「箒ちゃんには足りないもの……それは積極性と母性よ!」
夕暮れの朱色に染められた剣道場。堂に入った正座でそこに座っているのは、IS学園生徒会長である更識楯無だった。ぴしゃりと伸ばした背筋に、凛とした表情が場の雰囲気と相まって幻想的な様相を呈している。同性である箒も思わず見とれてしまう、美しさというものがそこにあった。
「は、はぁ……」
だが、どんなに美しい花であろうとも唐突に意味不明な言葉を言われると人間、反応に困ってしまう。箒も多分に漏れず、気のない返事を返していた。そんな箒の返事に、楯無は「わかってないね、箒ちゃんは」とため息交じりに肩を落とした。
「男の人を落とすためには、まず積極的に自分をアピールしないと意味がないの! 自分がどれだけ素敵かということをわからせるためにも、これは重要なことなのよ」
「アピール、ですか」
「そう、アピール!」
言われてみれば、箒は一夏に対してそこまで積極的に行動を起こしたことはなかった。同じクラスで同室ということもあって、一夏と箒は自然とよく行動を共にする。突然放り込まれたIS学園という未知の環境の中で、一夏にとって箒は気の知れていた数少ない人物だったというのもあるだろう。入学から今に至るまで、一夏と箒が共に行動するようになったのもある意味当然の成り行きだったのかもしれない。だが、楯無曰くそれは現状に甘んじているのだそうだ。近いわけでもないが、遠いわけでもない。そんな関係が心地よいがために、それから先へと踏み出せずにいるのだと、彼女は言った。もしも、一歩踏み出せばこの関係は壊れてしまい、二度と修復されることはないだろう。先に進んだとて、必ずしも望んだ結果が待っているわけでもない。ならば、このいっそのことこの微妙な距離感のままでいよう。そういう心理が、今の箒には働いてしまっている。現状に満足してしまっているのだ。
「それに、人間っていうのはね自分に好意を持ってるんじゃないかって思うと、今まで意識していなかったのに途端意識するものなの。日本では大和撫子、つまり淑女と言われるおしとやかな女の人が好まれる傾向にあるんだけど……おしとやか、っていうのは何もしないなんて意味じゃないからね。余裕を持つのはいいことだけども、あまり悠長にやってるとそのうちぽっと出に掻っ攫われちゃうぞ?」
ぽっと出、と言われて真っ先に箒の脳裏に浮かんだのは鈴音だった。危機感はある。彼女は箒が転校し、一夏と離ればなれになったすぐ後に転校してきたらしく、中学三年になる直前まで日本いたらしい。一夏からしたら、箒以上に気の知れた親友ということになる。それは恋敵としては、非常に厄介で強敵だった。ただでさえ、箒と一夏には数年間の空白期間というものが存在し、その間一度も会っていないのだ。箒の記憶にある一夏は、新しいもので小学三年の終わりごろもの。思春期を共に過ごした鈴音と比べると、どうしても劣ってしまう。
「そういう意味じゃ、楯無さんは凄いですね。何しろ、毎日ですから」
「お姉さんは何も推測や勘でこんなことを言ってるんじゃないの。経験済みだからこそ、言ってるのよ」
胸を張り、堂々たる表情で楯無は言った。自信満々のその姿を箒は少しだけ羨ましく思った。「まぁ、私の方は事情が事情だから……ライバルは多いみたいだし」
「なるほど。『紅い兎』のみなさんが介入できない、この三年間の内に玄兎さんをものにしようと」
相槌を打ちながら箒がそう言うと、楯無は持っていた扇子をばさっと広げた。『千載一遇』と書かれていた。これは箒の知らぬことだが、楯無と玄兎は古い馴染とはいっても共に過ごしていたのは小学校低学年の頃で、三年にも満たない短い間だった。そのころは玄兎を別としても、楯無は玄兎に恋慕のようなものは寄せてはいなかった。恋心を抱いたのもここ二年間の出来事であり、楯無からすればアリサや束といった強敵よりも出遅れている感が否めなかったのだ。だからこそ、この絶好のチャンスを逃してはいけなかった。
楯無が箒に恋愛指南の真似事をしているのは、実のところ彼女の境遇と自分の過去が重なったからに他ならない。誰よりも早く出会っておきながら、誰よりも出遅れている。そんな状況に置かれている箒が、他人のようには思えなかった。いらぬお節介と思われるかもしれなかったが、口出しせずにはいられなかった。
「そして、二つ目は母性ね」
「は、はぁ……」
引きつった笑みとともに再び口から乾いたため息が漏れる。彼女は自信ありげに力説しているのだが、箒には説明なしにはさっぱり理解できなかった。何を以て母性が必要だと説いているのか。その意図を知るべく、箒はもう一度楯無の言葉に耳を傾けた。
「男は皆、往々にしてマザコンなのよ」
もしもこの場に男性陣がいたら、一様に否定したに違いない。そんな理論が、突拍子もなく楯無から発せられた。そして、妙に自信満々だった。
しかし、箒としては思い当たる節がないわけでもなかった。無論だが、一夏にも玄兎にもマザコンというわけではないが、そういった女性に対する依存やコンプレックスを持っているように感じていたのだ。
一夏は言わずもがな、姉である千冬に対する所謂シスコン疑惑。一夏にとって千冬とは、唯一無二の血縁であり家族だ。昔からその懐き方は半端なものではなかった。姉妹間があまりよろしくなかった箒としては、羨ましくもあり、また奇妙な関係に映っていたのを今でも覚えている。今でも時折、中学時代も過剰なまでに世話を焼いていた、ということも耳にしている。ほかの女性に一片の興味も示さないことから、学園の一部では「織斑一夏は姉の織斑千冬のことを好いているのでは」という噂まで流れたぐらいだ。
一方で、玄兎は自身の容姿とその経歴のため男性よりも女性との縁が多い。詳しくは知らないが、玄兎は過去に起きた出来事がきっかけで家族や仲間、両親や兄妹といったものに強い執着心を持っている。そのため、前に束が両親に対して「あんな奴」と発言した時には、見たこともない剣幕で彼女を怒鳴り散らしていた。一夏とは多少毛色が異なるコンプレックスだが、彼もまた一般的な男性と離れた価値観、見識があるのは間違いなかった。
そうした二人を知っているからこそ、彼女の言う「男は皆マザコン」という言葉がすんなりと胸に収まったのだろう。「男は皆、大人になってもまだ心のどこかでは子供なの」と楯無は神妙な面持ちで言葉を紡ぐ。
「甘えたい。でも、大人だからそんな恥ずかしいことは出来ない。そんな思いを少なからず、持っているのよ。だから、子供が甘えるべき対象、つまり母親が持つ母性に魅力を感じるのよ」
