紅衣の麒麟 作:にわか
今回はストーリー進みません。利広視点のお話です。
今日も二話投稿です
才の東、奏との国境に接する街・奉賀。
その門前には、朝から長い行列ができていた。
利広は騶虞を遠くに留め、少し離れた場所から列の様子を眺めていた。
才から奏へ抜けようとする人々。痩せた荷馬車、背に幼子を負った女、杖をついた老人……
沈黙と疲労、そしてほんのかすかに滲む希望が、地に足をつけて並んでいた。
その群れの端に、ぽつりと異質な気配があった。
――あれは。
色褪せた朱の旅衣。後ろで無造作に束ねた赤い髪。
うつむき加減で立ってはいるが、その立ち姿には、輪郭がぼやけるような、妙な透明感があった。
目立たないよう努めているにもかかわらず、人ならぬ気配がその輪郭から滲んでいる。
利広は視線を細め、そっと息を吸う。
(……やはり、そうだな)
その瞳を見たとき、確信に近いものが胸に落ちた。
朱のような赤――それは、あの噂に聞いた“采麒”のもの。
あの子か。
蓬山を離れて、王を探しに出た麒麟…。
利広はまだ声をかけず、その様子をしばらく見守った。
少年は人々の列を静かに眺めている。声もなく、動きもほとんどない。
けれど、並ぶ者たちの表情のひとつひとつに、何かを受け止めるように視線を向けていた。
(――衝撃を受けているんだな)
それは無理もない。
蓬山の静けさからこの惨状へ――心が追いつかなくても当然だった。
旅の途中で話を聞き、思いを馳せていたとしても、実際の光景の持つ力はそれ以上だ。
だからこそ、あの目には迷いがあった。
民のために王を選ばねばならないと“考えている”。
けれど、まだ“心からそうしたい”とは思えていない。
自分がその重責を担うことへの拒絶と、無力感と、恐れと――それでも、歩き出そうとする意志が混ざり合っていた。
(……よく来たね)
利広は一歩、列の外へ出て、少年の後ろから静かに声をかけた。
「……君、ひとりでここまで来たの?」
声をかけた瞬間、少年の肩がわずかに揺れた。
振り向いたその顔――やはり、間違いなかった。
紅の瞳。透けるような肌。
けれどそれ以上に、視線の奥に宿る静けさが、彼の本質を語っていた。
(やっぱり、采麒……)
名前を口にすることは控えた。
ここではまだ、その名も、立場も、あえて伏せるべきだと感じた。
「はい、一人です」
素直な返答。だがその言葉の裏に、ごく小さな緊張が見え隠れする。
慣れぬ場で声をかけられた、そんな年相応の反応だった。
利広は柔らかく笑みを浮かべた。
「そっか。ちょっと意外だった。……こんなところに、君みたいな子が立ってるのは」
「子ども扱いは慣れてます。旅の途中でもよく言われるので」
淡々としながらも、やや冗談めいた調子。
人懐こさを滲ませながらも、どこかで距離を測っている。
きっと、誰に対してもそうなのだろう。無用に傷つけも、近づきすぎもさせない、そのための距離感――。
(……うまく人のなかに混ざろうとしている。それでも、なお滲むものがあるな)
「そうか。いや……君の目、まだ迷いが多いなって思って」
利広は思ったままを口にした。
その迷いは、采麒の中に深く根を張っている。
何を信じ、どう進むか――旅のなかで掴みかけているが、まだ答えきれていない。
「……そう見えますか」
返された問いに、利広はうなずいた。
「うん。でも、それは悪いことじゃない。迷える人の方が、まっすぐ進めるときもある」
少年の表情が、わずかに緩んだのがわかった。
やっと、言葉が届いた。
それだけで、少し嬉しくなった。
「奏に入るつもりですか?」
「いや。俺は、才の今を見に来ただけ」
「この国を?」
「そう。……苦しんでる人を見るのは、苦手なんだけどね。でも、ちゃんと見ないと、何も言えないし」
利広は視線を空へと向けた。風が、静かに袖を揺らしていく。
采麟のことを思い出す。砥尚が築いた王朝。その最後を。
「見ることで、何か変わると思いますか?」
