紅衣の麒麟   作:にわか

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今回で本当に最後です。
最後まで拙作にお付き合い頂きありがとうございました


終章

 

 

 

雲海の上、白金の陽が射す長閑宮の朝は、静けさとともに始まっていた。

仁重殿の階を下り、霞のような雲を踏みしめる緋衣の影がひとつ。

それは節州を治める麒麟、采麒――才国の台輔その人である。

 

政務の合間、ふと気が向けば民の暮らす町へと降り、あるいは穆玄と連れ立って各地を巡る。

数年前まで想像もつかなかったそんな姿が、今や長閑宮ではすっかり日常となっていた。

 

「おはようございます、台輔。……本日は、どちらへ?」

 

いつも通りの問いかけに、采麒―清次は一歩立ち止まり、薄く笑みを浮かべて振り返った。

その柔らかな表情は、かつて誰にも見せることのなかったものであった。

 

「今日は、雁まで。延麒に会いに行ってくるよ」

 

「――雁国っ!?」

 

門番が素っ頓狂な声を上げる間に、風がざわめいた。

漆黒のたてがみを揺らし、穆玄が清次の影からゆらりと姿を現す。堂々たるその巨体は、饕餮としての畏怖と、どこか神聖さを感じさせた。

 

清次は迷いなくその背に乗り、軽やかに振り返る。

 

「二、三日で戻るから、政務の文は机の上に置いておいてね」

 

そして、少し思案するように視線を横にずらし――軽く、語尾に熱を込めた。

 

「……それから、宥禅にも伝えておいてくれる? 節州の方は彼に任せてあるから」

 

 

宥禅――節州政の実務の多くを預かる、清次の補佐官である。

かつて反乱鎮圧の折、梁宗と共に抜擢された後は、風のように掴みどころのない性格ながら、なぜか要所は外さず務めを果たす。

無頓着に見えて、物事の流れを読む目だけは妙に冴えている。

 

「はっ……かしこまりました、台輔!」

 

穆玄の背がしなり、次の瞬間、空を裂くように飛翔する。

春の風をまとったその姿は、緋の筋となって空へ溶けてゆく。

 

門番のひとりがぽつりと漏らした。

 

「……あの御方も、ずいぶん柔らかくなられたものですね」

 

「昔のような影はない。今は、風のように――この国と共に在るお方だよ」

 

見上げた空の向こうに、微かに紅が揺れていた。

 

かつて誰より孤独だった麒麟が、今や笑みを浮かべて空を駆けてゆく――

それは、国に春が巡った証のようにも思えた。

 

 

***

 

 

雁州国・玄英宮の禁門に穆玄が降り立つと、その威容に周囲の兵は息をのんだ。

ただ一人、堂々とその場に立っていたのは、金色の髪を風に揺らした少年だった。

 

「やっと来たか、清次」

 

六太――延麒が、口元に笑みを浮かべて言った。

その後ろに立つ衛兵たちは無言で頭を下げる。だが、その緊張を解すように、六太が手をひらりと振った。

 

清次は穆玄からゆるやかに降り立ち、軽く手を上げて言った。

 

「……ちゃんと前触れは出しておいたからね。いなかったら帰るつもりだったよ」

 

「ひでぇな。俺だってお前に会いたかったさ」

六太はにやりと笑いながら歩き出し、清次もそれに並ぶ。

並んで歩く二人の間に、かつての幼さはもうない。けれど、不思議と空気は変わらず、懐かしさがそこにあった。

 

「最後に会ったの、あれだな。揖寧の……あの時」

 

「うん。主上を選ぶ前の、ほんの短い間」

 

六太は頷き、廊の奥にある仁重殿の庭へと清次を導いた。

石と白砂が静かに並ぶ庭は、整然としながらもどこか柔らかく、春の陽光が葉を照らしていた。

 

「よかったらさ――お茶でも飲みながら話を聞かせてくれよ」

 

六太は、清次に顔を向けて静かに言った。

その声音には、どこか兄のような、見守る者の温かさが滲んでいる。

 

「お前が、どんな日々を歩いて、何を思ったのか……俺は、それをちゃんと聞きたいんだ」

 

清次は少しだけ目を伏せ、そして静かに笑った。

 

「……ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」

 

「そうそう。それに、尚隆のとっておきの茶葉、こっそり拝借してあるんだ」

 

そう言って六太はにやりと笑う。

 

「ついでに、うちの桃饅頭食ってけよ。けっこう美味いんだぜ」

 

「……それは楽しみだな」

 

清次の頬がふわりとゆるみ、ふたりの影は庭へと歩いていった。

やがて一対の椅子が置かれた中庭の一角に腰を下ろすと、春の風が花の香を運んでくる。

 

