目を覚ます。見慣れた、自室の天井。横に目を遣れば、愛する人が可愛い寝息を立てている。時計の短針は、ちょうど6を指したあたり。ちょっとした昼寝のつもりが、思いのほか長く眠ってしまったようだった。隣で眠る早苗の頬を撫で、その温もりを感じる。早苗の薄い眉がぴくりと動くと、やがて彼女は目を開いた。
「ん、ぁ……ひかり、くん」
眠気の残る声。幼い子どものように舌足らずな響きが、妙に愛くるしい。そんな早苗に、柔らかく微笑みかけた。
身体を起こすと、早苗も続いて起き上がる。彼女は両手を上げて伸びをし、欠伸をひとつ。寝乱れた三つ編みを直すこともせず、ぼんやりとした表情でこちらを見つめてくる。その姿が可愛らしくて、つい抱きしめてしまう。早苗は目をぱちくりとさせ、小さく首を傾げる。そんな彼女に、おれは静かに問いかけた。
「よく眠れた?」
「はい……今、何時ですか?」
「6時ちょい。花火まで少し時間があるね。コンビニで何か買ってくる?」
「もう、そういうのばっかり……でも、そうですね。アイスが食べたいです」
「いいね、アイス。一緒に行こ」
彼女の手を握り、ゆっくりと立ち上がる。窓の外は暗くなり始め、遠くの空が紫色に染まっている。雲ひとつない、綺麗な空。ふたりで家を出ると、早苗はそっとおれの腕に手を絡ませ、寄り添ってくる。暑さなど気にならないほどの幸福感が胸を満たす。
普段よりもゆっくり歩き、近所のコンビニエンスストアに着く。自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。湖畔で花火を観る人だろうか、店内は多くの客で賑わっていた。
ふたり分のアイスクリームとジュース、それから軽くつまめそうなスナック菓子を買う。会計を済ませて店を出ると、早苗が嬉しそうにおれの袖を引いた。袋からアイスを取り出し、早苗に渡してやる。チョコレートを被ったバニラの棒アイス。早苗はそれを両手で持って、ぱくりと齧った。そして口をもぐもぐさせながら、幸せそうな笑みを浮かべる。そんな彼女に倣って、おれもアイスに噛り付く。ひんやりとした甘さが口内を満たした。
帰り道。湖畔の方角からは、人々のざわめきが聞こえてくる。
「凄いね、沢山だ」
「そうですね。去年より多い気がします。あんなことがあったのに……いえ、あったからこそ、色々な場所から来てくださったのかもしれません」
早苗は湖の方を見つめながら答える。その表情は、数多の人の想いを受け止め続けてきた、深い慈しみを湛えていた。
不意に、湖面より噴き上がる光。次々と咲く花火の音に、人々の歓声が重なる。轟音と共に夜空を彩る炎の華。
「始まっちゃったな」
「それなら、アイスを食べ終わるまで、ここで見ていきませんか」
煌びやかな光に照らされる早苗の横顔。その視線は、どこか寂しげに揺れている。夢を見ているかのような感覚。いや、既にこれは夢なのかもしれない。いずれ訪れる“目覚め”を恐れながら、微睡みの中で愛する人を求めている。
蝶のような不思議な形の花火を横目に、おれは早苗の手を握る。温もりが、互いの存在を伝え合う。淡く照らされた早苗の顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚くて。それから、どちらからともなく、そっと唇を重ねる。
「甘いです」
「そりゃそうだろ」
早苗はいたずらっぽく笑って、おれの腕にしがみつくようにして寄り添う。残り少ないアイスを、一気に食べ終える。早苗も最後の一口を小さく飲み込むと、棒をおれに差し出した。それを受け取り、アイスの包装に2本まとめて入れる。
絶え間なく打ち上がる花火の光と音。それを背負って歩く夜道。繋いだ手が、じんわりと温かい。自宅の前まで来たときには、既に陽は沈み、湖の向こうに色彩と閃光だけが鮮明に浮かぶ。
中へ入り、戸の鍵を閉めると同時に、早苗がぎゅっと抱きついてきた。おれも彼女を強く抱きしめて応える。
おれの部屋は、この家の2階。早苗と手を繋ぎ、階段を上る。自室のドアを開けると、カーテンが開いたままの窓から、鮮やかな花火の断片が見える。
諏訪湖を望むベッドに腰を下ろし、買ってきた物をテーブルに置く。早苗がおれの隣に座って寄りかかり、二人で肩を並べて夜空を見上げた。
