「鈴音には夢があるかい?」
父が鈴音にそう尋ねてきたのは、果たしていつのことだったのか。当時はまだ幼かった鈴音は、一瞬だけ首をかしげたが、またすぐに顔に笑みを張り付けてこう言ったのだ。
「お嫁さん!」
「あらら。素敵な夢ね」
母は笑ってくれた。父はどうだったのかはさすがに覚えていなかったが、それでも複雑そうな表情をしていたように思える。この先何十年後かの未来に実現するであろうそれに対して、父親なりに思うところがあったのかもしれない。ただ、この時の鈴音は母が笑ってくれたことが嬉しくて、それだけで満足していた。
その夢は鈴音が中学生になっても変わることはなく、彼女の胸の中にあり続けた。もしかすると、あの時の母の笑顔が忘れられなかったのかもしれなかった。
「じゃあ、鈴音の夫になるのは一夏君ね」
ある日、母が突然そんなことを言った。この発言に当然異議を唱えるのは、鈴音と父だ。
「な、なんで、そ、そうなるのよ!」
と照れ隠し気味に鈴音が叫び、
「お、お父さんは、まだ一夏君と結婚することを認めたわ、わけじゃないぞ!?」
父は激しく狼狽したがそれでも母は涼しい顔でこちらを見ていた。どうもこちらの反応を見て楽しんでいるようだ。
それがわかって鈴音は少しふくれっ面になった。
思春期である鈴音はその手の話題にはちと敏感だ。それにこのころになると本格的に異性というものを意識し始める年頃でもある。鈴音が自分の中に渦巻く一夏への想いを自覚したのも、さほどの昔の事ではない。
「あら、でも私はいい子だと思うわよ? 家事もできるし、素直だし、可愛いし」
中学に上がるころには既に一夏と鈴音の家族は顔見知り以上の関係となっていた。一夏は幼いころから両親がおらず姉と二人暮らしをしている。そんな姉も最近ではたまにしか家に帰らないようで、最近では頻繁にこの凰家に訪れて夕飯を食べるようになっていたからだ。
鈴音の両親は中華料理屋を経営している。売れ行きは上々。こじんまりとした店構えだが、そのしっかりとした料理に魅せられた常連客も数多く存在するいわば隠れた名店であった。
母の思わぬ言葉に鈴音の顔は熟れたトマトのように、赤く染まる。
「そ、そりゃ一夏はいいやつだけど……そ、その、好き、とかそんなんじゃ……それにあいつすごいモテるし、私なんか相手になんかされないし……」
鈴音の言葉は彼女の本音だった。一夏はモテる。それも尋常ではないほど女子から人気がある。だが、それ以上に異性からの好意には鈍感だ。あれはまるで気づいていないというより、それが当たり前とでも言わんばかりの風体だ。確かに鈴音と一夏は他の生徒と比べて仲は良いが、それは飽くまでも友達としての関係であり、母が言うような男女の仲ということでは決してなかった。叶うものならば、そうなりたいのだが現実はそう甘くはない、と最近の鈴音は考えだしている。
「鈴音」
もじもじとして言葉を濁す鈴音に、母の凛とした声が響いた。「いいかい?」と何かを諭すような口調で母は語る。
「好き、って気持ちはね、人間にとって特別なものなの。ある時ふと灯ったかと思うと、いつの間にかふと消えている。心は移ろいやすく、感情はマッチの炎のように一瞬激しく燃えて、そのあとは静かに消えていく……。だから、今鈴音の抱いている気持ちは今だけものかもしれない。一年後には心変わりしている可能性だってある」
でもね、と母はつづけた。
「心の底から人を好きになるというのは、人生の中でも一度あるかないかの出来事なの。私にもあったわ。勿論、それがお父さんなんだけれども。もし、鈴音が一夏君の事を本気で好きなら、その心は隠そうとしちゃダメ。隠したら必ず後悔するわ。なんであそこで素直に言わなかったんだろ、って」
そこで母は一旦言葉を切り、間を作ってからもったいぶったような言い方で鈴音に言った。
「男って言うのは馬鹿な生き物だから、言わないと分からないのよ」
そう語る母はどこか楽しそうでもあった。それを隣で聞いていた父をふと見るとそこには先ほどまでの渋面はなく、代わりに照れくさそうな微笑みがあった。どうやら母の言葉と自分たちの過去を照らし合わせていたらしい。「あら、お父さん照れてるの?」そんな彼の反応に気付いて、母もたまらず悪戯心が発動したようだ。
「なっ、そんなわけがないだろ。私はただ、微笑ましいと思っただけで」
「あら、鈴音お父さんも一夏君の事認めてくれるって」
「そ、そんなことは言ってないぞ!?」
母が笑い、父が慌てふためく。そんな両親を見て、鈴音が笑う。
それはどこにでもある家族の風景。
そして、それは二度と戻ってくることのない忘却された過去の風景である。
一家にその光景が戻ってくることは、今はもう叶わない。
* * *
「……凰さんは?」
「寝た。泣きつかれたんだろ」
そう言って玄兎は大きく息を吐いた。強張った体をほぐすように両肩をぐるりと回す。やはりああなった女子ほど扱いに困ることなどない。
玄兎と簪が泣き続ける鈴音の語りを聞いてからすでに一時間近くが経過していた。すっかり日は暮れ、本来ならば夕食を食するために食堂へと赴いている時間である。「食堂行くか」
「うん……」
俯きながら簪が呟く。寮の部屋から食堂まで少々ある、その間に先までのことを少しばかり語っておこう。
鈴音の独白はさほど長くはなかった。彼女が語ったのは一夏との間に交わした「料理が上達したら、毎日酢豚を食べてくれる」という約束と、その約束を絶対に忘れないという約束の話。二つともよくある話とまではいかないが、なかなか青春しているお話だと玄兎は思った。別に青春などに興味はないが、昔にとある同僚に聞かされた話にそっくりなので何となくそう感じたのだ。
だが、現実はフィクションのようにはいかない。鈴音の話によると、どうも一夏は鈴音と交わしたはずの約束を忘れていたというのだ。どういった経緯でそれが判明したのかは不明だが、二人の間で何らかのやり取りがあった結果だということは間違いないであろう。これが本当の話だとすると酷い話だ。
「男が女泣かすとろくなことねえからなぁ」玄兎が頭を掻きながら、しみじみと言った。
「玄兎も……誰か、泣かせたの?」
「あ、いや、まぁ、な。うん」
なんだか歯切れが悪かった。妙な態度ではぐらかされた簪は少しばかり疑いの目でじっと玄兎を見ていたが、すぐに自分がまじまじと彼を見つめていたことを思い出して目を逸らした。無意識だったとはいえ、不躾だったかもしれない。
しかし。一夏もまた厄介なことをしてくれたものである。まだ依頼を受けてから一日ほどしか経っていないにも関わらず、その依頼内容に関係する形で依頼人をあのような状態にされてしまっては、依頼を遂行しようにも難しいではないか。もしかしたら、契約破棄なんてこともあり得る。これでまた、大切な資金源が消えることになったら一夏を恨んでやる――――――玄兎は脳の片隅でそんなことを考えていた。
「まぁ、なんだ。今回の話は、女と男の痴情のもつれってやつだろ。簪は気にすんなよ?」
「…………そう、なのかな」
玄兎が笑いながら言った言葉に、簪の眉が訝しむように寄せられた。「何がだよ」と玄兎が問うと簪は少しばかり唸ってから、ゆっくりと口から言葉を紡いだ。
「私には…………それだけじゃ、ないような気が……して」
