意げな色が消えた。
「全然。治安当局は探してるって言ってるけど、どうせ本気じゃないよ。エルディア人が撃たれたくらいで真面目に動くわけないし」
あまりにも自然な言い方だったから、ライナーはすぐに言葉を返せなかった。
収容区にいる子供達の命は、その程度に扱われる。分かっていたことだ。分かっていたはずなのに、改めて突きつけられると胃の奥が苦くなる。
「……ま、命があっただけでも儲けものだな。せめて、お前達を助けてくれた人達に礼を言いたいんだが」
「それはそうだね」
ガビは少し不満そうにしながらも頷いた。ファルコも「僕も、ちゃんとお礼を言いたいです」と続ける。
ライナーが三人の特徴を尋ねると、ファルコは記憶を辿るように視線を上へ向けた。
「三人組でした。薄暗くて顔はよく見えませんでしたけど、一人は坊主頭の男の人で、一人は赤毛を後ろで結んだ女の人だったと思います。あと一人は……」
「中途半端に髪と髭を伸ばした勘違い野郎だったかなー。あと、ちょっと馬面っぽかったかも!」
「恩人を悪く言うなよ、ガビ」
「悪く言ってないし。特徴を言っただけもん」
ファルコが呆れ、ガビが口を尖らせる。しかし、二人のやり取りはライナーの耳を素通りしていった――馬面という言葉に、胸の奥で小さな棘が動いた。
◇◇◇◇
故郷への帰還から数週間が経った。
その間、各国の新聞はマーレの勝利よりも、中東連合が巨人を相手に四年近く戦い抜き、『鎧の巨人』に手傷を負わせた事実を大きく取り上げた。そうした論調は反マーレ国家だけに留まらず、中立を装う国々にも広がっていった。
それに加えて、『始祖の巨人』を巡る噂もあった。
マーレは本当に『始祖』を保有しているのか。保有しているとして、なぜ戦場で使わなかったのか。もしかすると始祖奪還などただの宣伝で、マーレは悪魔の島から何の成果も得ずに帰ってきただけではないか。
そんな噂が国外だけでなく、国内でも囁かれ始めていた。
カリナも遠回しにそのことを尋ねてきた。近所の者達が変な噂をしているのだと、ライナーを心配するような口ぶりで言いながら、その目の奥には確かめたいという色があった。
ライナーは軍事機密だとだけ答えた。
それ以上は言えなかった。言うべきではないというより、そもそも自分にも詳しい情報が下りてきていないのだ。
ガビとファルコの銃撃事件についても、分からないことばかりだった。治安当局は調査中だと言っているが、犯人が捕まったという話は聞かない。
(……なによりガビやファルコを助けた奴ら。あれはまるで――)
「おっはよー!ライナー!」
思考を破ったのは、廊下の向こうから駆けてくる声だった。
その日もまた軍から招集がかかり、ライナーは本部に来ていた。声の主は退院したばかりのガビだ。
軍はガビとファルコの二人が事件の標的だった可能性を考慮し、捜査が終わるまで軍直属の兵舎に住まわせることにした。
今の彼女を見るに、どうも兵舎内でじっとしていられなかったらしい。
「お前、病み上がりだろ」
「もう退院したから病み上がりじゃないもん!」
「それを世間では病み上がりって言うんだよ」
「細かいなぁ。ファルコみたいなこと言わないでよ」
ガビは頬を膨らませたが、いつもの調子に比べるとどこか沈んでいるようにも見えた。廊下を歩きながら、何度目か分からない溜息をつく。
「……ほんと情けないなぁ」
「何がだ」
「撃たれたこと。よりによってあんな変な奴らに不覚を取るなんて。そのせいで従軍もできなかったし」
ガビは悔しそうに唇を噛んだ。
「今回の戦争でマガト隊長は継承の見極めをやったんでしょ?ウドとゾフィアが大した戦功を上げたわけじゃないから助かったけど……そもそも戦地に行けなかったのって、かなりまずいよね」
「お前が積み上げてきた成績が消えるわけじゃないだろ。それに怪我を押して前線に出て、そこで下手を打つ方がよほど印象は悪い。そう焦るんじゃない」
ガビは急に立ち止まり、ライナーへ向き直った。
「ねぇ、ライナー。ライナーの時はどうやって継承が決まったの?」
「……悪いが、教えてやれることはない。俺自身、どういう基準で選ばれたのか未だによく分かっていないんだ」
「でもさ、やっぱり実戦を経験してないと駄目なんじゃないの?継承の選考に絡むんでしょ?」
「それはそうだが……さっき自分で言ってたじゃないか。ウドとゾフィアの二人がリードしてないんだろ。なら次の戦争まで――」
