マブラヴ グレートパトリオティックウォー 作:Eitoku Inobe
硝煙の匂いが漂う
これは祝日だ!
白髪交じりの頭で
これは喜びだ!
瞳には涙が浮かび
勝利の日
勝利の日
勝利の日
-”勝利の日”より抜粋-
勝利、それはなんと美しく麻薬的な響きの言葉であろうか。
勝利、人に一生涯の快楽と甘美な堕落を与え、永遠に忘れることの出来ない昂揚の記憶を植え付ける恐ろしいもの。
勝利、異なる民族、国家すら時にその名を振り翳して統合することすら可能な恐ろしい記憶。
勝利、未来への悪行を正当化しうる危険な歴史。
勝利、人が現実を忘れる為に、己と世界を騙す為に使う強力な美酒。
勝利、数え切れない屍の上に聳え立つ栄光の記憶。
勝利、全人類が目指す絶対の理。
勝利、敗北の反対語。
勝利、勝利、勝利、人類という種が初めて平等に受けた統一の記憶。
人類は初めての外星人の侵略に勝利した、この地球に住む全ての人にその麻薬的な栄光と伝説の記憶は深く、刻み込まれたのである。
真っ先にこの報せが届いたのはベルリン・ハイヴを包囲する各軍、軍団司令部、そしてその上級司令部であった。
特に第1ウクライナ前線はベルリンから数百キロ離れたポーランドのウッチで偵察用の無人機が記録している情報をリアルタイムで見ていた。
周囲にはヤゾフ、モイセーエフ大将を始め、数十名の前線司令部の幕僚要員が控えており、皆固唾を飲んで戦いを見守っていた。
そしてフレツロフ大佐のMiG-29が首を刎ねた瞬間、幕僚要員の興奮は最大に達した。
「新種の生命活動停止を確認……ベルリン・ハイヴの頭脳級は既に機能を停止していますので……ベルリン・ハイヴ自体の機能停止が確定しました」
分析官の1人が状況を精査し、そう伝えた。
「我々は、勝ったのか」
ふとヤゾフはその分析官に尋ねた、この戦争に12年携わっているヤゾフでさえ実感が湧かなかった。
しかし他に否定する材料はない、その分析官ははっきりと大きく頷いた。
そこから僅かに静寂の時間が訪れ、その反動が一気に爆発したかのように大きく歓声が沸いた。
普段無口である参謀もこの時ばかりは大声を上げて喜び、気難しい参謀も周りの同志と抱き合って勝利を喜んだ。
「やっと……終わったんだ……」
リヴォフ出身のある参謀は気が抜けたように一気にその場へ座り込み、喜びながら子どものようにわんわん泣いた。
彼の故郷にはハイヴが建設され、最早生きているうちは故郷に帰れないかも知れないと思っていたほどだ。
ヤゾフはまだ信じられなかった、彼は一番BETAが勢いをつけていた時から将軍としてBETAと戦っていたのである、そんなBETAが今日絶滅しただなんて考えられなかった。
彼は静かに椅子に座り、全身から力が抜けて行くのを感じた、本来はまだ作戦中だから彼らを諌めなければならないのにその気力もない。
「やりましたな!!同志元帥!!」
モイセーエフ大将は柄にもなく泣いていた、ヤゾフの瞳からも静かに涙が零れ落ちて行くのを感じる。
大祖国戦争以来だ、こんな感情になったのは。
あの時一介の大尉、少佐だった男が今回の戦争ではソ連邦元帥になって前線を指揮している、その上で再び勝った。
「ああ……我々は……本当に勝ったのだな……」
「はい!勝ったのです!!長い苦難と犠牲の果てに、我々はようやく……」
「おめでとうございます同志元帥!」
ローシク少佐も労いの言葉をかけてくれた、我々はどうやら本当にBETAに勝ったようだ。
1973年のあの時から誰がここまで辿り着けると思っただろうか、それでも人類はここに辿り着いた。
彼らはポルタヴァからキエフへ、キエフからリヴォフヘ、リヴォフからオーデルへ、ヴロツワフからプラハへ、プラハからウィーンへ、ウィーンからブダペストへと渡り、そして勝った。
12年の月日をかけて、多くの将兵を犠牲にして、ようやく勝ったのだ。
これは勝利である、絶対の勝利、曲げることの出来ない歴史。
勝利の報告は前線で包囲網を展開する東西問わず全ての将兵に伝わった。
ベルリン・ハイヴが陥落した、その報告と共に将兵は一斉に湧き上がった。
皆が肩を抱いて喜びを分かち合い、涙を流して勝利を喜び、先に戦死した戦友に向けて手向の言葉を送った。
何人かの将兵は手持ちのカラシニコフで上に向けて発砲し、勝利を祝った。
彼らはどこからともなくアコーディオンを出して曲を演奏し、歌を歌って喜びを表現する。
人によっては隠し持っていたウォッカを取り出して仲間達と共に勝利を分かち合って乾杯した。
寒く灰色の空にウォッカの高いアルコールが体に染みる。
あちこちで軍旗やソ連国旗が登り、勝利を喜んで旗が大きく振り上げられた。
「
彼らはこの時を12年待ったのだ、途中で戦いの中で死んだ者もいる、負傷して後方に送られた者もいる、全員で迎えることは出来なかった勝利を彼らは祝った。
当然この報告はモスクワのクレムリン、ワシントンのホワイトハウスにも伝わった。
モスクワでは通信社”ノーヴァスチ”が急いで原稿を書き上げ、ラジオ、テレビを通じてソ連国民にBETA戦争の勝利と終結を伝えた。
報告と共に各地の大都市では市民が家から出て街頭で勝利を喜び、高揚を分かち合った。
戦争とは今や軍人だけがするものではない、銃後の市民が戦争行動を支えることによって成り立っている。
彼らの中には兵役を終えてきた者もいるし工場で武器弾薬を作っている者もいる、夫や息子が戦場に行った者もいるし前の大戦の生き残りもいた。
皆、例え知らない人であってもソ連が手にした祖国防衛戦争の勝利を祝い、分かち合った。
それはモスクワでも、
クレムリンではその報告を聞いたブレジネフが安堵し、そのまま倒れかけたという逸話が残っている。
同じタイミングでクレムリンにいたウスチノフ元帥とオガルコフ元帥もその場で握手を交わし、互いに己の職責をやり切ったことを讃えた。
国防省、内務省、KGB本部、外務省や財務省、航空産業省や造船産業省などソ連の戦争行動を支えた各省も勝利を大いに喜んだ。
皆この日を迎える為に身を切り詰めて仕事に命を捧げてきたのだ、何人かは安心状態のまま気絶してしまった。
ホワイトハウスでも報告を聞いたレーガンは安心したように椅子に深く腰掛け、「急いで原稿を書かんとな」と国民への勝利報告の準備を始めた。
それと同時にブレジネフもレーガンも内心では戦後を見据えた考えをさらに巡らせていた。
特にブレジネフにとっては自分が死んだ後もソ連とソヴィエト人民が生きていけるような世界を作る為に、謂わば共産党員ブレジネフとしての総仕上げを成そうとしていた。
1985年2月2日、人類はBETA大戦に勝利した、だがそれは新しい戦後という時代の始まりでもあった。
戦争は人類の勝利に終わった、どんな形であろうと負けより最悪な勝利はない、特に相手が侵略者であればなおのことだ。
とはいえ勝利の代償とは時に戦中よりも国家を苦しめることになる、この戦争の代償は極めて大きいものだった。
人的被害は元よりBETAという存在の特性が災いをしている、戦場となった地域のインフラは根こそぎ破壊され、廃墟すら残らないことも多かった。
特に地球降下の第二陣が落下した東欧、中欧、南欧諸国の被害は甚大であり、1年以上前に奪還されて復興作業を進めているのにも関わらず状態は芳しくない。
特にベルリンに至っては文字通りの更地と化しており、地下施設も入り組んでいて相当面倒な代物だった。
ある者は廃墟となった1945年のベルリンの方がまだマシだと言った、各所に砲撃が叩き込まれ、幾万の人々が苦しんだ暗黒の時代だが街の原型は残っていたからだ。
ベルリンは降下ユニットが落下した衝撃で1973年には壊滅しており、ハイヴ建設がひと段落した70年代後半には完全にその姿を失っていた。
今でもベルリンはだだっ広い更地のままであり、所々に見える建物らしきものは前線に設置された指揮所や軍施設のテントだ。
それにBETAによる土壌汚染や核兵器による放射能汚染、砲弾を集中投入した影響による金属汚染も深刻であり、何人かの軍政担当の幕僚は「もうベルリンは捨てた方がいいんじゃないか」という意見すら出ていた。
しかしベルリンはドイツにとって本来の首都であり、ドイツ国民が本来統合の象徴となるべき場所である、そう簡単には見捨てられない。
ということで一応のベルリン復興計画が建てられ、これには東西双方が協力して実行することとなっていた。
まずベルリン州に国連軍軍政司令官としてイヴァノフスキー元帥が就任し第二司令官という名目で欧州軍司令官バーナード・ロジャース大将が就任した。
一応東西ドイツを立てるという名目で上級オブザーバーに東西ドイツの将官を2名配置し、その他のオブザーバーには作戦に参加したNATO、WTO諸国の将官を配置した。
