紅衣の麒麟   作:にわか

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第十二章

 

 

 

昼を越えた頃、長閑宮前の路門に数騎の影が姿を現した。報せが正殿へ届いたのは、慎思を囲む重臣たちが鎮圧軍の進発について最後の確認を進めていた時だった。

 

「……凌成殿が、お戻りとのことです」

 

侍従の報告に、卓の一角に控えていた鴻玄が静かに立ち上がった。居並ぶ重臣たちの間に、微かなざわめきが走る。

 

清次は、慎思の傍らに立っていた。紅い髪が静かに揺れ、赤い瞳が扉の向こうを見据えている。その佇まいは変わらず端然としていたが、視線にはかすかな緊張の色が滲んでいた。

 

やがて開かれた扉から、凌成の姿が現れる。泥を跳ね上げた旅装のまま、数人の兵を伴ってまっすぐに進み出る。

 

「主上。言葉通り、部下を連れ、帰還いたしました」

 

その声は低く抑えられていた。だが、かつてのような刺々しさはない。

 

重臣たちの視線が一斉に彼へ注がれる中、慎思はゆるやかに立ち上がった。清次の影がその背後に寄り添うように控えている。

 

「よく戻られました。凌成殿」

 

慎思の言葉に、凌成は深く頭を下げた。

 

「この者たちは、私に付き従ってくれた者です。今しばらく、彼らを長閑宮に留め置いていただけませんか」

 

慎思は目を細めて頷く。

 

「わかりました。ともに戻ってくださったこと、感謝いたします」

 

慎思の柔らかな言葉に、凌成はわずかにうなずいた。

 

清次の瞳が静かにそのやりとりを見守っていた。紅の髪が光を受けてかすかにきらめき、言葉を発さずとも、その存在が場に緊張を与えていた。

 

凌成は視線を一度だけ清次に向けた。怯えでも敵意でもなく――ただ、向き合おうとする意志が、そこにはあった。

 

「……主上。私は、このまま長閑宮で謹慎を命じられることも覚悟しています。しかし――」

 

そこで凌成は一歩踏み出し、頭を垂れた。

 

「……このまま幕の内に隠れているわけには参りません。私には、ケジメをつけねばならぬ過去があります。ですから、鎮圧軍に加えていただきたい。共に戦地へ赴き、自らの責を、しかと果たしたいのです」

 

卓の一角が揺れた。鍾隠が即座に反応する。

 

「何を言う。裏切りを働いた者を再び軍に加えるなど、正気の沙汰では――」

 

その言葉に、鴻玄が前へと進み出る。

 

「――それなら、私が彼らを連れて行きます。見張りの兵を割く必要もない。軍中にあっても、私が責任を持って監視します」

 

その声には、かすかに熱がこもっていた。

 

「待ちなさい」

 

反論の声を上げたのは、冢宰・郭睿だった。すかさず隣の大司徒・鍾隠も言葉を重ねる。

 

「戦場で裏切られたらどうするのですか。むざむざ背を見せるようなものだ」

 

卓の端で、清次が小さく顔を上げた。その気配に気づいた慎思は、ちらと目をやる。清次は言葉を発さぬまま、ただ静かに、その場の議論を見守っていた。

 

慎思は目を閉じるように一息を吐き、再び視線を鴻玄に向けた。

 

慎思は鴻玄をじっと見つめた。清次もまた、黙ってその背を見つめている。王と麒麟の双方が、言葉なくその提案の真意を量っていた。

 

「鴻玄殿……本気でおっしゃっているのですか」

 

「はい。私は彼と、十数年を共にしてきました。反旗を翻した彼を許すわけではない。ですが――彼が変わろうとしていることを、私は信じたい」

 

郭睿と鍾隠がなおも反対の視線を投げるが、慎思はそれを遮るように手を上げた。

 

「……わかりました。鴻玄、あなたの責任において、凌成殿を軍に加えてください」

 

「はっ」

 

鴻玄は深く頭を下げた。

 

慎思の目が、再び凌成に向けられる。

 

「……あなたの言葉が本心であることを、私は信じます。けれど、それはこれからの行いでこそ示されるべきです。どうか、誤りを重ねぬよう……才国のために、力を尽くして下さい」

