地上の兵舎から漏れていた笑い声も、地下へ続く階段の半ばで聞こえなくなった。最下層の通路には湿った石の匂いがこもり、壁際のランプが最奥の鉄格子まで細長い影を落としている。
ルイーゼは鉄格子の下に設けられた配膳口から、手つかずの盆を引き出した。冷えたスープには白い脂が膜を張り、牢の奥では、マーレの少女が毛布にくるまって壁際にうずくまっている。
「あのガキ、ようやく大人しくなりましたね。ここへぶち込んだ時なんて悪魔だの何だのって喚き散らしてたのに、今じゃ毛布にくるまったままですよ」
隣のフロックは鉄格子に背を預け、腕を組んだまま廊下の奥を見ていた。返事がないのを気にせず、ルイーゼは続けた。
「このまま死んでくれれば、見張りなんて面倒な仕事も終わるんですけどね」
ガビという名の子供は、もう丸二日、食事どころか水にも一切口をつけていない。今日食べるものにも困っている市民がいるというのに、捕虜へ出された食事が毎回捨てられることがルイーゼには腹立たしくて仕方がなかった。
「交代する時、医務室に知らせておけよ」
「……どうしてです?」
「このまま放っておけば死んじまうだろうが。俺の責任になったらどうすんだ」
「本人が死にたがってるなら、放っておけばいいじゃないですか?」
ルイーゼは手つかずの盆を持ち上げ、冷え切ったスープへ目を落とした。
「同胞を撃ち殺した捕虜に、飯と寝床まで与えるなんて納得できません。時間の無駄です、フロックさん。ハンジ団長に言って、別の任務に回してもらいましょう」
「あと一時間もしねぇうちに交代するだろ」
「次の二人に押し付けるだけじゃないですか。こんなガキ、早いところ殺しましょうって。なんで敵国のガキなんて生かしておくんですか?」
「そうか。お前は別の飛行船で帰ったんだったな」
「何の話です?」
「帰りの飛行船で、ジルケさんが言ったんだ。こいつは絶対に生かしておけってな」
ジルケ・クルーガー。
その名前が出た途端、ルイーゼの中にあった苛立ちはあっさりと引っ込んだ。
「……そっか。ジルケさんが」
「分かったなら従え。あの人が生かせと言った捕虜を、俺達の勝手な判断で死なせるわけにはいかねぇだろ」
それならば、ここで生かしておく意味があるのだろう。自分のような凡百の人間には分からなくても、あの方がそう判断した以上、何か深い理由があるに違いない。
これまで、彼女が間違ったことは一度もないのだから。
島へ戻ってからの数日を、ルイーゼは何度も思い返していた。
トロスト区の門をくぐった時、通りの両側は出迎えの人々で埋め尽くされていた。行進する兵士達へ途切れることなく歓声が浴びせられ、誰かが投げた花が顔に当たっても、少しも嫌ではなかった。
そこはルイーゼが生まれ育った街だった。その街の人々が、島のために戦って帰ってきた自分達へ手を振っていた。
「兵舎の方も、まだお祭り騒ぎです。昨日なんて駐屯兵団が酒を持ち込んで、憲兵団まで混じって騒いでました」
昨夜の笑い声が耳の奥に蘇り、ルイーゼの口元がふっとほころんだ。
「……凄く楽しかったです。海の向こうに巨大な敵がいると知ってからは、こんなふうにみんなで笑える日なんてもう来ないと思っていました」
あの夜、酔った兵士の一人が机の上に立って叫んでいた。
――今まで散々やられてきた。今度はこっちの番だ。
壁を壊され、故郷を追われ、家族を巨人に食われても、自分達は何一つやり返せなかった。壁の中に閉じこもり、次はいつ敵が現れるのかと怯えながら待つことしかできなかった。
その鬱憤を吐き出すように部屋中が沸き、ルイーゼも拳を突き上げて、喉が痛くなるほど周囲の兵士達と声を張り上げた。
「そうだ。昨日、これを預かりました」
ルイーゼは兵服の内側から、折り畳んだ紙片を取り出した。
「駐屯兵団と憲兵団の人達です。次は自分達も呼んでほしいって」
フロックは紙に並んだ名前へ目を走らせると、その端を壁際のランプへかざした。
「名前を紙に残すな」
「あ……すみません」
火は瞬く間に紙片を舐め、黒く縮れた灰が石床へ落ちた。
「本当にこいつらは島のために命を張れるんだろうな?」
「もちろんです。皆さん、心臓を捧げると言ってました!」
「そうか……随分と大所帯になってきたな」
「まだです。これから、もっともっと増えていきますよ!」
「調子良いな、何を根拠に言ってやがる」
「新聞、見てないんですか?どの新聞社も今回の勝利で持ち切りですよ!しかも今回の作戦の立役者はジルケ・クルーガーだって、どこも書いてました!」
自分の声が弾んでいることに気付いても、ルイーゼは抑えようとは思わなかった。
「シャーディス教官を前線に復帰させたのも、あの方なんですよね!」
ルイーゼが兵士を志したのは、幼い頃、巨人に襲われたトロスト区でミカサに命を救われたからだった。いつか自分も彼女のような兵士になりたいと、その背中を追って訓練兵団へ入った。
そのため、ルイーゼにとって強い兵士とは、長い間ミカサのように圧倒的な力で敵を退ける者を指していた。そして、自分がミカサのようにならないことも訓練を始めてすぐに悟った。