基本的にベルリン州における戦後処理は近場のイヴァノフスキー元帥が担うことになったが、ドイツ全体の戦後統治はほぼ西側たるアメリカに委任することとなった。
というのも今のソ連に東ドイツまでを面倒見てやる力はない、ただでさえ戦前からおんぶしてやっても蹴りを繰り出してくる悪童だった東ドイツをもう一度面倒見ることは出来ないという事情があった。
1945年とは違い、ソ連はむしろドイツから手を退く方向で話を進めていた。
それだけソ連国内とワルシャワ条約機構諸国の被害が甚大なのだ。
それに今の東ドイツには自力で国家として生きていく力もあるかと言われれば極めて怪しい、ベルリン・ハイヴ落下でSEDの党幹部が殆ど死んだ東ドイツには行政に携わる人間が根本的に少なくなっていた。
そうでなければ国防相のフランツ・ホフマンが東ドイツの指導者になったりなどしない、今の東ドイツはソ連の支援なしでは瓦解するほど酷い有様であった。
その為東西ドイツの統合は西ドイツが東ドイツを吸収しつつ暫くは東ドイツは西ドイツの中で自治共和国として存続する形を取った。
建前上は東西ドイツは存在しているが制度的には統合が進み、やがて時間経過と共に東ドイツの自治権を西ドイツに返還という形で統合は完了する構想だ。
無論これはまだ明文化されていないし正確なプランニングも成されていない、一応1984年11月の米ソ首脳会合で話し合われた程度の内容だ。
今後は東西ドイツの首脳陣やNATO、WTO諸国も交えて国際的に話を進めていく必要がある。
その為今のベルリン軍政司令部に任された目下の課題は地下に残存するBETAの残骸の運び出しであった。
ベルリン・ハイヴの中には少なくとも数個軍を超えるBETAが展開していた、それに機能停止したエネルギー炉など自然環境に悪影響を及ぼす可能性の高いものがまだ残っている。
これを運び出しつつ土壌汚染の除去を開始し、ベルリンに再び都市を再建出来るよう整えるのが目下の課題であった。
運び出しには東西の空軍と工兵隊が動員され、焼却処理や土の入れ替えで土壌汚染を処理し、戦術機がハイヴに潜ってBETAの残骸を運んだ。
殆どのBETAは即座に炎で焼却処分を施されたが状態のいい戦術機級などは後方に運び込まれて生態調査に利用された。
「BETAに勝ったってのに仕事は減るどころか増える一方だな」
「それが工兵だよ、平時も忙しく戦時はより忙しくだ」
同時に軍政司令部で課題として上がっていたのはベルリン周辺に展開する国連軍部隊であった、戦時には必要な数であったが平時となった今では多すぎるのだ。
ベルリン州には包囲部隊だけで9個軍、9個軍団が展開しており、その背後には数個軍近い第二線が展開されていた。
戦争は終わったのだから展開する戦力は最低でも1個軍と西側1個軍団でも十分である、少なくとも3個前線は必要なかった。
ソ連軍大本営は既に後方にいた第2ウクライナ前線を本土であるウクライナ・ソヴィエトに帰還させ、部隊の解散を進めていた。
BETAの脅威がなくなった今野戦軍による前線は必要なくなった、むしろ動員解除をして国民と財政の負担を和らげなければ今度はソ連が経済的に破綻する。
ベルリン・ハイヴ陥落から3日後には第2ウクライナ前線の撤退命令が下され、それから6日後の2月8日には第2ウクライナ前線に動員解除による将兵の復員計画を策定するよう命令が出された。
前線司令官であるペトロフ元帥は暫くの間オデッサ軍管区司令官を兼任しつつ、そこで第2ウクライナ前線の動員解除を監督することになる。
これと同じように他4個前線にも同様の指令が下された。
まず南欧前線は展開地域をチェコスロバキアからルーマニア、ユーゴスラビアに変更し、名称も在中南欧ソ連軍に変更された。
在中南欧ソ連軍には中南欧の社会主義国家の復興を手助けし、必要であれば軍事的に各国と協力することが第一の任務とされた。
その為工兵隊や後方支援部隊は残されたが自動車化狙撃兵部隊や特に第10戦車軍は本国への移転が決まり、着々と戦力を減らして動員解除を行った。
更に言えばこの在中南欧ソ連軍も最終的には戦前の姿である中央集団と南部集団に戻し、更に規模を縮小する予定である。
このように南欧前線は暫く中南欧に残ることになったが沿バルト前線と白ロシア前線は本国へ戻ることとなった。
両前線司令官は軍管区司令官を兼任しつつ動員解除令の計画を実施せよと命令が出た。
この両方の命令を受けたのがヤゾフ率いる第1ウクライナ前線である、第1ウクライナ前線は戦力の半分をキエフ軍管区、復活する沿カルパチア軍管区に戻しつつ、残りはポーランドに駐屯して東欧諸国の戦後復興を支援するよう命じられた。
これにより第1ウクライナ前線としての任務は終了し、今後はソ連軍北部集団としてポーランドの復興を支えていくことになる。
戦前から一貫して任務が変わらないのは在独ソ連軍であった、この部隊は暫く東ドイツに駐屯して復興を支援しつつ、軍政司令部も兼任してベルリン復興に携わることが求められた。
勿論この在独ソ連軍も東ドイツの規模縮小に合わせて兵員も減らしていく予定である、後々策定された縮小計画では年々駐屯部隊を減らし、最終的には1個師団程度まで減らす予定であった。
出来れば戦前の戦力を維持したかったがソ連も懐事情が厳しいのだ。
無論縮小するのはソ連だけではない、NATO軍だってドイツからの本格的な規模縮小を打ち出した。
まず本国から連れてきたアメリカ軍は終戦と同時に即座に撤兵が始まり、常駐のアメリカ欧州軍に戦後を一任して本国への撤退作業を開始した。
フランス軍も即応部隊の一部のみをドイツに残して第1軍は完全に撤退、日韓中豪らの国連軍も何名かの連絡要員を残して本国への帰還を開始した。
暫くは戦前通りNATO北部軍集団と中央軍集団が西ドイツに駐屯し、戦後復興をサポートすることになる。
とはいえこの両軍集団も最終的には縮小が決定された、米第5、第7軍団も最終的には規模を縮小し、英軍ライン軍団に関しては解散して在独イギリス軍という小規模駐屯部隊のみを残すこととなった。
これに関しては他のNATO諸国も同様で東西双方、BETAの影響で手痛い被害を被った経済をどうにかする為に軍事力を引き下げる方向に移った。
BETAを打ち倒したはいいが誰も彼もが冷戦期レベルの戦力を維持することが困難になったのだ。
故に歴史は繰り返すこともなく韻を踏むこともなかった。
BETA大戦の終結時に人々が恐れたことは再び世界が東西に二分化されて冷戦が再度勃発するのではないかということだった。
あり得ない話ではない、ナチを倒す前までは双方に思惑があるとはいえ独ソはそれなりに仲良くやっていた、それが1947年以降はお互いがお互いを親の仇のように憎んだ。
BETAという共通の巨悪が倒れたことで再び時代は1947年に逆戻りするのではないかという不安は確かに存在していたし、実際戦中のように何もかもが上手くいくわけではなかった。
それでも米ソは互いに争おうとしなかったし、協力関係も途切れることなく続いた。
少し未来の1986年でも、1987年でも、1991年もそうだった。
東西による争いが再び起きることはなかった、一体何故なのだろうか。
理由は簡単である、戦争を通じてお互いわかり合ったわけでも指導者達が改心した訳でもない、ただこの戦争で世界は争うことすら出来ないほど力を失ったのだ。
それは純粋な軍事力だけの話ではない、経済、食料安全保障、あらゆる分野でBETAの被害を受けている。
故に米ソ共々再び冷戦として事を構える力すら失い、自然と戦うことをやめた、というより出来なくなった。
大量に軍隊へ動員した将兵は復員して市民社会に帰ってくる、彼らへの年金を含めた手当を払わなければならないし、新しい職も与えなければならない。
その上で今まで軍事力に振り分けていた経済や工業も徐々に民間需要へ戻していかなければならない、この作業は1つ間違えば経済が心停止して大変なことになるものだ。
戦争が終わったからといって世界は明るい時代を取り戻した訳ではない、暫くは不況が続くだろうし戦中を懐かしむ人も多くいるだろう。
しかも米ソはこの上でドイツやイタリア、オーストリアや中東、インド、アフリカ諸国、東欧、中欧南欧諸国の戦後復興も助けてやらなければならない。
国連による支援の枠組みもあるとはいえ自国の経済を立ち直らせながら同盟国も助けなければいけないのは本当に大変なことだった。
米ソは暫く軍事的には超大国を維持するがその他の面では苦しい立場に立たされることになる。
