マブラヴ グレートパトリオティックウォー 作:Eitoku Inobe
栄光あれ、我らがロシアの大地よ!
我らが愛する祖国が
いつまでも常に強国たらんことを!
-”栄光あれ”より抜粋-
1985年11月10日、ソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフが亡くなった。
享年78、BETA大戦終結から僅か9か月後の事であり、ソ連と世界に衝撃が走った。
大祖国戦争で政治将校の鏡としてナチス・ドイツと戦い、冷戦期はパッとしなかったがBETA大戦ではカリスマ的指導力で党を率いて勝利に邁進し、アメリカや世界各国と手を携えてこの戦争を勝利に導いた。
ブレジネフはソ連にとっても英雄であったが今や世界にとっても英雄の1人であった。
その太い眉毛も可愛げがあるチャームポイントとして描かれ、西側からも自然と受け入れられるようになっていた。
そんなブレジネフが11月10日、クレムリンの執務室で容体が急変し医者が訪れる頃には息を引き取った。
最近は体の調子が比較的良いと話していたから側近も医者も油断していた、ブレジネフはまるでその時が来たと悟ったように苦痛に歪むことなく穏やかな顔でグレチコ元帥らが待つ世界へ旅立った。
彼は己の役目を果たしたのだ、BETAから祖国ソ連を守るという最大にして最重要な使命を果たしこの世を去った。
とうの昔にこと切れるはずだった命は使命を終え、ようやく安らかに眠ることが出来た。
世界中からブレジネフの死に対するお悔やみの言葉が送られた、冷戦期に激しくやり合った中国やアメリカ、NATO諸国もブレジネフという時代が作った英傑の死を悼んだ。
ブレジネフの死は政治的混乱という点ではそれほど大きな問題は起こらなかった、この9カ月の間に戦後復興の基本方針は纏められ、後は各省の実務者レベルの話となっていた。
後任はこの時まだ不思議なことに存命であったユーリー・アンドロポフと同じく存命であったコンスタンティン・チェルネンコのどちらかではないかと目されていた。
アンドロポフはKGB議長であり、前のBETA大戦にて直接的な戦果があった、比較的改革派でもある。
モスクワでの武装蜂起未然鎮圧やレニングラード騒動での対応は見事であるとブレジネフにも評価されており、実はソ連軍からも高い評価を得ていた。
どこぞのグルジア人と違ってアンドロポフは国防大臣ウスチノフ元帥らとも親しく軍事作戦にも積極的に介入せず、やたらに軍人を逮捕したりしなかった。
それに必要とあらば隷下の国境軍や影響下にあった国内軍を前線司令官や軍司令官に貸し与えることを容認するなど柔軟な対応が軍幹部からも好評であった。
どこぞのグルジア人と違って変態趣味もないし汚職とも無縁の清廉な人物として知られており、改革派かつKGB出身者だが軍部との関係はかなり良かった。
一方のチェルネンコはブレジネフの側近であり、政治閥としては保守的な中道、彼が書記長となれば恐らくブレジネフ期の延長となるだろうと予想された。
一旦はヴァシリー・クズネツォフがソ連最高評議会幹部会議長代行を務め、その間に書記長選出が成された。
1985年11月12日、投票の結果アンドロポフが書記長に選出され、ブレジネフの後任として新しい書記長が誕生した。
アンドロポフは就任演説で「この勝利の傷跡を少しでも早く癒し、新たな社会主義国家の礎にする」と宣言し、改革意識を明確に表した。
これ以降アンドロポフはソ連の経済と軍事を平時の状態に移行させつつワルシャワ条約機構諸国の復興も支援しつつ、改革を遂行するという困難な任務に立たされた。
それでもやるしかない、数千万が犠牲となった上で守り抜いたソヴィエト連邦を未来永劫残していくためには。
戦後のソ連は当然戦前のソ連よりも大きく力を落とした、大戦争の後というのは経済も停滞するし、必ず不況を迎える。
アメリカだって無事では済まなかった、第二次世界大戦が終わった時と同じようにアメリカの経済もかなり下振れた。
その上でまず急務だったのはBETA占領地域の復興とソ連軍の動員解除であった。
前者に関しては戦中から少しずつ進めていたので水道、電気、交通などのインフラを強化しつつ建物を増築して増やしていく基本方針が既にあった。
特に建築に関してはフルシチョフカ、ブレジネフカをモデルとした大量生産型の住宅を設置し、ウクライナ、白ロシア、リトアニア、カリーニングラード、モルドヴァなどの戦争の被害が大きい地域に大量に配備した。
この戦後復興で出来た大量生産型住宅をアンドロポフカと後世の人は呼ぶようになる。
このアンドロポフカはソ連だけでなくワルシャワ条約機構諸国やユーゴスラビアにも分配され、東欧社会主義国のスタンダード住宅となった。
復興を進める裏でソ連軍は一先ず国軍を1973年以前の規模まで縮小する計画を進めていた。
まず戦中に作り出した新しい諸兵科連合軍を解散し、兵士達を市民社会へ戻す。
これは3月、4月から行われていることではあるが終戦から3カ月以上経つと本格化した。
少なくとも1985年から1988年の3年間に動員兵力を戦前と同じ500万人前後まで削減することが国軍に求められた。
その上でアンドロポフは経済負担を減らすために更なる軍縮と新しい時代のドクトリンを考えるようソ連国防省と参謀本部に命令を出した。
これらの要望を基に参謀本部では対BETA戦争の再研究と新しい軍事ドクトリンの立案を開始した。
政治的引継ぎやある程度の命令を出し終えたのが1985年12月中旬、それから人類は13年ぶりにBETAがいない新年を迎えた。
1986年、BETA大戦終結から1年、未だ傷跡は癒えぬが戦争は終わったことを実感させる1年が始まった。
この年の2月、事件が起きた。
それまで国防大臣を務めていたウスチノフ元帥が突如辞職を言い出したのだ。
もう暫く軍需産業のボスでありキングメーカーであるウスチノフ元帥にはいてもらわなければ困るとアンドロポフは再三に渡って辞職を取り消すようお願いをした。
だがウスチノフ元帥の意志は固く「もう後任は育っている」と伝えて2月15日、ソ連国防大臣の職を辞してソ連国防省監察総監部へ移った。
監察総監部とはソ連軍の中でも特に高位の軍人が引退せずアドバイザーとして軍に残る組織の事であり、ここに入るということは事実上の引退であった。
ウスチノフ元帥は1987年12月20日に自宅にて死去するまで監察総監部に属し、残り凡そ1年半を家族と過ごすのに充てた。
満足のいく人生であったとウスチノフ元帥の息子は語る。
後任の国防大臣には当時在中南欧ソ連軍司令官を務めていたソコロフ元帥が後任としてソ連国防大臣に就任した。
他にもアフロメーエフ元帥やペトロフ元帥、ゴヴォロフ元帥はいたが特に年長であり信任が篤く、ソコロフ元帥が後任の国防大臣となった。
