紅衣の麒麟   作:にわか

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今回の話から主人公の特異性がより強調されます。
麒麟のようなとの事で黄姑と呼ばれる慎思なら麒麟らしくない主人公とも相性はいいんじゃないかなと思ってます。




第十一章

 

 

 

昼下がりの陽が、高殿の瓦に柔らかく反射していた。

 

長閑宮の中庭には、暑さをやわらげる風がかすかに吹き、遠くから鳥の鳴き声が聞こえていた。だが、そんな穏やかな外界の気配とは裏腹に、正殿の執務室には、ぴんと張りつめた空気が流れていた。

 

慎思は卓に広げられた文書を手にしていたが、その目は活字の奥を見つめているようだった。清次は傍らに控え、主上の沈黙を静かに見守っていた。

 

そのとき、扉の外から足音が近づき、緊迫した声が響いた。

 

「――主上、失礼いたします!」

 

大司馬・鴻玄の声だった。その声音には、ただならぬ報せを抱えた者の重みがあった。

 

「お入りなさい」

 

慎思が即座に応じると、鴻玄は簡潔に一礼し、足早に部屋へと入ってきた。

 

「昼下がりの折、急を要する無礼をお許しください。――緊急の件にございます」

 

慎思は頷き、清次が静かに一歩前に出る。

 

「何が起きたのですか」

 

鴻玄はわずかに躊躇し、それでも強い意志で言葉を紡いだ。

 

「……小司馬・凌成が、梁炯と合流いたしました。反乱軍の一角に、正式に加わったものと見られます」

 

慎思は動じた様子を見せなかったが、手にしていた筆を静かに卓上に置いた。清次の眼差しにも、明確な驚きが走る。

 

「間違いないのですね」

 

「はい。昨夜、崟州より私のもとに急報が届きました。凌成は梁炯と同席し、共に軍議に臨んでいたとのこと。……そして今朝、彼のもとに仕えていた数名の官吏が、城を出て消息を絶っております」

 

鴻玄の声には、怒りよりも、どこか沈痛な響きがあった。

 

「……すでに、説得できる段階は過ぎたと考えます」

 

慎思は小さく息をつき、すぐに清次に目を向けた。

 

「郭睿、鍾隠、蕭英、蘇澤をここへ呼びましょう。すぐに、会議を開きます」

 

「承知しました」

 

清次が頷き、即座に侍従を呼びに出る。

 

陽光が窓の格子から差し込み、卓上の文巻に淡い陰影を描いていた。

 

――まもなく、重臣たちが一人、また一人と正殿に集まってきた

 

卓を囲む面々は皆、一様に重い面持ちだった。

 

郭睿は文書を手にして席に着くと、先んじて言葉を発した。

 

「……凌成殿の合流、まことに遺憾です。小司馬の官位にある者が、兵権を持つ梁炯に加わるとなれば、内乱はより深刻なものとなりましょう」

 

鍾隠が眉を寄せる。

 

「凌成は、高斗の中でも理想を掲げた者でした。その理想に共鳴した者たちも、少なくないはずです。彼が挙兵に加わったと知れば、正義を見出して従う者が出る……それがもっとも危うい」

 

蕭英がうなずきながら言う。

 

「才国の官吏の中には、彼を慕う者も多い。朝廷に疑念を抱いている者たちの心を動かすには、十分すぎる力を持っています。民心までもが揺らぎかねません」

 

郭睿が続けた。

 

「今こそ、決断が必要です。これ以上、彼らの旗に人が集まれば、鎮圧はより困難になります。主上、どうか――」

 

慎思は皆の言葉を黙して聞いていた。

 

その視線がふいに鴻玄に向けられる。

 

「……大司馬。あなたは、どう思われますか」

 

鴻玄は短く目を伏せたあと、口を開いた。

 

「……出陣いたします。私が、自ら崟州に向かいましょう。彼が完全に謀反に踏み込んだ以上、止めねばなりません」

 

「……つらい決断ですね」

 

「はい。ですが、私が行かねば、あやつを止められる者はいない」

 

鴻玄は静かに、しかし確固たる声で言った。

 

