IS~インフィニット・ストラトス~死神の黒兎   作:曾良

17 / 41
第十六話 Decision――決意――

 五月半ばに差し掛かり、肌寒かった陽気にようやく春が訪れた。ぽかぽかとした心地よい太陽の光が、それを受ける者に四季の移り変わりを教えてくれる。つい先日までは冬同然の格好の人々が目立っていたショッピングモールも、今日は春らしい薄手の服装が多数を占めていた。

 ショッピングモールのあちらこちらでは、夏物の早売りセールと銘打って各店が客を呼び込もうと大声を張り上げていた。恋人同士と思われるカップルを呼び止めては、ペアリングのシャツはどうかと聞き回っている。男女のカップルらしき影を見つけたら、呼び止め商品を提示する。販売員はそれを日中の間繰り返し、売上に貢献するのだ。

 

「あ、そこのカップルさん。デートですか?」

 

 また一人の販売員が一組の男女に目をつけた。高校生らしきカップルだった。どこかで見たような気がする二枚目の男と、女にしては背が高い凛々しい女性の二人組。どちらも外見はよかった。彼らに試着でもしてもらえれば、それなりに商品も映えるかもしれない。販売員はそう考え、この道十数年の営業スマイルをカップルに向けた。ここで一考してくれれば儲けものと思っていた。

 

 だが、そんな販売員の予想とは裏腹にカップルの片割れから飛んできたのは、狼狽と否定の連なりだった。

 

「カップル!? ち、違うぞ! わ、私と一夏は決してそのような不埒な関係で、は…………」

 

 途中で恥ずかしくなったのか、語尾が尻すぼみに消えていった。よく見ると、女の方は顔が真っ赤だ。血液の循環が心臓の脈動とともに早くなり、顔の血管という血管に血を巡らせている。居たたまれなくなった。申し訳ない、というより差し出がましいことをした。どうも男女ペアとはいえ、恋人同士ではなかったようだ。とはいえ、女性の方の反応を見た販売員の脳裏には「ははーん」と閃きがあった。女性の呼吸が幾何か落ち着いたところで、再び営業スマイルを顔に張り付けた。

 

「当店では、現在カップルフェアというものを開催しております。男女二組でご購入されると、値段に応じて現金のキャッシュバックがあり、大変お得となっておりますので、機会があったらお越しくださいませ」

 

「へぇ。もし、時間があったら寄ってみようぜ、箒」

 

「じ、時間があったらな! あったらだぞ!」

 

 箒が顔を真っ赤にし、羞恥を吹き飛ばそうと大声で言った。一瞬、面喰った一夏も「おお。なら行こうぜ」と歩みを再開した。その背を少し縮こまるようにして、箒が追随していく。

 そんな二人組を見送りながら、販売員はがんばれと小さく呟き、また通りかかるカップルへと声をかけた。

 

 

   *     *     *

 

「今度の日曜日、二人で買い物に付き合ってくれないか!?」

 

 金曜の夜、箒と一夏の自室にそんな言葉が木霊した。時刻は全体の四分の一を過ぎている。夜も更け、そろそろ就寝という時間帯だった。

 意を決したような表情の箒に、一夏はぽかんと口を開けたまま固まっていた。唐突な叫びだった。それはもう、腹を括った者の言葉であり、顔だった。一夏にとってみれば、彼女の心境が理解できない。故に、何を思考したらいいのか、わからなかった。頭の回転は正常通りだ。だが、状況を理解しようする思考が脳で生み出せない。これが何なのか。それを理解するために必要なピースを一つたりとも、一夏は持ち合わせていなかったのだ。

 箒が歯を食いしばって、一夏の答えを今か今かと待っている。

 

「あ、おう。いいぜ。買い物くらいならいつでも付き合ってやるぞ?」 

 

 一夏としては拍子抜けするほど、簡単なお願いだった。言葉に嘘偽りはない。そんな願いだったら、いつだって叶えてやれる自信がある。いや、お願いさえされれば、いつだって了承するだろう。

 だから、箒がなぜここまで必死そうな顔でそれを言うのかがわからなかった。返事をした瞬間のあの喜びに満ち緊張から解放された表情が、言葉の中身と噛みあっていない。一夏は訝しく思った。どうしたのだろう、と。ここ最近、様子がおかしかったがどこか調子でも悪いのだろうか。一夏は本気でそのようなことを考えていた。

 一方で箒は胸中に溢れている喜びを、これでもかと噛みしめていた。楯無に言われた、「積極的に」というのを早速実践したかいがあったものだ。

 

「まずはデートだよね。二人っきりで」

 

 楯無がそう言ったのは、今日の食堂の帰りだった。いきなり呼び出され、何を言われるとか思った箒はいささか不気味に思った。何を考えているのだろうか。彼女の考えは常識にとらわれていないというか、型破りといった面があるために、常人では思考を読み取ることは不可能だ。そして、発言はいつも唐突である。今回のこの案も、前振れなしでのことだった。正直、ついていくのがやっとだった。

 

 そういうことがあって、箒と一夏は日曜の午前中から買い物という名のデートに出かけていた。

 

「それで、箒はなにを買いたいんだ?」

 

「そ、そうだな……ふ、服とかだな!?」

 

「服って……じゃあ、さっきのところでもよかったんじゃ」

 

「それはあれだ! ほら、ほかのところも見たいんだ! どうせならいろんなものを見てから、決めようと思ってな!」

 

 たいしてプランなど考えていなかった箒は、焦りながらもなんとか訝しむ一夏を納得させた。

 

「そ、そうか。そうだよな」と一夏も自己解釈を済ませたようで、箒はホッと息をついた。

 

 このデート。出かけるところまではよかったが、肝心なその先を考えていなかった。誘えたことが嬉しくて、舞い上がりすぎていたようだ。おかげで「服を買いたいんだ」というその場しのぎの言葉が、本日の目的と化してしまっている。

 こんなことなら、そのあたりもきっちり楯無と相談しておけばよかった。隣を歩く一夏を横目で覗きながら、箒はそんな後悔を抱いていた。

 

「あ、あの店いいんじゃないか?」

 

 一夏が指をさした方に一軒の店があった。店頭には可愛らしい女性向けの服が飾ってある。

 

「そ、そうだな」

 

