紅衣の麒麟   作:にわか

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第十三章

 

 

 

崟州、天霽の野。薄雲の垂れた空の下、朝の気は重く、湿り気を帯びていた。

 

帷幕に囲まれた軍帳の内――

 

地図を広げた卓の前で、梁炯は苦々しげに口の端を吊り上げた。帳内にいた数人の将が、言葉を発せぬまま彼の様子を窺っている。

 

「……まったく、腹立たしい」

 

梁炯は舌打ち混じりに呟いた。

 

「凌成め、土壇場で尻尾を巻いて逃げおったか。忠義を唱えていたのも所詮その場しのぎ。これだから“志”だの“理”だのと言い出す輩は信用ならぬ」

 

軍議の卓に両肘をつき、椅子に深くもたれながら、梁炯は続けた。

 

「才国を変える好機だったのだ。前王は理想ばかりの愚物、今の王は老いた女。挙げ句、赤い麒麟などという異形が選んだ王ときた……この国はすでに、形骸だ」

 

誰も相槌を打たなかった。梁炯はそれに気づきもせず、己の声だけで帳の内を満たしていく。

 

「俺が覇を唱えれば、崟州を超え、朝廷をも掌にできた。あとは実績をもって民を黙らせればよい。理など不要、結果が全てだ。だが、まさか裏切るとはな……」

 

ふいに、地図の端を掴むと、無造作にくしゃりと握りつぶした。

 

「逃げた者の後始末をしてやる義理はないが、士気が落ちては話にならん。……所詮、民衆など流されるままの衆愚。頭をすげ替えてやればよいのだ」

 

梁炯の声音に、憤りも羞恥もなかった。あるのはただ、自身が頂点に立つことへの確信と、崩れかけた勝算への焦りだけである。

 

帳の隅に控えていた副官が小さく咳払いしたが、梁炯は気づかないふりをしていた。

 

そして、その帳の一隅。柱の陰、薄闇に溶けるように佇んでいたのは――

 

宥禅であった。

 

背を壁に預け、腕を組みながら、彼は物言わぬまま梁炯の言葉を聞き流していた。軽く伏せられたまぶたの奥の眼差しは、ぬるく濁った空気とは対照的に、冷ややかな光を湛えていた。

 

(──見苦しいな)

 

言葉にするでもなく、眉一つ動かさぬまま、彼は心中で吐き捨てる。

 

(凌成が抜けたことで焦っているのは明白だ。だが、この男にはそれを認めるだけの矜持すらない)

 

帳の外からは、散漫な兵の声がかすかに聞こえる。兵の靴音、鍔を研ぐ金属の音、指示の不明瞭な号令。すべてが弛緩していた。

 

宥禅の視線が、ちらと軍図の上の梁炯へ流れる。

 

(理も信も持たぬ者に、人はついてこない。見据えるべきは国の形でも、民の声でもなく、己の面子と権勢ばかり。……勝てるはずもない)

 

彼は静かに身を起こし、気配を残さぬよう帳の奥へと消えた。

 

外に出れば、雲の切れ間から陽が覗き始めていた。

 

梁炯の軍は、まだ陽も昇りきらぬうちから、その終わりを運命づけられていた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

陽は既に中天にあり、戦地の空は広く澄んでいた。だがその広さとは裏腹に、空は静かだった。

 

両軍の空行師――飛空の能力を持つ奇獣達は、いずれもまだ地に控えている。空を満たすのは、今のところただ一つ、黒き影のみ。

 

清次の使令――沙梭(ささく)である。

 

漆黒の鷲のような姿をした沙梭は、清次の命に従い、高高度を音もなく滑空していた。梁炯軍の奇獣隊に見咎められることのない、雲間すれすれの高度。あまりにも高く、地上からはただの渡り鳥にしか見えない。反乱軍の兵たちは気づくことすらできないまま、沙梭はその鋭い双眸で敵陣を見下ろしていた。