 

「謹んで」

 

凌成は再び頭を垂れた。その肩にかかる重さは、これまでとは異なるものであった。自ら選んだ責の重みを、確かに背負ったのだ。

 

長閑宮の空に、雲が薄く流れていく。

 

決戦の時は、確実に近づいていた。

 

卓の端で、清次は慎思にわずかに視線を向けた。その瞳には揺らぎがなかった。ただ静かに、国の行く末を見据えていた。

 

その日、長閑宮に集った者たちは、いずれ迎える戦を前に、それぞれの覚悟を胸に刻んでいた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

夜気はまだ柔らかく、長閑宮の回廊には、昼間の熱がほのかに残っていた。

 

清次は仁重殿の外縁、石敷きの縁に腰を下ろしていた。夜の風が紅の髪をゆるやかに揺らし、赤い瞳が黙して庭の闇を見つめている。

 

その傍らに、音もなく一つの影が立った。

 

「……大丈夫か」

 

低く抑えた声。清次はゆっくりと目を瞬かせ、振り返る。

 

「穆玄……」

 

声の主は、いつも通り無表情のまま清次の隣にのそりと身を伏せた。その声には、棘のない柔らかさがあった。

 

「ふふ、大丈夫だよ」

 

清次は少しだけ肩を竦めて、くすりと笑った。

 

「夜に外で風にあたってる時は、たいてい何か考え込んでる時だろうが」

 

「さすが穆玄。……ほんとうに、よく見てくれてるんだね」

 

穆玄は何も答えなかったが、じっと清次の横顔を見ていた。

 

清次は静かに目を細める。

 

「……迷ってばかりだったよ。あの時、蓬莱で、あの血塗られた世界で生きていた頃から……」

 

言葉はぽつりぽつりと、夜気のなかに溶けていった。

 

「殺し合いが当たり前で、誰かの命が軽くて……そんな場所で、俺はただ一緒にいた子供たちと生き延びることで精一杯だったし、結局誰も守れなかった。麒麟としての理なんて知らなくて、自分が何者なのかもわからなかった。なのに、いきなり才国の麒麟だと言われて、王を選べと言われて――」

 

穆玄は無言で、わずかに視線を傾けた。

 

「……王を選ぶって、すごく怖かった。誰かを選ぶことで、国が救われると言われても、俺が一人を選ぶことは、無数の人の運命を決めることなんだ。そんなの、決められるはずがないって思った」

 

「……ああ」

 

穆玄が短く、低く相槌を打つ。

 

「それでも才国の現状を知って……王は必要だと思った。王を選ばなきゃ行けないって。けど、俺が選んだ王が、もし民を苦しめたら……それを選んだのは、自分なんだって……ずっと、それが怖かったんだ」

 

穆玄は静かに視線だけを清次に向けた。だが言葉は発さず、ただその場にいることで答えた。

 

清次はゆっくりと両手を膝の上に重ね、月の光を見上げた。

 

「主上に会ったとき、俺は天の意を感じた。…この方が王だって。ただ、漠然とそう思ったんだ」

 

紅い髪が風に揺れ、赤い瞳が夜の中に静かに瞬いた。

 

「それでもずっと、不安だった。主上が王になって、もし国を間違った方向に導いたら、多くの人が苦しむことになる。だから…俺が選んだ人が間違っていたらどうしようって、何度も思った。」

 

清次の指が、膝の上でかすかに震えた。

 

「反乱が起きて、崟州が揺らいで、朝廷にも不満があって……俺が選んだせいでこんなことになったんじゃないかって、自分を責めた。才国がまた苦しむのは、俺のせいなんじゃないかって……」

 

穆玄の視線が、夜の中の清次の横顔にそっと落ちた。その顔には、痛みも、揺らぎも、すべてを抱えた静かな表情があった。

 

「……それでも」

 

清次はゆっくりと顔を上げ、月の光を受けた夜空を見上げた。

 

「それでも、俺は……主上を信じると決めた。人は迷うし、過ちも犯すけど、それでもまっすぐに民を思うあの方を、信じたい。たとえその道が茨であっても、俺が選んだ王の歩む道を、ちゃんと最後まで見届けたいんだ」