自信なさげに発せられるその声には簪本人も少しばかり戸惑っているような色があった。当然であろう。今日初めて会った人に泣きつかれ、昔話を聞かされ、さらにそれがとても複雑でデリケートな話だったために妙な気を遣わなければならなかったのだ。気苦労というか、なぜこんなことになったのかという困惑はあって然るべきである。
では、彼女は一体あの一連の出来事の中のどこに違和感を覚えたというのだろうか。
一夏を忘れたことか。否。
酢豚を毎日食すという奇妙な約束の事か。否。
では何か。
「……鈴音さんは……本当に、それだけだったのかなって」
いまいち簪の言葉は要領を得なかった。恐らくは簪本人もまだうまく脳内に浮かぶ疑問をうまく纏めきれないでいるのだろう、一言一言をかみしめるように簪は言葉を吐き出していく。「あ、あんな風に……なるのは、織斑君との約束以外にも、何か……あるのかも」
「以外にもって?」
「あ、へ、変な意味じゃ…………ないよ?」
おどおどとした様子で簪はさらに言葉を続ける。
「確かに、忘れられたのはつらいかもしれないけど……あの泣き方は、尋常じゃ……なかった」
「まぁ、そう言われれば様子はおかしかったよな。一か月ちょっと付き合いがあるけど、あいつのあんな顔初めて見たぞ」
簪の指摘に玄兎も自分の中にあった違和感を思い出した。
確かに鈴音のその泣き様といったら、普通ではなかった。簪とぶつかった時には既に顔には泣いていたような跡があった、それも一目で泣いたとわかるほどにくっきりと残っていた。それに加え、簪と玄兎と会ってからも鈴音は泣き続けていたのだ。
それはまるで駄々をこねる子供のようだった。信じたくない、とでも言いたげな悲痛な泣き声だった。そして、玄兎はそんな鈴音の姿に違和感を覚えたのだ。いや、既視感といった方が正しいかもしれない。
その時の彼女の姿によく似た光景を過去に見たことがあった。信じていたものに裏切られ、絶望して嘆いているそれはまるであの時の…………自分のようではないか。
「でも、尋常じゃなかったのは単純にあいつにとってその約束ってのが、相当大事だっただけってこともあり得る。もしするとお前のいう通り、あいつがああなった理由がほかにもあるのかもしれないが、現状じゃ判断しようがないし、今はあまり詮索してやらん方がいいだろ」
つい昔を思い出してしまいそうになった玄兎は、その記憶を振り払うようにかぶりを振る。そして、それを忘れようとするかのように口早に簪の問いに対する答えを口にした。
「………うん」
簪が半分納得、でももう半分はまだ疑問を感じているといった面持ちで返事をする。どうやら彼女も彼女なりに鈴音の事を案じているらしい。今日が初対面だったというのに、なんとも心優しい少女だ。
食堂に入り、いつものように料理を注文し受け取ってから席に座る。
今日はいつもとは少し違う感じがした。隣にいるのが楯無や一夏たちではなく簪だからだろうか。なんだか新鮮な気持ちがする。玄兎はそういった感想を抱きながらも、いただきますと手を合わせた。今日の夕食はざる蕎麦六人前だ。我ながら少ないかなと思いつつ、玄兎は蕎麦をすすった。
「今日も美味しゅうござんすね」
「…………?」
妙な口調で感想を述べる玄兎に簪が目を瞬かせていると、横から「やあやあ」という言う声があった。
「神皇か」
「今日は珍しいカップリングを見られる日ですなぁ……やぁ、よかったね、かんざしっち」
と、ウィンクを決めながら言ってくる神皇だったが、その腰のあたりで数秒間隔にカメラのライトを光らせている辺り計画通りなのだろう。
しかし、そんな神皇の登場に玄兎は一瞬だけ反応を示したのだが、すぐに興味を失ったかのように黙々と蕎麦すすりに戻ってしまった。簪も似たような反応で、ふにゃふにゃになるまで汁に浸したかき揚げをおいしそうに頬張っている。
無視を決め込んだ態度だった。さすがの神皇もこれには面白くないと、声を上げずにはいられなかった。無視するとはこれいかに。
「ちょっとちょっと!? 二人とも何ですか、その態度! さすがの神皇ちゃんでもそれには堪えますよ!?」
ぱしゃり、という音が発言の要所で聞こえてきていてはその信憑性というのは疑うしかないかろう、と二人は思った。何しろ彼女は新聞部だ。IS学園の新聞部というのは、とにかくスクープ写真を撮りたがる、ということでちょっとばかり学内でも有名である。過激というか、個人のプライベートにずけずけと踏み込んでくるその姿勢には感服する面があるのだが、反面その姿勢のせいで千冬やその他講師による罰則をくらっているところを見ることも少なくないい部活であった。
神皇はそんな新聞部でたった一人の一年生部員なのである。因みに部員数は神皇を含めて二名であり、それ故廃部の危機に立たされているというがそれは二人の窺い知るところではない。
神皇は地団駄を踏みながら、頬を膨らませる。
「ふうんだ。会長といい、最近皆冷たくないですか? 私に恨みでもあるんですか!」
「あるさ、勿論」
「……ある」
「なんか、すいません!」
軽い口調で言ってのけている玄兎はともかく、簪の発言からはにじみ出る怒気が感じられた。まだ玄兎を騙して整備室に寄越したことを怒っているのだろう。さすがの神皇もこれには謝罪するしかなかった。
軽い頭を下げた神皇は、「さてと」と気を取り直したように簪の隣に腰かけた。
「ここ最近、何かと物騒な話題が続いていますよね~」
まるで独白のように一人神皇は言う。
「例えば、今朝ニュースで言ってましたけどアメリカのレストランで銃撃戦があったらしいですよ? いや、銃撃戦というよりは発砲事件ですね。それになんでもスタングレネードも使われた形跡があるとかなんとか。いやぁ、物騒ですねぇ。先月の件といい、異常気象の件といい、大丈夫なんでしょうか」
神皇は大仰に肩を抱き震えるような仕草をして、恐怖を感じているということをアピールした。その動作はなぜだろうか、妙に見ている者を苛立たせるものがあった。わざとやっているのであれば、大したものだ。
だが、そんな当人の思惑とは別に玄兎と簪は揃って眉ひとつ動かさなかった。加えると、簪に至っては顔すら神皇に向いていなかった。ずるずるという麺をすする音だけが、簪の言葉を代弁するように神皇の耳を打った。一方で、つゆに浸した薬味とともに蕎麦を吸い上げる玄兎は、もぐもぐとその口を動かしながらも「そうか」とだけ言うと、再び視線を目の前にあるざる蕎麦へと落とした。興味がないことを微塵も隠そうしていない声音である。
「……ここまで徹底的に無視されると、さすがの神皇ちゃんもカチンと来ちゃうなぁ。こうなったら、今日仕入れてきたばかりのとっておきなネタを教えるしかないね」
(またろくでもないことに決まってる……)
(神皇のこういう話題には付き合わないほうが得策……)
二人の神皇に対する感想は相も変わらず一貫していた。
神皇が言う。「現在、この食堂に織斑君や篠ノ之さん、会長までもがいないのはさてどうしてでしょうーか」
「……そりゃ、飯食い終わったからだろう」
「同意」
「ちっちっ。甘いねぇ、お二人さん。会長と篠ノ之さんはともかくとして、織斑君に関してはちょっと事情が違うんだよねぇ」
