※残酷な描写はありませんが、若干の流血・いじめを想起させる展開はございます。ご注意ください。
1
あのころ、ぼくらは光から闇へ足を踏み入れようとしていた。子供のころは何だってハッキリと見えるけれど、大人になるにつれて、すべてが闇に覆われていく。
夜の街を見渡してそんなことを考えた。
「最後に会ったのはいつだっけな……」
周囲は中学生のころとあまり変わっていないし、今だって高校へ通うときに毎朝駅へ通っているのだから懐かしいなんて感覚はおかしいけど。
どうしても新波と過ごしたあの日々を思い出してしまう。群青の闇が包む景色を前にして。
そろそろ駅に着く。駆け足で急いだ。吐く息が白いのは冬の空気のせいだ。
この凍える季節を過ぎたら、ぼくは大学生になる。それからも新波を思い出したりするだろうか。
きっと変わっているだろう、今から会う彼のことを。
2
ことの始まりはぼくが中学校に入学し、新学期が始まって数日が過ぎたころ。
初めて登校してきた日から彼は新波という人物だった。
「おはよ、ニイナミくん。はじめまして!」
あいつが初めて登校してきた朝、廊下側で一番後ろの席にやってきた新波に、隣の席の女子が声をかけた。それに気づいて大谷とぼくも振り返ったんだ。
「白いな」
「うん……」
病弱そうではないが新波は本当に色白で、黒髪がいやに映えた。おかげで目立つのか、席に座る新波を眺めていた奴は少なくなかったと思う。
あいつは机にショルダーバッグを置き、視線を下に向けて、
「おす」
と女子へ返した。声変わりはまだだった。
女子は新波へ根気強く話しかけていた。「今まで、どうして休んでいたの?」とか、「どこの小学校に通っていたの?」だとか。
しかし新波は答えようとしなかった。机のバッグに顎を乗せ、女子から目をそらす。何も訊いてくれるな、とでも言っているようだった。
やがて教室の戸が引かれ、担任の矢川先生が顔を見せた。慌ただしい教室がしんと静まり、日直が号令をかける。
教壇に立った先生がクラスのみんなに告げた。
「今日は一つ、お知らせがあります」
その視線は新波へと向けられていた。その視線の先を追う。
新波は机の横にあるフックにバッグをかけていた。
「これまで事情があって来られなかった新波くん。わからないことも多いだろうから、みんな、教えてあげて下さい」
先生の言葉にクラス全員が「はーい」と返事をする。まだ入学したてだったから、小学生のころの癖が抜け切れていなかった。ぼくだってそうだった。
新波は違っていた。もちろん彼は紹介された本人なのだから返事はしていない。みんなの注目を集めて緊張する訳でもなく、女子から質問責めにあっていたときと同じように自分を見るクラスメイトたちを無視していた。
そのときは、ちょっと取っつきにくそうな奴だな、と感じた。
***
実際、新波は取っつきにくい奴ではあった。あいつは頭に血が昇るとすぐ拳を飛ばしてくる。四月が終わるころにはその性質が学年中に広まっていた。
「近づかないようにしよう」
仲の良かった大谷はクラスでも地味な存在だった。坊ちゃん刈りに黒縁眼鏡と時代錯誤もいいところな出で立ち。
彼は新波がそばに寄ってくるたびに、ぼくの背中に隠れた。新波もそのことには気づいていたようだが、何もしてこない奴に手を出すような真似はしなかった。思い返せば、新波が手を出したのは相手のからかいが原因だ。
その内容は――ほぼ『男女』。これは彼が血の気の多いわりに華奢だったからだ。夏になって、半袖から伸びる腕を見たけれど本当に細くて、どうしてケンカが強いのか不思議だった。
首をひねるぼくに新波は、
「ケンカは速さが大事なんだ。あんまり筋肉をつけると重くなって、先手が取れない」
と教えてくれた。ちなみに、それが役に立ったかと言うと、幸いにもぼくはケンカをするような状況に陥ったことがないのでわからない。
そんなぼくと彼に接点などないように思えたが、五月の遠足の出来事が二人を結びつけた。
忘れもしない。晴天、緑溢れる公園。まさに遠足日和だった。
多くの生徒が日向でドッヂボールをしたり、アスレチックなどをしたりして遊んでいた。ただ全員がそうだとは限らなかった。
「小学生でもあるまいし、公園で遊ぶとか意味わかんない」
明らかに髪を染めているだろう女子が、そう言ったのが聞こえた。先生たちの目を盗んで携帯ゲーム機で遊んでいる男子たちもいた。そういう連中は、大抵、木陰でひっそりと座り込んでいた。