それでも盟主として宗主として権威を持つ以上その分の責任を負わなければいけない、超大国の特権は常に責任とセットなのだ。
どちらかを手放そうとすればその国はゆっくりと知らぬ間に超大国の座から引き摺り下ろされることになる。
こうした面倒毎があるから最初アメリカ側が東西ドイツの統合に難色を示した、端的にいうと東ドイツの面倒まで見たくなかったのだ。
アメリカは超大国である、世界中に軍事的プレゼンスを発揮出来る稀な国であり今次戦争でも国連軍派遣部隊の実質的な指導者としてインド、中東、アフリカでの攻勢を成功させてきた。
それ故に暫くはアメリカと各地に展開するアメリカ軍が各国の復興を手助けする、そこに特段戦争被害が大きい東ドイツまで加わるのはレーガンだって眉を顰める。
ただ結局今や西ドイツの方が圧倒的に軍事、経済で勝っており、統一ドイツを指導出来るのは西ドイツだけとなった為アメリカに親権が引き渡された。
ソ連はようやく東ドイツという脆い妖刀から解き放たれ、逆にアメリカと西ドイツは今後暫くは東ドイツという亡霊に頭を悩ませることになる。
どちらにせよ戦後の統治に関する大まかなプランニングは完成した、後は経済が崩壊して全てが無茶苦茶にならないよう慎重に事を進めるのみだ。
二度と消えない傷であっても痛みが少しでも和らぐように。
-ドイツ連邦共和国領 ハンブルク州 ハンブルク市 ハイリンゲンガイストフェルト-
1985年3月11日、本来の歴史なら10日書記長チェルネンコが死去し、ミハイル・ゴルバチョフが新しいソ連共産党書記長となっているはずであった。
だが驚くべきことにチェルネンコどころかアンドロポフも、ブレジネフも生きており、なんならあのワシーリー・チュイコフソ連邦元帥も存命であった。
彼らは皆自分が死んだらソ連はどうなるという強迫観念で寿命を伸ばしていた、迫る死神の手を払い退け、人によってはAK-74を持ち出して死神に銃口を突きつけた。
故にソ連は大した混乱もなく戦勝と終戦を迎えることが出来た、1982年にブレジネフが死んでいればその混乱は前線に影響は出ないまでも大きいものだっただろう。
この日、国連軍はハンブルクで対BETA戦勝記念式典が開催され、東西双方の国々が参加した。
丁度この日なら戦闘に参加した国連軍各国が帰還せずドイツ本土にいる状態であり、タイミング的にも1ヶ月以上の月日が経っていることから丁度良かった。
出席したのは主に今回のダウンフォール作戦に参加した将兵と司令官達、そして国家元首と外務大臣であった。
パレード会場はハンブルクのハイリゲンガイストフェルトの広場で開催され、来賓を呼ぶステージとパレード参加部隊が並ぶ行進会場に分かれていた。
東西双方のパレード参加部隊が空輸及び陸路で運ばれ、午前9時30分には各隊整列を完了していた。
物々しい雰囲気が漂う会場ではあるが皆BETAに勝利したという喜びに満ち溢れている。
ステージ側では開催時間の10時を回るまで外務省職員が各国の職員と雑談形式で重要な話を交わしていたり、様々な国の将兵が雑談を交わしていた。
今回フレツロフ大佐は来賓側で式典に出席していた、超戦術機級を打ち倒した張本人であるからそれくらいの待遇はある意味当然である。
同じように少将へ昇進したベレンコ少将やベルグロフ大佐も式典に
留守番はデルーギン中佐やオルゼルスキー少佐に任せ、フレツロフ大佐と参謀長のメデツィーニン中佐が式典に出席した。
別に戦術機に乗ってエアショーをするわけでもないので彼らは空軍の礼服を身につけている。
青い生地に黄金のベルト、金色のショルダーボードの肩章に制帽には空軍特有の1つ星と翼の装飾が取り付けられている。
何より目を引くのが両胸に付けられた勲章の数々、普通34歳で貰えるものではない。
ベルリン・ハイヴにおける戦功が認められて新たにレーニン勲章と赤旗勲章を1つ贈られた。
ソ連邦英雄の金星を筆頭に左胸にはレーニン勲章2枚、赤旗勲章2枚、剛毅勲章1枚、レーニン生誕100周年記念記章1枚、対独戦勝30周年記念記章1枚、ソ連軍建軍60周年記念記章1枚、ソ連軍勤続顕彰10周年記章が並んでいた。
そして右胸には三等スヴォーロフ及びクトゥーゾフ勲章、2つの赤星勲章にソ連軍祖国貢献勲章、この上で後々リヴォフからベルリンまでの解放記章がフレツロフ大佐らには与えられることになる。
「パレードに参加するのなんて何年振りだろう」
「私は一度5年前の戦勝記念パレードに参加したからな。そう懐かしいものではないさ」
2人は大佐と中佐でありながらかなり前線司令官たちに近い席を当てがわれていた、それだけ英雄フレツロフの影響力は強いのだろう。
周りの東西双方の軍人達もフレツロフ大佐を見るなりヒソヒソ小声で何か話をしていた。
「……注目されているな……」
若干気まずそうな顔でフレツロフ大佐は空を見上げた。
「有名税ってやつだ、我慢しろ。かの同志コジェドゥーブや同志ポクルィシュキンもそうだった、お前もその仲間入りだよ」
「あんな航空元帥の方々と比べられちゃあ困る」
「後10年、15年すればお前もああなる。覚悟しておくんだな、同志フレツロフ航空元帥殿」
冗談を言ってきたメデツィーニン中佐を軽く小突いて戯れあっていると本日の主役達が登場した、東西双方の軍以上の司令官である。
まずアメリカ欧州軍兼欧州連合軍最高司令官のロジャース陸軍元帥を筆頭に北部軍集団のナイジェル英陸軍大将、パットン4世米陸軍大将、アメリカ本国遠征軍司令シュワルツコフ大将、第2連合戦術空軍司令パトリック・ハイン王立空軍中将、第4連合戦術空軍司令ウィリアム・E・ブラウンJr空軍中将らが先に会場へ入った。
その背後には各軍集団参謀長が続き、更にフランス第1軍司令のドルビー大将、日本軍ヨーロッパ派遣軍司令山城大将など国連軍の参加部隊司令官が集まってきた。
外国軍とはいえ目の前にいるのは皆自分より上位の階級保持者、フレツロフ大佐とメデツィーニン中佐は立ち上がって敬礼した。
その次にやってきたのは東側の将軍達、筆頭として在独ソ連軍司令イヴァノフスキー元帥、WTO統合軍総司令クリコフ元帥、第1ウクライナ前線司令ヤゾフ元帥、沿バルト前線司令ゴヴォロフ元帥、白ロシア前線司令アフロメーエフ元帥、そしてWTO統合軍隷下の諸国軍の司令官達。
この中には1人、最も敬意を払うべきソ連邦元帥がいた、元第8親衛軍司令にしてソ連地上軍総司令官ワシーリー・チュイコフである。
チュイコフ元帥は高齢ながら東ドイツに残って象徴して戦争を支援し、齢85歳にして二度目の大祖国戦争の勝利を間近で見た。
近年は体調も優れない為この式典に参加した後はモスクワへ一旦帰還されるそうだ。
歴戦のソ連邦元帥を前にしてフレツロフ大佐とメデツィーニン中佐の背筋もしっかり伸びた。
その後にこの戦いに参加した各国の首脳、外相らが席に訪れ、将軍達の敬礼を受けながら席についた。
時間になると何名かの将軍達は立ち上がって米陸軍大佐の誘導を受けながら壇上を降りてパレード参加部隊の閲兵式を開始した。
イヴァノフスキー元帥、ロジャース元帥が並び、その背後にナイジェル大将やパットン4世、シュワルツコフ大将、ドルビー大将、ヤゾフ、ゴヴォロフ元帥、アフロメーエフ元帥らが続いた。
9名の将軍達は敬礼しながら広間に集まった各国軍のパレード参加部隊を閲兵した。
英米仏独ソは元より、日中韓豪の東アジアの国々に加えてNATO加盟国であるベルギー、オランダ、カナダ、イタリアの国々にオーストリアやイラン、WTO加盟国のポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、そしてユーゴスラビアの部隊が歩兵と車両を並べている。
圧巻というという言葉が相応しいだろう、今ハンブルクには東西双方のヨーロッパ、アジア関係なく多種多様な軍隊が集まっていた。
M1エイブラムスにチャレンジャー1、レオパルト2A4にAMX-40、そしてK1や三四式戦車に人民解放軍の戦車、東側にはT-80BVにWTO諸国のT-72などがずらりと並んでいる。
冷戦期からすればありえない光景であった、本来彼らがその力を維持しながら手を組んでいることが奇跡なのだ。
将軍達の閲兵式が終了すると彼らは座席に戻り、演説の時間がは始まった。
最初の演説は国連事務総長のハビエル・ペレス・デ・ヤクレル氏によるものだった、BETA戦争の勝利を祝い、今日に至るまで戦い続けた世界中の全将兵を労い、そして平和とBETA支配の恐怖からの解放が永遠であることを願って演説に幕を下ろした。
フレツロフ大佐を始め、壇上の全員から拍手が響き、ヤクレルは席に戻った。