 

地上に整列する兵たち、張られた陣幕、輸送される兵糧や武具――そして、陣の一角に控える大型の奇獣たち。その数は二十を優に超えていた。いずれも体躯は大きく、翼を持つ種も多い。だがその翼はまだ広げられることなく、鎖で繋がれ、じっと地を睨んでいた。

 

沙梭はその全てを見届けると、旋回し、南へと帰還した。

 

 

***

 

 

野営地に設けられた軍議の帳中。

 

「――敵は丘陵の上に本陣を据えています。背後は深い林と岩場に囲まれ、退路はあるものの、奇襲には向かず。兵数は中央に八百、両翼に二百ずつ。高所からの弓隊も配置されています」

 

清次は地図を指先でなぞりながら、淡々と報告を続けていた。傍らには穆玄が控え、対面には鴻玄と凌成をはじめとする将軍たちが陣取っている。

 

「空行師は五十体以上が地上に待機しており、現時点では空に上げてはいません。ただし体格も良く、訓練は十分と見られます。こちらの出方を窺っているのでしょう」

 

「……奇獣をここまで集めたか」

 

鴻玄は渋い顔で呟き、地図の一角を叩いた。

 

「私兵に加え奇獣を徴し、こうまで整えるとは……単なる造反とは言えぬな」

 

軍議の空気が張りつめる。

 

しばしの沈黙ののち、鴻玄は立ち上がり、帷の外へ視線を向けた。

 

「――全軍に伝えよ。いまより布陣を展開。右翼は騎兵を、崖地を回り込ませる。前衛は槍列、中央は重兵。後衛は矢隊を控えさせ、合図があるまで待機」

 

次々と指示が飛び、将たちは頷き、動き出す。

 

その流れの中で、清次は静かに立ち上がり、幕の外に控えていた使令たちへと歩み寄った。

 

穆玄、沙梭、墨魃、榛霧(しんむ)が、気配を殺してそこにいた。

 

才麒は声を落とし、穏やかに命じた。

 

「榛霧。前衛の補佐を。幻を以て敵を惑わせ、味方を守って」

 

榛霧は静かに尾を揺らし、頭を垂れる。

 

「承りました」

 

その姿は風に溶けるように帷の外へ消えていった。

 

「沙梭、墨魃。奇獣隊の動きに目を光らせて。敵の翼を封じるように」

 

「御意」

 

墨魃は咆哮もなく一歩を踏み出し、才麒を一瞥してうなずいた。沙梭は黙して空を仰ぎ、一瞬後には身を翻して飛翔する。

 

 

清次は穆玄と一瞬視線を交わす。

 

穆玄は何も言わなかったが、その黒い瞳には了解の意がこもっていた。

 

清次は短く頷いた。

 

「行こう。俺たちも……才国を護るために」

 

そして、帷の向こうに響き始めた兵たちの号令と靴音のなかで、使令たちはそれぞれの持ち場へと散っていった。

 

風がわずかに向きを変え、空気が、戦の始まりを告げていた。

 

 

***

 

 

陣太鼓の響きが野を揺らし、鋭い号令が空気を裂いた。才国の軍勢が一斉に前進し、丘陵上に構える梁炯軍へと迫る。

 

最初に動いたのは、才麒の使令――榛霧(しんむ)であった。

 

淡い光を放つ羽を広げ、霧のように空を舞う蛇の様なその姿は、陽光を透かして溶けるように揺れる。榛霧は戦場の上空から滑るように降下し、敵陣前方にその細長い体を滑り込ませていく。

 

次いで、反乱軍がついに空行師を空に放った。

 

咆哮を上げながら飛翔する二十を超える奇獣たち。その多くは翼を持ち、鋭い爪や牙を備えていた。いずれも戦を前提に訓練され、威嚇と制圧に特化した存在。彼らが一斉に空へ躍り出た瞬間、空気は戦の気配で満たされた。

 

