「ということで、玄兎にはアリサちゃんとデートに行ってもらいます」
「はぁ?」
思わず口に運ぼうとしていた朝食のパンを落としそうになり、慌ててそれを掴み直す。落とさなかったことにホッとしながらも、玄兎は右隣に座っているポニーテールの少女に目を向けた。
「すまない、今の話をどう解釈したらそうなるんだ?」
そう言いながら、一口パンをかじる。焼きたてのサクサクとした触感を噛みしめながら、冷たい牛乳で流し込んだ。
「よく噛んで食べないと体に悪いよ?」
「死なないから大丈夫だ」
そういう問題ではないような気がするが、これはいつものことだ一々気にしては身がもたない。少女はため息を漏らしそうになる口に無理やりパンを押し込め、何十回も噛んだ後に飲み込んだ。
「デートって言っても、ただ買い出しに行ってもらうだけだけど」
「だったら、江波にでも行ってもらえばいいじゃねえか。なんで、俺が……」
心底面倒くさそうな表情でパンをかじる。
「いいじゃない。たまには玄兎とアリサちゃんの二人で行っても」
「むぅ……」
黙り込んでしまった。恐らく、言い訳を考えているのだろう。俯きながら何かブツブツと念仏のように呟いている彼を見て、今度こそため息が漏れた。
何故、そこまで頑なに買い物に行くことを断るのか。今日が日曜日だからなのか、それとも別の要因なのかはポニーテールの少女――――
瑛梨がカップに注がれている砂糖たっぷりのコーヒーを飲み干すとの同時に今まで俯いていた玄兎がおもむろに顔を上げた。
「どうしてもか?」
「江波さんは束さんとどこかに出かけるって言ってたよ。また、怪しい機械でも買いにいったんじゃないかな?」
苦笑いを浮かべ、空になったカップを机に置く。
「私となおちゃんは論外。ということで、残るのは玄兎だけなんだよね」
「彼奴一人で行かせるのもなんか怖いな……」
「かといって、玄兎一人だと迷子になる危険性大だしねぇ」
子供扱いされたことに対して不満なのか玄兎はしかめっ面だった。
玄兎は他に類を見ないほどの方向音痴だ。何かを覚えることが苦手ということと、地図の見方を教わらなかったことも相まって彼は一度来た道ですら誰かと一緒にいなければ忘れてしまう。五年近く住んでいたドイツの街ですら、道を覚えるのにかなりの年数を必要とした。これは一種の病気だ。一人だと何も覚えられない、という病気。
食べ終わった朝食を片づけようと、玄兎が席を立った。
「あ……」
瑛梨の声が少しだけ漏れた。それだけで玄兎は彼女が何を言おうとしたのか、察することができた。
自分の空になった皿の上に彼女が食べ終わった後の皿を重ね、それを台所へと運ぶ。
「……ごめんね」
戻るなり、そんなことを言われた。
「慣れた。それに俺が運ぶ度に謝罪するの、やめろ。気持ち悪い」
「ハッキリ言うね」
「そりゃそうだろ。今日だけでお前に謝罪されたの、三回目だぜ? 二回は皿を運んだときに、一回はお前をここに連れてきたときだ」
「よく覚えてるね」
「道意外は案外覚えるの得意なんだよ。特に相手の弱みとか」
「なんか、見方によっては最低な男に見えるよ……」
引き気味そう言う瑛梨を尻目に玄兎は部屋の隅に置いてある車椅子を瑛梨の横まで移動させた。
「ホント、何から何まで――――」
「はーい、すとっぷ! 謝罪禁止!」
顔の前でバツを作り、瑛梨の癖になりつつある謝罪をすぐにやめさせる。彼女が謝り始めるときりがないので、喋りだす前に止める方がこの場合正しい判断だ。
苦笑しながら瑛梨はぎこちない動きで席を立ち、すぐ横に置いてある車椅子に腰かけた。
「動きづらそうだな」
「うん。普通の義足と比べて、これは動きづらいんだよね。見た目はほとんど本物と変わらないんだけど」
そう言う瑛梨の表情は笑顔だった。
