一塊の風が、輪になって辺りにざっと吹いた。
それは一度だけのものであったが、しかし、それによって周囲は激変する。
荒天は消え失せ、空は蒼穹。
大地は暖かな陽光を浴びた草原に、糸杉が散見される。
「え、なにここ?」
離れていたハナたちも巻き込まれている。彼女らはあたふたと辺りを見回すが、どれも見しらぬものだ。
これは固有結界。
発動した術者の心象風景を世界そのものへ侵食させ、塗り替える。この結界の中では物理法則さえも独自のものとなり全くの別世界にやってきたと考えてよい。今ランサーが呼び出したのは、彼の思い出の地カイロネイアであった。
ランサーの傷は知らぬ間に癒え、折れた骨さえも元通りになっている。隻眼であるのにも関わらず両の目から火が噴き出すのではないかというほどに、目が爛々と輝いていた。両手を大きく広げ天を仰ぎ、まるで陽光の旨味を堪能するかのような笑顔のランサーは思った。
──ああ、カイロネイアよ。懐かしき戦場よ。
ここがカイロネイアであるのならば、それは必定。地鳴りの如き数多の足音と共に彼らは何処からやってきた。
数にして数千人。
皆一様に大盾とサリッサを携えて王の許へとやってくる。逞しい肉体は受肉はしていたが、顔だけは暗く子細がわからないため個人を特定するのは不可能と思われた。だが、ランサーにはその所作、身体的特徴から全ての者の名がわかった。例えば一直線にやってきて、隣にどんと立つのはパルメニオンだ。
「パルメニオン、よくぞ来た!此度もまたアテナイとテーバイのように打ち滅ぼそうぞ!」
ランサーは肩を叩きそう声をかけた。
パルメニオンは答えない、否、声を発する程の現界を果たしていないようだった。
それでも賛同していることはランサーにはわかった。それが絆であり、同じ夢をみる朋友ということだ。
「皆のもの!隊列を組め!」
素早い動きで顔なき兵士たちは隊列を組む。
密集し前列は槍を前へ、後列は掲げ、
「進め!」
というランサーの号令を受けて前に進み出す。その整った様は壮観であり、練度の高さが素人目にもわかるほどだ。
「ほう」
と見ていたライダーさえも感嘆の声を漏らす。
「王と僭称する程度の者かと思ったが、これはなかなか。矮小ではあるが、矮小なりにやるではないか。今一度見定めてやろう、『エンリル』」
だが、ここはカイロネイア。遠き神の権能は働かない。ライダーの言霊は今やただの音であった。
「奢ったな!ライダー!貴様の傲慢な態度もこれまで!我が軍勢に敗北はなし!」
「フ。……ハハハハ!」
ライダーはようやくなのか、ついになのか、ともかく感情を初めて顕わにし大口を開けて大笑する。
「奢り?フハハハ!奢ろうとも。奢らねば帝王にあらず!見事!見事ぞ!矮小なる王よ!その啖呵、その隊列、その練度!貴様らの愛の絆をしかと見た!」
「そうしていつまでも慢心しているがいい。あの世の果まで奢りつくせ。我ら万里を征く軍勢なれば、貴様などは路傍の石に過ぎない!さあ皆のもの奴を討ち取れ!」
地響きと共に大軍は進軍する。
砂埃が湯気のように舞い、一様に長槍を携えてライダーへと迫る。
槍の圏内、もう僅か、というところでランサーは言った。
「今なら見逃してやる。私は無意味に血を散らすことは好まないのでね」
「帝王は背を見せぬ。逃走はない」
「では、仕方あるまい!『
「戯け者どもめ」
ライダーはもう、それだけで切断できるような鋭い眼差しで言う。
「そこまでのぼせ上がっているのなら、身を持って知るがいい。貴様らの愛は見事なれども余りに小さい。小さすぎる。見渡す限りの血縁縁者、同族ばかりの烏合の衆よ。かような狭小たる愛の絆では一国の王であれば是なれど、所詮その程度。我は帝王!全ての王にして、全ての頂点なれば!ソーマルであろうと、アカイオイであろうと構わぬ。全て取るに足らぬ些事なれば、血が異なろうと、肌の色が違おうと、我が大いなる愛で包みこんでこそよ!我が名を知りたいと申したな、そこな矮小たる王よ。ならば聞き、刮目して見るがいい。王とは、軍勢とはなんたるかを!」
ライダーはとうとう組んでいた腕を解き、ゆっくりと天へと掲げると大声で言った。
「愛する民たちよ!愛する神々よ!天よ地よ!海さえも!我が広遠なる愛を受けたならば、愛によって応えるがいい!応報は必ず果たされる、帝王の天命はここに成る!