夜空に咲く芸術に心を奪われる。大小さまざまな金色の火花が連続的に打ち上げられ、星屑が地上から逆さまに昇っていくようだった。幾百幾千の彩りが闇を焦がし、刹那の絢爛を競い合う。幻想的でありながら壮大で。美しくて。儚くて。それが愛する人との最後の想い出だという事実を、どうしても認めたくなかった。
「ベランダ、出てみる?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「それなら、ぜひ」
早苗の手を取り立ち上がり、ふたりでベランダへ出る。夜風が髪を揺らし、火薬の匂いを運んでくる。道路を挟んで広がる諏訪湖。水面には、夜空に咲く大輪の花火が映り込み、空が鏡写しになっているようだった。壮麗で、どこか物悲しい光景。
「……綺麗です」
「うん。……“特別”だな」
早苗は微笑み、おれの肩に頭を乗せる。その重みが、心地よく感じられた。
見たこともない大きさの極彩色が炸裂し、湖全体を白く染め上げる。遅れて轟音が響き渡り、身体にまで振動を感じた。観衆の喝采と驚嘆の声が聞こえる。
夜空で爆ぜる幾千幾万の煌めき。満天の星を背景に金色の柳が垂れ下がり、光の滝となって流れ落ちる。その眩さを横目に、隣に立つ早苗ばかり見つめていた。花火の光に彩られた横顔は、女神のように美しくて。見るたびに、大好きという想いが強くなる。手を握ると、早苗は応えるように指を絡めてきた。温かくて柔らかい感触が、ただ愛おしい。この手を離したくない。ずっと繋いでいたい。その願いが叶わないことを知ってなお、心は抗い続ける。
繋いだ手を引き寄せ、彼女の身体を腕の中に収める。早苗の髪からは、仄かに甘い香りがした。細い背中を抱きしめると、早苗もまたおれの背に手を回し、ぎゅうっと抱きついてくる。互いの存在を確かめ合うように密着し、どちらからともなく口づけを交わした。触れるだけの軽いものではなく、もっと深く。お互いを求め合い、熱烈に。唇から伝わる熱が心を溶かし、理性を焼き尽くしていく。おれたちを見る人なんて、今だけは誰もいない。だから、何度でも。息が続く限り。ただ純粋に、目の前の最愛を貪った。
唇が離れる。それでも名残惜しくて、額と額を合わせる。早苗の潤んだ瞳には、夜空に散る虹の花と、それを見つめるおれ自身の姿が映っていた。
花火大会は大詰めを迎える。幾重もの光の扇が夜空に咲き誇る。やがてすべてが深い夜に沈み、世界が漆黒に戻ると、人々の歓声が上がった。拍手と歓声、そして万雷の喝采。湖面には、余韻に浸る観客たちのシルエットが映っている。夜空には、煙幕がかかったように靄がかかっている。まるで夢を見ていたかのようだ。だが、確かにそこにあったはずの“何か”は、今もまだ胸の中にある。それを証明するように、おれは早苗を強く抱きしめていた。
静寂の中、おれたちはベランダから部屋へ戻った。夜は深く、星々は相変わらず遠い場所で瞬いている。
ベッドに腰掛け、互いの温もりを確かめ合う。輪郭を指先でなぞり、優しく髪を梳く。彼女は瞼を閉じて、されるがままに身を委ねていた。ただ、この瞬間が永遠に続いてくれればいいと思っていた。だけどそんな想いとは裏腹に、終わりの時は刻一刻と近づいてきていることも知っていた。早苗を抱き寄せ、腕の中に閉じ込める。抱きしめ合って、キスをした。愛していると、繰り返し囁いた。その度に、早苗は頷いて。甘い声で、おれの名前を呼ぶ。それがとても愛しくて、また唇を重ねた。この夜を、永遠に忘れないように。互いの存在を、魂に刻み込むように。何度も、何度も。
「そろそろ、神社に戻らないといけません」
早苗はおれの手を握り、悲しげに微笑む。
「……神社まで送るよ。また自転車の後ろに乗る? いや、夜だから危ないかな」
「ありがとうございます。歩いていきませんか? あなたと一緒なら、夜道も安心です」
「じゃあ、ゆっくり歩こうか」
「はい」
家を出て、湖畔の道を行く。ふたりで手を繋ぎ、歩幅を合わせてゆっくりと。時折早苗の髪や指先が、肌に触れる。その度におれは、胸の高鳴りを必死に抑えていた。早苗の方に視線を向けると、彼女も同じようにこちらを見て微笑む。そして、そっとおれの腕に腕を絡ませてきた。