だがそれを迎え撃つように、正規軍の陣営からも空行師が飛翔する。大司馬・鴻玄の麾下に組み込まれた空行師は、数と体躯では劣るものの、整った隊列と明確な指示により、奇襲にも似た連携を見せていた。

 

その空中戦の只中に、黒鉄の狼が一閃する。

 

才麒の使令――墨魃である。

 

黒き雷のごとく、巨体の狼は空へと駆け上がり、反乱軍の奇獣に跳躍するやいなや、その咽喉に喰らいついた。翼の膜が引き裂かれ、空に赤が散る。敵の奇獣は苦悶の咆哮を残し、墜落していった。

 

墨魃はそのまま、次の標的を見定めるように飛翔を続ける。その軌道は直線的で激しく、味方の空行師が押されている箇所へと躊躇なく突入してゆく。榛霧が作り出す幻像によって敵が混乱し、弓隊の照準が狂うと、その隙を墨魃が逃さず突撃する――それは、まるであらかじめ定められた演舞のようであった。

 

空のさらに上層――雲間すれすれを旋回するのは、もう一体の使令、沙梭。

 

漆黒の鷲に似たその姿は、戦場を遠巻きに観察し、敵の後方や不自然な動きを即座に察知していた。その鋭い視線は、戦列の端、わずかな森陰に潜む敵の伏兵にまで届いている。

 

その情報はすぐに清次へと伝えられ、さらに鴻玄の元へと通達される。

 

「右翼、第二小隊を後方に回せ。崖下に伏兵、数は三十。迅速に包囲せよ」

 

鴻玄の怒声が飛ぶ。兵たちは即座に動き、混乱もなく陣形を再構成していった。

 

だが、それは使令の活躍がもたらした戦果に他ならなかった。

 

地上では――榛霧が展開した幻像が、味方の兵を包むように広がっていた。敵の視界を奪い、音を惑わせ、錯乱させるそれは、兵士たちにとってはまるで守護神のように映る。

 

「弓隊が混乱している! いまだ、突撃!」

 

「幻の矢か……あの化け物、見えてないのか……!」

 

戦場に次々と上がる悲鳴と歓声。榛霧は、幻術をもって味方の犠牲を最小限に抑えていた。敵の矢は外れ、動きは鈍り、その間に味方は要所を突く。

 

榛霧が幻を巡らせ、墨魃がそれに呼応して敵の戦力を削り、沙梭が広域の索敵と伝達を担う――三体の使令が、戦場をまるごと支配していた。

 

その様子を、正規軍中段に布陣した騎兵列から見つめていたのが、凌成である。

 

言葉はなかった。だが彼の目は、紅の髪を風に揺らす麒麟の姿と、その周囲に集う非凡な力を、まっすぐに見据えていた。

 

采麒はただ命じることもなく、叫ぶこともなく、静かにそのすべてを見届けていた。けれど使令たちは、彼の意を汲んで動き、迷いなく戦っていた。

 

「……あれが……」

 

凌成の目が細められる。

 

「……才国の麒麟か」

 

その声はかすれ、誰にも聞こえはしなかった。

 

だが確かにそこには、彼の変化があった。

 

これまで、麒麟の選んだ王を疑い、その姿を異物として斥けてきた彼が、いま、初めてその力を真正面から見ていた。

 

「……凄いな。……あなたは……才国は、きっと良くなる」

 

小さく、ほんの微かな呟きが、風に消えていった。

 

戦場の空は、なお紅く染まり、だがその中に――確かに希望の色が、滲みはじめていた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 丘陵の上に張られた本陣では、緊迫した空気が漂っていた。

 

 幕の外からは絶え間ない騒音が押し寄せてくる。矢が風を切る音、奇獣の咆哮、鉄のぶつかり合う鈍い音、怒号と悲鳴が交錯し、ただならぬ戦の激しさを伝えていた。

 