次に演説の壇上に立ったのはチュイコフ元帥であった、チュイコフ元帥はこの中だと数少ない前の大戦で将軍として部隊を率いていた人物だ。
彼は85歳になったのにも関わらずしっかりとした背筋で壇上に立ち、優れた軍司令官としての心をその瞳に宿していた。
チュイコフ元帥はこの日、ソ連邦元帥の礼服を着用していた。
その勲章の量はあれだけの働きをしたフレツロフ大佐を持ってしても敵わぬほどであり、二重ソ連邦英雄でありながらレーニン勲章だけでも9枚、赤旗勲章は4枚も保持していた。
これらの勲章をつけた上でチュイコフ元帥の礼服には新たに2つの記章が付けられている、1985年版のベルリン解放記章と1985年対BETA戦勝記念記章だ。
2つの記念記章は1月から既に作成が始まっており、デザインが決まった1月末から急いで生産して3月9日にベルリンへ届けられた。
チュイコフ元帥はその第一号を身につけていたのだ。
彼が1981年のザーパド作戦成功の折にふと冗談めいて呟いた、もう1枚ベルリン占領記章が欲しいという願いはこうして叶えられた。
「ご機嫌よう全世界の将兵諸君、人民諸君、そして前の大戦の退役軍人諸君、まず偉大な勝利に祝福を述べよう。我々はナチ・ドイツを超える新しい侵略者を皆で撃退した、これに勝る喜びはない」
この式典には世界各国の報道関係陣が集まっており、放送は中継でリアルタイムでテレビに流れている。
無論各カメラごとに画角は様々であるが今はほぼ全てのカメラがチュイコフ元帥に集まっていた。
「我々はかつて40年も前に同じ場所でベルリンをファシストの手から解放し、世界を侵略の恐怖から解き放った。あの時も我々は数多の犠牲の果てに勝利した……決して楽な道ではなかった」
スターリングラードではチュイコフ元帥自身も死にかけた地獄の戦場である、一歩でも後退すればスターリングラード自体が陥落する恐れがあった。
その為血と大地を引き換えに第62軍はスターリングラードを死守した、あの犠牲がなければ大祖国戦争で完全な勝利は収められなかった。
そして今回もソ連は、世界は多くの若者を戦地へ送り、そして犠牲の果てに勝利を掴んだ。
この戦いで戦死した将兵は1,000万人は下らないだろう、多すぎる若者達が戦場で命を落とした。
「今回の戦いでも我々は数多の将兵が犠牲となった、皆祖国を守る為に戦った勇敢な兵士達だ……彼らに哀悼の意を表すと共に我々は彼らの犠牲に応えなくてはならない」
平和を求める為には戦いに備えなければならない、特にBETAは地球上から絶滅しただけでまだ月面には存在している。
「この勝利を我々人類の教訓として引き継ぎ、10年、20年後もBETAが地球上に存在しない未来を、やがては月面や火星からBETAが存在しなくなる未来を作っていかなければならない。それが我々生き残った者の使命だ。我々は常に備え、常に平和を守り抜かねばならない。犠牲となった兵の為、明日を生きる全ての子ども達、人民の為、我々は軍人として祖国と世界の為にBETAと永劫立ち向かっていなかければならない!」
これはある意味で戦後各国が持つ軍隊の指針となった。
敵はBETAである、まだ月面という側近くにいるBETAを打ち倒して二度とBETAに地球上を踏み荒らされることのないよう全力で阻止する。
それはソ連やアメリカ1国の願いではなく、全人類の悲願であった。
「私はそう長くない、最後に軍人としてこの戦争の勝利に携わり、世界が勝利する瞬間を間近で見れたことを光栄に思う。ママエフ・クルガンから見守っている、平和になった世界を、より良い未来を。若き諸君に平和と軍人の使命を託そう、未来永劫この勝利の記憶が途切れずに伝わることを切に願う。祖国ソヴィエト連邦と人類の勝利に万歳…!」
その一言と共に演説は終了し、戦勝を祝う空砲が鳴り響いた。
チュイコフ元帥は息子アレクサンドル・チュイコフや副官らに支えられ、壇上を降りた。
戻ってきたチュイコフ元帥はイヴァノフスキー元帥や他のソ連邦元帥から暖かく迎えられた、彼らにとってもチュイコフ元帥とは上官であり先輩なのだ。
1985年3月18日、3月13日に祖国ソヴィエト連邦へ帰国したチュイコフ元帥は僅か5日後に85歳の生涯を終えた、史実より3年長く生きた形となった。
彼は戦中からの希望によりかつてスターリングラードと呼ばれたヴォルゴグラードのママエフ・クルガンに埋葬された。
スターリングラードを守り、ベルリンを占拠し、ソ連地上軍総司令官、民間防衛長官などを歴任し、主戦場だった東ドイツで取り残された在独ソ連軍と共に戦ったトゥーラ生まれのソ連邦元帥は初めて安心したように永遠の眠りについた。
二度の祖国の勝利を静かに見届けて、二度のベルリン占領記章を身につけて。
-ポーランド人民共和国領 ウッチ県 ウッチ市 ソ連軍第1ウクライナ前線司令部-
4月15日、東ドイツ国内に駐屯していたソ連軍は在独ソ連軍を除いて全てポーランドより東へと撤退した。
沿バルト前線が今まで行っていた後方での復興作業を第1ウクライナ前線が引き継ぎ、各所に工兵隊などを配置して都市部の復興に従事させた。
その間に白ロシア前線と沿バルト前線の部隊は本拠地であったカリーニングラードからエストニア・ソヴィエトのバルト諸国、白ロシア・ソヴィエトへと撤退していった。
まず優先して戦時中に設立された野戦軍が本国へ帰り、そのまま動員解除令を受け、将兵の殆どが復員して市民生活へ戻っていった。
列車で最寄りの駅に着くとそこには既に何百人を超える市民が集まって帰ってきた兵士達を出迎えた。
花束が投げられ、街を歩くと人の列からやってきた少女や若い女性が見ず知らずの兵士に花束を送り、キスをして勝利の感謝を伝えた。
人生数十年生きてきてこれほど讃えられ、誇らしい気持ちで歩いたことはないと殆どの兵士がニヤケ面で喜びを全く隠していなかった。
彼らは命を賭けて戦いに勝ったのだ、これくらい本来受けるべきである。
軍服と勲章を携えて意気揚々と凱旋気分で家へ帰る、辛いことも多かった軍隊生活ではあるが勝利というかけがえのない手土産が出来た。
動員兵の復員がある程度ひと段落つくと各前線は冷戦期から常設で設置していた野戦軍、戦車軍を本国へ戻した。
沿バルト前線であれば第11親衛軍であろう、これは戦前から存在する常設の部隊であった。
国防省は戦中に設立した部隊は解散する予定であったが戦前から存在する部隊についてはまだ解体するか指示を出していなかった、少なくとも戦後の国防戦略が纏まらないうちはどうにもならない。
少なくとも1985年4月15日までには沿バルト前線司令部と白ロシア前線司令部は元々あった軍管区司令部の場所へ戻り、戦力を全てポーランドから引き払った。
彼らと同じく第1ウクライナ前線司令部も暫くの間、動員兵の帰還事業を行っていた。
第1ウクライナ前線に属する8個軍のうちまず第4親衛戦車軍、第24軍、第34軍、第60軍を本国へ戻し、第4親衛戦車軍を除く3つの諸兵科連合軍を解散した。
第4親衛戦車軍は暫くキエフ軍管区所属の戦車軍となり、第1親衛軍の代わりを果たした。
それと時を同じくして第4軍を本来の本拠地であるザカフカース軍管区へ帰還させた、ヤゾフの古巣であった第4軍もようやく本拠地に帰ることが出来た。
空軍と防空軍に関しても第8航空軍と第2防空軍をウクライナ・ソヴィエトに戻し、本国の防空に充てた。
これでポーランドに展開するのは第1親衛軍、第3親衛戦車軍、第9親衛軍、第17航空軍となった、戦中から戦力は半減したがこれでも多いくらいだ。
あと数年したらこの3個軍も本国へ戻して戦前の北部集団と同じレベルにまで引き落とさなければならない。
これがまた骨の折れる作業だ。
戦争が終わったというのにヤゾフは休むことなく兵の帰還事業とポーランドに復興について日夜会議に出席し、詳細な内容を部下と共に詰めていた。
今も前線軍事評議会の流れて参謀長のモイセーエフ大将と政治部長デメーンティエフ大将を引き連れて執務室に戻ってきた。
ヤゾフは執務室のデスクに腰掛けて飲みかけの冷えた代用コーヒーを口にした。
「せっかくBETAを打ち倒したというのに全く休みがないな、むしろ戦中より忙しい」
「それだけ戦うことよりも別に仕事が出来たということです、良いことですよ、皆が明日に向かって歩み始めている証拠だ」
こればかりはデメーンティエフ大将に同調するしかない、戦後の仕事に取り掛かれるようになったのは大きい。
以前は軍事評議会の話題と言ったらBETAの襲来報告や対応についてがメインであったが、今では動員解除や都市復興に関する軍民協力の話が多い。
このような議題を詰めていくほど戦争が終わったのだと実感出来る。