すでに第一線を退いていたシャーディスの班へ配属された時も、なぜ今さら訓練所の教官を呼び戻すのか、その理由が分からなかった。
「凄かったです。ミカサさんやリヴァイ兵長のほかに、あんな動きができる人がいるなんて思ってもみませんでした。あんなに長く訓練所で接していたのに、私は何も分かっていなかった。フロックさんはどうでした?」
「……さあな。ただ、ジルケさんはよくあのハゲ教官と二人きりで訓練してたぜ。俺達の間じゃ、あの二人はできてるんじゃねぇかって噂になってたが」
「さすがはジルケさん……!訓練兵団にいた頃から、いつかシャーディス教官の力が必要になると見抜いたんですね!私なら、あんな威圧的なハゲと二人きりで特訓なんて絶対に嫌なのに……あの方には、この日のことまで見えてたんだ」
フロックは短く息を吐いたが、ルイーゼは気にも留めずに続けた。
シャーディスを見出したことだけではない。ダイナ・フリッツを絵図一枚で言い当て、もう一体の王家の巨人まで捕らえた。今回の襲撃も、ジルケが海の向こうに残る復権派とのつながりを持っていたからこそ実現したことだった。
凱旋の列の中で見たジルケの姿が、ルイーゼの脳裏に浮かんだ。
真っ白な髪と、左右で色の異なる赤と青の瞳。その姿は、以前から謎の多かった彼女を、ますます自分達とは異なる存在のように見せていた。
「あの方は私達と同じ人間というより、エルディアを導くために現れた何かみたいで……」
大袈裟だと笑われても、ルイーゼは気にしなかった。何年も一方的に蹂躙され続け、誰も勝てなかった敵に勝ってみせた人が、この国にはいる。しかも、その人は島の外で生まれながら、自分達の国を守るために戦ってくれたのだ。
「フロックさんもそう思いませんか?」
答えは、しばらく返ってこなかった。
「……昔、そういう人がもう一人いた」
「え?」
「誰も思いつかねぇことを平気で考えついて、一歩も二歩も先のことをことごとく当てやがる。そんな男がかつて調査兵団にはいた」
「エルヴィン・スミスですか?」
「ああ。あの人は悪魔だった」
ルイーゼが調査兵団へ加わる前に死んだ男だったが、その名は今も兵団内で語り継がれている。
「お前は、あの日シガンシナで何があったか知らねぇだろうが……俺は獣の巨人へ向かって突っ込んで、新兵の中で一人だけ生き残った」
そこで一瞬、言葉が切れた。
「本当に運がよかった。偶然以外の何物でもねぇ。俺だけが、たまたま死ななかったんだ」
ルイーゼは、盆の縁に掛けた指へ無意識のうちに力を込めた。
「マルロも、ゴードンも、サンドラも……みんなあそこで砕けた。何十人もだ。あいつら全員、エルヴィン団長の言葉一つで死地へ走った。それでも俺は、あれが間違ってたとは思ってねぇ。特攻がなけりゃ、リヴァイ兵長とジルケさんが獣へ近づけず、俺達は全滅してただろうからな」
フロックは短く息を吐いた。
「ただ、俺達は団長も同じように死んでくれるんだと思って走った。あの人が『女型』を隠し持ってるなんて、新兵の誰も知らなかっただろうな」
「女型?それは、ダイナ・フリッツが継承しているはずでは?」
「ダイナの前がエルヴィン団長。さらにその前は、俺の同期のアニ・レオンハートだ。はは、こうしてみると、俺は女型と妙な縁があるらしいな」
フロックは口元だけで笑ったが、それは自分自身へ向けられたもののように見えた。
「俺は一時期、アニと同じストヘス区の憲兵団支部で働いてた。別に仲良しってわけじゃねぇけどよ、同じ制服を着て、肩並べてパトロールまでしてたんだぜ?それでも俺は、あいつが『女型』だなんて気付きもしなかった。そんで、その力を団長が継いだことも知らねぇまま、団長の言葉を全部だと思って死にに行った」
そこまで話す頃にはもう、フロックはルイーゼを見ていなかった。隣に誰かがいることさえ忘れたように、通路の闇へ言葉を落とした。
「結局、俺は何も分かっちゃいないんだよ。アニのことも、団長のことも」
やがてフロックは小さく息を吐き、ルイーゼへ顔を向けた。
「あー、要するにな。何が言いてぇかっていうとだ。月並みな言葉だが、上手い話には裏がある。見えてるもんだけで全部分かった気になるなよ。足元すくわれんぞ」
「……それでも、フロックさんはジルケさんに付いていくんですか?」
「それでも、じゃねぇよ」
フロックは僅かに目を細めた。
「島を勝たせる悪魔だからこそ俺は担ぐ。何も知らされねぇまま死地へ走らされるのは、もう御免ってだけだ」
その言葉を受け、自分はジルケ・クルーガーの何を知っているのだろうと、ルイーゼは自問した。
ルイーゼが知っているのは、新聞に記された功績と、兵団内で語られる数々の逸話、そして遠くから見た姿くらいだった。直接言葉を交わしたことさえ、数えるほどしかない。
真っ白な髪の下で何を考え、赤と青の瞳に何を映しているのか、ルイーゼは何も知らなかった。
そこまで考え、ルイーゼはやめた。
――まあ、いいか。
自分には理解できないほど遠くを見ているからこそ、ジルケはこの国を勝利へ導いたのだ。自分如きが、すべてを理解しようとする必要などない。