いつの間にやら箒は楯無の話に聞き入ってしまっていた。何度も、なるほど、と感心したように頷いている。
「母性というの物は、女性がいつしか自然と身に着けるものよ。子を持ち、母親となれば母性は必ずといっていいほど発揮されるわ。でも、それじゃあ遅いのよ」
「遅いんですか」
「そう、遅いの。男性が幼い子供を愛でたりするのは父性の影響だったりするけど、男性が年上の女性を好むのは母性があるから。母性とは、即ち包容力であり、家事育児ができるいわば主婦! 要するに、女子力高め、の人ってことね。そういう人に、男は弱いのよ」
(千冬さんは、女子力高めではなさそうな気も…………いや、どちらかといえば、千冬さんに母性があるというより、一夏に父性があるのか)
年上なのに、幼い児童に対する男性の心理、というものが働く女性というのは果たしてどうなのだろうか。狙ってやっているのなら、狡猾な策士。素でやっているのなら、ただのだらしない人間。前者に引っかかる男性は、女たらしかお人よしのどちらかだろう。後者は、一夏のような世話焼きな主夫に属する人間なのかもしれない。千冬は確実に後者だと、箒は思った。
「しかし、それで私は具体的に何をすればいいのでしょうか……?」
「うん、いい質問」
にこやかに笑い、箒の問いに楯無は答えた。
「これから、箒ちゃんを完璧な女性にするための特訓を行います。題して、箒ちゃん女子力アップ大作戦! よっ、拍手!」
「女子力アップ……ですか」
首を傾げる。「そう、女子力」
「まずは、家事……特に料理からね。料理というのは女子力を見定めるうえで、最も重要となるところ。男を虜にするには、まず胃袋を掴まないと話にならないしね。箒ちゃん。料理の経験はある?」
「中学の時の実習と、いくつか家で作ったことならありますけど」
「よし。じゃあ、今日の夕飯は箒ちゃんの手料理に決定ね」
「え、ええ!?」
「そうとなれば、材料がいるわけだけども、それは安心して。私の部屋に大量の野菜や肉があるから。さぁ、やることが決まれば後は実際にやるだけよ! 善は急げ。思い立ったが吉日って言うし」
楯無の行動力というものは、ほかの女子生徒と比べてもずば抜けている。毎日のように玄兎へ会いに来ているところからも、それは伺えた。だが、いざ自分が標的となってみると、なんだか腰が引けてしまう。しかし、彼女が纏う雰囲気は、他者から有無を言わせず圧倒する迫力を持っていた。
こうして、箒の今夜の献立は自身の手料理に決定してしまったのである。
* * *
時計の針は既に半周を過ぎ、再び頂上を目指そうとしている。常時なら食堂を訪れ、夕食にありついている時間だった。だが、今日はいつもとは違った。箒の姿は今、自室のキッチンにある。小刻みに聞こえる包丁の音が、どことなく一か月前まで住んでいた実家を思い出させた。IS学園に来て食事のほとんど食堂で済ませていたので、そういう些細なことでも懐かしいと感じてしまうのである。
今、箒が作っているのは焼き飯だった。フライパンにご飯をいれ、少々解したら具材と卵を入れていく、慣れれば誰でも出来る簡素な一品だ。
余談だが、焼き飯と炒飯(チャーハン)。これら二つは時に同一視されるが、実はその間には明確な違いというものが存在する。
まず炒飯だが、これの起源は中国であり、調理法も「卵をいれてから、飯を炒める」のであり、これに対して焼き飯は日本の発祥で「飯を炒めてから、卵をいれる」という違いある。些細な違いだが、卵をいれるタイミングで料理の味が変わってくることも無きにしも非ずで、馬鹿には出来ない。日本の一般家庭では、前日の残ったご飯(通称、冷や飯)を温め同時に解すこともできる焼き飯は、非常にありがたい一品だ。余計な残飯を増やさなくていい分、地球にも優しいと来た。文句なしの料理だ。
「うわぁ……見た目は完璧ね」
出来上がり、皿に盛りつけた箒はそれを待ちわびた表情で椅子に座っていた楯無に差し出した。今は夕飯時だから、彼女も空腹に耐えかねていたのかもしれない。「いただきます」と律儀に合掌し、楯無はスプーンですくった飯を口に入れた。入れて、固まった。味は不味くはなかった。不味くはないが、美味くもなかった。
結論を言うと、味がなかった。
「……調味料とか、入れた?」
「……そのはずなんですけど」
何をどうしたら、無味の焼き飯が出来上がるのだというのだ。そうツッコミを入れたい思いを必死に堪え、楯無はもう一口その焼き飯を口に放り込む。やはり、味はしなかった。
飯に味がついてないだけなら、まだしも具材の味までもが死んでいるとはこれいかに。下手に不味い方が、まだよかった。だが、これはどう反応していいのか困る。美味しくもなければ、不味くもない。それもそのはず、味がないのだから。そもそも評価するべきものがないのでは、評価そのものも下せやしない。
楯無が固まっている向こう側では、箒が同様に固まっていた。自身で作りだしたものに、驚愕しているのだろう。これはあれだ、ドリンクバーで学生が幾つものドリンクを掛け合わせて作るスペシャルドリンクが、予想以上に美味かったときと似ている。現実が予想の斜め上を通り越していくのを、当人はただ呆然と眺めるしかないのだ。
「まぁ、極端に駄目ってわけでも良いってわけでもないから、教える側としては随分気が楽だと思うわよ……?」
「そ、それならよかったんですが…………食べます?」
箒の遠回しな「捨てますか」という質問に、楯無は小さくかぶりを振った。どんなに不味い料理であろうが残さず食べないと、料理を作った人、材料を作った人に申し訳ない。それに楯無が好意を抱いているのは、命の次に食事が大事というあの健啖で大食漢の玄兎だ。もし、飯を不味いとの理由で捨てたと聞いたら、説教が待っている可能性だってある。今は出来るだけ、そういうマイナスのイメージを彼に与えたくなかった。
そういった楯無の思惑を見透かすことは、今の箒には出来ず「そうですか」と少しだけ嬉しそうに、それでいて申し訳なさそうに二口目を口にしていた。
すべてを食べ終えた頃は、約一時間も経過していた。無味の食べ物というものは意外にも苦痛で、後で楯無がやけになって振りかけた塩や胡椒がなければ、もっとかかっていたに違いない。改めて調味料の偉大さに気付かされた二人は、げんなりとした顔でコップに注いだ水を仰いだ。
「さて、まずは当面の課題は見えたわね」
「……ですね」