「そういえば後数週間で対独戦勝記念ですな」
ふとモイセーエフ大将が口を開いた。
5月9日が基本的にソ連がナチス・ドイツを倒したという対独戦勝記念の日になっている。
5年前の1980年以来ずっとパレードは行っていなかったが、今年は対BETA戦勝記念パレードも含めてモスクワで大規模に実施すると発表された。
当然第1ウクライナ前線として一軍を率いてきたヤゾフもパレードの従越部隊指揮官として参加する。
「ああ、私は明後日にはモスクワに飛ぶ。事前リハーサルもあるからな」
「我々は5月に向かいます。暫くこちらのことは我々にお任せください」
「頼む、だが報告はこっちにも送ってくれ。遠方だが出来る限り対応する」
モイセーエフ大将が頷くと執務室のドアを軽く叩く音がした、丁度呼び出した人が来るようだ。
「失礼します、第306独立親衛戦闘航空連隊長フレツロフ大佐入ります」
「よく来てくれた」
敬礼し、中に入ってきたのはフレツロフ大佐だった。
平時である為彼はソ連空軍の常勤服を着ている、オリーブ色の制服に空軍を示す青い襟章と肩章の二本線、大佐を示す3つ星が付けられていた。
フレツロフ大佐が入ってきた時モイセーエフ大将とデメーンティエフ大将は席を立って退席しようとした。
「いや、2人残ってくれて構わない」とヤゾフが断りを入れて2人をその場に残らせた。
「3月の式典以来だね」
「はい、あの時は人が山ほど来て大変でしたよ」
「君はもうソ連空軍の英雄だ、有名税のようなものだよ」
フレツロフ大佐は苦笑した、正直将官が3人もいるとは思っていなかったので若干気が引ける。
ヤゾフは机に置かれていた報告書を置いて席を立ち、デメーンティエフ大将の隣に座った、丁度フレツロフ大佐の反対側に位置する場所だ。
「話したいことは来月の戦勝式典と君の連隊についてだ。一応式典の方、君が選んだ参加メンバーを確認した。私もこれに了承する、モスクワへはいつ出立する予定だ?」
「明日、チェンストホバからMiG-29でそのまま飛びます。途中マチュリシィ飛行場に降りて補給を受けてから一気にモスクワまで」
「分かった、モスクワでまた会おう」
フレツロフ大佐率いる第306独立親衛戦闘航空連隊はその働きぶりを評価されて今回の対BETA戦勝及び対独戦勝40周年記念パレードでエアショーとしてモスクワの上空を飛ぶ予定であった。
人選としてはフレツロフ大佐とブリツェンスキー中佐、ルヴィロヴァ大尉の本部編隊に加えて第1飛行隊からデルーギン中佐の編隊、第2飛行隊からオルゼルスキー少佐の編隊とマリロフ大尉の編隊を連れていく。
合計12機の戦術機がモスクワの上空を飛び、戦勝記念パレードに彩りを加えるのだ。
留守番はメデツィーニン中佐とシュペーギン少佐であり、何かがあれば彼らが非常時に対応する予定だった、尤も今更非常時があるとは思えないのだが。
「モスクワでのパレードの話は以上だ、さて本題に入ろう。第306独立親衛戦闘航空連隊についてだ、戦時に設立された君の連隊だが空軍の連中は解体せず残しておきたいという話を打ち出した」
「うちの連隊をですか?」
「ああ、確かにハイヴを8つも制圧して9つの頭脳級種撃破に貢献した連隊は殆どいない。常設3個飛行隊でバランスも取れているし、私も反対はしない」
第306独立親衛戦闘航空連隊の戦果は桁外れである、並大抵のBETAは殆ど打ち砕いてきた。
しかも連隊長であるフレツロフ大佐が超戦術機級を打ち倒したことによりかの連隊は空軍の伝説となった、ソ連空軍だけではない世界空軍史に残る貢献だ。
よって第306独立親衛戦闘航空連隊を解体するのは流石にどうかという意見が浮上し、通常の戦闘航空連隊と同じ運用で用いるのはどうかという話になった。
「だが引き続き君を連隊長に、という訳にもいかない。君は遅くても3年後には少将に昇進することは決まっている。そのまま師団長になるか学校長になるかは追々決めていくが、とにかく後任の連隊長を決める必要がある。そこで君に後任は誰がいいか尋ねておきたいんだ」
少将昇進の内定が強すぎたが最後のところでフレツロフ大佐はもう一度頭を使って考えた。
とは言っても答えはとうの昔に決まっている。
「私としてはこのまま副連隊長のデルーギン中佐を昇進の上、連隊長にするべきかと。戦友以前に彼は連隊長として十分な資質があり、今回の戦争で指揮能力の高さを如何なく発揮しました」
「そうか、メデツィーニン中佐はどうだ?」
「勿論彼も連隊長としての才覚はありますがこのまま航空師団参謀長や航空軍参謀の方があっているかと。彼の指揮立案能力や調整力には助けられました」
「分かった、君がよく人を見ていることも理解した。私もデルーギン中佐を推挙しよう、ありがとう大佐」
英雄達を輩出した伝説の連隊にも新しい1ページが刻まれるようだ。
やがて離れる古巣だがフレツロフ大佐はどこか嬉しくなった。
これも戦争に勝利したから得られる歴史だ、人類は確かに生き残って新しい明日を着実に歩んでいた。
-ソ連領 ロシアSFSR 首都モスクワ クレムリン赤の広場-
1985年5月9日、大祖国戦争の戦勝から40年経ったこの年、モスクワでは対BETA戦争戦勝記念パレードと対独戦勝40周年記念パレードが同時に開催された。
ナチス・ドイツを打ち倒したという過去の栄光と伝説、BETAを打ち倒したという現在の栄光と伝説を一度に祝うのだ。
参加する部隊は5年間の対独戦勝35周年記念パレードとは比較にならない規模の部隊がいた。
在独ソ連軍を始め、第1ウクライナ前線、白ロシア前線、沿バルト前線、第2ウクライナ前線、そして南欧前線、その上で海軍、空軍、防空軍、空挺軍、戦略ロケット軍、ソ連宇宙軍、ソ連国内軍、ソ連国境軍の部隊も並んでいる。
これらの前線からパレードの参加部隊を集めており、赤の広場には凄まじい数の将兵が軍旗や小銃を片手に整列していた。
歩兵部隊の隊列から少し離れたところには車両行進用の部隊が並んでおり、数え切れないほどのMBTに加えて核弾頭運搬車両も控えていた。
この日のモスクワは若干薄っら雲が掛かっていたが日は差していた、隊列を組む将兵は誇らしげな険しい顔のまま待機しており、その旨には数々の勲章と従軍記章がつけられていた。
将兵には一律で対独戦勝40周年記念記章と対BETA戦勝記念記章が授与され、少なくとも全員がそれを装着していた。
レーニン廟の側には来賓の退役軍人やモスクワ市民、現役軍人、外国の軍人や駐在官、報道陣らがパレードの時間を待っており、丁度数分前にブレジネフら党の重鎮達が姿を現した。
今回パレード参加部隊の閲兵式は国防大臣ウスチノフ元帥に代わって南欧前線司令官のソコロフ元帥が務めることとなった。
ウスチノフ元帥はこの所体調が優れず、閲兵式をソコロフ元帥に任せてグレチコ元帥と共にレーニン廟の上にいた。
ウスチノフ元帥は以前より元気がなくなった、今年77歳になる人にしては元気だがそれでも以前よりは静かになったと隣にいたオガルコフ元帥は感じていた。
壇上にはグロムイコやコスイギン、アンドロポフら党幹部に加えてクリコフ元帥、パヴロフスキー元帥、ゴルシコフ元帥、クゥタホフ総元帥、コルドゥノフ総元帥、トルブコ総元帥、カラシィ元帥と言ったソ連軍各総司令官が集まっていた。
軍楽隊の総指揮はニコライ・ミハイロフ少将が5年前に引き続き務めていた。
そしてパレード受閲部隊の指揮官は第1ウクライナ前線司令ヤゾフがその任を受け持っていた。
スパスカヤ塔の時計が10時を指し、その鐘が赤の広場に鳴り響く。
鐘が鳴り響く中、ヤゾフは全隊に向けて命令を告げた。
「受閲部隊、気をつけ!頭向け左!捧げ銃!」
祝典受閲行進曲『赤軍25周年』と共にヤゾフが乗り込むZIL-4104はこちらに迫るソコロフ元帥のZIL-4104と向き合って停止し、敬礼したままソコロフ元帥に報告する。
「同志ソ連邦元帥、全前線部隊は対BETA戦勝記念及び対独戦勝40周年記念パレードの為、整列完了しました!パレード受閲部隊指揮官、ソ連邦元帥ヤゾフ」
その報告と共にZIL-4104は動き出した、ミハイロフ少将もタイミングを見計らって演奏を再開した。
勝利の戦車兵行進曲と共に2両ののオープンカーは在独ソ連軍のパレード参加部隊の前にたどり着いた。
今回のパレードの筆頭部隊である。
「ご機嫌よう同志在独ソ連軍の諸君!」
「ご機嫌よう同志ソ連邦元帥!」
「対BETA戦勝記念及び対独戦勝40周年記念をここに祝す!」
「
挨拶が終わると再び車両は動き出した、今回は士官学校巡閲行進曲ではなく巡閲行進曲が流れ、第1ウクライナ前線のパレード参加部隊の下へ向かった。
「ご機嫌よう同志第1ウクライナ前線の諸君!」