「それはあの二人がグズだったから助かっただけだし、次の戦争がいつ起こるかなんて分かりっこないじゃない!」
「お前なぁ……友達をそう悪く言うもんじゃないぞ」
「いいから!知ってること何でも教えてよ!」
何が何でも戦士になりたいのだろう。『名誉マーレ人』になり、大陸にいるエルディア人の善良さを示してみせる。そう普段から息巻くガビの焦りが、痛いほど伝わってきた。
「……そもそも俺達の頃は見極めなんてなかった。ある日突然、継承を告げられただけだ」
「はぁ!?なにそれ、ずるい!なんで私達の代から戦地に行くことになってるのよ!」
ライナーは一瞬迷った。だが、見極めで何を見られているのかを知らないまま、焦って功を立てようと前へ出られる方がよほど危うい。話せる範囲で話しておくべきだろう。
「俺も軍の基準を知らないから断言はできないが……俺達の代に、実際の戦争でやらかした奴がいるんだ。多分そのせいだろう」
「やらかしたって、具体的に何を?」
「詳しくは言えんが、重大な軍紀違反だ。それ以来マーレ軍は平時の成績や態度だけを信用しなくなった。実戦で命令通りに動けるかどうかを見る――見極めの目的は、おそらくそんなところだ」
ライナーは少し屈んで、ガビと目線を合わせた。
「ま、とはいえ今回戦地に行けなかったくらいで候補から外されることはないだろう。それより普段の成績を落とさないようにしろよ」
「ふうん……」
ガビは腑に落ちない顔をしながらも、それ以上は聞いてこなかった。
自分で説明しておきながら、実のところライナーは自分の言葉を頭の中でなぞり直していた。
皆の兄貴分のような同期だった。候補生同士が揉めるたび、笑って間に入ってくれた男。あの男が実は治安当局に飼われていて、戦場で持ち場を捨てて――そうして継承権を失った。
なぜだか分からないが、そう記憶していた。
なのに、なぞればなぞるほど奇妙な感覚が濃くなっていく。自分よりもっと低い目線から、もっと近くで、あいつを見ていたような――
(……疲れてるな、俺は)
ライナーは短く息を吐き、ガビの頭を軽く叩いた。
「まあ、お前なら実戦でもやれるさ。なんたって世界を救った英雄の従妹なんだからな」
「……まあね!」
ガビは一瞬で調子を取り戻した。顔を上げ、胸を張り、まるで世界が自分に道を譲るのが当然だと言わんばかりに歩き出す。
その奔放さは、どこか昔の幼馴染を思い出させた。
自分の望むものを疑わず、出口の見えない檻の中でさえ、自由を掴み取ろうと手を伸ばしていた少女のことを。
◇◇◇◇
軍本部の会議室には、重苦しい空気が満ちていた。
議題はもちろん、パラディ島への再侵攻作戦だった。
中東連合との戦争が一区切りついた今、マーレに残された大きな課題は二つある。マーレが衰えていないと世界に示すこと。そして、『始祖の巨人』を本当の意味で使える状態にすることだ。
そのためには王家の血が必要だった。
パラディ島に残る王家の人間を探し出し、確保する。理屈としては単純だったが、実行は容易ではない。島には調査船が何隻も向かい、その全てが戻っていなかった。何かが起きていることは明らかだった。
それでも高官達の口調は驚くほど好戦的だった。
「連中は『地鳴らし』を使えん。百年遅れの兵器しか持たぬ島を相手に、我がマーレが後れを取るはずもない」
「空から主要都市を爆撃し、地上部隊を送り込むのはどうだ?」
「ああ。島の悪魔共に、文明国の力を思い知らせてやろう」
ライナーは思わず口を挟んだ。
「しかし、我々が求めているのは王家の血です。女王をはじめ、王家の血を引く者がどこにいるか分からない以上、無差別な爆撃を行えば――」
「エルディア人は黙っていろ」
将官の一人がライナーの言葉を冷たく遮った。
マガトだけがそのやり取りを黙って見ていた。机の上に広げられた地図と高官達の顔を順に眺め、今この場で何を言っても無駄だと判断しているようだった。
結局、会議は具体的な結論を出せないまま終わった。
会議室を出た一行は訓練場に面した外廊下へ移った。腰高の手すり越しに初夏の風が吹き抜け、眼下では候補生達が走り込みを続けている。
病み上がりのはずのガビも、医者に見つかれば叱られそうな勢いで走っていた。ファルコが後ろから何か言っているものの、ガビは聞く耳を持っていないようだった。
ライナーが溜息をつくと、隣でピークが手すりに肘を乗せた。
「大変聡明な上官を持って、私達は幸せ者だね。どんな作戦を告げられるか、今から楽しみだよ」
