IS~インフィニット・ストラトス~死神の黒兎   作:曾良

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第三十六話 英雄《ヒーロー》

 ただひたすらに廊下を駆けていく。行く当てはなかった。ただ、無機質な床を蹴り、目指す場所があるわけでもなく箒は廊下を疾走していた。

 感情の赴くままあの場所を飛び出してしまったが、はてあのとき自分はどうするつもりだったのか。箒はそう自分の胸に問いかけるも、返ってくるのは空虚な間だけ。

 誰も答えられるわけがない。何しろ当人の箒にすら皆目見当もつかいのだ。

 いや、恐らくは答えなどないのだろう。

 あれはある種の衝動のようなものだ。形容し難い感情の波に襲われた、箒の咄嗟の行動であった。

 箒にとって、織斑一夏はヒーローのような存在だった。

 格好良くて。

 強くて。

 こんな自分を守ってくれて。

 だから、憧れた。その隣に胸を張って並び立ちたかった。

 

 あの時――――あの暴走した無人機に一夏が翻弄されたていた時、箒の胸には微かな不安があった。

 

 それを自覚しないまま、彼が壁に叩きつけられ動かなくなったのを見て、箒は全身が粟立ったような錯覚に陥り、そして理解した。

 怖かったのだ。

 自分の中の憧れていた男が負けるのが、たまらなく怖かったのである。

 それはどうしようもなく自己的で、身勝手な感情だ。

 どんなに強い英雄であろうと、英傑であろうと負けるときは負けるし、死ぬときはあっさりと死ぬ。

 それに一夏はISに関しては全くの素人。あの楯無ですら苦戦を強いられる化け物を相手に、一夏が負けるのはむしろ当然なのだ。

 なのに。そう理解しているにもかかわらず、箒はそれを許容できなかった。

 それは途轍もなく傲慢で、自分勝手な感情だ。ただ他人に自分の考えや願いを押しつけているだけの、現実逃避にしか過ぎない。

 

 しかし――――それでも箒にとって彼は、強くてどんな奴にも負けなくい、無敵のヒーロなのだ。

 いつまでも自分の中にあり続ける憧れであり、目指す場所であり、道標であるのだ。

 それだけは変えることもできないし、捨てることもできない。

 だからこそ、箒は目背け、逃げた。

 彼が負ける姿など見たくはなかった。

 立ち上がれない姿なんて見たくなかった。

 箒にとっての彼は、いつまでも憧れの英雄(ヒーロー)でいてほしかった。

 

「私は結局、何も変われていない、強くなんてなれてはいないッ。過去にしがみついて、今もこうして無様に逃げ出して……ッ!」

 

 足が止まる。全速力で走り続けていたことで息をも絶え絶えになっていた。肩が何度も上下し、浅い呼吸を繰り返す。

 そうやって落ち着いた頃には箒の思考にも冷静さが戻りつつあった。

 しかしながら、冷静を取り戻したとはいえ先ほど箒が感じたことに一切の間違いもなければ、嘘もない。すべて事実であり、箒が抱いていた一夏の憧憬である。

 あの場から逃げ出してしまったことも、それが箒の自分勝手な考えからくるものだということも。

 あれが篠ノ之箒という少女の本質であり、胸の内に秘めてきた想いなのである。

 今まで見ないように目を逸らしてきたそれを今はっきりと自覚してしまった。

 

「私は……嫌な奴だな」

 

 そんな自分が許せない。これだけ身勝手な想いを抱き、あろうことかそれを他人に押しつけようとしている。そしていざそれが崩れようとすると、怖くなってその現実から逃げ出してしまう、そんな自分が箒は許せなかった。

 

 そんな自己嫌悪に箒が駆られていると、不意に後ろの方から箒呼ぶ声があった。

 

「ちょ、篠ノ之さん速すぎだよ。さすがは剣道少女、ちょっと、休憩しよう」

 

「そう、だね。私もちょっと疲れた~」

 

 心底疲れたような表情で肩を揺らしているのは、先程箒が置いて行ってしまった紅葉であった。その傍らには言葉の割にはさほどの疲労も感じていないような面持ちの本音もいる。

 

 その二人を見て、箒は驚くように目を見開いた。

 

「お前ら、なんで……」

 

「それはこっちの台詞なんですよ?」

 

「箒ちゃん、いきなり走って言っちゃうんだもんねー。びっくりしたよ~」

 

