海難事故で両親を失った女子高生・相原水樹は、人間が水として見える奇妙な体質を得てしまう。
透明な水、濁った水、どす黒い水──その色で、人の本質と感情が分かってしまうのだ。
そんな中、引き取られた叔父の家で水樹は地獄を見る。
優しい保護者の仮面の下で、叔父・健一の水は日に日に黒く濁っていき。

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命、流転

 ◆

 

 水は時に生命と同義の意味として捉えられる事がある。“命の水”と呼ばれる事もあるくらいだ。

 

 我々の身体の六割は水で構成され、生命は太古の海から生まれた。清澄な湧き水は乾きを癒し、大地を潤し、万物の循環を支えている。水は清らかさの象徴であり、神聖な儀式においてその場を清めるためにも用いられる。祝福そのものであった。

 

 だがその認識はあまりに一面的に過ぎるのではないかという向きもある。

 

 命であると同時に、死という側面もある。

 

 水は淀めば容易く腐敗する。閉ざされた空間で、ぬるりとした悪臭を放ち、病を媒介し、存在そのものが毒となる。温かい水は細菌の温床となり、見えない恐怖を増殖させる。

 

 そしてひとたび荒れ狂えば。

 

 津波、洪水、豪雨。その圧倒的な質量とエネルギーは人間の築き上げた脆弱な文明を、あるいは人間そのものを容赦なく押し流し、呑み込み、奪い去る。そこにあるのは冷徹な物理法則だけであり、慈悲など微塵も存在しない。

 

 清浄と腐敗。生と死。

 

 水はそのどちらでもあり得る。

 

 もし人間一人ひとりが固有の水(・)を湛えた器だとしたら。その水がその人間の本質そのもの……命(・)だとしたら──。

 

 ◆

 

 耳の奥で絶えず水が鳴っている。

 

 ごうごうと、あるいはごぼごぼと。あの日以来、相原水樹の頭蓋にこびりついて離れない音だった。脳漿そのものが冷たい海水に置き換わってしまったような不快な残響。

 

 三か月前。まだ肌寒さの残る春先のことだった。

 

 水樹は高校の入学祝いを兼ねて、両親と三陸沖を巡るクルーズ旅行に参加していた。決して豪華なものではなかった。父は中小企業の経理畑を歩んできた実直なサラリーマンで、母はパートで家計を支えながらいつも水樹の健康を気遣う、ありふれた家庭だった。裕福ではなかったが不足もなかった。慎ましくも満ち足りた幸福。それが永続するものだと信じて疑わなかった。

 

「水樹、見て。海、キレイだね」

 

 甲板で潮風を受けながら母が目を細めた。目尻には長年の苦労が刻まれていたが、瞳はいつも優しかった。午後の陽光が穏やかな海面に反射して、無数の宝石を散りばめたように輝いている。

 

「お前の名前はな、この海みたいにみずみずしくて大きな人間になってほしいって願いを込めてつけたんだ」

 

 父が少し照れくさそうに眼鏡の奥の目を細めた。

 

 穏やかな陽光。カモメの甲高い鳴き声。ディーゼルエンジンの低い振動。すべてが昨日のことのように鮮明に蘇る。その鮮明さが水樹の心を締め付ける。

 

 それが一瞬にして暗転した。

 

 ──ドンッ、という腹の底に響くような衝撃。

 

 何かが船底に衝突した音だった。続いて金属が軋み、引き裂かれるような異音が響き渡る。巨大な獣が船を食い破っているような。

 

 何が起きたのか理解するよりも早く船体が大きく傾いだ。立っていられないほどの揺れ。床が壁になり壁が天井になる。世界そのものがひっくり返った。

 

 警報が鳴り響き乗客たちの悲鳴が甲板を覆い尽くす。阿鼻叫喚の地獄絵図。人々は折り重なるように倒れ、傾斜した床を滑り落ちていく。豪華な調度品が凶器となって降り注ぐ。

 

 水樹は手すりに激しく身体を打ち付けた。肋骨が折れたかもしれないと思うほどの鈍い痛み。だがそんなことを気にしている場合ではなかった。

 

「水樹! しっかり掴まれ!」

 

 父が叫んだ。顔は蒼白だったがその目は必死だった。父と母は水樹を守るように両脇を固め、手すりにしがみついた。彼らの手の力強さが唯一の頼みの綱だった。

 

 しかし船の傾斜は止まらない。浸水が始まっているのだろう。船はその巨体に似合わぬ速さで死に向かって傾いていく。坂道を転がり落ちるように次々と人が暗い海へと投げ出されていく。

 

「嫌だ! 死にたくない! 助けて!」

 

 誰かが叫んだ。声は恐怖と絶望に満ちていた。だがその叫びも荒れ狂う波の音にかき消されていく。

 

 そして、その時が来た。

 

 耐えきれなくなった手すりの接合部が断末魔のような音を立てて歪み、弾け飛んだ。

 

 三人の身体は無重力状態のように宙に浮いた。

 

 落下。

 

 時間にしてわずか数秒だっただろう。だが水樹にはそれが永遠のように感じられた。

 