神皇のその言葉を聞いて玄兎が表情を少しだけ引き締めた。織斑一夏という単語に、先の鈴音の話を思い出したからだ。彼女がもしも鈴音と一夏の間に起こった出来事を知っているのならば、今彼女が言おうとしていることはもしかすると鈴音の話に関係することなのかもしれない、そう思ったのである。
簪も同じ考えに至ったのか、うどんを食べていた箸を止めてじっと神皇を凝視していた。
「簡潔にいうと倒れたんだよね、彼。そして、今もまだ保健室のベッドの上でぐっすり。だから、食堂にはまだ来ていないの」
「倒れた? なんでまた」
貧血か、もしくは疲労の蓄積によるものなのか。玄兎はいくつかの原因を頭に浮かべていたが、神皇の次の言葉でそれらをすべて否定された。「それが原因に至っては、私のところでは調査不足。不明です」
「はぁ? 不明って、おいおい。貧血とか、空腹とかあるだろ、倒れる理由なんて」
「空腹はともかく、彼の身体は至って健康。貧血の症状も見られず、疲労の蓄積かもしれないって話だけど……正直、疲労のせいってのもあんまりなさそうって話です。まぁ、詳しい診断結果とか調べる前にここに来たんで本当のところはどうなのかは知りません」
「いつ倒れたんだ?」
「夕方らしいですけど、詳しい時刻まではさすがに……」
ふむ、と玄兎は唸った。夕方というと、鈴音の一件があったぐらいの時間帯だ。ならば、必然的に一夏は鈴音と会話し鈴音がその場を去った直後に倒れたという計算になる。
どうにもきな臭い。鈴音に感じた違和感といい、この一夏のことといい、妙に出来過ぎた感じがする。こればかりは玄兎の思い過ごしかもしれないが、なんとなく直感でそう感じたのだ。
「お見舞いにいくか」
玄兎の口から自然とそんな言葉がこぼれていた。とりあえず、一夏のもとへと行ってみよう。まだ寝ているかもしれないが、何かわかるかもしれない。漠然とした考えだが、鈴音のこともある。悠長なことはしていられない、依頼はまだ継続中なのだ。
玄兎は最後の蕎麦をずるずると勢いよく吸い上げると、眼前で手を合わせた。
「御馳走様でした」
「まったく……寝不足で倒れるとか、心配させんな」
「空腹で日常的にぶっ倒れている玄兎さんにだけは言えない台詞ですね」
神皇に痛いところをつかれ、玄兎は一人唸るように言葉を切った。
結論から言うと、一夏は玄兎達が保健室に到着したころには既に目を覚ましており、簡単な食事をとっていた。つい先方目が覚めたばかりらしかったが、玄兎が見る限りさして元気がないというわけではなさそうだ。調子もいつも通りとまではいかないが、通常のそれに近い。
「面目ないな。最近、なかなか眠れなくて」
一夏によると、彼が倒れた原因は単なる寝不足からくるものだったらしい。曰く、最近寝つきが悪いとのこと、夢にうなされて夜中に起きてしまうことが多々あったそうだ。そのために最近は少々寝不足気味で、さらに昨日からクラス対抗リーグマッチに向けての自主トレーニングを始めたことによる疲労の蓄積も相まって、このようなことに相成ったということだった。
「不眠症の可能性もあるけど、今はまだ様子見ね。これが一か月経っても続くようだったら、ちゃんとした医療機関に行くこと」
IS学園に常勤している保険医が言うには、一夏には不眠症と思わしき症状がみられるとのことだ。IS学園という特殊な環境が、無意識のうちにストレスとなって不眠症の症状を引き起こしているのかもしれない。一日中、一人を除けば学園にいるのは全員が女性という環境は言わずもがな通常ではありえない環境だ。つい数か月前までは至って普通の生活を送っていた一夏にとってみれば、異様なものに見えていたのかもしれない。彼がストレスに感じていたのは、いまだ拭えない去年までとの生活環境の差なのかもしれなかった。
「夕方以降の激しい運動はとりあえず、控えておいてね。リーグマッチの事もあるだろうけども、我慢して。それと寝る直前にストレッチをしておくと効果的よ、やりすぎは逆効果だけど……それと、一番大事なのはあまり寝よう寝ようとは思わず、眠たくなったら寝ること」
保険医はそういった旨を一夏に告げると「じゃあ、また何かあったら言ってちょうだいね」と言ってそそくさとこの部屋を立ち去って行ってしまった。
「とりあえず、心配ないってことか」
「ああ、すまん」
一夏がそう言って気まずそうな笑みを作った。自分が倒れたせいで思わぬ心配をかけさせてしまったのが、申し訳なかったのだ。
「ところで、聞きたいことがあるんだが」
と切り出したのは玄兎だった。一夏は保険医が置いていったサンドイッチを口に運びながら、そちらに耳を傾けた。
「鈴のことだ」
* * *
鈴音が両親の仕事の都合で日本へやってきたのは、小学四年の頃だ。当時はISが世界に発表されてから既に数年が経過し、あの二十一世紀騒乱と呼ばれる世紀の大混乱もようやく沈静化に向かっていた時世である。
「この子が新しくこのクラスに転校してきた、凰鈴音ちゃんです。みんな仲良くしてやってね」
教壇に立つ日本の教師がそう言う。後ろにある黒板には大きく鈴音の名が漢字で書かれており、その横には小さな字で読み方が書いてある。
しかし、鈴音にはそれがなんと書いてあるのか、教師がなんと言っているのか理解できなかった。まだ幼かった鈴音は、日本に来て日も浅かったことから日本語の読み書きは殆ど出来なかった。それ故、小学校に入ったのはいいが周りがなんと言っているのか分からなかったのだ。
見知らぬ土地で言語が理解できないということは、すなわちコミュニケーションが取れないということを意味する。それは恐怖だ。小学校にいる間は中国語を話せる教師の補助があるとはいえ、年端もいかぬ少女にはいささか苦しい現実であった。
怖い。皆が自分によってたかり何かを言っている。それはわかるのに、その内容はいまいち理解できない。いくつかの日本語は両親に教えてもらったので、ある程度はわかる。だが、まだ小学校も中盤の無垢な子供たちの外国から来たばかりの転校生への配慮などあってないようなものだった。好奇心に任せ、相手のことなどお構いなし。それはまるで嵐のように、鈴音は感じられた。早く過ぎろと心の中で祈ることしか、幼い鈴音には出来ることがなかったのだ。狼狽えることしかできず、結局教師のフォローが入るまで鈴音は意味の分からぬ質問を受け続けた。
そして、そんな鈴音に対し子供たちは残酷なまでに好奇心と興味を失っていった。当然であろう。子供たちからすれば転校生は珍しい、いわば珍獣のような存在である。初めのうちは好奇心というものに胸を躍らせ、思うがままに質問するからまだいい。だが、好奇心というものも興味というものも時が経てば次第に薄れていくもの。それに加え、鈴音は日本語が分からず、皆の質問には一切答えない。子供の興味は移ろいやすい、このこともまた皆が鈴音から関心を失っていく原因となった。
自然と鈴音はクラスで孤立する存在になった。子供たちからすれば、鈴音という存在は異質なものに映ったのかもしれない。日本人とは違う顔つきに、話す言語も違う。そんな彼女に一種の不気味さを感じていたのだろう。
幾分、まだ皆幼い。大人のように見識を広く、また自分と違うものを受け入れるということが出来ずにいる。彼ら彼女らの視野はまだ自らがいる学校、地域に限定され、そこ以外は未知の領分だ。そして、その領分から来た者もまた、未知なる存在である。子供たちからすれば、自らの領土に無断で入ってきたならず者のような感覚を鈴音に持ってしまったのであろう。
