紅衣の麒麟 作:にわか
オリキャラ増えます
今回登場する官吏の中で再登場が2人います。分かるでしょうか?
空はどこまでも晴れわたり、雲ひとつない青が広がっていた。
その静謐な蒼穹を裂き、瑞雲を引いて、玄武が凌雲山へと降りてくる。
ゆるやかに、しかし確かな意志をもって、玄武の背にたなびく白き雲が地に降り立つ。
それは王を迎える吉日――天地が選んだ、その理の証。
路門には、黒衣に身を包んだ官吏たちが、ひとり残らず平伏していた。
その列は、門前から回廊の影、さらに奥の広間の間際まで、整然と連なっている。
かつてない静けさが、そこにあった。
瑞雲から、慎思が姿を現す。
墨のように深い衣の裾が風に揺れ、その隣には、清次がまっすぐな眼差しで歩を進めていた。
ふたりが地に足を下ろした、その瞬間――
官吏の列の先頭から、一歩前に進み出た者があった。
齢は六十を過ぎてなお背筋は真っ直ぐ、歩みに揺らぎはない。
厳しい眉と引き結ばれた口元に、沈着冷静な気迫が滲む。
かつて高位にあり、仮朝では冢宰を務めた男――郭睿(かくえい)である。
彼は、地に膝をついたまま、頭を垂れながら口を開いた。
「――采王、慎思様、並びに采台輔。
天命をもって王座に即かれしこと、心より拝賀申し上げます。
この才国の地に再び理が巡ること、臣下一同、深く感謝し奉ります。
今日という吉日を迎えしこと、誠に慶賀の至りにございます」
それは儀礼として寸分の隙もなく整った、典礼の祝辞だった。
声は低く、明瞭に響き、礼を尽くしていた。だが、そこに私情は混じらない。
言葉のどこにも、慎思個人に向けた歓迎の色はなかった。
慎思は、その言葉を黙って聞き届けると、静かに郭睿の前へと進み出る。
そして、ごく短く、けれど誠意をこめて口を開いた。
「……長く王を欠いたこの国を、今に至るまで守り抜いてくださったこと。
才国に生きるすべての者に代わり、深く御礼を申し上げます。――ありがとうございます」
その声音には、深い感謝と、言い尽くせぬほどの申し訳なさが滲んでいた。
それでもなお、簡潔な言葉にとどめたのは、あまりにも多くを背負わせてきた自覚ゆえだった。
慎思は、今ここで返せる限りの誠意を込めて、その思いを伝えたのだ。
郭睿は、その言葉を聞いた瞬間――何も言わず、深々と地に伏した。
静かな沈黙が場を包む。
その姿には、臣としての礼節が保たれていた。
だが、返答も、眼差しも、ない。
ただ、伏した額が地を離さず、沈黙が、慎思の言葉の余白を埋めていた。
まるでその身をもって、「それ以上は申し上げません」と語っているかのように。
清次は、隣で黙ってそれを見つめていた。
儀式としては完璧だった。だがそこに通うものは、信頼でも期待でもなかった。
かつての太傅が今、王となって帰ってきた。
それは吉事であるはずだった――だが、郭睿の胸に去来する思いは、そう単純なものではない。
慎思は一歩も動かず、その沈黙ごと、受け止めるように立ち尽くしていた。
やがて、官吏たちがひとり、またひとりと頭を上げ、ゆるやかに場が解かれていく。
けれど、郭睿はすぐには顔を上げなかった。
風が、静かに庭を撫でる。
才国に理が戻った。
だが、それは決して、無垢なる祝祭だけではなかった。
積もった年月の重さが、静かにその場に横たわっていた。
ーーー
長閑宮の正殿――
かつて才国の王が崩御し、空位のまま数十年が過ぎたこの場所に、いま再び正統なる王の威光が戻ってきた。
朝もまだ浅く、空は薄く白み始めたばかり。
冷えた石畳に靴音を残して、文武百官が静かに正殿へと集まっていた。
彼らの衣はすべて、吉日を迎えるにふさわしい黒。
即位の礼に際し定められた正装であり、質素ながらも一分の隙もなく、整然とした威厳を帯びている。
正殿の広間は清められ、玉座の間にまっすぐ並んだ官吏たちが、整った所作で控えていた。
そして、その静けさを切り裂くことなく、慎思が現れる。
墨色の衣を纏い、まっすぐに玉座の方へと歩みを進めるその姿は、飾り気のない威光を纏っていた。
その背には、赤い髪の少年――采麒が控えている。
細い体に凛とした気配を湛え、無言のまま王に寄り添って歩を合わせていた。