在中南欧ソ連軍司令にはソ連軍北部集団司令を務めていたヤゾフが後任として入り、参謀長であったモイセーエフ大将が上級大将昇進の末北部集団司令に就任した。
この時期になると人事も一変し始めた、まず在独ソ連軍司令兼ベルリン州軍政司令官のイヴァノフスキー元帥が年齢を理由に辞任、後任はゴヴォロフ元帥が引き継いだ。
ソ連海軍でもゴルシコフ元帥が30年続けたソ連海軍総司令官の職を辞し、監察総監部へ移動、後任はチェルナヴィンソ連邦海軍元帥が引き継ぐこととなった。
ちなみに海軍であるがやはり予算と動員兵力が減らされ、縮小傾向に移ることが決まった。
少なくともキエフ級四隻は解体ないし売却、アドミラル・クズネツォフ級二隻とウリヤノフスク級は残すがウリヤノフスク級の二番艦は建造計画が中止された。
ソ連戦略ロケット軍総司令官のトルブコ総元帥もその職をユーリー・マクシモフ上級大将に譲って観察総監部に移行、地上軍総司令官のパヴロフスキー元帥も同様に監察総監部に移行しペトロフ元帥にその職を譲った。
ソ連空軍総司令官もクゥタホフ総元帥からアレクサンドル・エフィモフ航空元帥に職を譲り、戦中から残っているのは参謀総長オガルコフ元帥とソ連防空軍総司令官コルドゥノフ総元帥、ソ連空挺軍司令官ドミトリー・スホルコフ上級大将くらいとなった。
KGBもアンドロポフが書記長へ昇進したことでヴィタリー・フェドルチュク上級大将が後任の議長に就任、ソ連外務大臣もグロムイコが引退し、エドゥアルド・シェヴァルドナイゼが就任した。
これらの変更はアンドロポフの派閥安定の一面もあったが一番は総司令官を務めていた将軍達、提督達の体力が限界に近いというのが大きい。
皆戦争に勝ち、肩の力が抜けたのか己の職を後任に譲って引退の道を選んだ。
1986年は参謀総長の座に残っていたオガルコフ元帥も翌年1987年に参謀総長の職を辞し、アフロメーエフ元帥にその職を譲ることとなった。
彼の最後の仕事は戦後におけるソ連軍の軍事ドクトリンを策定することであり、1986年中にドクトリンは完成して1987年に公表され、それを見届けるとオガルコフ元帥も現役を退いた。
所謂87年ドクトリンと呼ばれる戦後初のソ連軍の軍事ドクトリンは、世界各国の流れと同じく軍縮と対BETA戦を主眼にした新コンセプトの代物であった。
まず地上軍におけるカテゴリーV、カテゴリーGの師団は全て解体し、余剰分の予算でカテゴリーBの即応能力をカテゴリーAレベルまで引き上げる。
今までのヨーロッパ戦を主眼とした戦力配備を取り止め、モスクワ軍管区以東にも戦力を振り分け、バランスを取った。
これにより在独ソ連軍は1989年から1994年のうちに戦力を1個師団規模まで引き下げることも盛り込まれており、東ドイツからの戦力の引き上げがここで決定された。
同時に即応力強化の為に新型地上兵器の開発も進めると記載されており、ソ連軍は従来の大規模野戦軍を縮小しつつ即応力を高めるという方向にシフトした。
ソ連海軍は既存のバレンツ海とオホーツク海の核の聖域を維持しつつ、海外展開能力も高めることが記載されていた。
一方のソ連空軍とソ連防空軍は明確に対BETA戦における重要部隊と位置付けられており、即応能力強化の為にアメリカと同じ可変型戦術機の取得を第一目標とした。
ソ連防空軍は本来の職務である防空任務を可能とする為BETAの降下ユニットを撃破出来る地対空ミサイルの開発も進められた。
この中で戦力の増強が明文化されていたのは実は戦略ロケット軍とソ連宇宙軍だけであった。
特に宇宙軍は文書内で何度も「宇宙空間における防衛行動は最も効率的かつソ連国内に被害を出さない最良の選択であり、宇宙空間における水際防衛強化の為攻撃衛星部隊、偵察衛星部隊、宇宙空間機雷を増設する」と記載されていた。
ドクトリン内には”ポーリュス”の防衛型の開発と生産、G元素機雷の増設、長距離宙対宙攻撃ミサイルの増強を主に遂行し戦力強化に臨むとされた。
戦略ロケット軍も対BETA戦を目的としてロケット師団を増設すると記載されており、ソ連の核は戦後減るどころかむしろ増えた。
このような核兵器増強の流れは世界のトレンドであった。
アメリカも陸軍では旅団戦闘団の研究を進めつつ、同時に保有している戦略核と宇宙軍が運用する核兵器を増やすと戦略ドクトリンで発表した。
英仏中も対BETA戦を想定して核兵器を増やし、ドイツや日本帝国のような核共有国もパートナー国と共有する核兵器を増やすと宣言した。
やはりBETAには核兵器が有効であり、通常戦力を減らして即応力を高めつつ代わりに核依存を高めることで全体の予算を減らそうとしていた。
この87年ドクトリンは当然だがソ連軍内でも保守派から反対を受けた、彼らは二度の大祖国戦争で大火力と大戦力による縦深攻撃こそがソ連を確実に勝利へ導けると考えていた。
87年ドクトリンでも決して縦深攻撃が出来ない訳ではないしむしろ火力に関しては増強されているのだが、それでも不安はあった。
だが根強い保守派の将軍達も決して現実を知らない訳ではない、今の祖国の状態では冷戦期の戦力も維持するのは難しいことくらい分かっていた。
殆どの将軍達は渋々了承し、それでも反対する者は数ヶ月後に退役しているか閑職に押し込まれた。
ヤゾフも不安ではあったが他に方法もないとしてこの軍改革と新ドクトリンを受け入れた。
何より今は中南欧の復興と安定化が急務だ、ポーランドでも中南欧でもヤゾフは忙しく働いていた。
ちなみに史実では1987年にヤゾフはマチアス・ルスト事件を機に解任されたソコロフ元帥に代わってソ連国防大臣に就任しているのだがそんな事件は発生しなかった為、未だ中南欧軍司令官としてWTO諸国の復興に従事していた。
本来起こるはずであった天安門事件も発生せず中国と西側の関係は良好であり、選挙時期がズレることにより早期に就任していたレーガンもこの年に2期目を終えて大統領の席から降りようとしていた。
なお韓国ではBETA大戦で経済政策などでも特段目立った成果を出せなかったチョン・ドファン政権が退陣し、キム・デジュンやキム・ヨンサムら民主派と後継のノ・テウによる大統領選が実施されていた。
結果は民主派の共闘が失敗しノ・テウ政権が誕生してハナフェによる軍人政権は少しだけ長続きした、尤もノ・テウ政権もそう長くはないだろう。
ソウルの永遠なる長い春はもう間も無く訪れようとしていた。
1987年にはアメリカ大統領が始まった、共和党のジョージ・H・W・ブッシュと民主党のマイケル・デュカキスの対決となり、最終的にパパブッシュが勝利した。
日本帝国でも現在の内閣が終了し、新しい内閣が出来ようとしていた、無論そこに城内大臣のポストはなかった。
それから1年後の1988年、年末にアルメニア・ソヴィエトで発生した大地震を除けばソ連は比較的安定していた。
