もう既に三時間以上森の中を彷徨っているが、誰としてその時間を正確に把握できる者はいない。森の中は常に仄暗く陽の陰り加減では時間は判然としない。旺盛に生い茂った草木は森の中の気温を一定に保持しているために、気温差によっても時間は読めなかった。ただ、休み休みであったので長時間ではあったもののアルフォンスの足は悲鳴を上げるには至らなかった。
道行きも愉快なものであった。
どうやら六平寺とアルフォンスは共に気があったらしい。互いに田舎暮らしが長く純粋無垢であるからかもしれない。ただ、どちらかというと六平寺の方が好奇心旺盛でお喋りであった。
「ほへー、コチカ村。そげなとこからやってきたんべか」
顔中煙だらけにして六平寺は言った。彼のトモガマという大蛙はケロ吉というらしく、ケロ吉に至っては体中が煙に包まれていて、見た目はさながら大きな繭のようである。そんな繭がひょこひょこと跳んでいる様は滑稽を通り越してシュールに見えた。だが、それも時間の経過と共に皆慣れてしまっていた。
「六平寺さんはどこから?」
アルフォンスも顔中煙だらけにして尋ねる。
「杏介でいいべさー、かたっ苦しいのは苦手でね。ああ、それでおらの村?おらの村は熊野村っちゅう村さね。オイライキ砂漠の先、南の方にある辺見窟っちゅうとこにある村だべさ。知っとるけ?」
「えっと、いいえ。知らないです。すいません」
「謝ることないけー。おらもコチカ村のこた知らんかったし、お互い様だべ。そもそも、熊野村はド田舎じゃし、知らんで当然ちゃあ当然べさ。それにしてもよー、あの女の人がかの有名な“
完全に『烟る』を『燻る』と誤認していたが、大差なく思われたのでアルフォンスは指摘しなかった。
「シルビアさん言ったらあれじゃないけ?
「面白い名前?中の登場人物のことですか?そんなにおかしくはなかったような気がするけど」
「んにゃ。そげじゃのうて本の題名さね。ファーアウェイクロニクルって」
「あ、ああ。……確かにそうですね。ホコリ溜まりなんて面白い名前ですよね?」
「あー、そっかあ。アルフォンスさんはビコトじゃけ、知らないべさ」
「え?え?」
「人間族の中にはのう、英語ちゅうてウヌス語でない言語を使う人たちもおるけね。うちの村には少ないけんど、おらの爺様は英語が得意でね。ほんで、ファーアウェイクロニクルのファーアウェイってのは英語で『遠く離れた』っちゅう意味があるんべよ」
「え?そうなんですか?」
「そうともさー」
「じゃあ?クロニクルっていうのは?」
「それは変わらんね。年代記とか時代記ちゅう意味だべ」
「クロニクルも英語なんですか、へえ」
「んだ。だもんで面白い名前ちゅうたべよ。で、英語で名付けとるんやから、やっぱり人間族やったべーって」
「そういえば、六平……杏介さんも人間族なんですか?」
「おうともよ。おらはバリバリの人間族だべ。ほんにアルフォンスさんみたいなビコト族と会うのは初めてで、楽しいべや」
「ぼくも蛙を連れてる方をみるの初めてで。とても不思議で面白いですよ」
「ほやか!ま、トモガマなんちゅうは、おらたち一族の特殊なとこだべな」
ばんばん、と六平寺はアルフォンスの背を叩いた。アルフォンスは少し咳き込んだが、六平寺の屈託のない笑顔を見ていると不思議とコチカ村の懐かしい空気が感じられるのだった。
☆
実はもう既に外は真夜中になっていた。
森の中は相変わらずうっすらと明るいため、一行はそのことには気づけないでいた。だが、ようやく目的地たる『夢の泉』にたどり着いたのだから外の仔細はどうでも良かった。
「宝と思ったが、これは些か厄が強すぎるな」
とライダーは言った。