彼女の両脚、正確には太腿の中間あたりから下は義足だ。二年前、彼女はとある事件で両脚を失い、それ以来車椅子の生活を送ってきたという経歴を持っている。玄兎や束と行動を共にするようになってからは、ISを利用した義足を用いているのだが、この義足とんでもなく動きづらいらしい。外見は普通の脚と遜色がないように見えるが、実際のところ義足を使い始めた頃は立つことすらままならなかったぐらいだ。
これ以上、ここにいる理由もないので玄兎は瑛梨に背を向け部屋を出ようと出口に向かって歩き始めた。
「じゃあ、俺は部屋に戻るぞ。そういえば、何時から出掛けるのか知ってる?」
後ろを向いたまま問うと、瑛梨が少しだけ唸った後「知らない」とだけ言ったのを聞くと、玄兎は何も言わずそのまま部屋を後にした。
* * *
IS学園は全寮制である。その方が世界各国から入学してくる生徒の安全を守りやすいからだ、もちろん理由がそれだけというわけではないが、ここでは割愛しておく。
全寮制であるがため、生徒達が学園の外へ行く機会はかなり限られており、その行動範囲も限られている。花の十代としては少々物足りないだろう。とはいえ、勉学や仕事のことを僅かな時間とはいえ忘れることのできるこの外出は生徒はもちろん教師にとっても、唯一のやすらぎと言っても過言ではない。
「といっても、私たちは遊びに来たわけじゃないですからね?」
「…………ぶぅー」
神皇(かみみ)がそう言うと楯無は唇を尖らせた。不満なんですか、と神皇は心の中で言ってみる。その問いかけは彼女にはもちろん聞こえない、恐らく言ってみたところで無駄だろう。
二人が今いるのはIS学園からほど近い場所にある大型ショッピングモールだ。この近辺では最大級の規模を誇るここは休日ともなれば、買い物客でごった返す。ここではちょっとした小物から冷蔵庫や洗濯機などの家電製品に至るまでのありとあらゆる商品を手に入れることができ、IS学園生徒も大半がここを利用している。
だが、今回楯無達がここを訪れたのはショッピングを楽しむためではない。
「それで……例の《切り裂き魔》が出たっていう場所はどこなの?」
別称、ジャック・ザ・リッパー。最近、巷を騒がせている連続殺傷事件の犯人のことをそう呼ぶ。
「ここです」
少しばかり歩くとガードテープが張り巡らされている場所があった。テレビドラマではよく見る光景だが、実際にこうやって見ると不思議な緊張感を感じる。二人がほぼ同時に息を呑んだ。視界の先にあるのは、冷たいコンクリートの上に広がる血溜まりの跡。事件から既に二日と経過しているにも関わらず、それはくっきりと楯無達の目に焼き付いた。ここで行われたであろう所業を思うと、普通の女性だったら吐き気の一つは催すかもしれない。
「酷いわね」
「ええ、事件直後はそれもう酷い惨状だったみたいです。被害者の女性なんか血まみれで、一目では誰だか判別できなかったとか」
「想像もしたくないわよね、そんな場面」
少しだけその場面を想像してしまった楯無が、苦虫を噛み潰したような表情で言うと神皇も賛同するように首を縦に振った。
「それにしても、すごい量の血ね。人一人からホントにこんなに出るモノなの?」
血溜まりの跡を見ながら、少し後ろにいる神皇《かみみ》に訊いた。
「何せ、血管は人間の全身にありますからね。その血が一滴残らず外に出たら、あんな風になるんじゃないですか?」
血溜まりをもう一度見る。あまり考えたくないが、血溜まりの大きさから想定するに相当量の出血だったのだろう、一体人間のどこにあれほどの血液があるのか。
神皇の発言はあながち間違いではない。そう思えてしまうほど、目の前に広がるこの光景は常軌を逸していた。
そこまでで、遠くから車の音が近づいてくるのが分かった。恐らく、警察だろう。このままこの場所に留まっておけば何を言われるか分かったものではない、二人は振り返り歩き出した。