「ねえねえ。君、いつも一人だよね」
鈴音も日本に馴染み出し、日本語も少しだけ身についてきたある日のことだった。
そいつは突然、鈴音に話しかけてきた。昼休みのことだ。いつものように一人、皆が遊ぶグラウンドを眺めながら自分の席に座っていると、後ろから声をかけられたのである。
また嫌がらせか、と鈴音は顔をしかめたがこの短い学校生活で学んだ「相手にしたら負け」ということを思い出し、そいつを無視するようグラウンドの方から目を逸らさなかった。
「ねえ、聞いてる?」
だが、そいつもまたしつこかった。そっぽを向いてようとお構いなしに、話しかけてくる。これには鈴音もどうするべきか悩み、末に仕方なく後ろを振り返った。
後になって思うと、この時が鈴音の判断が彼女のその後の人生を大きく変える切っ掛けとなったのだろう。この時、徹底的に無視を決め込んでいれば、彼女は彼と出会うことなくクラスでも、恐らくその先の学校生活においてもひたすら孤独を貫いていたであろう。
だからこそ、彼に惹かれたのかもしれない。
「なによ」
「俺、織斑一夏って言うんだ。君、いっつも暇そうだから友達になろうかと思って」
織斑一夏との出会いは決して劇的というものでもなく、どちらかといえば――――――
「私、友達いらない」
――――――最悪に近いものだった。
* * *
この話を語るには時刻をしばし前日の放課後にまで遡らなければならない。
その日の第三アリーナでは白熱した模擬戦が行われていた。
「その程度ですの!? 織斑一夏!」
「……っく!?」
頬をかすめていくレーザーの光線に冷や汗を掻きながらも、一夏は空中でステップを踏むかの如く横へと回避行動をとった。直後、一夏が先程までいたその場所をBT兵器《ブルーティアーズ》の一斉掃射による光線が穿いた。熱線が空気を焦がし、一夏の冷や汗をさらに溢れ出させる。
「ですから、それが甘いというのです!」
当然、襲い掛かってくるのはセシリアが構えるBTエネルギーライフル『スターライトmk-Ⅲ』の銃口から放たれるエネルギー弾だ。これに対して一夏は雪片を軽く横に薙ぐことによって対応した。放たれたエネルギーの弾丸が雪片弐型の刀身に触れるのと同時に消滅していき、一夏の行く手を広げていく。
零落白夜。一夏の専用機『白式』のワンオフ・アビリティーであるそれは、エネルギー質のものならば何でも打ち消すことが出来る規格外の力だ。かつて世界を制した織斑千冬の愛機『暮桜』も同質の能力を有していたと聞く。いわば一夏の切り札的存在なのである。
しかし、この零落白夜には能力を発動するために自身のシールドエネルギーを消費しなければならないという欠点が存在した。そのためか、一夏の模擬戦における敗北原因の大半を占めるのは、零落白夜発動によるシールドエネルギーの枯渇であった。つまり自滅である。
それでも一夏はこの能力を使わざる得なかった。セシリアや鈴音、そういった代表候補生達との技術面との差は先月の代表決定戦で嫌というほど味わうことができた。それは一朝一夕で埋められるような差ではない。膨大な時間と経験を経て、それから得たものを研鑽し、自身の技術へと昇華させることによってはじめてその差は埋まり始めるのだ。今の一夏では足掻いたところで、どうすることもできない。ならば、自分にとってのアドバンテージとは何か。それを考えると、必然的に零落白夜しか残らないのである。
故に一夏は突き進む。何度この能力に翻弄されてようとも、敗北を喫しようとも、諦めることはしない。
「また性懲りもなく……!」
肉薄する一夏を前にセシリアはそんな言葉を吐き捨てながら、構えていた『スターライトmk-Ⅲ』を粒子に戻した。どのみちこの距離ではライフルなど使えないし、撃ったところでどうせ消滅させられるのが落ちだ、使えないのなら手にあるだけ邪魔というもの。武装は一つではない。取捨選択をしろ。この場面における、ブルーティアーズの中で最も最適な武装は何だ。数少ない武装の中で、この近距離で使用できるものは何だ。
イメージしろ。鋭く尖ったその刃を。美しく滑らかなその刀身を――――――
「インターセプター!」
慣れない武装の展開のために初心者と同じ手法を使わなければいけないことはプライドの高いセシリアにとっては屈辱であったが、それはまだ自身の技量が足りないだけだ。あの男のように、初めて握った武器ですら自由自在に扱えるようにならなければ、本当の意味でISを乗りこなしているとは言えない。
セシリアの手の中に粒子が集まり、一つの形を成していく。近接ショートブレード『インターセプター』それは、ブルーティアーズに搭載されている唯一の近接戦闘が行える武装であった。打鉄の葵よりも幾分か短い刀身だが、その分小回りが利く仕様となっており、敵の懐に飛び込んで振るうことを目的とされている剣である。
粒子がはじけ、展開し終わったことが告げられるのと一夏の雪片が下から逆袈裟に斬り上げられるのはほぼ同じタイミングであった。
直後に剣戟。雪片弐型の輝く光刃が、インターセプターの鈍色に光る刀身とぶつかり、激しく火花を散らした。
硬直状態にはならなかった。鍔迫り合いになれば零落白夜の効果によってエネルギーを持っていかれると判断したセシリアがインターセプターを使い器用に一夏の斬撃を受け流したのだ。そのまま宙を蹴るように、スラスターを逆噴射。一夏との距離を取った。
(さすがに一回の剣戟とはいえ、シールドエネルギーの減り方は尋常ではありませんわね。掠るだけでも効果を発揮するなんて、正直厄介ですわ……)
対峙してみて初めてわかる、零落白夜という能力の絶大なる優位性。圧倒的なリスクを背負いながらも、それからもたらされるリターンは発動するための対価を容易にカバーできるものだ。もはや反則級なのである。もしも、一夏に経験というアドバンテージがなかったならば今のセシリアでは太刀打ちすることは難しいとさえ思う。
ただ、今の一夏では宝の持ち腐れというものだ。使い方がなっていない。だから、能力に翻弄され自滅する。
そして、そんな一夏であるからこそ付け入る隙があるのだ。脅威なのはその機体の有する能力であり、操縦者は穴も同然。
「考えなしに突っ込んでくるお馬鹿様には、ちょうどいい最後を飾らしてあげましょう」
「うおぉおおおおお!」
またもや突進。芸がない男である。
再び『スターライトmk-Ⅲ』を展開させ、照準をつける間もなくセシリアはその引き金を絞った。銃声とともに飛び出すエネルギー弾は空気を穿ちながら進み、一夏のもとへと到達する。が、それらはすぐに雪片の一閃によって屠られ、粒子すら残さず消滅していく。依然として、一夏は無傷。
しかし。
「まだまだ、ですわ!」
セシリアは間髪入れずに一夏を狙い撃った。常に一夏との距離を取りながらの銃撃だった。
撃ちは消され、撃たれは消していく。それの繰り返しだった。
変化があったのは一夏が二度目の肉薄に成功したとき、白式の纏う零落白夜発動を示すオーラが消えたのだ。それに伴って雪片弐型の光刃もその輝きを失い、元の白く美しい刀身に戻っている。
――――――チャンスですわ!