 スローモーションのように両親の顔が見えた。彼らは水樹に向かって手を伸ばしていた。その目は自らの死に対する恐怖ではなく、ただひたすらに水樹を案ずる親の顔だった。その顔が水樹の網膜に焼き付いた。

 

 次の瞬間、水樹を包んだのは想像を絶する冷たさだった。

 

 春の海は氷の刃となって全身に突き刺さる。心臓が止まるかと思うほどのショック。全身の血液が一瞬にして凍りついた。

 

「んぶっ……!」

 

 咄嗟に息を止めようとしたが遅かった。塩辛い海水が容赦なく口と鼻から流れ込んでくる。気道が焼けるように熱い。喉の奥から胃の中身が逆流してくるような不快感。

 

 必死で水面を目指してもがくが身体が思うように動かない。分厚いコートが水を含み鉛のような重りとなって水樹を深みへと引きずり込んでいく。水圧が全身を締め付ける。

 

 暗い。寒い。苦しい。怖い。

 

 水の中で水樹はパニックになった。手足をばたつかせ空気を求めて喘ぐ。だがそれはさらに彼女を苦しめるだけだった。酸素を消費し体力を奪い、死を早めるだけの無駄な足掻き。

 

 薄れゆく意識の中で水樹は両親の姿を探した。

 

 父が、母が見えた。

 

 二人は水樹よりも少し離れた場所にいた。彼らもまた容赦ない水の力に抗う術を持たなかった。すでにもがくことすらやめていたのかもしれない。

 

 父の口からごぼりと大きな泡が漏れるのが見えた。その目が最期の力を振り絞って何かを伝えようとしていた。

 

 ──生きろ

 

 そう言っていたのかもしれない。あるいはただ愛していると伝えたかったのかもしれない。

 

 二人の姿はゆっくりと、しかし確実に暗い海の底へと沈んでいった。光の届かない深淵へと。彼らは最期まで手を繋いでいたように見えた。

 

「おとうさ……おかあさ……」

 

 水樹の声は言葉にならずただ虚しい泡となって消えていく。肺の中の空気がすべて吐き出され、代わりに冷たい水が満ちていく。身体の末端から感覚が失われていく。

 

 ああ、私も死ぬんだ。家族みんなでここで。

 

 そう思った時、不思議と恐怖は消え代わりに静かな諦念が訪れた。

 

 ──お父さん、お母さんと一緒なら

 

 水樹がそう思った時、体の中に海水ではない何かが流れ込んでくるのを感じた──ような気がした。

 

 それは温かい何かだった。冷たくもないし、痛くもない何かで体が満たされていく。

 

 そうして暗く静かで温かい場所へ還っていく様に──水樹の意識はゆっくりと闇に溶けていった。

 

 ・

 ・

 ・

 

 次に意識が戻った時、水樹は病院の無機質なベッドの上にいた。

 

 白い天井。消毒液のツンとした匂い。ピッ、ピッと規則正しく鳴り響く電子音。それらの音が水樹がまだ生きていることを告げていた。

 

「……生きてる?」

 

 掠れた声が出た。喉がひどく痛む。海水を大量に飲み込んだせいだろう。

 

 看護師が駆け寄ってきて水樹の意識回復を確認すると、すぐに医師を呼んだ。様々な検査が行われ、彼女が奇跡的に助かったことが告げられた。

 

 あの海難事故で乗客乗員合わせて数百名のうち、生存者はわずか数十名。水樹はその一人だった。海面に漂っていたところを偶然通りかかった漁船に発見され救助されたのだという。彼女がどうやって浸水した船内から脱出できたのか、どうやって救命胴衣を身に着けることができたのか誰も説明できなかった。水樹自身にもその記憶はなかった。誰かが意図的に彼女だけを助け出したかのように。

 

 しかし両親は違った。

 

 二人の遺体は事故から数日後に発見された。水圧と漂流によって損傷はあったものの比較的に穏やかな顔をしていたという。死因は溺死。

 

 水樹は両親の遺体と対面した時、そしてその後の葬儀で一滴の涙も流さなかった。いや流せなかった。あまりにも突然の別れに心が現実を受け止めきれずにいた。質の悪い映画を見ているような希薄な現実感。感情が麻痺し凍結してしまった。

 

 葬儀が終わると水樹は父方の叔父夫婦に引き取られることになった。

 

 相原健一。それが叔父の名前だった。水樹が彼と会うのは数年前の法事以来のことだった。恰幅が良く高価そうなスーツを着こなし、人当たりの良さそうな笑顔を浮かべる男。父とはあまり似ていないと思った。その妻である由美子。彼女もまた化粧の整った顔で献身的に水樹の世話を焼いてくれた。

 

「可哀想に……辛かったでしょう。でももう大丈夫だからね。私たちがついているから」

 

 由美子はそう言って水樹の手を握った。手は温かくマニキュアが綺麗に塗られていた。だがなぜかぞくりとするような冷たさを感じた。言葉が上滑りしているように聞こえるのは、単なる気のせいなのだろうか。

 

 叔父夫婦には子供がいなかった。彼らは天涯孤独となった水樹を引き取ることを当然の義務であるかのように申し出てくれた。水樹に選択の余地などなかったし、水樹自身も感謝こそすれ、二人と厭うという様な事はなかった。