「どうだろう。見るだけじゃ変わらないかもしれない。でも、見ないと始まらない。君も……きっと何かを探してるんだろ?」
その問いに、少年の目がかすかに見開かれた。
けれど拒絶の色はなかった。ただ、驚き――そして静かな受容。
(よかった。踏み込みすぎなかった)
「……あなたは、才の人ではないのですか」
「どうかな。俺は宗国から来たんだ。旅人だから、あちこちに行くよ」
「でも、才のことをよく知っているように聞こえました」
利広は微笑んだ。あまり語るつもりはなかったが――この子には、少しぐらいなら語ってもいいかと思えた。
「……前にもあったからね。似たようなことが。この国が、大きく揺らいだことが」
「それは……前王の時代の話ですか」
(……そのとおりだよ、采麒)
「君は、まだ知らないんだね」
その言葉に、少年は黙った。
否定も肯定もせず、ただ静かに受け入れる。
(きっと、これから見ていくのだろう。自分の目で)
「だいぶ前の話だよ。……ある人が、国のために立ち上がって、国を立て直そうとした。けど……うまくいかなかった」
それは、悔いにも似て、祈りにも似ていた。
自分のものではないけれど――言葉に乗せると、自然と胸の奥が疼いた。
「……名前は?」
その問いかけに、利広は苦笑した。
―――聞いても多分、答えないだろう。
彼もまた、答えかけて口を閉じる。
(……無理に聞くことでもないか)
「いいよ。無理に教えなくても。旅の途中で出会った名前のない人って、案外、よく覚えてたりするもんだから」
利広は肩をすくめて笑い、そっとこの場から離れる準備をした。
「じゃ、俺はもう行くよ。風が冷えてきたし」
「あなたは?」
「ただの旅人、利広(りこう)。…君も、道のりを気をつけて」
ーー采麒。君はきっと、その名に込められた願いをまだ知らない。
少年の中でまだ揺れている決意と、まだ見ぬ覚悟。
けれど、その瞳の奥にある澄んだ願いだけは、はっきりと感じ取れた。
風が、再び吹き始めた。
利広は群れから離れ、騶虞のもとへ向かって歩き出した。
ーーー
才国の空を悠々と翔けながら、利広は眼下の景色に目を落としていた。
荒れ果てた地。くすんだ野。村は寂れ、道を行く者も少ない。
それでも、ところどころに、まだ人の営みが息づく集落があった。仮初めでも火を灯す者がいる限り、この国は完全に潰えたわけではない――そう思いたくなるような、わずかな明かりが、ぽつぽつと点在していた。
(……慎思)
利広の胸裏に、その名が浮かぶ。
砥尚の治世が始まったころ、多くの人が希望を抱いていた。
そしてその背後には、慎思という人物の存在があったと、後に多くの者が語っていた。
「責難は、正すにあらず」
そう説いた、柔らかくも芯のある人だったと――
砥尚の育て親のような存在であり、国の未来を案じていたと聞く。
慈悲深く、麒麟のような人だったと。
利広が才国を巡るなか、幾度となく耳にした名だった。
だが、あれほど人望を集めた慎思は、前王――砥尚に更迭されてから、都に姿を現すことはなく、政に一切関わっていないようだった。
前王朝の混乱を知る者たちは、「慎思様がいれば違ったのでは」と口にしながらも、彼女が政の場に戻らないことを、どこかで仕方のないこととして受け止めているようだった。
利広は、いま、その慎思がいると噂される場所へ向かっている。
決して近い場所ではない。
だが、これまでの旅の中で聞いてきた断片をひとつずつ繋ぎ、ようやくその居所に目星をつけることができた。
その道すがら、ふと――奉賀の街で出会った少年の姿を思い出す。
(……采麒)
あのとき見た、朱の衣と赤い髪。
それだけではない。
あの眼差しの奥に宿っていた、まだ名づけられない揺らぎ。
「君の目、まだ迷いが多いなって思って」
そう口にしたとき、少年は静かに応じた。
麒麟としては珍しく、王を選ばねばならないと“考えている”ような眼だった。