その一歩ごとに、広間に満ちる空気が引き締まっていく。
慎思が玉座の前に立ち、目を伏せずに周囲をゆっくりと見渡す。
その目には、威圧も情熱もない。ただ、誠実さと、覚悟だけがあった。
やがて、静けさを壊さぬように低く、落ち着いた声音が広間に満ちる。
「才国の政を、長きにわたり支えてくださった皆さまに、まずは深く感謝を申し上げます」
その声は柔らかく、けれど言葉一つひとつに、揺るぎない誠意があった。
過剰にへりくだるでもなく、かといって王威を振るうでもない、慎思その人の本質を映すような声音だった。
王は玉座に就き、扇を女官に預けて、詔を下す。
「ここに、王として詔を下します。以下の者を、正式に朝廷の要職に任ずる」
その言葉とともに、玉座の間の空気がまた一段と静まる。
ーー才国では前王崩御の折、幾らかの重役が王の後を追ったため空席の役職があった。
「郭睿、冢宰に任ず」
名を呼ばれた郭睿が、広間の前方へ進み出る。
その動きには一片の乱れもなかった。沈着冷静、官吏として理想の振る舞いである。
しかしその顔には、感無量の面持ちでもなく、毅然とした誇りでもなく――
ただ、深く何かを思う者の沈黙が宿っていた。
「鍾隠(しょういん)、大司徒(だいしと)に任ず」
「蕭英(しょうえい)、大宗伯(だいそうはく)に任ず」
「蘇澤(そたく)、大司寇に任ず」
「凌成、小司馬(しょうしば)に任ず」
……
一人ひとり名を呼び上げるたび、官吏たちは静かに進み出ては膝をつき、頭を垂れる。
そこには、それぞれの年月と、思いが積み重なった所作があった。
清次はその列を無言で見つめていた。
官吏たちの眼差し、所作、空気に滲む温度――すべてを敏感に受け止めながら。
表に出ぬ葛藤も、静かに湧き立つ希望も、その場には確かに息づいていた。
やがて、慎思があらためて玉座に腰を据え、広間を見渡して言葉を継いだ。
「――才国は、長く王を欠きました。
それでも、皆さまが政を保ち、民を守ってくださった。
その労に、あらためて心より感謝申し上げます」
慎思の声音には力みはなく、淡々としながらも、言葉に揺るぎない信念があった。
「政は、王のためにあるのではなく、民のためにあります。
私はその理に則り、才国を導いてまいります。
未熟な私ですが、どうか皆さまのお力をお貸しください」
それは、王としての宣言であり、願いであり、約束だった。
そして、慎思の視線が官吏たちに向けられる。
最前列に並んでいた郭睿が、静かに膝をついた。
その所作は寸分の乱れもなく、見事なまでの礼節であったが――
ほんの一瞬だけ、その瞼が伏せられたとき、わずかな翳りがその奥に揺れた。
言葉を返すこともなく、ただ頭を垂れる。
それは敬意でありながら、どこか遠い距離感を孕んでいた。
清次は、それを静かに見つめていた。
まるで、交わされぬ言葉の代わりに、そこに流れる想いの余韻を感じ取るかのように。
慎思は郭睿の沈黙に、なにひとつ言葉を返さなかった。
けれど、その眼差しには、確かにその想いを受け取ったという光があった。
――政で応える。それがいまの私にできるすべて。
慎思の背が、ほんのわずかに引き締まる。
新たな才国の朝が、いまここから始まろうとしていた。
ーーー
正殿の広間には、朝の淡い光が静かに差し込んでいた。
玉座には慎思が静かに座し、傍らには清次の姿。
その左右には、任命を受けたばかりの高官たちが並び、新たな才国の政の輪郭が形づくられていた。
この日の朝儀では、各州から寄せられた政務報告が取り上げられていた。
中でも、慎思が手にした一通の報告に、空気がわずかに引き締まる。
「――崟州(ぎんしゅう)にて、軍備の再編と徴兵に類する動きが確認されました。
外患への備えと称されておりますが、報告によれば、州内の一部では不穏な噂も立っているようです」
そう報告したのは、大司徒・鍾隠だった。
卓越した筆致で記された文書を広げながら、落ち着いた声が広間に響く。
慎思は手元の報告に目を落とし、ひと呼吸置いて顔を上げた。
「崟州――」
その名を静かに反芻したあと、視線を冢宰・郭睿へと向ける。
「冢宰、御見解を伺いたい」