あの方を信じていればいい。ルイーゼにとっては、それだけで十分だった
◇◇◇◇
マーレから戻った兵士達を英雄として迎える熱気は、数日を経ても街や兵舎に残っていた。新聞は連日のように戦果を報じ、夜になればどこかの兵舎から酒盛りの声が聞こえてきた。
だが、兵団本部の会議室にまでその熱気は届いていなかった。末席に座るアルミンも、作戦の全容を知る者達が手放しで勝利を喜べない理由は理解していた。
特に兵団の頭を悩ませたのは、ジルケ・クルーガーの処遇だった。
当初の目標は、始祖の継承者を生け捕りにして島へ連れ帰り、兵団が選んだ人間へ継承させることだった。しかしジルケはそれを無視して、自ら『始祖』を喰らった。
あの場で生け捕りに固執していれば、『始祖』そのものを取り逃がしていたかもしれない。彼女の言い分も理解できなくはないが、かといってこの先も同じような独断を許すわけにはいかなかった。
ただ、彼女を地下牢へ放り込めば、ヒィズルをはじめとする諸外国やエルディア復権派との折衝が滞る。とりわけニコラス・クサヴァーが強く反発することは、考えるまでもなかった。
「……で、その結果がこれですか」
ジルケは手錠を見下ろし、小さく息を吐いた。顔には色の薄いサングラスを掛けている。レベリオで失ったものの代わりに、キヨミが新たに用意したのだろう。
拘束はするが、隔離はしない。その二つを両立させようとした末の結論が、ジルケの左手首と武装状態のリヴァイの右手首を繋ぐ一本の鎖だった。
ジルケが左手を持ち上げると、余った鎖が床を擦って金属音を立てた。並んで歩くためのものにしては長く、互いに数歩離れても張らないだけの余裕がある。仮にジルケが不意に動いても、リヴァイまで動きを妨げられないようになっていた。
「俺の判断だ。文句あるか?」
「いえ。拘束されるとは思っていましたが、予想の斜め上の方法が来たから少々驚きました。まるでLみたいなことを考えますね」
「わけわかんねぇことばっか言ってんじゃねぇよ」
リヴァイが鎖を軽く引くと、ジルケの左腕が僅かに揺れた。
「残念ながら、これからは飯を食う時もクソする時も一緒だ。妙な真似はできないと思え。たとえば、捕らえた王家の巨人に一人ぶつぶつと話し掛けるなんて奇行もな」
「……セクハラが過ぎますね。要するに兵長とずっと一緒というわけですか」
「寝る時くらいは一人にしてやるよ。地下のホテルにてめぇ専用の部屋を押さえてあるからな」
「……どうもご親切に。それに、少しだけ安心しました」
「ああ?」
「私を最も嫌っているあなたでさえ、今のところ私を殺すつもりがない。それが分かっただけでも十分です」
「……わかったら俺の気が変わらねぇように頑張るんだな。巨人化したところで俺に勝てないのは重々承知しているだろ」
「ええ……それはもう。誰よりも」
兵団は彼女を信用し切れていないが、切り捨てることもできない。その矛盾が一本の鎖へ姿を変え、二人の間に垂れ下がっているように、アルミンには見えた。
外からの三人が会議室へ通されたのは、それから間もなくのことだった。
ヒィズルからはキヨミ・アズマビト。エルディア復権派からはニコラス・クサヴァー。反マーレ義勇兵からはイェレナがそれぞれ姿を現した。
ただ、ニコラスとイェレナの背後には、それぞれ調査兵が一人ずつ連れ立っていた。
マーレ襲撃以降、二人が宿舎から出る際には行き先と用件の届け出が求められ、面会できる相手や立ち入れる区画も制限されていた。
「我々にまで監視をつける必要があるのか?」
イェレナは黙って受け入れたが、ニコラスは露骨に眉を寄せた。
「ニコラス。従いなさい」
しかしジルケが柔らかく告げると、彼は僅かな間も置かずに頷いた。
「先生がそう仰るなら」
その即答は、自分の判断そのものをジルケへ預けているように見え、アルミンは薄い恐怖を覚えた。
全員が席へ着いたところで、ニコラスが上座に残された空席へ目を向けた。
「そういえば、ヒストリア女王陛下はいらっしゃらないのか?」
「ああ。まだ生後間もない王女がいるからね」
ハンジは軽い調子で答えた。
「しばらくは子育てを優先していただく方針だから、表立った公務の予定は入れていないんだ。今日の話も、後ほどこちらからご報告することになっているよ」
「幼い世継ぎがおられるのなら、無理にご出席いただくわけにもいくまい……か。だが兵団諸君、世継ぎには偉大なるエルディアの歴史をしっかりと教えておいてくれよ。歴代の壁の王のような敗北主義に染まらないようにな」
「君は本当にそればっかりだね……出会ったばかりの頃のジルケを思い出すよ。まあ、善処はするよ」
ニコラスやイェレナ達を完全には信用できない以上、女王をこの場へ同席させるべきではない――そう兵団が判断したのだ。子育てへの専念は、その決定を伏せるには都合のよい理由でもあった。
それでも、女王と同席させられないほどの警戒対象に、かつての恩師まで含まれてしまった事実は、アルミンの胸に言葉にし難い寂しさを残した。
「では、外の話から片付けようか」
