その夜、夕食を食べに食堂まで行ったが、新波はアキ姉たちに寄りつこうともしなかった。メニューはカレーライス。普段食事を用意してくれるおばさんたちがいないので、寮の生徒たちが自分で作ったと言う。旨くもないがまずくもなかった。
それから部屋で何となく過ごすと、すぐに就寝時間になった。周りの生徒は見回りの教師がいないと喜び、夜更かしの準備をしていたけれど、ぼくらにそんな余裕はなかった。
ぼくと大谷は新波が横たわっているのとは違う二段ベッドに入り、上と下に分かれて眠った。ぼくが上だった。目の前に天井が迫っていた。
もうすぐ寝入りそうというときだった。新波が身体を起こした。ぼくはうつろな瞳を向けた。彼はベッドから抜けると部屋を出た。開いたままの扉から明かりが差し込んでくる。
布団にくるまって新波が帰ってくるのを待った。アキ姉が設定してくれた冷房が強くて頬が冷たい。
いくら待っても彼は戻らなかった。トイレにしては長すぎる。ひょっとしたら迷ったのかもと思ったが、前にここへ来ているのだから、それは考えにくかった。
ぼくはだるい身体に鞭を打ち、廊下へ出た。
夜の寮は必要最小限の明かりしか点いておらず、どこか物悲しかった。廊下の横に並ぶ窓は夜空に塗りつぶされている。一寸先は闇、という言葉が頭に浮かんだ。
そうすると廊下の先から話し声が聞こえてきた。そのうちの一つは新波だった。他は、女性と男性。
角へ隠れて三人の会話に聞き入ってしまう。
「アキ姉、いつからそんなになっちゃったんだよ」
新波がすがりつくようにアキ姉へ言った。普段の彼からは想像できないようなか細い声だった。
それとは反対にアキ姉はしっかりと応じていた。
「あたし、別にそんなになっちゃってないわよ。元からこうだったもの」
「そんなことないよ……アキ姉はもっと真面目で、なよなよしていなかった」
そうは言い返すが、新波はすっかり勢いをなくしていた。
「ミツルくん、アキちゃんにも色々と悩みがあるんだ。もう少し聞いてあげてもいいんじゃないかな」
「悩みって?」
素直に訊ねる新波にアキ姉は冷たかった。
「それを知ってどうすんの?」
責めるような口調が新波から話をする気力さえ奪っていく。
「だって、心配なんだよ。アキ姉がそんなに変わっちゃって……話だけでも聞きたくて……」
「あたしは変わってなんかない。あなたが勝手に誤解してただけ」
彼女は口を挟む隙すら与えず、言葉を叩きつけた。
「あなたは、あたしがどうなら満足するの? あなたの言うあたしって、どんなあたし?」
ぼくの立っていた位置から、その表情は見えなかった。新波が踵を返す。こちらへやってくる。
横切る前に彼はぼくに気づいた。その瞳は揺れていた。声をかけようとしたが叶わなかった。
代わりにその背中を追った。彼を一人にしたくなかった。新波が寮から出て、外へ出る。ぼくも出る。
外は暗く、熱い空気が漂っていた。
そんな中を、ぼくらは突っ走っていった。体育館へだ。何故か鍵は開いており、新波は乱暴に扉を開けて入った。室内は外よりも熱く、肺すら灼き尽くしそうだった。
新波は真っ暗な体育館の隅に行くと体育座りをして、身体を丸め込んだ。そばに寄ると、かすかに震えているのがわかった。どうすればいいのかわからなくて、ぼくも向かい側に座り込んだ。
暗闇に目が馴染むまで、そう長くはかからなかった。新波のつむじを見つめながら彼が落ち着くのを待つ。
やがて新波が立ち上がった。暗がりに彼の濡れた瞳がきらめいた。見上げたら新波からそっぽを向かれる。彼はぼくを横切り、コートのほうへ歩いていった。
体育館には誰かが仕舞い忘れたバスケットボールが転がっていた。おそらく夜遅くまで自主練習をしていた生徒がいるのだろう。体育館の鍵を掛け忘れたのも、きっとその人。
ボールを両手で掴むと、新波はゴールへ向かい合った。荒い呼吸が聞こえる。それからドリブルをして、その場で真っ直ぐに飛び上がり、投げた。ゴールが揺れる。ボールはゴールの縁をくるくると回り……そのまま落ちていった。ネットに絡まりもせずに。
ぼくは驚いた。新波がシュートを外すだなんて珍しい。
彼は何も言わずに、転がるボールを拾った。今度はじっとゴールを見上げ、何度か投げるふりをする。また投げた。
が、ボールはゴール前でゆっくりと床へ吸い寄せられた。床を跳ねるボールの虚しい音がする。
「くそっ……」
新波が小声でそう吐き捨てた。動揺している。
彼はシュートを続けた。時に惜しいときもあったが、何故かゴールに入ることはなかった。まるで最初から決まっているかのように。何度も、何度でも、ボールは床の上でバウンドする。
そのたびに諦めないでボールを持ち直しても、汗をかいたのか十数回目に手のひらから滑り落ちた。聞き馴染んだ音が耳に届く。今度は新波もボールを取ろうとしなかった。手をすり合わせて、ぼうっと立ったままだ。
ボールがぼくのほうへと転がってくる。新波が何度も掴んでは、シュートしてゴールから外したボール。足先をコンと突いてくる。
そのボールを両手で掴んだ。ずしりと腕に重さが伝わる。
新波がよく通る声で言った。
「笑ってくれよ」
その場で振り返り、彼はふらついた。ぼくはボールを胸元に引き寄せ、両腕で抱える。
大股で新波が近づいてくる。
「相手の気持ちも知らないで……勝手に一人で舞いあがってさ。バカみたいだろ。だから、笑ってくれ」
彼の顔には不自然な笑みが浮かんでいた。唇がわななく。
「ホント馬鹿だろ、俺って。なぁ?」
ぼくの肩に新波の顔がすりつけられる。肩にじわりと熱が広がっていく。それは、涙だったり、汗だったり、様々だ。
唇を噛んだ。新波。何度その名前を心で呼んだか知れない。新波、新波、新波。すがりつくように繰り返していた。
でも、それだけじゃ何も変わらない。
目に映る景色は濃紺で塗りたくられていた。少し上を向くと、バスケットゴールが目に飛び込んでくる。まるで手の届かない場所から、ぼくらを嘲笑っているみたいだった。
そう思うと悔しい。本当に、手が届かないのだろうか? ここで諦めるしかない?