「ご機嫌よう同志ソ連邦元帥!!」
「対BETA戦勝記念及び対独戦勝40周年記念をここに祝す!」
「
こうしてソコロフ元帥はヤゾフと共に全てのパレード参加部隊を閲兵し、最後は栄光あれと共に赤の広場、レーニン廟の前まで戻ってきた。
遠方から撮影しながらその様子を中継する報道のアナウンサーは車から降りた後のソコロフ元帥の説明を行なっていた。
『ソコロフソ連邦元帥が今霊廟の階段を登りました!』
その裏では各前線の将兵が万歳と叫び、音声と共に赤の広間中に木霊した。
演奏も終盤に差し掛かり、全てが流れ終えるとミハイロフ少将は演奏を止めてヤゾフの言葉を待った。
「休め!」
それから数秒後ファンファーレが鳴り響き、美しいメロディーがパレードの始まりを告げた。
壇上に上がったソコロフ元帥がソ連軍人を代表して対BETA戦勝と対独戦勝を祝う演説を始めた。
この手の演説は基本的にパレード閲兵官を務めたソ連軍人がやるものであり、1945年の戦勝パレードに関してもスターリンではなくジューコフ元帥が演説を行った。
本来なら国防大臣のウスチノフ元帥がやるべきなのだろうが、やはり体調不良を理由に断った。
「同志ソヴィエト連邦軍の軍人諸君、同志大祖国戦争退役軍人及びパルチザン、銃後の労働者の方々、親愛なる諸外国の来賓の方々、ソ連共産党中央党委員会とソ連共産党、ソ連最高評議会幹部会とソ連各行政機関、そして世界に向けて挨拶と対BETA大戦戦勝と対独戦勝40周年という2つの戦勝記念をお祝い申し上げます。この二度の戦争で我々は二度の侵略を受け、そして二度も撃退に成功し勝利を掴み取りました」
典型的な定型文から始まり、ソコロフ元帥の演説が始まった。
「40年以上前に我々はこれ以上にないほどの試練を経験し、それに打ち勝ってきたした。それから30年、我々は再び耐え難い試練を12年に渡り受け続けることとなりました。しかし我々は再び勝利した、それは何故か?我々人類が、世界が、異星人の侵略的ファシズムに屈しないという強い意志を持ち、我々人類が作った世界がBETAよりも削ぐれた素晴らしいものだったからです。優れた社会主義国家の経済が戦争行動を支え、社会主義国家の優れた軍事力が、優れた党の統一指揮の下に発揮され、BETAの軍団を打ち砕くに至りました」
社会主義国家的な文章だったが勝ったことに変わりはない、党の指導云々はプロパガンダも入っているが事実ではあった。
彼らは勝ったのだ、どれだけの犠牲を払おうとも。
「コルホーズの食料が将兵の腹を満たし、知識人の新技術がBETAを打ち砕き、世界中の民族が団結することによって世界からBETAを駆逐することに成功しました。これは我々社会主義国家の勝利であり、人類の勝利であり、世界の勝利なのです」
演説はこの後も続いた、凡そ13分ほど演説は続き、最後は勝利を祝う言葉で締め括られた。
「大祖国戦争とBETAとの戦争で戦死した全ての軍人へ哀悼を、戦勝に貢献した全ての軍人とパルチザン、地下労働者達、戦線を支えた労働者、女性、科学者に栄光を、そして我々が命をかけて守った未来と明日を生きる世界の子ども達に祝福を。祖国防衛に貢献した全ての者に永遠に薄れぬ栄光の記憶を。英雄的な全世界の人々、ソヴィエトの人民に万歳、勇敢なる我がソヴィエト連邦軍と全世界の諸国軍よ、我々の偉大な祖国ソヴィエト連邦と世界よ永遠なれ。レーニンが作りしソヴィエト連邦共産党に栄光あれ。我々が今日における勝利を掴む為に努力した世界全人民の立役者に
「
将兵から万歳三唱が聞こえ、それに合わせてミハイロフ少将が指揮を始める、ソヴィエト連邦の国歌を、永遠に残り続ける社会主義の歌を。
称えあれ、我らが自由なる祖国よ
諸人民の友好の確かな砦よ
人民の力、レーニンの党よ
共産主義の大捷へと、我らを導き給え
国歌演奏は祝いの空砲と共にモスクワ中に木霊し、確かな勝利を全世界に轟かせた。
そのメロディはモスクワで、確かに鳴り響いているのだ。
演奏は終了し、いよいよ本格的なパレードが始まった。
「受閲部隊、気をつけ!祝賀行進準備!各部隊、列線兵1人分の間隔を取れ、第1大隊はそのまま、その他頭向け右!構え銃!右へならえ!」
第154警備連隊の兵士が等間隔に配置され、その間にドラムの音が鳴り響き期待感を高める。
全ての準備が整うと、ヤゾフは静かに命令を出した。
「全隊!前へ進め!」
ヤゾフを乗せたZIL-4104が先行し、その後にモスクワ・スヴォーロフ軍学学校の生徒が後に続いた。
いよいよ隊列行進が始まった、流れる軍楽は万歳我が祖国、勝利の赤旗が靡く中モスクワ・スヴォーロフの生徒達は偉大なソ連邦元帥の背中に続いて赤の広場を誇らしげに歩いた。
この間にもアナウンサーによる解説は続いている。
『勝利の旗、長き戦いの道を歩んできた全ての将兵をこの広場へと運ぶ凱旋の旗です。ここに記された全ての前線が1945年にナチス・ドイツを打ち破り、大祖国戦争の勝利を手にしました。そしてこの前線は現代において再び我々ソヴィエト人民をBETAの恐怖から解放するに至りました』
後ろには前の大祖国戦争と今回のBETA大戦で戦果を上げた全ての軍、軍団、師団、連隊の旗が掲げられて赤の広場を行進している。
正に過去と現代の勝利が融合したかのような壮観さだ。
3軍の儀仗兵が隊列を組んで行進し、その後には数年孤高の戦いに打ち勝ってきた伝説の軍が続いた。
『次に赤の広場を行進するのは在独ソ連軍のパレード参加部隊、1973年の悲劇から盟友ドイツ民主共和国を守る為に本国から孤立しながらも果敢に奮闘し、1981年のザーパド作戦までドイツ防衛に成功しました。最も孤独かつ凄惨な試練を乗り越えた祖国の英雄達です。指揮官はイヴァノフスキーソ連邦元帥に代わり、ウラジーミル・ヤクーシン上級大将が務めています』
イヴァノフスキー元帥は霊廟の壇上にいた為パレードの指揮はヤクーシン上級大将に任せていた。
中隊、大隊規模の隊列が複数個続き、ミハイロフ少将が演奏する在独ソ連軍の歌のメロディラインに合わせてモスクワを行進する。
彼らは最も辛い時代を最も辛い場所で孤独に過ごしてきた、ソ連の最精鋭は東ドイツでたった1人で戦い続けていたのだ。
それもようやく1人ではなくなった、1981年にザーパド作戦でポーランドを解放して東ドイツとの陸路を繋げ、彼らは孤独ではなくなったのだ。
霊廟の上からは将軍達が敬礼し、来賓席からは拍手で迎えられる、彼らもようやく12年の時を経て報われる時が来た。
『赤の広場左手から行進するのは第1ウクライナ前線、BETAの侵入から我々の防壁となりながら1979年にはポルタヴァから大攻勢を開始しキエフを奪還、その後リヴォフ、ヴロツワフ、ブルジェツラフ、ウィーン、ブダペスト、ベルリンとBETAを撃滅し、数多のBETAを打ち砕きました。指揮官は受閲部隊指揮官のヤゾフソ連邦元帥に代わり、モイセーエフ大将が務めています』
モイセーエフ大将を先頭に第1ウクライナ前線の前線旗が掲げられ、その後に第1親衛軍、第9親衛軍、第4軍から抽出したパレード部隊が続いた。
1979年のキエフ攻勢からジトーミル攻防戦、リヴォフ・ハイヴ攻略のアステロイド作戦、ザーパド作戦、ブルジェツラフ会戦、ウィーン・ハイヴ攻略、城塞級討伐、ブダペスト・ハイヴ攻防戦、ハイヴの守り作戦、そしてダウンフォール作戦と数年のうちに数多くの戦いに打ち勝ってきた。
正に伝説と共に生きた前線である。
既にヤゾフは霊廟の上におり、赤の広場を通る部下達を感慨深い思いで見つめていた。
『続きまして赤の広場を行進するのは白ロシア前線、1979年の攻勢で戦線をミンスクからブレストまで押し戻し、ザーパド作戦ではワルシャワの奪還に成功。その後プラハ・ハイヴ攻略に成功し、ウィーン・ハイヴ、ブダペスト・ハイヴ制圧戦でも多大な戦果を収め、ダウンフォール作戦ではベルリン・ハイヴ包囲に多大な貢献を果たしました。指揮官はアフロメーエフソ連邦元帥が務めています』
敬礼するアフロメーエフ元帥の後ろを数人の軍司令、前線司令部の将官達が白ロシア前線の旗と共に行進し、第5親衛戦車軍、第3軍、第7戦車軍らから抽出したパレード部隊が続いた。
白ロシア前線も歴史が長い、ジトーミル攻防戦ではヤゾフ率いる第1ウクライナ前線を支援し、リヴォフ・ハイヴ攻略作戦にも携わった。
ザーパド作戦ではワルシャワを奪還し、プラハ・ハイヴ、ウィーン・ハイヴ、ブダペスト・ハイヴ、そしてベルリン・ハイヴを堕としてきた。
司令官のアフロメーエフ元帥もこの世界では悲劇的な死を遂げることもないだろう。