 

 まあ、この時点では。

 

 ◆

 

 新しい生活が始まった。

 

 東京郊外にある叔父夫婦の家。水樹が両親と暮らしていた手狭なマンションとは比べ物にならないほど広く立派な一軒家だった。インテリアは趣味良く統一され埃一つ落ちていない。生活感が希薄なモデルルームのようだった。

 

「水樹ちゃん、今日からここがあなたの家だからね。遠慮なんていらないんだよ」

 

 健一はそう言って二階の日当たりの良い角部屋を水樹の部屋として与えてくれた。家具も水樹の好みに合わせて新調されていた。

 

 彼らは表面的には完璧な保護者だった。食事はいつも豪勢で水樹の体調を気遣う言葉を絶やさない。転校の手続きもスムーズに進み、水樹は新しい高校に通い始めた。

 

 しかし水樹の心はあの日から凍りついたままだった。

 

 夜になると決まってあの夢を見る。暗い海の中、沈んでいく両親。自分の肺を満たす水の感触。

 

「……はっ!」

 

 飛び起きると全身が冷や汗でぐっしょりと濡れていた。心臓が早鐘のように鳴り呼吸がうまくできない。過呼吸になりかけ、必死に呼吸を整える。

 

 そしてあの音が聞こえる。

 

 ごうごう

 

 ごぼごぼ

 

 水樹は水が怖くなった。

 

 シャワーを浴びるのが苦痛だった。顔に水がかかるたびに溺れる感覚が蘇り息ができなくなる。湯船に浸かることなどもってのほかだった。飲み物も喉が渇ききってどうしようもなくなるまで口にしなかった。コップ一杯の水を飲むのにも勇気が必要だった。

 

 そんな水樹を叔父夫婦は心配そうな目で見守っていた。

 

「ゆっくりでいいんだよ。焦る必要はない」

 

 健一はそう言って水樹の頭を撫でた。その時、微かな違和感を覚えた。

 

 彼の指が必要以上に長く水樹の髪を梳いていた。そして視線が一瞬、水樹のパジャマの胸元に向けられたような気がした。その目は親族に向ける慈愛の眼差しではなかった。何かを値踏みするようなねっとりとした視線。

 

 気のせいだろう。彼は私の保護者なのだから。お父さんの兄弟なのだから。こんな時にそんなことを考えるはずがない。

 

 水樹は自分にそう言い聞かせた。しかし心の中に芽生えた小さな疑念は黒い染みのように消えることはなかった。

 

 由美子に対しても同じような違和感があった。彼女はいつも笑顔だったがその笑顔が精巧な仮面のように張り付いているように見えた。水樹が両親の話をしようとすると彼女は決まって不自然なほど素早く話題を逸らした。

 

「辛いことは早く忘れた方がいいわ。前を向かなきゃ。それがご両親のためでもあるのよ」

 

 彼女の言葉は正論だったがそこには血の通った温かさが感じられなかった。予め用意された台詞を読み上げているようだった。

 

 言葉にはできないぬるりとした違和感が、見えない澱のようにこの家の空気に漂っているように思えた。

 

 ◆

 

 事故から三か月が過ぎた。

 

 季節は夏に移り変わり茹だるような暑さが続いていた。窓の外では蝉がけたたましく鳴いている。

 

 水樹は表面上は新しい生活に馴染んでいるように見えた。学校にも通い当たり障りのない会話を交わす友人も数人できた。しかし彼女の心は依然と落ち込んだままだ。まあ三か月やそこらで両親の死から立ち直る事ができる者などごく少数だろうが。

 

 そんなある日、異変が起きた。

 

 朝、目を覚ますと視界が奇妙に歪んでいた。叔父と叔母の姿が良く見えない。いや、見えないというよりは──。

 水の中にいるような感覚に、水樹は困惑した。

 

「……?」

 

 目を擦る。寝ぼけているのだろうか。あるいは立ちくらみか。

 

 洗面所に行き鏡を見る。そこに映る自分の顔もまた輪郭がぼやけ揺らいでいた。水彩画が滲んだように。

 

 不安になりながらも学校へ向かう。満員電車の中、その異変はさらに明確になった。

 

 目の前に座っているサラリーマンの姿が水の塊のように見えるのだ。

 

 透明な人型の水。

 

 皮膚や衣服の質感は失われ、代わりにぷるんとしたゼリーのような、あるいはスライムのような塊がそこにあった。彼が動くたびにその塊は波打ち揺らめく。内部には臓器の代わりに色のついた液体が渦巻いているように見えた。

 

 水樹は息を呑んだ。

 

 ──何これ……気持ち悪い

 

 周りを見渡す。乗客全員が同じように見えた。吊革に掴まっている女子高生も新聞を読んでいる老人も、皆、人型の水の塊だった。世界が水で満たされている。

 

 水樹は恐怖した。自分の目がおかしくなってしまったのか。あるいは脳が。

 

 しかしよく見るとその水の色は一人ひとり異なっていた。

 

 多くの人は無色透明か、わずかに白濁している程度だった。水道水のような、あるいは薄い食塩水のような。

 