本来この時期から始まるリトアニア・ソヴィエト内での独立の機運も国土が1回BETAに占領された影響により、独立運動を起こす力もなくなり、同様にエストニア・ソヴィエトでも歌う革命は発生せず、ラトヴィア・ソヴィエトも人間の鎖によるバルトの道も発生しなかった。
ソ連崩壊のトリガーの1つであったバルト三国独立の機運は見受けられなかった。
これが良いことなのかは分からない、バルト三国で主権回復運動の兆しがないのはソ連の統治が上手かったというより、BETA大戦で運動を起こす力すら奪われたという方が正しい。
併合と再占領の際、殺されたり強制移住させられた痛ましい記憶はBETAによって塗り消された。
占領の記憶はいずれ消える、それは残酷のことであり、痛ましいことでもあった。
それでもソ連は崩壊せずに生きている、身体に傷を負いながら、暗い過去を勝利の栄光で隠して。
日本の戦後
1991年、斯衛の乱から7年の年月が経ち、帝国は少しづつ変わっていた。
まだ旧階級制度で社会制度に幾つか問題はあるがいずれ解決されるだろう、帝国の未来は明るいわけではないが、別に真っ暗闇なわけでもなかった。
1985年からの日本帝国は極東アジアの先進国という枠だけには留まらず平和維持軍として積極的に世界に関わっていくことが確定した。
経済が比較的発展していて、比較的まともな西側の正規軍で、航空母艦などの外洋展開能力がある、これで極東の島国に籠っているのは論外である。
当初日本政府は1988年から1991年にはインド、中東、アフリカに展開する日本海外派遣軍を引き上げる予定であった。
戦後復興の土台だけ作って後は支援金を送って現地政府やアメリカ軍などの国連駐屯軍に全てを任せようとしたのである。
これにアメリカが猛反発した、頼むから残ってくれ、金でチャラにするのは許さないぞという具合で日本軍の残留を願った。
アメリカは本土は戦場にならなかったがその分自国民の若者を海外に送って大勢死なせ、アメリカの金も相当世界の為に使った。
そして1980年代後半はアメリカも不況が続き、少しでも海外における復興支援を他国にも肩代わりさせたかったのである。
特に日本帝国は前述の通り能力がある、少なくとも1970年代から国軍を海外に派遣しており、復興支援や軍民協力は同じ時期の自称軍隊ではない組織(ルビ JSDF)と比較すると確実にノウハウを蓄積していた。
しかも日本帝国は1回降下ユニットが落ちたとはいえソ連やヨーロッパ諸国と比較すると比較的無傷であり、経済力も不況気味とはいえ高い方であるのは間違いない為一抜けするのは流石に許されなかった。
結果現在展開しているインド、中東、アフリカには現役の戦力は減少させるが完全撤退させるわけではない、地域によっては旅団か連隊規模は維持すると確約した。
これでアメリカや他の国連軍参加国も納得はしたが国内が荒れた、何せ前の内閣が海外派遣中の日本軍は戦後復興の土台を建設した後、全て引き上げると国会で言ってしまったからだ。
しかも1988年に大規模な汚職事件が暴露され、内閣は更に叩かれる事となった。
その上で1989年、その時が訪れてしまった。
皇帝陛下がお隠れになった、大日本帝国の皇帝、日本帝国の象徴として動乱の時代を生き抜いてきた方が全ての職務を全うされた。
帝国が悲しみに暮れる中大喪の礼が執り行われ、次の皇帝陛下が即位され年号も変化した。
新しい時代の始まりである。
この間に日本帝国軍は動員解除と復員を進め、同時に軍縮も進めていた。
まず海外に派遣していた旅団を本国へ引き上げ、動員兵を復員し部隊の解体を進めた。
陸軍は平時の定員18万人まで縮小し、空軍も動員部隊を解除して余剰の装備を未だF-4EJ改や"瑞鶴"装備部隊に充て、戦闘能力を高めていった。
この中で特に大きな変化があったのは日本海軍である、戦時は空母四隻を有していた海軍であったがこのうち改エセックス級に当たる"伊吹"、"鞍馬"は退役し、解体することが決定された。
これには海軍も反発した、しかし戦前みたいに抗うと第二の斯衛軍となる可能性が高い為渋々受け入れた。
それに海軍の中にも流石に改エセックスはもう限界じゃないかと思っている層がかなりおり、反対はあれどスムーズに話は進んだ。
現在空母二隻に充てられている人員を他に回すなりすれば実は海軍全体の能力が向上するし、今後戦中レベルの動員も出来ないとなるとここで手放すのが一番賢い選択だった。
解体される"伊吹"、"鞍馬"の代艦は1990年代から2000年代に獲得する予定であり、それまでは"天城"、"出雲"の二隻体制で運用することになった。
一方の旧斯衛軍問題も1989年に入る前にある程度片が付き、首謀者は1984年には死刑判決を受け、大半の旧守派将官はそのまま死んだ。
佐官クラスも大佐など関与が高い場合は死刑判決を受けたが、大半は実刑判決を受けて牢屋に放り込まれた。
尉官、一部下士官は大まかにいうと無罪を勝ち取れる者もいたが、大半は執行猶予付き禁固刑とされた。
それも大半は1989年の即位式に際した恩赦により娑婆に戻ってきた。
武家という存在の大半はかなり早く市民社会に馴染んだ、下級武家からすればようやく煩わしい軛から解き放たれたのだ。
一方中級、上級の元譜代や元有力武家出身者はそうもいかない、彼らにはなんだかんだ武家の矜持と受けてきた特権があり、そう簡単に市民社会に馴染めなかった。
一方旧五摂家ともなると話は別でこの家々はまだまだやんごとなき方々という扱いが強かった。
自衛予備隊も大半の旧斯衛軍出身者の兵卒は任期を満了して除隊し、徐々に規模は縮小、本来求めていた郷土防衛部隊としての姿へ移行しつつあった。
1945年から続く斯衛軍との対決も完璧に決着が付こうとしていた、それをどうして自分がやらなきゃいけなかったんだと統合参謀会議議長の斎藤大将は思っていた。
驚くべきことに斎藤大将は1991年まで統合幕僚会議議長の座についていた、というより付かされていた。
彼は斯衛軍周りの後処理が終わると一応責任を取るという形で辞任しようとした、しかし当時の内閣に止められた上欧州に日本軍を派遣してくれという要望が出て部隊選択の任務の為暫し残った。
すると今度は戦争が終わり戦後復興と引き上げが始まった、ここいらで引退だと思っていたら今抜けられると困ると引き留められた。
1985年から1986年に戦後の手引きが纏まりこれで勇退出来ると思ったら海軍の空母問題と国軍派遣問題が発生し、再び引き留められた。
何なら特別に定年も伸ばされ1991年まで統合幕僚会議議長をやらされていた、しかもこの年大変なことが起こった。
実は戦中から戦後にかけてBETAとは別の問題が地球規模で発生していた、それは麻薬の流通である。
