「バケモノ……ダト?」
切り裂き魔(ジャックザリッパー)はもう一度、少女を見た。
少女の顔に見覚えはない。だが、腰のあたりまである栗色の髪に少しだけ覚えがあった。
「オマエ……サッキ、キッタ、ヤツカ……?」
思い出した。今、目の前に立っているこの少女は楯無に追われる直前に殺したはずの少女だ。彼女が自分に背を向けている隙に、この手に持つ短刀を背に突き立て、殺した――――はずだ。すぐにその場を去ったため、よくは見てないが、大量の血の匂いがしていたため死んだと思っていた。
だが、少女は死んでなどいなかった。人間ではまずあり得ない。男のように人間という枠から逸脱した存在でなければ、考えられないことである。
「一瞬とはいえ忘れているなんて……男の風上にも置けないヒトですね」
その顔には笑顔が浮かんでいるが、作り笑いだ。
男が一歩後ずさった。神皇の全身から発せられる強烈な圧力に気圧されたのだ。冷や汗が額から頬を伝い、地へと落ちていく。
しばらく、無音が続いた。
そして、最初に動いたのは切り裂き魔(ジャックザリッパー)だった。この緊張感に堪え切れなくなった彼はなんとか動く右手で短刀を持ち、その刃を神皇に向けた。
「ハッ」
気合いの発声と共に男は神皇の懐に飛び込んだ。下段から刀を振り上げる。
火花が散り、金属と金属がぶつかったような甲高い音が響く。男の持つ短刀の刃が宙を舞った。
「脆いですね。その刀」
神皇の顔がすぐそこにあった。不気味な笑みを浮かべ、男を睥睨している。
神皇の手に握られているのは、一振りの刀。先ほどまではなかったはずのそれが男の視界下方で振り下ろされた形で存在している。その刀が自分の短刀を一振りで圧し折ったのだということを男が認識したのは、次にその刀が動いたときだった。
切り返された刀は下段から勢いよく振り上げられ、男の左目を切り裂く。激痛に呻き声を上げる暇もなく、男が後ろに跳び下がった。
血が溢れ出す。柄だけとなった短刀を投げ捨て、空いた手で左目を抑える。意識が飛びそうなほどの激痛が男の脳に走った。アドレナリンが過剰分泌でもしているのか、それとも左目の激痛でかき消されたのか、両肩の痛みを感じない。
男が神皇を睨んだ。
「オマエ……マサカ……」
「同類って、言ったじゃないですか。貴方と同じ《化け物》だって」
「…………」
男が黙る。これは予想外だった。まさか自分が偶然斬り殺した相手が、自分と同じ存在だったとは。どうりで常人にしては強いはずだ。
男は少しずつ後ずさり始めた。彼女の正体が自分と同じ《存在》だとわかった以上、この戦闘をこのまま続けるわけにはいかなくなった。こちらは手負いのうえ、武器をやられている。退くには頃合いだろう。
男が足に力を込めた。逃げる準備はできている、あとは隙を見て実行に移すだけだ。
「逃げよとしても無駄ですよ。追いかけますから」
その言葉に男は少しだけ眉をひそめた。ばれていた。これでは隙をつくどころの話ではない。今すぐにでも逃げ出さなければ、殺されてしまう。
切り裂き魔(ジャックザリッパー)は水分が失われからからになった喉から何とか言葉を絞り出し、それを微笑を浮かべ刀を弄んでいる神皇に向かって吐き出した。
「ヤッテミナイ……ト、ワカラ、ナイダロ」
そう言って男が動いた。屋根から飛び降り、凄まじい速度で地を駆けていく。
「怪我人に負けたらちょっと泣きます、ねっ」
それに続き神皇も疾駆する。
もしもあの男が人ごみに紛れたとしてもあの傷では目立つ、見つけるのは容易いだろう。見失ったとしても、傷が深いあの状態で今の神皇を撒くのは不可能に近い。それに男の走る速度は楯無と追いかけっこをしていたときよりも明らかに遅くなっている。神皇が男に追いつくのにさほど時間は掛からなかった。