けれど本心から“そうしたい”とは、まだ言えないままの。
(あれから、彼はどうしているのだろう)
利広の胸には、微かに風が吹いたような感覚が残っていた。
言葉のひとつひとつが、まるで、柔らかな織物のように、記憶の底に残っている。
あの子が、いま、どこにいて、何を見て――何を感じているのか。
それは、采麒が王を選べば、知ることができるだろう。
(……風が強くなってきたな)
利広は騶虞の背を軽く叩き、遠く南の丘陵を見やっていた。
目的の町――紫洲までは、まだいくらか距離がある。とはいえ、ここまで来れば十分近い。
ふと、背後に流れる風がわずかに震えた。騶虞の耳がぴくりと動く。
(……これは)
一拍遅れて、重く濃い気配が空気に混じった。
ただの妖魔ではない――騶虞の反応が、何よりそれを示していた。
そして気配の先から、音もなく飛翔してくる影があった。
現れたのは、漆黒の巨大な獣。まるで何か古い神話から抜け出してきたかのような、異様な重みがあった。
利広はそっと眉をひそめる。
その異様な気配に、騶虞が再び警戒のように身じろぎする。
利広は背後の影に目を向け、そして、その姿を認めた。
風にたなびく赤い髪に、見慣れた朱の旅衣。見間違うはずもない。
(……采麒)
まったく、と内心で笑う。
(これはまた、とんでもないものを使令にしているな)
朱の衣。赤い髪。透明感をたたえた面差しと、まっすぐな眼差し。
才国を巡る旅の途中で、門前の街で出会った少年。
あの時とは違う、落ち着いた気配を湛えている。
風に靡く髪の動きすら、今はどこか自然で、地に足がついているようだった。
利広は騶虞の速度をゆるめ、気配に応じるように滑空の高さを合わせていく。
やがて、穆玄もそれに応じるように速度をゆるめ、二頭の妖獣が空の上で並ぶ。
「やあ、また会ったね」
そう声をかけた利広に、少年――采麒は驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……こんにちは、利広さん」
その声音は静かで落ち着いていた。
初めて会ったあの朝、門前の行列に立っていた少年とは――明らかに違っていた。
「こんな空の上で再会するなんて、君もなかなか粋だね」
利広がそう言うと、才麒は使令の背で姿勢を整え、頷いた。
「利広さん。まさか、空でお会いするとは思いませんでした。」
その笑みに、以前のような戸惑いはない。
迷いを隠すための穏やかさではなく、静かに腹を決めた者の落ち着きが、そこにはあった。
(……ずいぶんと、顔つきが変わった)
同じ言葉を、利広は心の中で繰り返していた。
初めて会った時の彼は、まるで透明な殻の中にいるようだった。人懐こく振る舞いながらも、どこかで線を引き、自分自身すら測っているようなところがあった。
けれど今は違う。
言葉に重みがあり、視線には定まった光がある。
使令の背にまとう風すらも、彼の内面の静けさを映しているようだった。
利広は笑みを深めながら、隣を飛ぶ采麒にちらと視線をやった。
(……この旅で、何を見たんだい)
問いかけたくなるほど、少年の雰囲気は変わっていた。
「元気そうで何よりだ。……ずいぶん、顔つきが変わったね」
その言葉に、采麒は小さく頷き、使令のたてがみを軽く撫でた。
「はい……才の国を回って、色んなことを見てきました。怖いことも、悲しいことも、たくさんあって……でも、今は――自分にできることを、ちゃんとやろうって思ってます」
そう語る声に、もう迷いはなかった。
(……本当に)
あのとき「君の目、まだ迷いが多いなって思って」と言った自分の言葉を、利広は思い出していた。
いま目の前にいる少年には、その“迷い”を覆うだけの意思と覚悟が備わっている。
見違えるようだった。
けれど、それは彼が別人になったわけではない。
その本質――まっすぐで、優しいまなざしの奥にあった芯が、旅を経て輪郭を得たのだ。
(変わったというより……やっと、自分の形を掴み始めたんだな)