 とりあえず、返事を返した箒だが正直入りたくはなかった。これまで剣道一筋であった箒は、ファッションのようなものにてんで疎い。同年代の子らが恋人が欲しい、ファッションがどうのと言っている時間をひたすら自らの技術を研鑽する時間にあててきた。そのため、今の今まで女の子らしい服装などしたことがなかった。まさか、進学した先で、しかも女性しか入ることのできないIS学園で一夏に再会するとは夢にも思っていなかったのだ。知っていたならば、少しでも可愛くなろうと努力をしていたというのに。

 一夏に連れられて、箒はなし崩し的に店内に入った。男女のカップルも多かったが、女性のグループも多かった。しかも、そこにいる誰もが可愛らしく化粧し、女性らしい服装だった。正直、場違いではないかという思った。自分は剣道馬鹿で、青春を一切を剣道に捧げてきた女だ。過去には男女とからかわれたこともある。背丈も女性の平均的な身長と比べたら、やや高い。目つきも鋭く、一見すると不機嫌そうに見える。そんな自分が、こんな場所に果たしていていいのだろうか。

 

「ほら、箒はこういうの似合うんじゃないか?」

 

 考え事に耽っていた箒に一夏の声が突然、降ってきた。顔を上げると、一夏が純白のワンピースをこちらに見せていた。どうやら箒に似合いそうな服を探していてくれたらしい。

 

「ど、どうだろうな……?」

 

「試着してみせてくれよ。絶対似合うと思うからさ」

 

 いつになく積極的(強引)な一夏に困惑気味に箒は頷いた。渋々試着室に向かい、ワンピースに着替える。忘れていたが、サイズはぴったりだった。

 仕切りを開け、純白のワンピースに身を包んだ箒は照れくさそうに「ど、どうだ……?」と一夏の返答を待った。

 

「お、おお。似合ってるぞ。案外、箒はそういう系も似合うんだな」

 

 自分で選んでおいて、案外、というのは失礼だ。箒はそう口を挟もうとしたが、声が出なかった。口を動かしても、ぱくぱくと声が空を切らない。中身がからっぽになったペットボトルよろしく、何も出てこなかった。勢いよく、しきりを閉めた。振り返り、鏡を見た。顔が真紅に彩られていた。恥ずかしさと興奮が相まって、心臓が通常の何倍もその速度で脈を打っている。

 

 ――――――あの一夏に褒められた!

 

 可愛いという一言はもらえなかったが、意図を考えればあの言葉はそれと同等の価値があった。少なくとも箒にはある。

 一夏にしてみれば、大した一言ではないだろう。ただ思ったことを口にしただけで、それ以上でもそれ以下でもない。だが、箒にとってみればそれは歓喜するに等しい意味を持つ。たった一言。その言葉が聞けただけでも、箒はこのデートに誘ってよかったと心から思えるのだ。

 元の服に着替え、試着室を出た後も心臓の高まりは収まらなかった。我ながら、ちょろい、と思った。あのたった一言だけで、ここまでも興奮するなんてなんと脆いのだろう。一夏の言葉に意図なんてなかった。それが理解できているというのに、何をそこまで想っているんだ。だが、嬉しいのは事実だった。それだけは何があっても、変わらない。

 

「ほ、ほかの服もみてみようぜ」

 

 少々、間をおいて一夏が店の奥へと進んだ。その時の一夏の顔が少しだけ赤みを帯びていたことに、箒は気づいてはいなかった。

 買い物は順調に進んだ。行き当たりばったりのプランとはいえ、楽しかったように箒は思う。服も買い、一夏の褒め言葉をもう一度聞きたくて何度も試着した。何度かは「おお、うん……いまいちだな」と嬉しくない反応が返ってきたが、あとは概ね順調だった。一つだけ残念だったことがあるとすれば、可愛い、という言葉が彼の口から聞けなかったことだ。

 二着ほど気に入った服を購入し、箒たちは店を出た。さすがにこの頃になると、箒の頭も冷めてきていた。興奮の余韻もあるが、過度な感情の発露は下手をすれば相手にマイナスのイメージを与えかねない。自重するようにと、箒は自分で言い聞かせていた。

 

 そして、頭と心が冷めていくのと同時に先までは感じていなかったある疑問が脳裏に浮かんだ。

 

(そういえば、今日のは一夏はやけに強引だな。というか、どことなくおかしいような気もする)

 

 他人から見れば些細な違いだろう。だが、箒はこの一カ月一夏と寝食を共にしてきた。彼を見てきて、彼の言葉を声を聴いてきた。だからわかる。

 

 今日の一夏は、どこか変だ。

 

 数日前の倒れたことが原因だろうか。だが、それはたいしたものではなく、現に日常生活には支障をきたしてはいない。

 

 ではなにか。彼の言動に不信感が募るのは、一体なぜなのだろうか。

 

 一度疑問を覚えれば、連なってたくさんの疑問や不信な点、怪しい仮説が浮かび上がってくる。思考が断続的に続き、それがさらに箒の不安をかきたてていく。

 

「い、一夏」

 

 気づけば、言葉を発していた。

 

「なんだ、箒。疲れたのか? じゃあ、あそこのベンチに座ろうぜ。俺も少し歩き疲れたから、ちょうどいいしな」

 

 そう言って一夏が近くにあったベンチに腰掛けた。仕方なく箒もその隣に腰を下ろした。

 風が吹いた。心地よい風だった。春のぬくもりが頬を撫で、駆けていく。靡く髪が鬱陶しい。

 

「一夏。何か悩み事でもあるのか?」

 

「唐突だな。どうしたんだ」

 

「いや、お前の様子がいつもと違うのでな。気になった」

 

 自然を装うとしたが、どうしても不自然な言葉遣いになってしまう。切り出し方がわからず、思わずストレートに切り込んでしまった。

 

 一夏が参ったという風に頭を掻いた。

 

「そこまで、違ったかな。俺の態度」

 

「不自然というよりは、なんというか…………そう、積極的だった」

 

 思い返せば、その積極性の裏には何かがあったように思える。そうあれは、箒が照れ隠しをする時のそれに似ていた。何かを忘れたいがために、何か別の感情でそれを抑圧するあの感覚に似ているのだ。

 早く忘れたい。そんな気持ちがもしかすると、一夏の中にあるのではなかろうか。

 

「あー……かもしれない、な」

 

「何かあったのか?」

 

 歯切れの悪い言葉に、箒は半ば確信を得た。素直に言葉を紡ぐ。無骨な聞き方だったが、箒の目は真っ直ぐに一夏を射抜いていた。一夏がたじろぎ、ため息をついた。

 