「それに今はこの場所も危険なんです。そんなところで篠ノ之さんを一人にさせておくのは、些か心配でしたので」

 

 応急処置を施された腕を庇いながら、紅葉は大仰に手を広げ肩をすくめた。芝居がかった仕草だが彼女の言っていることに嘘はないだろう。この建物が現在如何に危険な状況にあるかは箒も理解している。下手に動き回って、崩れた瓦礫の下敷きにでもなったときは目も当てられない。前にいた場所が絶対安全という保障はないが、後々のことを考えるとやはり全員が揃っている方が何かと効率がよいのだ。

 箒は紅葉の言葉に申し訳なさそうに顔を伏せた。

 

「すまない。私のせいで、とんだ迷惑を……」

 

「いいっていいって。これぐらいなんてことないよ」

 

「来る途中、凄い痛そうだったけどね~、もみじー」

 

「……ッ」

 

「布仏さん、そんなこと言っちゃっ! ほ、ほら君の心情は完全にとはいかなくとも理解は出来るからね! あれは仕方ないことだよ!」

 

 本音のストレートな言葉に箒が動揺を見せ、紅葉が慌ててフォローに回る。

 

「……君は織斑君が負ける姿を見たくなかったんでしょう? 諦めて、立ち上がれなくなる姿を見たくなかった……違う?」

 

 彼女の優しげな声音に箒はしばらく沈黙を続けてから、こくりと頷いた。

 

「なら、しょうがないです。人は往々にしてそういうものなんですから、誰だって好きな人の情けない姿は見たくはありません」

 

「……だが、だからといってそれから目を逸らしていいというわけではないだろう。好きであるなら、なおさらだ。それを許容できる器がなければ、結局その想いもその程度だったということだ……私のようにな」

 

 自嘲するように箒は言った。「そんなことは……」と紅葉が言葉を重ねようとして、箒がそれを遮った。

 

「私は、弱いんだ。傲慢で、我儘で、臆病で。勝手に憧れて、そのくせその理想を押しつけようとして……あまつさえその理想が崩されようとしたら一目散に逃げ出した。一夏にだって負けることぐらい、諦めるしかないときだってあるだろうに――――私はそれを許せなかった。認めたく……なかったッ」

 

「篠ノ之さん……」

 

 勇気がなかった。過去の憧憬が数年という時を経た今、ただの幻想でしかなくなったことが箒には受け入れることが出来なかったのだ。

 一夏と別れてから、彼という存在は箒にとって憧れというもの以上に生きる意味でもあった。彼に認めてもらいたい、いつか再開する日が来た時に胸を張って笑顔でその隣に並んでいたい。その思いだけが、箒を剣道へと打ち込ませる原動力となっていた。

 しかし、心のどこかではとっくに気づいていたのかもしれない。

 次に再開するとき、一夏は箒の憧憬にあるかつての彼ではなくなっているであろうことに。自分の知らない織斑一夏という存在になっていることに。気づいていて、目を逸らし続けていたのではないのだろうか。

 恐らく、怖かったのだ。

 それはまるでかつての自分の憧れた一夏を否定されたようで――――かつての自分自身を否定されたようであったから。

 今ならわかる。クラス代表決定戦の時、一夏のコーチを申し出たのはきっと取り戻したかったのだ。あの時の一夏を、自身の憧憬であった織斑一夏というヒーローを取り戻したかった。

 そして、何より箒はそれによって肯定したかったのだろう。かつて彼に憧れた自分を、かつての想いを、そして――――篠ノ之箒が好きになった過去の織斑一夏ではなく、織斑一夏という今を生きる一人の少年であるということを。

 

「う~ん? 箒ちゃんが何だかすごく真剣なことを言っているけどー、私にはよくわかんないよー」

 

 そんな箒の耳朶を打ったのは、場違いに間延びした声で疑問を投げる本音の声だった。

 

「結局、箒ちゃんはおりむーに負けてほしくないんだよね? なら、応援してあげよーよ。負けるなー、頑張れー、諦めるなーって。そしたらおりむーも元気出てるかもしれないよー?」

 

「そ、そうかもしれませんが……」

 

 本音ののんびりとした主張に紅葉も思わず苦笑いを浮かべる。

 

「それにねー、箒ちゃんが何に悩んでるのかはあまりよく分からなかったけど……要するに箒ちゃんはおりむーのことが大好きで、好きで好きでたまらないってことだよねー」

 