ハンジが促すと、ジルケが椅子から立ち上がった。鎖が床を擦って金属音を立て、リヴァイが不快そうに眉を顰める。
「まず、マーレは当面この島へ攻めてこられません。レベリオを含む主力の軍事拠点を失い、国内に残った無垢の巨人の対処にも追われています。それどころか、この機に乗じて周辺国がマーレへ攻め込んだとしても不思議ではないでしょう。『始祖の巨人』を失った今、マーレが『地鳴らし』を行使することもありません」
ジルケは周囲を見回しながら続けた。
「つまり、長らくこの島にのしかかっていた最大の脅威は、ひとまず遠のいたということになります」
それ自体は、すでに全員が知っている事実だった。しかし改めて言葉にされると、室内を覆っていた緊張が僅かに緩んだ。
ザックレー総統は卓上で固く組んでいた手を解き、ピクシスも椅子の背へ深く身を預けて長い息を吐いた。
「うむ、首へ掛けられていた縄は緩んだというわけじゃな」
ナイルをはじめ、周囲の幹部達の表情からも、目に見えて力が抜けていた。
ジルケの独断を咎めることと、作戦の成功に安堵することは別なのだ。少なくともアルミンには、そう見えた。
「不可侵条約についても、今のところ破棄の通知は届いていません。ただし、あれは反マーレという共通の利害によって結ばれたものです。マーレが弱体化した以上、各国が条約を守り続ける理由も薄くなりました」
――ま、独ソの例もあるし、条約なんて信用しすぎないことね。
以前ジルケから似たような話を聞いた時のことを思い出した。独ソという言葉が何を指しているのかは、結局はぐらかされたままだが、ジルケが条約を平和の約束ではなく、次の争いまでの猶予としか考えていないことは伝わってきた。
「明日にでも破られる可能性がある、ということかね?」
ザックレーが尋ねると、ジルケは首を横に振った。
「こちらには『地鳴らし』がありますから、各国もおいそれとは攻めてこられません。永遠に通用するとは限りませんが、少なくとも時間は稼げるでしょう」
「当初の予定通り、時間を稼いでこちらの体制を整えるということか」
「はい。まずは、本当に『地鳴らし』を発動できるのか確かめる必要があります」
続いて示されたのが、『地鳴らし』の試験的な運用だった。兵団の管理下にあるダイナ・フリッツとジルケを接触させ、壁の中で眠る超大型巨人をごく一部だけ稼働させる。
始祖の力で実際に動かせるのか、どの程度まで制御できるのか。誰も試したことのない力を、いざという時にぶっつけ本番で使うわけにはいかなかった。
「では、実施の時期についてですが――」
「テメェを信用できたらな」
リヴァイが遮った。
「まだ信用してくれませんか?我々に迷っている時間があるとは思わない方が――」
「耳にクソでも詰まっているようだから、もう一度だけ言ってやる。テメェを信用できたら、だ」
「……分かりました。
ジルケは鎖へ目を落とし、それ以上は反論せずに椅子へ腰を下ろした。
「じゃあ次は中の話だ。ナイル師団長、頼むよ」
「ああ」
入れ替わりに立ち上がったのは、憲兵団師団長のナイル・ドークだった。手元の紙束を一度揃えてから、そのうちの一枚へ目を落とした。
「国内では、港へ続く既存の鉄路を起点として、島内の主要都市まで鉄道網を拡張する計画が進んでいる。それと並行して、すでに方針の決まっている三兵団の統合と、公立学校の新設を進める」
壁外の国家と戦う以上、壁の中を守るために作られた組織を、そのまま使い続けるわけにはいかない。三兵団の指揮系統を統一し、対外戦争を前提とした軍へ作り替える構想は、すでに準備段階へ入っていた。
「軍の再編は分かるが、教育を急ぐ必要があるのかのう?」
「私は、むしろ今から始めないと遅いと思います」
ピクシスが顎髭を撫でながら尋ねると、ハンジが答えた。
「技術は持ち込めても、それを根づかせる土壌までは持ち込めません。我々自身が知識を身につけなければならないんです」
「左様でございます」
キヨミが扇を閉じた。
「我々も、技術者や教師の招聘であれば、いくらか都合をつけられましょう。ですが、招いた者がいつまでも必要とされる状態では、この島は永久に他国の手を借り続けることになります」
「目先の軍備だけを整えても、真に国の土台を支える者が育たねば意味がない、というわけじゃな」
ピクシスが納得したように頷くと、ナイルは次の資料を引き抜いた。
「――それともう一件、報告事項がある。大陸のエルディア人の受け入れについて、だ」
室内から物音が消えた。
その構想が最初に示されたのは、シガンシナ区決戦よりも前だった。革命戦士の
当時は海の向こうへ渡る手段さえなく、現実味のない話として棚上げにされた。それが今、まったく異なる重さを伴って戻ってきていた。
「候補地はシガンシナ区郊外だ。土地の測量と区割りまでは進めたが、そこから先が動いていない」
「動いていない、とは?」
ニコラスが身を乗り出した。背後に立つ調査兵が、僅かに足の位置を変える。
「まず、兵団の中に受け入れそのものへの反対がある。壁の外から大勢の人間を入れるというのは、この島にとって前例のない話だ。どれほどの規模になるのか、はっきりした見通しも立っていない」