ぼくだって大谷と木陰で喋っていたけれど両極端な光景に戸惑いを隠せなかった。片方は日向で小学生のころと同じように大勢で遊び、もう片方は木陰でそんな彼らを横目にしゃがみこんでいる。
「少し前まで同じ小学生だったのになぁ」
大谷は少し早いおやつを頬張っていた。そんな彼といっしょに、目の前のドッヂボールの試合の行方を見守っていた。ぼんやりと時間を潰すのは退屈だった。
やがてぼくは観戦に飽きて立ち上がった。
「どした?」
その質問に「便所」とだけ答えたと記憶している。
クラスメイトの群れから離れて、ぼくは一人で公園を散歩した。ふわりと吹きつけてくる風が心地よかった。そのことをやけに覚えている。
と、そこへ、危なげな会話が耳に飛び込んできた。声のするほうへ足を運ぶと、刺々しい声に身体が震えた。
「テメー、ざっけんなよ!」
絶対に関わりたくない部類の人物であることは間違いない。それなのに、ぼくときたら野次馬根性を発揮させて、茂みから当事者を覗き見してしまった。
どうやら五対一と多勢に無勢のようだった。多勢のほうは当時ぼくらの学年で『暴れん坊』と恐れられていた奴らの集団。無勢のほうは……あの新波。
彼が圧倒的に不利なのは明らかだった。相手はガタイの良い奴らばかりだったし、すでに取り囲まれていたからだ。もちろん新波だって学内では血の気の多いほうだけれど、これでは勝ち目はない。
今思えば、この時点でさっさと先生を呼びにいけばよかったのだ。
新波は学内一の暴れん坊へ次のように啖呵を切った。
「……お前、ホントはビビッてんだろ? 金魚の糞みてぇにザコ連れてよ」
瞬間、新波と向き合っている奴の腕が振りあげられた。それから他の奴らも襲いかかる。嫌な鈍い音が新緑を揺らした。
ぼくは足をすくませていた。それでも元来た道を駆けだした。枝を折ったり、無節操に伸びた木の枝に服や肌を引っかけたりしながら。やっと人を呼んでくる気になったのだ。
ぼくが先生を連れてきたとき、ケンカをふっかけてきた奴らも新波も顔がぶくぶくに腫れ上がっていた。全員、息も絶え絶えで、楽しいはずの遠足は散々な思い出として残ってしまった。
それでも大事な思い出の一つになったことも確かだ。これがきっかけで、新波がぼくに近づいてきてくれたのだから。
騒動から少し経ち、傷が治ってから彼が話しかけてきた。
「この間はありがとな」
ぼくは新波が礼を言える人間だと知らなかったので目を丸くした。
「そんなに変かぁ?」
朝日が差し込む教室で、新波の笑みが浮いて見えた。彼の口の端にできるえくぼは意外と人懐こそうだった。ただ遠足のことが生々しく記憶に残っていたぼくは、恐怖で口元がひきつってしまう。
いつものように新波はショルダーバッグをどっかと机に置いた。
「嫌なもん見せたと、ちったぁ反省もしてるんだぞー」
そのまま話を続ける。
「でもさ、お前、勇気あるよ。一人でセンセー呼んできたんだろ? ひょっとしたらあいつらに目ェつけられるかもしれねぇのに」
「い、いや、ぼくなんて、そんな大した奴じゃ……」
「大した奴だよ。俺の恩人じゃん」
しどろもどろのぼくに新波はきっぱりと言い放った。
「だから、お前には借りを返さにゃならん。そういう訳だから、何かあったら言えよ。飛んでいってやっから」
無邪気に笑う新波に身を硬くした。目を泳がせた先に大谷がいたが、彼はこちらへ来られなくて自分の席で肩を震わせていたっけ。
しかし、ぼくらはすぐに打ち解けた。新波が気を遣ってくれたのだと思う。
つるみはじめたころ彼はいろんな話を聞かせてくれた。「ケンカは速さが大事」という物騒なものから始まり、他のクラスメイトと大差ないような人気バラエティ番組の話まで。
その甲斐もあって、ぼく以上に新波を怖がっていた大谷も、
「あいつ、わりと面白い奴だったんだなー」
などと言うようになった。ぼくも似たように思っていた。ぼくらといるときの新波は、どこにでもいそうな中学生だった。
普通と違っていたのは、「強さ」への異常な拘り。
六月には梅雨も本格的になってきて、空気が湿っていた。ぼくと新波は、帰り道、公園のベンチに座って自販機で買った缶ジュースをよく飲んだ。大谷とは帰り道が逆だった。
その季節、見上げる空には薄い雲が立ち込めていた。
「俺は、弱虫が嫌いなんだよ」
コーラを飲みながら新波が言った。
「一人じゃ何もできない奴、人に媚びを売るような奴、みんなみんな大嫌いだ」