そんな思いが、風の中に、しみじみと滲んだ。
使令の背で微かに揺れる赤髪が、陽光を受けてきらめく。
利広は目を細め、そっと騶虞のたてがみに手を添えた。
「そうか。……王を選ぶことを決めたんだね」
利広はあえて問いではなく、確認として言った。
采麒は驚いたように一度だけ目を開き、それから小さく笑った。
「やっぱり、気づいてたんですね」
「おや、驚かないんだね?」
からかうように言うと、采麒は黒い獣の背に手を当て、肩をすくめた。
「……妖魔に乗ってるのに、何の反応もされなかったですから」
「確かにそうだ」
その軽口に、利広はふっと笑い、目を細めた。
(……否定しなくなった)
王を選ぶ――そう言葉にしたわけではない。
けれど、今の采麒は、もうその責を遠ざけようとはしていない。
それは、あの少年がついに、迷いの先にある「選択」を受け入れた証だと、利広は確かに感じ取っていた。
騶虞の背に揺られながら、風の向こうを見つめていた時だった。
目の前にいる少年が、ふと声を落とした。
「……才国を見て回っている時に、前王のことも聞いたんです」
利広はゆるやかに視線を向けた。
その声音に籠もる何かを感じ取り、応じるように少しだけ騶虞の速度を緩める。
采麒は続けた。
どこか確かめるような、それでいて静かに整えられた口調で。
「みんなに望まれて王になった方だったと……そう聞きました。前の王が酷かった分、きっと希望を託されたんだと思います。でも、政がうまくいかなくて、麒麟が失道して……」
その語り口は落ち着いていたが、ただの伝聞をなぞるのではなく、そこに確かな思索があった。
(……随分と、よく見てきたようだ)
利広は目を細めながら、そのまま黙って聞いていた。
相槌を挟むことも否定することもせず、ただ、まっすぐに采麒の言葉を受け止める。
「ある旅人が言っていました。民のことを思っていても、“民の視点”で良いと思う政策ばかりでは、国は立ち行かないんだって。……だから、麒麟が失道したのだろうと」
言葉の選び方に迷いはなく、語尾まで丁寧に整えられていた。
一言ごとに重みがあり、それを口にする覚悟が、采麒の中に備わっているのが利広にはよくわかった。
(……その旅人とやらも、よほどの目利きと見える)
利広は内心でそう呟きながらも、顔には何も出さず、ただわずかに頷くだけだった。
やがて、采麒は言葉を落とすように付け加えた。
「……それに、采麟は失道したあと、奏国に送られたと聞きました」
その声には、ただの情報ではない、どこか個人的な感情が滲んでいた。
「……利広さんは、采麟について何か……ご存じですか?」
その問いかけに、利広は風の中で目を細めた。
空気が少し変わる。
しばらく、何も答えずにいた。
風が衣の裾を撫でて過ぎていく。
やがて、静かに口を開いた。
「……私も詳しく知っているわけではないんだけどね」
語り始めるその声音は、少しだけ低く、遠い記憶をたどるようだった。
「でも、君は知っていた方がいいだろう」
才麒が何も言わず、ただ風の向こうを見つめている気配が伝わってくる。
利広は視線を遠くへ向けたまま、静かに言葉を紡いだ。
「妹が、かつて采麟と面識があってね。そして、才で長く官吏を務めていた人物から、昔のことを聞いたことがあるらしい」
ゆるやかな風が、彼らの間を通り抜けていく。
「……その話を、少しだけ君に伝えよう」
そう言って、利広は目を伏せた。
そして、語りはじめた。
かつて宗国にて、命を終えた麒麟のことを。
その麒麟が仕えた、理想と現実の狭間で苦しんだ王のことを。
空の風は高く、どこまでも澄んでいた。
***
「……采麟を預かった方がね。ほんの少しだけ、あの子の最後について話してくれたんだ」
(……采麟)
遠い記憶が、胸の奥をかすめた。
奏国の都――冬の終わり、才麟が静かに命を落としたという報せを受けた日。
自ら命を絶った王を追うように、冢宰や大司馬までもが後を追ったと聞いた。