受け入れる対象をどこまで広げるかによっては、一つの都市が丸ごと増えるほどの規模になる可能性もあった。
「それに、周辺住民の理解も得られていない。ウォール・マリアには、ようやく故郷へ戻れた者達がいる。取り戻したばかりの土地を見たこともない相手のために割くという話なんて、簡単に頷けるわけがない」
「見たこともない相手、か。皆等しく、偉大なる始祖ユミルの血を引く同胞なんだがな」
ニコラスの声が低くなった。
「『復権派』がこの島へどれほどの物資と人材を注ぎ込み、投資を続けたと思っている。先の襲撃でも、我々はお前達へ手を貸した。果実だけは受け取りながら、助けを求める同胞は『見知らぬ者』として門前払いにするつもりか?」
「それと住民が土地を明け渡す話は別だ!」
ナイルが押し返すように答えたが、ニコラスは視線を逸らさなかった。
「俺は外の世界を知っている。どれほど同胞達が苦しんでいるのか、骨身に染みてな」
そう言って、首元のマフラーへ手を掛けた。幾重にも巻かれていた布をゆっくりと解くと、喉元には刃物で深く抉られた傷痕が、歪な形で残っていた。
「先生から話を聞いているだろうが……俺は幼い頃、エルディア人の血を引いているというだけで、母親に首へナイフを突き立てられた。父が自分の素性を隠していたことが原因の一つだ。あの男は本当に愚かだった」
ニコラスは指先で傷の縁へ触れた。
「だが、実の母親が我が子の血を嫌い、殺そうとするまで追い詰めたのは、この世界だ」
「……その同胞とやらを、先の襲撃でどれだけ殺した?収容区の住民も、『復権派』からマーレ人の地位を買った連中も……いや、マーレ人として潜伏していた『復権派』の末端も、大勢巻き込まれたはずだ」
「必要な犠牲だ」
ニコラスは即座に言い切った。
「作戦を広く知らせていれば、マーレ軍部に察知されていたかもしれん。マーレを打ち倒し、エルディアを復権させるには、誰かが血を流さなければならないのだ」
壁の外でエルディア人がどのような扱いを受けているのか、アルミンも実際に大陸へ渡り、その目で見てきた。
生まれた時から腕章を巻かされ、生涯を終えるまで居住区を制限され、『悪魔の末裔』として憎悪を受け続ける。
外の同胞が味わってきた苦しみも、島へ移住したいと願う気持ちも嘘ではないのだろう。しかし、そのためなら大勢の命を必要な犠牲として割り切るニコラスの考え方を、アルミンは素直に受け入れられなかった。
「幸い、この島には王家がおわします」
ニコラスはマフラーを巻き直さないまま、言葉を続けた。
「この島にこそ、我ら新生エルディア帝国の首都は置かれるべきだ。そして、島の内外を問わず、すべてのエルディア人にとっての安息の地とならねばならない。腕章を巻いて生まれ、無為に死んでいく同胞達が、ようやく帰る場所を得られるのだ。それを阻む理屈がどこにある?」
「だからといって、島の住民の意向を無視して押し進めるのは、あまりに乱暴だ!」
ウォール・マリアには、故郷へ戻って畑を耕し、家を建て直したばかりの人々がいる。外の同胞が苦しんできたからといって、島の住民がようやく取り戻した土地と暮らしを、今度はこちらの都合で脅かしてよいことにはならない。
「……この件は、追って詰めよう。今ここで続けても平行線だ」
ハンジが場を引き取ると、ニコラスは無言で頷いた。
納得したというより、これ以上この場で話しても進まないと判断したように見えた。
その後も、パラディ島の今後をめぐる議論は続いた。やがてすべての議題が一通り片付き、散会を迎えようとした時だった。
廊下を駆けてくる足音が、扉の前で止まった。
「失礼します!」
勢いよく開いた扉の向こうにいたのは、ジャンだった。肩を上下させながら、室内を見回す。
「マーレで捕らえた子供が牢から逃げました!」
部屋が一斉にざわついた。
マーレの捕虜が、それも元駐屯兵団の幹部を撃ち殺した戦士候補生が消えたとなれば、単なる脱走では済まない。
「見張りは駐屯兵団か?」
「違う、調査兵団の下っ端がやっているはずだ!」
「ハンジ!どう責任を取るつもりだ!」
幾つもの声が重なり、立ち上がった椅子が床を擦った。
「責任の話は後だ。ジャン、まずは状況を教えてくれないか」
「交代に来た二人が、独房が空になっているのを発見したとのことです!今、班を編成して周辺の捜索に当たっています!サシャとコニーは先行して捜索へ出ました!」
だが、ジャンの報告も周囲を飛び交う声も、アルミンの耳には次第に入らなくなっていた。立ち上がった人々の肩越しに、ジルケだけが顎に手を当て、何かを考え込んでいる姿が目に入ったからだ。
サングラスの奥にある目が、何を追っているのかは分からない。リヴァイと結ばれた鎖は変わらず、だらりと垂れていた。
◇◇◇◇
「これ、美味しいです!」
ジャンが自分の料理を一口食べる間に、サシャは皿に残っていた芋料理を次々と口へ運び、最初の一皿を空にしていた。
空になった皿を掲げたまま、もう片方の手で籠のパンを掴み、「こっちのパンも美味しいぃぃぃぃ!」と数口で食べ切った。