その胸には、未だに割り切れぬ痛みと迷いが残っていた。

 

しかし――それを押し殺し、彼は“国を守る者”としての道を選ぼうとしていた。

 

皆が慎思に視線を向けた。

 

決断を、主上の言葉を、待つように。

 

だが慎思は、卓の上にそっと手を置き、静かに言った。

 

「――もう少しだけ、時間をください」

 

その言葉に、皆がわずかに目を見張る。

 

「今すぐに決断を下せば、確かに少ない犠牲で済むかもしれません。……けれど私は、まだ理を尽くしたとは思えないのです」

 

慎思の声音は穏やかだったが、その奥にある意志は明確だった。

 

「どうか、今しばらく、猶予を」

 

重臣たちは黙して頷いた。

 

それぞれが、胸の内に異なる思いを抱きながらも、慎思の言葉を受け止めていた。

 

その決断の先に、才国がどのような運命を迎えるのか――まだ、誰にも見えていなかった。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

夜更けの静寂が、長閑宮を包んでいた。

 

昼の会議を終えたあとの静かな時間。執務室には灯がともされており、卓上の燭が柔らかい橙の光を揺らめかせていた。

 

帳面に目を通していた慎思がふと顔を上げると、扉の向こうから、そっと足音が近づいてくる気配がした。

 

「……台輔?」

 

控えめなノックに続いて、主上の声が返る。

 

「お入りなさい」

 

扉が静かに開くと、清次がそこに立っていた。普段と変わらぬ姿でありながら、その表情にはかすかな翳りがあった。

 

「……お時間をいただいて、よろしいでしょうか」

 

「ええ、どうぞ」

 

慎思が促すと、清次は静かに歩を進め、主上の前に立った。

 

一拍、言葉を探すように口をつぐんでから、彼は低く、抑えた声で口を開いた。

 

「……主上。お願いです。もう、動くべきではないでしょうか」

 

その声音には、かすかな熱がこもっていた。

 

「このまま時をおけば、それだけ多くの民が巻き込まれてしまう……戦になれば、もっと酷いことになる。小を切り捨てなければ、多を守れなくなることも、あるのです」

 

慎思は黙って、清次を見つめていた。

 

清次の言葉は、理ではなく、情に突き動かされているものだった。だが、その情の底には、確かな現実の影が差していた。

 

「……そしてその判断は、遅れてはならない。選ばなければならないときに、躊躇えば――すべてを失うかもしれない」

 

清次の拳が、衣の裾で見えないほどに固く握られていた。だが彼は、蓬莱のことを語らなかった。かつて、自分がどうして何も守れなかったのか、そのことを――ただ、その痛みだけを胸に抱いて、訴えた。

 

慎思は、しばらく目を伏せていたが、やがて顔を上げ、穏やかな声で言葉を返した。

 

「……あなたは、蓬莱のご出身でしたね」

 

清次がはっと目を見開く。だが、慎思の声は決して責めるものではなかった。

 

「私には、あなたが何を見てきたのか、知るすべはありません。けれど――そこに在ったものが、あなたの言葉の奥にあるのだろうと、感じています」

 

清次は何も言わなかった。ただ、口を真一文字に結んだまま、じっと慎思を見つめていた。

 

「……確かに、小を切り捨てなければならぬときもある。あなたの言うことは、否定できません。それが理であることも、あるのでしょう」

 

慎思の目が、深く静かに清次を捉えていた。

 

「けれど私は、まだ最善を尽くしたとは思えない。話し合いで、言葉で、解決できることもあります。たとえ敵意に晒されたとしても、道が閉ざされたわけではないと、私は信じたいのです」

 

その言葉に、清次は何も返さなかった。

 

ただ――胸の内では、また一つ、小さな軋みが生まれていた。

 

(……どうして、そんなふうに言えるのだろう)

 

自分には、もはや残されていなかった選択肢を、慎思はまだ抱えていた。

 

それが、羨ましくもあり、怖ろしくもあった。

 

そのとき――

 

扉の外から、軽く控えめなノックが響いた。

 

「大司馬・鴻玄です。主上に、呼ばれて参りました」

 