それはまるで、ひとつの王朝が音を立てて崩れ落ちるような最期だった。
采麟を直接見たことはない。
けれど、奏国に身を寄せていた彼女が、最期まで王を案じ続けていたことは、妹の文姫に聞いていた。
民意の具現としての恨みと哀しみ、そして王の半身としての王への思慕ーその狭間に裂かれながら果てた少女。
その姿は、痛ましくも美しかった。
(……あの子は、最後まで「麒麟」だったんだ)
民と王、そのどちらかを断じることなく、両方を背負って――そして、壊れた。
そんな話を、いま隣にいるこの少年に語ることになるとは、思ってもみなかった。
ふと視線を戻せば、采麒はまっすぐ前を見ていた。
目を伏せず、顔をそむけず――風を切りながら、確かに言葉を受け止めていた。
(……逃げないんだな)
胸の奥に、微かな驚きと、ほのかな安堵が混じる。
痛ましい話だったはずだ。
自らと同じ立場の麒麟が、失道して死に至ったという話。
その王が最後にすがった夢が、希望ではなく絶望をもたらしたという話。
それを聞かされてなお、采麒の眼差しには曇りがない。
憐れみに目を伏せるのでもなく、恐れに背を向けるのでもなく――
ただ、静かにそこに在り続けていた。
利広は、心の中でふっと息を吐く。
「……おっと、長話をしすぎたようだ」
利広は少し肩をすくめて、隣に座る采麒に笑みを向けた。
「着いたよ」
町の輪郭が、朝靄の向こうにうっすらと浮かび上がる。
くたびれた屋根と、土の見える道。
特別なものはない、よくある地方の町だった。
采麒が騶虞の背から静かに降り立ち、視線を町へ向ける。
くすんだ屋根と土の路地――どこにでもある町のはずなのに、彼はしばらくそこに目を留めていた。
「ありがとうございました。……本当に」
清次が礼を述べて軽く頭を下げる。
「礼には及ばないよ」
そう返してから、利広は軽く問いかけた。
「私はしばらくこの町に滞在する予定だけど、君は?」
一瞬の沈黙のあと、少年がふと笑みを浮かべた。
「……清次って呼んでください。蓬莱での名前から、六太がつけてくれたんです」
その言葉に、利広は小さく目を見開き――すぐに、静かに笑った。
(なるほど……本当に、変わったんだな)
かつて、あれほど自分の在り方に迷っていた少年が、自らの名を差し出す。
――それは、他者と向き合うための、最初の一歩だった。
「ほう、いい名前だね」
「はい。数日、この町に滞在する予定です」
「それなら、同じ宿に泊まろうか。その方が安全だろうしね」
言葉を交わしながら、利広の胸の内には、ふと柔らかな風が吹き抜けた。
ーーー
町に入ったのは、朝靄がまだ路地に残っている頃だった。
利広は騶虞を宿の裏手に繋ぎ、静かに表通りへ出る。清次はそのまま別の道を進んでいった。この街を見て回るのだろう。
紫洲の町は、辺境にしてはずいぶんと整っていた。
建物は古く、壁の塗りもあちこち褪せているが、路地には塵ひとつ落ちていない。歩く人々の顔もどこか落ち着いていて、よその荒れた町で見たような虚ろさがない。町全体に、静かな秩序が息づいているようだった。
(――なるほど。“あの人”の影が、まだこの町に残っているか)
そう思いながら、利広は人通りの多い市場通りをゆっくりと歩く。
道端の店で干し肉をひとつ求め、代金を渡す際、何気ない調子で言葉を添えた。
「落ち着いた町ですね。こんな場所じゃ、どんな方が治めているのか気になります」
店の女将はにこりと笑った。
「昔ね、とても立派な方がいたのよ。今はもう役に就いていらっしゃらないけど、その方の教えが町を守ってくれてるの」
「ほう……どなたかの弟子が残っているとか?」
「いえ、ご本人がまだおられるの。先生って呼ばれていて……確か、慎思さんって名前だったと思うわ。昔は都でも偉い役目に就いていたって聞いたことがあるけど、今は子どもたちに字を教えてくださってるの」
「この町に?」
