空気が澱んでいた。まるで空気が重量を持ったかのように、ずっしりと両肩に圧し掛かってきているようだ。重く、暗い。そんな空気がこの室内には蔓延していた。
その主たる原因はひとりの少女だ。
「負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた」
整備室の端に膝を丸めて座っている箒はよほど先の敗北がショックだったのか、試合が終わってからずっとこの調子だった。時折、「死にたい」「どうせ私なんて」「山に籠ろう」という単語が混じるが、基本的に「負けた」という単語を連呼している。自暴自棄になっているのだろう。あれだけ大口をたたき、セシリアに協力を仰いで、クラスの皆に我儘を言って出場した今大会。その結果がこれなのだから、彼女の心中は穏やかではない。悔しさと恥ずかしさで、身悶える思いだった。
そんな箒を見て、楯無は大きなため息をついた。その顔色はどことなく青ざめている。きっと彼女も心中穏やかではないのだろう。
「この結果はさすがに予想してなかったわ。まさか、あんなところにジョーカーがいるなんて」
「彼女は今回の最大のダークホースでしたから。当然の結果といえば、当然です」
渋面の楯無の言葉に、神皇も苦笑気味に答える。彼女の言いたいこともわからないでもない。何しろ、数日とはいえ国家代表であり玄兎と教師陣を除けば学園最強ともいわれる楯無が指導したのだ。優勝すれば奇跡、そこそこ勝ち上がれば妥当といった程度の実力を、箒に与えることが出来たという自信が楯無にはあった。専用機もちや代表候補生と当たりさえしなければ、勝ち進んでいけるはずだと。
事実、組み合わせ発表の時、出場者の中で専用機もちである簪と鈴音が箒とは違うブロックに振り分けられているを目撃して、思わずガッツポーズを取ったくらいだ。
それだけ箒を徹底的に鍛え上げたつもりだった。時間はいささか足りなかった気もするが、代表候補生以外となら十二分に勝利を勝ち取れる技術は教え込んだ。だから、あとは結果を待つだけだと、そう思っていた。その矢先にこれである。現実は甘くないという、神様からの啓示なのだろうか。そう考えなければ、正直なところ立ち直る気力が起きない。
「これで篠ノ之さんと会長の負けということで、賭けは終わりですかね。やぁ、案外あっさりと決着つきましたね~」
笑顔に少しばかりの皮肉を混ぜてくる神皇に、楯無はさらに深く眉間にしわを刻んだ。
神皇は楯無とよく行動を共にしているが、その実楯無よりも簪の事を大事にしている。主な理由は話せば長くなる類のものだが、要するに初めてできた唯一無二の親友が簪なのだ。神皇としては家族以上に彼女が大切で、ことあるごとに彼女の有利になるように事を運んでいる。今回の一件も、楯無に加担しているように見せかけて案外妨害行為だったり、情報をリークしたりとえぐいことをしていた。親友のためなら、どんな手段だって使う。少々、友情の方向性をはき違えているのが神皇という少女だ。
そのため、今回も楯無が賭けていた箒が負け、万が一に箒が優勝し楯無と玄兎が同室になるという事態が避けられたことが嬉しいのだろう。少なくとも簪の恋敵を排除できたのだから、神皇の目的は達成されたといえる。
「ぐぬぬっ……日向ちゃんさえいなかったらこんなことには……!」
「負け惜しみは、格好悪いですよ?」
「ぐぬぬぬぬッ!?」
未練たらたらの楯無をばっさりと切り捨てる神皇。そのあまりにも辛辣な言葉に、さすがの楯無も言葉に詰まる。因みに箒いまだショックから立ち直っていない。
そんな微妙な空気が流れている整備室に来客があったのは、偶然だったのか必然だったのか。
「あれ、意外と盛り上がっちゃってる? あ、でもちょっと剣呑な雰囲気……でもいいっかな。うん、入っちゃおう」