慎思は顔を上げて、静かに答える。

 

「どうぞ、お入りください」

 

鴻玄が静かに執務室へと足を踏み入れると、清次と慎思が向かい合っていた。

 

慎思は手元の帳面をそっと閉じ、顔を上げた。

 

「遅くに呼び立てて、申し訳ありません」

 

「いえ……主上にお呼びいただきながら、私一人だけというのが気がかりで……」

 

躊躇いがちな鴻玄の言葉に、慎思はその目を真っ直ぐ向けた。

 

「――凌成殿の所在を、ご存じでしょうか」

 

鴻玄は一瞬、目を見開く。

 

「……なぜ、それをお尋ねに?」

 

静かに問うたその声に、慎思はためらいなく答えた。

 

「話をしてまいります」

 

「……っ、しかし主上、それは……」

 

鴻玄の声が思わず強くなる。清次もわずかに身を乗り出し、慎思を見つめた。

 

「今の情勢では、確かに皆の言う通り、すぐにでも兵を差し向けねば、事は内乱に至るでしょう。明日には、その決を下さねばなりません」

 

慎思は、凪いだ声で言葉を継いだ。

 

「けれど――その前に、私にできることがあるのなら、それを尽くしたいのです。今この瞬間なら、まだ届くかもしれない言葉があるのなら……」

 

清次の眉が深く寄る。

 

「おやめください、主上。敵地へ向かわれるなど……危険すぎます」

 

「私からも申し上げます」

 

鴻玄も、低く、重く言葉を添えた。

 

「凌成は、もはや軍を動かす側に身を置いております。今や才国に刃を向けた者。そのもとへ、主上自ら赴かれるなど――あまりにも……」

 

だが慎思は、そっと顔を伏せたまま、かすかに微笑んだ。

 

「お気持ちは、ありがたく受け止めます。それでも私は、行かねばならないと思うのです」

 

言葉を失ったように、清次は黙り込んだ。

 

その沈黙に、慎思は静かな眼差しを向けた。

 

「――台輔」

 

呼びかけられた清次の肩が、微かに揺れた。

 

慎思の声には、強さではなく、深い願いがこもっていた。

 

清次は、長く目を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

 

「……わかりました。私も、共に参ります」

 

その言葉に、慎思は静かに頷く。

 

清次は無言で歩を進め、月明かりの射す縁へと立つ。やがて、彼の足元に広がる影が、わずかに波打った。

 

次の瞬間――

 

影の中から白銀の毛並みを持つ獣が音もなく現れた。牙のように鋭い爪をもつその獣は、使令・白爪。清次の最も足の速い使令である。

 

続けて、さらに深い影の奥から、夜風のように静かなもう一体の使令が姿を現した。全身を包む黒紫の毛並みは鈍く光り、瞳はどこか哀しげに揺れている。それは穆玄――才麒が最も信を置く使令のひとり。

 

使令たちは無言で二人の前に跪いた。白爪がその背を低くして慎思の方へと歩み寄る。

 

「白爪といいます。……この者に、乗っていただけますか」

 

清次が静かに言うと、慎思は一瞬だけ目を伏せ、白爪の背に手を添えてから、軽やかにその背へと身を預けた。

 

その後ろに穆玄が回り込み、清次の影のように寄り添う。

 

鴻玄もまた、二人のあとを追って外縁へ出てきていた。その表情には、深い躊躇と覚悟が混ざっていた。

 

「主上……台輔……」

 

その呼びかけに二人が振り返る。

 

鴻玄は、かすかに目を伏せながら、静かに告げた。

 

「凌成は……現在、崟州西の平陽に布陣しているとのこと。梁炯と合流した後、そこを根拠地として動いているようです」

 

清次の目が細められ、慎思の表情がわずかに厳しくなる。

 

鴻玄は言葉を続けた。

 

「……どうか、頼みます。あいつは……己の正しさを、曲げることができぬ男です。けれど……」

 

その声音は、断ち切れぬ情と、どうにもならぬ痛みを滲ませていた。

 

「まだ……戻れるのなら。あいつに、道を示してやってください」

 