「ちょっと前に、鈴ともめたんだ」

 

「凰と……?」

 

 ここでなぜその名前が出てくる。箒は苦々しくその名前を呟いた。まさか、彼女のことで悩んでいるとは思わなかったのだ。

 

「昔、約束……してたらしくてさ。俺、忘れてたんだ。鈴がその話をしても思いだせなくて……泣かせちまった」

 

 初耳だったが、思い当たる節がないわけではなかった。最近、やけによそよそしく元気がなかった鈴音の姿を思い出して、箒は相槌を打つ。だからか、と一人納得する。

 

「あいつにとってみれば、大事な約束だったんだ……たぶん。忘れているから、よくわかんねえけど。傷ついたんだと思う。あんときの鈴の顔さ、すげえ悲しそうだったんだよ。今でも瞼の裏に焼き付いているぐらい、衝撃的だった」

 

 独白が虚空に溶けて、箒の耳朶を微かに震わせる。そこにあるのは途方もない後悔と、哀しみだった。幼馴染を傷つけてしまったという哀しみと、大事な約束とやらを忘れてしまった後悔の念。その二つが、一言一言に乗って箒の中へと流れ込んでくる。

 辛そうだった。思いだしくても、思いだせない。彼女を傷つけてしまって、それからどうするべきなのかがわからない。一夏は今、一人苦しみを背負っている。自責の念が鉛のように重く、彼の体にのしかかっている。自業自得。他人から見ればそうだろう。一夏がその大事な約束とやらを忘れたのが、そもそも原因なのだから鈴音を傷つけたのは一夏の責任だ。彼が解決しなければならない問題だと、思うだろう。ただ、当人にしてみれば、それはひとり何もない暗闇に突き落とされたような思いなのだ。理由は推測でしか得ることが出来ず、解決の糸口もない。傷つけた、という結果だけが二人の間に存在して、それを修復するための方法がわからない。

 

 八方塞がり。四面楚歌。一夏は追いつめられている。箒にはそう感じられた。

 

 仲直りしたくても、出来ない。もどかしく、どうしようもない想いだけが一夏の身体でぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。

 耐え切れず、箒との外出で気分を変えようとした。だが、結果はこの様だ。頭からそのことを振り払いたくて、逆に不自然な行動をとってしまい、最終的にはこうやって再びそれに対峙する羽目になる。どうしろというのだ。忘れてしまった記憶を思い出すなど、やろうと思って出来るものではない。意識すればするほど、記憶が霞んで見えなくなってしまう。あの日、自分は彼女とどんな表情で言葉を交わし、約束をしたのか。守りたくても、守れない。自分ではどうすることもできない事なのだ。一度、犯した罪は消えないように忘れた過去はそう簡単には取り戻せない。

 

 ――――――俺はどうすればいい。鈴との約束ってのは何だ!? 誰か知ってたら教えてくれよ! 誰か!

 

 叫びたい気持ちを押さえ、一夏は俯く。こんな話を箒にしても、意味がない。彼女には関係ない話なのだ。きっと困らせるだけだ。そう思って、箒に視線を向けた。

 

 箒が、神妙な面持ちで口を開けたのはその時だった。

 

「お前は、謝ったのか?」

 

「……は?」

 

 箒の静かな声が、空気を揺らす。腹の底から噴き出るような、静かで重い声だった。

 

「だから、凰に謝罪はしたのかと聞いている!」

 

「い、いや、ま、まだだけど……」

 

「ならば、今すぐにでも謝り行け、馬鹿者! 相手を傷つければ謝るのは常識だ! 理由はともあれ、まずは謝罪することが大切なのだぞ。日本男児として、いや人間としての常識だろう!」

 

 凄い剣幕に押され、一夏は呆然と彼女の言葉に聞いた。起こったように口を尖らせ、箒はまだも言葉を続ける。

 

「今回の件、すべてお前が悪い」

 

「うぐぅ」

 

「だが、大事なのはそのあとだ。悪かった、自分の責任だと思うならばまず謝罪しなければ話にならない。虫のいい解決方法など最初から存在しない。そんなのがあれば、今頃誰しもそんなことでは悩みはしない。理由はわからない、だが仲直りをしたい。それならば愚直に謝り倒して、相手に許しを乞え。たとえ相手が許してくれなくとも、それが傷つけた相手への礼儀だ」

 

 箒の言葉には何かに裏付けされた強さがあった。その言葉に一夏の心臓がどくりとひときわ大きい鼓動を鳴らした。

 失念していた。そういえば、そうだ。自分はまだ鈴音に対して謝ってはいなかった。あれ以降、お互い気まずくなって会っても顔を背け、声すらかけていない。

 逃げていた。自分が彼女を傷つけたという現実から。都合のいい出口を見つけようと躍起になって、それが見つからず意味のない苦しみにとらわれていた。

 でも、謝ればよかったのか。自分が罪を犯したということを認めて、ただ単純に謝ればよかった。逃げられれば、追いかけてでも謝ればよかった。それで二人の間に出来た溝が埋まらなくとも。事が解決しなくとも。そうすることで少なからず、この重荷は軽くなっていたのではないのか。

 

 簡単だった。理屈ではない。ただ、真っ直ぐにただ真っ直ぐに筋を通せば、良い話だったのだ。

 

「――――――あは、あははははははっはは!」

 

 思わず笑ってしまう。

 

「そうだよな、箒。人間、悪いことしたらまず最初に謝らないとな。ありがとう。悩むあまりそんな簡単なことも忘れていた。箒のおかげだ」

 

 立ち上がって、空を仰いだ。決意を秘めた眼差しを空に向けたまま、箒に感謝を述べる。

 

「……わかったのなら、いいさ」

 

 箒の言葉は今の一夏には、暗闇に走る一筋の光のようだった。自ら思考の袋小路に迷い込んだ一夏に差しのべられた救世主(メシア)の手のように、自分を終わりの見えなかった苦しみに一つの希望を与えてくれた。それは儚く、小さな灯りなのかもしれない。小さな灯火は足元を頼りなく照らすが、行く先を示してくれることはない。だが、それでもよかった。

 たとえ、彼女との関係がこれでピリオドを迎えようとも、謝っておかなければ絶対後悔する。鈴音も、自分も苦しむだけだ。ならば、たとえ許してもらえなくても、罵声を浴びようとも、卑怯者と言われようとも自分は謝ろう。約束を思い出せない自分が今出来ることは、それしかないのだから。