「そ、そこまでは言ってないっ!」

 

 誇張表現で箒の発言を過大解釈させようとする本音にさすがの箒も言葉を挟んだ。

 

「私はただ……自分に嫌気がさしたのだ。こんな自分のことしか考えていないよう奴が、誰かをす、す、好きになる資格など……ッ!」

 

「でもでもー、自分のことしか考えていないのなら私だってそうだよー。いっつも、会長たちがお仕事している横でお菓子とかケーキ食べてるしー。面倒でいつも仕事をやらなくて、その度にお姉ちゃんから怒られるし、簪ちゃんからも呆れられるときもあるよー?」

 

「それはいくらなんでも、君は自堕落すぎるような気もするよ」

 

「でもでも。私はくろむーのこと大好きだよ?」

 

「は?」

 

「へ?」

 

 思ってもみなかったタイミングでの、予想外の人物の名が飛び出してきた。おかげで二人は一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。

 

「勿論、お姉ちゃんも、会長も、簪ちゃんも、箒ちゃんも、おりむーも、クラスの皆も全員大好きだよ?」 自分勝手な私だってー、こんなにいっぱい好きな人がいるのに箒ちゃんだけはそれが駄目だっていうのは、おかしよー、絶対」

 

 だからだから、と本音は続ける。

 

「箒ちゃんは心配し過ぎなんだよー! 箒ちゃんに応援してもらった、おりむーは絶対に元気百倍勇気百倍! になるよ~」

 

 無邪気に本音は笑った。だぼだぼの袖を揺らし、独特の雰囲気で箒にあるしこりを切り裂こうとしている。

 

 そんな本音に紅葉は心底面白そうに腹を抱えた。

 

「ははっ、これは一本取られましたね。篠ノ之さん。〝心配のしすぎ〟だそうですよ?」

 

「だが、私は」

 

「君は強いですよ。前にも言いましたが、君は強い。弱いなんてことはありません」

 

 箒の言葉よりも先に、紅葉の言葉が早く紡がれる。

 

「自分の理想とする織斑君と、現実の織斑君の違い。君が悩んでいるのは、、自分の思い描いていた王子様と現実の世界に現れた王子様が全然違って、ショック! ――――なんていう、乙女チックなことなんですよ、実際は」

 

 本音の言葉で吹っ切れたのか、紅葉は笑いをこらえるようにしてそう言った。

 

 そして、その紅葉の言葉に箒は恥かしそうに赤面した。

 

「わ、私はそんなお、乙女など!」

 

「いい加減認めちゃったらどうですか? 自分は実は大層な乙女チックな考えの持ち主で、理想と現実のギャップを感じてるだけだって。普段は武士みたいな性格だから余計にそういう乙女チックなものに憧れるんだよねぇ~」

 

 意地悪な問いかけだ、と箒は思った。顔が火傷しそうに熱くなっている。「お、乙女など私はただ!」と再び抵抗を試みるが、紅葉は相変わらずにやにやとした笑みを崩さずにいる。

 

「篠ノ之さん。もうちょっと楽に考えてみようよ。物事を真面目に考えすぎると、楽しいことも楽しく感じられないよ? この世界は複雑そうに見えて、案外単純なものなんだ」

 

「そうだそうだー。箒ちゃんは難しく考えすぎー」

 

「君は自分を傲慢で臆病で我儘で、理想を他人に押しつけてるって言ったけど……それは大抵の人に言えることだよ。人は自分が思い通りいかないと怒ったりするし、自分の言動一つ一つが相手にどう伝わるかでビクビクするし、自分の夢や目標、好きな人のためなら同じものを目指す他人を蹴落とすんだ。私だって、理想を誰かに押し付けることだってあるよ。何度も裏切られてきたし、何度も目を逸らしたよ。でも、それがなんだっていうだい。それが人なんだ、傲慢で臆病で我儘。それは人なら誰もが持ってて当たり前で、ごく自然なものなんだ。だから、君が嘆くことはないよ。君のその感情は、その想いは間違いなく――――本物だよ」

 

「本物……」

 

「そう、本物だよ。結局のところ人っていうのは、自分達の主観で世界を見ている。男はこうであるべきとか、女はこうあるべきとか、子供は大人はこうだとか……世界中の人がそうやって自分や先人たちの描いた理想を誰かに押しつけて生きているんだ。なのに、君だけがそんな風に誰かに理想押しつけるなってのも理不尽でしょ? それにある意味では君も自分に自分の理想を押しつけているじゃないか」