慎思はその言葉に静かに頷き、言った。

 

「最善を尽くします」

 

清次もまた、言葉を発さずに頷き、その目を正面に向けた。

 

白爪が地を蹴る。

 

風を巻き上げ、二体の使令は夜の帳を裂くように空へと舞い上がった。白き毛並みが月光を反射し、穆玄の黒い影がそれを追いかける。

 

見送る鴻玄の背には風だけが残る。

 

その風の余韻の中、彼はただ静かに、夜空を見上げながら、ぽつりと呟いた。

 

「……どうか、ご無事で」

 

その声もまた、風に溶けて、夜の静けさの中に消えていった。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

月が静かに照る夜、砦の外れ――人目のない裏手の小径に、風を裂く音が微かに走った。

 

草の露をはじいて地に降り立ったのは、二頭の使令。ひときわ大きな黒の獣と、白銀の鬣をなびかせる俊敏な影。穆玄と白爪である。

 

その背にいた人物は、辺りの気配を素早く確かめると、足音ひとつ立てずに地へ降りた。慎思と清次だった。

 

「――見張りは回っていません。今なら、直接向かえます」

 

そう告げたのは、清次。月明かりに照らされた紅い髪が風に揺れている。

 

慎思は頷くと、白爪の毛並みにそっと手を添えた。

 

「ありがとう、白爪。ここからは私たちだけで行きます」

 

白爪は頷くように目を伏せると清次の影に溶けるようにして消えた。穆玄もまた闇に消えるようにして姿を消す。

 

城の中へと続く裏道を、慎思と清次は慎重に進んだ。清次の導きに従い、衛兵の視線を外して辿るこの道は、清次があらかじめ使令に探させた迂回路だった。風と共に入り、風と共に去る。麒麟と王の影が、砦の灯火に知られることはない。

 

やがて、控えの離れに通じる小戸の前に立つ。

 

清次が扉を軽く叩いた。

 

「……誰だ」

 

中から聞こえた声には、即座の警戒と鋭さが宿っていた。

 

「私です。……慎思です」

 

数秒の静寂が、まるで長い時のように流れた。

 

「……なん、だと……」

 

がちゃり、と内側から閂が外される音がなる。

 

扉がわずかに開き、顔を覗かせた男の目が、信じられないものを見るように見開かれた。

 

「主上……? 本当に……なぜ、こんな……っ」

 

目の前に現れたのは、老いたが変わらぬ気品をたたえた慎思と、その隣に控える紅い髪の麒麟。凌成は言葉を失った。

 

「お騒がせして申し訳ありません。外には気づかれていません。話がしたくて、こっそりと参りました」

 

「……っ。入ってください」

 

戸口を開け放ち、凌成は慎思と清次を中に招き入れる。部屋の中は簡素なつくりながら、軍事拠点らしく整理されていた。地図や書簡が広げられた卓の端には剣が立てかけられ、蝋燭の火がちらちらと揺れている。

 

慎思が座につこうとすると、凌成が険しい声で言葉を吐いた。

 

「……いったい、何をしに来たのですか」

 

その声音は、警戒というよりも、憤りに近かった。

 

慎思はその怒りを正面から受け止め、静かに席に着いた。

 

「あなたに、話したいことがあるのです。たとえ聞き入れていただけなくても、伝えるべき言葉があると、思いました」

 

凌成は席につかず、立ったまま慎思を睨むように見下ろした。

 

「……話をしたい? 敵地に、王自ら乗り込んできて。王であるという自覚も、麒麟であるという責任も、捨てたと?」

 

「捨てたのではありません。あなたと向き合うために、ここまで来たのです」

 

その静けさは、怒りを逆撫ですることもなく、されどたじろがぬ強さを含んでいた。

 

慎思は、揺れる燭火のもとで静かに凌成を見上げた。老いを刻んだその目には、なお衰えぬ意志の光が宿っている。

 

「あなたが私を責めることは、当然です。私は、あの子――前王を傍らで支えながら、あの政を正すことができなかった」

 

凌成の眉が、ぴくりと動く。

 

「……では、認めるのですね。あなたの手で、国を傾けたと」

 