「料理に関しては、この楯無お姉さんに任せなさい。今とは見違えるほどに、上達させてあげるから」
楯無が作った料理は前に食べたことがある。玄兎に作ってきた余りを、分けてもらったのだ。箒のものと比べると、天と地ほどの差があった。正直、あれに追いつけも勝てるとも思えない。まるで名店が出した一品のようにさえ感じられたのだ。生徒会長は才色兼備で文武両道だと誰かが噂していたが、まさにその通りである。こんな人の夫になる人は幸せ者だろうな、とある一人の人物を思い浮かべながら箒は思った。
「次にアピールの問題だけど……普通のアピールだと、あの鈍感な一夏君を振り向かせるのは無理でしょうね。いまどき、ああも好意に鈍感な人はいないわ。そんな彼を振り向かすには、並のアピールでは力不足。では何をするべきか…………」
楯無は黙り、はぁと呼吸を整えた。それを見て、箒も自然と体が前のめりになってしまう。ごくり、と喉を鳴らす。「答えは」と楯無が言葉を紡ぎ出すと、張りつめていた緊張が一気に高まった。その次に紡がれる言葉を、はやる気持ちを抑えながら待った。
「お色気よ」
「……はぁ?」
さすがの箒もこれには同意しかねた。お色気とはまた古典的で、馬鹿でも考え付きそうな手法だ。
「まあまあ。聞けばわかるわ」
「そうですね。一応、聞いてみましょう」
「簡単な話よ。男は皆、エロい」
「私の中では、今楯無さんの株というものが急落しています」
冷静に考えれば、お色気作戦というのもやり様によっては絶大なる効果を発揮しそうなものだ。とはいつつも箒にはまだハードルが高い。それに一度、箒はバスタオル一枚の姿を彼に見られている。にも、関わらずその後の一夏の態度というものが変わらないというのは、つまりそういうことなのだろう。箒の裸など、見たところで意識が変化するほどのものではないということなのだ(箒は知らないが、一夏としてはあの一件の事を思いださないようにしているだけなのだが)。
楯無の話も概ね、箒の予想した通りの内容だった。とはいえ、お色気作戦は考えゆる手段でも駄目だった場合の最終手段であり、今すぐに実行に移せというわけではないらしい。それだけは箒にとって救いだった。
「お色気って言っても、そんな身を売れって言ってるんじゃないんだし……そうね、パンチラとか胸チラとか、しれっと胸を当てたりとか、そういうことだから安心しなさい」
「それでも十分、難易度高めですけどね」
全然安心できない楯無の言葉に、箒も口を尖らせ苦笑するしかなかった。彼女の意見は、恋する乙女として、人生の先輩としてのアドバイスだ。生徒会長であり、箒と歳が一つしか違わないのに国家代表である。そこに行き着くまでにどんな苦労と努力があったのか。想像に難くない。彼女の人生の濃さは、箒と比べても一段と濃く、洗練されている。そんな人物の助言は、ある意味貴重でありためになるものだ。聞いておいて損にしかならない、ということはないはずだった。
食べ終わった皿を片付けながら、箒は不意に思った。そういえば、一夏の帰りが遅いな、と。
「そういえば、一夏君随分帰りが遅いね」
楯無も同じことを考えていたようだ。食後に淹れたコーヒーをちびちびと飲みながら、八時を回ろうとしている時計を眺めている。この時間帯ならもう食堂はかなり空いているから、夕食を取っているとは考えにくい。一夏は毎日、放課後にISの特訓をしていると聞く。それが長引いているのなら遅いのも頷けるが、さすがに遅すぎる。
「もしかして、女の子の部屋に遊びに行ってるとか? おお~、一夏君やる~」
横目で箒の反応を確かめながら、楯無は独り言のように呟く。事実、その可能性はあった。彼はまだ年頃の男の子であり、異性というものに興味を抱いても不思議ではない。いくら彼が朴念仁で唐変朴だろうが、そういうことに興味ないというわけではなかろう。それに彼はお人好しの傾向がある。無理やりにでも誘われれば、苦笑いを浮かべてなすがままに連れていかれる姿を容易に想像できた。楯無の発言は、案に箒をからかうだけのものではなく、危機感を煽るという意味もあった。彼女が言葉の意味を正しく理解したのならば、とても面白い反応が見れるはずだ。
そして箒の反応は概ね、楯無の予想通りだった。だが、違った点が一つだけあった。
ぱりん、という何かが割れた音が部屋に響く。「ほ、箒ちゃん……!?」と楯無が慌てて駆け寄るも、時すでに遅し。箒の顔は真っ青になって、わなわなと肩を震わせていた。
「あはは、やっぱり私には魅力がないのかー、あはははあ……そうだよなー、あはは」
「おーい、箒ちゃーん、しっかりしなさーい」
ゼンマイ仕掛けで動くからくり人形のように、ぎこちない動きと喋りで箒が茫然と笑い出した。なんだこれは、と楯無が訝しむ間も「私なんて、私なんて……」と妙に自虐的になっていた。
(あちゃー、地雷だったか)
と楯無が事情を察したころには「ふふふっ」と手の付けられない状態にまで堕ちていた。そのキャラの壊れっぷりに、さすがの楯無も〝どん引き〟せざるえなかった。まさかあの一言で、こうなるとはさすがに予想が出来なかった。地雷を踏み抜いたというより、スイッチを入れてしまった、と表現したほうが適切かもしれない。
しかし、そんな箒の意外な一面を見て、楯無は少しばかり彼女を見直した。好きだ好きだと言っておきながら、危機感や行動力が低く、口だけの女なのかと思っていたが、それは早計だったかもしれない。彼を想う心は本物だ。あの一言で、こうも感情を起伏させることができる人間は、そうはいない。並の人間では、動揺するだけで留まるものを、彼女は自分のキャラすらも崩壊させてみせた。天晴れ、というほかあるまい。
だが、それは一歩間違えると痛い女になる可能性があった。想いが強い、だがそれだけで遂げられるほど、恋愛というものは甘くない。行動が伴わない想いなど、あってないようなもの。それでいて、自分の好意に気付き、好いてくれなどとぬかすのは、どう見てもお門違いだ。これでは相手側を不憫に思わざる得ない。想いが強ければ、相手に気付いてもらえぬときに抱く「なぜ」という感情は比例して大きくなる。嫉妬心、というものは醜く、時にはおぞましきものを人に植え付けるのだ。