「ええ。北のほうに学び舎を開いていらしてね。立派な建物じゃないけど、先生のところで学んだっていうだけで、町の若い子たちは少し誇らしげにしてるのよ」
利広は礼を言い、店を後にした。
町の北、坂を登った先に、小さな建物があった。
門の前に看板も旗もなく、ただ掃き清められた庭先と、風に揺れる草木の音だけがあたりを満たしている。
木の板壁は日に焼け、補修の跡も目につくが、不思議とくたびれた印象はない。隅々まで人の手が入っていて、どこか品のある佇まいだった。
利広は門の前に立ち、一礼して声をかけた。
「失礼いたします。旅の者ですが、慎思さんにお会いできればと思いまして」
しばしの静寂ののち、戸がそっと開かれる。
現れたのは、六十ほどの女性だった。
淡い灰青の衣に身を包み、束ねた白髪の合間から覗く顔は、皺こそ刻まれているものの、眼差しには深い静けさが宿っていた。
「はい、私が慎思です」
利広は軽く頭を下げる。
「突然のご無礼をお許しください。奏国より参りました。名は利広と申します。ただの旅人ですが――もしお時間をいただけるなら、少しお話を伺えればと」
そう言って軽く頭を下げると、慎思は一瞬だけ目を細めた。
その目の動きに、利広は微かな変化を感じ取った。名を名乗った瞬間、相手の瞳に、ごくかすかな光が宿ったのだ。
(……やはり、気づかれたか)
「……奏国から」
慎思はそう繰り返しながら、ふと目を伏せた。
次いで、柔らかく笑う。その目には、探るような光はなかった。
言葉の調子はあくまで穏やかで、気負いもない。
慎思は一度、目を細めて利広を見つめ――それから静かに頷いた。
「ええ、どうぞ。今は子どもたちも自習の時間ですから」
通された室内には、いくつかの低い机が並び、棚には巻物や木簡がきちんと収められている。筆や硯も整っており、細かなところまで手が行き届いていた。
利広は机越しに、そっと慎思を見つめた。
その傍らでは、一人の子どもが木簡に向かい、指先で文字をなぞっている。
筆を握る手つきはまだおぼつかないが、根気よく、何度も同じ字を繰り返している姿には、どこか張りつめた静けさがあった。
その様子を、慎思はやわらかな眼差しで見守っていた。
言葉をかけるでもなく、ただ子どもが自分の力で歩みを進めるのを見届けているようだった。
教師は一人だけ。
おそらく、この町で正式に「学舎」と呼ばれている場はここだけなのだろう。
十二国の制度では、州や郷に学舎が設けられ、複数の仙籍者が教えるのが一般的だ。だが、ここにはそれを支える官吏もいなければ、潤沢な資材もない。
(……一人で、よく保っておられる)
静かに椅子を勧められ、慎思と向かい合って腰を下ろす。
外からの風が、細く開かれた窓を通ってふわりと流れ込んだ。
利広は、そっと問いかけた。
「……あの子たちに、字を教えているのですね」
慎思はわずかに微笑んで頷いた。
「はい。ここへは毎日、何人かの子が通ってきます。字や数を覚えたい子、あるいは親に勧められて来る子もいますけれど……」
「他の町では、あまり見かけない光景です」
「そうかもしれませんね」
利広は机に目を落としながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「先生が教えておられると聞いて、町の方が“とても立派な方なのだ”と。……昔は都で、大変なお役目をされていたとか」
慎思は、一瞬だけ目を伏せた。
そして、やわらかな声で応じた。
「……太傅を務めておりました。少しだけ、王の傍にいたことがあります。でも、今はこうして静かに暮らしています。……学とは不思議なもので、たとえ一人でも、学びたいと思う子がいる限り、場は自然と成り立つものですね」
「政には、もう……お戻りにはなられないのですか」
その言葉に、慎思の微笑はふっと影を帯びた。
ゆるやかに視線を窓の外へ向け、低く、しかしはっきりと答える。
「……戻らないと、決めたのです」
その声には、静かな断が宿っていた。揺るぎではなく、深く沈んだ決意の色。