アメリカが放置していた裏庭、中南米のコロンビアではあろうことか麻薬王パブロ・エスコバルが大統領に当選、どこぞのゴキブリが教えたコカインの製造方法を国家の金でやるようになり、国家包みで麻薬売買をやるというとんでもない事態が発生していた。
戦後の不況、或いは戦中の不安感を紛らわす為にコカインは爆発的に流行った、アメリカからヨーロッパ、驚くべきことにソ連にもパブロのコカインは流れていた。
アメリカ麻薬取締局DEAは戦中から麻薬の流通を追跡していた、だが予算が足りない、戦時だから軍に莫大な予算がつぎ込まれているし、そうでなくてもDEAの立場は弱かった。*1
状況が一変したのはBETA大戦が終わった1985年以降本格的に麻薬問題に焦点が充てられることになり、1986年には当時のレーガン政権が麻薬に対して断固として戦うことを決めたことで完璧に流れが変わった。
世界的に麻薬と戦う流れが決まり、ソ連もアンドロポフがKGBと内務省を用いて一挙にソ連内に入ってきたコカインをトン単位で拿捕し、ブローカーを全員逮捕した。
1986年の対決宣言から2年間は水際防衛に徹していた、コロンビアから流れてくるのは分かっていたがこの時はコロンビアが麻薬で生計を立てているとは誰も思っていなかったのだ。
それが分かるのは1989年のこと、当時演習中だったコロンビア空軍のF-4が何故かカリブ海に墜落、それを偶々通りかかったアメリカ海軍の艦艇が救出した事件が発生した。
いざF-4の残骸を拾ってみると機体内部から大量のコカインが発見され、コロンビア空軍機が戦術機で麻薬を運んでいたことが判明した。
衛士から事情を聞き出すと驚くべきことに最低5回は演習を称してカリブ海の諸島にコカインの束を落とし、それを回収した後にセスナ機に麻薬を入れ替えてアメリカ、欧州へコカインを流していることが判明した。
当然だがこの衛士は拘束され、即座にアメリカ本国へ移送された。
当然コロンビア政府は激怒したがコロンビア軍が麻薬を運んでいるということがもし真実なら、と世界各国は黙っていた。
F-4、残骸を解析してみると通常のF-4ではなく大規模な改造が施された機体であった。
アメリカはこのタイプのF-4を知っている、というより数年前に日本で戦った。
アメリカは即座に日本空軍関係者と旧斯衛軍技術者にアプローチを取り、墜落した残骸のデータや報告書を見せた。
結果彼らは口を揃えてコロンビア空軍のF-4をこう呼んだ、"瑞鶴"だと。
コロンビア空軍は何故か"瑞鶴"の運用能力を獲得していた、理由は分からないが少なくとも墜落したF-4は"瑞鶴"に相違なかった。
実態はどこぞの東ドイツ人が持ち出した"瑞鶴"の設計図を斯衛軍将校が中南米のコロンビアに渡り、それをエスコバルに流したのがコロンビア"瑞鶴"の始まりであった。
"瑞鶴"は所詮F-4である、だがF-4の中でも相当強い部類である為中南米の航空戦力を考えれば十分強力な戦力であった。
エスコバルは秘密裏にアメリカから供与されたF-4に斯衛軍式のチューンナップを加え、"瑞鶴"へ改造した。
そしてその"瑞鶴”が戦術機の戦闘演習ついでにカリブ海の諸島に流れ着くよう麻薬を運んでいたのだ。
ちなみにこの”瑞鶴”をDEAの捜査員は”ナルコ・ズイカク”と呼んでいた。
ここからアメリカ政府とコロンビア政府の対立は本格化した、コロンビア政府は拘束されたコロンビア空軍衛士を返還するように要求したが、アメリカ政府は麻薬犯罪撲滅の為にコロンビア国内に国連軍による捜査部隊を展開させろと要求した。
関係を完全に破綻させたのは本来1986年に起こるはずだった麻薬の運び屋バリー・シールの証言だった。
彼が大統領になる前からパブロは麻薬密売を取り仕切っていたことを証言し、これがアメリカの公聴会、国連総会に提出されたことで世界は騒然となった。
現職の大統領がカルテルのボスでコロンビアという国を巨大なカルテルにしていたのだ。
当然だがバリー・シールはこの後殺害され、アメリカは国連に国連軍によるコロンビアの麻薬製造を粉砕するよう呼び掛けた。
度重なる非軍事的措置も効果を示さず、麻薬の流通も止まることがなかった為、1991年国連安保理はアメリカを中心とした多国籍軍によるコロンビア政府の麻薬製造業の粉砕と大統領パブロ・エスコバルの逮捕を決定した。
BETA大戦終結より6年後、斯衛の乱以来となる人類同士の戦争行動が始まった。
この世界におけるデザート・ストーム、ちなみに作戦名はジャスト・コーズである。
多国籍軍の主力はアメリカだが日本も"出雲"を出動させて多国籍軍に加わることとなった、コロンビアが本来持ちえないはずの"瑞鶴"を持っていることからその責任の一端をある種取らされた形となったわけだ。
多国籍軍派遣部隊調整が斎藤大将にとって最後の仕事となった、彼はこの後勇退し後任の将軍達に議長の座を譲ることになる。
多国籍軍の指揮官はアメリカ中央軍司令官を務めていたシュワルツコフ大将を連れ戻して任命した。
英米仏独のNATO加盟国に加えてソ連軍も"ウリヤノフスク"を出動させ、1個空挺師団を投入した。
当然コロンビア軍も対米戦に備えて防備を整えていたがカルテル上がりのエスコバルを良く思わない軍幹部も多い、一部はどさくさに紛れて離反する計画を整えていた。
1991年1月17日、まず多国籍軍による航空攻撃がコロンビア全土に展開された。
このときアメリカは最新鋭の可変型F-14、F-15、F-16、F/A-18を投入し初戦でコロンビア空軍の"瑞鶴"や地上防空網を破壊、一方的にコロンビア軍を嬲り殺しにした。
可変機の機動力について行けずコロンビア空軍の戦術機は次々と敗退し、そうでなくても通常の戦術機に"瑞鶴"では勝てるわけがない。
多国籍軍の猛攻撃に合わせてCIAと示し合わせていたコロンビア軍のクーデター勢力は突如離反、多国籍軍に基地を供与し、首都ボゴタまでの道を切り開いた。
国軍がたった数日の攻撃で壊滅したことに一番驚いたのはエスコバルではなく多国籍軍であった、彼らはもう少しコロンビア軍が粘ると思っていた。
どちらにせよ抵抗勢力のなくなったのは好都合だ、アメリカ海兵隊を先頭に沿岸部の都市部を抑え、そこから空挺師団や通常の陸軍師団が首都ボゴタを目指して前進する。
その道中アメリカ軍は多数の麻薬製造工場を発見した、これも10や20などではなくどこの部隊も100以上の麻薬製造工場を摘発し、エスコバル政権の悪行を掴んでいった。
それと同時に首都への空爆も始まり、パブロの逃げ道は封鎖された。
2月20日にはコロンビア・クーデター軍とアメリカ陸軍が首都ボゴタを占拠、エスコバルの政権は完全に瓦解した。
だがエスコバル自体は何処かに隠れ潜んでおり、暫くは行方知れずとなった。
2月24日にはアメリカ本土に亡命していたセサル・ガビリアがコロンビア臨時政権を立ち上げ、コロンビア軍全体に戦闘停止命令を公布し、多国籍軍との停戦協定に入った。