少し歩いた場所に公園があり、中を見てみると休憩するのに良さそうなベンチがあったので、二人は腰かけた。
不意に楯無が口を開いた。
「そういえば、似たような事件が前にもなかった?」
「えっと……《吸血鬼事件》でしたっけ?」
吸血鬼事件。数年前、秋葉原の駅構内である奇妙な男女五人の遺体が発見された。血がなかったのだ。発見された遺体からは本来人間の体内に存在するはずの血液という血液がまるで搾り取られたかのごとく、忽然と消失していた。発見された五人の遺体全てがだ。
「あれはあれで思い出したくないんですけどね、当事者なだけに」
神皇が苦笑した。楯無もその時のことを思い出していたのか、顔が引き攣っている。
この《吸血鬼事件》の顛末は以外にも呆気ないものだった。
事件発生から、約二週間後に犯人が逮捕されたのだ。犯人の名は大蔵という小柄な男性だったと、楯無は記憶している。彼は自らを『ペーター・キュルテン、フリッツ・ハールマン、ジョン・ヘイグに次ぐ吸血鬼である』と呼び、インターネット上の掲示板で犯行を匂わす書き込みを行っていたらしい。皮肉にもそれが彼を逮捕するきっかけになったのだが。
過去に吸血鬼と呼ばれた犯罪者を崇め、その犯罪方法を調べるなど彼は《吸血鬼》という単語に憧れというべき感情を抱いていたらしい。
彼の家から押収されたものの殆どが吸血鬼に関する物だったらしいですよ、と神皇がいつの間に取り出していたのか、メモ帳らしきものを見ながら言った。
「でも、その大蔵って男、すぐ自殺したんじゃなかったけ?」
楯無が首をかしげながらそう訊ねた。花の女子高生二人が話すような内容ではないような気もしたが、それはこの際気付かなかったことにした。
メモ帳をぱらぱらとめくりながら、神皇は少しだけ頷いた。
「はい。確か逮捕されてから二週間後、下敷きで首を切って自殺したらしいです」
「下敷きで……」
ごくりと唾を呑み込む音が聞えた。そんな物で人が死ぬのだろうか。学生である楯無には身近な物だ、これからは使うたびこのことを思い出すかもしれない。そんなことを考えると、背筋がぞくりとした。
「ということで、お昼何にします?」
「話題の転換が唐突すぎない!?」
思わずツッコミを入れてしまう。確かに、女子高生二人が真昼間に話す内容ではないとは楯無も思っていた。あえて口には出さなかったが、せっかくの休日に殺人事件やその犯人の話をするのは、いささか時間の無駄というものだろう。というものの、神皇を誘ってあの現場に行こうと言ったのも、あの話題を振ったのも楯無なので自業自得と言われれば、それまでである。
時間を無駄に浪費した、という考えを振り払うように楯無は今日の昼食について考え始めた。飲食店といっても、この辺りだけでも優に十を超える。悩みどころだ。
不意に神皇が「あっ」と声を漏らした。
「あそこに行きましょ、五反田食堂」
「いいけど……何か企んでない?」
嫌な予感が脳裏をよぎった。神皇の表情が悪意に満ちているように見えたからだ。
大概、彼女が考えることは碌なことではない。昨今で楯無の記憶に一番残っているのは、部屋にある時計という時計全ての針を一時間早く進めておく、という実にシンプルで迷惑極まりないものだった。彼女がするのは悪戯ともいえるし、嫌がらせとも言えるとても曖昧なものだが、楯無は希望的観測も含めて前者だと思っている。飽くまでも希望的観測を含めた、だが。
訝しむような視線を向ける楯無を尻目に、神皇が立ち上がった。
「そうと決まれば、早速行きましょうか!」
待ちきれないと言った面持ちで急かす。相当お腹が減っているようだ。
時間を確認するとまだ正午を過ぎて、少ししか経っておらず昼食をとるには最適な時間だろう。