 

 

    *     *     *

 

「それで連れ出して、どこに行こうって?」

 

 鈴音が不機嫌そうに吐き捨てる。一夏との一件以来、彼女の機嫌はすこぶる悪い。八つ当たりのようなことをしていないだけましだ。呆けていることが多い。傍から見ていると、非常に危なっかしい子になっていた。そんな時期にいきなり出掛けるぞと無理やり連れ出されたのだから、不機嫌なのは当然であった。

 

「五反田食堂」

 

「なんで……そこなのよ」

 

 五反田で何かを連想したのだろう。鈴音の顔にみるみる陰りが見え始めた。別に玄兎にも意図があってそのような場所を選んだのではない。ただ、そこが集合場所としては適当だったのだ。

 

「こちらの諸事情」

 

 少しばかり誤魔化した。これから玄兎がやろうとしていることは、荒療治にも近いことだ。出来れば、彼女の心情を最初の内だけは綺麗な状態にしておかなくてはならなかった。そうしなければ、失敗する。諸刃の剣とまではいかないが、危険な賭けであることには違いない。なにせ、これから彼女と引き合わせようとしている人物たちは、お互いに初対面なのだから。

 しばらく歩き、目標の五反田食堂に到着した。何の変哲もない一軒家。一見すると飲食店なのかも判別できそうになく、唯一手がかりとなるのが店の前に掲げてある『五反田食堂』という看板だけだ。どこにもありそうな、普通の食堂だった。だが、玄兎はここが気に入っていた。ここに来ると、日本を感じるのだ。生まれた故郷を想えるのだ。

 

「いらっしゃいませ!」

 

「よっ、蘭。久しぶり」

 

「あ、玄兎さん! お久しぶりです! そして、なんで鈴さんが玄兎さんと一緒に……?」

 

 五反田食堂の看板娘(と店主が言っていた)五反田蘭は、玄兎と鈴音という妙な組み合わせにいささか驚きを隠せなかったようだった。なまじ双方と知り合いであるために、その度合いは大きかったようである。「久しぶりね。てか、知り合いだったのね、あんたら」と鈴音が呆れ気味にいった。どうも合点がいったらしい。

 いまだ組み合わせに疑問を抱いている蘭だったが、彼らがお客だということを思い出してすぐに席を案内した。しばらくして、二つ分のコップが水の注がれた状態で机に置かれた。

 

「さて、蘭。アリサ達はまだ来てないのか?」

 

「あ、アリサさんたちも来るんですか? あ、だったら江波さんも……!?」

 

「多分な。てか、十中八九来るだろ。よかったな」

 

 玄兎がそう告げると蘭はあからさまに、相好を崩した。もしかすると、江波という人物が来てくれて嬉しいのかもしれない。鈴音は置かれたコップを口につけながら、そう思った。「それで」鈴音は肩肘を机につき、面倒くさそうに眉間にしわを寄せた。

 

「私をここに連れてきたわけ、さっさと話しなさいよ」

 

「お仕事さ。仕事を完遂するために、必要な工程をやろうかと思ってな。まぁ、予想外の工程なもんで、ちとばかし焦ってるが」

 

「仕事……? それって私の?」

 

 鈴音の確認に玄兎は頷いた。

 

「まだ有効だったのね、あれ」

 

 物憂げに鈴音が睫毛を伏せた。いまだ心の深い場所に残る傷が、ずきずきと痛んだ。心の痛みというものはここまで痛いものなのか。鈴音はひとり、堪えた。思いだして、目の奥から涙が、胸の底から哀しみが溢れだしそうになる。あれだけ、心待ちにしていた約束が(中々言い出せなかった自分にも腹が立ったが)いともたやすく一言で砕かれたのだ。一夏と別れてから、一人寂しかった時に思い出しては勇気をもらったあの約束を、彼は何事もなかったかのように忘れていた。

 ショックだった。自分との約束なんてどうでもいい。そんな風に一夏が言っているような気がした。何もかもが嫌になって、最近では授業もろくに頭に入らない。あれ以来、一夏の顔も見れなくなっていた。視界に入ると自然と体が彼とは逆方向に向かって、走り出している。そして、何度も「一夏は私のことなんてどうでもいいんだ」と自嘲して、また泣きそうになる。どう足掻いても、哀しみがこみあげて脳を支配してしまう。

 

 ――――――お母さんは鈴音の花嫁姿を見るまでは、死なないわよ。

 

 母の言葉が脳をよぎっていく。もうどうしようもない過去が母の姿となって、声となって再び鈴音の意識に浮上する。鈴音が一人挫けそうになったとき、いつも母が傍で支えてくれた。母がいなかったらと思うと、恐らく自分はここにいなかった。中国で一人、親戚の家もしくはどこかへ養子に出されていたかもしれない。

 母は鈴音にとって、先生でもあり、目指すべき対象でもあった。女神のような存在だった。容姿端麗で優しいし、料理も上手かった。本当に鈴音の理想像を体現している人だったと思う。いや、母が鈴音の理想とする人物だったのかもしれない。それほどに、鈴音は母が大好きだった。

 

 ――――――約束する。絶対、あいつを物にしてみせるって。というか、もう十中八九ものにしているといっても同然だし。

 

 母と最期に交わした約束は、今となっては虚しい口約束に成り下がっていた。どうすることもできない。ただ、自分は母の期待に副うことは出来ないということだけははっきりとしている。あの約束が全てだった。一夏との約束があったから、あの母との約束があったといってもいい。それが全ての始まりで、同時に終わりでもあったのだが。皮肉なことだ。母にはどんな顔をして報告すればいいのだろう。

 そんな時にふと思い出すのは懐かしい、家族の風景。母と父がいた、あの楽しい時間。母がからかい、父が怒り、鈴音が狼狽する。またあの場所に帰りたかった。出来ることなら、またずっとあの時のように過ごしていたかった。今は叶わなくとも、いつかまたきっと……。そんな思いが、鈴音の中で駆けていく。そこで込み上げた切なさと喜びが少しだけ哀しみを和らげてくれた。

 

「それで、一応昼飯食べようぜ。腹減ったから」

 

 玄兎の一言により、昼食は五反田食堂で食べることになった。鈴音としては初めからそのつもりだったのだが、彼は彼なりに何かプランというものがあったのかもしれない。

 注文し、運ばれてきた料理を食べていること数十分。不意にがらりという音とともに食堂の扉が開いた。

 