皿を下げに来たニコロへ、サシャは身を乗り出した。
「これ、何ていう料理なんですか?今まで食べたことありません!もしかして、高級な料理なんですか?」
「別に値の張る材料は何も使ってねぇよ。俺の地元の料理だ。地元じゃ、余った屑肉と芋を香草で炒めてよく食べてたんだ」
「なるほど!」
サシャは深く頷いたものの、視線は手元のパンへ向いたまま、ちぎった端から次々と口へ運んでいる。
「おい。聞いてんのか?」
「聞いてますよ。お金をかけなくても、手間をかければこんなに美味しくなるんですよね」
「……まあ、そういうことだ」
「それにこのパン!表面は香ばしくて、中はふわふわで、噛むほど甘くなります!兵舎で出てくるものとは全然違います!」
「そいつは今朝焼いたばかりだ。日持ちさせるために固く焼いた軍用パンなんかと一緒にすんな」
サシャはパンを噛み締めながら、何度も頷いた。
「いつも食べている芋もパンも、ニコロさんの手にかかれば最高のご馳走になるんですね!あなたはやっぱり天才です!」
「大声で騒ぐな。ほかの客が見てんだろ」
ニコロは鼻を鳴らして顔を背け、下げた皿を重ねたまま厨房へ戻った。ところが、程なくして新しい料理を一皿持って戻ってきた。
「余りもんだ。捨てるくらいならやるよ」
「えっ、タダでいいんですか!?」
「……金余ってるくせに、なんでそこまで食いつくんだよ。まあいい。さっさと食え」
「はい!いただきます!」
トロスト区の大通りに面したレストランは、いつからか兵士達の溜まり場になっていた。
当初はマーレ人捕虜が作る料理へ金を払うことに抵抗を覚える者も少なくなく、ジャン達の貸し切り同然だったが、今では席が空くのを待たなければならない日も多い。
その理由は極めて単純。ニコロの作る料理があまりに旨いからだ。
「お前、ちょっとは遠慮ってもん覚えろよな」
ジャンが呆れて言うと、コニーが笑った。
「無理だろ。こいつの胃袋には、遠慮なんて入る隙間がねぇんだから」
「失礼ですね、コニー!私だって遠慮の一つや二つ……」
「どこにあるんだよ」
「今は食べ物でいっぱいなので、入らないだけです」
サシャが悪びれもせず言うと、コニーが腹を抱えて笑い出した。
こんな馬鹿な話で笑える瞬間が、今のジャンには必要だった。
その笑い声に重なるように、近くの卓では「心臓を捧げよ!」という掛け声でジョッキが打ち合わされた。
「俺はエルディアの勝利に酒を捧げるぜ!」
「マーレに報いを受けさせてやったぞ!今日は宴だ!」
酔った兵士達の下卑た声に、コニーの笑みが消えた。
「……なあ、ニコロ」
「なんだ?」
「お前の故郷もマーレなんだよな」
空いた皿を集めていたニコロが手を止めた。
「俺達、お前の故郷を巨人だらけにしちまって……その、すまねぇ」
膝の上で固く握られた拳を見れば、コニーがラガコ村を思い出していることくらい容易に分かった。
「今回狙われたのは、軍事拠点の周辺だろ。俺が育ったのは海沿いの田舎町だから、たぶん被害は受けてねぇよ。そもそも俺の帰りを待ってる家族もいねぇしな」
そこで一度言葉を切り、サシャへ視線を向ける。
当の本人は会話など耳に入っていないのか、追加で出された料理を夢中で頬張っていた。
「……それに。今となっちゃ、こっちの方が住みやすいくらいだ」
向かいのコニーが意味ありげに眉を上げたので、ジャンは机の下で軽く足を蹴った。
ニコロはすぐにサシャから目を逸らしたが、今さら遅い。何も気付かず、芋しか見ていないのはサシャくらいだった。
「それでも……生まれた国がめちゃくちゃにされるってのは、こんな気分なんだな。お前らの気持ちがようやくわかった気がする」
ニコロの声から、先ほどまでの照れが消えた。
「お前らが謝る話じゃねぇよ。決めたのは、もっと上にいる連中だ。そいつらにとっちゃ、海の向こうで大虐殺が起きようが知ったことじゃねぇんだろうな」
「ニコロ、声を落とせ。周りに聞かれたら、面倒なことになる」
ジャンが近くの卓へ目をやると、ニコロもそこで祝杯を上げる兵士達を一瞥した。反論はしなかったものの、重ねた皿を掴む指には力が入っていた。
そのまま厨房へ戻っていく背中を、ジャンは黙って見送った。
「……あの、ジャン」
「あ、なんだ?ようやく食い倒れか?」
「あの子、どうなったか知ってます?」
誰のことかは聞かなくても分かった。
「知ってるだろ。兵団の地下牢だ」
「そうじゃなくて……その、元気にしてるのかなって」
「……元気なわけねぇだろ。他の奴から聞いたけどよ、飯を運んでも手をつけねぇらしい。水も一切飲んでねぇんだと」
サシャの手が止まった。
「でも、なんで食わねぇんだろうな。腹は減るだろ、普通」
コニーが首を傾げると、ジャンはバツの悪そうに言った。
「毒でも入ってると思ってんじゃねぇか。実際、俺達は『復権派』を通して似たようなことをしたんだしな」
「なんとなくわかるな、その気持ち」
三人が振り返ると、ニコロは追加のパンを持ってきた。サシャの前に静かに置いてから、続ける。