入り口付近で聞き覚えのある声が聞こえてきた。それもつい先程まで聞いていた声だ。先から反応を返してくれなかった箒も、その声につられて入口の方に視線を向けていた。
入ってきたのは日向紅葉だった。まさかのこのよどんだ空気を作った大本のご登場だった。
「あ、日向さん~。お疲れ様でした」
しかし、楯無や箒の驚きや疑問の意も介していない神皇は、呑気な声で入室してきた彼女にねぎらいの言葉をかけていた。
「いえいえ、私のほうも中々楽しい試合をさせてもったからね。でもまさか、あそこまで追い込まれるとは思わなかったけど」
「それはそうですよ。なんたって、会長が鍛えた教え子ですから。数日とはいえ、そこらの生徒とは大違いですよ」
簪よりとはいえ、やはり楯無のことはたてる神皇だった。
「あ、そうそう。報酬の件は、後ほど……って、本当にあれだけでよかったんですか? 確かに使いようによっては、どんなことだってできそうな気もしますけど」
「いいのいいの。それが私が今回の件を引き受ける条件だったんだから」
なんだか申し訳なさそうな神皇の物言いに、紅葉は気にしている素振りを一切見せず言ってみせた。本心からそう思っているのだろう。表情に一切の曇りがなかった。
だが、そんな二人の会話に楯無はすこしばかり疑問に思う箇所があった。
「あの、ちょっと聞きたいんだけど……さっきから話題に出てる報酬とか、今回の件って、何かな?」
この時点で察しはついていた。だが、確認を取らないことには真実かどうかはわからない。確認を取ったところで、それが真実なのかは証明できないのだが。
部屋の隅で丸まっていた箒も、その疑問は感じていたらしくこちらに耳を傾けていた。
不安な気持ちが胸によぎるなか、楯無は二人からの返答を待った。応答に間はなかった。
「ああ、それはですね。今回の篠ノ之さんとの試合の折、瀧岸さんからお願いされたんですよ。絶対勝ってくださいって」
「お、お願い……?」
「ほら、先ほど話されてた賭け事云々ですよ。生徒会長の支持する篠ノ之さんが勝ったらとか、更識さんが勝ったらどうとか」
「でも、どうしてそれが神皇ちゃんのお願いになるのよ」
「私って、意外と面倒くさがりで……今日も本当は適当に負けちゃおうかなって思ってましたから。そこに念を押された、というだけです」
そこでようやく楯無は合点がいった。
要するに、簪を優勝させるための布石としてまず箒をどうにかしようとした神皇が、その対戦相手で入学試験次席という実力者の紅葉に話をつけた、ということらしい。彼女が他生徒のように真面目な性格だったら必要のない措置だが、面倒くさがりを自称する彼女であるなら一手を打たなければ箒の躍進を手助けするだけだ。そのあたり、ぬかりなく進めていたようだった。
「だからって、本当に勝っちゃうのも勝っちゃう方なんだけど」
「篠ノ之さんも予想以上に強かったですから。私なんて、まぐれで勝てたようなものですよ。時期が二、三か月ぐらいずれてたら私なんてけちょんけちょんでした」
ちらりと箒を伺う彼女の言葉は、明らかな謙遜が混じっている。たとえ、箒が数か月特訓したところで紅葉に勝利するのは難しい。楯無はそう考えていた。彼女の実力は今回の件で、完全に把握したわけではなく、まだその一部分を見ただけだ。それにあの試合には少なからず、紅葉はハンデを背負っていた。その状態で――――箒が予想外の切り札を使用したとはいえ――――勝ちを得たのだから、実力的に紅葉はかなり上位者となるだろう。箒が専用機を手に入れれば話は別だが、現実味のない話だ。
「……謙遜するな。あれは私の全力だった」