バスケットボールを抱える腕の力が強まる。ゴムのきゅ、と擦れる音が聞こえた。新波が顔をあげる。
それと同時にボールを両手で持ち直すと、ゴールへ向かって投げつけた。フォームも何もあったものではなかった。ただ『入れ!』と念じた。
遠すぎたのかボールはゴールに届くことなくバウンドした。それを、ぼくはまた掴みにいく。間を開けずにシュート。
「何やってんだよっ?」
新波が裏返った声で訊ねてくる。ぼくは大きな声で答えた。
「一回でもシュートが入ったら、お前、もう泣くのやめろよ!」
またボールがゴールにぶち当たる。めげないで拾う。投げる。
ボールの弾む音に負けないように、新波が声を張り上げてきた。
「はあ? 意味わかんねー。無駄なことすんなよ」
がむしゃらにゴールを狙い続ける。
「無駄じゃない。言ったからには守れ!」
ボールは見当違いのほうへ飛んでいく。そのたびに右へ左へ走らなければならない。ふくらはぎがピンと張る。
「なんで守らなきゃならねーんだよ! お前、さっきから変だぞ」
新波がぎゃんぎゃん喚くが、そんなことは関係なかった。ぼくはボールを投げ続ける。彼が決められなかったボールを、ひたすら掴み続ける。
「おい。そんなことしても、俺、どうもしねーからなっ。勝手なことしてっと、もっと泣くぞ! 大声で、ぎゃあぎゃあ泣き叫んでやる」
腕は持ち上がらず、まともにボールも掴めない。周りも真っ暗で上手く焦点が合わない。頭の後ろが重くなってくる。それでもゴールを見つめた。
両手からボールが飛んでいく。
「聞いてるのか……ッ」
新波がそう言った瞬間に、くるりとネットを絡めて、ボールはゴールを通った。決まってみると呆気ないもので、外したときと同じように床を転がる。
目を見開いて新波を見た。彼はぼく以上に目を丸めて、こちらを見ていた。涙の跡がすっかり乾いている。
「泣きやんだじゃん」
そう言うと、新波がまだ腫れぼったい目をこすった。
「そりゃ、お前がめちゃくちゃだからだよ。ホント変なやつ。おかげで悲しむどころじゃねーや」
そんな減らず口を叩く彼の肩に手を置いた。汗がてのひらに伝わる。彼から「暑苦しい」と払われる。
床の上のボールは、もうピタリと止まっていた。
それからバスケットボールを倉庫に片づけて、体育館を出た。相変わらず外は暗かったが、東の空にうっすらと朝焼けが見えた。まだ点のようなきらめきだったが、周囲の雲を紅く染め、空の色を変えようとしている。
「おまえがいてくれてよかった」
新波が、ぼそっと告げてきた。その表情を見やると何の感情も窺えなかった。それでも彼の白い顔が朝陽に輝いていた。
ぼくがしたことは子供じみていたけれど、そう言ってもらえたのだから、きっと間違ってはいなかったのだろう。
新波のボールを取り、ゴールさせた。以前はできなかったのだから大きな一歩だ。自分をとても誇らしく思った。
朝陽が昇る中、寮へ戻っていった。帰ってみると大谷が気持ちよさそうに高いびきをかいていて、ぼくらは顔を見合わせた。二人ともようやく自然に笑うことができた。
それから新波とぼくは昼過ぎまでぐっすり眠り込んでしまった。後から聞いた話だが、その間、大谷は知らない人に囲まれて、たいそう肩身の狭い思いをしたとのことだ。それなのに、ぼくら二人に気を使って最近まで打ち明けなかったのだから、彼は稀にみる『良い奴』と言えるだろう。
新波と二人で起きると、朝食と言う名の昼食をいっしょに食べた。昨夜の残りのカレーは一晩置いたのが良かったのか、もの凄く美味しかった。
昼を食べるともう帰らなきゃという話になった。大谷とぼくは驚いたが、新波はけろりと言ってのけた。
「だってさぁ、もう二時だぜ? これから帰っても七時は完全に過ぎちまう。これ以上、長居できねえよ」
そう言われると黙るしかなかった。さっさと荷物をまとめると、ろくに回れなかった高校に別れを告げた。
帰りに駅まで送ってくれたのも高崎だった。もちろんアキ姉もついてきて、助手席に乗っていた。しかし彼女に笑みはなかった。