2月27日、正式に停戦協定が結ばれ翌日2月28日に協定の内容は完全に効力を発揮し、多国籍軍によるコロンビア侵攻は終結した。
その後3月の大統領選でガビリアは正式に大統領に就任し、パブロ・エスコバル前大統領に逮捕状を請求、多国籍軍と共にパブロ逮捕に乗り出していくことを約束した。
一方のパブロは隠れ家を転々としつつメデジン・カルテルと親エスコバル派の敗残兵を用いてゲリラ戦を展開、多国籍軍を手こずらせたが抜本的解決には至らなかった。
既に国内にはGRUスペツナズやデルタ・フォース、ネイビー・シールズが入っており、国内ではコロンビア軍の再編が始まり、カリージョという特に反エスコバル派の軍人を中心に特別捜査隊が結成された。
結果1991年12月2日、パブロ・エスコバルは史実より2年も早くメデジンのロス・オリヴォスで特捜隊に襲撃され、殺害された。
コロンビア特捜隊とグリーンベレー、そしてDEAの捜査官2名がパブロの死体と共に撮った写真は今でも有名である。
パブロ殺害の前に斎藤大将は勇退していたが全ての仕事をやり切ったという表情で市ヶ谷を後にした。
少しづつBETA大戦で指揮を執っていた者達が現役を退こうとしている。
それはヤゾフとて例外ではなかった。
-ソ連領 ロシアSFSR 首都モスクワ ソ連国防省-
ヤゾフは落ち着いた表情で国防大臣の執務室の席を立ち、その部屋を後にした。
時代は2001年、ヤゾフは1991年に新たに書記長に就任したゴルバチョフによって国防大臣に任命され、10年間その職務を全うしてきた。
1991年は色々な事があった年だった、コロンビア侵攻、先代書記長アンドロポフの死など。
1991年2月9日、コロンビアで多国籍軍が戦っている最中ソ連共産党書記長ユーリー・アンドロポフが死去、享年76だった。
史実より5、6年長生きしたがアンドロポフにもついにお迎えが来た、史実よりも長く書記長として辣腕を振るい、ソ連の復興と改革を引っ張ってきたのだ、史実よりはKGB議長アンドロポフではなく書記長アンドロポフとして名を残しただろう。
なお本来後任の書記長になるはずだったチェルネンコは先に身体の限界が来て1990年3月10日に自宅で静かに息を引き取った。
享年78、5年長生きしたがついぞブレジネフの後を継いで書記長となる夢は叶わなかった。
ソ連共産党はチェルネンコなしの状態で新しい書記長を選出することとなった。
この時主に挙げられた書記長候補は2人、ミハイル・ゴルバチョフと1982年のレニングラード事変の際レニングラード州党委員会第一書記を務めていたグリゴリー・ロマノフ。
ゴルバチョフはアンドロポフと同じソ連改革派の人間であり、ウクライナ・ソヴィエト復興の功績もある上に元々アンドロポフからの信任も得ていた。
一方のロマノフは同じ改革派の人間でソ連の軍需、重工業界隈からのし上がってきた男ではあるが、1982年の一件で過剰対応だったのではないかという評価もあった。
党の情勢的にはゴルバチョフが高い支持を受けており、ロマノフはモスクワ市党委員会第一書記のヴィクトル・グリーシンを担ぎ出したが最終的には勝てないと悟って諦めた。
全会一致でゴルバチョフが選出され、アンドロポフの後継としてゴルバチョフがソ連共産党中央委員会書記長に就任した。
ゴルバチョフの基本方針はアンドロポフの復興と改革路線の継承である、ソ連の経済にメスを入れつつソ連軍を新ドクトリンに適応させる。
まずはコロンビア侵攻に参加してソ連に入ってくるコカインを断ち、世界に連帯を示す事がゴルバチョフの一番最初の仕事となった。
この年の5月30日、当時国防相を務めていたソコロフ元帥が年齢と健康状態を理由に流石に辞任したいと宣言、ゴルバチョフも引き止める訳にいかずソコロフ元帥はこの日に国防大臣の職を辞し、監察総監部へ移行した。
そこでウクライナの復興を行なっていた時に知り合ったヤゾフに目をつけ、在中南欧ソ連軍司令を務めていたヤゾフを国防大臣に推挙した。
突然の国防大臣推挙にヤゾフは驚いたが人柄をよく知っているゴルバチョフならと快く引き受けた。
本来ソ連が崩壊し、8月クーデターで自身が国防大臣の地位を追われる年代にヤゾフは晴れて国防大臣に就任した。
まず国防大臣ヤゾフに与えられた最初の仕事はコロンビア侵攻の調整である、当時統合参謀本部議長を務めていたコリン・パウエル大将らと何度も協議を重ね、エスコバルの処遇や投入部隊、教育について話し合った。
また翌年1992年1月には国際宇宙基地協力協定に続いて国連軍宇宙防衛協力協定が設立、戦中から確立されていた国連宇宙軍の統合司令部が常設のものとなった。
就任式にはヤゾフも地上でのセレモニーに参加、パウエル大将らと共に新しい”ポーリュス”の打ち上げを見守った。
ちなみにこの年、ユーゴスラビアではボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争が始まらなかったが、アメリカのロス暴動は発生した、BETAの出現とこの暴動だけは何の因果もなかったようだ。
この時期のヤゾフはゴルバチョフの要望を叶え、ソ連軍を新ドクトリンへ適応させる仕事を務めていた。
無論全てが順風満帆だった訳ではない、ヤゾフは比較的ゴルバチョフに寄っていたが軍内には87年ドクトリンに否定的な者もいる。
それにゴルバチョフは改革派であり保守的な軍人層とは合わないところもあった、特にヤゾフの目下の課題であったのは参謀総長アフロメーエフ元帥とゴルバチョフが若干の対立関係にあったことだ。
アフロメーエフ元帥は比較的保守に近い軍人であり、87年ドクトリンは仕方なしと受け入れていてもゴルバチョフとは反りが合わないところがあった。
1991年から1993年にかけてのヤゾフはゴルバチョフとアフロメーエフ元帥の間を取り持つ事が主となっていた。
ヤゾフはゴルバチョフの改革に比較的寄っていたが保守派の意見も分かるという中間の存在であり、この時は両者の間を取り持つ関係にあった。
本来の歴史では急激に変化し、同時に弱体化する祖国に耐え切れず保守に振り切って8月クーデター側に与するのだが、この世界では彼に与えた絶望は少なかった。
むしろ東欧、中南欧の惨状を見ているからソ連も変わらなければならないと思っていたし、勝利の記憶が鮮明であるから辛くとも耐えられた。
1993年、アフロメーエフ元帥は突如辞任、ヤゾフの奮闘虚しく両者の関係を取り持つことは出来なかった。
何はともあれアフロメーエフ元帥の後任、新しい参謀総長となる人物が必要となった。
ただこの時期に残っているソ連邦元帥はそれほど多くなく、カラシィ元帥やペトロフ元帥らは総司令官から外す訳にはいかない。
そこでヤゾフは第1ウクライナ前線時代のコネを使い、1人の上級大将を推薦した。