呼ばれた郭睿は一礼し、前へ進み出た。
その所作は端正であり、声もまた穏やかに整っていた。
「はい。主上のおおせのとおり、崟州は才国の南西にあって、地理的にも文化的にも中央とは距離がございます。
これまでにも幾度か、独自の防備体制を敷こうとした記録が残っております。
ただちに謀反と断ずるには材料が不足しておりますが、今後の動きには注意が必要と存じます」
慎思は頷きながら言葉を継いだ。
「崟州の長は、梁炯――でしたね。中央との連絡は?」
「本朝より書状を送った記録がございますが、公式な返答はまだ届いておりません。
いずれにせよ、意図を明確にさせる必要があるかと」
「分かりました。引き続き監視を強め、しかるべき時には直に話を聞く場を設けましょう」
応じる慎思の声は柔らかでありながら、芯のある確かな響きを持っていた。
郭睿は深く一礼し、列へと戻る。
清次は、慎思と郭睿のやり取りを傍らで見守っていた。
その一連は、何も問題がないかのように整っていた。
けれど清次は、どこか引っかかるものを感じていた。
慎思が語りかけるとき、郭睿は一瞬だけ、間を置く。
それは言葉を選んでいるのか、それとも距離を測っているのか。
(主上と冢宰のあいだには……何かある)
心の奥に浮かんだその疑問を、清次はまだ言葉にできずにいた。
朝儀はその後、他州の税制や港湾整備の議題へと移っていったが、才麒の耳には、さきほどの「崟州」の名がなおも残り続けていた。
それは、才国の理が揺らぎ始めている兆しか――
あるいは、王とその臣下が抱える、過去の澱の影なのか。
いずれにせよ、それが遠からず、大きな波となって才国に押し寄せる――
清次には、そんな予感があった。
ーーー
その違和感は、朝儀の場だけではなかった。
慎思を王として迎えた後も、清次はどこかに噛み合わぬ空気を感じていた。
慎思と官吏たちのやり取りは、礼節に満ち、表面上は穏やかに交わされていた。けれど、その奥にどこかぎこちない距離感がある。
それは、慎思が長く政から離れていたせいだけではない。
清次自身にも、その違和感は向けられていた。
才国の麒麟として即位の場に立ち、王に付き従う存在でありながら――
自分がまるで「異物」のように扱われている、そんな空気が、どこかにあった。
言葉を交わすときも、まなざしを交わすときも、相手の表情には微かなためらいが浮かぶことがある。
あからさまに避けられているわけではない。けれど、赤い髪と瞳を持つこの身を、どこか恐る恐る見るような――遠慮とも、不安ともつかぬ視線があった。
(……仕方ないのかもしれない)
清次は自分に言い聞かせるように思った。
血を厭うはずの麒麟が、今こうして血の色を纏い、歩いているのだから。
それでも、麒麟として、王の側にあるべき存在として――この距離はあまりにも遠かった。
そんなある日、回廊を歩いていた清次に、ひとりの若い文官が声をかけてきた。
「台輔……よろしければ、少しだけお時間をいただけませんか?」
控えめな声でそう言ったのは、先日の朝議で任を受けたばかりの蕭英だった。
「蕭英殿、だね。どうかした?」
清次が名を呼ぶと、蕭英ははにかんだように頭を下げた。
「はい。大宗伯を仰せつかりました。……あの、突然で申し訳ないのですが」
「ううん、大丈夫。話がしたいんだよね?」。
清次が軽く頷くと、蕭英は嬉しそうにほっと息をついた。
やがて二人は、回廊の端に並んで腰を下ろした。
風が渡り、庭先の木々がさわさわと揺れている。騒がしくもなく、静かすぎることもない、居心地の良い沈黙が流れた。
「……皆は、台輔をとても遠く感じているように思います」
蕭英がぽつりと口を開いた。
「ですが、私は……台輔を拝見していると、なんというか、自然と心が落ち着くんです」
「心が、落ち着く?」
「はい。赤い髪も瞳も、とても印象的ですけれど、それ以上に……凛としていて、静かで。たぶん“麒麟”という存在は、こういうものなんだろうなと思えて。だからきっと、大丈夫なんだって……そう感じるんです」
その言葉に、清次は少しだけ目を見開いた。
「……そう言ってくれたのは、君が初めてだよ」