座ってからまだあまり経ってないベンチから腰を上げ、背伸びする。
「行くって言っても、私……店までの道知らないんだけど?」
「そこは任せておいてください。私がばっちりとエスコートしますから」
「逆に心配だわ」
楯無の言葉はどうやら神皇には聞こえなかったようで、すでに神皇は公園の出口まで走り出してしまっている。
肩を竦め、楯無も後に続くように歩き出した。
公園を出て数分も歩くとショッピングモールのごった返しが嘘のように、人通りが疎らになる。この辺りは住宅街だということもあるかもしれないが、ショッピングモールの賑わいを見た後ではどこか寂しい。物足りない、とでもいうべきなのか。どこか足りない気がするのだ、ここは。
「どうしたんですか、会長。あまり元気がないようですけど?」
幾分前を歩いていたはずの神皇がいつの間にか、隣で心配そうに顔を覗き込んできた。どうやら、色々と考え事をしていたせいか思案顔になっていたようだ。
楯無が作り笑いを浮かべ、大丈夫だから、と告げると神皇は訝しむように眉間にしわを寄せたがすぐに肩を竦め――――そうですか――――とだけ言った。その時の彼女がどんな顔をしていたのか、背後にいた楯無には分からない。ただ、これだけは言える。
「ちょっと、置いていかないでよ! お姉さん、道分からないんだってば!」
気付くと、いつの間にか神皇との距離は随分と離れてしまっていた。つい数十秒前まで、自分の隣にいたはずなのに、今では百メートル以上離れてしまっている。
楯無は目的地である五反田食堂までへの道程を知らないのだ、置いて行かれては困る。
慌てて、神皇の後を追いかけようとした時、楯無は自分の視界にある奇妙な人影映り込んでいるのに気付いた。シルクハットと燕尾服に身を包んだ、古典的なヨーロッパ貴族を思わせる恰好をした男性。その人物が神皇のすぐ後ろにひっそりと立っていた。
強烈な違和感を感じた。男の恰好その物にもそれは感じたのだが、それ以上に彼が放つ雰囲気があまりにもこの場に不釣り合いで、目を引く。閑静な住宅街である、この場所ではその存在そのものが異質であるかのようだ。
男はゆっくりと歩き、背を向けている神皇との距離をどんどんと縮めていく。
……お姉さんが思うに、ちょっと危ないかも?
確信はない。根拠もない。ただ、危ないと直感が告げているだけ。
「あ……」
男が神皇の傍を何事もなく通り過ぎて行く。心配は杞憂だったか、と一瞬だけ安堵したとき神皇の身体がぐらりと揺れた。
「――――ッ!」
楯無は彼女に何かしらの異変が起こったのだと判断し、駆け寄った。神皇《かみみ》は力なくその場に倒れ込み、彼女の鮮血がゆっくりと周りに広がっている。
ねちゃり、と靴の裏が嫌な音をたてた。鉄臭い血の匂いに思わず顔を顰めてしまう。
「神皇ちゃん、大丈夫!?」
うつぶせに倒れている神皇は楯無のその問いに、小さくかぶりを振った。
「そ、そうよね。こんなに血が出てるんだし、大丈夫なわけ……」
「そう……ですよ。というか、血が大量になくなったせいで…………貧血起こしてるんですよね、今。だから、結構気分悪いというか……普通に刺された場所が…………痛い、です」
「…………大丈夫そうね」
「ちょ、ちょ……っと!?」
そんな抗議の声も虚しく、楯無は彼女を治療しなくても大丈夫だと判断した。常人ならば、即決で救急車を呼ぶところだが、生憎この二人にはその常識は通じない――――決して、常識がないわけではないのだが。
楯無は未だ抗議を続けようとしている神皇から、視線を別の場所へと移した。
「いた……!」
神皇を刺したと思われる男の後ろ姿を捉えた。目視で確認する限り、男との距離は大して離れていない。今からでも十分追える距離だ。
それを確認して、楯無は苦しそうに腹部を抑えている神皇に視線を落とした。