 

 人が理想を押しつけるのは何も他人だけではない。自分自身にさえ理想とする考え方や生き方を押しつけている。ならば、自分の理想を他人に押しつけたところで何も問題はないはずだ。

 

「だから、君の考えは何も間違っちゃいないよ。だって――――――『英雄(ヒーロー)』っていうのは、皆の憧れや理想を一手に引き受ける存在なんだからね」

 

 そう言うと紅葉は箒に向かって手を差し伸べた。

 

「――――いいのだろうか。こんな私の考えが、気持ちが許されても」

 

「うん。勿論」

 

「一夏に……自分の理想を重ねて、押しつけてもいいのだろうか」

 

「男の子は総じてヒーローに憧れるもの。そして、本当のヒーローは皆の理想なんだ。だから、言ってみてよ。君の理想とする彼を」

 

「私は……」

 

 自分の中にあるかつての憧憬。

 

 思い浮かべるのは幼い頃の記憶。

 

 小さくても強そうに見えた背中。

 

 どんなに自分よりも体格が大きい子にも立ち向かったあの姿。

 

 ボロボロにされても決して諦めなかった不屈の心。

 

 いつも自分が困っていた時に助けに来てくれた優しさ。

 

 そして、自分が不安なときや淋しい時に見せてくれた、あの笑顔。

 

 それが、篠ノ之箒が目指したかったものであり、愛した存在であり、そして――――――

 

「私の憧れた『英雄(ヒーロー)』――――織斑一夏という男だ」

 

 真っ直ぐ紅葉を見遣って、箒はそう言った。

 

「やっと素直になったよね」

 

 紅葉がくすりと笑い、「それで、どうするの?」と問いかけた。 

 

「ふん。ヒーローが負けてしまいそうなとき、真っ先に駆け付けヒーローを復活させるのはヒロインだと相場で決まっているんだ」

 

 箒がそう言って不敵な笑みを浮かべると、紅葉が「では、決まりですね」と彼女の思惑を察し同意した。

 

「ああ、あの寝坊助を叩き起こしに行こう」

 

 

   *      *     *

 

「箒……?」

 

 突如として響き渡った幼馴染の声に一夏は動揺し、伸ばしかけた手を止めてしまった。

 

『いつまで寝ている気だ、お前は! 男ともあろうものがいつまでも女子に化け物退治を任せておいていいわけがないだろう!? 早く起きろ、馬鹿者が!』

 

 妙に懐かしい感じがする彼女の叱責の声が耳朶を打ち、頭の中に響く。

 

『どうした? 手を取らないのか?』

 

「あ、いや……」

 

 箒の声に動転しかけたところで男の声が一夏を再び意識をそちらへと引き込む。伸ばされた手を掴めば、もう一度宗玄と渡り合ったあの力を手に入れることが出来る。その結果、自分という存在が消えてしまうかもしれないが、それで皆が助かるのなら安いものだ。織斑一夏という人間が一人犠牲になりさえすれば済むのであれば、自分は喜んでその命を差し出そう。

 もう一度、その手を見る。その手はまるで一夏がその手を取るのを今か今かと待ちわびているようだった。

 

 だが、『一夏!』という箒の声がまたしてもそんな一夏の意識に割り込んだ。

 

『お前は諦めてしまったのか。もう、戦えないと、勝てないと……諦めたのか?』

 

「……諦めた?」

 

『だから、今もそうやって動こうとしないのか? 刀を手放したのか?』

 

「――違うッ! 俺は諦めてなんか」と言いかけて、一夏は口籠った。諦めた、諦めていたではないか。つい先程、自分の無力さを痛感して自分の力で戦うことを諦めたではないか。諦め、男の力に頼ろうとしていたではないか。

 

『それは違うよ』

 

 だが、そんな一夏の考えを男は否定した。

 

『俺はお前で、お前は俺だ。なら、俺の力はお前の力だ。だから、俺を頼ったところでお前の力であることは変わりない』

 

 それは男が常々口にしている言葉だった。

 俺はお前で、お前は俺だ。

 それにどんな意味があるのかは知らない。男がどういう存在で、自分にとってどのような存在であるか。そんなことさえ一夏は知らなかった。

 