「おこがましいことかもしれませんけど……私は、本当にそう思ってます」
照れくさそうに笑う蕭英の表情は、他意のないまっすぐな好意に満ちていた。
しばしの沈黙のあと、清次は口を開いた。
「……あの、大宗伯」
「はい」
「君は、主上のことをどこまで知ってる?」
「主上の……ですか?」
蕭英は少し考えるように目を伏せたが、すぐに首を振った。
「……実は、あまり詳しくは存じ上げないんです。私が中央に上がってきた頃には、すでにお姿はありませんでしたから。お名前だけは、記録で見ていましたが……」
「そう……」
蕭英は少し視線を落とし、控えめに口を開いた。
「……すでにご存じかもしれませんが、主上は、かつて太傅を務めておられました」
清次は静かに頷いた。
「うん、それは記録で見た。前王の時代に政にあたっていたことも、少しだけ」
「――実は、それだけではありません」
言い淀むようにしながら、蕭英はそっと息をつく。
「主上は、前王の……砥尚様の、育ての親でもあったと聞いています。太傅としての務め以上に、王を見守り、導いてこられた方だと」
「……育ての、親……」
清次は小さく息をのんだ。その語に含まれる重みを、すぐには咀嚼できなかった。
「……ありがとう、教えてくれて」
そう告げた清次の声には、感謝とともに、微かな戸惑いが混じっていた。
しばしの沈黙がふたりの間に流れたのち、清次は小さく呟くように言った。
「……だから、なのかな。主上と冢宰ー郭睿との間に、妙な距離があるように思えて。冢宰は……主上を敬ってはいるけれど、どこか、距離を置いてる。朝議でも、どこか……」
言いながら、清次は自分の言葉に確信を持ち切れないまま眉を寄せた。
「……そうですね。私も、それは感じます」
蕭英は静かに同意し、ほんの少し考えるように目を伏せた。
「……ただ、私は詳しい事情までは存じません。ですが――」
言いながら、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「大司徒ー鍾隠様にお話を伺ってみると良いかもしれません」
蕭英がそう言ったとき、清次は小さく瞬きをした。
「大司徒が、主上と冢宰の関係について、何か知っているの?」
「直接のことは分かりません。ただ……大司徒は、かつて冢宰の下で長く学ばれていました。政治のことも、朝廷の空気も、誰より深く見てきた方です。何か、手がかりになることがあるかもしれません」
その言葉に、清次はそっと息を吸った。
あの沈黙の理由――郭睿の中にある、言葉にならぬ思いの正体を知りたいと、心の奥で強く思っていた。
「……案内してもらってもいい?」
「はい、かしこまりました。今なら、書庫にいらっしゃるはずです」
***
長閑宮の府第にある文書書庫は、常に香が焚かれ、筆と紙の音だけが静かに響く場所だった。
その静寂の中、一角には鍾隠の姿があった。
几帳面に整理された文案の山に囲まれ、落ち着いた面持ちで筆を動かしている。
その様子を見つけた蕭英が一礼し、声をかけた。
「大司徒、ただいまお時間をいただけますか?」
顔を上げた鍾隠は、二人の姿を見て軽く目を細めた。
「大宗伯…それに、台輔。ようこそ、お変わりありませんか」
「ええ。お忙しいところ、すみません」
清次が軽く拱手すると、鍾隠はわずかに柔らかな笑みを見せた。
「久しぶりですね。……直接お話するのは、蓬山のあの日以来ですか」
「はい。あの折は、お言葉をありがとうございました」
「とんでもない。こうして才国に王が立たれ、麒麟も玉座の傍らにおられる……これほどのことが他にあるでしょうか」
その言葉に清次は目を細め、小さく息を吐いた。
「今日は、少しお話を伺いたくて来ました。――主上と、冢宰のことについてです」
そう言うと、鍾隠の目元がわずかに鋭くなる。
「……成程」
鍾隠は筆を留め、卓の上の書簡を丁寧に整えると、静かに立ち上がった。
「では、別室に移りましょう。話すなら、静かなところが良い」
***
控え室には、簡素な卓と椅子が置かれ、焚かれた香が微かに揺れていた。
三人が向かい合って腰を下ろすと、清次が改めて口を開いた。