『
☆
塗り潰される。
間近に迫った槍の軍団は突如として眼前に現れた激しい砂塵に巻き込まれ、皆は頭を下げ盾を構える。ひとしきりの砂塵が通り過ぎ、構えを解いた軍勢の目の前に広がるのは、既に塗りつぶされた世界。広がっていた草原や散見された糸杉さえも既になく、代替に広がるのはひたすらの砂原。乾いた砂漠。そして、いつの間にやら彼らの目の前にはジグラットと呼ばれる巨大な建造物がそびえ立つのであった。
これは固有結界。
強大な心象風景に侵食されカイロネイアは最早ここにない。ジグラットの最上には腕を組んで見下ろすライダーの姿が見えていた。
ランサーの軍勢はなすすべもなく唖然と周囲を見回すばかりであったが、王たるランサーは先程の言動を思い返し、はっとして言った。
「今、サルゴンと言ったか!?貴様がサルゴンだと!?」
「当世風、英語と言ったか?これに言い換えたのだ。万民に分かりやすくは帝王たる我の務めであろう?さあ、ひれ伏すが良い。帝王の愛をしかと見よ」
そう言ってライダーが手を開いてランサーたちへと向けると、ジグラットから無数の矢が軍勢に向けて放たれた。空を真っ黒に覆い、あたかも田園を食い荒らす蝗のようにランサーたち目がけて飛んでくる。
大声で指示を出すランサー。
皆が盾を構えて矢を受ける。だが、その矢はただの矢ではない。神代の魔力が込められた神秘に近いものである。無論、盾はむべなくつきぬかれ大盾を自慢気に展開した軍勢はばたばたと倒れていく。大津波のような矢の嵐がやみ、砂埃が晴れて広がるのは死屍累々。数千といた多くの兵士は一人一人が大量の矢を浴びて雲丹のようになり、倒れていた。
「パルメニオン!」
ランサーは目の前で倒れた一人の兵士を抱き起こす。彼は瞬時に状況を判断し、盾と己の肉体でもってランサーを守ったのだった。受肉した肉体からは赤い鮮血が流れ、胸を上下させていて呼吸も荒い。すっと片手を伸ばし、それをランサーが受け止めると強く握った。それが最期であり、パルメニオンと呼ばれた顔なき戦士は黒い靄となって霧散した。
これでランサーの軍勢は潰えたかのように思えた。
だが、ただ一騎、別働隊としてちょうどジグラットの横腹辺りに展開していた騎兵が残っていた。その立派な体躯を持つ一人と一馬は、荒々しく砂漠を駆けてジグラットの麓にまでやってくる。騎兵は跨がりながら剣を天へと掲げ、けたたましい雷鳴を巻き起こした。そのまま速度を落とさず、馬に纏わせ迸る雷電でもって壁面を蹴り崩しながら駆け上り、ジグラットの頂点、ライダーと同じ高さまでやってきた。
「ほう?いるではないか。かような猛者が」
ライダーは凄まじい速度でやってくる騎兵に体は向けず、目だけを向けた。
「『ダガン』」
そうライダーが言うと駆けている馬の足元より麦穂や稲穂が湧き出し、馬を包み込む。瞬時に円錐台となったその穀物は馬を止めてしまう。急激に速度を落とされた騎兵は馬から放り出され、もんどり打ってジグラットの床に叩きつけられた。だが、彼はそれでも怯まない。大柄な体躯を揺り起こし、両の足で力強く走り出して片手に握った剣を振りかぶる。鬼神の如き迫力で走り、ライダーへと迫るととうとうライダー目がけてその剣を振り下ろした。
ライダーは腕を組んだままだ。
防御の姿勢さえとらない。
それどころか体はまだランサーの方へ向けられている。
このままでは大振りなその剣が、ライダーの体を二つに裂いてしまう、そう思われた。
しかし。