ぼそりと呟かれた言葉に、部屋にいた皆一様に驚いた顔を浮かべた。思いがけない一言に、紅葉も楯無も意外そうに目を見開いていた。
「それにお前は、試合開始直後から一切動かなかった。多少のずれは誤差の範囲内としても、それで軽くあしらわれたのならそれは純粋に日向が強く、私が弱かっただけだ」
負け惜しみを口にでもするのかと思っていた神皇は、少しばかり箒を見直した。自分の現状を正しく理解できる冷静さは、持ち合わせていたようである。てっきり先の様子から、恨み言の一つや二つぶつけるかと思っていた。
「それにオルコットが言っていた。お前の使用していた『零桜』とかいう装備。本来ならばもう二つ武装があるそうだな…………メイン武装の大型ガトリングガンが」
「……さすがにばれますか」
そこを見抜かれるとは予想していなかったのか、ばつの悪そうな顔をして紅葉が頭を掻いた。
『零桜』は本来、紅葉が試合で使用した武装のほかにメインとなる大型ガトリングガンが二挺ほど両腕に装備されている。これと両肩のミニガンと合わせて、敵を制圧するのだ。が、紅葉は今回の試合においてこれを意図して装備から外していた。因みに箒が先ほどのネガティブ状態に陥った一因が、試合終了直に知らされたこの衝撃的な事実である。敗北したショックと相まって、心を軽く折られてしまったのだ。
彼女の思惑もある程度ショックが和らいできた今なら、何となくだがわかる気がする。
手加減といえば間違いはない。恐らく、彼女のそういった行動は箒を思いやってのことだ。
紅葉は自身の実力を心得ている。客観的にそれを測ることが出来た。だからこそ、箒と自分の実力差を神皇から聞かされたとき考えたのだろう。それが真剣勝負を望む相手を侮辱する行いだとわかっていても。
彼女の置かれている現状で、紅葉が圧倒的実力を振りかざし箒を手も足も出させず倒せば、それこそ彼女の立場は悪くなる。クラスでも印象が悪くなり、これから先の高校生活に支障をきたす可能性があった。それでは後味が悪いと思ったのかもしれない。なら、せめて自分のような実力者をあと一歩のところまで追い込んだ末、辛くも敗北したというシナリオにすれば彼女への言及もなくなるかもしれないと。
実際、あそこまで派手な試合をやらかし、入学試験次席という実力者を追い込んだのだ。手も足も出ず完敗するよりは、幾分周りの目の冷たさは和らぐだろう。
といっても、ここまでの考察すべてが箒の希望的観測に過ぎないのだが。
「私がまだ実力が足りてなかった。ただそれだけの話だ。情けないことだがな」
昔からそうだった。誰かの背中を追いかけて、その横に並びたくて努力していた。だが、どれだけ努力しても、頑張っても、耐えても。目標にしていた父にも、密かに憧れた姉にも、勝ってその隣に堂々と並び立ちたいと思った一夏にも――――――追いつくことも、その隣に行くことも叶わなかった。
中学の時、剣道の全国大会で優勝した。だが、その時もあまり感慨めいたものはなく、ただ『優勝』したという結果だけが漠然と箒の中に浮かんでいただけだ。
箒が望んでいたのはそんなことではない。強くなろうとしたのは、何も大会で優勝したいからではないのだ。
認められたくて。褒められたくて。その人に相応しい人になりたくて。
箒の大部分を占めている感情はそんなものだ。大層なものではない、もっと俗世的で、他愛もないちっぽけなものだった。
だけど、それでも箒にとっては大切な想いであり、目標である。
そして、今日もまたその願いが破られた。原因は箒の実力不足。なんてことはない、単純な理由である。これ以上になく、単純で笑える理由だ。
自嘲する。またしても、だ。またしても、自分の非力さを、弱さを突き付けられた。
「弱いな……私は」
「そんなことはないですよ」