「――主上が、前王朝時代に太傅だったことは、私も知っていました。でも、冢宰の態度を見て……、どうしてあんなふうに距離を置かれているのか、それが分からなくて」
「それを、私に尋ねに?」
「はい。もし、覚えておられることがあれば……」
鍾隠は手元の茶碗に目を落とし、しばし思案するように沈黙した。
やがて、視線を清次に戻し、低い声で応じた。
「――まず、申し上げておきますが、これはあくまで私の個人的な見解です。冢宰がご自身の口で語られたことではありません」
「それでも、知りたいんです」
清次がそう答えると、鍾隠は軽く頷いた。
「主上は、かつて太傅として前王を補佐し、そして若き日の前王を育てた方です。謹直にして穏やか、まさに理の体現者と呼ぶべき方でした」
「……」
「ですが、先王が崩御された後、主上は朝廷には戻られず、長らく消息も分からなかった。混乱の中で仮朝を支えた官吏たちの多くは、その“沈黙”に複雑な思いを抱いたのです」
鍾隠は少し間を置き、遠い過去を思い返すように目を伏せた。
「しかし……私の目には、慎思様は“逃げた”というより……心を砕いておられたように見えました。
王に仕えながらも、あの御方の在りようにどこかお苦しみだったようで……。
あの王が玉座にあり続けた年月は、慎思様にとってもまた、重い年月だったのだろうと、私は……」
言葉の終わりに、鍾隠の声音には、ごく淡く、惜しむような静けさがにじんでいた。
「冢宰は、極めて現実的な方です。情に流されず、重職として才国の屋台骨を支え続けた。その責任の重さを、誰よりも知っておられる」
「だからこそ、主上の“不在”に、何か思うところがある……?」
「ええ。理では理解できても、心の内では――まだ整理がついていないのかもしれません」
鍾隠の言葉は慎重だったが、その裏にある真意は確かだった。
清次は静かに息をつく。
「……ありがとうございます。聞いてよかったです」
鍾隠は微笑を湛え、茶を一口含んだ。
「台輔がそのことに向き合おうとしていること自体が、すでに理に適う一歩です。――その志が、やがて心を開く鍵になることでしょう」
その言葉に、清次は小さく頷いた。
隣に座る蕭英もまた、静かに微笑みながら、清次の横顔を誇らしげに見つめていた。
ーーー
控え室を辞したあとも、清次の胸の奥には、鍾隠の言葉が静かに残り続けていた。
(冢宰は、主上の沈黙を、理では理解しても……心では受け止めきれていない)
それは、あまりに長い空白の重さ――
それでも、自分たちはいま、この国をともに支える存在であるはずだった。
清次はひとつ、ゆっくりと息を吐いた。
その足が向かったのは、内殿――慎思が静かに政務をととのえる、長閑宮の一角だった。
侍従に取次を頼むと、間もなく扉の向こうから「どうぞ」と穏やかな声が響いた。
「……失礼いたします」
部屋に入った清次を、慎思は筆を手にしたまま顔を上げ、柔らかな微笑を浮かべて迎えた。
「お疲れでしょう。どうぞ、こちらに」
清次は勧められるままに、卓の向かいに腰を下ろした。
香の漂う静かな部屋。外では風に揺れる木々の葉音が、さやさやと耳をくすぐっていた。
「……主上」
「はい」
「主上と冢宰とのやり取りに、ほんのわずかですが、距離があるように感じました」
慎思は少し目を伏せ、そっと頷いた。
「ええ。……私も、そう思っています」
その声音は、柔らかく、けれど胸の奥に沈殿するものを抱える響きだった。
「大司徒に、少し話を伺いました」
「……そう」
慎思は驚くふうでもなく、ただその言葉を静かに受け止めるように頷いた。
「はい。責めるつもりはありません。
ただ、冢宰が主上を“迎えきれていない”のだとしたら……
それは、主上の中にも“立ち尽くしているもの”があるんじゃないかって、そう思っただけで」
慎思は、目を細めた。
長い間、誰にも言わず胸に仕舞っていたものが、そっと撫でられたような心地がした。
「台輔……よく、見ておられますね。」
「……麒麟だからかもしれません。でも……それだけじゃない気もします」
清次は、そっと言葉を継いだ。
「主上は、前王の“育ての親”であったと聞きました。
けれど、あの王の末路を見た者にとって――それは、とても重たいことです」