「ほら、私の勝ちです」
勝ち誇るようにVサインを決める。余裕たっぷりの憎たらしい顔だった。
だが、一方の男はそれどころではなかった。逃げることもできず、かといって戦うこともできない。やったところで返り討ちにされるのは目に見えているからだ。最初から負け戦だと分かっているなら、その戦をやる必要はない。
どうする。男は考えた。どうすればこの場を切り抜けられる。だが、神皇がその時間を与えてくれない。
「また逃げられても面倒だから……死なない程度に身体のどこかぶった切ろうかな?」
可愛い顔で恐ろしいことを言う少女である。その顔に躊躇いはない。男は震え上がった。
「腕がいいですか? あ、足ですか? それとも……腕と脚、それぞれ片方ずつがいいんですか?」
自分が言えた義理ではないが、この少女はどこか狂っているのではないか。男の脳裏には彼女に対するある種の畏怖が芽生えだしていた。
「ドチラモ……ゴメン、ダ」
手負いでなければ、と男は思ったがこればかりは不運を呪うしかない。だが、諦めるにはまだ早い。何かあるはずだ。まだ何かが手が。
そんな男の態度を見て、神皇は呆れたようにため息をついた。
「そうなんですか……ちょっと、がっかり」
本当に落ち込んだ素振りを見せる神皇。その表情が少しだけ悦に浸っているように見えたのは男の気のせいか。
彼女は常軌を逸している。男の本能がそう告げていた。逃げろ、彼女から逃げろと何度も警告を鳴らしている。だが、動けない。彼女から発せられる不思議な圧力が男の足を鉛のように重くしている。
怖いという感情はない。死が間近に迫っているというのに、男の脳は何も感じていなかった。死という概念から長らく遠ざかっていたためか、死への恐怖というものがどんなものなのか分からなくなっていた。
「人が来るとどう見ても私がアウトですから……さっさと、やっちゃいましょうか」
神皇が刀を中段に構え、冷徹な視線を男に向ける。気配が変わった。斬る気だ。
神皇が右足を出し、今まさに斬りかかろうとしたとき、二人の上空で何かがはじけたような音がした。小さな爆発音が聞こえてから、五秒もせず二人の姿が黒煙に包まれていく。
「な、なにが!?」
(コレハ……)
二人とも何が起こったのか理解できていなかったが、突然の事態に困惑する神皇と違って男は冷静だった。これをチャンスと捉えると、彼女の視界から自分が消えているこの隙に後ろへと跳び下がり、屋根を伝い力の限り駆けた。走っている間、眼から血が溢れ出していたが男は構わない。
* * *
「ちっ、逃がしたか……」
黒い煙が晴れ、辺りを見回すと男の姿はどこにもなかった。なんとも逃げ足の速い男だ。
舌打ちし、近くにあった石ころを思い切り蹴り上げる。苛立ちを抑えるため力いっぱいに蹴ったためか、石ころは天高く舞い上がったきり落ちてこなかった。
遠くの方でサイレンの音が聞える。
「会長……かな。相変わらず、派手だなぁ」
しみじみと呟いた。楯無との付き合いはかれこれ二年近くになるが、彼女の派手好きは未だ驚かされるところがある。何度もやっても飽きず、それも回を増すごとに派手になっていくのだ。いい加減、サプライズされている方が飽きてくる。
彼女の妹から聞いた話だと昔からそういうことが好きだったらしい。人を驚かせることが大好きで日常的にそういう悪戯をして皆を困らせていたと、古くから楯無を知る人物に話を聞くと決まってそう口を揃える。そういう部分だけは今も昔も相変わらずだ。
緊張の糸が完全に途切れた。あの男の気配がない、もうこの辺りにはいないかもしれない。