「神皇ちゃんはここにいて。お姉さんはあの男を追いかけてくるから」
「駄目……ですよ。無茶……」
「何言ってるのよ。私は生徒会長で、生徒会長は犯罪は無視できないの。みすみすあれを逃がす道理はないの」
「そんな、無茶苦茶な……」
うつ伏せのまま、神皇が呆れていた。
IS学園生徒会長は確かに普通の生徒会長ではない。生徒の中でも最強の実力を有している者だけがなることを許されている、一言でいえば「学園最強」の地位である。そして、それに加え楯無はロシアの国家代表であり、対ISの戦闘でも、対人戦闘でも、その実力は高い。
だが、今回はそういう問題ではないのだ。楯無もそれは重々承知している。
これは、自分が関わるべきことではないと自覚している。
「大丈夫。貴方の仇は私がとるから」
「ちょっと、勝手に……何言ってるんで……すか!」
そういう話ではない。彼女は根本的に間違っている、そう伝えたいが血を大量に失った今の神皇には、朦朧とする意識を保つのが精一杯で、うまく説得することができない。
神皇に背を向け、楯無は走り出す。男との距離はまだそう離れてはいない。楯無ならば追いつくのは容易だろう。
怪我人を放置したまま、走り去っていく楯無に神皇がかすれ声で叫んだ声は届かなかった。
――――――彼奴は人間なんかじゃない!
* * *
「ちょっと、待ちなさい!」
楯無が叫ぶも男は止まらず、街中を疾駆する。その速さはもはや人とは思えないほど、速い。
「最初はゆっくり歩いているだけだったのに! なんで、今はあんなに速いのよっ!」
一人で愚痴を飛ばしてみるも、男が速度を緩めるはずもなく、徐々にひらいていく男との距離に焦燥感だけが積もっていく。
今はまだ、辺りに人影は見受けられないのである程度離れたところで姿を見失うことはないが、これが人通りの多い場所に入られたらそれも困難になる。視界に捉えれている今のうちに、どうにかしておきたい。
燕尾服姿の男がちらりとこちらを横目で覗き見た。楯無との距離を確認しているのだろう、男の駆ける速度が少しばかり落ちる。
「ちょっと、反則だけど……!」
絶好の好機だった。男が減速するそのタイミングを見計らったかのように、楯無が加速した。ISを展開したことによる反則的な超加速。
今まで開いていた男の距離が一気に詰まる。遠くにあった男の背が今、手を伸ばせば届くところまで近づいていた。
そのまま男を追い抜き、前へと出る。
(そして……通せんぼ!)
男の行く手を塞ぐように楯無が立ちはだかる。
「ざーねん。お姉さんからは逃げられないわよ?」
と、そこまで言ったとき楯無はあることに気付いた。
「あ、貴方から見たら私お姉さんじゃないわよね。どう見ても貴方年上だし……。じゃあ…………、妹さんからは逃げられないわよ! なんちゃって、あぁ!」
思わず声をあげ、驚いた。
男がこれ以上先に進めないように行く手を塞いでいたのだが、いつもの癖で余計なことを口走っていた間に、男が楯無の上を軽々と飛び越えていった。その跳躍は普通の人間とは比べ物にならないほど高く、常人ならば着地しただけで足が折れるだろう。
男は楯無の方を見向きもせず、そのまま駆けていく。
「そ、そんなのあり!?」
卑怯者、と叫びながら振り向き、再び男を追おうと態勢を前方に倒した。再び、加速。離れされた男との差が、一気に縮まっていく。
と、そこで男が急に横に跳ねた。速度を落とさず、そのまま建物の壁に飛びつく。そして、間髪入れず反対側の建物に飛びついた。
「――――っ!」
男の手に光が生じた。それを楯無が視認したのと、ほぼ同時に視界中央を穿つように鈍く光る短刀が、飛び込んできた。
回避行動は間に合わない。楯無は首だけ微かに横へと傾けた。短刀が楯無の顔を掠めるように、後方へ飛び去る。
(しまった……!)