 だが中には明らかに色のついた水を持つ者もいた。

 

 例えば隣に立っている女性。彼女の水は淡いピンク色をしていた。どこか楽しげな様子でスマートフォンを操作している。

 

 そして少し離れたところにいる疲れた様子の男性。彼の水は暗い灰色をしていた。俯き加減でその表情は読み取れないが全身から重苦しい鉛のような雰囲気が漂っている。

 

 これは一体どういうことなのだろう。幻覚? それとも……。

 

 水樹は混乱した。

 

 その日の授業は全く頭に入ってこなかった。

 

 一週間が過ぎても症状は改善しなかった。

 

 むしろ日を追うごとに人々の水の色がより鮮明に見えるようになっていた。

 

 水樹は意を決して病院へ向かう事にする。叔父夫婦には内緒だ。余計な心配をかけたくなかったし何より彼らに自分の異常を知られるのが怖かった。

 

 まず眼科を受診した。様々な検査を受けたが結果は異常なし。視力も眼圧も正常だった。

 

「器質的な問題は見当たりませんね。ストレスによる一時的な症状かもしれません。精神科の受診をお勧めします」

 

 医師の紹介状を持って、翌週、精神科を受診した。予約が取れるまで数日待たなければならなかった。

 

 精神科医は穏やかな口調で言った。

 

「相原さん、あなたは大きなトラウマを抱えています。愛するご両親を突然の事故で亡くされた。そのショックがこのような幻視を引き起こしているのかもしれませんね。いわゆる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の一種と考えられます」

 

 精神的なもの。そう診断され軽い抗不安薬を処方された。

 

 だが水樹にはこれが単なる幻覚だとは思えなかった。あまりにも生々しく現実味を帯びていたからだ。薬を飲んでも視界は変わらなかった。

 

 数日が経っても水樹の視界は元に戻らなかった。

 

 そんな日々が続くうちに、水樹は次第にこの「水の色」が人々の感情や本質を表しているのではないかと考えるようになった。

 

 淡いピンク色は幸福感。暗い灰色は憂鬱。では他の色は? 

 

 そう思った水樹は人間観察をするようになった。道行く人々の水の色を見てその人の感情を想像する。それは彼女なりの世界との向き合い方だった。

 

 そんなある日、決定的な出来事が起きた。

 

 帰宅ラッシュで混み合う電車の中。水樹はいつものように人々の水の色を観察していた。疲れている人が多いのか灰色や茶色に濁った水が目立つ。

 

 その時、異様な存在が視界に入った。

 

 黒い。

 

 比喩などではなかった。文字通りどす黒く濁った水の塊がそこにいた。ヘドロかコールタールのような粘性の高い液体。

 

 中年の男性だった。彼は水樹の隣に立っている若い女性の背後にぴったりと張り付いていた。そしてそのスカートの下にスマートフォンを差し入れようとしていた。

 

 盗撮だ。

 

 水樹は理解した。

 

 この黒い濁りは悪意だ。純粋な悪意の塊。

 

「……っ!」

 

 水樹は咄嗟にその男の手を掴んだ。手は異様に熱く汗でぬるぬるとしていた。

 

「な、何するんだ!」

 

 男は狼狽えた様子で叫んだ。彼の黒い水がさらに濃さを増し激しく波打つのを見た。恐怖と怒り、そして焦りが入り混じった感情がダイレクトに伝わってくる。

 

「あなた、今、何をしようとしていましたか」

 

 水樹は自分でも驚くほど冷静な声で言った。声は氷のように冷たかった。

 

 周りの乗客たちの視線が集まる。男は顔面蒼白になり何も言い返せず、次の駅で逃げるように電車を降りていった。

 

 被害に遭いそうになった女性が水樹に深々と頭を下げて礼を言う。彼女の水は驚きと恐怖で揺れていたがその中に感謝を表すようなきらきらとした輝きが見えた。

 

 この出来事をきっかけに水樹は確信した。

 

 私に見えているのは幻覚ではない。これは人の本質を映し出す「水」なのだ。

 

 そしてその水が濁っていればいるほどその人間は危険な存在なのだと。清らかな水を持つ人間はほとんどいない。誰もが何かしらの濁りを抱えて生きている。

 

 水樹はその能力というか体質が、自分を守るためのセンサーに思えた。

 

 ◆

 

 水(・)質(・)の(・)違(・)い(・)は、ある程度意識を集中しないと分からない。

 

 その夜、水樹は初めて叔父夫婦の水を注意深く観察した。

 

 夕食の食卓には由美子の手料理が並んでいた。ローストビーフ、魚介のマリネ、色鮮やかなサラダ。健一は上機嫌で最近始めたという投資の話をしていた。

 

「今、市場が動いているんだ。このチャンスを逃す手はない。うまくいけば大きな利益が出る。そうすれば水樹ちゃんにももっと色々なものを買ってあげられるからな。留学だってさせてあげられる」

 

 そう言って彼はワイングラスを傾けながら笑った。

 

 健一の水は一見すると透明だった。だがよく見るとその中に油のようなものが混じっているのが見えた。黄色みがかった粘り気のある液体。それが彼の体内でゆっくりと渦巻いている。水と油が混ざり合おうとしては反発している。