 梁炯は帳内に立ち尽くしていた。額にはにじむ汗、指先には不穏な震え。だが、それを悟られまいと顔を強ばらせ、歯噛みしながら帳を出ようとする副官の背に怒鳴り声を浴びせる。

 

「どこへ行くつもりだ! まだ報告が終わっていないだろう!」

 

 副官は肩を震わせ、すぐさま踵を返した。

 

「奇獣隊は何をしている! なぜ空を制されているのだ! こちらには五十を超える戦用の奇獣がいるはずだ!」

 

「はっ、確かに数では勝っておりますが……」

 

 副官は口を濁し、梁炯の顔色を伺う。だが怒気の渦巻く視線に気圧され、やむなく言葉を続けた。

 

「どうにも……味方の動きが読まれているようで。さらに、戦場に――」

 

「なにがいると言った?」

 

 梁炯の声が低く落ちる。

 

 副官は逡巡の末、言った。

 

「……妖魔です。奇獣に混じって、戦場の一角を駆けております」

 

「……妖魔だと?」

 

 その一言に、帳内の空気が一変した。

 

「敵の兵に被害は?」

 

「いえ……それが。なぜか、我が方の兵ばかりを狙っております。まるで兵の動きと連携しているような……」

 

 梁炯は目を細めた。無言のまま、帳の端に置かれた戦地図へ歩み寄る。指先で丘陵の稜線をなぞりながら、ふと呟く。

 

「……妖魔を、兵と連携させて動かすだと?」

 

 しばしの沈黙のあと、背後にいる副官へと振り返る。

 

「戦場に、赤い髪の少年の姿はなかったか?」

 

「は……?」

 

 副官は目をしばたたかせた。

 

「そのような者が……?」

 

「いたのか、いないのか!」

 

「……たしかに、『赤い髪をした少年を見た』と話していた者がありました。偵察隊の兵が、敵軍の背後の高台にて……」

 

「ほう……」

 

 梁炯はふっと口元を歪めて笑った。その表情には、怒りでも焦燥でもない、得体の知れぬ確信が宿っていた。

 

「そうか……戦場に、麒麟が来ているとはな」

 

 唇の端に浮かんだ笑みは、どこか冷たく、湿っていた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

風が、また一つ、血の気配を運んできた。

 

 清次は、高台の上で微かに瞼を伏せる。目を開けば、紅の地に人と獣とが混ざり合い、倒れ、呻き、吠えている。空には黒い影が舞い、地には裂けた肉と断たれた命が積み重なる。

 

 ――どこか見慣れた光景だ。

 

 そう思った。

 

 蓬莱にいた頃、彼は何度となく戦場を見た。炎が吹き上がり、銃声が街を裂き、人が倒れ、獣が咆哮を上げる。そのたびに、同じ匂いがあった。焦げた煙、血の生臭さ、湿った泥に混ざる金属の気配。

 

 そして、今。才国の空の下でも、それは寸分違わぬかたちで彼の周囲を包んでいる。

 

 喉の奥が焼けつくような渇きを覚える。吐き気に似た不快感が腹の底を重くし、胸の内に重い鉛が沈む。体の奥が、血の気配に打たれて軋むようだった。

 

 ――だが、それもまた慣れている。

 

 蓬莱で、彼は幾度もこの痛みに晒されていた。戦の傍にいた訳では無いが、あそこは血の匂いが絶え間なく漂っていたのだ。

 

 「……」

 

 清次は、わずかに息を吐き出す。

 

 この苦しみは、彼の体が麒麟である証であり、また人であった過去の記憶でもあった。

 

 穆玄が近づいてくる気配があった。だが清次は振り返らず、静かに言う。

 

 「……平気だ。戦況は明らかにこちらに傾いている。すぐに終わる」

 

 「……おい」

 

 低く、沈んだ穆玄の声が風に溶けた。清次は首を横に振るだけで、何も続けなかった。

 