思わず零れた言葉が、予想だにしてなかった方向から否定された。
声の主は紅葉だった。
紅葉はその顔に真剣さを帯びたまま、もう一度「篠ノ之さんは弱くはないです」と箒の言葉を否定した。
「君は確かに、強くはない。赤神君や生徒会長、その他代表候補生と比べれば素人同然で、まだまだなところも多いです。だけど、それが即ち弱いというわけではないんですよ?」
優しく微笑み、紅葉は箒と視線を合わせた。
「君は強くはない。だけど、弱くもない。その証拠に私をあそこまで追い詰めたんだ。誇っていいよ。正直、私も君があそこまでやるとは思わなかったんだ。見直したんだよ、これでも」
苦笑しながら、紅葉は言った。本当事を言えば、紅葉はあの時箒の事を取るに足らない素人だと思っていた。口だけが尊大で、自信家で、そのくせ実力はない紛い物だと考えていた。なぜこんな人間に自分の姉は興味を持ったのか。わからなかった。
だけど、対峙してみてその考えは少しだけ変わった。彼女の目を見て、その奥に宿っている信念が本物だと、比類なき本物だと理解した。故に興味がわいた。純粋に篠ノ之箒という人物を知りたいと思ったのだ。
そして、戦って、考えが百八十度変わっていた。今はまだ粗削りで原石にもなれていない、紛い物に埋もれた石ころだが、そこに灯る想いは紛うことなき本物である。
強者とは、誰一人として例外なく己の信念を持っている。何があろうとも揺るがない芯がある。決して折れることも、無くなることもない。そういう炎をうちに秘めている者が、真の強者だと紅葉は思っている。
箒はそれを持っている。しかしまだ不確かで、不鮮明な炎だ。そうであるがために強者ではあらず、だが不確かで不鮮明であろうともその炎を持つということは弱者でもない。
故にどちらでもないと紅葉は言う。
「それにね。君が弱いのは当然なんだよ。だって、まだ五月だよ? 入って一カ月しか経ってないんだよ? 代表候補生や私が特別なだけで、君が弱いのは当たり前なんだ。むしろ、君は一カ月でここまで来たんだ。それは凄いことなんだよ、正直なところ驚愕に値するよ」
ちゃっかり自分を特別という辺りが、この少女を侮れない相手と認知させるのだろう。
「だから、そんな卑下しないで。もっと胸を張っていいんだよ。それに、自分が自分を弱いって思ってたらいつまで経っても君は強くはなれないよ。だって、君の願いは強くなることなんでしょ? なら、君がずっと弱いと思い続けてたら、それは一生叶わないじゃん。だったら、いっそのこと『自分は強いんだ!』って思ってた方がいいと思うけどな。そうしてたら、他人の評価は知らないけど、君の中では自分は誰よりも強いことになる。そしたら、おのずと自信もついて、その自信がいざというときには役に立つんだ。強くなるためにまず必要なのは、自分が相手より強いと思うこと。だから、自分は負けない、勝つんだと思うこと。わかった?」
それは母親が自分の子供に言い聞かせるような、優しい言葉だった。
思わず箒も声が詰まった。返答に迷って、徐に首を縦に振る。
それを見て、紅葉も満足そうに頷いた。
「それでいいんだよ、それで。大切なのはこの結果を漠然と前から見るだけじゃなくて、ありとあらゆる方向から見て吟味することなんだ。それが強くなるための、近道だと私は思うんだ」
「……なるほど。それもそうだ」
「だからさ、篠ノ之さんが弱いとか、そんなの全然ないから。安心して、君は努力すればいい。いつか、きっと報われる。それが、今日ではなかっただけだよ」
そう言う彼女表情はにこやかで、その言葉に嘘偽りがあるとは到底思えない相好をしていた。見ているだけで、こちらも笑顔になれるような可愛らしい顔だ。
「…………ふっ。お前には勝負でも、試合でも、そしてこんな他愛もないことでも負けるのだな。完敗だ」