「とりあえず、服どうにかしないと」
今、神皇が着ている服は先ほど男に斬られた時の物と同じ物だ。腹の部分が血で真っ赤になっている。これで街中に出れば確実に目立つし、ちょっとした騒ぎにもなるだろう。それだけは避けたい。これ以上、面倒事を増やすのは御免だ。
神皇は辛うじて血で汚れていないズボンのポケットから携帯を取り出し、ある人物の番号を呼び出した。
「あ、おっはー、かんざしっち」
『……それ、朝も言った』
不機嫌そうな声音が携帯電話越しに聞こえた。
「唐突だけど……着替えを持ってきてくんない?」
『……今、忙しいんだけど』
「うん? あ、もしかして作業してた?」
『休憩中……だけど』
「じゃあ、お願い! ちょっと、大変なことになってて……かんざしっちしか頼める人がいないの。お願い!」
必死に懇願した。彼女以外に頼める人がいない以上、ここで彼女に断られれば一巻の終わりだ。
しばらく、無言の状態が続く。
その間、神皇は特に理由のない緊張感に襲われていた。どういうわけか男と対峙した時よりも動悸が早い。彼女に頼みごとをする際はいつもこうだ。何故か緊張する。
電話越しでため息が聞こえた。
『待ってて。今部屋に戻るから』
そう言って通話が終了した。どうやら持ってきてくれるらしい。
「かんざしっち……場所分かるのかな」
今いる場所を伝える前に電話を切られてしまい、待ち合わせを伝え損ねてしまった。彼女はどうするつもりなのだろうか。そう思っていると、神皇の携帯から着信音が響いた。
『……今、どこ?』
少しだけくぐもった声でそう訊いてきた。恥ずかしいのだろう。
神皇は笑い出しそうになるのをぐっとこらえ、今いる場所を伝えた。彼女は今日神皇が楯無と共に出かけたことを知っているため、なぜ近くに楯無がいないのか少し訝しんではいたが、それなりの事情があると既に察していたのかそのことに対して言及してくることはなかった。
「ごめんね~。手間取らせちゃって」
「……大丈夫。これ、神皇のおごりだから」
「はは……お財布大丈夫かな……」
そう言って、神皇はコーヒーを啜る。この店のコーヒーは普通のブラックよりも少し苦味が濃いようで、飲んだ瞬間に舌の上に広がった苦味に神皇は顔を歪めた。
「苦い?」
「大丈夫大丈夫。私は苦いの大好きだから」
「…………」
苦味で顔を歪んでいるにも関わらずそんな強がりを言う神皇を、更識簪は自身が頼んだミルクたっぷりのコーヒーを飲みながら見ていた。やせ我慢にもほどがある。
簪が待ち合わせ場所に指定されたこの店を見つけたのは、電話から三十分後ことだ。店の名前は訊いたことがないもので、最初は見つけられるのかと不安もあったが、神皇がいた言っていた場所にいくと案外すぐそばにあり、迷うことはなかった。
店に入ると、店員と思わしき人から、
「さっき血まみれの子が、君が来たらトイレに来てくれと言っていましたよ?」
と、言われた。きっと携帯でとった写真でも見せたのだろう。
トイレに行くと神皇がドアの隙間から手だけを伸ばして、着替えを渡してくれ、と要求していたので仕方なく渡してやるとものの一分と掛からず彼女は着替えを終え、中から飛び出してきた。どうやら着替えを見られたくなかったらしい。
「……血まみれだった理由は……聞かないであげる」
「さ、さんきゅー。さすが、かんざしっち。わかってるー」
因みに、店員に簪のことを説明する際に服の血について何かと問われた時、
「鼻血ですよ、鼻血。転んじゃった拍子に鼻をぶつちゃって」
という説明をしたらしい。血の殆どが腹部を中心に付いているのにも関わらずだ。ただ、店員も神皇の恰好からただ事ではないと思ったのだろう、神皇のお願いを二つ返事で承諾してくれたらしい。