「いきなり、どうしてそんな話をするんだ?」
ぼくが訊ねると薄い唇の端が持ちあげた。
「ちょっと秘密の話でもしようかと思ってな」
「秘密の話って?」
「まあ、その、何だ……」
話を始めた張本人のくせに彼は照れているようだった。
「実を言うと、俺、昔は結構ないじめられっ子だった。色白で細いから、からかわれやすかったんだと思う」
「ふーん……」
「それだから、よく泣いていたよ。今だったら、あのころの自分をひっぱたいて、いじめっ子に正面切って立ち向かわせるんだが」
「子供相手にそれはないだろ」
「それをしたのがアキ姉だったんだよ」
そう告げた新波の目の輝きは忘れられない。
「アキ姉は、昔っから俺んちの隣に住んでた。小さいころから面倒看てもらっててさ。それで……物心ついたときには、もう大好きになってた」
声も弾んでいて、ぼくは「ああ」と思った。わかりやすい奴だなぁ、と。
新波は先ほどまでの沈黙はどこへやら、弾丸のごとく喋り続けた。
「アキ姉はみんなから尊敬されてた。小学校のときは生徒会長もやってたんだぜ? 俺は、そんなアキ姉に少し気後れしはじめた。俺なんかじゃアキ姉とつり合わない。それで近づくこともできなかった。まあ、いじめられているところを見せるのが嫌だった、ってのもあるんだが。そのときちょうど酷かったから」
そこまで言って新波は少し表情を暗くしたが、すぐに持ち直した。
「でもさ、それでもアキ姉は俺のそばに来てくれたんだ。最近どう? とか。何かなかった? とかさ。そのたびに俺はどうもしない、って言っていたんだけど、ある日、叱られちまった」
「なんて?」
「『どうして、いつも逃げるの?』って」
たぶんアキ姉の口振りを真似たのだろう。新波は唇を尖らせて、作ったらしい声で言った。
「その言葉でハッとなった。あ、そうだな、って。俺、逃げてるな、ってさ。アキ姉からも、いじめっ子からも。アキ姉からは嫌われたくないって距離を置いてるし、いじめっ子からは……出来るだけ会いたくない、ってわざと遠回りしたりしてた。だけど、それって何の解決にもなってない。考えたよ。このままでいいのか? って」
新波の瞳がぼくに向けられた。声を上ずらせて、
「いい訳は……ないよな」
「だろ? それで、俺はまず、アキ姉にそれまでのことを洗いざらい話したんだ。カッコ悪いけど、そのときの俺にしたら、もの凄く勇気のいることだった。そうしたら、アキ姉、なんて言ったと思う?」
彼はびっくり箱を開ける子供のようにまくしたてた。
「『決闘を申し込め』だって。信じらんねぇだろ、俺だって信じられなかった。今よりもっとガキんちょだったんだぜ?」
「それで、どうしたんだ?」
「言われたとおり申し込んだよ」
ぼくはむせて口を拭った。ぼくからしたら、こいつのことも信じられなかった。
「相手も本気にしてなかった。だから、時間どおりにはやってこなかったよ。一時間くらい待ったかなぁ。そしたら、アキ姉が約束の場所まで引きずってきたんだ。……アキ姉が生徒会長だったのは、話したよな」
「それに全校生徒に尊敬されてたってのもね」
「そう。そいつもそうだったらしくて、俺の前に来てもいつもみたいに殴ってこなかったんだ。それどころか、でかい図体をもじもじさせてさ、顔も真っ赤で、まったくみっともないったら」
よほど面白かったのか、新波は口元が緩みっぱなしだった。
「そんで、俺、バカらしくなって。こんな奴にどうして今まで縮こまっていたんだろう、ってね。そんときは殴る気力も湧かなかったから血の雨が降ることもなかった。しばらくして、みんな無傷のまま帰ったんだ」
そう語る新波は先ほどまでのいじめっ子をバカにした笑いから、大好きなアキ姉との思い出から来る笑みへと変わっている。
「アキ姉、帰り道で言ってたよ。『あんな奴に遠慮することない。一人じゃ何にもできない奴なんかに、ずっと一人で耐えてきたあんたが負ける訳ないじゃない』」
新波はうっとりとしながら、その当時のことを頭に思い浮かべていたに違いない。細められた瞳は薄い雲の向こうに、想い人と見た空の色を捉えていたはずだ。
「お前の場合、やり返しすぎだけどな」
ぼくは彼の美しい思い出を遮って、そう茶化した。新波が一瞬で現実へと舞い戻ってくる。
「んー……だってさ、俺、『やられたら三倍にしてやり返す』主義なんだよね」
「それが、人を遠ざけてるってわかってる?」
「わかってるよー」
足をじたばたさせて、新波がベンチから腰を浮かせた。