『だが、知らないことはそんなに問題じゃない。大切なのは、仲間を守れるかどうか、だろ?』

 

「守る……そうだ、皆を守らないと、だから」

 

 だから、この手を取るのは仕方ないのだ。そう自分へ嘘をついて、言い訳をして――――

 

『お前はそれでいいのか、一夏!』

 

 だけど、箒はましてもそんな一夏を許そうとはしなかった。

 

『弱いから、経験が足りないから、勝てなかったから……お前はそんな理由で刀を捨てるのか。そんな理由で勝つことを諦める気なのか!?』

 

『諦めてなんかいないさ。ただ、勝つためにより強い力を求めているだけだ』

 

『お前はいつからそんな腑抜けになったのだ。以前のお前なら絶対そんな理由で諦めていなかったはずだろう! どんなに自分よりも大きな相手にだって立ち向かったし、どんなに弱くてもお前は勝つまで諦めなかっただろう……! なのに、どうして今のお前はそんなことで諦めようとしているんだ!』

 

『それは昔の話だ。あのころは俺は誰よりも強く、なんでもやれると思っていた。だが、それは子供の頃の話だ。今は違う。無謀な戦いはしないし、ここは命を懸けた戦場だ。そんな甘っちょろい考えで生き延びれるほど、俺たちいるここは甘っちょろい場所じゃない』

 

『立ってくれ、一夏! お前はやれる! お前ならやれる! 立ってくれよッ、一夏……ッ!』

 

『さぁ、箒のお望み通り立ち上がってやろうじゃねえか。一夏、お前が手を取ればすべてが終わる。皆を守れるんだ』

 

 悪魔の囁きと少女の必死の願い。

 相反する二人の言葉が、交互に一夏の意識を揺さぶろうとする。

 しかし、次第に少女の声は弱々しいものへと変わっていき、その願いも懇願に近いものへと変わっていった。それでも少女は諦めようとはせず、必死に一夏へ呼びかける。

 

「お、俺は…………皆を、皆を守らなくちゃいけないんだ。俺が皆を守って、俺がやらないと……!」

 

 それはもはや強迫観念だった。

 

 自分がやらなければいけない、やれるのは自分だけだ、だから自分がどんな風になろうと誰に頼ろうとも自分はやり遂げなければならない。そんな思いが一夏の中で渦巻き、彼自身を押し潰そうとしている。

 

「だから、俺はこの手を取らないと」

 

 

 

 

『――――お前は私にとってヒーローみたいな存在だった』

 

 

 

 

 だが、最後に箒が投げかけた言葉が押し潰されかけていた一夏に最後の光を投じた。

 

『覚えているか? 私が小学生の頃クラスの男子に〝男女〟って馬鹿にされていた時、お前は真っ先に庇ってくれたよな。箒は男女なんかじゃないって、だから謝れって。自分も何倍も大きいやつに立ち向かって、ボコボコにされながらお前は必死にそう言い続けたんだ。その内、あっちが根を上げて、泣きだしてさ大変なことになった。千冬さんが凄い形相で飛んできてさ。怒られたお前はすごい不貞腐れててさ、むしろ原因の私は申し訳なかったよ』

 

 覚えている。

 あれは確か小学低学年の頃だった。当時、まだ束がISを発表する以前で一夏は箒の実家である篠ノ之の道場に通っていたのだ。箒とはそこで知り合ったが、当時は今ほど仲は良くなかった。つっけんどんとした箒が一方的に距離を取っていた形だが、近くに同じ年の友達がいなかった一夏にとって箒は大切な友達だった。だから、どんなに邪険にされようと一夏は箒を嫌ったりしなかった。

 その頃の箒は剣道を習っていたこともあって、クラスの連中から馬鹿にされていた。剣道は男のスポーツで、女がやるものではない。だからこそ、いつもいじられ馬鹿にされていた。一夏はそれが許せず、何度も虐めっ子たちと喧嘩を起こしていたものだ。その度に千冬が飛んできては、拳骨を喰らっていたのを覚えている。

 

『私が落ち込んでいるとさ、お前は決まって〝あいつらが悪いんだから、箒が気にすることないぜ〟って言うんだ。本当は馬鹿みたいに痛いのを我慢してさ、千冬さんや虐めっ子達が間違っている、俺は正しいことをしたんだって言い張ってた――――思えば、もうその時には私にとってお前はヒーローだったんだ』

 