 高台に立つ彼の傍ら、榛霧が一度だけ旋回し、空へと舞い戻る。墨魃が戦場の外縁を駆けるその合間に、ちらと才麒の方へ視線を向けた。沙梭は高空を巡る軌道をずらし、ほんのひと刹那、主の上空に影を落とす。

 

 ――気づいている。だが、言葉にはしない。

 

 使令たちは知っていた。この主は、絶対に自身の意志を曲げたりしないと。

 

 清次が手を挙げた。それだけで、墨魃は再び天へと跳び上がり、榛霧は戦場の奥へ霧を引いて滑空し、沙梭は雲間を裂いて回り込む。

 

 穆玄だけが、そこに立ち続けていた。

 

 「……終わるまで、持つといいがな」

 

 かすかに唇を動かし、彼は戦場への援助へと戻っていった。

 

 

***

 

 

風が、再び血と硝煙の匂いを運んできた。

 

清次は高台の上で、戦況を見下ろしていた。使令たちはすでに空と地に散り、戦場は明らかに正規軍の優勢に傾いている。だが清次の紅の瞳は、なおも空と地の狭間に潜む気配を逃さず追っていた。

 

そのときだった。

 

森陰から複数の気配が駆け上がる。地を這うように走る足音。風を切る音が一瞬遅れて耳に届く。

 

清次が振り返るよりも早く、崖の斜面を伝って数人の兵が現れた。梁炯の伏兵である。

 

清次は即座に身を引こうとしたが、膝に一瞬、力の抜けを覚えた。体内に巡る血の気配が静かに、だが確実に彼を蝕んでいる。視界がわずかに霞んだその瞬間――

 

「……穆玄!」

 

一人が槍を構え、清次に飛びかかろうとしたその前に、黒き虎――穆玄が音もなく跳び出した。巨大な体が敵兵の前に割って入り、その牙が届く寸前――

 

風が裂けた。

 

鋭い羽音。刃のような気配が草を薙ぎ、空気を切り裂き、数人の敵兵が地に伏した。叫ぶ間もなく倒れた彼らは、殺されてはおらず、気を失っているだけだった。血の一滴すら流れていない。

 

穆玄は敵を襲ったその影に身を低くし、鋭い視線を向ける。だが、現れたのは軽やかな足取りで森から姿を見せた男だった。

 

風に乱れた長髪をかき上げ、飄々とした笑みを浮かべながら、彼は言った。

 

「やれやれ、間に合ったか。大丈夫だったか?」

 

清次の瞳がわずかに見開かれる。

 

「宥禅さん……どうしてここに?」

 

男――宥禅は肩をすくめた。

 

「梁宗様に頼まれてな。“困ってるだろうから力を貸してやれ”ってな。ま、隣の州がこんな有様じゃ、黙って禁軍だけに任せておくのも寝覚めが悪い。だから、こっそり潜って様子を見てたのさ」

 

穆玄はなお主の傍らで身構えていたが、宥禅の顔を見ると、わずかに肩の力を抜いた。その正体を認めたのだろう。

 

「禁軍はさすがの戦力だし、麒麟の使令も化け物ぞろいときた。……正直、もう俺の出る幕も無いと思ってとんずらするつもりだったんだが――」

 

宥禅の目が細められる。

 

「その前に聞いちまったんだ、厄介な話をな。梁炯が麒麟を攫って人質にするつもりだって」

 

清次は静かに目を伏せる。自分が狙われていたことに、すでに気づいていた。

 

「で、兵の後を追って来たら……本当にお前がいるとはな。麒麟が、戦場に出てくるなんて」

 

宥禅は穆玄にちらりと目をやり、問いかける。

 

「……余計なお世話だったか?」

 

「いえ。助かりました」

 

「礼はいいさ。こっちが勝手に動いただけだ」

 

宥禅は表情を崩し、冗談めかして言う。

 

「清次……いや、今は台輔と呼ぶべきか?」

 