「ええ。私の責です。」

 

言葉に熱はなかった。ただ、長い年月を越えて抱え続けた罪と向き合う者の声だった。

 

「……でも、私はあの子を、最後まで信じていました。愚かだったと笑われても構いません。私は、あの子がもう一度立ち上がる日を――」

 

「けれど、それは叶わなかった。国は傾き、民は苦しんだ。あなたの信じた“あの子”の代償は、あまりに大きかった」

 

慎思は頷いた。

 

「ええ。だからこそ、今度は、見過ごさぬと決めたのです」

 

「何が変わると? あなたが王となった今なら、何かできるとでも?」

 

「違います。私ひとりで何かを変えられるとは思っていません。ただ――」

 

そこで慎思の視線がふと清次に向けられる。清次は何も言わず、ただ静かにその視線を受け止めていた。

 

「……台輔が私を選んでくれたからこそ、私はもう一度、国を担う覚悟を持てました。こんな私でも、逃げずに務めを果たすべきだと、教えてくれたのです」

 

「麒麟が――あの異形の赤い妖が、あなたを王に?」

 

「台輔は麒麟です。たとえその色が異なろうとも、天は彼に“理”を託しました。そして私は、その理に応えようとしているのです」

 

その言葉に、凌成は顔をしかめたまま口を閉ざした。

 

部屋の中には、しばし沈黙が落ちた。燭火の光だけが、揺らめき続ける。

 

その横顔を見つめながら、清次は自分の胸のうちに生まれたさざ波をじっと見つめていた。

 

(……主上は、たしかに間違ったのかもしれない。長い歳月の中で、傍にいながら何もできなかったかもしれない)

 

けれど――

 

(それでも、人の罪を背負い、国のために歩もうとしている)

 

あの長い蓬莱での日々。声を上げても誰にも届かず、助けを乞うても届かぬ場所で、それでも誰かを信じ続けようとした日々が、胸の底から蘇る。

 

(俺が、選んだ。この人の罪と、過去と、すべてを抱えて、王として歩ませようと)

 

清次は一歩、前へと出た。

 

その気配に、慎思は目を向ける。

 

しかしその瞬間、凌成が感情を爆発させた。

 

「……結局、あなたは一度国を傾け、そして、王が崩御しても帰ってこなかった!」

 

その声音は怒りに満ち、悲しみに裏打ちされていた。

 

「――国を見捨てたあなたが、今さら何を語る? 赤い妖を従えて現れ、“王です”と名乗る。笑わせるな……!」

 

清次の足が止まる。その言葉は明確に、己を否定していた。

 

「あなたは……この国を二度、裏切ろうとしている。今度こそ、私たちが止めねば、また同じ過ちが繰り返される!」

 

その声に、清次はゆっくりと視線を上げた。

 

その深紅の瞳が、まっすぐに凌成を見据える。

 

「……凌成殿」

 

初めて口を開いた麒麟の声は、思いのほか穏やかで、静かだった。

 

「お話ししても、よろしいでしょうか」

 

清次の声は、静かに、けれども確かな熱を帯びていた。

 

「たしかに私は――異質です」

 

その言葉に、凌成の目がわずかに動いた。

 

「赤い髪と瞳を持つ私は、麒麟としては異質でしょう。血を厭う仁獣が、血の色を纏う――その在りように、違和感を覚える方も多いと理解しています。それに……私の生まれは、少しばかり特別でした。それゆえに異形と呼ばれ、警戒されてもおかしくありません」

 

清次は、ゆっくりと視線を正面に据えた。臆することも、俯くこともなかった。

 

「けれど私は、自分のありようを疎んではいません。これが、私のかたちです。そして――この姿で麒麟として、王を選び、国を導く役目を――否応なく、天に与えられたのです」

 

彼の眼差しはまっすぐに凌成を射抜いた。そこには言い訳も、開き直りもなかった。ただ、己を受け入れ、歩み続ける者の揺るぎなさがあった。

 

「あなたが、才国を憂い、動こうとしていることは……私にはわかります。あなたがもし、自分の利益ではなく、国と民を思って剣を取ったのなら――私は、それを責めることはできません」