ミハイル・モイセーエフ、当時4年間ソ連軍北部集団の司令官を務め、1991年からは在中南欧軍司令官を務めていた。
ヤゾフの推薦を受けたモイセーエフ上級大将はソ連邦元帥昇進の末、ソ連軍参謀総長の任に就いた。
ちなみにこの時期のソ連国防省とソ連軍参謀本部は第1ウクライナ前線出身者が多かった、特に参謀本部作戦総局はヴィクトル・バリーニィキン大将、その後レオニード・ゾロトフ大将が総局長を、1993年から情報総局長をフョードル・ラディーギン大将が務めており、かなり身内で固めていた、というより気づいたらそうなっていた。
これに批判的な将軍も多い、しかもモイセーエフ元帥就任を皮切りにしているので余計にヤゾフの身内贔屓ではないかと言われた。
実際はそんなことはない、大多数が順当に昇進してその地位についた者が多く、それだけあの時の第1ウクライナ前線の参謀達が優秀だったというわけだ。
流石にこの人事にはゴルバチョフも警戒を示したが、当のヤゾフにそういった野心はないと知っており、余計なパラノイアを発症することはなかった。
ちなみにヤゾフの下で軍司令官を務めていた主だった将軍達は皆退役するか引退して観察総監部に移っていた。
例えば第1親衛軍司令官のイヴァン・ゲラシモフ上級大将は1989年に観察総監部へ移り、軍務の主力から引退した。
第3親衛戦車軍司令官ボリス・イヴァノフ上級大将も1986年に装甲戦車兵元帥の階級が授与され、翌年1987年に引退、同じく監察総監部へ移った。
そしてオレグ・ローシク装甲戦車兵総元帥もイヴァノフ元帥と同じく1987年に監察総監部へ移り、前線を支えた司令官達は大体80年代後半には引退していた。
なおこのヤゾフ閥による国防省と参謀本部による地固めは結果的に良かったと評価する声もある。
少なくとも1994年までに在独ソ連軍縮小には成功したし、87年ドクトリンの執行は上手くいっていた。
一番の評価点は2年における連続有事であった。
というのも1995年、BETA大戦終結から丁度10周年の節目の年に事件は起きた。
10年間一切音沙汰のなかったBETAが突如として動き出したのである。
月面から突如槍兵級が3,000体ほど地球圏に向けて襲来し、それとほぼ同時にBETAの降下ユニットが12体ほど11年前と同じルートで出現した。
数としては大したことはなく3,000体の槍兵級は月面に展開していた防衛用攻撃衛星に検知され、第一防衛ラインを突破出来ず全滅した。
12体いた降下ユニットも防衛用”ポーリュス”群による迎撃を受けて半数が撃破され、残り半分は即座に撤退した。
BETA側はあくまでも威力偵察を兼ねていただけなのだが、人類側の衝撃はかなり大きかった。
BETA大戦終結から10年、ようやく人々がBETAの恐怖を忘れようとしていた瞬間にBETAは再びその恐怖を振り撒いた。
幸いにも宇宙空間における水際防衛が成功した為被害はなかったが、人類社会にBETAとは常に現れる可能性がある脅威であると再び認識させた。
一方地上ではこの時国防省と参謀本部が非常時に備えてソ連軍に対BETA戦準備を命じていた為いざという時の体勢が整っていた。
この時の国防省と参謀本部の対応はかなり手際が良かった、恐らく地上にBETAが墜落しても被害は少なかっただろうと後世の専門家は当時のソ連軍を見てそう分析していた。
一連の襲撃が終わると米ソは協議の末、”ポーリュス”を用いて槍兵級を飛ばしてきた月面ハイヴのみ仕留めることにした。
まだ月面にはBETAが残っており、地球の復興を優先させていて放置していたがやがて殲滅しなければならないことを再認識させた。
しかも同時に極東アジア、日本帝国ではとある宗教組織がテロ活動を行い、未曾有の危機に直面していた。
この影響がソ連にも及ぶ可能性があり極東軍管区、特にKGB国境軍と内務省国内軍に緊張が走った。
ソ連外務省は在日ソ連人の安否確認に奔走し、ソ連軍も駐在武官を通じて状況を確認した。
しかもほぼ同時期に北朝鮮では朝鮮人民軍第6軍団が突如クーデターを実行し、あろうことか新しく朝鮮労働党中央委員会総書記に就任したキム・ジョンイルが殺害され、成功してしまった。
これにはソ連も中国も大層驚いた、しかもクーデターの実行者はソ連のフルンゼ軍事アカデミーを卒業した者が主であり、ソ連の関与が疑われた。
クーデター政権は朝鮮人民への食糧供給の失敗などを反動的ブルジョワの行いと弾劾し、これはプロレタリアによる正義の執行であるとクーデターを正当化した。
その上で食糧供給の改善、朝鮮人民軍の改革、経済体制の改革を実行すると名言し、既存の政治的自立は保ちつつ外交状況は改善するとも明言した。
当然これは日中韓米ソ全ての国に衝撃を与えた、あの北朝鮮でクーデターが起こるとは、成功するとは。
当然ヤゾフも衝撃だった、史実と違ってヤゾフと北朝鮮の関係は薄い、それでも驚きが勝った。
北朝鮮は比較的中ソによりつつ日韓米とも馴れ合いはしないが融和路線を取り、自立を維持しつつ経済と外交状況を改善しようとした。
その翌年1996年、今度は人類同士の揉め事が発生した。
事の発端は他国に売却予定だったソ連海軍所属キエフ級”ノヴォロシースク”が襲撃を受けて強奪され、どこかへ消えたという事件が発生した。
事件を追っていくと世界各国の退役軍人が集まって設立したテロ組織が起こしたテロであり、国連軍としてこれを討伐する96年戦役が勃発した。
ヤゾフらはこれらの対応にも追われ、1995年から1996年、後始末も含めれば1997年まで忙しく過ごした。
一方1998年からは比較的平穏に過ごしていた、チェチェンもなければアフガンもない、代わりにBETAはいたがそれくらいである。
本来の1998年は光州事件を皮切りに日本帝国本土がBETAに蹂躙されていたはずなのだが、そのBETAが絶滅したのだから気にすることもない。
そして1999年も何事もなく過ぎ去り、2000年が訪れた、人類は2000年までその歴史を刻むことが出来たのである。
アメリカでは1999年からジョージ・W・ブッシュが大統領に就任、アメリカはここから既存の宇宙防衛を一気に攻撃的なものに切り替えた。
ブッシュという男はアメリカ大統領は悪党に撃ち込んだトマホークと核ミサイルの数で支持率が決まると本気で信じていた、何故なら父親がそうであるからだ。
クリントンの前、H・W・ブッシュは1期目の最後にコロンビアで勝利しエスコバルの首を手土産に2期目を維持し、2期の終わりも1995年のBETA襲来を犠牲無く退けたことで高い支持率を維持していた。
そんな親父の背中を見て育った子ブッシュは本気で悪党、特にBETAに核弾頭なりG弾なりを撃ち込めば支持率は上がると考えた。
これが過ちだったかどうか、この世界ではどうにも判断出来ない、少なくともブッシュの判断で月面に展開していたBETAは全滅したのだから。