そして、想いが強すぎてもまた人は駄目になる。強すぎる想いは、時に強い憎しみの負の感情を生み出すからだ。人の感情とは、難しく繊細である。それゆえに、慎重に扱い、時には大胆にならなければならない。今の箒が一夏に抱く感情を例えるなら、高価な割れ物だ。今はまだ、その美しさに価値を見いだせるかもしれぬが、いざそれが割れた時それの価値は失われ、ただのゴミと化してしまう。胸には後悔と損をしたという、失意の念が現れる。その時、恋心というものがいかなる変貌を遂げるのか、予想することは難しい。そのまま無くなってしまうものもおれば、逆恨みのようなものまで、千差万別にある。特に厄介なのは、暴力や監禁といった犯罪行為にまで手を染めてしまう輩に成り果てることだ。楯無は一度、そういった類の人間を見たことがある。だから、わかる。ああいう手の者は、想いを遂げるまでどのような手を尽くそうとも止まることはない。そして、今の箒はそれと似ている。想いは炎だ。大きく燃え盛る炎は暖かく、あたりを照らす光明となるが、一度間違えば人を焼き、全てを灰燼に帰す業火と化す。今の箒は非常に危うく、またどちらに転ぶともわからぬ状態。楯無が恋愛指南を始めたのは好奇心からとはいえ、いささか面倒なものに首を突っ込んでしまったようだ。
半年と少し前のことを思い出して、楯無は身震いする。またあのような事件が起きてたまるか、と自分に言い聞かせた。そのための、この指南だ。彼女を正しい道の上を歩んで貰うために、まずはなにが必要か。
「現実を知る。それが今の箒ちゃんに一番必要なことよ」
一夏が倒れて保健室に運ばれたという報せが、遅まきながら届いたのはこのすぐ後だった。
「……睡眠障害ね。ストレスが原因って言われるけど……無理もないわ。突然、こんな場所に放り込まれて、意識してなくともストレスないはずないもの」
「私がストレスになっていたんでしょうか」
「一概には言えないわね。でも、慣れない女の子との共同生活を無意識にストレスに感じちゃってたのかもしれないわ。でも、それは箒ちゃんの責任じゃない。少なくとも、一夏君は箒ちゃんといる方が気が楽だったと思うわよ? だって、幼馴染だもの。知らない人ばかりで、いつの間にやら有名人。そんな中で久しぶりに再会した幼馴染にストレスなんて、感じないわよ。絶対に」
「楯無さん……」
楯無にそう言われると、根拠がなくともそうなのかもしれないと思ってしまう。最高級の励ましだった。
二人が保健室に駆け込むと、一夏はまだベッドの上で眠っていた。どうやら睡眠薬で寝ているらしい。
「まぁ、しばらく安静にしなきゃいけないけどね。今のところは大丈夫だから、見舞いすんだらとっと帰った帰った」
保険医から一夏の容体を聞き終わると、保険医は二人を鬱陶しげに部屋から追い出してしまった。病人が寝ているのだから、静かにしてろという意味なのだろうか。とりあえず、手持ち沙汰になった。仕方なく、箒は寮に帰ろうと踵を返す。ふと、そこで楯無が妙な表情をして保健室の方を睨んでいるのに気づいた。必死に何かを思い出そうとでもしている表情だ。気になり、尋ねると「あ、いや……ちょっとね」と曖昧な答えしか返ってこず、箒はただただ首を傾げることしかできなかった。
「じゃあ、私は少し生徒会に用事があるから、ここでお別れね」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「これからガンガン指導していくから、そのつもりでいなさいよ? お姉さんは厳しいから、覚悟しておかないと死んじゃうぞ? それと、部活次からもサボらずに行ってね」
「……はい」
「よろしい」
箒から了承が返ってくるのを聞き、楯無は満足げに相好を崩した。その笑顔がまた、箒には恐ろしく映った。
* * *
「今月から赴任したばかりの、ティア・ブライト……どうりで見たことない顔だと思った」
生徒会室にやってきた楯無が最初に行ったことは、先ほど保健室であった人物の特定だった。保険医だとか言っていたが、楯無は彼女を見たことはなかった。生徒会長たるもの教師の顔程度は把握していなければならない。事実、把握していた。彼女以外は。
金髪に黒い瞳。白色人種特有の白い肌と楯無よりも高い背丈。顔立ちは端正ではあるが、美人だと言われれば微妙だと言わざる得ない人物だった。IS学園はなぜだか知らないが、女性のレベルが比較的に高い。顔も審査基準なのではないかと疑われるほどだ。生徒の中にはグラビアモデルのような仕事を引き受けている者もいる。その面子と比べると、やはり少し見劣りしてしまう印象があった。
それはさておき。
「なんでここにいるのよ」
「気になることがあってな。まぁ、お前も気になってたことは同じだったみたいだが」
向かい側で紅茶をすすりながら、玄兎はにやりと不敵に笑った。少女然としたその顔立ちには不釣り合いな笑みだが、妙に様になっていた。と、そこで不意に違和感を感じた。先の玄兎の言葉に、ただならぬものを感じた。その正体を探ろうと、先の発言をもう一度脳内で反芻する。正体は案外あっさりと判明した。
「……驚いた。玄兎、貴方まさか教師の顔全員覚えてたの?」
玄兎は先ほど楯無と同じことが気になっていた、と言った。それはつまり、ティア・ブライトが見慣れない顔だと思ったことになる。だが、その考えにたどり着くにはまず教師全員の顔を覚えていなければならない。そうでなければ、見慣れない顔、などとは思わないはずだ。玄兎は他人の顔を覚えるどころか、暗記そのものが苦手だった。人の顔すら、何度も忘れる。相当強烈な出会いでなければ、彼は一度で人の顔を覚えようとはしない。そんな玄兎だからこそ、教師全員の顔を覚えている、というのは驚愕だった。あり得ない、とすら思った。だが、これ以外にティア・ブライトを訝しみ生徒会室にまで資料を見に来るという行動は起こさないだろう。
楯無の不躾ともいえるその表情に、さすがの玄兎も渋面になった。
「なんだよ、人を馬鹿みたいに……。まぁ、実際は違うけどな。覚えてねえよ、全員なんて。精々数人だ」
肩をすくめながら、玄兎はため息をこぼす。少し冷めてしまった紅茶を仰ぎ、「じゃあ、どうして」と疑問符を連ねる楯無の二の句を継いだ。
「勘だな」
「……はぁ?」
「だから、勘だって。直感。第六感だよ、シックスセンスってやつ」
もしもこの場にティア・ブライト本人がいたのならば失礼極まりない発言だったであろう。なぜならば、彼は自分の勘だけで彼女を不審に思い、ここまで足を運んで来た。それではまるで彼女を疑っているようだった。彼の発言の節々から、如実とそれが伝わってくる。
「あの人の眼見たか? すげえ血走ってたんだが」
「………………いや、覚えてないわ」