「いやぁ、でもやっぱり持つべきものは友だね!」
「唐突に……なに?」
不審そうな視線を簪が向けるなか、神皇は嬉々とした表情で言った。
「今回のことで改めて思ったよ。やっぱり、親友は大切なんだって!」
「今更……」
「いや、前々から分かってはいたよ。でも、やっぱり実感することって少ないじゃい。だからね、今日みたいなことを経験して、改めて思ったんだよ!」
彼女のテンションの高さは前からだが、今日は特に高い気がする。《あれ》を使った時はいつもこうだ。アドレナリンの過剰分泌で彼女は極度の興奮状態に陥る。簪はこの状態の彼女を何度か見たことがあるが、今日は大分落ち着いている方だろう。酷い時には室内を走り回ったり、大声で叫びだしたりと一種の禁断症状のようなものが現れることもある。
正直なところ簪はこの店に来て、神皇の顔を見るまで不安だった。彼女がまた暴走していないか、もしかして誰かと喧嘩になっているのではないか、色んな不安を胸の中に抱えながら彼女に指定された店まで歩いていた。今回も大丈夫。どうせ神皇のことだから、またあの屈託のない笑顔で自分を迎えてくれる。そう信じていたから、彼女がいつもと変わらぬ笑顔でトイレから出てきた時、簪もいつもと同じように彼女を迎えることができた。
そんな思いを抱えながらも、簪はそのことを微塵も表情に出してはいない。心配は杞憂だったが、それが逆に気恥ずかしかった。
「そういえば……お姉ちゃんは?」
それは神皇から電話を受けた時からの疑問だった。神皇は今朝、簪の姉である楯無と共に出掛けて行ったはずである。もしも、神皇が途中で事件に遭遇したのならば同伴者である楯無がこの場にいなければおかしい。神皇が楯無のことを話さないことから察すると、事件に巻き込まれたわけではないだろう。例え巻き込まれていたとしても、よっぽどのことがない限り大丈夫だろうが。
簪の問いかけに神皇はしばらく黙考した後、こう答えた。
「わかんないや」
「…………」
「そ、そんな冷ややかな視線向けないでよ、かんざしっち。本当に会長がどこに行ったかは知らないんだってば」
疑いの眼差しを向ける簪に必死に言い訳を口にする神皇。実際、神皇は楯無がどこに行ったかまでは知らないので嘘は言っていない。しかし、どんなに説明しようとも簪の表情に変化はなく、神皇は次第に焦り始めた。彼女を納得させるために必要な情報を頭で整理し、それを言葉にしようと試行錯誤する。
次第に言葉を詰まらせ始めた神皇に、簪は訝しむような表情を向けているが、内心ではそれを面白がっていた。いつもは神皇に悪戯され、困らされる方なのだがたまには逆の立場と言うのも悪くない。簪はそう思った。神皇は悪戯好きで子供のようなところがあるが、いつもそうというわけではない。逆に今日のように騒がしい方が稀だ。
悪戯も派手好きな楯無とは対照的に、神皇の悪戯はあまり目立つものではない。悪戯されている側がされていることに気付かないこともしばしばあった。これは彼女の性格をよく表していると、簪は思う。神皇の性格は派手好きで目立ちたがり屋の楯無とは対極にあるといっていい。楯無が積極的に皆を先導して物事を進めていくタイプだとすれば、神皇はそれを常に裏方として支えていくタイプだ。例えるならば、表舞台に役者として立ち、喝采を浴びるのが楯無で、その役者を引き立たせるために裏で働くのが神皇、といった具合だ。
「信じてよぉ、かんざしっちぃ……」
段々と涙目になってきた神皇を見て、簪はさすがにこれ以上すると可哀そうだと思ったのか、弄んでいた空のコーヒーカップを机に置き、