 

赤い瞳に、わずかに翳りが差す。

 

「だからこそ、今ここで、お聞きしたいのです。あなたの心の中には、まだ――才国を良くしたいという思いが残っているのでしょう?」

 

風が、窓の隙間を抜けた。揺れた燭火が、凌成の顔に陰影を落とす。

 

沈黙のなか、清次はさらに言葉を続けた。

 

「私は、ただ王を選ぶだけの麒麟ではありません。選んだその先に、共に国を歩む責任があります。私はこの国を……民が笑って暮らせる国にしたい。怯えることのない朝を、家族と過ごせる日々を、才国に取り戻したいと願っています」

 

言葉に嘘はなかった。

 

それは、采麒として歩んできた日々の中で、少しずつ形を持ち始めた、彼自身の“願い”だった。

 

やがて凌成は、ふいに視線を伏せた。

 

 

長い沈黙のなかで、その肩が小さく震える。

 

「……あなたの言葉には、嘘がない」

 

低く、抑えられた声が、部屋の静けさに落ちた。

 

「才国を良くしたい。民のために、正しき政を築きたい。……私が、かつて願っていたことも、確かにそうだった」

 

彼は口元を引き結び、しばし何かを噛みしめるように沈黙した。

 

「だが……私は、選ばれなかった。いや、選ばれる以前に、望まれる器ではなかった。国を思いながらも、いつだって、自ら導く器ではなかった。それが――悔しく、情けなかった」

 

その言葉には、悔しさと、諦めと、嫉妬すらにじんでいた。

 

「前王を育て、傍らにありながら何もできなかった人が、王となり……その正統を示す麒麟が“異色”であるとは。……どうしても、納得できなかった。怒りすら覚えた」

 

清次は黙って、その言葉を受け止めた。

 

そして、凌成はふいに顔を上げた。目に浮かんだのは、覚悟と苦悩の狭間で揺れる光だった。

 

「けれど――今の私の行動が、国を惑わせ、民を苦しませていることも……本当は、わかっていたんだ」

 

静かな告白だった。だが、そこには確かな転機があった。

 

「私は、理を貫こうとした。けれど、今の私はもう、その理を見失っていたのかもしれない……」

 

やがて彼は、深く息を吐き、清次と慎思に向き直る。

 

「……あなた方の覚悟、確かに聞いた。私も……もう一度、理の意味を見直さねばならないようだ」

 

清次は、目を伏せて静かに頷いた。

 

――その夜、反乱の炎のただなかに、ようやく交わされた理解の言葉が、ひとつ、生まれた。

 

部屋に、静寂が戻っていた。

 

清次は一歩、慎思の傍へ戻る。紅い衣の袖が静かに揺れるのを、凌成は黙って見つめていた。

 

やがて、慎思が一歩踏み出し、その眼差しをまっすぐに凌成へと向けた。

 

老いたその身に宿る光は、柔らかく、けれど決して揺るがないものだった。

 

「……ありがとう、凌成殿」

 

そう告げた慎思の声は、さざ波のように優しかった。

 

凌成は、ふいに視線を逸らす。目を伏せ、唇を引き結ぶ。だが、その姿にあった硬さは、わずかにほどけていた。

 

慎思は続ける。

 

「この先のこと――あなたの処遇については、明日の朝議で、皆の意見を仰ぎながら決めることになるでしょう。けれど今は、あなたに罰を与えるために来たのではありません」

 

その声には、責める色はまったくなかった。

 

「才国を思ってのこととはいえ、あなたの行動がどれだけの波紋を生んだか……あなた自身が、最もよくわかっておられるでしょう。それでも、あなたの思いが国を憂うものであったこと、私は信じます」

 

慎思の言葉に、凌成は小さく息を吐いた。

 

「……お優しいのですね、主上は」

 

「そうでしょうか」

 

慎思は、ほほえんだまま小さく首を振る。

 

「私もまた、かつては国を傾けた身です。正しさを見失い、歩みを止めてしまったこともありました。だからこそ、今は――誰かが手を差し伸べようとした時、その手を払いのけることだけは、したくないのです」