ほんの少し前の記憶を掘り出してみるが、彼女の眼などに注目した覚えはない。当然、そんな些細なことを覚えているはずもなく、楯無は否定の言葉を述べるしかなかった。
それを聞いた玄兎も「そうだよな」とため息をついた。端から期待していたわけではなかったようだ。
「俺も見たのは一瞬だったんだけどな。最初に部屋に入った時にさ、目が合ったんだよ。そん時、一瞬だけすげえ目見開いてさ……真っ赤だったぜ。尋常じゃないね、あれは。それに微かだけど、血の臭いが染みついてた」
「血の臭いって……ほんとなの?」
「ああ、色々と誤魔化してたみたいだけどすれ違った時に、仄かに鉄臭さがあった。あれは血の臭いだ」
玄兎はその過去に様々な体験をしてきた。軍に所属し、その所属していた軍のクーデターに巻き込まれたり、フランスでマフィア組織の内部抗争に巻き込まれたり、妖刀と呼ばれる者達と死闘を繰り広げたりもしてきた。勘というものは、経験の積み立てにより磨かれる。より経験し、その身に蓄積していくことで勘というものは鋭さを増す。ベテランの勘がことごとく的を射るのは、そのためだ。だからこそ、今の玄兎の発言にはある種の重みがある。今年で十八とは到底思えないほど、彼の過去は濃い。楯無などとは比べ物にならないほどの、死線を潜って今ここにいる。そんな玄兎の勘が、ティア・ブライトを危険だと感じているのだ。その事実だけで、楯無の全身は粟立った。
「で、でもほら保険医だから、生徒の怪我とかで血がついてちゃうってことも……」
「見ろよ。ここ」
そう言って玄兎が指さすのは、先ほどまで楯無が見ていたティア・ブライトの資料だった。そこにはこう書かれてある。『氏名:ティア・ブライト。年齢、23歳。今年、諸事情で退職された本居に代わり赴任。経歴、国立○○大学医学部卒業』そして、楯無は自分の発言の盲点に気付いた。
「この人物はまだただの一度として、保険医として働いたことがない。だから、お前の言ったことは、そもそも無理だというのを除いても、あり得ない」
突き付けられた事実が物語っているのはティア・ブライトという人物の不気味さだった。まさか、犯罪者というわけではあるまい。ここは世界でも唯一のIS操縦者及び技術者を育成する教育機関。そこの常勤の保険医となるのだから、それ相応の適正と試験を受けてきたはずだ。そんな中に犯罪者が紛れ込むことなど絶対にない――――――そう信じたい。
だが、そうなると気になるのは一つ。
「なんで、血の臭いなんて振りまいてるのよ。ブライト先生は」
「さぁな。それを調べにここに来たんだろうが。まあ、たいして期待してなかったけどな……あれが本当にやばい奴だったら、そいつに繋がる証拠や情報なんて残しておかないだろうし」
呑気そうに欠伸をしながら、玄兎はさも他人事のように言った。その表情に危機感というものはまったくない。どうやら怪しいとは思っても、警戒するほどのことではないと考えているらしい。彼のその大胆さが、逆に今は頼もしかった。それは余裕の表れであり、ことが起きればすぐにでも対処できるのだという事を無言で語っている。これがもう少し男らしい体躯ならば格好良かったのだろうが、生憎彼の姿は美少女のそれだ。様にはなっていても、似合ってはいなかった。
「さて、俺は今からとある人物に会わなければいけなくなった。急ぎなんで、もう出ていくが……お前は?」
「私はまだいるわ。気になることもあるしね」
楯無のその言葉に玄兎は「そうか」とだけ呟き、生徒会室の扉をがちゃりと開けた。
「無茶……するなよ」
「……うん」
照れくさそうに後頭部を掻きながら、玄兎は足早に廊下を歩いて行った。恥ずかしいのならば、言わなければいいものを。楯無はくすりとこみあげた笑いを堪え、再び視線を資料に落とした。「……ティア・ブライト。採用試験日時、四月の二十八日。試験監督、織斑千冬……か。きな臭そう」
楯無の呟きは、誰にも聞かれることなく生徒会室に木霊した。事態は徐々に動きつつあった。
* * *
普段の生活では絶対通ることのない長い廊下は一言でいえば気味が悪かった。夜ということもあって全体的に薄暗く、照明となるものは一切ない。唯一、自然の明かりともいえる月の光だけが玄兎の歩く道を示してくれる。レッドカーペットに、灯がともっていない燭台。まるで中世ヨーロッパの幽霊屋敷を彷彿とさせる代物だ。ここだけ現代社会と切り離されたような空間のようで、それがまたより一層不気味さを引き立たせていた。もしこれが今から玄兎が会おうとしている人物の趣味なら、彼の趣味は相当悪いと言える。あちらこちらに最新技術が惜しみなく使われているこのIS学園で、この場所だけが異様な空間と化しているのは言うまでもない。
しばらく歩くと、これまた中世ヨーロッパをイメージしたであろう巨大な鉄扉に出迎えられた。こんこん、と数回ノックをすると何かが外れたような音とともに巨大な鉄扉が意外にも静かにその隙間を見せた。
「失礼しますよっと」
遠慮も無礼もなく、玄兎は鉄扉の間から身を滑り込ませた。部屋の中は真っ暗だった。男の体格ではまず無理であろうその隙間をそっと閉じると、玄兎は中に誰もいないことを確認しようと周囲に視線を巡らせる。
「他人の部屋に入ってきたときは、まずその部屋の主に挨拶するのが筋ってものじゃないのかな」
「――――ッ!?」
不意に声をかけられたことで玄兎は反射的に、後ろへ飛び退いた。懐に隠し持っていた拳銃に右手を添える。一瞬のうちに臨戦態勢を取った玄兎は、今までとは比べ物にならない鋭い目つきで声の主を睨んだ。ここまで数秒とかかってはいない。見事なまでの反射神経だった。そして、それを称えるかのような拍手が聞こえてきて、玄兎は思わず重い息を吐いた。
「さすがは、元ドイツ軍IS配備特殊部隊「シュヴァルツェ・ハーゼ」隊長さんですね。恐れ入ちますよ、その反応速度」
「脅かさないでください。危うく撃つところじゃなかったですか」
「なんの。歳をとると若い者をどうしても虐めたくなってしまうのですよ。可愛い娘を預けている身としては、君が怠けてないか心配なんですよ」
「あんたの娘の方が俺よりもよっぽど強いですよ……十蔵(じゅうぞう)さん」
十蔵と呼ばれた男は玄兎がそう言って肩をすくめると、「そうですか。それは何よりです。ほほほっ」と笑い声をあげた。高笑いだが嫌みがなく、相手に柔和な印象を与える笑い方だ。高まっていた緊張が一瞬のうちに冷めていくような感覚に、玄兎は苦笑を浮かべ手近にあったソファーへと腰かけた。
「う~ん、紅茶しかないが……いいかい?」