恐らく零落白夜が発動限界を超えたのだろう。それはすなわち白式の残りのエネルギー量が乏しくなったことを指している。
肉薄してきた一夏との距離はいささか『スターライトmk-Ⅲ』を使うには近いような気もしたが、セシリアは半ば強引にそれを構えた。狙いは散漫。だが、それでも距離の近さがあってか彼女の放った銃撃すべてが一夏に命中した。
「まだだっ!」
それでも一夏の意地は雪片の切っ先を天へと突き上げた。そして、その勢いに任せそれをセシリアめがけ振り下ろす。
間に合え。と、セシリアは胸の内で叫んだ。口に出している暇などない、セシリアは手にあるのは今まさに形を成そうとしている粒子の集まり。インターセプターの展開完了と一夏が雪片を振り終えるのは、僅差で前者が勝った。
一瞬の激突。火花が散り、刀身と刀身が競り合う。鍔迫り合いでは若干一夏の方に分があった。彼は剣道経験者、こればかりはあちらの経験が有利か――――――否。既に勝敗は決している。
それは一夏の背後から猛然と迫ってくる一筋の光であった。一夏が気づいたときには既に白式の背部に着弾している。
ブザーが鳴り響き、一夏が敗北したことを、セシリアが勝利したことを伝えるアナウンスが流れた。
「だぁー! また負けたー!」
「当然ですわ。まだ先の決闘から一カ月、そう簡単に追い抜かれたら代表候補生の名に恥じるというものですわ」
ISの展開状態を解除し、待機形態に戻した二人は額に掻いた汗をぬぐいながら各々の感想を述べていた。実力はまだセシリアのほうが何倍も上だが、一夏の方も着実に上がってきている。最初は不安定だった空中での所作も慣れてきた様子であるし、何よりワンオフ・アビリティーの発動も前と比べてもより早く滑らかになってきた。セシリアから見ても、一カ月程度でこの具合は上々だ。
とはいっても、まだまだ未熟な面もある。勢い任せの戦術に、動作一つ一つの雑さ、経験不足と知識不足からくる愚鈍な判断。どれを取ってみても彼はまだ三流の域を出ていなかった。この調子では、数週間後のクラス対抗リーグマッチで優勝するなど夢のまた夢である。クラスの皆には申し訳ないが、食堂のデザート無料券半年分は諦めるしかない。セシリアは内心、クラスの皆に謝った。
今回のこの模擬戦、実のところ言い出したのはセシリアの方からだった。それを彼に提案した時、少しばかり訝しむような視線を向けられたが、すぐに二つ返事で承諾を受けることができた。
このような提案をするのにはいくつか理由がある。
一つに、今日の午後の授業においてセシリアは麻耶に完膚なきまでに叩きのめされた。文字通り手も足も出なかったのだ。それに加え、一月前の玄兎との対戦。あの時、玄兎の接近を止めることのできなかったセシリアは目の前に相手がいるという状況で何もすることができなかった。応戦することも、回避することもできずにただ相手の一撃を受けるだけ。運よく、放ったブルーティアーズの一射が彼のシールドエネルギーを削ってくれたからよかったものだ。
この二回の対戦でセシリアは今後の課題というものを見つけていた。敵が接近し自機の武装の有効範囲外にまで接近された場合の対処法である。これまでは敵を懐に入れまいとする戦術、攻撃スタイルを身に着けようとしてきた。事実、セシリアの愛機ブルーティアーズは遠距離射撃型であり、近接戦闘における武装は近接ショートブレードである『インターセプター』のみに留まっている。相手との距離をいかにうまく離し、接近を許さず、その一射で敵を穿てるか。それが以前までセシリアが目指していた姿であった。
それは間違っているわけではない。それは確かに遠距離射撃型においては理想的な戦闘スタイルであり、一番力を発揮できる形でもある。
だが、現実とは理想のようにはいかぬときがある。セシリアが味わったように、時には相手に裏をかかれ懐に入れらてしまう場合も無きにしも非ずなのだ。卓越した操縦技術を持つ国家代表であろうとも、そうやって敗北の苦汁をなめさせらた選手は大勢いる。
なら、どうするべきなのか。その答えを得るにそう時間はかからなかった。
――――――接近戦における戦闘能力、敵間合いからの素早い離脱。この二つが今後のわたしくの最優先課題ですわ。
もしも、こちらの懐へ入られた場合の対処は接近戦における戦闘能力を上げるしか手立てはない。しかし、いつまでもこちらの間合いの内にいられていても困る。そこで必要なのが、敵の接近攻撃を回避しその場から離脱、こちらの射撃可能範囲に敵を再び入れるという、いわば〝戻る〟ための技術だ。
この模擬戦はいうなればその答えが本当に正しいのかどうか、というのは確かめる意味合いもあった。本当であれば、一夏ではなく玄兎を相手に所望したかったのが、生憎彼は今ベッドの上で腹をすかして寝ている。よく一夏とつるんでいる同学年のもう一人の代表候補生も頼みごとをするには、いささか面識が浅い。上級生にもそれが言える。出来れば専用機を持つ者がいい、そうでなければスペックという基本的な差が出てしまって、本当の意味で〝戻る〟が通ずるのか分からない。
ならば誰か。そうなったとき、消去法でセシリアの知るのは一人しかいなかった。ちょうどよいと言っていいのか、彼の戦闘スタイルは接近戦オンリーで、その一撃は良くも悪くも一撃必殺。瞬時加速時の加速力、最高速度は第三世代の中でもトップクラスの代物だ。これほどないまでに、ピッタリな相手だった。
(成果は上々……と言いたいところですけど、まだまだ粗が目立ちますわね)
相手の攻撃を完璧にはいなすことができず、無駄なシールドエネルギーを削られてしまったのはまだまだセシリアが技術面で練習不足という証拠だ。それに、二度も懐に入られたのも痛い。二度目は特に鍔迫り合いとなったために、幾何か不利な状況に追い込まれたのも事実。これは要特訓だ、とセシリアは思わずため息をついた。
勝ったにもかかわらず、さして嬉しくない胸中のセシリアは戻ってさっさとシャワーを浴びたいという気持ちを最優先させて、さっと踵を返した。
その時だった。振り返りざまの横目で、一夏の身体がぐらりと揺れるのは見たのは。
「ちょ、ちょっと!?」
慌てて、セシリアが駆け寄る。「ああ、ごめん。ちょっとめまいがしてさ」と一夏は言うが、対戦した後にそうなられるとやってなくとも自分に何らかの責があるのではないかと思ってしまうので、出来ればやめてもらいたい。