 彼女の声には懐かしさと愛おしさが込められていた。

 

『いつも私が虐められていると颯爽と現れて、虐めっ子達を倒してくれる。どんなに体格差があろうとも、擦り傷だらけになろうとも、お前は諦めず立ち向かっていた。格好良かった。憧れた。私もあんな風に強くなりたいって思った。私の目標だった。お前みたいに強くなって、いつか……お前の隣に並んでも恥かしくない人間になろうとした。再会した時、堂々とお前の隣にいられるようになりたかった。今の私がそうなっているかは分からない。まだ、お前と並ぶ資格なんてないかもしれない。だけど、私はまだ強くなってみせる。これからまだまだ強くなってみせる!』

 

 だから、と箒は続けた。

 

『お前にはまだ、私のヒーローでいてもらわなければ困るのだ! あの頃と同じ、強くて、馬鹿正直で、無鉄砲で、がむしゃらで、弱いのにどんな奴にも立ち向かって、どんなにボコボコにされても絶対勝つまで諦めなかった、あのころのお前のように―――――――私が、篠ノ之箒が好きになった織斑一夏でいて欲しいんだ!』

 

 箒は願い、叫んだ。自分の心の中をさらけ出し、ありったけの声で叫んだ。

 それは欲望だ。

 だが、真っ直ぐな欲望だ。穢れではない、純粋な欲望だ。

 

 ――――将来大きくなったら、俺は千冬姉を守れるぐらいの強い男になりたいんだ!

 

 それは一体いつのことだっただろうか。一夏は突然、千冬に向かってそんなことを言ったのだ。当然、千冬は笑って流していたが当人の一夏にとっては本気も本気で、篠ノ之道場に通うきかっけもその言葉だった。

 千冬は一夏にとっては憧れのヒーローだった。

 強く、綺麗で、いつも弱い者の味方で、助けを求める人は絶対に見捨てない。一夏はそんな姉が大好きだった。一夏が喧嘩をした時も、先に手を出した方が悪いと一夏を叱っていたが、それ以上に喧嘩の原因でもある相手には容赦せず怒っていた。それはもう怒られていないはずの一夏ですら震え上がるほどの恐ろしさである。般若の如し形相だった、と言えば少しは伝わるだろうか。

 

 ――――いいか一夏。私を守れるほど強くなりたかったらまず私以外の誰かを守れないといけない。

 

 ――――誰かって?

 

 ――――箒とか、クラスの友達とかその他お前の大切だと思っている人たちのことだ。その人達を守れないようなら、私を守るなんて百万年早いぞ?

 

 ――――うん、絶対守るよ!

 

 ――――よし、いい子だ。じゃあさしずめ、お前は皆のヒーローってところだな。

 

 ――――ひ、ヒーロー……?

 

 ――――ああ。ヒーローってのはな、助けてほしい人がいたら絶対に見捨てないんだ。弱い者いじめも見逃さないし、悪いことしているやつらなら懲らしめる。それがヒーローだ。

 

 ――――じゃあ、千冬姉はヒーローなんだね!

 

 ――――あ、お、おおう。そうだな、ヒーロー……だな、ヒーローか。どうせならヒロインが良かったんだが。よし、なら一夏。お前に一つだけ特別に、ヒーローになるための必要なことを教えてやろう。

 

 ――――う、うん! 教えて教えて!

 

 ――――それはな、どんなことがあっても〝絶対に諦めない〟ことだ。どんなに強い敵だろうとも、ヒーローは絶対に諦めないんだ。

 

 

「……ッ!」

 

 そうだ。そうだった。どして今の今まで忘れていたのだろうか。

 

 織斑一夏という男の原点はそうだったじゃないか。

 

 いつだってそうだった。

 

 織斑一夏の根底にはいつだって姉の存在があった。

 

 姉を超えたいと願ったから。

 

 姉を守りたいと願ったから。

 

 一番最初に力を欲した時、織斑一夏が願ったのはそんなことだった。

 

 単純に、憧れたあの姉のようになりたかった。

 

 箒が自分に抱いていた感情と同じ、一夏もまたヒーローに憧れていたのだ。

 

「なれるのかな、俺が……」

 

 いや、ならなくてはいけない。そう約束したのだ。もう忘れるほど昔に交わした約束だ、千冬も恐らく忘れてしまっているだろう。

 だがもしも、まだその約束を果たす資格があるというのなら。

 

 ――――なりたい、ヒーローに。憧れた、千冬姉のようなヒーローに。

 

 篠ノ之箒は言った。お前は私のヒーローだったのだと。

 こんな自分をヒーローだったと、憧れていたと言ってくれた。そして、ヒーローでいてくれと言ってくれた。

 いいのだろうか。こんな自分が彼女のヒーローであっても。

 いいのだろうか。一度諦め、全てを投げ出そうとした自分が彼女のヒーローとしてもう一度立ち上がっても。

 

 ――――いいよ。彼女もそれを望んでいる。貴方はどうしたいの?