「……たとえば、四人の子供にすべてを託すとかな」
「へぇ、そんな冗談を言うようになったんだ」
ピークが目を丸くした。普段の自分がどう思われているのか、少しだけ気になった。
「そういえば、よかったね。ガビとファルコ。万博までに退院できて」
ベルトルトが訓練場へ目を向けたまま言った。
「手紙のことを聞いた時は僕も肝が冷えたよ。ま、あれだけ走れるならガビの方はもう心配なさそうだけど」
「ファルコは別の意味で心配だねぇ。怪我人を追いかけてる方が、先に倒れそうだよ」
ピークの言葉につられて眼下を見れば、ガビは同じ列にいた候補生達を次々と追い抜いていた。ファルコは遅れまいと必死に後を追っている。少なくとも、走っている姿からは二人が銃撃を受けたことなど想像できなかった。
その時、風に乗って低い金属音が響いた。
訓練場の端まで、格子状の巨大な影が長く伸びていた。ライナー達が影の根元を辿るように顔を上げると、陽を受けた塔が軍本部の向こうにそびえていた。
「凄いですよね、あれ……」
コルトが感嘆を漏らした。
軍本部の近くに立つその塔は、万博の象徴として建てられたものだ。格子状に組まれた鉄骨は空高く伸び、レベリオのどこからでも望むことができる。それを前にすると、軍本部の建物さえ小さく見えた。
「あれ、今は『勝利の塔』って呼ばれてるんだって」
ピークが言った。
「今回の戦争に勝った記念らしいよ。明日の開会宣言もあそこから全土へ流すんだけど――日が落ちてから、塔の点灯に合わせてやるんだってさ。夜空に光る塔なんてロマンチックだね」
「新聞には『科学の時代の幕開けを飾る祭典』なんて書かれてましたね……まあ、良いニュースばかりじゃないですが。反マーレ国家は先の戦争を受けて次々と不参加を表明したらしいですよ」
コルトがそう言うと、ピークは口元だけで小さく笑った。
「招待客の大半が身内でも、万国って名乗れるんだね」
「ちょっと、ピークさんってば……!」
「……ピーク、そういうのは冗談でもやめておいた方がいいよ」
ほとんど同時にコルトとベルトルトが声を上げた。
「まあ、とりあえず開催まで漕ぎつけただけ上出来なんじゃない?パラディ島の件も、今すぐ作戦が始まるわけじゃなさそうだし」
ライナーは改めて鉄塔を仰いだ。
万博の象徴であろうと、『勝利の塔』という華々しい名を与えられようと、その役割は変わらない。マーレの威信を形にし、国家の声を全土へ届けるための建造物だった。
「超大型の五倍はあるんだってね。ねぇベルトルト、今度塔の横に並んでみてよ」
「そんな背比べをしたら、レベリオの街が粉々になっちゃうよ……」
ベルトルトが珍しく声を立てて笑う。コルトも二人の会話に口を挟んだ。
「でもまあ、一度でいいから頂上まで昇ってみたいです。凄く良い眺めでしょう」
「万博中はやめておいた方がいいと思うなー。すごく混むらしいし。コルトって人混みが得意なタイプ?」
「……それを聞いたら一気に行きたくなくなりました」
「だよねー。まあコルトはいいじゃん。超大型継承するんだし、これからいっぱい良い眺めを見れるって」
ピークの軽口にどう対応していいのかわからず、コルトとベルトルトは顔を見合わせて笑った。
「そもそも開会式の前後は、関係者以外近づけないらしいよ。ほら、あそこ」
鉄塔の足元に設けられた広場では、作業服姿の技師達が拡声器の周囲に集まり、機材の調整を続けていた。時折ジジと短い雑音が風に乗って届く。声が流れないところを見ると、本番に備えた回線確認を行っているのだろう。
その光景を見ながら、コルトが感慨深そうにつぶやいた。
「駅前や軍事施設だけじゃなくて、収容区の広場にもラジオが設置されてるんですよね……どこにいても同じ声を聞けるようになるなんて、少し前まで考えられませんでした」
「凄い時代になったもんだねぇ。ライナーとベルトルトは特に驚いたんじゃない?百年遅れの島にいたんだし」
ピークが悪戯っぽく笑うと、ベルトルトは困ったように目を伏せた。
巨大な塔は空を背に黒くそびえ、背を向け始めた世界へ国家の威信を届ける巨大な口のように、沈黙したままその時を待っていた。
その口から、どんな言葉が語られるのか。
どういうわけか、ライナーは胸の奥に小さなざわめきが残るのを感じていた。
本作のライナーは諸事情により疲れ切っているので、故郷帰還後はベルトルトよりも口数少ないです。無口なところもカッコいいよ。