「最近、ISに乗ってるときやそのあとによくこうやって頭が痛くなって、めまいがするんだよなぁ。貧血かもしれないな」
「はぁ……もしも、具合が悪いんでしたら特訓はおやめなさい。それがもとで体を壊したら、元も子もないですわよ?」
「ありがと。でも、大丈夫だ」
と一夏は言うが、その顔にはどこか血の気が薄いようにも思える。本当に貧血ではないのか、とも思ったが本人が大丈夫だと言っている以上セシリアにはそれについて言及するつもりはなかった。もう一度、大きなため息をつくと、今度こそ踵を返し、アリーナのロッカールームへと戻って行った。
「とは言うものの……痛いのには変わりないんだけどなぁ」
まだふらつく足で何とか踏ん張りながら立ち上がった一夏は、まだずきずきとした痛みが走っている頭を押さえた。
この痛みが出てきたのは、初めてISに乗ったあのクラス代表決定戦の時の夜だ。その時はぴりっとした痛みが一瞬だけあるのみで、今のように持続的なものでもなければめまいを併発することもなかった。だが、それも日に日に回数が増えていき、次第に痛みの持続時間もめまいも酷くなっていった。今では貧血にも似た症状まで出始めている。
これは近々、保健室に行かないといけないかなあ、などと冗談半分に考えていた一夏であったが、この翌日にそれが現実の出来事になるなどとはさすがに思ってもいなかった。
「箒ちゃん、ちょっといい?」
放課後。アリーナへ行く途中の一夏と箒、鈴音の所に楯無がやってきた。表情筋がやや引きつっているが、何かあったのだろうか。後ろにはにこやかな表情をしている女子生徒の姿も見える。「なんでしょうか?」と箒が返事を返した。
「貴方、最近部活サボってるでしょ?」
ぐさりと箒の胸に何かが突き刺さった。見えない刃だ。思わず「うぐっ……」と唸り声をあげてしまった。
「最近、剣道部の部長が嘆いてたわよ? 折角大型新人が入ってきたのに、部活に参加してくれない~、って」
「ああ、それは……ですね」
「言い訳無用。どんな理由があろうとも、部活を無断で休むのは駄目よ。休むならそれ相応の理由と、部長へその旨を伝えてからにしなさい」
「……はい」
と、箒は半ば押し切られる形で返事をした。図星で、言っていることも相手が正論なので言い返す余地もない。
楯無はそんな箒を見て、「よし」と呟いた。箒の制服の襟をつかみ、ぐいと力で箒を引っ張った。
「じゃあ、今から部活に参加しましょ。念のため、私が連れていくからね。今日は元気もいいみたいだし? 怪我もないみたいだから、大丈夫だよねー、箒ちゃん?」
なぜだろうか。楯無の口調にどことなく怒りと八つ当たりのようなものが感じられるのは。それに後ろに控えている女子生徒もやけに楽しそうな笑みを浮かべて、楯無を見ている。
「あ、そういうことだから箒ちゃんは貰ってくね。じゃあ、訓練頑張ってね、一夏君、鈴ちゃん」
そう言うと楯無は有無を言わせず箒を、ずるずると引きずるようにして連れて行ってしまった。「にゃはは、面白いな会長。あれを邪魔したからって、そんなに苛立たなくてもいいのに」去りゆく楯無の背を見て、女子生徒が堪えていたものを一気に吐き出したかのように笑い出した。腹を抱えている。
「あんた……確か」
「あ、ごめんごめん。私たち、そういえば初対面だっけ?」
鈴音が顎に手をあて、思案する中女子生徒が一夏たちに気付いたように顔を上げた。目の端にたまった涙を指でふき取り、彼女はまるで取引先の相手と喋るかのような雰囲気で自己紹介を述べた。
「私は一年四組の瀧岸神皇。気軽に神皇って呼んでね」
口調と雰囲気がまるで噛みあってなかった。雰囲気や表情は取引先との会議に赴くサラリーマンのそれだが、口調と言葉遣いはどこにでもいそうな女子高生のものだった。どうにもちぐはぐ感が拭えない。一夏たちはそんな妙な感覚に引っかかりを覚えながらも、「あ、俺は」と自己紹介を始めようとした。
だが、
「あ、自己紹介はいいです。えーと、一年一組の織斑一夏君と二組の中国代表候補生、凰鈴音さんですよね? 噂は常々拝聴させていただいてますよ~。何でも二人は小学校時代からの仲だとか。幼馴染ってやつですねぇ……あ、織斑君的には『セカンド幼馴染』ってやつですかね」
そう言って神皇は、にししし、と奇妙な笑い声をあげた。
一方で一夏たち二人はぽかんと口を開けたまま、茫然としていた。なんで知っているんだ、とでも言いたげな顔だった。
「ああ。私こう見えても情報通なんです。これは秘密ですけど、学園では情報屋としても有名なんですよ~。あ、織斑先生には内緒だからね!」
情報屋、と聞いて最初に納得したのは鈴音だった。思い出したのだ。そういえば、クラスで金さえ払えばどんな情報でも売ってくれるという生徒の話を聞いたことがあった。その名も情報屋。正体はこの学園の生徒らしいが、なんでも依頼すれば無茶なものでなければどんな情報でも仕入れてくれるのだという。それがたとえ生徒の個人情報でもあってもだ(勿論、その場合破格の金額を請求されるようだが)。にわかに信じられなかったが、まさか本当に実在したとは。
合点がいき何度も頷く鈴音の隣で、一夏だけはまだ疑いの目を神皇に向けていた。当たり前だ。他人の個人情報を初対面の人間に知られていたら、誰だって不審がるに決まっている。一夏が食堂や教室で言ったことが、誰か伝いに彼女の耳に入ったという考えもできるが、情報屋という胡散臭いものをやっている人間を初対面でどうして信じれよう。
「まぁ、織斑君が不振がるのも無理ないよ。なんなら、依頼してみる? 出来る範囲なら何でも調べてくるよ~……そうだね、織斑先生のスリーサイズとか」
「ぶっ」
「冗談だよ」
こほこほとせき込む一夏を楽しげに見ながら、神皇は一夏の隣にいる鈴音の近くに歩み寄った。その時神皇が「君があの玄兎さんの依頼主かぁ」と小声で呟くのを鈴音は聞き逃しはしなかった。今なんと言った。それはまさか、一昨日のあれか。
「あんた……まさか、知ってるの?」
と、恐る恐る鈴音は問うた。答え次第では、玄兎を殴りつけなければならないだろう。鈴音意外であの一幕を知っているのは、玄兎だけしかいない。ならば、二人以外の誰かに情報が漏れたとなれば自然とその大本は誰なのか絞られてくる、というより一人しかいない。
「いやだなぁ、これでも情報屋。面白そうな、ネタは逃しませんって」
「提供者は、玄兎かしら……!」
ふつふつと煮えたぎる怒りを抑えながらも、鈴音は一応確認の意味も込めてもう一度神皇に訊いてみた。だが、予想外にも返ってきたのは「いえいえ」という否定の言葉だった。