風が、二人の間を通り過ぎた。
「それでも、主上は今ここにおられる。……才国の王として、皆の前に立っておられる」
清次の声は静かだった。
けれどその言葉には、澱みのない真っ直ぐな眼差しが宿っていた。
「ですから、どうかご自分を責めないでください。主上が戻ってきてくださったこと、それ自体が……もう、才国にとっての救いなのです」
慎思はその言葉に目を細め、わずかに笑みを浮かべた。
「……ありがとう。あなたがそう言ってくれるのは、何よりも力になります」
その声には、わずかに滲む安堵の色があった。
清次は、穏やかな時間が流れるのを感じながら、そっと立ち上がった。
「私は、冢宰とも話してみようと思います」
「……うん。あなたなら、きっと伝わるはずです」
慎思の言葉に、清次は深く頭を下げた。
***
それから夕刻近く、府第に残って書簡の整理をしていた郭睿のもとを訪れた。
書庫の脇に設けられた控えの間。積まれた文書の合間に、郭睿の背筋の伸びた姿があった。
「冢宰。……今、少しお時間をいただけますか?」
呼びかけると、郭睿は静かに筆を置き、清次を振り返った。
「台輔…。どうぞ」
声は硬質ながら礼を失わず、清次を椅子へと招いた。
「突然すみません。……どうしても、お話ししておきたいことがあって」
「構いません。何であれ、伺いましょう」
郭睿の視線はまっすぐだった。その深い眼差しに、清次はひとつ息を整える。
「はい。……少しだけ、主上のことについて」
その名に、郭睿の瞳がわずかに細められた。
「……先日、主上のお言葉に、返答をなさらなかったこと。
それが“礼”としてなら問題ではありません。けれど……あれは、きっと“沈黙”だったと思うんです」
郭睿の表情は変わらなかった。
だが、沈黙の中に、確かな動揺の気配が走った。
「……台輔には、そう見えたのですね」
「はい。」
清次の声音は静かだった。
「ですが、私は問いただすために来たわけじゃありません。
ただ……問いかけることを、怖れていらっしゃるように見えたのです」
郭睿が、わずかに視線を落とした。
沈黙が落ちた。
けれど、郭睿は否定もせず、黙ってその言葉を受け止めていた。
「鍾隠様から、少しだけお話を聞きました。主上が長く朝廷に姿を見せなかったこと、そしてそれが、冢宰の中にどんな重みを残しているか……」
そのとき、郭睿の眼差しが、ふと揺れた。
「……私は、理を曲げぬつもりはありません」
低い声で、郭睿が答える。
「ですが、感情は……理とは別に、沈殿するものです。主上のお姿を目にした今もなお、私の心が、それに追いついていないのは事実です」
清次は、静かに頷いた。
「それでも、私は信じています。冢宰が、才国を想う志を、主上もまた持っておられると。だからこそ……」
言葉を選びながら、清次は続けた。
「……王と臣としてでなく、人と人として――少しずつ、向き合ってくださればと願っています」
その言葉に、郭睿のまなざしが和らいだ。
「……台輔。あなたは、本当に麒麟らしいお方だ」
「……ありがとうございます。でも、私はまだまだ未熟です」
小さく微笑む清次に、郭睿はゆっくりと頷いた。
「主上の歩みは、理のためにある。そして、あなたの言葉は……人の心の奥にまで届いている。才国にとって、何よりも貴重なことです」
そう言って、郭睿は椅子から立ち上がった。
「いずれ、私からも、主上に話す機会を持ちましょう。……それが、理に適うならば」
その一言に、清次は目を細めて軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。……それだけで、十分です」
そうして、部屋の外へ出たとき。
夕陽が、石畳を金色に染めていた。
ーーー
政庁の執務室、灯火のもと。
夜の帳が落ち、文案の山だけが静かに郭睿の前に積まれていた。
筆を走らせる手を一度止め、郭睿はふと手元の一通の報告書に目を落とす。
それは、崟州から寄せられた最新の動向をまとめた報告書だった。
「……また、兵の再編か」
小さくつぶやいた声には、警戒と、微かな苛立ちがにじんでいた。