祭りの後の諏訪湖は、いつも通り静かだった。水面に、月が揺れている。夜空に溶けていく波の音が、その静寂を彩る。
寄り道をした。少しでも長く、この手を繋いでいたかった。学校へ向かうとき、待ち合わせの場所になっていた水門。初めてふたりで並んで歩いた道。まだ交際をする前に、また明日、なんて約束をした公園。それらを巡り、過去を振り返り、この先の見えない未来を想う。
やがて、線路沿いの長い坂の麓に着く。おれは立ち止まった。ここを上れば、目的地はすぐそこだった。早苗と出逢った場所。共に過ごした場所。愛を確かめ合った場所。――もう二度と、訪れることのできない場所。おれたちの終わりに向かって、道は続く。行かなければならないと、そう分かっていても。動けない。身体が鉛のように重かった。早苗が手を引く。けれど、どうしても足が動かない。ただ立ち竦むおれを、彼女はじっと見つめている。
優しい声で、名前を呼ばれる。
「光くん」
早苗の手が、おれの手を強く握る。彼女の瞳には涙が溜まっていた。それでも、唇はきゅっと結ばれている。己を鼓舞するかのように。
毅然としたその姿に、勇気づけられる。彼女の覚悟の強さは、おれにはとても眩しく映った。
「ごめん、大丈夫」
その手を、そっと握り返す。
「行こう」
一歩一歩、踏み出すごとに、足は重くなった。泥の中を進んでいるような感覚だった。それでも、進み続ける。早苗のために。おれのために。ふたり、同じ速度で上っていく。丁字路を右に曲がり、この道を少し進めば、待っているのは愛する人との別れ。早苗の手を引いて、どこまでも走って行けたなら。この手を離さずにいられたら。だけど、そんなことはできないと知っている。足音が重なる。隣にある気配。それに縋るように、繋いだ手を強く握り締める。あと少しで、お別れ。そんなときに限って、言葉が見つからない。視界が歪む。瞳の奥が熱くなる。それでも涙だけは、零すまいと。唇を噛んで、堪える。
辿り着いてしまった、守矢神社の入口。夜の神社は、吸い込まれてしまいそうなほど、静寂に満ちていた。鳥居をくぐり、足は自然と社務所へ向かう。いつまでこうしていることが許されるのか分からず、おれたちは無言のまま歩を進める。
社務所の玄関を開けると、早苗はおれに向き直った。
「ここで、待っていてください」
彼女に続いて、社務所の中へ入る。早苗は自室に入り、戸が閉められる。程なくして、衣擦れの音。再び部屋の戸が開き、彼女は巫女装束の姿で現れる。神事を執り行う際に使うと言っていた、蛙と蛇の髪飾りを身に付け、凛とした表情でおれを見る。
「奥宮に祀られている御神体を持ってきます。湖や奥宮も“引っ越し”に含まれていますが、神様が近くにいらっしゃる方が、安心しますので」
「独りで行くのか?」
「はい。
「うん……分かった。待ってるよ」
「ありがとうございます」
早苗は頭を下げて、小走りで駆けていく。背中が見えなくなったところで、おれは小上がりに座り込み、深呼吸をした。心を落ち着かせるために、何度か繰り返し呼吸する。
ゆっくりと、時間は流れていく。早苗の傍に居られるはずの時間が。ふたりの間にあった空白を埋めていった時間。手を繋いで、抱きしめて、キスをして。散歩をして、とりとめのない話をして、笑い合って。共に過ごしてきた、かけがえのない日々。1年と少し。そう言ってしまえば短いけれど、これまでの全部を合わせても足りないくらい、幸せな時間。おれの身に余る、儚い奇跡。それが、終わろうとしている。この手に触れていたものが、跡形もなく消えていく。そんな現実を受け止められないまま、おれはここにいる。
15分ほど経っただろうか。社務所の戸が開き、早苗が姿を現す。その手には何も持っていないが、彼女の目には、確かな決意の色があった。
「御神体は、拝殿に安置しています」
「そっか。それじゃあ、あまり神様を待たせちゃいけないな」
ああ、別れの時が、目前に迫る。早苗を送り出してあげなければならないのに、足にも、身体にも力が入らない。膝の上で握られた拳に、視線が落ちる。
「光くん。顔、上げてください」
優しく降り注ぐ、早苗の声。促されるまま、ゆっくりと顔を上げる。