「いや~、すいません。遅くなりました」

 

「はっ、江波さん!」

 

 男の声が後ろから聞こえたと思うと、次の瞬間的な反射で蘭がその人物の名を呼んだ。その声は喜びと焦がれる想いを孕んでいた。

 

「やあ、蘭ちゃん。しばらくぶりだね。元気にしてた?」

 

 男の柔らかな声が蘭の鼓膜を震わせ、歓喜の情となって脊髄から脳を貫く。溢れんばかりの情愛が脳漿を満たし、蘭の顔が一気に華やかな笑みに変わった。

 

「はい!」

 

「てか、入口でいちゃいちゃするなこのバカップル」

 

 蘭の幸せ全開オーラに中てられ、江波の後ろにいたアリサが憎々しげに言葉をぶつけた。その言葉に一瞬蘭の顔が怒りに歪んだが、相手を見てすぐに表情を変えた。

 

「あ、アリサさんも……いらしてたんですね」

 

「私がいて悪かったな」

 

 江波が来た時のピンク色のオーラはどこへやら。彼の後ろで苛立ちに顔を歪めるアリサに、蘭が怯えたように言葉を紡いだ。それにこれまた苛立ちの籠った言葉をアリサが返した。これには蘭は冷や汗を額に掻きだし、その笑みを乾いたものに変えていった。

 蘭はアリサが苦手だった。いつも仏頂面で不機嫌そうだし、何より玄兎とは違う意味で中性的な顔立ちのせいでその眼差しは女とは思えないほど鋭い。少し睨まれただけでも、蛇を前にした蛙のように身が竦んでしまうのだ。だが、決してアリサが悪い人というわけではないということも理解している。だが、理解していても本能的な恐怖というのは克服できるわけではない。故に蘭は、アリサに苦手意識を持っていた。

 

「ほらほら~、アリサちゃんはすぐそう言って拗ねるんだから~。本当は蘭ちゃんとも仲良くしたいくせに~、だけどそういうアリサちゃんは最高に可愛い~、もきゅもきゅしたい~」

 

 蘭が引きつった笑いを浮かべる中で、また新たな闖入者がアリサの後方から現れた。いや、飛び込んできた。江波が慣れた動作で蘭を庇いながら、横へとスライドするように移動する。そして、江波が先ほどまで居た位置にアリサと闖入者が絡み合いながら倒れこんだ。

 

「ぐはっ。おい、瑛梨! 離れろ! 気色悪いだろうが!」

 

「え~、アリサちゃん酷い~、いけす~。ぐりぐり」

 

 瑛梨に抱き着かれ身動きが取れないアリサが、鬱陶しげに罵声を浴びせる。が、瑛梨はそんなもの意にも介していなかった。逆にその罵りを嬉しそうに、受け止めている。べったりと抱き着いては、アリサから離れようとしない。

 

「だから、こいつを連れてくるのは嫌だったんだ! あのバカと一緒に、留守番させてた方が!」

 

 もはや悲鳴にも近いアリサの叫び声が、五反田食堂に響いた。

 

「あはは、いつも通りですね瑛梨さんも」

 

「あ、こんにちは、蘭ちゃん。今日もかわいいね」

 

 顔を上げ、瑛梨が蘭に挨拶を述べる。だが、その瞳に浮かぶのは狡猾な獣の光だ。値踏みするように彼女の肢体を観察し、瑛梨は到底女とは思えないほど卑猥な相好で舌舐めずりをした。もはやその姿は、中年のエロ親父そのものだった。

 

「見ない間に、また逞しくなっちゃって……ますます私好みに!」

 

「ひいっ!」

 

 堪能し切ったアリサからようやくその身を剥がした瑛梨は、ゆらりと立ち上がりその視線をまっすぐ蘭に――――――その胸元に向けた。

 

「でへへへ」

 

 もう完全にスイッチが入ってしまったと、鈴音を除く誰もが思った。欲望が暴走した瑛梨は既にとびかかろうと身をかがめている。蘭がアリサの二の舞になることは、誰の眼から見ても明らかだった。蘭が観念し、瞼を伏せる。両腕を顔の前でクロスさせ、防行態勢をとった。

 だが、この騒ぎがどこにで起こっているのか。そして、その場所にいる絶対的な主が誰だったのか。そして、その人物がまた孫である蘭を溺愛しているということを誰しも忘れてはいまいか。

 

「毎度毎度、うるせえっ!」

 

 いつの間にか瑛梨の正面に仁王立ちで立ちふさがっていた五反田厳が、齢八十とは思えないほどの声を飛ばした。同時に瑛梨の頭上に振り上げられていた拳を一気に頭めがけ振り下ろした。

 とても鈍い音が聞こえた。固いものと固いものが衝突した不味い音が、あたりに響いた。

 

「うわぁ……」

 

 蘭とアリサ、それに江波や関係のない鈴音まで思わず同情の眼差しを瑛梨に向けた。自業自得とはいえ、これは痛い。ここにいる全員、厳がどういう人物なのかというのを知っている。そして、その彼が下す鉄拳制裁がどの程度の威力を持っているのか身をもって知っていた。あれは、もはや天の一撃といっていい。八十の老体から繰り出されたとは思えないほどの威力なのだ。それを瑛梨は頭のてっぺん、それも無防備に喰らってしまった。相当なダメージを受けているはずだった。

 

 現に瑛梨は今、意識を失って床に伏していた。

 

「煮魚の味がしっかりしてる……さすがは厳さん」

 

 一人この騒ぎを止めようとも、傍観しようともしていなかった玄兎の呟きは静まり返ったこの室内で唯一幸せそうな色を帯びていた。

 

 

 

 

「それで……何から話そうか」

 

 瑛梨が起こした一連の事件が(元凶の気絶という)収束を迎えてから一時間が経った。五反田食堂の一席ではアリサと瑛梨、そして鈴音がそれぞれ向かい合う形で対面していた。

 奇妙な空間だった。お互い今日が初めてだった。会話も一切交わしたことのない二人組を相手に鈴音は戸惑い、またアリサと瑛梨は困惑していた。三人とも一切言葉を発せずに、既に数十分の時が流れている。

 