梁炯(りょうけい)――崟州の長。かつては堅実な州政を行うことで知られていた人物。
だが、近年その姿勢は変わりつつある。王都からの指示を受け流し、独自に徴兵や武器の増備を進めている。
その理屈は「外患への備え」であったが――
(……あれは“備え”ではない。“力の誇示”だ)
郭睿は目を閉じ、長く息を吐いた。
本朝はようやく正統の王を戴き、政の体制が整いつつある。にもかかわらず、その理に背くかのような動き――
崟州は中央から遠く、長らく独立的な気風を保ってきた土地。
そこに巣食う“理の空白”が、今、何かを生もうとしている。
郭睿は席を立ち、窓の外――暗い庭の方を見やった。
闇の中で、燈明が静かにゆれている。
「……未だ、理は満ちきっていないということか」
彼は、明日の朝儀での報告内容を頭の中で整えながら、静かにその場を後にした。
ーーー
正殿には、早朝の清澄な光が差し込み、磨かれた石の床に柔らかな陰影を落としていた。
高く天井を支える木梁の間には、才国の紋をあしらった幔幕が掲げられ、左右には文武百官が位階に応じた位置に整列していた。黒を基調とした正装は厳粛さを際立たせ、朝の清気と相まって凛とした空気を作り出している。
玉座には慎思が静かに座していた。墨の衣に銀糸が淡く光り、まなざしには威圧も誇張もなく、ただ端然たる誠実さが宿っている。その傍らには、采麒が控えていた。紅の髪が朝の光を受けて淡く輝き、無言のままに慎思の動きと息を合わせている。
慎思が視線をめぐらせると、まず大司徒・鍾隠が一歩前へ進み出た。手には報告文書があり、落ち着いた声で読み上げる。
「――崟州において、徴兵や武具の増備が観測されております。外患への備えを標榜してはおりますが、州内では“王と麒麟の正統性に疑義あり”との噂が広まっております」
慎思の指が膝の上で静かに組まれる。
「崟州の長は……梁炯、でしたね」
鍾隠は頷き、簡潔に補足する。
「はい、主上。才国の南西に位置し、地理的に中央との往来が乏しく、また歴史的にも独自の統治意識が強い地域とされております」
慎思は、しばし沈思したのち、姿勢を質して冢宰・郭睿へと視線を向けた。
「冢宰、現状の認識と対応策について、見解を」
呼ばれた郭睿が静かに進み出る。衣の裾が揺れ、その一歩一歩が空気を引き締めた。
「御意。主上の御覧の通り、崟州の動きは看過できぬ徴候でございます。即時の武力衝突に至る兆しは現時点では確認されておりません。しかし、地方軍の増強、徴兵の動き、明確な敵意は見られませんが、行動の意図が不明瞭である以上、慎重な対処が必要です。
崟州は中央からの理を受けにくい地にございます。
梁炯もまた、近年その姿勢を顕著にしており……朝廷への忠誠を確かめる場が必要と存じます」
慎思は、短く頷く。
「そうですね……梁炯の真意を見極める必要があります。使節を送り、直接対話の場を設けましょう。監視と警戒は怠らずに」
「はっ。承ります」
慎思の声は静かだったが、言葉のひとつひとつには確かな重みがあった。
次いで、一歩進み出たのは大宗伯・蕭英だった。彼の声は若さの中に真摯な響きを帯びていた。
宗国からの書簡を掲げる。
「主上。宗国の卓郎君より、才国再建のための人材・資源支援の申し出が正式に届いております。
内容は、中立の技術官吏の派遣および、物流支援に関する具体的な書状です」
慎思はそれを受け取り、丁寧に目を通した。
「……宗国王には、深く感謝を。王城より礼状を手配してください。
また、受け入れにあたっては、才国の内政を侵さぬよう注意を。
外の力は、補うものであって、代わるものではありません」
「畏まりました」
清次はそのやりとりを見つめながら、慎思の目の奥に宿る緊張を感じていた。
(……主上は、すべてを“政”で応えようとしている)
崟州の動きと、宗国からの援助。
どちらも国の形を大きく変えうるものでありながら――
慎思は決して動じず、ただ理の中にそれを包み込もうとしていた。
だが、それがどこまで届くだろうか。
崟州の影は、確実に色を濃くしていた。
ーーー
夕刻の光が、王の執務室の薄絹を透かしてやわらかく差し込んでいた。