 

穆玄は腕を組み、わずかに首を傾けた。

 

「……変わったな、お前」

 

「うん。迷ってばかりだった頃よりは、少しだけ」

 

清次はほのかに微笑んだ。

 

「たくさんの人に出会って、支えられて、迷って、傷ついて……でも、その全部が、今の覚悟をくれた。たとえ俺が異質な存在でも、たとえ赤い髪と赤い瞳が疎まれても、俺は麒麟として、王を選んだ以上、その責任を果たす」

 

「それが、才国の麒麟である俺の覚悟」

 

穆玄は、長く息を吐いた。

 

「……戦場は、お前にとって毒だ。理に反する場所だ。行けば、命に関わる。わかってるんだろう?」

 

「わかってるよ。でも、行かずに後悔するより、行って確かめたい。見て、聞いて、この国の“今”を、俺の目で――」

 

穆玄は視線をそらし、空を仰ぐようにぼそりと呟いた。

 

「……そうかよ。まあ俺もいるからな」

 

清次は静かに立ち上がり、その言葉に微笑んだ。

 

「うん。頼りにしてるよ、穆玄」

 

穆玄はフンと鼻を鳴らし、顔を伏せた。

 

清次はそのまま背後の闇へ声をかけた。

 

「お前たちも、頼りにしてる」

 

背後の影が答えるように揺らめいた。

 

「白爪。」

 

気配が一つ、闇から現れる。銀白の毛並みを揺らし、白爪が静かに前に出る。

 

「主上を頼む。……もし何かあったら、すぐに知らせて」

 

白爪は静かに頭を垂れた。

 

「……ありがとう」

 

清次の言葉に、誰も答えなかった。

 

ただその場にいる全員が、それぞれの胸に、言葉以上の誓いを宿していた。

 

夜の気配が、さらに深まっていく。

 

清次の瞳には、もはや迷いはなかった。

 

そしてその背には、確かな絆と覚悟があった。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

朝靄がようやく晴れかけたころ、庫門には、才国の禁軍が整然と並び立っていた。幾列にも連なるその姿は、一糸乱れず静まり返り、凛とした緊張感を帯びている。

 

各兵の鎧は露に濡れてわずかに光を返し、槍先に掛けられた軍旗が、ゆるやかに風に靡いていた。軍の最前列には、馬にまたがる斥候の兵が控え、その背後には荷駄と共に歩を進める補給部隊、そして中軍を中心にして整然と横列を組む将兵の姿があった。

 

その中央、やや高台になった地に立つのは大司馬・鴻玄である。出立を目前に控えた彼は、将軍に向けて次々と指示を飛ばし、隊列の最終確認と物資の配備、そして斥候の配置までも細かく確認していた。背筋は伸び、声は低く鋭く、彼の動きひとつで軍の空気が律せられていく。

 

そのすぐ傍、やや控えるようにして立つ采麒の姿があった。

 

紅の髪は朝の風に揺れ、朱色の外套が肩に掛かっている。ひと目で人ならざる気配を宿したその姿に、兵たちは意識せぬうちに視線を向け、そしてすぐに逸らした。恐れや敬意――あるいは困惑と畏怖。麒麟は本来、戦に関わらぬ神聖な存在だ。その麒麟が軍の只中にいるという現実が、兵たちの心に奇妙なざわめきをもたらしていた。

 

清次はその視線の意味をよく理解していた。それでも、何も言わずに、ただそこに立っていた。赤い瞳は真っ直ぐに軍列の先を見据え、顔には静かな決意が刻まれている。

 

少し離れた場所、隊列の端のほうには鎧姿の凌成の姿があった。彼の身の周りには数人の兵が控え、その表情はどこか緊張と覚悟の入り混じったものだった。鴻玄の指示に従い、軍の末列に組み入れられたのだ。

 

その軍列の後方――広くとられた見送りの場には、朝廷の重臣たちが控えていた。

 

冢宰・郭睿は姿勢正しく立ち、その背後には鍾隠の姿がある。彼らの表情は厳しく、しかしどこか沈痛でもあった。蕭英は少し離れた位置から軍列と、そして清次の背をじっと見つめていた。口には出さずとも、その眼差しには隠せぬ不安があった。