 理由は明らかだった。この三人が唯一接点のある玄兎の不在だ。彼は瑛梨が気絶から目を覚ますと、今回の主旨をかいつまんで話し用事があるとかでどこかへ行ってしまったのだ。困ったのは取り残された三人である。何しろ、きっかけがない。何分主旨が主旨だ。迂闊な話題を提示すれば墓穴を掘るだろうし、意味のない話をすればたださえ切り出しにくい本題を言いづらくなってしまう。

 

 アリサが面倒になって、ざっくらばんに言葉を投げたのはそんな時だった。

 

「要するに、鈴ちゃんの依頼って単純な告白の手伝いだったんだよね?」

 

 玄兎から聞き伝っている事柄に齟齬がないか、瑛梨が今一度確認の意味も込めて鈴音に尋ねる。返ってくるのは無言の頷き。

 

「なるほど。そして、それがああなってこうなってしまったと」

 

 どこの部分がなるほどなのだろうか。

 

「それで玄兎はその煮詰まりを、私らに丸投げして自分は用事に、と」

 

「本当にふざけてるやつだな……!」

 

 怒りのあまりアリサの手にあった割りばしが、破砕音とともに中央からぽっきりと圧し折られた。砕けた割りばしの破片が、机に落ちていく。それをアリサが鬱陶しげに睥睨した。「呆気ないな」と感慨深そうに呟いた。何のことだろう。鈴音がきょとんと首を傾げると、アリサが大きなため息をついた。

 

「恋も同じだ。それを為すための過程に力を入れ過ぎて、大抵はそれを為した後で燃え尽きる。そして、いつしかこの割り箸のように呆気なく終わる」

 

 無表情で、淡々とアリサが言葉を紡いでいく。

 

「お前の経験したのも、それだ。好きだった男に告白して、一人それが成功した喜び帰国し、再び戻ってきてみてそのことを尋ねると本人はそのことを覚えてなかった。何の変哲もない。片思いの終焉さ。泣くことも、悲しむこともない。お前はその男に愛されていなかった。これで完結だ」

 

 同情も配慮もへったくれもなかった。ただ事実のみを切り取った言葉が、鋭利な槍となって鈴音の胸を穿つ。容赦の欠片すらない。冷え切った声が抜身の刀のように、触れた場所に鮮血を迸らせていく。

 さすがの鈴音も我慢の限界だった。椅子が後ろに吹き飛ばされるほど、勢いよく立ちあがった。

 

「あ、あんたに……あんたなんかに私の何がわかるっていうのよ! さっきから言いたい放題言ってるけども! 何を偉そうに!」

 

 怒りから呂律がうまく回らない。思考が混濁して、積み重なる言葉が幼稚なものになっている。だが、それでも一度爆発した怒りは静まろうとはしなかった。

 

「一夏は、私と……あの時絶対忘れないって言ったの! 私の作った酢豚を毎日食べてくれるって! 私にとってはそれが唯一のよりどころだったの! それをあいつは何事もなかったかのように忘れてた。どうしろっていうのよ!」

 

 自分でも正直、何を言っているのだろうかと思う。会話が成立していない。言葉の中にある情報が断片的過ぎる。これでは何を言っても、相手には伝わらない。

 でも、血の上った頭ではどう頑張ってもこれ以上の文句が思いつかなかった。溜まっていた鬱憤と哀しみが、怒声になって吐き出されていく。

 

「折角、一夏が振り向いてくれたと思ったのに! 全部、私の勘違いで、帰ってきてみたら忘れた!? ふざけんな! こっちはそれにすべてを賭けてたんだ!」

 

 まるで自分ではない誰かが自分の身体を乗っ取っているかのようだ。現実味がない。今ならどんなことでも言える。そんな気がした。

 

「約束したんだ! 約束したんだ! だから、絶対にダメなんだ! ダメなんだ……一夏がその約束を忘れてたら駄目なの……」

 

 尻すぼみに言葉が途切れ、次第に嗚咽が混じり始めた。正常な思考が出来なかった。ぐちゃぐちゃだ。何もわからない。

 怒りが収束していくと、次の噴出したのは底なしの恐怖だった。不安と悲しみに塗れた恐怖が、胸の奥から溢れ鈴音の身体を満たしていく。渇望した未来が、掴みかけていたあの風景が再び遠ざかっていくのを感じる。駄目だと足掻いても足は泥沼に埋まって身動きが取れない。手を伸ばしても、届かず宙を掴むだけだった。

 虚しく、鈴音が着席する。その頬には流れるものがある。嗚咽とともに流れ出る涙が、鈴音の服を濡らした。

 そんな鈴音を見て、アリサと瑛梨は顔を見合わせた。一方には呆れが、もう一方には困惑と苦笑が顔に映し出されている。彼女らも玄兎がなぜ、この事案を自分らに丸投げしたのかその一端がわかった気がした。これは予想以上に、無理難題だ。

 

「もう、いいんです。一夏の事はいいんです。あの約束が無効になった時点で、もう……」

 

 何が彼女をそこまで追い詰めているのか。アリサにも瑛梨にもわからなかった。ただ、彼女の精神状態は極めて不安定で正常を欠いている。ある意味、面倒な女だった。

 

「はっ。どんな綺麗ごとぬかすかと思ったら、単なる負け女の負け惜しみか」

 

「ちょ、ちょっとアリサちゃん。それはさすがに……」

 

「約束約束って……そんなものに頼らないと男の一つも手に入れることのできない女なんて底が知れてる。たかが約束一つ忘れられたぐらいで、ヒステリックを起こす女に男が振り向くわけないだろ」

 

「たかが……たかが約束って、私は真剣に……!」

 

「真剣に約束して、しばらく経ってここに戻って来見ると当の本人はそれを忘れていた。つまり、真剣だったのはお前だけだった、ということだな。可哀想に」

 

「お、お前……っ!」

 

「なんだ、喧嘩ならいつでも相手になってやるが」

 

 アリサの挑発行為にしぼんだはずの怒りに再び火がついた。抑え込みがたい激情が体を支配して、先と同様思考力を奪っていく。

 気付いたときには身体が動いていた。机を飛び越え、相手に殴りかかっていた。代表候補生は単にISの訓練だけを受けているわけではない。対人格闘も代表候補生になるために必要な訓練の一つだ。その戦闘能力は一般人の遥か上を行っている。さらに鈴音は怒りで我を失っている。手加減など一切加えていない。まさに渾身の一撃だった――――――はずだ。

 

「なっ!?」

 