『赤の広場を行進するのは沿バルト前線、BETAによって奪われたダウガヴァ川より西の領域を奪還し、リトアニア、カリーニングラードを奪還、ザーパド作戦では数多のBETAを撃破し、1984年までベルリン・ハイヴに絶対包囲網を展開し、1985年にはそのベルリン・ハイヴ攻略に多大な貢献を果たしました。指揮官はゴヴォロフソ連邦元帥が務めています』
ゴヴォロフ元帥を先頭に沿バルト前線の将兵は後に続く。
思えばゴヴォロフ元帥が願っていた父レオニード・ゴヴォロフソ連邦元帥に並びたいという思いは達成出来たのだろう。
少なくとも親子二代に渡って祖国の危機を乗り越えたわけだから。
『次に赤の広場を行進するのは第2ウクライナ前線、1979年に黒海領域を奪還し、1980年にはオデッサ、キシニョフを解放、リヴォフ・ハイヴ攻略にも携わりました。その後盟友ルーマニアの解放に従事し、ユーゴスラビアにおいてベオグラード・ハイヴ制圧、ブダペスト・ハイヴ攻略にも多大な貢献を果たしました。指揮官はペトロフソ連邦元帥が務めています』
第2ウクライナ前線はクリミア、オデッサなど黒海付近の解放に従事し、最終的にモルダヴィア・ソヴィエトを解放、引き続き南欧の支援に向かった。
ヤゾフらとは全く違う場所で戦っていた第2ウクライナ前線であったがどこにいても思いは一つだった。
『続いて赤の広場を行進するのは南欧前線、1980年より盟友ブルガリア、ユーゴスラビアの救援に向かい、ルーマニア解放を支援しブカレスト・ハイヴを制圧、その後もユーゴスラビアにおいてベオグラード・ハイヴを攻略し、ハンガリーに展開するBETAの掃討にも貢献しました。パレード参加部隊の指揮官はソコロフソ連邦元帥に変わってシヴェノーク大将が務めています』
南欧前線は元々インドや中東に派遣していた戦力を基に南欧支援の為に設立した前線である。
ブルガリア、ユーゴスラビアを助け、ルーマニア、ハンガリーの解放にも一役買った。
特に指揮官のソコロフ元帥は次期ソ連国防相になる噂があり、期待が高まっていた。
『続きまして赤の広場を行進するのはソ連海軍のパレード部隊、ソ連海軍は今次戦争で世界各国でBETAと戦い、世界の海洋航路を守り続けました。潜水艦隊、空母による航空師団はバルト海、黒海、インド洋、地中海、大西洋、そして太平洋でBETAと日本帝国における貴族主義反乱を鎮圧するのに多大な貢献を果たしました。指揮官は北方艦隊司令官チェルナヴィンソ連邦海軍元帥が務めています』
冷戦期から一気に評価を上げたのは恐らくソ連海軍だろう、冷戦期のままでは”アドミラル・クズネツォフ”も”ウリヤノフスク”も建造出来ていなかった。
これから海軍は縮小期に入っていくだろうがこの栄光は未来永劫消えることはない、ゴルシコフ元帥の夢はBETAによって叶えられた。
海軍将校と水兵らは誇らしげに赤の広場を歩いていく、彼らにとってこの戦争は十月革命の”アヴローラ”に次ぐ大戦果だった。
『赤の広場を行進しますはソ連空軍及びソ連防空軍のパレード部隊、新兵器戦術機の導入により地上支援とハイヴ攻略に貢献し、欧州だけで9つのハイヴを撃破しました。数多くのソ連邦英雄を輩出し、特にヴィクトル・フレツロフ大佐はベルリン・ハイヴ攻略において多大な戦果を挙げられました。パレード部隊の指揮官は空軍及び防空軍を代表して第17航空軍司令、パニィキン大将が務めています』
パイロット、後方支援部隊、ガガーリンやジューコフスキー・アカデミーの生徒を部隊として引き連れ、赤の広場を行進する。
BETA大戦においてソ連空軍とソ連防空軍が果たした役割は大きい。
地上レーダーが即座にBETAの降下ユニットを捉え核を落とすことによって未然にハイヴ設置を防ぐ事が出来たし戦術機の存在はハイヴ攻略戦で多大な戦果を出した。
個人の英雄が数多く生まれたのも空軍である。
『次に赤の広場を行進しますはソ連空挺軍のパレード部隊、ジトーミル攻防戦、リヴォフ・ハイヴ攻略、ウィーン・ハイヴ攻略、ポズナン防衛、ベルリン・ハイヴ攻略など様々な戦いで戦果を上げ、数百人のソ連空挺軍将兵がソ連邦英雄を受勲しました。パレード参加部隊はリャザン空挺指揮学校と第98親衛空挺師団から構成され、指揮は師団長オスヴァリィダス・ピカウスカス少将が務めています』
求めるのは勝利のみの重厚な演奏に合わせてソ連空挺軍の将兵が入ってくる、市街地では多くのBETAから街を守り、ハイヴでは空軍に負けじと果敢に戦った。
この戦争は本来ソ連空挺軍が求められるような任務が出来る戦争ではなかった、むしろ即応部隊や穴埋め、重要地点の防衛戦で多大な戦果を挙げた。
『赤の広場を行進するのはソ連戦略ロケット軍のパレード参加部隊、地球上に飛来した数多くのBETAを粉砕して侵攻を未然に阻止し、軍規模のBETA撃滅に貢献しました。リヴォフ・ハイヴからブダペスト・ハイヴに至るまで、ソ連戦略ロケット軍の支援なしに遂行出来た作戦はありません。戦略ロケット軍の核はソヴィエト人民と世界を守る最強の盾にして矛であります。パレード参加部隊はF.E.ジェルジンスキー名称砲兵アカデミーの学生で構成されており、指揮官はフョードル・トンキフ大将が務めています』
ソ連戦略ロケット軍の規模は地上軍などに比べるとそこまで多くはない為パレードでの規模は小ぶりであった。
それにソ連戦略ロケット軍の目玉は歩兵行進ではなくこの後にある。
彼らの武器は本来なら決して開いてはいけない妖刀の類であった。
『次に赤の広場を行進していきますのはソ連宇宙軍のパレード参加部隊、”ポーリュス”など軌道上爆撃兵器群を用いた地上支援でルディヤーナー・ハイヴを粉砕し、リヴォフ・ハイヴからベルリン・ハイヴに至るまで数多のハイヴに大打撃を与えていきました。また、宇宙防衛にも力を入れており、1984年のBETA船団の大量侵攻では90%以上のBETAの侵入を阻止することに成功しました。パレード部隊指揮官は第1親衛攻撃衛星軍アレクサンドル・マクシモフ大将が務めています』
ソ連宇宙軍の地上要員や警備要員によって構成されたパレード部隊は戦略ロケット軍に続いて行進した。
ソ連宇宙軍は最も重要な宇宙防衛の任務を担い、この戦争でなくてはならない存在となったがそれでもなおこのようなパレードになると中々アピールが出来なかった。
しかし参加した将兵は勝利の美酒に酔いしれ、自信に満ちた笑顔で赤の広場を歩いた。
『続いて赤の広場に行進しますはソ連国内軍及びソ連民警のパレード参加部隊、BETA襲来時に身を賭して住民避難や防衛戦に参加し、国内軍は後方での残敵掃討で銃後を安定化し、ソ連全体の勝利に貢献しました。パレード参加部隊指揮官はF.E.ジェルジンスキー名称特殊任務自動車化狙撃兵師団長、ユーリー・ボグゥノフ少将が務めています』
ジェルジンスキー師団を先頭にソ連国内軍、ソ連民警というソ連内務省の部隊が隊列を組んで赤の広場を進む。
その後には緑色の制帽を被った集団が続いていた。
『国内軍の後方より続いて赤の広場を行進しますのはソ連国境軍のパレード参加部隊、1973年から74年にはポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアから逃げてくる同盟国の避難民を受け入れつつ、BETAの侵入を阻止し、国境線を死守しました。また1981年から1982年にかけてザカフカースで発生したBETAの襲撃でも国境線での防衛に成功し、住民被害を最小限に抑えました。パレード参加部隊指揮官はソ連国境軍総局長ヴァディム・マトロソフ上級大将が務めています』
ソ連国境軍の軍旗と数多くの国境軍部隊の旗が隊列と共に前へ進む、ソ連国境軍もソ連軍の一員としてBETAと戦い、祖国を守ってきた。
ソ連国境軍の後にも隊列は続いた、モスクワ軍管区の部隊だ。
トゥーラの第106親衛空挺師団、第2親衛自動車化狙撃兵師団、第4親衛自動車化狙撃兵師団であった。
第4自動車化狙撃兵師団の行進が終わると、軍楽隊は移動を開始し、車列行進に移行した。
ソヴィエト戦車兵行進曲と共にT-34-85が12輌、先頭車両が赤旗をつけて赤の広場に入城した。
そのままIS-2とIS-3が合わせて12輌もT-34-85の後に続き、その後にはもう使われていないカチューシャことBM-13の他連装ロケット砲車両が12輌続いた。
大祖国戦争の栄光の後にはBETA大戦の栄光が続いた。
BTR-80とBTR-70が合計24輌、その後にBMP-1とBMP-2の車列が合計24輌続いた。
その背後にはBRM-1KとBRDM-2が合計12輌、一般的な偵察部隊の車両である。