「この前、偶然玄兎さんを尾行していたらたまたまその場に出くわしたんですよぉ。高いお金払って、集音マイク買った甲斐がありした」
全然普通ではなかった。
「でも、安心してください。情報屋は依頼料さえ払ってもらわなければ、誰にも漏らしたりはしません」
「安心できるか」
「まぁまぁ。私のことはどうであれ………………今日は邪魔者がいないで、彼と二人っきりですね」
「……っ!?」
「告白頑張ってください。応援してますから」
そう言って、神皇は今の状況をようやく理解し顔を赤くしている鈴音をそのままに、颯爽と寮がある方角へと駆けていった。「なんだったんだ、あの人」と一夏は言っているが、鈴音としてはそれどころではなかった。昨日の今日でもうチャンスが巡ってきたのだ。邪魔者が消え、二人きりというまたとないチャンスが。
理解した時には既に顔は心臓の激しい動悸によって、血の巡りがよくなっている。熱を帯び、自然と呼吸が荒くなっていく。
落ち着け。まだ時ではない。時間たっぷりとあるのだ、これからあの女は部活にかかりっきりになるだろう。あのやり取りがあっては、そう簡単にサボることなどできはしまい。出来たとしても、また今日のようなことが繰り返されるだけだ。
しかしながら、一度この状況というものを意識してしまうと落ち着いて歩いてられなくなってきた。まだ玄兎とあの契約を交わしてから、一週間と経っていない。幾らなんで行動を起こすのは、勇み足すぎだ。
再びアリーナへの歩を進めだす一夏に鈴音は心をなだめながらも、それについて行った。
道中は非常に気まずかった。これは鈴音の方だけが感じているものだが、今の鈴音にそのような冷静な考えを余裕などなかった。フルに脳を使いながら、鈴音はこの気まずい空気をどうやって払拭しようか考えていたからだ。
「そ、そうだ、一夏! あんた、あの時の約束って覚えてる!?」
そして、思い切りそれが空回りをしてしまった。
よりにもよってなぜ今その話題なんだ、と鈴音は頭を抱えたくなったがこうなっては後に引けぬ。
先よりも早くなる動悸がうるさく体中に響き、鈴音は一度大きく深呼吸をした。落ち着けと自分に言い聞かせ、言葉を紡ぎ出す。
「ほらさ、あたしが中国が返る前日に教室で……その、したじゃない。約束っていうか……その」
「……約束?」
「ほ、ほら私が料理上手くなったら、酢豚食べてくれるっていう、約束したじゃない。放課後の教室でさ」
喉の奥で詰まりそうになる言葉を何とか絞り出し、鈴音は言う。もうこの時点で逃げ出したいほど、恥ずかしかった。心臓の鼓動ははち切れそうなほど、高鳴っているし脳も血の巡りが良すぎて逆に思考が正常にできない。
しかし、鈴音の状態というのも鈴音が過去に約束したその内容が内容である分、致し方のないことなのかもしれなかった。
――――――私が将来、料理がうまくなったらさ……一夏、毎日私の酢豚食べてくれる?
もはやプロポーズとすら受け取れる発言だった。日本でいう、毎朝自分の作った味噌汁を飲んでくれるか、という意味合いを緊張していて酢豚と言ってしまった当時の自分に鈴音はかける言葉もない。ただ、その意味合いは相手にも伝わったはずだ。何せ、爺臭い、という言葉を地で体現しているような男である。その程度の言葉ぐらい知っているに決まっている。それによく考えれば、毎日酢豚を食べるということは酢豚を毎日のように作ってあげるということで、そうなるということはつまり二人の関係は密接なものとならなければ――――――
「そうだったけ? ごめん、忘れた」
「……………………え?」
「そのあたりの記憶が曖昧なんだよなぁ、俺。さっきから思い出そうしているんだけどな、どうにも靄がかかってるいうかなんというか。頭も痛くなってきたし、これは本当に病院に行くべきかもしれないな」
などと一夏は一人で呟いているが、隣を歩いていた鈴音はそれどころではなかった。「鈴?」といきなり足を止めた鈴音を不思議に思い、一夏は何食わぬ顔で振り返った。
衝撃、という言葉が相応しい何が一夏に襲い掛かってきた。
そこにいたのは、今にも泣きだそうに顔を歪めている鈴音の茫然自失とした姿だった。まるで何が起きたのか分からず、またそれを理解することを拒否しているかのような表情だ。
「あ、あんた何言ってるのよ……お、覚えてない? じょ、冗談でしょ? あんたはすぐそうやって質の悪い冗談を」
「いや、本当だって。なんか虫食いみたいになっててさ……思い出せないっていうか、覚えてないっていうか……とにかく、俺そんな約束したのか?」
頭に痛みが走る。びりびりとした強い痛みだった。一夏は顔を歪めながら、頭を押さえる。昨日といい、今日といい最近になって頭痛の痛みが激しくなってきている気がする。
一瞬の痛みに思わず目を瞑ってしまった。これは本格的に危ないかもしれない。そう一夏が思いながら、おもむろに目を開くと一夏は思わずその顔を動揺で染めてしまった。
泣いていた。鈴音がその大きな瞳から涙をあふれさせて、泣いている。
なぜだ、というのが一夏の脳に浮かんだ最初の疑問だった。
「り、鈴……?」
と自分でも驚くほどかすれた声が口からこぼれた。
「……忘れな……のに」
「忘れない…………言ってた……」
「忘れないって言ってたのに! 約束したのに! 嘘つき!」
鈴音の絶叫が一夏の耳を打つ。悲鳴にも近い絶叫だった。その叫びが引き金となったのか、鈴音の目から止め処なく涙があふれ出してきた。そして、目を見開き呆然と固まっている一夏をしり目にもせず、踵を返してどこかへ走り去ってしまった。
その後姿を一夏はただ見送ることしかできなかった。身体が鉛のように重くなり、動こうとしない。あの鈴音の言葉が身体にのしかかっているようだ。まるで自分の身体じゃないような感覚に陥ってしまう。
約束とはなんだ。
いや、思い出せ、確かにあの時、あの夕暮れの教室で俺と鈴は。
直後、一夏を耐え難い頭痛が襲ってきた。今までの物とは比ではない、頭の中を何かが這いずり回っているかのような不快な痛みだ。めまいが酷くもう立っていられない。吐き気も酷く、胃から何かがせり上がってくるような感覚も覚えた。気づいたときには、今日の昼飯をすべてぶちまけていた。
――――――あたしね、一夏とならうまくやっていけそうな気がする。
鈴音の声だった。
――――――あいつを止めて……結局、あんたがやるしかないのよ、一夏!