「……分かった。信じる」
微笑みながらそう言った。少々罪悪感は感じるものの、偶には彼女にも被害者側になってもらわないと簪の気が収まらかったのだ。そんなことだから、今は簪も相好を崩している。
一方、それを聞いた神皇は空気が抜けた風船のように机に突っ伏した。
「よかったぁ……」
「……それで、お姉ちゃんの居場所に心辺りは?」
簪の聞きたかったのは、本当のところこれだ。
「う~ん……あるといえば、あるんだけど……確証はないんだよねぇ」
神皇にしては珍しく歯切れの悪い返答だった。頭の中では恐らく答えが出ているのだろうが、確証が持てない。そんなところだろう。神皇は変なところで頑固だ。その情報を他人に教える際、その情報が本当に正しいモノなのか確たる裏づけがなければ、どんな些細な情報であろうと決して他人には教えようとしない。
「確証が無かったら……行って確かめる、だけ」
だが、簪としては確固たる確証などなくても別にいいと思っている。そこに楯無がいる可能性が少しでもあるのなら行ってみる価値はあるだろう。
簪が立ち上がった。それにつられ神皇も立ち上がる。
「……お会計は……よろしく」
それだけを言い残し、簪は店の外へと出ていってしまった。
取り残された神皇はとりあえず、ポケットから財布を取り出し、中身を確認した。
残額、三千円。
「あはは……これは、またバイトしなきゃね……」
彼女のお財布事情は予想以上に厳しかった。
* * *
「本当に……ここ?」
「確証はないけどね」
訝しむ簪に神皇は苦笑しながら答えた。
今、二人がいるのはここ周辺を管轄とする警察署の前である。何故、そんな場所にいるのかというと、簡単な話楯無がここにいるかもしれないからだ。「勘かな?」なぜこの場所なのかという簪の問いに、神皇は妙に清々しい顔でそう答えた。
「もしかして……お姉ちゃん、事件に……?」
先程の喫茶店ではその考えはない、と判断したのだがこうなってくると話が違う。警察署に楯無がいるかもしれないということは、彼女は何らかの事件に巻き込まれています、と教えられているようなものだ。
簪の問いかけに神皇はしばらく黙考し、
「あはは……」
と、笑ってはぐらかした。彼女の表情を見るに、どうやら楯無はまたもや事件に首を突っ込んだらしい。それを聞き、思わず簪の口からため息が漏れた。
「会長も悪気があるわけじゃないんだよ……たぶん」
簪の表情から心中を察したのか、神皇があまり励ましにならない励ましの言葉をかけてくれた。
「うん……」
本当に励みにならなかった。
「でも……どうやって、お姉ちゃんを探すの……?」
「警官の人に訊く」
基本、神皇の行動はシンプルだ。そんなものを考える暇があるのなら、とりあえず行動する。それが神皇の考え方だった。
近くに人の気配はない。
「ほら行くよ、かんざしっち」
「少し……緊張する……」
堂々とした足取りで警察署の中に向かう神皇。一方の簪は初めての警察署ということで、少々緊張で足取りが重い。別段悪いことをしたわけではないので神皇のように堂々としていればいいのだが、誰しも初めてというのは緊張するものだ。逆に神皇は堂々としすぎである。
「離せ! 離せぇ!」
「うるさい。静かにしてろ」
二人が入口まで来ると、中から聞き覚えのある叫び声が聞こえてきた。まるで駄々をこねる子供と
それを宥める親のような会話だ。
声が段々と大きくなっていき、会話の主が徐々にこちらに近づいてきていることを二人に教えてくれる。
「ねぇ……この声」
「うん。たぶんね」
二人には心当たりがある。
廊下の角から現れた三つの影。どれも二人がよく知っている人物だった。