清次は一拍置いて、静かに頷いた。

 

「……はい。でも、ここでは畏まらなくて大丈夫です。助けていただき、ありがとうございました」

 

「ふっ。じゃあ俺もその言葉に甘えさせてもらおう」

 

宥禅は空を見上げ、軽く息をついた。

 

「さて……こうなったら、そちらの大将にも顔を出さねえとな。“梁炯はもう打つ手を失った”って伝えてやらんとな」

 

そう言って、にやりと笑うと、宥禅は軽やかに歩き出した。

 

 

***

 

 

 しばしの後、清次と宥禅は、大司馬・鴻玄のもとに姿を現した。

 

 戦況の報告にあたっていた鴻玄は、宥禅の姿を見るやわずかに目を細めたが、すぐに采麒ー清次の傍らに立っていることに気づき、軽く頭を下げた。

 

 「台輔、お怪我は……?」

 

 「いえ、大事ありません。宥禅殿が間に合ってくださいました」

 

 清次の言葉に、鴻玄の目が鋭く光る。

 

 「……まさか、狙われたのですか」

 

 「梁炯は、私を攫うことで戦局を覆そうとしたようです。伏兵を差し向けていたのを宥禅殿が退けてくださいました」

 

 鴻玄の顔に緊張が走る。しかし、宥禅がひらりと手を挙げた。

 

 「まあまあ、ことは済んだことだ。台輔も無事だし、伏兵も眠らせておいた。血も流れちゃいない」

 

 そして、宥禅はふと声の調子を改め、姿勢を正すと、鴻玄に向き直って一礼した。

 

「……この度の出陣、篤州侯・梁宗の命を賜り参上仕りました。隣州にて騒乱の兆しありとの報に接し、速やかに助勢の備えを整えました。篤州公におかれましては、才国の御事情を深く憂慮され、必要とあらば兵を差し向けるご意向にてございます」

 

 鴻玄は軽く目を伏せ、深く頷いた。

 

 「篤州公のご厚意、まことにありがたく存じます。才国を預かる者の1人として、心より御礼申し上げます」

 

 宥禅は軽く首を振り、口調をやや和らげた。

 

 「いやいや、礼には及びませんよ、大司馬殿。とはいえ――」

 

 肩をすくめ、どこかとぼけたように続ける。

 

 「現地の戦況をこの目で見てみれば、どうやら禁軍の皆さんだけで充分のようだ。いや、見事な采配でしたな。援軍が出張るまでもなく決着がつきそうで、正直、うちの兵たちも拍子抜けしておりますよ」

 

 鴻玄は目を細めたまま頷く。

 

 「それであれば幸い。敵の策も潰えた今、あとは押し切るのみ」

 

 「まったく、梁炯の奴も哀れなもんですな。切り札は悉く空振り、頼みの伏兵もこの通り」

 

 宥禅は清次へとちらと目を向ける。

 

 「まさか戦場で、台輔ご本人まで見るとは思いませんでしたが……おかげで助け甲斐もあったというものです。面目躍如ってやつですな」

 

 それから鴻玄に軽く一礼し、にやりと笑って言った。

 

 「さて、それじゃあ私も、最後にもう一働きしてきましょうか。兵は持ってきておりませんが、腕一本くらいは役に立つかもしれませんのでな」

 

 風を背に受け、ひらりと翻るような足取りで、宥禅は再び戦場へと駆けていった。

 

 

***

 

 

 戦場の一角――才国禁軍の前線の先で、宥禅の姿があった。

 

 風を裂くように駆け、敵兵の間を軽やかに滑り抜け、薙刀を振るい、数人を瞬く間に地に伏せさせる。宥禅の動きは、まるで舞うようでいて無駄がなく、相手の呼吸を読むようにして急所を外し、動きを封じていく。

 

 叫び声も、剣戟の音もない。ただ宥禅の通った後には、意識を失った敵兵が静かに倒れているばかりだった。

 