なんだこれは。一体誰の記憶なんだ。
――――――なんでだよ、リディ。なんでこんなこと!?
霞んでいく一夏の意識とは無関係に、彼の脳はフラッシュバックを一夏に見せ続けた。
廃墟のような場所だった。そこで誰か、女性二人が対峙している。いや、一方は男性だ。
――――――ごめん。でもね、こうするしかないんだ。
女が泣きそうな顔で彼を見た。その顔には諦観の様相が浮かんでいる。
場面が変わり、いつの間にか女を男が組み伏せていた。男が持つのは大きな一振りの刀だった。
――――――さぁ、私を殺して。殺して、貴方は楽になって。
――――――仲間……じゃなかったのかよ。
――――――私にとって貴方は
――――――ち、ちくしょうぉおおおおお!
男が刀を振り下ろし、女性の胸へと突き立てる。固く鋭い切っ先が人体を切り裂く音が一夏の耳ではなく、脳に直接響く。刺した場所から血が際限なく溢れだし、刀剣と女性、そして男を鮮血の真っ赤な色に染めていく。
――――――それでいいんだよ、あなたの選択肢は正しいんだから……ねぇ、
それを最後に一夏の意識は深い闇の中へと落ちていった。
* * *
「最低だな」
「最低ですね」
「…………最低」
一夏の話を聞き終えると、それを聞いていた三方は各々の感想を一夏に投げつけた。事実その通りであるため、一夏は「うぐっ」と唸るだけで、何も言い返せないでいた。
鈴音から聞いた話と一夏から聞いた話。双方から聞いた話には大した齟齬はなく、玄兎達の考えにあった「勘違い」という線はどうやらなかったようだ。
「しかしなぁ……こうなってくると、ますますお前が悪人に見えた来たぞ、一夏」
「お、俺だってなぁ好きで忘れてるわけじゃないんだ。ただ、こうなんというか記憶が虫食いみたいにさ、そこ、だけがないんだ。あの日の放課後、鈴音と二人で約束をしたってところまで思い出したけど、内容まではまだ思い出せてないんだ。知ってるんだ。俺はあいつと何か大事な約束をしたってのは覚えてる。でも、いざ詳しいところを思い出そうとすると、ノイズがかかったみたいに、分からなくなるんだ。なんか、頭ン中を誰かに制御されてるみたいっていうか、なんというか」
「……言い訳」
「そう言われると、言い返せません……」
簪の鋭い指摘にまたもや言葉が出ない一夏。さすがに今回は自分が悪いという自覚がなまじにあるため、余計胸にぐさりと来る一言だった。
そんな一夏を見て玄兎が、「あんまり言ってやるな。俺も時々、約束すっぽかして殺されかけるしな」と冗談を簪に言っていた。本当に冗談なのだろうか。
「さて、気には所は多々あるが……今日のところはこれぐらいにしとくか。一夏も病み上がりだろうし、こいつには少し一人で考える時間ってのが必要だろ」
「……すまんな」
そう言って、一夏は目を伏せた。確かに玄兎達にあの出来事の事を話したおかげで、今自分が置かれている状況というものを整理することができた。それに今は一人になって、考え込みたい気分でもある。そうしなければ、逆にいけないような気もしてくるのだ。
「何、気にすんな。こちとら、人生の修羅場を幾度となく潜ってきてんだ。女の一人や二人ぐらい、泣かした経験ぐらいあるさ」
「なっ、その経験とやらは何時の事ですかな?」
「げぇっ。食いつくんな、アリサと束のことだよ!」
「な、なんというカミングアウト。これは会長に」
「あああ、言うな! 絶対に言うな!」
「…………詳しく」
「お、お前まで!?」
賑やかな三人の会話が保健室から出てからもしばらく廊下に木霊していた。しばらくすると、それすらも聞こえなくなり、しんと部屋が静まり返った。
静かだ。いつ振りだろうか、ここまで静かな場所に一人でいるのは。いつも部屋では箒がいるし、食堂ではほかの生徒がいる。廊下では誰かとすれ違うことは当たり前だし、全寮制なので夜でも生徒達と顔を合わせる機会が多い。
だから、一人で誰もいない閑静な空間にいるというのは本当に久しぶりのことだった。
「あれは、なんだったんだろうな」
独り言を呟く。勿論、誰からの返答もない。
先の話、少しばかり嘘をついたところある。一夏が頭痛に襲われ、意識を失うまでの間に見た記憶の事は一切話していない。
「玄兎だった……よな」
最後にフラッシュバックした光景に、玄兎と思わしき人物がいたのが見えた。今とは少し容姿が異なっていたが、あの顔と声は間違いなく玄兎だ。
しかし、一夏と玄兎は一か月前の入学式の日に初めて会ったはずであり、一夏はそれ以前の彼を知らぬはずである。なのに、あの時間違いなく一夏は昔の玄兎を見ていた。廃墟のような場所で、玄兎と誰かが対峙し、その人物を玄兎が殺すところを確かに見たのだ。なぜだか、それは覚えている。記憶があるのだ。あの時、会ってもいないはずの彼の記憶が。
「ぐっ……」
小さな痛みが頭の中をかき乱すように襲ってくる。まるでこれ以上、それについて考えるな、とでも言っているのかのようだ。
「くそっ……どうなってるんだよ」
そう言って自嘲気味に「はははっ」と笑い、一夏は大きなため息をついた。
ふと窓の外に目をやると、見事なまでに綺麗な丸い形をしている満月が目に入った。それはこの世のすべてが馬鹿馬鹿しく思えるほど美しく、また神々しく思えた。今まで月を見ても何も感慨など浮かばなかったのにもかかわらず、一夏の胸中にはそのような思いが渦巻いていた。人は感傷的になると、感性が鋭敏になるのかもしれない。一夏はそう思った。
月にいるのは兎だというが、では地球には何がいるのだろうか。
ヒトか。
はたまたその他の動物たちか。
もしくは――――――
――――――神か。
さて、なんだか鈴編に入ってから筆の調子がすこぶるいい。
ハーメルンで連載始めてから初めてハイペースで書きましたよ。この調子が長く続けばいいんですけどねぇ……(汗
さて、今回は何かときな臭い話が出てきた回ですね。とりあえず、一夏が鈴を泣かせた経緯とかはまさにそのまま。ただ何かしらの理由もあるようで……。
次回もまだまだ続く鈴編。さて、お次は箒と楯無のお話にございます。さてさて、どうなることやら。