 

 そして由美子。彼女は健一の話に優雅な仕草で相槌を打ちながら水樹にサラダを取り分けてくれた。

 

「水樹ちゃん、たくさん食べてね。最近、少し痩せたんじゃない?」

 

 彼女の水は白く濁っていた。牛乳を薄めたような色。そしてその表面はぴくりとも動かない。凍りついているのか、はたまた分厚い膜で覆われているのか

 

 二人とも決して悪人ではないのかもしれない。少なくともあの盗撮犯のようなどす黒い悪意は感じられない。しかし彼らの水は決して清らかではなかった。もしかしたら、という不安感がこみあげてくる。

 

 水樹は自分の推測が正しいのかどうか確信が持てなかった。だが彼らに対する違和感の正体が少しだけ分かったような気がした。

 

 しかしそんな水樹の冷静な観察はすぐに終わりを告げることになる。

 

 穏やかだったはずの日常が音を立てて崩れ始めたのだ。いや元々薄氷の上に成り立っていた日常だったのかもしれない。

 

 きっかけは些細なことだった。

 

 ある夜、水樹がリビングでテレビを見ていると健一が隣に座ってきた。少し酒に酔っているようで、顔が赤らんでいる。

 

「水樹ちゃん、学校はどうだ? 慣れたか?」

 

 彼はそう言って水樹の肩に手を置いた。手は厚く重かった。

 

「は、はい。なんとか」

 

 水樹は曖昧に答えた。健一の水の粘性が増し色が濃くなった気がした。

 

 黄色みがかった液体がどろりとした茶褐色へと変化していく。そしてその中に赤黒い血のような筋が混じり始める。

 

 水樹がその変化に戸惑っていると、健一の手がゆっくりと水樹の背中を撫で始めた。ねっとりとした卑猥な手つきだ──まるで蛇が這っているような。

 

「……っ」

 

 水樹は反射的に身を捩った。心臓が早鐘を打つ。

 

「お、叔父さん、やめてください」

 

「何をそんなに警戒してるんだ。家族なんだからこれくらい普通だろう。スキンシップだよ」

 

 健一は笑いながら言ったがその目は笑っていなかった。目は欲望でぎらついていた。

 

 その日以来、健一の行動はエスカレートしていった。

 

 水樹が風呂上がりに髪を乾かしていると背後から近づいてくる。

 

「いい匂いがするな。シャンプー変えたのか?」

 

 そう言って水樹の髪に顔を埋める。わざとらしく水樹のうなじに触れる。

 

「ひゃっ!」

 

「ははは、驚いたか。敏感なんだな」

 

 そう言ってごまかすが彼の手は次第に水樹の胸の膨らみを確かめるように動いていた。

 

 階段ですれ違う時に不自然に身体を密着させてくる。

 

「おっと、危ない」

 

 わざとらしくそう言って水樹の腰を抱き寄せる。手が水樹の尻を撫でる。

 

 その度に健一の水がどす黒く濁っていくのが水樹には分かった。

 

 水樹は恐怖した。

 

 このままでは取り返しのつかないことになる。

 

 そう思った水樹は勇気を振り絞って由美子に助けを求めた。

 

 ◆

 

 ある日の午後、健一が仕事で出かけている間に水樹は由美子にすべてを話した。

 

「叔母さん、お願いがあります。叔父さんのことなんですが……最近その、身体を触ってくるんです。それがとても怖くて……」

 

 水樹はこれまでの健一の行動を包み隠さず話したが、由美子の反応は水樹の予想を裏切るものだった。

 

「……水樹ちゃん、あなた何を言ってるの?」

 

 由美子の声は氷のように冷たかった。顔からはいつもの笑顔が消えていた。

 

「健一さんがそんなことするはずないでしょう。彼はあなたの保護者なのよ。実の娘のように思っているのよ」

 

「でも本当なんです! 信じてください! お願いです、叔父さんに注意してください!」

 

 水樹は必死に訴えた。すがるような思いだった。

 

 しかし由美子は首を横に振るだけだった。

 

「出まかせを言うのはやめなさい。あなた事故のショックでまだ精神的に不安定なのね。可哀想に……でもだからといって恩人である健一さんを貶めるような嘘をつくのは許しません」

 

 彼女はそう言って水樹を憐れむような、それでいて軽蔑するような目で見た。

 

 水樹は見た。由美子の水が一瞬だけ激しく波打つのを。

 

 なぜ。どうして。

 

 水樹は絶望した。

 

 その日以来、水樹は家の中で息を潜めるように生活するようになった。

 

 由美子は水樹を腫れ物に触るように扱い必要最低限の会話しかしなくなった。その目は水樹を責めているようだった。そして健一はそんな由美子の態度を逆手に取るようにさらに大胆になっていった。

 

 水樹の部屋のドアをノックもせずに開ける。

 

「水樹ちゃん、いるかい?」

 

 着替え中だろうとお構いなしだった。

 

 水樹の私物を勝手に漁る。

 

「これは何だ? 化粧品か? 高校生にはまだ早いぞ」

 

 引き出しの中身を一つ一つチェックする。囚人を監視するように。

 