突然、ライダーと騎兵の間、なにもない空間に油膜のような虹色の塊が揺らめくと、そこから布づくめの兵士がぬわり、と現れた。兵士は騎兵の剣を己の剣で持って受け止めると弾き返した。それとは別の布づくめの兵士が数人、いつの間におり、その内の一人が背後から膝を蹴って騎兵を膝まづかせると、もう一人別の兵士が騎兵の髪の毛を掴んで顔を無理矢理に上げ、首元に剣を当てた。
これにて騎兵の雷撃の如き進軍は終わったのだった。
「大義である」
ライダーはようやく騎兵に向き合ってそう言った。
「貴様の無謀なれども勇敢な働き、この我の心を揺さぶった。名はなんと申す?我が許す、名乗るが良い」
騎兵は答えない。顔の子細もわからないのだ。わかるのは赤赤とした髪の毛が生えている、というくらいである。
「影では答えられぬか」
「その者は」
ランサーが下から大声で言う。ライダーが彼を見やると、伏し目がちにしているのに気がついた。
「その者、その影は……。その影は、我が息子アレクサンドロス」
「アレクサンドロス。良い。その名、我の新たなる帝王史に刻むとする」
そう言ってライダーが軽く手を上げ振り下ろすと、布づくめの兵士がアレクサンドロスの首を跳ねた。大柄なその体躯と乗っていた馬は黒い靄になり風に吹かれて消えてしまった。
「狭小だが勇猛なる王よ!良いだろう。先の者の働きに免じて、退却を許す!」
「なに?」
「大勢は決した。貴様もここで退去したくはなかろう」
「情をかけられるとは……恥です。恥の極みですよ!」
「恥?恥ではない。我に敗北などない故、貴様の敗北は必然必定、恥ずべきことなどなにもない。これは愛よ。我が大いなる愛なれば、敬拝し受け取るが良い」
「どこまでも傲慢な……」
「我の心が変わらぬうちに疾く失せるがよい」
ランサーは歯ぎしりをしながらも、じりじりと後退していく。そして、ライダーが攻撃してこないのをはっきりと確認すると、背を向けて逃げ出した。
☆
「王様やー、王様やー」
すっかり辺が岩壁の迷路に戻り、ランサーたちが犀車に乗って逃げ出した頃、六平寺がやってきた。ケロ吉に乗ってピョコピョコとライダーの隣にまで上ってくる。
「どうしてそのまま倒しきらなかったんでさ?ばばばーってもうちょっとで倒せたんしょ?」
「我は全ての王より優れた帝王なれば、王と名乗る者にはただ勝つというだけではならぬ。圧倒的に、我に屈伏するようにせねばな」
「ほうほう」
「今回は少々手を焼いた。時間を使いすぎたのだ」
そう言ってライダーは後方を指差す。丁度その時、その辺りから猛虎のような咆哮がした。
「んあ?ありゃあ……」
「先程の狂戦士がこちらに来る。セイバーとアーチャーは逃げおおせたようだな。狂った者を愛で導くも帝王たる我の務めではあるが、てぃーぴーおー、であるか?時間と場所を拘らねばな。当世の民にも我の偉大さを示さねばならぬ。ただただ打ち負かすは戦士のする事よ。ここを去るぞ、同盟者よ。小癪な暗殺者もいる故な」
「あ、暗殺者!?」
六平寺は眉に水平にして手を当て辺りを見回すが、人影らしきものは見えない。バーサーカーがいると思しき方向に砂埃が上がっているのが見えるだけだ。
「どこにも見えんべさー」
「わからずとも良い。所詮は傍観者、大手を振って出てくることは無い。まずは、ここからの退却に専心せよ」
そう言ってライダーは両腕を組んだまま下へと降りていく。慌てて六平寺はケロ吉にお願いして壁をずり降りていくのであった。