「あ、簪ちゃ~ん!」
「お、お姉ちゃん……」
簪が顔を引き攣らせる。現れた三人のうちの一人、簪の姉こと楯無が簪を見つけるや否や今にも飛びかかりそうな勢いでこちらに走ってきた。
「どうしたの? こんなところに来て」
心配そうな面持ちで楯無がそう尋ねた。「それを聞きたいのは、こっち……」と簪が言い掛けた時、それを邪魔するようなタイミングで神皇が声を出した。
「会長が突然いなくなったので、探しに来たんですよ」
神皇が隣でここまでに至る過程を説明すると、楯無は簪の両手を取り固く握りしめた。
「う~。ごめんね、簪ちゃん。心配かけちゃって……でも、お姉ちゃんは大丈夫だからね。大丈夫だからね!」
楯無の目に涙が溜まり始めている。
少し大袈裟すぎる。簪は涙目でこちらを見上げている姉にそのような感想を抱いた。確かに楯無のことが心配でここまで足を運んできたのは事実だが、妹が姉を心配するのは至極当然のことで別に驚くことでも、ましてや涙ぐんで感動するようなことではない。
そんな更識姉妹を一瞥し、神皇はもう二人の方を見た。
「そういえば、何で織斑先生がここにいらっしゃるんですか?」
「少し用事があってな」
織斑先生こと織斑千冬はそう言って、視線を神皇から下の方へと移した。
「そろそろ離してくれませんかねぇ。織斑さん」
「お前が逃げないならな」
不敵な笑みを浮かべる千冬の視線の先には、彼女に引きずられる形でその場に座り込んでいる玄兎がいる。玄兎は襟首を千冬に掴まれ、彼女の男にも勝る怪力により脱出不可能になっているようだった。その所為か玄兎は膨れっ面だ。
五人は警察署を出た。千冬から逃げるのは無理だと観念したのか、玄兎は先程から大人しい。
千冬がため息を漏らした。
「お前らはいつも何か騒動を起こす。後始末するこっちの身にもなってみろ」
どうやら、今回楯無達が起こした件については千冬がなんとかしてくれたらしい。その表情からは疲労の色が伺える。
「おいおい、千冬さん。俺はあんたに迷惑かけた覚えなんて、一回もないんだけど?」
玄兎の記憶が確かならば彼女に会ったのは昔、束に誘われて日本に来た際に一度だけだ。そのときは挨拶を交わした程度だったので、あまり詳しいことは覚えていないが、確かに彼女に会ったのはその時の一度きりである。挨拶を一度交わした、いわゆる赤の他人である玄兎が千冬にどう迷惑をかけることができるのだろうか。玄兎の言い分は半分だけその通りだった。
「今回のことを勘定に入れとらんとは……いい度胸だな、小僧」
そこで玄兎は自分の失言に気が付いた。彼は今、一回も迷惑をかけた覚えがない、と発言したが、これは誤りだ。玄兎はついさっき、警察署で千冬の世話になっている。千冬が怒るのも無理はない。
そのことに気付いた玄兎は咄嗟に「いや、その……すいません」と、謝罪の言葉を述べた。こういう場合はまずこちらから謝り、相手を宥めることに尽力しなければ後々面倒なことになる。そういう経験だけは玄兎も豊富だ。対処法はきちんと理解している。
だが、内心は冷や冷やだった。
「……いや、貴様には後でたっぷりと言いたいことがあるからな。謝罪はその時に聞こう」
「オー、マジカ」
失敗した。
束や楯無から常々千冬の情報は聞いている。とにかく、怒ると怖いらしい。鬼も裸足で逃げ出す、というのが楯無。恐竜すらも走って逃げだす、というの束の千冬に対する印象だ。どちらも、恐ろしく強い存在さえも逃げ出す、という共通点があり、玄兎が織斑千冬に対して“怒らせてはいけない”という印象を持つには充分である。
「さてさて、では私たちはこの辺で失礼します」