 そして水樹の身体に触れる。由美子が見ていないところで巧妙に。

 

「最近また少し女性らしくなってきたな。お母さんによく似てきた」

 

 そう言って水樹の太ももを撫でる。手は乾燥していて冷たかった。

 

 水樹の精神は限界を迎えていた。

 

 学校でも周りの人々の水の色が気になって落ち着かない。誰も彼もが自分を傷つける存在に見えてしまう。友人たちの些細な悪意や嫉妬の色すら見えてしまうから。

 

 夜も眠れず食事も喉を通らない。体重は目に見えて減っていき目の下には隈ができた。

 

 そんな時、由美子が家を空けることになった。遠方の親族の葬儀で三日間留守にするというのだ。

 

「三日間留守にするから。健一さんと仲良くしてるのよ。くれぐれも迷惑をかけないように」

 

 由美子はそう言って家を出て行った。顔には何の感情も浮かんでいなかった。

 

 水樹は恐怖に震えた。

 

 叔父と二人きり。この密室の中で三日間も過ごさなければならないなんて。

 

 地獄の始まりだった。

 

 ◆

 

 そんな初日の夜。

 

 健一は意外な行動に出た。

 

「水樹ちゃん、すまなかった」

 

 彼は夕食の席で突然頭を下げたのだ。食卓にはデリバリーで頼んだ高級寿司が並んでいた。

 

「俺、少しデリカシーがなかったかもしれない。お前が多感な時期だってことを忘れていた。嫌がっているのに気づけなくて本当に申し訳ない」

 

 言葉はあまりにも唐突だった。誰かに言わされているような。

 

 水樹は健一の水を見た。

 

 彼の水はいつものような濁りはなく比較的透明だった。しかしその中に微かな緑がかった不自然な色を見つける。

 

 ──緑……? 

 

 緑というのが何を意味するか、水樹にはわからない。

 

 それでも水樹は健一の言葉を信じたかった。いや信じるしかなかった。ここで信じません、といってかえって相手を激昂させることになれば最悪だ。

 

「……分かりました。もうしないでください」

 

 水樹は震える声でそれだけ答えるのが精一杯だった。

 

「ああ約束する。これからはちゃんとした保護者として水樹ちゃんを支えていくから」

 

 健一はそう言って穏やかな笑顔を見せた。だがその笑顔はやはりどこか歪んでいる様に見える。

 

 ともあれ、その夜は何事もなく過ぎた。

 

 ◆

 

 二日目の夜。

 

 時計の針は深夜零時を回ろうとしていた。

 

 健一は夕食後、書斎で仕事をしていると言っていた。まだ起きているのだろうか。

 

 水樹はトイレに行くために部屋を出た。廊下は暗く静まり返っていた。

 

 用を足し部屋に戻ろうとした時、ふと書斎のドアの下から光が漏れているのが見えた。

 

 ──まだ起きているんだ

 

 そう思いながら水樹は自室に戻った。

 

 そしてベッドに入り電気を消した。

 

 数十分後──水樹がうとうとし始めた頃。

 

 ──ガチャリ。

 

 ドアノブが回る音がした。

 

 眠気が一気に覚めて、水樹は目を見開いた。

 

 慌てて起き上がり、ドアを見る。

 

 ゆっくりと開いていくドア──そこから人影が姿を現した。

 

 健一であった。

 

 強烈な酒の臭いがした。ウイスキーの甘ったるい匂い。

 

「……叔父さん、何の用ですか。もう遅いです」

 

 水樹は震える声で尋ねた。ベッドから起き上がり、後ずさる。

 

 健一は答えなかった。ただにやりと笑っただけだった。笑みは人間のものとは思えないほど醜悪だった。

 

 水樹は見た。

 

 健一の水がかつてないほどどす黒く濁り粘性を増しているのを。もはや水とは呼べないコールタールのような液体だった。ヘドロ、汚物、欲望、悪意。あらゆる負の感情が凝縮された悍ましい塊に見える。

 

 そして、それがゆっくりと水樹に近づいてくる。

 

「来るな! 来ないで!」

 

 水樹は叫んだが、健一は止まらない。

 

 一歩、また一歩と獲物を狙う肉食獣のように水樹に迫ってきた。

 

 彼は水樹のベッドに乗り上げその華奢な身体にのしかかってきた。

 

「そんな事を言わないでくれよ、俺は水樹ちゃんと仲良くしたいだけだ」

 

 健一の声は低くしゃがれていた。

 

 彼は力ずくで水樹のパジャマを引き裂いた。ビリッと布が裂ける乾いた音。

 

「いやあああ! 助けて! 誰か!」

 

 水樹は必死に抵抗した。腕を振り回し足をばたつかせる。爪を立て健一の顔を引っ掻こうとする。だが大人の男の力には敵わなかった。両手首を掴まれベッドに縫い付けられる。

 

「静かにしろ! 騒ぐと面倒なことになる。大人しくしていれば気持ちよくさせてやる」

 

 健一は低い声で囁いた。息は熱く酒臭かった。反吐が出るような臭い。

 

 そうしてあっという間に下着姿にされてしまう。健一の欲望に満ちた視線が水樹の白い肌に注がれる。

 