彼、というより全員の視線の先、そこに夢の泉がある。その泉は天然自然のものであり、幾つもの葉や枝が重なり合って水盆を成し、中央は更に枝葉が重なって小さな小山となっている。その山頂から水が流れ出ているのだが、その水は水銀に似た不透明の液体で周囲の景色を反映している。水盆から溢れた液体は流れるままになっているため泉周辺は沼沢地になっていた。彼らは沼沢地の縁に立って辺りを見回していた。
「王様やー」
と六平寺は首を傾げながらライダーに問う。
「厄言うたけど、どういうことで?」
「ここより流れ出でている水、見たままも常ならざる水である故、察しはつくであろうが、これは毒だ。触れるでないぞ。我が同盟者よ」
「毒?て、こたあ、あそこまで行けないってことか?あ、もしかして、ここでも魔力補充はできんじゃねえか?水に触れてさえいればいいんだろうからよ」
セイバーはシルビアに尋ねた。この重油でも溢したかのような沼沢地が、仮に毒の大地とするならばフラスコへの魔力補充が沼沢地で可能であるのかないのかは重大な疑念であった。
シルビアは落ち着いて答えた。
「いや、あの泉の縁に指輪を置かぬことには魔力補充はできん。わたしがあそこまでの道を作ろう」
そう言ってからシルビアは泉へ向けてふーっと煙を吐いた。
すると吐かれた煙は音を立てて固まりはじめ、細長い薄鼠色の道として沼沢地の上に顕れた。
「ほれ、これで良いじゃろう」
と得意気に言いながらシルビアは袖の中へパイプをしまい、更に言う。
「アルよ、ライダーの言う通りこの水はお主には毒じゃ。いくら道があるからといって気を抜くでないぞ。触れぬよう、ゆめ注意するのじゃ」
「わかったよ。ん?シルビアどうしたの。なんか慌ててるけど」
「わたしは別件でここを離れる。なに、そう遠くはない。直ぐに戻る」
あ、ちょっと!とアルフォンスが言葉にする前にシルビアはさっさと更に森の奥へと消えていった。
☆
拍子抜けするほどになにもなく泉の縁までたどり着いた。シルビアが用立てた煙の道は存外に丈夫なもので、三人が歩くのには全く問題は無かった。
アルフォンスは指輪型のフラスコを取り出した。緑色に変わったその指輪は見れば見るほどに、特別感はない。
「気をつけろよ。詰めの部分が一番危ねえからな」
セイバーはアルフォンスにそう声かけした。軽い調子だったのはアルフォンスに緊張させまいとした気遣いらしかった。だが、悪気はないし仕方ないことなのだが、かえってアルフォンスは緊張した。
震える指先でつまむように指輪を持ち、そろりそろりと手を下ろしていく。泉は光沢を持ちながら周囲の景色を反映しているため、今はアルフォンスが映り込んでいた。緊張から強張った顔をした自分を見て、ますます手の震えが増していく。お願い、お願い、何も起こらないで!と祈りながらアルフォンスは水盆の縁、ミミズバイの葉によって形成された端先の、丁度指輪が置けそうな平らな場所へと手を、指を伸ばしていく。
そして、とうとう指輪を置いた。
ふぅー、と口を尖らせてアルフォンスは息を吐く。
往々にしてこういう時にこそ気を抜いてはいけない。セイバーはそれを予期していたので声をかけたわけだが、その努力は虚しく終わる。
そろり、と指を離したアルフォンスの親指は、手首の動きの反動で前に出、指輪を小突いた。
「あ!」
と言った時にはもう遅い。指輪は縁から転げて、それでも浅瀬の水の中へ落ちた。よせば良いものを、アルフォンスは咄嗟に手を伸ばし指輪をつまんだ。指輪は半身しか浸かっていなかったので、上手くつまめば水に触れることはなかったのだが、咄嗟の判断ではそんな細やかな動きをできるはずもなく、アルフォンスは指輪をつまめはしたものの水にも触れてしまった。触れた水は僅かではあったが、毒は毒。アルフォンスの意識は瞬時に遠のき、膝から崩れ落ちた。
☆