一方で、新波は、ぼくや大谷と無駄話をするほど元気だった。
そんなアキ姉と高崎が駅の中まで着いてきた。新波は「ありがと」と、ごく普通のお礼を言った。ぼくらもそうだった。大谷は事情を知らないので、首をかしげながらだったけれども。
新幹線が来る時刻が近づいてきて、辺りも騒がしくなってきた。そろそろホームへ行かなければならない。
アキ姉が振り絞るようにして言ってきた。
「ミツル、ごめんね」
彼女はそれ以外にも何か伝えたかったらしい。喉を撫でて、目を潤ませて、出てこない言葉に歯がゆさを覚えているようだった。
そのアキ姉を新波ははにかんで見上げた。その瞳は、学校の帰り道でぼくに彼女の話をしたときと、全く変わりなかった。
「いいんだ、アキ姉。ありがと」
それから間を開けて、
「……さよなら」
と返した。その声はすっかり落ち着いていた。
アキ姉がぐっと息をのんで、口を閉じた。そこを高崎が支えている。彼女は、もう少しでこぼれそうなほど涙を瞳に溜めて告げた。
「ええ、さようなら」
きっと新波と彼女はこれからも会うだろう。でも、あの瞬間に何かが終わった。それは、ぼくにもわかった。具体的な話は帰ってから新波が教えてくれた。
「アキ姉な、バスケ部であまり活躍できなくて、悩んでいたんだと」
帰り道に、いつもどおりのベンチで語る新波はどこか大人っぽかった。季節はすでに秋へと移っており、冷たい風が頬を撫でた。
「俺が来たとき、バスケ部で基礎練しかやっていないようなところは見せたくなかった、って。それなのに、俺が呑気にノコノコとやってきたから、愛想つかされちまったみたいで。――高崎に会ったのは、その後だって言ってた」
「つまりは、包容力の問題?」
新波はゆっくり首を縦に振った。
「思えば、気づく機会はいくつもあったのにな。アキ姉、推薦であそこに入れなかったし……だから、精一杯勉強して、受験してやっとの思いで入学しても、基礎練ばっかで」
話を聞いていると、後悔の念が伝わってくるようだった。彼は無理に笑顔を作って、
「まあ、俺も彼氏にしちゃアキ姉のこと考えてなかったんだよ。好き好き好き! そればかりでさ。だから、もう、いいんだ。アキ姉は一人じゃない。俺がいなくても、高崎がいる」
そう言い切ってはいたが、新波は泣きそうになっていた。誰だってトラウマになりそうな出来事だから無理もない。
それなのに彼は一人で引き受けようとしていた。
「お前はどうなるんだ?」
思わず訊ねたら、新波は泣き笑いの表情で答えてくれる。
「俺は、これから友情に生きようかなー、って」
宣言する彼の瞳がぼくを映していた。少し戸惑いもあったので、ぎこちなく頷き返す。
「頼りにしてんだぞっ」
秋の空気が、身体じゅうに満ちていった。
季節を夏へと戻そう。
ぼくらは二人に別れを告げ、ホームへと歩きだした。新幹線が来てから乗り込むと、行きと同じ席順で座った。
新波は恐ろしいほど明るかった。ぼくや大谷の冗談に付き合い、ふざけたりもした。三人でウノをする間、彼はよく喋っては笑っていた。おかげで四時間、飽きることはなかった。
騒いでいるうちに、ぼくらの住んでいる町の駅へ着いた。人波に揉まれながら出た外はすでに暗くなっていた。腕時計を見ると、もうすぐ夜七時半というところだ。夏とは言え、この時間には流石に陽も落ちてしまう。
ぼくは明かりのついた駅を背にしながら、目の前の暗がりを見て、不思議な気持ちになった。すぐ後ろは眩しいくらいなのに、先は真っ暗。前を見ると新波と大谷がじゃれあいながら先に行っている。それを見たら急に胸が締めつけられた。
思わず走った。コンビニやファミレスの蛍光灯を受けて、二人の表情が見えてくる。彼らはぼくの不安げな顔を、変なものを見るかのように笑っていた。
馴染みのある顔を見て心の底からホッとした。
それでも、夜空は明るさに反比例するみたいに暗くて、星一つなく、どこまでもひろがっていたのだ。