 

その言葉に、凌成は再び黙った。

 

けれど、今度はもうその沈黙に、拒絶の色はなかった。

 

慎思はそっと手を後ろに組み、背筋を正す。

 

「……さあ、そろそろ戻りましょう。夜も更けました。朝になれば、やるべきことが山ほどあります。あなたも――長閑宮へ」

 

清次が、慎思の言葉にうなずき、一歩進み出る。

 

凌成はしばし迷うように視線をさまよわせた。何かを呑み込むように、肩がほんのわずかに揺れる。

 

やがて、低く静かな声が室内に響いた。

 

「……今夜、お二人がここまで来てくださったこと、ありがたく思います」

 

その声音には、わずかに熱を帯びた誠意があった。

 

「ですが、こんな私にも、着いてきてくれた者たちがいます。私の言葉を信じ、共に歩んできた者たちを、今ここで置いていくことはできません」

 

清次が小さく息を呑むのを、慎思が制するように首を振る。

 

凌成は続けた。

 

「必ず、戻ります。彼らと共に……自らの過ちと向き合い、責を果たすために」

 

その言葉に、慎思は静かに頷いた。

 

「……わかりました。ならば、長閑宮でお待ちしています。どうか、お気をつけて」

 

清次は静かに凌成を見つめた。

 

「また、お目にかかれることを願っています」

 

凌成は、何も言わず、ただ一度だけ深く頭を下げた。

 

慎思と清次が廊下に出ると、外の空気はすでに夜の底に沈みきっていた。扉がそっと閉じられた後も、しばらくの間、凌成はその場に立ち尽くしていた。

 

薄暗い灯の下、彼の背には重い影が落ちていたが、その奥底には、かすかに――それでも確かに、迷いの先に差し込む微かな光があった。

 

夜はまだ深く、静寂の中に虫の声が遠く響いていた。

 

そして――夜明けは、確かに近づいていた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

夜の静けさの中で交わされた言葉は、翌日の昼、王都に新たな動きをもたらしていた。執政殿の正殿、朝廷の要人たちが再び集められていた。

 

慎思は席についたまま、集った重臣たちに静かに言葉を紡いだ。

 

「……昨夜、台輔と共に凌成殿のもとへ赴き、話をして参りました」

 

その一言に、重臣たちの間にざわめきが走る。

 

「な……っ」

 

思わず声を上げたのは鍾隠だった。蕭英もまたわずかに目を見開き、卓上に置いた手をわずかに強く握る。

 

「主上……まさか、あの時の軍中に自ら……」

 

「台輔も、ご一緒に……?」

 

郭睿の問いに、せいじはゆっくりと頷いた。

 

「危険な行動だったことは、承知しております。ですが、私たちはどうしても、直接話をしたかったのです」

 

「民を思い、理を貫こうとした者が、なぜ反旗を翻したのか。何が彼をそこまで追い詰めたのかを――確かめたかった」

 

慎思の声は穏やかだったが、胸の奥に宿した熱は隠さなかった。

 

しばしの沈黙ののち、郭睿が重い声を落とす。

 

「……凌成は、納得を?」

 

「はい。彼は、才国を憂いての行動だったと語りました。そして……己の過ちにも気づき、真摯に悔いた様子でした。今は、私たちの言葉を受け止め、思いを正そうとしています」

 

「着いてきた兵たちもいるはずです。彼はその者たちを置いていくことをよしとせず、共に長閑宮へ戻ると言いました」

 

慎思の言葉に、部屋の隅で沈黙していた鴻玄が、立ち上がった。

 

その瞳にはかすかな震えがあったが、それをぐっと押し込め、深く頭を垂れる。

 

「……ありがとうございます。主上、そして台輔」

 

それ以上、彼は何も言わなかった。ただその声に、万感の思いが滲んでいた。

 

慎思は小さく頷き、卓を見回す。

 

「凌成殿の処遇については、反乱が落ち着いたのち、改めて議を開きましょう。今は、彼の意思を信じて待ちましょう」

 

鍾隠がうなずいた。

 