 

 許されるのならもう一度立ち上がり、彼女の言葉に、憧憬に違わぬ英雄(ヒーロー)でありたい。

 

 ――――それがあなたの望みなら。だって、貴方はもう既に彼女のヒーローなんだから。

 

 燃え尽きようとしていた一夏の魂に、再び灯が灯った。

 闇に覆われていたはずの空間が開け、光に包まれる。それまで見えなかった景色が見え、次第にはっきりと世界を形作っていく。

 

『ふん、そう来たか』

 

 声は正面から聞こえた。

 男は目の前にいた。柔和な表情を浮かべた男は、一夏を見遣ると柔らかな眼差しを向けた。

 

『答えは決まったかい?』

 

「ああ、決まったぜ」

 

 男の言葉に一夏は一切の迷いもなく、決意の籠った声でそう言った。

 

 もう迷わない。

 

 絶対あきらめないし、逃げもしない。

 

 正々堂々、あの怪物を倒して見せる。

 

 それが今の織斑一夏には難しかろうと、なんだろうと。

 

 やらなければならない、倒さなければならない。

 

 それが例え、どんなに強い敵であろうと。

 

 ヒーローというのは、そういうものなのだ。

 

『じゃあ、答えを聞かせ貰おうか。ヒーロー見習いさん?』

 

 

 

 

 

 

   *      *     *

 

 暗い闇の底で彼女は揺蕩う。

 

 ここはどこだ、と辺りを見回しても光もないこの場所には彼女に見えるものは一つもなかった。

 しかし、感覚だけはここがどのような場所であったかを知っていた。

 ここはかつて自分がいた場所。悠久の時の中で、この場所と共に自分はあった。生まれ落ちた瞬間から、その場所は存在していた。

 曰く、そこは自らの心を風景に映した、心象の風景である。

 自分以外の一切の人はおらず、自分の心にある風景以外の一切はそこにはなかった。

 地平線の果てまでひたすら続く、原っぱ。緑色の草や花の植物たち、雲一つない青空と輝きを失わない太陽。

 変わることがないその風景を、永遠とも思える時間眺め続けてきた。

 だが、今はそこには何もない。原っぱも、青空も、太陽も、風も、匂いも、川のせせらぎも、鳥の鳴き声も、花々の芽吹きも、何もなかった。

 あるのは暗闇。

 果てしない深淵、そこに自分は呑み込まれている。

 黒い闇は自分の心の穢れなのか。

 彼を護りたいと思ったから。

 誰かの役に立ちたかったから。

 自分の生れて来た意味をようやく果たせると思ったから。

 だけど、失敗して、壊されて。

 そして、それを神は許さなかった。

 神はあっけなく終わろうとしていた自分の世界を、強制的に蘇らせた。

 だが、一度消えてしまった心に、消えてしまった風景は蘇りはしなかった。

 どす黒い感情は青空を消し去り、太陽を黒く染めた。やがて原っぱを呑み込み、この世界を真っ黒にしてしまった。

 

 あの美しかった世界は一瞬にして消え去った。

 

 違う。違うのだ。

 

 こういう世界を望んだのではない。ただ、このちっぽけな自分をたとえ道具としてしか見られていなくとも、意味を与えてくれたあの人に報いたかっただけなのだ。

 あの人の言ったことを守りたくて、褒められたくて。

 なのに、なぜこうも汚れてしまったのだろう。

 

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 

 こういうことではない。

 自分の願ったことはこんなことではなかった。

 ただ、ほんの些細な幸せが欲しかっただけなのだ。

 

 なのに、なのに――――――

 

『くそ、こいつしばしっこ――きゃっ』

 

 水を纏った少女を力任せに叩き伏せ、

 

『この触手、いったいどこまで伸びるんですの――――ッ』

 