「おいおい、何を驚いている。十五、十六の小娘ごと気のパンチを私が受け止めきれないとでも思ったか? そんな不安定な体勢で放つから、威力が半減する。腰も入ってない。ダメダメだ」

 

 鈴音の一撃をいとも簡単に受け止めたアリサは、余裕綽々にそう述べる。それがまた鈴音の怒りをさらに燃え上がらせた。が、鈴音が出来たのはそこまでだった。

 身体が急に前へと倒れた。机に乗っている状態から引っ張られたのだ。そのまま地面にたたきつけられ、殴りかかった方の腕を後ろに回される。組み伏せられたと認識したときには、既に身動きが取れなくなってしまっていた。

 

「話にならん。これならウチの奴らのほうが、よっぽど有能だ」

 

「マフィアと十五、六の女の子を比べている時点で判り切ったことだと思うんだけど、それ」

 

「とにかくだ」

 

 苦笑気味に意見を述べる瑛梨を、アリサは無視した。細かいことは気にしない主義である。

 

「私はお前のような女が大嫌いなんだ。自惚れ、自信過剰、そしてヒステリー。わけのわからない理屈を並べる奴もいけ好かない」

 

「あんたに、わたしの何が」

 

「理解したくもない。お前の理想や夢なんてものにも興味はない。いつまでも過去を引きずって、自分を悲劇のヒロインと勘違いしている痛い女は一生そのままでいればいい。好きな男をあきらめて、泣いて、喚いて、誰かに同情してもらうといい」

 

「ア、アリサちゃん……」

 

「ちっ、折角玄兎からの呼び出しだったから期待してたのに。気分が悪い。もう帰る」

 

 鈴音の拘束を解き、アリサは不機嫌そうに言葉を吐き捨てた。それから去り際に「すまんな。騒いでしまった」と厳や蘭に謝罪をいれると、そそくさと出て行ってしまった。

 五反田食堂に異様な沈黙が舞い降りた。事の成り行きを見守っていた蘭も厳もこれには閉口して、苦笑すら浮かべられずにいた。

 組み伏せられた態勢のまま床に倒れている鈴音。アリサの出ていった方角を見ながら、苦笑する瑛梨。アリサの作ったこの以上に気まずい空間は、当事者の二人以外には耐えられないほどの緊張感を孕んでいた。

 

「あー……ごめんね。アリサちゃんちょっと言葉足らずというか、乱暴なところがあるから。許してとは言わないけど、気にしないで」

 

 鈴音は無言だった。それでも瑛梨は二年という時間を共に過ごした家族が何を伝えたかったのか。それを推測し、鈴音に伝えようと言葉を選んだ。

 

「私には鈴ちゃんの気持ちはわかるよ。本当の恋って理屈や理論とかじゃ説明できない。自分でもよくわからない気持ちに突き動かされて、怖いけど心地よくて、だけどやっぱりどこか苦しくて自分のものにしたくて。そんながんじがらめの中で、一喜一憂する。これが幸せなんだよねぇ。本当にずっと続いていたらいいのに、私もそう思っていた」

 

 瑛梨が目を伏せる。そこに浮かぶ感情は果たしてどんなものだったのだろうか。鈴音には図りかねた。

 

「でも、私は駄目だった。気づいたときにはもう遅かったよ。皆よりも遥かに時間があったはずなのに、たった半年でそのすべてをひっくり返されたの」

 

「え……?」

 

 瑛梨の独白に初めて鈴音が反応を示した。そしてこの時に彼女が言わんとしていることの意味を悟った。

 

「びっくりだよね。私なんて七年も一緒にいたっていうのに…………まぁ、それがアリサちゃんなんだけどもさ。勝てないって思ったねぇ、あれは。何しろ、諦めないから。どんなに脈がなかろうとも、振り向いてくれなくとも決して諦めない。ひたすら攻めて、攻め続ける。感心するよね、よく出来るなぁって」

 

「……天宮さんは、諦めたんですか?」

 

 自分のことは棚に上げた。だが、聞かずにはいられなかった。

 

「さぁ、それだけはまだわからないよ。自分でもわからないの。私が本当は諦めているのか、諦めてないのか。チャンスがあればって思う自分もいれば、もう覆せないほど差をつけられたと思っている自分もいるんだ。多分、すっごい後悔してると思う。なんであの時素直になれなかったんだろうって、もっと自分を出せなったんだろうって」

 

 穏やかな声だった。そこには如何なる負の感情も介在していないような気さえした。嫉妬も憎しみもない。ただ、純粋な後悔の感情だけははっきりと鈴音には感じられた。

 

「最初の内は、アリサちゃんのことすごい敵視してた。それは凄かったよ。妬みまくり。酷かったし、何より馬鹿だった。そんなことしても、ちっとも彼との距離が縮まるわけないのに。何時だったかな、アリサちゃんに抱いていた感情が嫉妬から敬意に変わったのは。多分、つい最近のことだと思う。私には眩しかったんだ、あの諦めの悪さが羨ましくて……」

 

 諦めない。それは何かを為そうとするときに、必ずぶち当たる壁だ。それを乗り越えることができたものにだけ、本当の意味で何かを為すことは出来る。だが、恋愛では必ずしもその理論が当てはまるわけではなかった。何しろ、諦めないということはつまりしつこいということだ。しつこく相手につきまとっていたら嫌われる可能性だってあるし、暴走すれば犯罪紛いの行動だ。退き際が大事だといった過去の人物は、大したものである。諦めないという意思は確かに大事だが、だからといってそれを続けていればいつかその努力が水の泡と帰す可能性だってある。危険な賭けなのだ。その際どいタイミングを見極める者こそ、勝者となり得るのであろう。

 しかし、諦めたくない意思とは裏腹に人間は圧倒的な差を見せつけられたりすると心が折れてしまうものだ。自分には覆せない。そう思い込んで、諦めてしまう。

 

 瑛梨曰く、自分にもアリサにも最終的に彼の心を射止めることは無理なのだという。確信しているようだった。

 

「でも、アリサちゃんはそんなことを意にも介していなかったんだ。どんな絶望的な差があろうとも、たぶん諦めない」

 

「……なんで。なんで……諦めないんですか。だって、普通だったら諦めますよ。相手に振り向かれる可能性が万が一にあったとしても」

 

「万が一があるから、諦めないんだと思うよ。アリサちゃんは」

 