神皇が場の空気を察知し、いち早くそう述べた。簪もそれに便乗し、ぺこりとお辞儀する。二人ともここから去るつもりだ。
「じゃあ、私も」
と言って楯無が踵を返す。さりげなく二人に便乗して逃げ出すつもりなのだろう。
しかし。
「おい」
その一言で楯無の足は止まった。もう呼び止められてしまったら、逃げれる可能性はない。
「お前もだ」
「はい……」
そのまま、楯無は再び踵を返した。
もう、簪と神皇は近くにいない。
未だ襟首を掴まれている玄兎の後ろを歩く形で、楯無は千冬と共にIS学園への帰路に着いた。
「うう……泣きたい」
* * *
黄昏時。日が沈みはじめ、次第に暗くなり始めた時間。千冬と玄兎はIS学園の一室で、向かい合うようにして座っていた。
「だから、嫌です」
「お前に決定権などない」
「…………」
数時間前からこの繰り返しで、中々話の終わりが見えない。
玄兎の前には書類の山が置かれている。相当な量だ。千冬によるとこれはIS学園に玄兎が入学するために必要な書類のほんの一部らしい。玄兎本人でなければ書けない書類以外は千冬及びIS学園の教師陣で既に終わらせているとのこと。だが、それでも残っている書類は、積み上げると玄兎の足元から膝ぐらいの高さまである。書こうと思えば数時間はかかるだろう。
そのような書類の山を前にして、玄兎は大きなため息を吐いた。
「はぁ……俺がここに入学する意味はあるんですか?」
「あるさ。少なくとも、お前自身にとってはな」
「俺自身に?」
玄兎が首をかしげた。千冬が言うには、ここに入学することによって玄兎が得るものがあるらしい。
「ああ。ここは今のお前にとって必要なものが揃っている。食料も、設備も、人材も、全てだ」
千冬が何を言いたいのか玄兎にはいまいち理解できない。
千冬の説明は続く。
「お前が……赤神玄兎が“求めるもの”がここにはある」
「俺が求めるもの……?」
「こっちもかなり妥協して、話をしている。悪い話ではないはずだ」
「すいませんが、仕事を放り出してまで俺は」
「では、仕方ない……」
そう言って千冬は上着のポケットから一切れの紙を取り出し、玄兎に手渡した。
「これって……」
紙を凝視する。そこに書いてあることは、今の玄兎にとって受け入れがたい“数字”だった。
「ああ、今回お前らが破壊したビルの修理代だ」
「はぁ!? ちょっと待て、こんなにかかるのか!?」
机を力いっぱい叩き、立ち上がる。請求書に書かれている額はとんでもないものだ。さすがにこれには玄兎も面食らった。
「詐欺じゃないですか。あんなビルの壁がちょっと壊れたぐらいで、こんなにかかるはずがないでしょう」
「嘘じゃないさ。それは一応こちらで立て替えておいたが……そうだな、お前が入学しないというなら束達にでも立て替えた分を請求しよう」
千冬の表情に笑みが浮かんだ。どうやらこれが彼女の切り札らしい。
「くぅ……」
「お前らのことだから、このぐらいのはした金ぐらい払えるのだろう?」
現在、紅い兎の家計は火の車だ。江波とアリサ、瑛梨の実家から送られてくるお金はあるものの、何分七人という人数を養っていなかければならないので食費やその他もろもろの費用ですぐに使い果たしてしまう。仕事で得られる収入も微々たるものだ。当然、壁の修理代など払えるわけもない。
「俺は確信しましたよ。やっぱ、俺は貴方のこと嫌いです」
「それでどうするんだ。入学か? それとも払うか?」
実質玄兎が選べる選択肢は一つしかない。
苦々しい顔で玄兎は、言った。
「あぁ、もう。はいりゃいいんでしょ、ここに」
「そうこなくてはな。さて、早速だが書類を処理するぞ」
玄兎が釈然としないまま、時間だけが過ぎ去っていく。
もう、日は暮れている。