「それまでは、動向を注視しつつ、反乱軍の動きにも備える必要がありましょう」

 

慎思はわずかに目を閉じた。人の命がかかる決断――けれど、これ以上国を乱すことは許されない。その想いを胸に、静かに口を開いた。

 

「――降伏勧告の文を出します」

 

蕭英が、端然とした声音で言った。

 

「そうですね。梁炯にはまだ降伏の選択肢があります。才国として、その道をまず示すのが筋です」

 

慎思もまた頷いた。

 

「ええ。すぐに文をしたためて下さい。もし返答がなければ……そのときは、やむを得ません」

 

その瞬間、扉の外から軽く戸を叩く音が響いた。

 

「失礼致します。崟州より早馬にて文が――」

 

使いが文を差し出し、郭睿が受け取ると、ただちに封を切る。

 

走り読みした彼の顔色が、目に見えて険しくなった。

 

「……好戦的な文面です。“才国に正しき王なし。迎え撃つ用意あり”と……」

 

郭睿が、眉間にしわを寄せながら文を机の上に広げた。

 

空気がさらに重く沈んだ。

 

「やはり、もはや話し合いの余地はないと見るべきでしょうか」

 

そう静かに続けたのは鍾隠だった。彼の声音は、どこか悔しげだった。

 

鴻玄は、腕を組んだまま目を閉じていたが、やがて重々しく言葉を落とす。

 

「……この書状の筆跡は、梁炯のものです。だが内容には、軍を扇動する意図がはっきりと見て取れる。もはや、彼らは交渉の余地を捨て、自ら戦の道を選んだ。

……戦意を煽る言葉が並んでいる。兵の士気を保つための“宣言”でもある。もはや、引き返す道を自ら閉ざしているのだ」

 

慎思は、卓の端に座し、静かに皆の言葉を受け止めていた。

その顔には、疲労の色はあるが、揺るぎはない。

 

「……わかりました。では、梁炯の軍に対し、正規軍をもって鎮圧に向かいましょう」

 

その言葉に、空気がぴんと張り詰める。

慎思がついに、鎮圧の決断を下したのだった。

 

「出兵は三日後とし、軍備の確認と人員の再編を急ぎましょう」

 

郭睿がすぐに頷き、控えていた侍従に命を伝える。

 

「鴻玄殿、出陣の大将をお引き受けいただけますか」

 

「……承知いたしました」

 

鴻玄の声は静かだった。

 

そのとき、清次がひとつ、息を吸い込むように口を開いた。

 

「――私も、戦地へ赴きたいと思います」

 

皆の視線が、清次に向けられる。

 

「台輔……」

 

慎思の声が低く、かすかに揺れた。

 

「私は麒麟です。本来ならば、戦に加わるべきではない存在です。けれど……私は、才国の麒麟として、この国の苦しみから目を逸らしたくはありません」

 

その言葉に、蕭英が眉をひそめた。

 

「しかし、台輔……あなたは“血に病む麒麟”です。戦地に出るなど、命に関わる――」

 

「それでも、行きたいのです」

 

清次の声は、決意に満ちていた。

誰かを救うために、誰かを切り捨てねばならない理不尽を、彼は蓬莱で嫌というほど味わった。

だからこそ――見届けねばならないと、思っていた。

 

「……見て、聞いて、自分の目と心で、この国の“今”を知っておきたいのです。判断を誤らぬために」

 

慎思はしばらく黙って、清次の目を見つめていた。

やがて、ゆっくりと頷く。

 

「――わかりました。ただし、無理はなさらぬように。これは、私からの命です」

 

清次は深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

その瞬間、部屋の空気にひとつ、覚悟の色が加わった。

 

戦の火蓋は、落ちたのだった。

 

だが、その前に交わされた言葉と誓いが、才国の未来を左右する礎となることを、誰もが――確かに感じていた。

 

 





今まで余り設定を活かせていませんでしたが、主人公の黄海育ち、蓬莱での戦乱の中での暮らし、そして元々の体質から血に強い設定です。勿論麒麟の中では、ですが…。
うちの子は麒麟では有り得ないくらいちょっと好戦的なんですw
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