 

 

そのとき、蕭英がふいに動いた。

 

静かに前へと歩み出ると、ゆっくりと清次のもとへ向かっていく。彼の足取りは迷いなく、だがその表情には、言葉にできない思いが滲んでいた。

 

蕭英は清次の背にそっと歩み寄り、その傍らに立った。軍の緊張をよそに、清次は気づいていたのか、ふと横を向いて微笑を浮かべる。

 

「……大宗伯」

 

「……やはり、出るつもりなのですね」

 

蕭英の声は静かだったが、そこには明確な憂いがあった。

 

清次は小さく頷く。

 

「うん。……主上も、それを認めてくれた」

 

蕭英は少しだけ眉を寄せた。

 

「主上の御心はわかります。ですが……あなたは“血に病む麒麟”です。戦場に赴くことは、身命を削ることになる。何より――」

 

そこで言葉を切り、蕭英は少しだけ顔を背けた。

 

「……私たちは、あなたを失いたくないのです」

 

その言葉に、清次ははっとしたように目を見開いた。そして、そっと目を伏せる。

 

「ありがとう、蕭英。……でも、俺はもう、迷っていない」

 

「俺は才国の麒麟として、この国を、この王を選んだ。ならば、その歩みを見届ける責任がある。――たとえその道に何があっても」

 

蕭英はしばらく沈黙し、それからそっと頷いた。

 

「……どうか、無理をなさらぬように。せめて食事くらいはちゃんととってください。」

 

そういって彼は手に抱えた布包みを、そっと清次に手渡した。

 

清次は穏やかに笑って、目を細める。

 

「ありがとう。蕭英。…約束するよ」

 

そのときだった。

 

控えていた衛士が、深く頭を下げて道を開けた。見送りの列に、慎思が静かに現れたのだ。

 

彼女はゆるやかな歩みで軍列の前へと進み、清次たちのもとへと近づいてくる。重臣たちが一斉に頭を垂れ、空気が一段と張り詰めた。

 

清次のすぐ近くでは、鴻玄が出発の段取りを確認していたが、慎思の姿を認めると軽く身を引き、静かに敬意を表する。

 

蕭英は一歩引いて慎思に道を譲り、そっと清次のそばを離れた。言葉は交わさずとも、その表情には深い気遣いと信頼の色があった。

 

慎思はその小柄な体に黒の衣を纏い、姿勢は静かに、しかし揺るぎなく立っていた。歳を重ねた顔に疲れの色はあったが、その目は確かな光をたたえていた。

 

「台輔」

 

その声は柔らかく、しかしはっきりと届いた。

 

「どうか……無理はなさらぬように。あなたは才国にただ一人の麒麟です。あなたが倒れてしまえば、才国はまた、長き迷いに呑まれます」

 

慎思の目が、清次をまっすぐに捉える。重ねた言葉には、王としての重責と、一人の老女としての思いが滲んでいた。

 

清次は深く頭を下げる。

 

「承知しております、主上。……けれど、それでも行きたいのです。自ら選んだ王の歩みを、この目で見届けるために」

 

その返答に、慎思はふっと微笑を浮かべた。

 

「……ありがとう、台輔。あなたが選んでくれたから、私は今ここにいる。だから、あなたが見届けたいと思ってくれるのなら、それに応えねばなりませんね」

 

そして、そばに控える鴻玄へと視線を向ける。

 

「鴻玄。……どうか、反乱を鎮めて戻ってきてください」

 

「はっ。命に従い、必ずや乱を鎮めてまいります」

 

鴻玄は力強く答え、深く頭を垂れた。

 

その動きに呼応するように、軍の者たちが一斉に膝をつき、出発の時を待った。

 

朝の空は、ようやく光を帯び始めていた。

 

城門がゆっくりと開かれていく。

 

そして、禁軍が静かに動き出す――決戦の地へ向かって。

 

風が吹いた。

 

紅い髪が揺れ、麒麟はその歩みを、ゆるやかに戦のなかへと運んでいく。

 

誰もがそれぞれの胸に、覚悟と祈りを宿しながら。

 

 

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