 健一の手が水樹の下着にかけられた。水樹はそれをやめさせようと暴れるが、両手首を健一の片手に抑え込まれて、足しか動かせない。

 

 その足ですら、健一に乗られるようにして自由を封じられてしまう。

 

 ──ああこのまま犯されるんだ。汚されるんだ

 

 絶望が水樹の心を支配した。

 

 両親が死んだあの時と同じ暗く冷たい絶望。抵抗する気力も失せただ天井を見つめるだけだった。身体から力が抜けていく。

 

 既に下半身ははだけている。

 

 無垢なそ(・)の(・)部(・)分(・)を見た健一は更にいきりたち、息遣いを荒くした。

 

 水樹の目からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。

 

 悔しい。

 

 悲しい。

 

 怖い。

 

 助けて。

 

 お父さん……お母さん! 

 

 様々な感情が入り混じった熱い涙だった。心の叫びだった。

 

 熱い雫が頬を伝い枕元に染み込んでいく──

 

 はずだった。

 

 ・

 ・

 ・

 

「え?」

 

 水樹は思わず声をあげる。

 

 健一も動きを止めて、何かを凝視しているように見える。

 

 何が起こったのか──涙だ。

 

 水樹の涙が、ふわりと宙に浮かんでいる。

 

 そして涙の雫は意志を持っているようにゆっくりと健一の口元へと移動していった。

 

「あ?」

 

 健一が間抜けな声を上げた。何が起きているのか理解できなかったのだろう。

 

 涙の雫が彼の開かれた口の中に吸い込まれるように飛び込んでいった。

 

 ◆

 

「……んぐっ?」

 

 健一は反射的にそれを飲み込んだ。ゴクリと喉が鳴る。何が口に入ったのか理解できていなかったのだろう。ただの水分だと認識したのかもしれない。

 

 健一の動きがぴたりと止まった。

 

 あの海で死の間際に自分の身体に流れ込んできた、冷たくもどこか懐かしい水。それが今、涙となって溢れ出し──健一の中で溶けていく。

 

 そんな事を思う水樹。

 

 ──違う、これは私の涙じゃない。お父さんと、お母さんの──

 

 健一の水は内側から激しく泡立ち沸騰し始めた。まるで、劇薬を混入されたかの様だ。

 

「がっ……!? あ、熱い……! なんだこれは……! 焼ける……!」

 

 健一は喉を押さえ水樹の上から転げ落ちた。床をのたうち回る。陸に打ち上げられた魚のような。あるいは塩をかけられたナメクジのように。

 

 健一の全身から蒸気のようにどす黒い水が噴き出しているように見えた。

 

 それと同時に、健一がどんどん乾(・)い(・)て(・)い(・)く(・)。

 

「水……みずを……! 助けてくれ……!」

 

 健一は掠れた声で呻きながら這うようにして部屋を出ようとした。だが動きは鈍く、数歩進んだところで力尽きた。

 

 信じられない速度で干からびていく健一の肌。

 

 皮膚が乾燥しひび割れる。張りを失った皮膚が骨に張り付き紙のようにカサカサになった。眼球は落ち窪み髑髏のようになった。髪の毛は抜け落ち爪は剥がれ落ちた。

 

 何十年もの時間が一瞬にして経過したようにも見える。

 

「あ……が……」

 

 断末魔の叫びすら上げられなくなった健一は、水樹の目の前で急速にミイラ化するようにして動かなくなった。

 

 ◆

 

 水樹は引き裂かれたパジャマのままでただ呆然とそれ(健一だったモノ)を見つめていた。

 

 恐怖と混乱で声も出ず、身体が震え歯をガチガチと鳴らす水樹。

 

 だが不思議と罪悪感はなかった。

 

 水樹の目からは依然として涙が溢れ続けていた。

 

 ふわり、ふわりと浮遊する涙の一滴一滴が、暗い部屋にもかかわらずやけに煌めいて見える。

 

 そんな涙が──

 

「え……?」

 

 一瞬。

 

 ほんの一瞬だが、涙の雫に両親が映りこんだように見えた。

 

 ◆

 

 翌朝。

 

 水樹は一睡もできなかったが、気力を振り絞って警察に通報した。

 

 駆けつけた警察官たちは説明のつかない健一の遺体を見て絶句した。

 

「これは……一体……どういうことだ?」

 

 ベテランの刑事も言葉を失っていた。これまで数多くの凄惨な現場を見てきたがこれほど奇妙な遺体は初めてだった。

 

 遺体は何十年も乾燥した場所に放置されていたようだった。体重は半分以下に減少し皮膚は茶色く変色しミイラ化していた。

 

 水樹は事情聴取で叔父から性的暴行を受けそうになったことを淡々と話した。彼女の身体には抵抗した際にできた痣や擦り傷が残っている。

 

 しかし健一がなぜミイラ化したのかについては何も話せなかった。

 

「急に、苦しんで。それで──」

 

「自然にこ(・)う(・)なってしまったと?」

 

 そんなわけあるかと思いつつも、聞き取りの刑事は取り調べを進める。

 

 検死の結果、健一の死因は極度の脱水症状による急性心不全とされた。

 