ぎゅっとおれを包む、早苗の身体。柔らかな手が、おれの頭を優しく撫でる。愛しい温度が、ゆっくりと、沁みこんでいく。
「あなたと一緒に居られて、わたしは、とっても幸せでした。こんなに幸せでいいのかな、って、不安に思うくらい。きっと、わたしの母も、祖母も。こんな風に、心から大切だと思える人と、
早苗の言葉が、おれの心を震わせる。こみ上げてくるものを堪えきれず、彼女を抱きしめる腕に力がこもる。強く強く、掻き抱く。今日だけは――早苗を見送るこの時だけは、涙を流さないと決めていたのに。駄目だった。そもそも我慢なんて、できるはずがなかった。愛する人を離したくない。永遠に傍に居たい。そんなエゴイズムが、熱い涙として溢れ出し、早苗の装束に染み込んでいく。早苗はそんなおれの背を、優しくさする。その仕草が、余計に胸を締め付けた。
離れたくない。ずっとこうしていたい。そう願う気持ちを押し殺して、おれはゆっくりと身体を離す。
「おれの方こそ、ありがとう。早苗に出逢えて、すごく幸せだった。付き合ってからは、毎日が本当に楽しくて。ずっと、この時間が続きますようにって願ってた。……愛してるよ、早苗。……だめだ。もっと伝えたいことがあるはずなのに、全然まとまらないや」
「いいんです。あなたがくれる言葉は、どんなものでも、大切な宝物ですから。……もう行かなきゃいけないのに、宝物ばかりだなんて。困っちゃいますね」
早苗が、いつものように、ふわりと微笑む。おれの頬を伝う涙を、彼女の指が拭った。
「……ふふっ、だらしない顔」
「そんなに?」
「ええ。他の誰にも、見せないでほしいくらい」
早苗の顔が近づく。そのまま唇が重なり、触れるだけのキスを交わす。優しく、温かく、穏やかな接吻。初めて交わしたような、静かで、確かな愛情が込められた口付け。
「ごめん。服、汚しちゃって」
「いえ。最後にあなたの温もりを、胸に刻めましたから」
「早苗――」
「……そろそろ、時間みたいです」
「……うん」
大きく息を吸い、立ち上がる。そうしてふたり、社務所を出た。夜空に浮かぶ星々は、その輝きを増している。
早苗に手を引かれて、参道を抜け、鳥居の外へ。彼女はおれの手を離して、三歩ほど下がる。鳥居を隔てて、早苗と向かい合う。
「これから儀式を始めます。……鳥居の内側には、決して入らないでください」
「……分かった」
早苗は深くお辞儀をして、踵を返す。遠ざかっていく背中。緑の髪は夜風に靡き、巫女装束が静かに翻る。
「早苗っ!!」
愛する人の名を叫ぶ。彼女が、振り返る。もう手の届かない場所で。
「おれは、いつかまた、必ず会えるって信じてる! だから……さよならは、言わないよ。……行ってらっしゃい、早苗」
「――っ、はい! 行ってきます!!」
早苗は大きく手を振り、そして満面の笑みを浮かべる。そうして再び拝殿へ向かう彼女の背中を、おれは見送った。いつまでも。ずっと。
不意に吹き抜ける、一陣の風。落ち葉が舞い上がり、思わず、顔を覆ってしまう。
そして、再び前を見る。
――そこにはもう、何もなかった。鳥居も、参道も、社務所も、拝殿も。……早苗も。鎮守の杜は、ただの雑木林に姿を変えて。そこに在ったはずの神社は、忽然と姿を消した。この世界でおれだけが、
「…………帰るか」
ぽつと呟き、帰路を辿る。ひとり分の足音。それを、やけに虚しく感じる。風の音が、妙に騒がしく響いた。
神社から自宅までの帰り道。早苗と離れるのが寂しくて、明日も早苗に会いたくて。そんなことを思いながら、幾度も歩いた道。想い出が蘇り、胸が苦しくなる。彼女と共に過ごした日々を、必死に手繰り寄せた。早苗の笑顔も、声も、仕草も。その全部が、おれの中に在るというのに。伸ばした手は、ただ空を切る。
湖のほとりで、夜空を見上げる。ひとつ、ふたつ、星が流れていく。早苗もきっと、同じ空を見ているのだろうか。静かな空に、願いをかけた。どうか、早苗がずっと幸せでありますように。
自宅には誰も居ない。誰も待っていない。ただ、空虚な部屋があるだけだ。
ベッドに倒れ込む。瞼を閉じると、早苗の笑顔が浮かぶ。布団には、微かに彼女の残り香がして。幸福の残響に優しく包まれながら、意識は薄れていった。