「俺も捕虜になったばかりの頃は、島の悪魔が出す飯なんか信用できなかった。腹は減ってんのに、目の前に置かれると手が出ねぇんだ」
「…… そう言う割には、随分バクバク食ってた記憶があるけどな」
「誰かが先に食ってるのを見たからだよ。毒が入ってりゃ、そいつも死んでるだろ……まあ、俺は根性無しだから、どうせすぐ食欲に負けてただろうけどな」
ガビという少女は、兵団の仲間を撃ち殺している。それは事実だ。
だが、自分達があの街で何をしたのかを思えば、ガビの怒りももっともだった。悪魔と罵られても、今のジャンには否定できそうになかった。
サシャは空になった皿へ視線を落としたまま、黙っている。この女が料理を前にして手を止めているのは、たいてい良くない兆候だった。
しばらくして、サシャが顔を上げた。
「ジャン。コニー。少しお願いがあります」
「……何だよ」
嫌な予感を覚えながら、渋い声を返した。サシャは「ここでは、ちょっと」と周囲を窺うような素振りをして、椅子から立ち上がった。
先ほどまで料理に頬を緩ませていた顔から、笑みは消えている。何をするつもりかは分からなかった。ただ、飛行船であの子供を庇った時と同じ顔を見れば、すでに何かを決めてしまっていることだけはジャンにも伝わった。
◇◇◇◇
石壁に背を預けたまま、ガビは膝を抱えて座っていた。
最後に運ばれてきた食事がどこへ置かれたのか、もう覚えていない。最初のうちは眠りから覚めるほど腹が減ったが、その空腹さえ、いつからか感じなくなっていた。今はただ身体が重く、指を動かすことさえ億劫だった。口の中は乾ききり、唾を飲み込むだけで喉がひりついた。
それでも目を閉じるたび、レベリオで見た光景が戻ってくる。
各所で立ち上った巨人化の閃光。逃げ惑う人々。そして、ウドとゾフィアが人の形を失い、巨人として暴れる姿。
誰も、自分から巨人になろうとしたわけではないのに。
あの白髪の女は、水源に脊髄液を混ぜたと言っていた。ならば、ここで与えられる食事や水にも、同じものが仕込まれているかもしれない。
疑わしいものを口にして巨人にされるくらいなら、このまま死んだ方がましだった。
ファルコは無事だろうか。家族は?収容区は?あの後どうなったのだろう。
ぼんやりとした意識の中で、階段を下りてくる二人分の足音を聞いた。
「――失礼します。その子の食事を持ってきました」
聞き覚えのある声だった。
どこで聞いたのか思い出そうとしたが、途中でやめた。そんなことを考える力も、もう残っていない。
声の主は、見張りの二人に何かを説明していた。時折もう一人の低い声も加わったが、内容までは頭に入ってこなかった。そのやり取りが続くうちに鍵が回り、二人の足音が牢の前から離れていった。
足音が遠ざかる中、鉄格子が開いた。誰かが牢へ入ってきて、ガビの目の前に屈み込んだ。
「パン、いかがですか?美味しいですよ」
ガビは膝に顔を伏せたまま、答えなかった。
「本当に美味しいんです。この壁の中で……ううん、世界で一番の料理人に作ってもらいましたから」
ふざけている、と思った。
あの白髪の女が生かしておけと命じたから、自分はまだ殺されずにいる。それだけだ。そんな捕虜へ妙に親しげな口調で食事を勧めるからには、何か企んでいるに決まっている。
「……いらない」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「あの、でも――」
「食べたくない」
拒絶されても、女は立ち去らなかった。しばらく黙った後、どこか懐かしいものを辿るような声音で、唐突に昔話を始めた。
「……昔、訓練兵団の入団式で、少々失言をしてしまいましてね。鬼のようなハゲ教官に死ぬ寸前まで走らされたうえ、飯抜きまで言い渡されました。走り終えた頃には、走馬灯が見えそうなほどお腹が空いていたんです」
いったい何を聞かされているのかと思っていると、女は構わずに続けた。
「その時、同期の一人が自分の分のパンを持ってきてくれたんです。私は、その子の手まで食べてしまいそうな勢いでパンにかじりつきましたが……あのパンのおかげで、また立ち上がれました」
「な、なにを……」
「今のあなたを見ていると、あの時の自分を思い出します。
「いらないって言ってる……でしょ」
女は返す言葉に詰まったように黙り込んだが、やがて衣擦れの音がした。
「じゃあ、これでどうですか」
伏せた視界の端へ、半分に割られたパンが差し出された。
ガビはそこで初めて顔を上げた。パンを差し出す手から腕へと視線を辿り、その顔を見上げた。
――知っている。
飛行船の中で、自分を抱きとめた女だった。
いや、それだけではない。レベリオで巨人に襲われた時も、その前に『復権派』から命を狙われた時も、この女は自分を助けていた。
その後ろには、頭を丸めた男が立っている。落ち着かない様子で階段の方を気にしながら、水の入った杯を両手で持っていた。
「……お久しぶりです」
赤毛の女――たしか、サシャと呼ばれていた――が、ぎこちなく笑った。そして、割ったパンの片方を自分の口へ運び、噛んで飲み込んでから、何も残っていない口の中を見せた。