「どうせ、ジョルジだろ。楯無がくれる紅茶は、いっつもそれだ。ロシアの代表だから、あっちのやつが手に入りやすいとはいえ、もう少し趣向を変えようとはしないのかねえ。まあ、美味いんだからいいんだけど」
「君も素直じゃない」
微笑を顔に張り付け、せっせと紅茶と茶菓子を用意した十蔵は玄兎の向かい側に座り、一息をついた。
「これはね、この前更識君から貰ったものなんですよ。近いうちに君を呼ぼうと思っていたところだったから、ちょうどよかった」
「紅茶にバウムクーヘン。まぁ、和菓子じゃなかった分ましか」
食べやすいように切り分けられたバウムクーヘンを玄兎は一口で二つ三つ口に押し込めた。しっとりした食感と滑らかな質感、それに加えカリカリに仕上げられた外側がまたなんとも言えないバランスを保っている。甘さは控えめだが、それでいて上品な味わいが口いっぱいに広がっていく。まさに至極の逸品だった。
普段では味わえない超高級な菓子に、玄兎はその顔を幸せそうに崩した。そんな彼の顔をこれを作った人に見せてあげたい、そう十蔵は思った。彼が何かを食べる時は決まって、とても幸せそうな顔をするのだ。(大っぴらにいえないが)その可愛らしい顔を嬉々としたもので湛えるその姿には、振る舞った方も嬉しくなってしまうものである。
数分もすると、バウムクーヘンの大部分は玄兎の胃の中に消えていた。小さなその体にどれだけの胃を抱えているのだろうか。その食べっぷりは男の(勿論、玄兎も男だ)十蔵から見ても、見事としか言いようがない。今まで見てきた大漢食の中でも、彼は抜きんでて食べる。それは言葉で言い表せるようなものではなく、もはや彼の個性の一つとして昇華されていた。ついでにいうと、十蔵は密かに玄兎の事を「ドラ○ちゃん」と呼んでいる。
「さて、玄兎君。そろそろ本題に移ろうか」
紅茶をすすり、味と匂いを楽しみながら十蔵は言う。彼がここに自らやってきたということは――――最初の行動から見ても――――ここに忍び込まなければならない事情があるということだ。「ああ、そうだったそうだった」と完全お茶会モードになっていた玄兎は残りの紅茶を一気に仰ぎ、飲み干した。
「簡潔にいうと……この学園は何です。何か企んでるんですか?」
「これはまたストレートだね。こういうのはもう少し遠回りに来るものなんだがね、普通」
「苦手なんで、そういうの。で、回答は?」
つっけんどんなその物言いには非難の色が混じっていた。彼の勘の鋭さに眉を曇らせながら、十蔵は声音を低くした。
「何を企んでいるね……まぁ、その言い方だと私がすべての黒幕みたいに聞こえるけど、実際は違う」
「表の学園長は十蔵さんじゃなくて、その奥さんってことになってるな」
十蔵はこの学園に来る前からの付き合いだ。彼の妻のことも知っていた。そして、ここに入学する前に見せてもらった書類に彼女の名前が学園長として書かれているのにも気づいていた。
「そういう意味じゃないんだ。確かにこの学園の長は本来ならば私だ。いや、今も実際は私なんだ。だが、表向きは彼女ということにしてある。理由は、すまないが言えない」
「十蔵さんに複雑な理由やら背景やらがあるのは、瑛梨を軍に預けていた時点で察してる。俺が聞きたいのは、織斑千冬のことです」
玄兎はあえて織斑先生ではなく、織斑千冬という言葉を使った。ここにいるのはIS学園の生徒である赤神玄兎ではない。十蔵の知り合いの一個人としての赤神玄兎だ。『紅い兎』を創りし、束らとともに世界を駆ける便利屋の一員として今ここにいる。
「俺をここに入れた理由も、さっぱりだ。『紅い兎』から俺を引き剥がそうとしたというのも考えられるが、実力の点から行くと俺は瑛梨の次点だ。年齢も俺と同じで、ぎりぎりセーフのはずだから、引っかかる。それに、織斑千冬は束と幼馴染だ。中学からの付き合いということは、当然あの男とも知り合いということになる」
「ルイス・アッシュダウン。織斑先生と篠ノ之博士の古い馴染という青年ですね。君たちとも因縁浅からぬと聞いていますが」
「俺たちにとっちゃ、商売敵でもあり家族を傷つけた仇だ」
「しかし、どうしてそんな人物が……ああ、なるほど。つまり君は彼と織斑先生が繋がっているかもしれないと、疑っているわけだね?」
「いいや、それはない。束が言うには、ルイスと織斑千冬は昔は仲良かったけど最終的には絶縁状態だったらしくて…………束の方も三月の一件で十年ぶりだったらしい。そんな人間が、今更仲良くお手手つないで、俺をはめるとは考えにくい」
思い出すのは今年の二月下旬から三月上旬にかけて起きたとある事件。その事件の折に聞き入れた話が、今となって役に立とうとしていた。
「大事なのは、ルイスが束と織斑千冬と絶縁状態になったのが、十年前だったということだ」
十年前。その頃といえば二十一世紀騒乱の真っ只中であり、人類史上最も大規模混乱期であった時世だ。そんな中で篠ノ之束といえば、十蔵は一つしか思い浮かばない。俗にいう『白騎士事件』だ。
二十一世紀騒乱が起こるよりも三か月ほど前のことだ。世界中の軍事基地が一斉にハッキングされ、日本へ向け何千という数のミサイルが放たれるという事件が発生した。ハッキングに気付いた各国は急ぎ乗っ取られたミサイルシステムを奪還しようとしたが、奪い返せたのは数発にも満たなかった。世界各国の防衛システムに同時ハッキングを仕掛けているその時点で相手ハッカーとの力量は明らかであった。ミサイルは虚しくも、その終着点を日本へと向け発射された。放たれたミサイルの内、数百発は日本にたどり着く前に撃墜もしくは墜落により、破壊された。だが、それでも数千という数のミサイルがその終着点である日本へと向かっていた。皆、絶望した。対空ミサイルにより自衛隊も迎撃せんとしたが、数が圧倒的に足りておらず完全にミサイルを撃墜し切るのは無理であった。
そんな中で現れたのが、後に世界最初のISと呼ばれる通称白騎士。当時の科学技術をはるかに凌駕した、パワードスーツ。それが躍動し、手に持ったプラズマブレードですべてのミサイルを着弾するより前に叩き斬ったのだ。十蔵も覚えている。あの絶望と恐怖の中で現れたそれは、まさに救世主のようだった。すべてのミサイルを撃墜し終えた白騎士は、さらに続けざまに襲い掛かってきたアメリカやロシアの戦闘機をいともたやすく斬り伏せ、戦闘力の違いを見せつけた。その後、各国が中継を通して見守る中、白騎士は忽然と姿を消し、それ以降表舞台に現れることはなかった。