茶の湯気が上がり始めるころ、清次は静かに語り始めた。

過ぎた季節のこと、心を閉ざしていた日々のこと、穆玄と出会い、国と向き合ってきた時間のこと。

 

六太は、終始その声を遮らず、ただ隣で耳を傾けていた。

 

 

***

 

 

清次は両手で湯呑を包み込むように持ち、しばし庭の風に耳を澄ませた。

 

「……王を選ぶということが、あんなにも、心を揺さぶるものだとは思っていなかった」

 

そう言って、かすかに笑う。

 

「主上――あの方は、俺が出会ってきた誰よりも、静かで、強くて、まっすぐな方だった。」

 

六太は口を挟まず、ただ湯を啜った。

 

「最初は王を選んだことが怖かった。前王の話も聞いていたし、主上にも抱えているものがあったからね。今以上に民を苦しめるんじゃないかって…。でも、あの方のあり方を見て大丈夫だって、自然とそう思えたんだ。」

 

「そっか」

 

六太は呟くように言った。

 

「お前、昔は誰にも頼らず、一人で何でも抱えてたよな。自分のことも、国のことも。

 でも今のお前は、“誰かと一緒に歩いてる”顔をしてる。」

 

清次は、照れくさそうに首をすくめた。

 

「……色んな人と出会って、支えられて、ようやくここまで来られた。

 穆玄や利広殿、主上に朝廷の重臣たち、そして才国の民たち。もちろん六太も。色んな人達と関わって、それが俺自身を育ててくれたんだと思う」

 

「なるほどな。心から守りたいと思えたんだな」

 

「うん。……以前は、“ただ正しくあればいい”って、どこかで思ってた。

 でも今は、“共に在りたい”って思う。誰かの上に立つんじゃなくて、隣に立つように」

 

ふたりの間に、しばしの静けさが流れる。

風が緋の袖をゆらし、茶の湯気がその合間を縫うように立ち上った。

 

六太が口元に笑みを浮かべ、そっと湯呑を置いた。

 

「……そっか。清次、お前、良い顔になったよ」

 

清次は軽く目を細めて返す。

 

「……そう見える?」

 

「昔は、自分に何も許してやれない顔をしてた。今は違う。……ちゃんと、ここに“居る”顔だ」

 

清次は何も言わず、小さく笑った。

 

静かな沈黙のなかで、庭を吹き抜ける風の音だけがしばらく耳に残る。

 

やがて、六太が茶器を取り、わざとらしく咳ばらいした。

 

「そういやお前、最近仕事を放り出して色んなとこ回ってるんだってな」

 

「……嫌だな。六太じゃあるまいし、仕事はちゃんとしてるよ」

 

清次は肩をすくめて笑った。

 

「主上や官吏たちからだって、ちゃんと許可をもらってる。今日だって、門番は驚いてたけど……みんな笑って送り出してくれたよ」

 

「……甘やかされてんじゃねえか、それ」

 

「ふふっ。そうかな?」

 

六太はわざとらしくため息をつきながらも、口元は綻んでいる。

 

「でも……そうか。才は、いい国になったか?」

 

「そうだね。まだまだこれからのところはあるけど……朝廷のみんなが頑張ってくれてるから。……雁には叶わないけどね」

 

清次はそう言って、楽しげに笑った。

 

「ははっ。そりゃあ年月が違うからなー」

 

「うん。……そうだね」

 

清次は、庭の一角に目を向ける。そこには、薄紅の花がそっと咲いていた。

 

「才国もきっと……雁国みたいに、二百年以上続くいい国にするよ」

 

六太はその横顔を見つめ、目を細める。

 

「……そうか」

 

 

春の光を受けて、薄紅の花がそっと揺れていた。

 

それは蓬莱から移された花――花登(かとう)。

延の土に根付き、毎年この季節になると、変わらぬ静けさの中に小さな華やぎをもたらす。

 

その足もとに、一枚、花弁が音もなく落ちた。

 

風がふたりの間を抜けていく。

湯呑に立ち上る茶の香が、それを追いかけるように宙へとほどけていく。

 

六太は変わらぬ笑みのまま、茶を啜り、

才麒はその横顔を一瞬だけ見つめて、そっと目を伏せた。

 

鳥の声が遠くに響く。

雲の上の静けさに溶けるように、ふたりの時間が緩やかに流れていく。

 

才麒の袖が揺れ、庭の端をかすめた花の影が、砂に優しく滲んでいた。

 

雲海の上、静かな陽が、ただ穏やかに照っていた。

 

 




最後までお付き合い頂きありがとうございます。
物語はこれで終わりですが、原作軸の話も小話として書きたいと思ってます。気が向いたらそちらもあげようと思っているので、また覗きに来てくださると嬉しいです。
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