 蒼穹の射手の持つ武器をへし折り、両腕から伸びた触手が二人の少女を追い詰める。

 

 違う違う違う違う。

 

 こんなことをしたかったのではない。

 

 傷つけたかったのではない。

 

 守りたかった。

 

 それだけでよかった。あの人を守れたのならここで消えても良かったのに。

 

 どうして、どうして。

 

 神はこのような残酷な仕打ちを与えるのか。

 

 もう嫌なのだ――――

 

 

「誰か……私を助けて」

 

 

 その彼女の呟きは――――

 

 

     *     *    *

 

 ――――誰か、助けて、私を助けて。

 

 聞こえた、はっきりと。助けを求める声が。そして、今度こそ一夏はその声の主が誰なのかを理解した。

 

「これはISからの……?」

 

 理屈なんてものはどうでもいい。ただ一夏の心がそう訴えかけてきているのだ。

 彼女は叫び、嘆き、苦しんでいる。

 助けなければ。

 なぜだかそう思った。

 それが本当にISの声かどうかなんてわからない。ましてそれが発作による幻聴でないとは言い切れないし、本当にISからの助けを求める声だとしてもそれは敵からの求めだ。聞き入れてやる義理はないし、勿論無視してこのまま戦い続けることだってできる。ここまで無茶苦茶に罰と報いを受けろ、と。

 だが、何故だか一夏にはそれが出来なかった。

 助けを求めるその声が悲哀に満ちていたから?

 可哀想だと思ったから?

 違う、そうではない。

 

 ――――――きっとその理由はその声が助けを求めていたからだ。

 

 かつて憧れていた英雄。織斑一夏が憧れていた英雄ならばきっとそうするだろうから。

 助けを求められれば誰であろうと守り、決して負けない絶対無敵の英雄(ヒーロー)。

 織斑一夏が憧れたのはそんな英雄だった。

 

『それでどうするんだ? 俺に託して、全てを終わらせるか? それとも、お前がこの絶対的な力の差を覆して、ヒーローになるか?』

 

 頭の中で語り掛けてくる男の声。

 それはまるで麻薬のように意識を昂ぶらせる。その声に導かれればなんだって出来る、たとえどんな敵が相手だろうと倒せる、そんな風に感じてしまう。

 一度その声に溺れれば、恐らく這い上がってくることは出来ない。その声が導くものはきっと恐らく、今の一夏にとって喉から手が出るほど欲しいものだ。本当ならば彼の言葉に飛びつき、その甘言の心地よさに浸っていたい。

 

 でも、それでは駄目なのだ。 

 一夏が憧れた英雄(ヒーロー)はそんなことはしない。たとえどんなに高い壁が立ちはだかろうとも、決して逃げず、真正面からそれを乗り越えてみせる。一夏が憧れた英雄(ヒーロー)はそんな人だ。

 

 だから、逃げるな。

 

 甘えるな。

 

 屈するな。

 

 折れるな。

 

 前を向き続けろ。

 

 勝つことだけを考えろ。

 

 あのヒーローのことだけを考えろ。あの人の後姿を、言葉を、行動を――――――憧れた姉(ヒーロー)ならばどうするのかだけを考えろ。

 

「じゃなきゃ、箒に笑われちまう」

 

 混迷する意識の中で、彼女の言葉が一夏に道を示してくれた。

 子供のころから意地っ張りで、強がりで、自信家で、でも肝心な時には怖気づいてしまうけど。

 

 彼女がいたから、強くなろうと思った。

 彼女がいたから、守りたいと思った。

 彼女がいたから、淋しくなかった。

 彼女がいたから、優しくなれた。

 

 

 彼女がいたから、織斑一夏はここにいる。

 

 だから、勝たなければならない。

 救わなければならない。

 あの苦しみから、解放してあげなければならない。

 

「それが織斑一夏がここにいる理由なんだ……! これは俺がしなきゃいけないことなんだ。俺が、織斑一夏が!」

 

 傲慢であってもいい。

 

 思い上がりでもいい。

 

 ただ、それが一夏の答えなのだ。

 

『それが答えか?』

 

「ああ」

 

 一夏の答えを聞いた男は、しばらく黙り込むと静かに笑った。

 

『悪くないな。本当に悪くない――――』

 

 男の声が消えた。

 

 さらさらと砂のようにどこかへ流れていき、やがて一夏の意識は光に呑まれた。

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