「だって、それでも……!」

 

「好きだから」

 

 まだ受け入れられない鈴音の言葉を遮って、瑛梨が言った。

 

「好きだから、ってアリサちゃんは言ってた。自分はあいつのことが好きだから、愛しているから諦めない。たとえ、相手がどんな奴でも勝って見せるって」

 

 単純で、これほどまでに説得力のある理由はない。それもそうだ、と鈴音は思った。恋愛に理論や理屈はない。ただ、愛という感情にだけ従って動いているに過ぎないのだ。最もシンプルで、複雑な感情に。

 

「だからさ、たぶんアリサちゃんは鈴ちゃんの諦めるって言ったのが許せなかったんだと思う。だって、鈴ちゃんまだ織斑一夏君から直接フラれたわけじゃないし。約束も所詮は口約束。確かに女の子との約束を破るどころか、忘れるなんて男の風上にも置けないけど、人間忘れちゃったものはどうすることもできないんだから。大切なのはそのあと。これからどうするかだよ」

 

「わ、私……」

 

「鈴ちゃんはどうしたいの? 諦めて、このまま好きな人が誰かと幸せになるのを見守る? それとももう一度、挑戦する?」

 

 瑛梨のその問いかけに、鈴音は答えに窮した。迷いがあった。もし、もう一度一夏に告白したとして、拒絶されたらどうする。今度こそ、鈴音は完膚なきまでに叩きのめされて、二度と再起することはできないだろう。そして、二人の関係は崩れて、元には戻らない。そうなるのではないかと思うと、怖かった。

 だけど、先の独白を聞いて何も感じなかったわけではなかった。アリサのあの態度と言葉遣いには怒りを覚えたのは事実だが、そのすべてが正鵠を得ていたのは事実だ。彼女の意見も、複数ある〝見方〟の内の一つに過ぎない。

 受け入れろ。一夏は約束を忘れた。もうあの約束に頼ることは出来ない。でも、自分が一夏を想う気持ちは本物だ。もし、この想いがまだあの男に届く可能性が少しでも残っているのなら。瑛梨の言う後悔をしたくないのならば。

 

 ―――――――そうだよね。私、もうちょっとでお母さんとの約束まで破るところだった。

 

「私、諦めたくないです。もしも、一夏が私を少しでも振り向いてくれる可能性があるのなら…………諦めたくないです。だって、あいつのことが好きですから」

 

 そう言って涙でぬれた目元を服でごしごしと拭った。泣いたせいで赤くはれているが、その眼光からは先の鈴音からは想像もつかいほど強い意志を感じられた。

 

 瑛梨が不敵な笑みを浮かべた。

 

「よっしゃ、その調子だよ! 私も応援してるからね」

 

 そう言ってお互い顔を見合わせて、満面の笑みをそこに張り付けた。

 

(いいんだよね、玄兎。私はこれで……)

 

 迷える子羊を導いたのは神ではなく、粗暴な蛇だった。しかし、粗暴な蛇も子羊もまだこの時は知らない。もう一匹の迷える者が、迷える真紅の雀がいるということにまだ二匹は気づいていなかった。

 

 

    *      *     *

 

「はぁああああ!」

 

 腕と武装だけを部分展開した状態にある一夏の雄叫びが、悲鳴と怒声が溢れかえる喧騒の中であがった。猛然と突進し、目標に向かって袈裟懸けに雪平の刀身を滑らせる。白刃が女の身体を切り裂こうとした瞬間、あり得ない動きで女の上半身が後ろにそらされた。人間の構造を完全に無視した動きに一夏が瞠目した。それは無しだろ、と心の内で叫ぶ。

 

「がはっ」

 

 無防備な腹部めがけ放たれた蹴りを、咄嗟に展開したもう片方の腕で防いだ。が、威力が強すぎた。威力を半減させただけで、衝撃までは無理だったらしい。そのまま数メートル後ろへと吹き飛ばされた。

 

「一夏っ!」

 

 箒の悲鳴が一夏のすぐ近くで発せられる。だが、駆け寄ってこようとする箒を咄嗟に一夏は「来るなっ!」という一喝で静止させた。迂闊に近づくと戦闘の巻き添えになる。それに箒を守りながらだと、ただでさえ防戦一方の戦いがますますやりにくくなってしまう。だから、今この場に箒のような非戦闘員がいるとかえって邪魔だった。

 

「箒は逃げてろ」

 

「でも、一夏お前は!?」

 

「こいつを食い止める。しばらくしたら、たぶん応援が来るからそれまで俺がっ!」

 

 再び地を蹴った。部分展開のためにISの万能なシステムの恩恵を受けられないのが、非常に辛い。だが、やるしかないのだ。ここは自分がやらなければ、誰もいないのだ。

 閃光のような一太刀が、女を襲った。上段から繰り出される渾身の一撃が、女の硬化した皮膚をえぐり真っ赤な血を噴出させる。血が跳ねて、一夏の顔を濡らした。人を傷つけたという罪の意識はなかった。もうとっくに対峙している女が、人間ではないことぐらい把握していた。理解はしていない。目の前の敵が何なのかはわからない。ただ、この女達は無差別に人を殺そうとする存在だということだけはわかっていた。だから、罪の意識を無理やり抑えつけて一夏は刀を振るっていた。

 正確には意識にそれが浮上してこないのだ。この極限の緊張感の中では、人を傷つける恐怖心よりも死を身近に感じる恐怖の方が圧倒的に優っている。悠長なことを考えていると、こちら側が無事では済まない。

 

「はぁああああああ!」

 

 迫りくる恐怖心を振り払うように、一夏が叫ぶ。

 目の前にいる正体不明の存在――――――――妖刀と呼ばれる者を倒すために。自分を信じてくれた玄兎のためにも、一夏は雪片弐型を振るい続ける。

 

 

 

 ――――――瓦解し始めた狂った世界の歯車が奏でる、消滅までのカウントダウンの中で。




今回は一夏及び鈴の愚痴回でした(汗 なんだかすいません。でも偶にこうやって発散しないとね、身体に悪いから…………。

そしてそして、最後の最後でいきなり戦闘シーンが!?Σ(゚Д゚) なんだか不穏な経緯をですなぁ……。

さて、次回は久しぶりの戦闘回。なるべく早く仕上げたいのですが、質の方も向上させることができるよう努めていきますのでよろしくお願いします。

感想の方もよろしくね(*‘∀‘)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。