ヤゾフの最後の仕事はブッシュの無茶に付き合うことだった、彼は国連宇宙軍の月面攻略計画に携わり、2001年に年齢と健康状態を理由に国防大臣を辞職した。
後3年もすればヤゾフは80になる、このまま国防大臣を続けるのは厳しいと考え、後任にその職を譲った。
ゴルバチョフも長い付き合い故察してくれたのか止めることはしなかった、このゴルバチョフだって後数年すれば引退を選ぶことになる。
10年間仕事の為通い続けた国防省の廊下が名残惜しくも感じるが、今が一番いい引き時だ。
制帽を被り、トレンチコートを羽織って階段を降り、現役のソ連軍人としての生涯を終える。
これから監察総監部に入り軍人の地位は維持されるが現役ではない、事実上の退役である。
2名の警衛兵が国防省の入り口を開けるとそこには国防省の職員らが集まり、ヤゾフの勇退を盛大に見送った。
拍手と共に副官から花束が渡され、部下達が労いの言葉を述べてくれた。
ヤゾフは花束を受け取ると職員1人1人に固い握手を交わし、言葉を交わして別れを告げた。
これが最後だ、永遠の別れではないが現役の軍人としては本当にこれが最後である。
階段を降りていくと妻のエマ、海軍少将に昇進したイーゴリと娘エレーナ、そして娘婿のアレクサンドル・ローシク少将が待っていた。
「お帰りなさい、あなた。お疲れ様」
「ああ、ただいま……全部終わったよ、やり切ったんだ」
「同志前線司令、お疲れ様でした」
家族と抱擁し、ヤゾフは喜びを噛み締め、穏やかな笑みを浮かべた。
彼の視線の先には亡くなった前の妻、エカチェリーナが幼くして亡くなったラリサを抱き抱えて遠くから見守っていた。
「守り切ったよ、祖国を。君の愛した故郷を」
レニングラード攻防戦を戦い抜き、冷戦期に将軍となり、BETA大戦で一軍を率いて勝利まで導いた伝説のソ連邦元帥ドミトリー・ヤゾフは2001年、国防大臣の職を辞し監察総監部へ移った。
ようやくヤゾフにもゆっくり休める時が来たのである。
ーソ連領 ロシアSFSR 首都モスクワ 赤の広場ー
西暦は2020年が訪れた、BETA大戦終結から35周年、大祖国戦争終結から75周年の節目である。
史実で発生したパンデミック騒動は何故か発生せず、人々は平穏な21世紀を過ごしていた。
BETA大戦で人類がこれ以上にない惨劇に見舞われた分、その後の悲劇は回避されたものあったし、史実通りに起こることもあった。
例えばヤゾフが引退した後2001年9月11日のアメリカ、ニューヨークのワールドトレードセンターは平穏無事にその日を終えた。
BETA大戦の余波によって本来起こるはずだった中東の戦争は全て吹き飛んでしまったのだ。
無論BETA大戦で本来起こるはずだった出来事は全て吹き飛んだ、稀にその余韻が残る程度で起こったとは言い難いのが実情だ。
例えば日本帝国、1990年代末の本土侵攻がなく、どこぞの篁の1人娘は普通に高校に通い、一応旧武家という理由で日本軍自衛予備隊に登録はしていた。
そこでどこぞの山城家の娘と仲を深めることになるのだが世界には関係のない話だ。
ただ先人たちが命を削り、後の若者に苦労を負わせなかった、それだけの話である。
斑鳩崇継は友人の真壁介六郎と共に真っ当に昇進を重ね、崇継は最終的に空軍大将にまで昇進して後に設置される初代統合司令官に就任した。
だがそれはもう少し先の話であり、2020年はまだ空軍中将になりたてという塩梅であった。
白銀武という1人の高校生も本来は歴史に残るはずなのだが、やはり彼も1人の高校生でしかなかった。
普通に学校に通い、普通に新しい転校生が来て、普通に恋愛をして、普通に人生最大の決断をして、この平穏な社会を1人の人間として生きた。
英雄にはならなかったがそれで良かったのかもしれない、普通に生きるというのは素晴らしい人生の在り方だ。
結局彼が軍隊に取られることもない、日本軍の徴兵制度は1990年代に終了し、一律で自衛予備隊に登録をして中学、高校教育で少しばかり軍事教育を施されることはあったが戦術機に乗って飛び回ったり、命を懸けて戦うことはもうない。
ちなみにこの世界にも狭霧という陸軍出身の少佐がいたのだが問題発言を理由に陸軍を追い出され、2000年代に出来た特戦群初代司令といつぞやの空軍参謀総長と共に右翼グループを結成して政治活動に邁進している。
真っ当な軍出身者からは煙たがられてるが帝都で斯衛軍みたいにクーデターを起こされるよりはマシだろう。
かつての東ドイツに目を向ければ制度的な統合は殆ど完了し、後は旧西ドイツ人と旧東ドイツ人の生活様式や、戦争被害による経済格差を改善すれば真の統合は完了したと言える。
今の統一ドイツ首相は初の旧東独出身者のユルゲン・ベルンハルト退役空軍少将が就任し、東西ドイツの復興と改革に邁進している。
ユルゲンは前の大戦の英雄であり人気が高い、しかも政治センスは妻のベアトリクス・ブレーメ退役大佐が握っている為一発屋で終わると思っていたのだが意外と長持ちしている。
やはり嫁が強いと長持ちするのだろう、レーガンもそうだった。
シュタージはドイツ連邦情報局とゆっくりと統合し、その罪が断罪されることなく東西ドイツの一部となった。
よって今のドイツには相当問題が多い、当然元シュタージ職員はKGBとべったりだし、ソ連のエネルギー依存も高まっている。
尤も問題のないドイツなんて存在しないのだから通常運転とも言えるが。
ちなみにシュタージ長官を務めていたエーリヒ・シュミット上級大将は大戦後の1986年に突如病死、早々に後任のシュタージ上級将校に地位を引き継いだ。
それから数年後、退役したユーリー・ドロズドフ退役中将と共にシュミット上級大将に限りなく似た顔のKGB退役少将が2000年の対BETA戦勝15周年記念及び対独戦勝55周年記念パレードに映っていたのだがそれはまた別の話。
BETA大戦が85年に終結した為キリスト教恭順派なる異端者の群れも現れなかった、代わりに宗教の自由が認められた旧東ドイツ領に蘇った小さな教会にある赤髪の青年と金髪の少女が神父と修道女として戦争孤児達の面倒を見ながら慎ましく暮らしていた。
話を聞くとその神父は元国家人民軍の少佐で大戦中は腕利き部隊にいたらしい、ソ連の元帥がくれたものだとして本物のレーニン勲章を見せてくれる。
神父でありながら何故かマスターだの呼ばれているらしいが幸せに生きているならそれでいいだろう。
アメリカではユウヤ・ブリッジスなる男がアメリカ空軍のパイロットとして活動していた、恐らく本当の父親ともう一度会うことはないだろう、生きていたとしても。
ソ連ではついぞクローンと強化人間を作って戦術機のパイロットにするという計画は成立しなかった、「折角スプルートが出来て気分がいいんだから訳の分からん計画を持ち出すな」とヤゾフとゴルバチョフが計画を蹴り飛ばした。