 「……な、なんだあれは……!」

 「敵か、味方か!? 一人で……あんな……!」

 

 禁軍の兵たちの間にどよめきが走る。誰もがその異様な光景に言葉を失っていた。

 

 「……すさまじいな」

 

 鴻玄の声が低く漏れた。その視線は、鋭く宥禅を追っている。

 

 「たった一人で、まるで一軍を相手にしているようだ。禁軍でも、あれに並ぶ者は数えるほどしかおるまい」

 

 清次もまた、静かに宥禅の姿を見つめていた。かつて蓬莱で命を救われた男――その飄々とした振る舞いの裏に潜む、圧倒的な力を、誰よりも知っている。

 

 「……強いですね」

 

 そうつぶやいた清次の傍らには、黒い虎の姿をした穆玄が、いつものように静かに伏せていた。その鋭い双眸が宥禅の戦いぶりを見据えていたが、やがて鼻を鳴らし、ゆっくりと目を細める。

 

 「……あれなら、俺はいらねぇな」

 

 その言葉に、清次がそっと穆玄を見下ろす。

 

 「穆玄……」

 

 傍らでやりとりを見ていた鴻玄が、わずかに口元を引き締めながら言った。

 

 「確かに、あの様子では穆玄殿の手助けも不要でしょう。あとは我らで決着をつけるのみ」

 

 そう言って、鴻玄は清次の方へ向き直り、深く一礼を添えて続けた。

 

 「台輔には、御身を大事にしていただきたく存じます。他の使令方も引かせ、身を固められた方がよろしいかと」

 

 だが、清次は静かに首を振った。

 

 「……わかりました。しかし、私の守りは穆玄だけで十分です」

 

 穆玄は何も答えなかった。ただ静かにその場に身を伏せ、いつもと変わらぬ落ち着きで、主の背を守り続けていた。

 

 

 

 

ーーー

 

 

 

 戦の終わりは、あっけなかった。

 

 梁炯は、自らの軍が総崩れとなったことを悟ると、最後の抵抗も虚しく包囲に飲まれた。宥禅と禁軍の力は圧倒的で、もはや打つ手など残されていなかったのである。

 

 捕縛の報せが届いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。

 

 「梁炯、捕らえられました!」

 

 伝令の声が風に乗って高台へ届いたとき、清次はほんの一瞬、目を伏せた。穆玄はその傍らでじっと身を伏せたまま、主の沈黙に寄り添っている。

 

 「……終わりましたね」

 

 鴻玄がそう口にするのを聞きながら、清次はゆっくりと視線を遠くへと向けた。

 

 空には、榛霧が舞いながら霧のように霧散し、沙梭は高空を旋回したのち、ゆるやかに姿を消してゆく。墨魃もまた、黒き影を空に溶かすように退いていた。

 

 そして、地上には――倒れた兵たちの姿が、静かに横たわっていた。

 

 清次はしばし風の音に耳を澄ませた。血の匂い、焼けた土のにおい、呻き声と、終わったはずの戦の残響が、なおも彼の五感を震わせる。

 

 ――戦に正義などない。ただ、命が失われるだけだ。

 

 勝利とは、失われた命の上に立つもの。そう知っているが故に、清次は笑えなかった。

 

 「……皆、帰れるだろうか」

 

 ふと、そんな言葉が胸の内に浮かぶ。

 

 この地に命を残していった者たちが、彼らの魂が、安らかに帰ることを。

 

 清次は静かに一礼を捧げた。それは、麒麟としての祈りであり、ひとりの者としての悼みだった。

 

 やがて、旗が降ろされ、兵たちの行軍が始まった。

 

 風が止み、戦場に静寂が戻っていく。

 

 清次は穆玄とともに、高台を降り、再び城へと歩を向ける。

 

 長閑宮へ――あの静かな、風の音のする場所へと。

 

 




ストーリー的には次でラストになります
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