「更迭されたとき、私は己の至らなさを思い知りました。主上を、正しい道へ導けなかった。それが、何よりの責です」
そう語る口調は淡々としていたが、その奥には、長い年月の重みがあった。
「その後――王が崩御されたという報せと共に、冢宰と大司馬が自裁したと聞きました」
利広は、慎思のわずかな指の震えに気づいた。
「冢宰は、私の息子です。聡く、真っ直ぐで、志の高い子で……けれど、だからこそ、あの子は許せなかったのでしょう。自分たちが行った政が、何の利ももたらさず、民を苦しめたということを」
慎思の言葉は穏やかだったが、その中には微かにかすれるような響きがあった。
「――そして、きっと、あの子は……責任を自らにではなく、王に背負わせようとしたのだと思います」
風がふっと、開け放たれた戸から吹き込んでくる。
「華胥華朶を、太保に献上させたのも、きっとその一環だったのでしょう。“自分の理想は必ず正道に繋がっている”と、そう思わせるために。……結果、王は夢に沈み、現実を見失ってしまった」
そこまで語って、慎思はゆっくりと瞼を閉じた。
口にされたのはほんのわずかな断片にすぎなかったが、その奥にある真実を、利広は悟っていた。
「冢宰も、最後は王に殉じました。……でも、私は、あの子たちを正しい道に導けなかった。育てた者として、何もできなかった。誤った道を、正すことも止めることもできず……」
沈黙が落ちる。
やがて慎思は、ふと微笑んだ――けれど、それは赦しではなく、悔恨の底に灯る、淡い明かりだった。
「……そんな私が、もう一度政に関わるべきだとは思えなかったのです。仮朝のもとであっても、政を動かす立場に戻る資格は……きっと、私にはないでしょう」
利広は、ただ頷いた。
言葉を返すことはできなかった。慎思の語りは、過去の告白ではなく、今なお続く覚悟の告白だったからだ。
その背に漂う静けさは、悔恨とともに在りながらも、どこか清らかだった。
慎思の語りが静かに途切れると、学び舎のなかにしばし沈黙が落ちた。
利広はただ、机の木目を見つめていた。言葉を返すには、あまりに重い思いだった。
やがて、慎思がそっと立ち上がる。
その動作は、語り終えたというよりも、来客をもてなした一人として、別れの時を迎えた礼節のようだった。
「……長く引き止めてしまいましたね。外までお送りします」
利広もまた、ゆっくりと席を立ち、軽く頭を下げた。
言葉はなかったが、その仕草には深い感謝と、言い尽くせぬ敬意が込められていた。
慎思が利広見送ろうと門を開いたとき――
その向こうに、一人の少年が立っていた。
細い体をまっすぐに保ち、風に赤い髪を揺らしている。
陽に照らされ、淡く染まる頬と、その奥にある静かな光。
その瞳が、慎思を見つめた刹那――
利広は、気づいた。
まるで時間が、その場だけ切り取られたかのようだった。
少年の気配がわずかに揺れ、けれど逃げるでも、怯むでもない。
むしろ、何かを――強く、確かに、掴んだ者の気配だった。
慎思は扉を開け放ったまま、目の前の少年に気づき、ふと立ち止まる。
互いに名を告げたわけではない。
けれど、その場には、確かな“邂逅”の気配が満ちていた。
利広はその光景を、数歩うしろから静かに見つめていた。
(……そうか)
言葉ではない理解が、胸の底に沈んでいく。
(ようやく、出会ったのだな)
長く続いた旅路の果て。
多くを見て、迷い、悩んできたその少年が――
今、まっすぐに一人の女性を見つめ、その心に“確信”を灯している。
利広は、その場に立ち尽くしながら、ただ静かに息を吐いた。
(この国は……ようやく、変わるかもしれない)
そして、朝の光が、三人の間を、やわらかに満たしていた。
利広さんいいキャラなんですけど、なんとなくつかみにくいですよね。
風来坊してる二人ってどこにいてもおかしくないので出しやすいんですけどキャラがどことなくつかみにくいです。