「どうでしょう、強いでしょう。私は」
「ああ、強い。だからこそ、ここで言わせてもらおう。日向紅葉……私はいつか必ずお前に勝つ。負けたままでは、格好がつかないんでな。それに今日の借りも返してやる。だからその時まで、絶対に誰かに負けるな」
「――――――面倒くさいですが、私が焚きつけたんだ。しょうがない、受けて立ちますよ」
突然の箒の宣言に、紅葉が仕方ないなと言いたげな顔を作る。
「お前に勝って、ついで凰も倒す。それが私の目標だ。それまで精々、上から観戦でもしているといい。いつか、絶対そこまで上り詰めてやる」
「では、その時を楽しみにしています。篠ノ之箒さん」
「それで、何がどうなったら宣戦布告になるのかしら。話が脱線したどころじゃないのよ、まったく」
紅葉と箒が奇妙な絆で結ばれかけているところで、楯無が呆れたように嘆息した。神皇と紅葉のつながりについて言及していて、どうやったら紅葉と箒の再戦の誓いが立ってしまうのだろうか。この壮大過ぎる脱線劇に、楯無は悪意を感じずにはいられない。その原因が第三者であった箒にあったとしても、流れが意図的に変えられたという感覚は拭い去ることは出来なかった。
「それで? 結局は貴方はなにをしにここに来たのかしら。今、私すごーく機嫌が悪いんだけども? 主にあなたが原因で」
「八つ当たりってやつですね」
「ええ、そうだけど」
「認めたよこの人!?」
自身の負の感情を隠そうとしない楯無に、紅葉も思わず動揺する。面倒くさそうだと。
「……で?」
「で、と申されても私はなんとも」
「………………はぁ。もう一度言うわね、な・に・を・し・に・き・た・の・か・し・ら!」
「うわぁ、幾ら玄兎さんとの話がなくなったからって不機嫌すぎるでしょう、会長……」
大人げない会話を繰り広げる楯無に、さすがの神皇も引き気味だ。
だが、生憎彼女の不機嫌さは今日に限って頂点だった。恋する乙女の嫉妬は恐ろしいのだ、特に更識楯無という少女場合は。
そんな彼女の態度に観念したように紅葉が口を開いた。恐らく、ここで正直に吐露しておかなければ紅葉がここへ来た本来の目的を達成できなくなってしまうだろうから。
「えーとですね……一応、瀧岸さんとの約束はこの一戦だけでしたので、正直もうこれ以上勝つ理由がないんですよね」
「なるほど、箒ちゃんに勝てば後興味ないと。あ、確か報酬がどうとか言ってたわね」
「ええ、その交換条件さえ満たしてもらえれば、あとどうでもいいので」
あっけらかんと言い放つ紅葉に、楯無は眉をひそめる。このトーナメント、ただの公開試合というわけではない。世界中の企業や国の来賓が、学園に所属する生徒達へのスカウトという意味合いも込められているのだ。ここで良い結果を来賓に見せつけることが出来れば、将来の就職先を見つけることだってできる。ここはそういう場所でもあるのだ。
だが、紅葉はそれを無下にする。彼女ほどの実力があれば、どこかの企業や国家に目が留まるのは必然といってもいい。採用されれば、それ相応のポストが用意されるだろう。それこそ楯無のように国家代表とて、夢ではない。そこまでの実力が、彼女にはある。
ならば、疑問があった。そんな機会を不意にするような面倒くさがりが、やる気になるような交換条件とは何なのか。神皇が提示したということは、恐らく『何らかの情報』であることは間違いない。彼女が持つものの中で、まず間違いなく価値があるのは情報だ。その中に紅葉のお気に召すものがあった。さらに言えば、それは紅葉の基準で就職先を見つけることよりも大事だということになる。
なら、その情報とは一体なんなのだろうか。箒を破り、楯無の野望をとん挫させるほどの情報とは一体なんなのだろうか。