これが『白騎士事件』と呼ばれる一連の出来事であり、二十一世紀騒乱の引き金となった女性優遇政策を各国が打ち出すきっかけとなった。
そして、この白騎士を創りだした張本人こそが篠ノ之束だったのである。
「束に聞いても白騎士事件の事はまったく教えてくれないんでね、詳細には不明だが…………俺はこの時に三人の間に何かがあった、と思ってる」
「何か……仲違いした理由のことかい?」
「ええ。そして、それが今回の俺が疑問に感じていることと繋がっているような気がしてならないんです」
「疑問に?」
「はい。なぜ俺を、あそこまで強引にこの学園に入学させたのか。先ほども言いましたが『紅い兎』の戦力をどうにかしたいというのなら、瑛梨もなおも引き抜かなきゃおかしいはずだ。瑛梨や俺はともかく、なおに至っては年齢でいえば高校生だ。あいつだって、『白虎』の所有者。甘ちゃんだらけの、代表候補生にも負けない実力を兼ね備えてる。織斑千冬だって、そんなことぐらい知っているはず。じゃあ、なぜ俺だけなんでしょう。黙っていれば女にも見えなくはない俺を、わざわざ男だとばらして入学させたのどういう意図があってのことなんでしょうか」
考える素振りをしながら、尻目に十蔵を捉える。年相応に刻まれた皺が、さらに深く刻まれていく。白髪の頭を掻きながら、困ったように眉間を寄せている。「君は、なんというか意地悪ですね」と長い沈黙の後に十蔵が発したのは、ため息とその言葉だけだった。
「この場合、それは褒め言葉として受け取ります」
玄兎はそう言って、立ち上った。「俺はこれで失礼します。これ以上は織斑先生に殺されちまう」とぼやき、再びあの巨大な鉄扉へと手をかけた。
「今日のところは、俺の根負けということで。最初から期待してませんでしたけど」
大仰に両手を上げ、玄兎は肩をすくめた。ため息が漏れ、胸の内にはじんわりと悔しさが広がっていく。そして、同時に確信する。彼は恐らく、何かを知っていてそれでいて隠している。一年前に感じた違和感と同じだ。織斑千冬に感じる違和感と、あのティア・ブライトに感じるざわめきと同じ、漠然とした不安感。払拭したくとも、消えてくれない予感めいた直感だった。
「…………私の口からは直截なことはいえないけど、少しヒントをあげよう」
立ち去ろうとした玄兎の背にそんな言葉が投げかけられた。思わず足を止め、そちらに耳を傾けた。
十蔵は何かを決意するように何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「君が見ているのは上辺にすぎないよ。根はもっと深く、そして身近な場所にある。時が来ればおのずと、理解するはずだから焦らず今は目の前の問題に取り組むことだね」
「……それは」
「今日はもう遅い。早く帰って寝なさい。明日もまた授業なんだろう?」
玄兎に二の句を継がせないつもりなのだろうか。矢継ぎ早に言葉を遮られ、たじろいでしまった。その隙に玄兎を鉄扉の外まで追い出すと、十蔵はそそくさと扉を閉めてしまった。
結局、彼のいうアドバイスの意味すら聞くこともできず、玄兎は渋々帰路についた。
「牽制のつもりが、なぜかご馳走になってしまった…………まっ、美味かったからいいか」
胃に収まったバウムクーヘンの味を思い出し、玄兎はたまらず唾を飲み込んだ。次の休日の予定が決まった瞬間だった。
* * *
今宵の月は実に美しい満月だった。気温もようやく春らしさを帯び、心地よい風が頬を撫でていく。無駄な雑音を一切排除したような夜の屋上では、足音ですら一面に響き渡る。華やかに飾られたコンクリートの地面が小刻みに、こつり、と音を鳴らす。
「はふぅ……やっぱり、夜の風は気持ちいいですねぇ」
手すりに身体を預け、自販機で買った炭酸飲料を飲み神皇は破顔した。やはりお風呂上りに大空の下で飲む一杯は格別だ、と少し年寄じみたことを思いながら神皇は空を仰いだ。満天の星空、とはいかないものの真っ暗な中に煌々と瞬く星々はいつ見ても美しい。悩み事があるとき、神皇は決まって一人で星を眺める。自分が見ている天上に広がっているであろう宇宙の事を想像すると、自分がちっぽけな存在に思えてくるのだ。そうなると、次第にそんな自分の悩み事などなんてことないのではないか、そんな風に思えてしまう。だから、星は好きだった。
「……かんざしっち、気にしてた」
鈴音の一件、どういう因果か関わってしまった簪は泣きじゃくった鈴音に同情とも心配とも取れる感情を抱いていた。鈴音の話は聞く限りだと一夏が一方的に悪いように思える。女の子と約束した、それも勇気を振り絞った告白紛い(それでも紛いであり、内容はお粗末にも程があったが)を忘れるなど言語道断だ。あれでは鈴音が泣いても無理はない。
しかし、簪曰く鈴音の話には一ヵ所違和感があるとのことだった。
「確かに、言われてみれば幾ら大切な約束だったからって……大泣きするほどのことじゃないよね。もう、一度は言質を取ってるんだからそれを楯に脅せば、簡単にOKはとれるだろうに」
神皇の意見はここは一旦おいておく。
簪の違和感とは、彼女も言っていたが鈴音の過剰なまでの反応のことだ。確かに大切な約束を破られたというのは、彼女にとって耐え難い悲しみだったのだろう。それが彼女にとってどれほどのものだったのか。神皇や簪には測ることは不可能だ。だが、それでも彼女のその反応は異常だったと簪は言うのである。その場に自分がいなかったことを心底悔やんだ神皇だが、彼女から言伝に状態を説明してもらいそれを知ることは出来た。それだけでは確信を得ることは出来ないが、簪の言う通り神皇もまた鈴音の反応に対する違和感が芽生えた。
玄兎は詮索するな、と釘を打ったが気になるのもまた事実。既に情報屋としての血がたぎりだしている。地球上にいるすべての生物で唯一人間が持ち得る、好奇心という名の本能。それが神皇の中で、狂わんばかりに暴れ回っていた。知りたい、という欲求が脳内を駆け巡る。
気づいたときには携帯を取り出し、ある番号に繋げていた。
数回のコール音が終わり、電話主がその呑気な声で『お、珍しいね』と告げてくる。
「お久しぶりです。玲也さん」
目の前に相手がいるというわけでもないのに、神皇は自然とお辞儀をしていた。日本人特有の架空の相手への動作だ。
『どうしたの? そっちは今、夜も遅い時間だと思うんだけど』
「いえ、ちょっと聞きたいことがありまして」
こちらと時差がある場所にいるのか、玲也はその声をわざとらしく驚愕に染めた。