──埃っぽいオフィス街の中央で、人々を見やる。黒いアスファルトを黒い革靴で踏みしだき、黒いスーツを着た人間族の男やら女やらが闊歩している。中央、太い幹線道路を行くのは車だ。排気ガスを出しながら、時速という速度で行き交っている。鏡面のごとき壁面を持つビルヂングが林立し、太陽光をあちらこちらへと反射している。汗を拭く中年の男。派手なスーツの若い女。いつしか夜になってネオンが視界に飛び込んでくる。不思議な文字で書かれた看板に、呼び込む男の言語も不明瞭。物言わぬ女はスケッチブックをこちらに見せて、物欲しげな顔で見つめているが、望むものは彼女には手に入らないであろう。黄金に輝く田畝には、唸るぜコンバイン。清流は冷え冷えとした山嶺から下り、大河となって大洋へ至る。海岸沿いには、水着の人々。黄金色の髪を持つ人々は、肌を焼くことに執心しているらしい。石工の作った街並みに、石窯で焼いたピザの香り。巡っていくのは砂漠や、森や、住宅街。童は乗ってはいけない塀の上で体操選手の真似事をし、誰ぞかの母は自転車で道を滑走している。静まり返った夜半、背を丸めて歩くのは一人の男。街灯が彼の背を赤く照らすのであった。
淀み。
腐り。
湧いて。
濁る。
手にはグローブ。
対面にもグローブをはめた上裸の男。
殴られたことでようやく気づく。
ここはボクシングのリングの上。
六回戦程度のボクサーの、まばらな観客が見えるリングの上だ。
観客などみているばかりに、石のような拳を貰う。
いいのをもらってしまった。
鼻は血の匂いで一杯で、マウスピースが口から飛んだ。
全身の体の力が抜け、膝から崩れ落ちる。
マットへ頭を打ち付けると、横になった世界にはこちらを呼びかける者が二人。
カウントが進む。
呼びかけているのは、青髪の男と青い頭巾の男。
青が好きなグループなのだろうか。
朦朧とした意識の中で呑気に思う。
下肢に力が入らないが、存外心地が良い。
このまま眠ってしまおうと目を閉じるも、耳は閉じれずカウントだけが響いている。
ゴングが鳴る。
テンカウント。
青髪の男が必死に呼んでいる。
そして鳴る事のないはずのイレブンカウントのコングが鳴った。
☆
衝撃。
まるで凍てつくかのような鋭い痛みがアルフォンスの頬から顎にかけて迸る。視界には七色の火花が散り、視野が開けてくるとそこには真剣な顔でこちらを覗き見るセイバーの顔があった。
「大丈夫か?マスター」
「せ、セイバー?」
アルフォンスは辺りを見回し、薄暗い森の中にいることを確認する。
──今のは……。一体……。
「よくぞ生還したものだ。我らサーヴァントならいざ知らず、貴様のような生身であっては帰ってくるのは奇跡に近い」
ライダーは褐色肌の腕を組んで見下ろして言った。
「なにか知っている風ですね」
「否、我は何も知らぬ。だが、見当はつく」
「見当?ぼくは見当すらつきませんよ。なにかちょっとでも教えてもらえれ……あ、あれ?」
アルフォンスはライダーを見た。否、詳細に言えば彼の肩の後ろの方角だ。
そこら一帯には誰もいない。
青白い靄が漂っているだけだ。
「六平じゃない、ええっと、杏介さんは?」
☆
一つ。
また一つ。
一つ。
また一つ。
と階段を降りていく。
ラテライトで作られた左右の壁には、等間隔に提灯がぶら下げられ橙色の灯りが心許ないながらも灯っている。地下へと向かう階段からは黴っぽい空気が流れてきており、シルビアを不快にさせる。かつん、と降りる度に乾いた足音が鳴る。そして、遅れてもう一つ足音がしていた。
「はあ」
とシルビアは煙と共にため息をついた。
「それで、どこまで付いてくる気なんじゃ?」
半歩だけ先の階段に降りてシルビアは振り返って言った。
「ここまで来たんなら、最後までお供すんべ」
六平寺は悪気のない笑顔で答えた。
「入口で待っとれ言うたじゃろ。そも、なんでついてきたんじゃ?お主、夢の泉で魔力補填できたかもじゃろ」
「ほ?入口にゃあケロ吉を待たせとるで、それでよかないべさ?」
そう言うまでは六平寺は笑顔であったが、突然真顔になって言葉を継ぐ。