結果ソ連は1991年を越えて2020年まで残っていた、グルジアもクリミアもドンバスもなく、シリアで訳の分からんPMCが戦うこともなく、なんでもない2010年代を過ごしていた。
「お隣、失礼しますよ」
ヤゾフの隣に1人の航空元帥礼服を着た男が声を掛けた、ヤゾフが顔を見上げるとその男は見知った頼れる部下だった。
「フレツロフ君……!元気だったかね、そういえばもう総監部入りか」
ヴィクトル・フレツロフはあの後順当に昇進し、2000年の50歳の誕生日にソ連空軍では最高位の階級である航空元帥に昇進した。
「5年前、ようやっとです。同志ソ連邦元帥と違って私は70まで働けませんよ」
ヤゾフは苦笑を浮かべた、今じゃ軽口を叩いてくれる同業者は本当に少なくなってしまった。
「君はいくつになった?」
「今年70歳です。50越えてからは常に何処かしら調子が悪くて」
「年を取るとはそういうものだ」
ヤゾフは95歳である、この世界は本当に僅かにだが数カ月ほど長く生きていた。
フレツロフ元帥の隣には彼の妻と娘とその夫、それとソ連空軍に所属していた息子パーヴェルとその奥方が、パーヴェルの隣には彼の息子、フレツロフ元帥の孫4人が控えていた。
「ああ、息子です。こっちは婿」
「パーヴェル・フレツロフ空軍中佐であります」
「ボリス・ブルーニン地上軍大佐です」
2人はしっかり並んで敬礼し、前の大戦の英雄に挨拶した。
ヤゾフもゆっくりと敬礼を返し、若き佐官の将校達に労いの言葉を述べた。
「フレツロフくんの息子と婿なんだ、聡明だろう。その子は孫か?」
「はい、エミリヤとブルーニン君の子であるエカチェリーナとピョートル、パーヴェルの息子アレクセイとアナトリーです」
「アレクセイ・フレツロフです!」
「いい挨拶だ」
ヤゾフは孫アレクセイ・フレツロフの頭を撫で、優しく微笑んだ。
フレツロフ元帥は椅子に座り、パレード中も暫しヤゾフと雑談を交わした。
「奥さんのことは……残念でしたね……お悔やみを申し上げます」
「……彼女も年だったからね、寂しいけど来る時が来たんだ」
ヤゾフは悲しい顔をしながらそう語った。
ヤゾフの2人目の妻エマは3年前の2017年に亡くなった、長年連れ添った良い夫婦だったがお別れが来た。
ヤゾフはこの3年、数十年ぶりに1人になった、息子イーゴリや娘婿のローシク少将やヤゾフ付副官など多くの1人が訪れていたがそれでも1人の時間は昔に比べて長くなった。
「ソコロフ元帥もペトロフ元帥も、アフロメーエフ元帥も皆死んでしまった。ゴヴォロフ元帥はもっと前に亡くなっているし、あの時前線司令官をやっていたのは私だけになってしまったよ」
ソコロフ元帥は2012年に101歳の年齢で亡くなった、とんでもない長生きである。
ペトロフ元帥も97歳という長寿で2014年に亡くなり、アフロメーエフ元帥も史実より遥かに長生きし2016年に93歳で亡くなった。
ゴヴォロフ元帥は2006年に82歳の年齢で亡くなり、残るのはヤゾフだけとなった。
これもヤゾフの寂しさを募らせる原因となった、あの時のことを対等か先輩と話すことが出来なくなった。
「私ももう長くないだろうね……こういう場合は止めるんじゃないのか?」
「同志、もう95歳で今年96歳なんですからいつお迎えが来たって驚きませんよ。私だって明日お迎えが来るかもしれないのに」
ヤゾフは目を丸くして噴き出して笑った。
「言うようになったね」
「貴方のせいでなんどもハイヴに叩き込まれましたからね。それに我々が果たすべきことは全て果たしたんです、若い奴らに任せて何も恐れることはないではないですか」
ヤゾフはゆっくりと頷いた、ある程度年を取ると若い頃のギラついた体力はなくなり、丸くなっていった。
今でも精力的に活動しているガレーエフのように全員がなれるわけではない。
「……偶には私の家かダーチャに遊びに来ないか?孫もいい歳になって付き合ってくれる奴がいないんだ」
「生憎ハリコフですからね私、モスクワで講演会をする時があったら立ち寄りますよ。ウォッカでも飲んで、昔話に花を咲かせましょう」
「ありがとう、どうやら始まるようだ」
スパスカヤ塔の時計が午前10時を指し示し、報せを告げる鐘が鳴り響いた。
35年前、ヤゾフは来賓席ではなく赤の広場側にいた、モスクワ軍管区司令官がいた場所にヤゾフは立っていた。
あれから35年、色々な事があった、楽しいことも苦難も失敗も数多くあったが、決して悪いことばかりではなかった。
少なくとも75年前に守り抜いた祖国を、35年前に戦って勝ち取った勝利をそのままの形で残すことが出来たのだ、これだけでヤゾフは満足であった。
赤の広場のパレード参加部隊には様々な国の軍隊も参加している、共にBETAと戦って勝った仲間だから、そこに東西の壁はなかった。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、中国、特に中国の発展は目覚ましい。
既に海軍力ではソ連を抜き新世代戦術機の開発や地上戦力の増強も目覚ましい、日中韓米の関係はやや冷え込んでいる為有事になるのではと懸念されていた。
しかし我々には共に勝利したという共通の記憶がある、BETAがこの宇宙のどこかにいる以上今すぐ争いはというのは考え難い。
それに宇宙防衛の分野では目覚ましい発展を遂げる人民解放軍宇宙軍が積極的に防衛力強化に関与している、冷えてはいるが関係が断ち切られた訳ではないのだ。
このまま世界が飢えることなく、侵略の恐怖に晒されることなく、祖国ソヴィエト連邦と共に永遠に続いてくれればこれほどの喜びはない。
我々が二度の大祖国戦争で命をかけて戦った理由は正にこれなのだから。
2020年6月25日、対BETA戦勝25周年記念及び対独戦勝75周年戦勝記念パレードから1ヶ月後、最後の前線司令官ドミトリー・ヤゾフソ連邦元帥は自宅で息を引き取った。
享年95、大往生である。
シベリアのオムスクで生まれ、僅か17歳で赤軍に志願したこの少年はその青春をレニングラード攻防戦という地獄と共に過ごし、初めての大祖国戦争に勝利した。
そして冷戦、ソ連軍一介の将校として西側との対決に備え、キューバ危機では配下の連隊を率いてそのキューバに入っていた。
そしてBETA大戦、軍団を、軍を率いてBETAと戦い、やがては第1ウクライナ前線司令官としてリヴォフからベルリンまで、全ての東欧と中欧諸国の解放に尽力した。
最後は国防大臣として軍の改革に着手し、晩節を汚すことなく引退した、礼服に並ぶ3つのソ連邦英雄の金星がそれを示している。
また1人、前の大戦の英雄が安らかなる最後を迎えた。
さらばオムスクの英雄よ、さらば大試練を耐え抜いた英傑よ、さらば最後の前線司令官よ。
世界からまた1人、大戦の主人公が舞台を降りた。
本来とは
つづく