帳簿や報告書が静かに積まれた卓の傍らに、慎思が端然と座している。
その斜め後ろには、清次の姿があった。
香の焚かれた静かな空気の中で、彼は慎思の動きを注意深く見守りつつ、時に文書を手渡していた。
扉が控えめに叩かれ、文官がひとり顔をのぞかせる。
「……冢宰・郭睿殿が、拝謁を願っておられます」
慎思が顔を上げる。
「お通して下さい」
やがて郭睿が姿を現し、静かな足取りで室内へと進んだ。
清次にも一礼し、慎思の前で膝をつく。
「お時間を頂戴し、恐れ入ります」
「構いません。……お顔を上げてください」
慎思の声音は変わらず穏やかで、やわらかに郭睿の沈黙を促す。
「……先の朝儀にて、崟州の件、ご指示を仰いだ際、言葉少なとなりましたこと、御無礼をお許しください」
「いいえ。あなたの言葉は、いつも慎重で的確です。……あれが、今のお気持ちなのだろうと、私は思っております」
慎思の言葉には、否定も強要もなかった。ただ、静かに受け止めようとする誠意だけがあった。
しかしその後、ふいに会話の糸が途切れた。
郭睿は唇を開きかけては閉じ、視線を揺らしながら言葉を探している様子だった。
その気配を感じ取った清次が、柔らかな声で語りかける。
「……こうして並んで座っていると、不思議と、何でも話せるような気がするものですね」
郭睿が、わずかに視線を向ける。
「沈黙が続くと、かえって心の奥の声が聞こえてくるようで……そんな気がして、つい」
清次は小さく微笑み、慎思と郭睿の間に漂うわずかな空気のゆらぎを感じ取りながら、そっと言葉を添えた。
「もし、今この場でなら……長く胸に留めてこられたことも、言葉にできるかもしれません」
まるで風が背中を押すような、そのささやかな誘いに、郭睿の目が揺れた。
そして彼は、静かに慎思へと向き直るのだった。
「……主上。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
慎思は穏やかに頷く。
「はい。何でもどうぞ」
郭睿は、慎重に言葉を選ぶように、低く問いかけた。
「……この国を再び導こうとされる今、あえてお尋ねいたします。
あの時――前王の崩御ののち、なぜ朝廷に戻られなかったのか。
そして今、なぜ戻られたのか。私は、ずっとその答えを、得られずにおりました」
清次は郭睿を静かに見つめた。
それは、これまで語られることのなかった問い――
そして、郭睿自身が長く口にすることを恐れていた問いだった。
慎思は、ほんの少しだけ視線を落としたあと、ゆっくりと語り始めた。
「……あの時、私は“理”を見失っていました。
太傅として仕えていたにもかかわらず、王を止めることができなかった。
才国を守るべき者が、それを見過ごした――その罪が、あまりに重く思えたのです」
郭睿の瞳が揺れる。だが慎思は、静かに言葉を続けた。
「けれど……それでも私は、逃げ続けることはできませんでした。
赦されようとして戻ったのではなく、ただ、この国も、この民も、もう一度歩き出せると……私は、そう信じたかったのです」
郭睿は、深く頭を垂れた。
「……恐れながら、私は、その“信頼”を受け止めきれずにおりました。
理に適うとわかっていても、私情が胸を離れなかったのです」
「それで良いのです。私は、完璧な王ではありません。
ただ――共に歩んでいただけるなら、それが何よりの救いです」
慎思の言葉に、清次が小さく息を吐く。郭睿の肩が、わずかに揺れた。
やがて郭睿は、深く、静かに礼をとった。
「……臣、改めて、才国のため、主上のもとに仕えることを誓います」
「ありがとう。……その言葉を、私は決して忘れません」
慎思の声音は、やさしく、けれど揺るぎないものだった。
清次は、そのやりとりを見守りながら、静かに頷いていた。
遠ざかっていた心が、今まさに、少しずつ距離を埋めていく。
その手触りが、確かにそこにあった。
そして――
理を失った国に、再び理が巡り始めていた。
十二国記の宮城についてはnetで十二国記の設定を分かりやすく纏めて下さっている方のを見て書いたのですが私の頭がパンクしたので、宮城の描写や名称は割と適当です。原作ファンの方申し訳ありません