『おお、弟子自らの依頼とは……これはまた、厄介そうな案件だね』
電話越しで楽しげな笑い声が上がった。「凰鈴音という少女は御存知ですか?」と丁寧な言葉遣いを心掛けながら、神皇は本題に移った。神皇自身、このような油を売っているのだがあまり長居するのはよろしくない立場にあった。寮を抜け出して来ているから、あまり遅くまでいると寮長の千冬に後でどやされる羽目になるのだ。
『うん、知ってるよ』
「……彼女の情報をある分、すべて教えてくれませんか?」
まさか彼が鈴音の事を既に知っていたとは思わなかった。これにはさすがの神皇も面喰った。が、そんな神皇の反応が面白いらしく、玲也は少し笑いを堪えるような口ぶりで、すらすらと言葉を紡ぎ出した。
『凰鈴音。年齢は君と同じ、十六歳。身長は150cm、胸にコンプレックス有り』
別段知りたくない情報まで混ざっているような気もするが、この際神皇は気にせず覚えておくことにした。何が後で役に立つか分からないからだ。
『母親が
感心したような言葉を並べる玲也の口調はどことなく冷めている。まるであらかじめ用意していた台本を読んでいるような、口調だった。
『で、四月には君も知っての通りIS学園に入学して今に至る。というわけだが……さて、気になる点はどこかな? 何でもいいよ、じゃんじゃん聞いてくれ』
「織斑一夏との関係については、何かありますか?」
『小学四年の頭から帰国するまでの中学二年の終わりまですべて同じクラスだったみたいでね、仲も良かったみたいだね。気も知ってる、五反田弾君とも気の知れた仲だったみたいだ。要するに、幼馴染ってやつかな。それと、織斑一夏はよく彼女のご両親が経営していた中華料理屋に招待されていたらしいよ。家族ぐるみでの付き合いだったみたいだね』
つまり、鈴音と一夏はプライベートでもかなり親密な関係にあったということだ。そんな中で鈴音は恋心を芽生えさせていったのかもしれない。
ここまでで、簪のいう異常な反応の理由となりそうな情報は得られてはいなかった。やはり、簪や自分の気のせいだったかなもしれない。そんな風に半ば神皇が諦めかけた時、玲也からもたらされたある情報がそんな感情をすべて吹き飛ばした。
「それは、ほ、ほんとなんですか?」
『僕が情報を売る時に嘘をついた試しがあるかい?』
「ない……ですね」
情報屋としての矜持があるのか、玲也は誰かに情報を売るときは絶対に嘘や間違いは教えない。真実のみを提供するのだ。つまり、先ほど玲也からもたらされた情報も御多分に漏れず、真実ということになる。
「大分見えてきましたよ、この一件。案外、そっちの話なのか」
どこにあるのかもわからなかった事件の輪郭が、薄らと見えたような気がした。まだ全貌は見えず、不鮮明だが――――――簪の言っていた「違和感」が決して彼女の思い過ごしではなかったことだけは、はっきりとした。
『ふふ、役には立ったかな?』
「あ、はい。ありがとうございました…………それで代金の方は?」
衝動に任せて電話をかけてしまっていたが、玲也が売る情報は決してタダではない。彼も商売であり、今神皇は客として玲也から情報を買ったのである。当然、そこには金品の取引が発生しなければならない。しかし、相手は裏の世界でも名の知れたプロの情報屋だ。どんなぼったくりの金額を請求されても、文句はいえなかった。祈るような気持ちで、神皇は玲也からの返事を待った。
『いや。今回の代金はいいよ。無料だ』
「え、いいんですか!?」
『僕にもちょっとややこしい事情と、約束というか取引があってね。特別措置なんだ』
苦笑するような声に、訝しむように神皇が眉をひそめる。
『じゃあ、僕はこれで。また情報が欲しい時は電話してね。あ、その時はお金とるけど』
そう言って玲也は電話を切った。相変わらず凄まじい情報量だった。あれほどの情報を一体どこから仕入れているのだろうか。自称情報屋として活動する神皇にとって、彼に関わる度に考えてしまうことだった。聞いたところで、企業秘密とはぐらかされてしまうのがオチだろうが。
「さて、こーなったらとことんやっちゃうのが、神皇ちゃんだもんねー。かんざしっちには悪いけど、今度の休日はちょっと聞き込み調査しなきゃ」
もはや気分はミステリー小説の探偵である。情報屋の性で気になった情報はとことん知り尽くそうとするのは、神皇の悪い癖だ。それが災いして今までどれだけ大変な目にあってきたことやら。数えるのも億劫だった。
そして、ここから先は鈴音の過去に土足で踏み込むことになる。もしかすると、彼女のデリケートな部分を刺激してしまうかもしれない。だが、それでも神皇は止まるわけにはいかなかった。もし、神皇の推測が正しいのなら、この鈴音に関する一連の出来事はすべて〝茶番〟だ。彼女は間違っている。だから、正してやらなければならなかった。いらぬお節介かもしれない。だが、今ここで彼女を放っておいたら、恐らく彼女は戻ってこれなくなってしまう。ならば、力づくでも引っ張り上げるしかない。
彼女が見ていた、砕け散った希望は夢だった。夢からはいつか覚めなければならない。そして現実を見て、それを受け止めなければならないのだ。それがどんなに苛酷であろうとも、彼女には――――――凰鈴音にはその現実を受け止めなければならない義務がある。
昔の神皇がそうだったように、現実から目を逸らしては駄目だ。自分たちが生きているのは今であり、過去でも、未来でも、夢でも、理想の中でもない。
身を翻し、神皇は屋上を後にする。
「寝坊助には、どんな悪戯を仕掛けてやろうかな~」
紅く光るその双眸に宿っているのは、果たしてどんな感情なのだろう。怒りか、淋しさか、同情か、呆れか、喜びか。
全てが混ざり合ったその奇妙な瞳は真っ直ぐに、今を見据えていた。
気付けば、二万文字を超えていた……。えええ!? とこれを書いている時点でなっている作者です。急ピッチで仕上げた割には、意外と多めだったのでちょっと驚いちゃったりしてます。
さて、今回は少し「伏線」が多かった回だったような気がします。ふと気づけば、どことなく群像劇な感じになりつつあるのは、お気になさらず。
新キャラ、というか原作でもあまり登場出番が少ない十蔵さんがひょっこりと登場していたり、しれっと出てきてた保険医が重要なキャラになりつつあったり。
ただの恋愛模様が、妙な方向に進みつつあるのはなんでだろうか……(゚Д゚;)
さて、次回もなるべく早く投稿したいと思っておりますので、よろしくお願いします。