「それは是非とも、聞かせてもらいたいわ…………!」
「え、遠慮します……」
「会長。さすがにそれは踏み込みすぎです」
「ぶぅ。じゃあ、一体なんのためにここへ来たのよ」
もはや直接戦って負けた箒以上に、楯無は紅葉に対して敵対意識を持っている。
頬を膨らませ、さらに渋面を深めていく。
だが、そんな楯無とは対照的に紅葉の相好は明るい。挑戦的な笑みに彩られ、蠱惑的な仕草で指を軽く結ばれた唇に当てられる。
「交渉です。私のためにもなって、生徒会長や篠ノ之さんのためにもなる。とってもハッピーな、交渉をしに来たんですよ」
* * *
試合開始の時間が刻一刻と迫っている。アリーナの観客席から離れたこの廊下は、まるで俗世と隔離された空間のように静けさが満ちていた。
ピットへ向かう途中の廊下を歩きながら、鈴音は次の対戦相手の事を考えていた。
次はいよいよ準決勝だ。ここまで順調に勝ち上がってきた鈴音だったが、この準決勝が一番の山場になると考えている。理由は、相手があの更識簪であるからだ。
「私と同じ専用機もちで、代表候補生……」
セシリアの不出場で、このトーナメントに出場する専用機もちは鈴音も含めて二名だけだった。そのうちの一人が簪というわけだ。
機体は打鉄弐式。第二世代型の量産機である打鉄の後継機であり、防御力を重視した打鉄と比べると機動力に重きを置いている。実用性と効率性を重視した鈴音の『甲龍』は、現時点では高いスペックを有しているが、その武装の特徴故か遠距離タイプとの相性はすこぶる悪い。打鉄弐式は全距離対応型だ。もしも、甲龍の射程圏を見極められれば即刻敗北へと繋がる危険な相手である。
「これに勝てば決勝……これに勝てば決勝……」
心臓が激しく脈を打つ。緊張で手や足が震えてくる。これまで感じたことのない感覚が鈴音を支配し、冷静さを奪い取っていく。
「落ち着いて……まだ、早いよ。次に勝たなくちゃ、一夏との約束は果たされない……優勝しなきゃ」
逸る気持ちを抑え、鈴音は目を瞑る。
その瞼に浮かぶのは母の優しい笑顔だ。そして、その母が「大丈夫」だと語り掛けて来ているような気がした。
「大丈夫。私は大丈夫。だから…………行ってくるね、お母さん」
幻の母親の姿を背に、鈴音はピットへと歩を進めていく。
母と一夏との約束をその胸に秘めながら――――――――鈴音は今大会最大の山場を迎えようとしていた。
* * *
「……ッ! ッ!? はぁはぁ……ッ!?」
「落ち着け簪! とりあえず、深呼吸だ! スースーハ―、スースーハ―」
『玄兎も落ち着いて!? とりあえず、更識さんはゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返して』
簪の緊張が伝播したのか、それを落ち着かせなければいけない玄兎までも混乱の様子を呈していた。ディスプレイ越しでそれを見ていた、ナギが見ていられずツッコミを炸裂させる。いろんな意味で平常運転な三人だが、その落ち着きのなさといったら当事者ではない玄兎とナギのほうが大きくらいで、先程までこの場にいた本音が堪え切れず逃げ出したほどだ。場の空気というか、混乱具合に嫌気がさしたのだろう。もしくは、ツッコミ係のナギまでもがおかしくなって、自分では処理しきれないと思ったのかもしれない。
『とりあえず、更識さん。聞いた限りだと、次が一番の山場だと思うんだけど……そ、その大丈夫?』
深呼吸を繰り返す簪にナギが問う。
「う、うん……。システムも完成したし、ここまで来たし……だ、大丈夫! だと思う」
「イマイチ、心配が吹っ切れない語尾だな」
ここまでは順調だった。初戦こそ緊張でいささか苦戦したが、次の二回戦からは思いのほか好調に勝利を得てきた。危ない場面もなく、上々な内容だった。