楯無が一瞬だけ、短刀に気を取られている間、男が先までの進行方向とは逆、楯無の後方へと移動していた。
そして、その先には今しがた現れたであろう人影がある。だが、その場所は男より少し先を進む短刀の通過地点だ。警鐘を鳴らす暇はなかった。楯無が振り返った時には、陽光を受け光る短刀がその人影を穿つ直前だったのだから。
* * *
「肉まんか……」
唸る。買うか、買うまいか。彼にとっては悩みどころだった。
お昼前のこの時間、丁度小腹がすく時間であるが、今食べてしまえば昼食に少なからず影響を及ぼすのではないだろうか。そんな心配が脳裏を過るが、彼にとってそれは些細なことで、どうでもいい。お腹が減れば、食う。それは自然の摂理で、生物には抗えぬことなのだ。
そう、自分に言い聞かせ、肉まんを一つ注文した。
「はいよ。百円」
ポケットをまさぐり、小銭を一つレジへと置く。それを確認し、女店主はまだ湯気が立つ肉まんをレジ横の商品棚から取り出した。
余談だが、最近この辺りで商品を受け取った直後、金を払わず店から逃げるという手口の窃盗が横行しているという。手口としては単純であり、なおかつ店員に顔をものの見事に見られているので、犯人を探し出すのは容易らしいのだが。その所為なのか、この店主も先程から警戒心を表情に出したままだ。
客の前では笑顔でいろよ、と心の中で呟くが口には出さない。こちら側が何か迷惑を被ったわけではないのだ、それを言うのは失礼というものだろう。
肉まんを受け取り、外へと出た。三月末のこの時期にしては少し肌寒い風が髪を靡かせる。
近頃、世界中の天候が不安定という情報を各メディアが報じている。例を挙げるとするならば、昨年の夏に季節外れの大雪が日本各地で観測された『夏季豪雪』や赤道付近で気温が氷点下を下回った異常気象などが有名だ。科学者曰く、地球温暖化や太陽活動の異常が原因ではないかとされている。
「地球滅亡するかもなぁ。あ、だったら早く肉まん食わねぇと」
彼にとってそんなことは、食うことの二の次なのだ。もし明日に地球が滅びると分かっても、彼は食事を所望するだろう。
レジ袋から肉まんを取り出す。出来立てなのか、触ると火傷しそうに熱く、思わず手から落とすところだった。
「あっちぃな、おい。どんだけ熱々なんだよ」
いただきます、と一人で――――今は両手が塞がっているので心の中で――――合掌し、その熱々の肉まんを頬張ろうと口を大きく開けた。
「…………あぁ、あぁああ!」
一瞬だった。どこからともなく飛来した短刀が湯気が立つ肉まんを穿つのは。
中身が飛び散り、地面に落ちた。今の今まで手の中にあった肉まんは、今や見る影もない。
「俺の肉まんが……! 犯人は彼奴か」
短刀が過ぎ去ってから数秒遅れで、少しおかしな恰好をした男が目の前を通り過ぎて行った。恐らく、その男が犯人だろう。そう目星をつけた。
「殴ってやる。彼奴もこの肉まんみたいに木端微塵にしてやる!」
そうと決まれば行動が早いのが彼の――――もとい、玄兎の――――いいところだ。
「待てや! この変態野郎がぁっ!」
メインヒロインが活躍……したのか? し、しましたよね!?
さてさて、次回からは本格的に事件が動き出します。はい、次回からです……。
今回のお話で、楯無が神皇を置いて行ったのにはちゃんと理由があります。決して、見捨てたわけじゃありませんよ?