『左手から赤の広場を行進しますのはソヴィエト地上軍の兵員装甲車BTR-80及びBTR-70、歩兵戦闘車BMP-1及びBMP-2です。車両部隊の指揮官は第67親衛自動車化狙撃兵連隊長ファユストフ親衛中佐』
自動車化狙撃兵部隊の車両の後にはZSU-23-4シルカや2K22ツングースカが12輌ほど赤の広場に到来し、いよいよ本命の戦車部隊が現れた。
『左手から赤の広場を行進しますのは第4親衛戦車軍所属のT-80U及びT-80BV、ソ連軍における最新鋭MBTであり、BETA大戦においても多大な戦果を上げました。パレード参加部隊指揮官は第4親衛戦車軍司令オレグ・ローシク装甲戦車兵総元帥』
T-80U12輌、T-80BV12輌の先頭を突き進むT-80UKにはローシク総元帥本人が礼服姿のまま戦車に乗り、来賓や霊廟の党幹部に向けて敬礼していた。
この後にはT-72Bが12輌、T-64BVが12輌続き、合計48輌の戦車が赤の広場を通り過ぎていった。
装甲の力こそBETAを打ち砕く地上軍の拳であり、ソ連軍にとって砲兵と並んで大切なものだ。
T-64BVの後にはその砲兵部隊の車両が隊列を組んで走ってくる。
2S1グヴォズジーカ12輌の後に2S3アカーツィヤ152mm自走榴弾砲12輌が赤の広場を走り、その後にBM-21グラード12輌、BM-27ウラガーンとBM-30スメルチが合計12輌走り去った。
これだけでは終わらない、OTR-21トーチカ、OTR-23オカーが合計12輌ほどスメルチの後から赤の広場に入った。
トーチカ、オカーの後には戦略ロケット軍の目玉であるRSD-10ピオネールが6輌ほど赤の広場に入り、その姿を来賓の前に晒した。
どれも数多のBETAを葬ってきた勝利の強力過ぎる剣である。
ピオネールが走り去った後最後にソ連空挺軍の最新鋭空挺戦車BMD-2が6輌、BMD-1が12輌ほど現れ、車列行進を締め括った。
参加車両は車種合わせずに合算すると合計240輌、空前絶後の大行進であった。
地上部隊の車列行進が終わると会場にアナウンスが入った。
『皆様、それでは上空をご覧下さい。ソ連空軍及びソ連防空軍、ソ連地上軍の航空機が到来します』
そう言ってまず12機編成のMi-24VPが赤の広場の上空を飛行した。
Mi-24の編隊の背後にはMi-8が12機ほど続き、それからようやく本格的な空軍の戦術機部隊が出現した。
Su-25が6機、アブレスト編隊を組みながらゆっくりとモスクワの大空を翔る、今やこの空は人類のものだ。
『Su-25、ソ連空軍の戦術攻撃機です。前線支援機として無数のソヴィエト連邦軍の命を救うに至りました』
その後にはSu-24が6機、同じようにアブレスト編隊でクレムリンの赤の広場を飛翔し、戦勝を祝った。
この飛行隊は主に第17航空軍、第8航空軍、第16航空軍、第2防空軍らから抽出され、上空を飛行していた。
続いてSu-24の代わりにMiG-27が12機、1個編隊分がデルタ編隊を組んでモスクワ上空に現れた。
所属は第16航空軍の第557戦闘爆撃航空連隊、在独ソ連軍のMiG-27配備の連隊だ。
その背後からは第17航空軍所属、第168戦闘航空スヴォーロフ勲章連隊のMiG-23MLが12機、デルタ編隊を取って後に続く。
地上にいる人々は次々と飛び去る戦術機を拍手で迎え、子ども達はあの空を飛ぶ機体に憧れを持った。
『続きまして赤の広場上空に進入する機体はSu-27、ソ連軍の最新鋭戦術機であり、空軍、防空軍、海軍航空隊において運用されています。現在の編隊はソ連邦英雄ヴィクトル・ベレンコ少将、続くSu-27Kの編隊は"ウリヤノフスク"航空隊、ソ連邦英雄ミハイル・ベルグロフ大佐が指揮官を務めています』
ダイヤモンド編隊でまずソ連防空軍所属のSu-27が6機、ベレンコ少将を先頭に赤の広場へ突入する。
その後ろにはソ連海軍航空隊のSu-27Kがベルグロフ大佐と共に6機ダイヤモンド編隊でベレンコ少将の後に続いた。
2人のソ連邦英雄の登場を見て来賓席からは大きい拍手と歓声が沸いた。
Su-27は今後ソ連軍の主力となる戦術機だ、戦闘以外のお披露目でも上手く行ったことに航空産業相やスホーイ設計局の面々は安堵した。
Su-27の飛行が終わるとソ連防空軍のMiG-31が3機、MiG-25PDSは6機、ダイヤモンド編隊を組んでモスクワ上空を飛び去った。
暫くソ連防空軍はSu-27の配備とMiG-31の更新に注力するだろう、MiG-25とはこの戦争でお別れだ。
いよいよパレードも終盤に差し迫ってきた、エアショーのトリを飾るのは彼らであった。
『左手の上空をご覧ください、赤の広場に進入していきますのはMiG-29、Su-27と同じ最新鋭戦術機であり、ベルリン・ハイヴを陥落させたソヴィエト人民と全世界人民の救世主です!飛行隊はベルリン・ハイヴの占領に成功した第306独立親衛戦闘航空連隊、指揮官はソ連邦英雄ヴィクトル・フレツロフ大佐が務めています!』
12機のMiG-29がデルタ編隊を維持しながら上空を飛翔した。
直属上官であるヤゾフとパニィキン大将は飛行編隊を指してブレジネフや周りの将軍達に自慢していた。
「目標地点に到達、各機カラースモークの噴射を開始」
MiG-29の背後から赤いカラースモークが噴出され、モスクワの空に赤旗を描いた。
この赤旗の下にソ連は勝利を重ねた、ソ連をある意味で苦しめたソ連の軍事力はソ連を救うに至ったのだ。
地上ではミハイロフ少将が万歳我が祖国を演奏しており、フレツロフ大佐の編隊が過ぎ去ったのを確認するとミハイロフ少将は次の演奏に移った。
勝利の日、大祖国戦争とこのBETA大戦を祝う歌だ。
軍楽隊は移動を始め、来賓席の側まで訪れた。
このように軍楽隊が歌を直接歌唱するのは実は今回が初めてである、偉大な二度の勝利を祝うにはこれしか他にない。
「この勝利の日よ!硝煙の匂いが漂う、これは祝日だ!白髪交じりの頭で。これは喜びだ!瞳には涙が浮かび」
「勝利の日!」
「勝利の日!」
「勝利の日!」
軍楽隊が再び楽器を手にし、演奏を始めた、ソヴィエト陸軍の歌、ソヴィエト赤軍から続く栄光と伝説の軍隊を称える歌だ。
ソヴィエト陸軍の歌を演奏しながら軍楽隊は赤の広場を行進した、その間にもアナウンサーの解説は続く。
『二度の大祖国戦争に勝利し、祖国と世界を侵略の脅威から解放した偉大なソヴィエト連邦軍に万歳!戦いの最中、惜しくも命を落とした全ての英雄たちに万歳!偉大な祖国ソヴィエト連邦と世界に
来賓席からも万歳!万歳!と歓声が響き渡り、数多の拍手が赤の広場を包み込んだ。
そんな中霊廟の上で軍楽隊の行進を見守る軍と党幹部の面々に花束を持ったスヴォーロフ軍事学校の生徒達が集まってきた。
伝統的にパレードが終わるとスヴォーロフ軍事学校の生徒達が赤い花束を持って霊廟にいる党幹部たちに手渡すのが習いであった。
子ども達から花束を笑顔で受け取ると握手を交わし、何人か元気のある将軍は子どもを抱き抱えて霊廟の上から赤の広場を抜ける軍楽隊を見せた。
グレチコ元帥も同じようにスヴォーロフ軍事学校の生徒から花束を受け取った。
「ありがとう」
「あの……どうやったら大臣になれますか!」
グレチコ元帥に花束を渡した子どもは驚くべきことを聞いた、隣で聞き耳を立てていたウスチノフ元帥もこれには驚いて笑みを浮かべた。
「君は国防大臣になりたいのかい?」
隣にいたウスチノフ元帥はニヤニヤしながら子供に尋ねた。
「はい!大きくなったら将軍になって大臣になりたいです!」
「国防大臣の道は険しいぞ?仕事も大変だ」
「でもなりたいです!」
「ならたくさん勉強して体力をつけ、元気に過ごして軍学校に入りなさい。それからもよく学び、仲間を沢山作るんだ。そうすればいずれなれる」
「なんなら私が推薦してあげよう」
ウスチノフ元帥が冗談を述べ、その子どもは目を輝かせながら頷いた。
グレチコ元帥とウスチノフ元帥は子どもに敬礼を送り、彼の願いが現実になるよう静かに祈った。
その子どもも敬礼を返し、彼は霊廟から友達と一緒に階段を下りて行った。
「野心ある子どもだ、私は好きだね」
「ああ、だがあの子が軍人になる頃には平和な時代が訪れているといいのだがな……いや、必ずそうなるだろう。それが私が僅かに長生きした理由なのだろうから」
グレチコ元帥は満足げに赤と青が混じるモスクワの空を眺めた、彼は全てをやり遂げたのだ。
国防大臣にしてソ連邦元帥、アンドレイ・グレチコは1985年6月24日に自宅にて、静かに息を引き取った。
ロシア内戦、大祖国戦争、冷戦、そしてBETA大戦を戦い抜いたソ連邦元帥はそれは安らかな顔で眠りについた。
二度の勝利を我が手に、先に逝った仲間達の下へ。
ソ連は時代の転換点を迎えようとしていた。
つづく