「魔力補填って、そりゃあアルフォンスさんから横取りしろってこと?それはダメだべ。そういうズル、王様許さないだろし、おらもアルフォンスさんのこと好きだべさ」
「その志はクソ立派じゃのう」
と少し感心したシルビアは再び階段を降り始めた。
二人が階段を降り始めてもう三十分近くは経過していた。絵面は複製画のように変わらず、紅鼠色の土塀と提灯の灯りが下へ下へと続いている。辛抱たまらん、といった様子で六平寺は声をかけた。
「外見はあげな感じじゃったもんで、こんな中が広いなんて思わんかったべ。先生、これどこまで続いてるもんだべさ?」
「わたしにもわからん。外観と中身がそぐわんのは、魔術で拡張しておるからじゃ。故に、どこまで広がっているかは、術をかけた本人にしかわからぬ。そもそもここをなにと思ってついてきたんじゃ。お主の家の倉庫とは違うんじゃぞ」
「んー、なんとなく?先生についていったら面白そうだべさーってな感じだべな」
「だべなー、じゃないんじゃが。好奇心は猫を殺すと言うのじゃぞ」
「ほほー。やっぱり先生は面白いこと知っとるべー。猫ね、猫」
「お主、クソ緊張感ないのう。ああ、一つ聞いておきたかったんじゃが、お主どうしてダストロイの食事会には来なかったんじゃ?招待状は届いとったじゃろ」
「ああ、あれ。なんちゅうか怪しさ満点やったもんで行かんかったべさ。王様に相談したらそれでいいと言ってたべな。おらもそういえば、先生に質問あるべさ」
「なんじゃ?というか先生ではないんじゃが」
「魔法使いってなんぞ?先生、おらたち人間族と似たような見た目しとるけんど、一緒じゃないべ」
シルビアは一瞬歩みを止めたが、答えず振り返りもせずに先に進む。六平寺が再び尋ねようとした、その時、シルビアはすっと先を指さした。指さす方向には一際大きな提灯とそれを取り囲む幾つもの提灯。それらの光源に照らされて鎮座しているのは背丈の三倍はあろうかという、巨大な石壺であった。
「うおー!なんぞ、あのでっかい壺は!」
六平寺は目を輝かせて叫んだ。
「ようやくじゃな。あれが探してたやつじゃ」
と言ってシルビアは階段が終わり平坦になった道を行く。
六平寺は追いかけて再び尋ねる。
「のう、先生。さっきの質問は?」
「なんとも答えにくい。わたしらというよりお主らが特殊な人間族なわけじゃが、それを説明しようとすると仙人にまで遡る。喋るだけなら簡単じゃが理解できるとは思えん。それでも聞きたいのか?」
「んあ?いんや?」
「ともかく、今はこの石壺じゃ」
と言ってシルビアは何度となくパイプを咥えると辺り一帯に煙を吐き散らした。煙が充満し視認性が悪くなってきたところで今度は、吐き出した煙を腰のあたりにまとわせた。すると彼女はふわふわと浮かんだ。壺の上部まで浮かんでいく。壺の口のあたりには分厚い石の板が三枚置かれ、蓋がされていた。
「ふむ。開けられた様子はないが……」
シルビアはそう呟きながら一服すると、吐き出した煙を分厚い石の板に纏わせる。板についていた犬や猫型の呪符は、丁寧にゆっくりとめくられていった。全ての呪符が解かれると、それらは中空に浮かされたままにされ、板もまた一枚一枚と宙に浮かされた。人一人が横になったままでも入ることが出来るほどの直径を持つ壺の口を、シルビアは覗き込んだ。中は底しれない闇。シルビアは近くの提灯を一つ煙で取ると、ゆっくりと中へと差し入れた。ぼんやりではあるが、底の底まで照らされてシルビアは中を見ることができた。
目を開く。
エメラルド色の綺麗な瞳。
一拍置いて小さなため息。
漏れ出るように一言。
「ふむ」
「おーい!先生、なんぞ入っとったべか?」
「なあんも入っとりゃせん」
「ほほう。そりゃどうんなんだべ?ええのか?だめなんべ?」
シルビアは目を閉じて言った。
「……の状況じゃな」
「へ?」
「最悪じゃよ!」