 体内からはほとんど水分が検出されなかったのだ。

 

 なぜ健康な成人男性が密室の中で数分のうちにミイラ化するのか科学的な説明は不可能だった。

 

 薬物や毒物の反応もない。水樹が叔父の死に直接関与した証拠は何も見当たらない。

 

 結局事件性を示す証拠も見当たらず健一の死は「変死」として処理された。不可解な点を残しながらも捜査は打ち切られた。

 

 数日後、葬儀から戻ってきた由美子は事の顛末を聞き半狂乱になった。

 

 警察から健一が水樹に乱暴しようとしていた事実を聞かされてもなお彼女の態度は変わらなかった。彼女にとって夫の死という事実だけが重要でありその原因などどうでもよかったのだ。いやその原因から目を背けたかったのかもしれない。

 

「嘘よ! あの人がそんなことするはずない! あなたが誘惑したんでしょう!」

 

 彼女は現実を受け入れられなかった。そしてその矛先はすべて水樹に向けられた。

 

「あなたがこの家に来てから何もかもうまくいかない! 夫まで奪って……この疫病神!」

 

 由美子は水樹を激しく罵倒した。

 

 その時、水樹は見た──由美子の水がどす黒い憎悪の色に染まっているのを。

 

 憎悪と自己憐憫、そして──何かを隠蔽しようとする焦りだろうか。彼女の水は健一のそれと同じくらい醜く濁っていた。

 

 ──もうここにはいられない

 

 そう決意する水樹だが、望むと望まざるとにかかわりなく、水樹は由美子から引き離されることになった。

 

 精神的に不安定で、水樹に敵意すら向ける叔母との同居は不可能と判断され──結句、水樹は児童相談所に保護される事になったのだ。

 

 施設の中で水樹は自分の身に起きたことを淡々と語った。叔父からの性的虐待、そしてあの夜の出来事。もちろん自分の涙が叔父をミイラ化させたことや人が水に見えることは話さなかった。

 

 彼女の話を聞いた職員たちは皆一様に言葉を失った。

 

 そして水樹の心に寄り添い彼女の安全を確保するために尽力してくれた。

 

 後日、両親が遺した保険金と遺産について管財人である弁護士から連絡があった。その額は水樹が想像していたよりも遥かに大きかった。両親は水樹の将来のためにコツコツと貯蓄をし多額の生命保険にも加入していたのだ。

 

 そこで初めて水樹はすべてを理解した。

 

 叔父と叔母の目的は最初からこれだったのだと。

 

 健一が水樹に執着したのは彼女を自分の支配下に置くことで遺産を自由にしようという目論見があったからだ。そして彼の性的欲求もまたその支配欲の延長線上にあったのだろう。

 

 そして由美子が水樹の訴えを無視したのは波風を立てて自分たちの立場を危うくしたくないという自己保身からだった。彼女は夫の悪癖を知りながらも贅沢な生活を手放したくなかったのだ。

 

 すべてはお金のためだった──そう思った水樹は、悲しみや怒りよりまず先に虚無感を覚えた。

 

 ──私には結局、何もないのかな

 

 そんな思いすら抱く。

 

 ・

 ・

 ・

 

 鬱々とした日々が数週間ほど続き──水樹に思いがけない出会いが訪れた。

 

 母方の祖母の妙(たえ)が遠方から迎えに来たのだ。長く疎遠になっていたが娘夫婦の事故と今回の痛ましい事件を知り唯一残された孫を引き取る決意をしたのだった。

 

 妙は白髪の目立つ小柄な女性だった。

 

「水樹、よく頑張ったね。辛かったろう」

 

 妙は皺だらけの手で水樹を抱きしめた。

 

 その温もりに触れた時、水樹は気づいた。

 

 視界が元に戻っていることに。

 

 妙は水ではなく普通の人間として見えていた。あの異様な水の揺らめきはもう見えなかった。

 

 ◆

 

 妙が住むのは海辺の静かな町だった。古い日本家屋で縁側からは海が見えた。潮の香りがいつも家の中に漂っている。

 

 新しい学校生活にも慣れ友人もできた。彼女の過去を知る者はいない。穏やかな日常がゆっくりと流れていく。水樹の顔には少しずつ笑顔が戻ってきた。夜、悪夢を見ることも少なくなった。

 

 ある休日、水樹は妙と海辺を歩いていた。

 

 かつて両親を奪った恐怖の対象だった海。暗く冷たい絶望の象徴だった海。

 

 だが今は違って見える。きらきらと太陽の光を反射する広大な水面は、率直に言って美しい。

 

「水はね、時に牙をむくけれどすべてを清め育てもするんだよ」

 

 妙が語りかける。

 

「人の心も同じ。淀むこともあれば澄み渡ることもある。大事なのは流れを止めないことさね。流れていれば水は腐らない」

 

 水は流れ、清める。

 

 あるいは、命も。

 

 あ(・)の(・)時(・)見えた像はなんだったのだろうか。

 

 水樹は涙の雫の向こうに両親の姿を見たことを思い出した。

 

 あれをただの見間違いだと思いたくなかった。

 

「うん」

 

 短く答える水樹の瞳はどこまでも澄み渡っていた。

 

(了)


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