しかしながら、その快進撃は代表候補生で専用機もちである簪としては当たり前のものだ。何しろ、そのほかの出場者は素人で操る機体は訓練機なのである。操縦技術も操縦時間も、機体スペックも圧倒的に簪に分がある。そんな状況で敗北するなど、それこそ何らかのトラブルでもない限りあり得ない。紅葉のような一例ならば無きにしも非ずだが、可能性は低いだろう。専用機というアドバンテージはそうそう覆せるものではないのだ。
しかし、そのアドバンテージは相手が専用機も持たず、代表候補生のような経験者でない場合にしか効力を発揮しない。実力、機体スペックが共に同等以上である相手に対する優位性は内に等しいのだ。
だからこそ、簪の緊張のボルテージは最高潮に達していた。箒が敗北した今、楯無との賭けには勝ったも同然だ。そこは気にする必要性はない。
それよりも気にすべき点は、この準決勝の相手である凰鈴音である。彼女こそがこのトーナメントの中における簪の最大の障壁だ。彼女を倒さなければ、簪の優勝はありえない。むしろ、この準決勝こそが決勝戦というべき熾烈な戦いになるだろう。専用機同士、代表候補生同士の試合だ。これまでのように一筋縄ではいかない。必ず苦戦する場面が出てくる。そうなったとき、いかに冷静さを保っていられるかが勝利の鍵だと簪は思っていた。
『玄兎は依頼の関係上、凰さんも応援しなきゃいけないんじゃなかったけ?』
「まぁな。あいつが優勝しないと、例の賭けが成立しないし。でも、そうなると今度は簪が……いや、でもそれって俺と同室になるってやつだし、いいのか……これ?」
小言で葛藤する玄兎に失笑を覚えながらも、ナギは簪へとディスプレイ越しに向き直った。
『更識さんのISはとても優秀な子だよ。更識さんなら絶対に使いこなせるし、絶対に勝てる。相手がどんなのかは知らないけど、この篠ノ之束の一番弟子であるナギちゃんのお墨付きだから、存分にやっちゃってきてよ』
「……っ。はい、が、頑張ります!」
『あと、玄兎は貧乳好きだから。頑張ってね』
「――――――ッ!?」
「おい、てめえ! 何、人の性癖ばらしてんだ!?」
余計なナギの一言に、玄兎が勢いよく噛みつく。しかし、彼は気づいていない。彼女の言葉に反応を示したその発言そのものが、彼女の発言内容を肯定しているという事実に。
幸いだったのはこの場に神皇がいなかったことだろう。彼女に聞かれていた場合、今後の悪戯のネタに使用されかねない。危ないところだった。
そして、この発言で簪の中にはある一つの希望が芽生えていた。
(もしかして、私にも勝機が……ある?)
簪の胸は決して大きくはない。楯無のそれと比べると貧相で見劣りする代物だ。これまでの簪のコンプレックスでもあった。
だが、玄兎においてはそれが逆に良いという。これはなんたる僥倖か。今まだ、姉のことしか目に映っていない玄兎だが、もし楯無との賭けに勝てばもれなく彼と同室になる権利が与えられる。チャンスは十二分にあるということだ。諦めるには、まだ早い。神様がそう言っている気がした。
「私が頑張る。絶対に勝って…………お姉ちゃんに勝ってみせる」
『その意気だよ』
簪の双眸が力強く開かれる。それを見て、ナギも自然と頬を緩ませた。ほんの数時間程度の付き合いだが、ナギは簪を見ていると妹のように思えて何だかこの光景が微笑ましく見えるのだ。故郷の妹達のことが思いだされ、その姿が簪と重なっていく。
そして、試合の開始五分前を告げる放送がアリーナに流れた。
「……行ってくる」
「ああ、頑張ってこい!」
『いってらっしゃい!』
二人の言葉を背に、簪は戦場へと赴いていく。
激戦の火蓋は、もう間もなく切って落とされる。