「ほら。同じパンです。変なものは入ってませんよ」
目の前で食べて、安全だと示すつもりなのは分かった。だが、なぜそこまでするのかが分からない。
いや、これも悪魔の策略に違いない。自分を油断させるためなら、これくらいのことはするだろう。
「いら――」
言い終えるより早く、開いた口へパンの欠片を押し込まれた。
「あっ、すみません!でも、食べないと死んじゃいますよ!」
パンで塞がれた口では抗議もできず、すぐに吐き出すつもりだった。だが、歯がパンに沈んだ途端、柔らかな生地からほのかな甘みが広がり、一度噛むと、もう顎を止められなかった。
こんなものは食べたことがない。収容区で配られていたパンは色が黒く、酸味があり、噛むたびに歯茎が痛むほど固かった。それでも、みんなありがたがって食べていた。
気付いた時には、手がサシャの持つ残りのパンへ伸びていた。それを奪い取って口へ詰め込み、噛んで飲み込むと、指についたパン屑まで舐め取った。
「わっ、慌てなくていいです!まだありますから!」
サシャがどこか嬉しそうにもう一つ取り出すと、ガビはそれも奪うようにして食べた。どこにそんな力が残っていたのか、自分でも分からなかった。
もう一つを求めて身体を起こそうとした途端、不意に視界が傾いた。
石壁が滑るように動き、天井が斜めになる。手をつこうとしたが腕は動かず、そのまま肩から床へ崩れ落ちた。
「コ、コニー!どうしましょう!」
「だから最初は水を飲ませろって、ジャンが言ってただろ!」
「言ってました!でも、私だったら水よりパンの方が嬉しいと思って、こっちを先に……」
「お前と一緒にすんな、馬鹿!」
ガビは床へ倒れたまま、二人の声を聞いていた。
島の悪魔は慈悲を持たないと教えられてきた。レベリオで起きた虐殺を見た今も、その教えが間違っていたとは思えない。
それなのに、その悪魔達が今は自分を死なせまいと二人で慌てふためいている。
――何なんだ、こいつら。
どういうわけか、その有様がひどく滑稽に思えた。
「と、とにかく医務室へ運ぶぞ!」
コニーがそう言っても、サシャはすぐには動かなかった。
「……いえ。医務室へ連れていっても手当てが済めば、またこの地下牢へ戻されるだけです」
「は?じゃあ、どうするっていうんだよ」
「ここじゃない、別の場所へ連れていきましょう」
「おい、お前!何言って――」
言い争う二人の声が遠ざかっていくなか、サシャの腕が背中と膝の裏へ回り、身体が床から浮いた。抵抗しようにも指一本動かせず、薄れていく意識の端で、口の中にまだパンの甘さが残っていることに気付いた。
悪魔の飯だ。なのに、悔しいくらいに美味かった。
◇◇◇◇
その乾いた音をきっかけに、ファルコはふと目を覚ました。
瞼を開いても、しばらくは何も見えなかった。目の前に薄い布が垂れ下がり、鼻をつく土埃の匂いと、何かが焼けたような臭いが辺りに漂っている。耳の奥では低い音が鳴り続け、身体のどこが痛むのかも判然としなかった。
どうして、こんなところで寝ているのだろう。
両手を地面につき、どうにか上体を起こす。身体へ掛けられていた布のようなものが肩から滑り、瓦礫の上へ落ちた。
それは緑色のマントだった。
生地は砂埃を吸ってくすみ、裏返してみると、背中には交差する白と青の翼を象った紋章が縫い付けられていた。見覚えのない紋章だった。
さらに広げたところで、肩口に当たる部分へ大きな穴が開いていることに気付いた。銃弾に貫かれたのか、周囲の布は外側へ不規則に裂け、その一帯には黒ずんだ血がべっとりと染みついていた。
ファルコは反射的に自分の肩へ手を当てた。服にも肌にも、それらしい傷は見当たらない。少なくとも、この血は自分のものではなかった。
ならば、誰のものなのだろう。なぜ、血の付いたマントが自分へ掛けられていたのか。近くに持ち主が倒れているのではないかと顔を上げたが、それらしい姿はなかった。
代わりに目へ入った光景を、ファルコはすぐには理解できなかった。
周囲には、砕けた煉瓦や折れた柱、建物の残骸が幾重にも積み重なっていた。自分が横たわっていた場所も、崩れた建物の壁と壁の間に偶然できた、僅かな隙間に過ぎない。
そこでようやく、自分が瓦礫の只中にいることを悟った。
ファルコはマントを手にしたまま、よろめきながら立ち上がった。傾いた壁へ手をつき、瓦礫の山を一つ越えたところで、視界が開けた。
そこに広がっていたのは、破壊の限りが尽くされた街であった、遠くでは今も黒煙が立ち上り、見慣れていたはずのレベリオは、どこを見ても元の面影を失っていた。
「何があったんだよ……」
ファルコの脳裏に一人の少女の顔が浮かぶ。胸の奥が急に冷えた。
手にしていたマントを握り締め、瓦礫を踏み越えた。喉に絡んだ埃を咳き込みながらも息を吸い、破壊された街へ向かって声を張り上げた。
「ガビ!!」
投稿頻度が少し落ちます。
サシャ生存IFルートに入りましたが、果たして森の外へ出られるのか。ジルケが「計画通り」の顔芸を披露するのか気長にお待ちいただけますと幸いです。
(めちゃくちゃ苦しむ予定の兵長もお楽しみに)