紅衣の麒麟   作:にわか

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華胥の夢にある帰山の話の内容を好きなように捏造しました。


風語 (ふうご)

 

 

 

堯天(ぎょうてん)の市街は、夕刻を迎えてなお熱気に包まれていた。

 

日が傾きかけるとともに、陽射しを避けていた民たちが続々と通りへ姿を現し、街の喧騒はいよいよ盛んになる。

往来を行き交う人々の間を、焼き団子の香ばしい匂い、塩漬け肉の煙、香草の束を抱えた商人たちの声が入り混じる。

あちこちで童たちの笑い声が跳ね、店先では値段の駆け引きが絶え間なく続いていた。

 

その街道を縫うように歩く人影があった。少年のあどけなさが抜けきらない、赤い髪をゆるく束ねた旅人姿―清次(せいじ)は鬣となる髪隠しておらず、だがこの地ではそれを見抜く者もいない。

 

清次は騒がしい街のなか、とりわけ人が集まっている一角の前でふと足を止めた。

 

屋根のない簡素な卓と椅子が並べられた一画。

常ならば旅の者や暇人が酒を傾けるだけの小さな飲み場が、今や野次馬で溢れかえっていた。

 

「おおっと、また負けたぞ!」

 

「今度は子ども相手だったな……!」

 

「こりゃあ今日一日で何度目の完敗だ?」

 

「それでもまだ打ちたいってんだから、よっぽど物好きだな」

 

碁盤の上に並ぶ白黒の石を囲み、ひときわ注目を集めている男がいた。

勝ち誇る少年と、肩を竦めて苦笑する黒衣の男。その姿に、周囲は湧いていた。

 

男は黒髪を後ろでひと束にくくり、袖のゆったりした粗衣に身を包んでいる。

旅の風に晒されたような出で立ちでありながら、どこか無造作な品のある佇まい。

その顔立ちは整っていたが、飄々とした笑みの奥に、つかみどころのない気配を漂わせている。

 

――笑いの中心にいた男を見て、清次は足を止めた。

 

「……風漢さん、」

 

目に映るのは、かつて雁の玄英宮で数度顔を合わせた男。

風漢――その素性は、延王・尚隆。延国を三百年近く治め続ける不世出の王だった。

 

だが、その名も身分も、誰一人としてこの場では知る者はいない。

彼はただ、ひとりの風変わりな旅人として、囲碁に興じ、庶民と笑い合っている。

 

(……らしい、な)

 

清次は思わず小さく笑みをこぼした。

 

「いやぁ〜、こりゃ参った。坊主相手にも負けるとはな」

 

と快活に笑った男は「ほら、約束の駄賃だ」と言って少年に饅頭を手渡した。

 

ふと、視線を感じたのか、男が視線を巡らせる。

その目が清次を捉えた瞬間、口元に緩やかな笑みが浮かんだ。

 

「おう、清次。久しいな」

 

声は大きくもなく、けれど確かに清次の耳に届く。

 

清次はにこやかに笑い、すっと人混みを抜けて風漢の前へと歩み寄った。

周囲のざわめきはまだ続いているが、二人の間には、少し異なる空気が流れはじめる。

 

「お久しぶりです。風漢さん、随分と人気のようですね。」

 

「いや、人気者ではないな。……周りに弄ばれとったと言ったほうが近い」

 

風漢は苦笑しながら碁石を弄ぶ。

饅頭を貰った少年が仲間と連れ立って去っていくのを、彼は追わずに見送った。

 

「この辺りはな、夕刻になると市の者が三々五々と集まり、軽く酒を交わし、こうして碁を打ったりしていくんだと。気楽でいい街だ」

 

「それは……風漢さんにお似合いの場所ですね」

 

清次が静かに返すと、風漢はにやりと笑った。

 

「そうか? だがあいにくと俺は、囲碁がさっぱりでな。今ので、八局目だ」

 

「八局……?」

 

「ああ、見事に全敗だ」

 

風漢は肩をすくめると清次に視線を向けた。

 

「清次。お前、碁は得意か?」

 

清次は目を瞬き、答えた。

 

「いえ……、弱い方だと思いますが、」

 

「ならばちょうどいい。一局、付き合ってくれ。見てのとおり、俺も碁はさっぱりだがな」

 

「…それでは少しだけ。」

 

清次は苦笑を浮かべながら、卓の反対にまわった。

 

風漢は楽しそう笑い、碁石の入った碁笥を滑らせた。

ふたりが席につくと、周囲のざわめきが次第に遠ざかっていく。

 

碁盤の上に並ぶ黒と白。

静かな勝負が、旅人同士の姿を借りて始まった。

 

 

碁盤の上に、静かに石が置かれていく。

黒と白が交差するたび、酒場の喧噪がどこか遠ざかって感じられた。

しばしの沈黙ののち、清次がぽつりと口を開いた。

 

「……慶は、いい国ですね。民が、生き生きしている」

 

対面の風漢が手を止めて、ゆるく目を細めた。

 

「慶国の王は、在位百年を超えるからな。……お前の出身の才も、そうだろう?」

 

清次は小さく笑って頷いた。

 

「そうですね。才国も、いい国です。

 それでも在位期間でいえば、奏や雁には敵いませんけどね。

 ……今は、王朝が長く続いている国が多いですね。

 範も、もうすぐ百年になりますから」

 

風漢は「いいことだ」と短く相槌を打ち、一手を打つ。

 

清次も盤上に石を置きながら、ふと風漢の懐に目をやった。

漆塗りの小さな袋――そこから覗くのは、妙に整った光沢をもつ碁石。

上質なものもあれば、拙い造りのものもある。新旧取り混ぜられ、しかも数が妙に多い。

 

「……別の場所でも、打ってこられたんですか?」

 

その問いに、風漢は一瞬だけ目を見開き、そしてふっと笑った。

 

「ああ。珍しく、勝ったからな」

 

それだけ言って、再び碁石を摘まんだ。

清次は静かに頷く。

 

「それは……良かったですね」

 

盤上にまた石が置かれ、打音が響く。

やがて清次は、少し真剣な眼差しで風漢を見つめた。

 

「以前、六太と話したんです。……雁は、本当にすごい国だと。

 特産品は農作物しかないのに、あれだけ豊かで……それはもう、見事だと」

 

風漢の手が止まる。

清次は続けた。

 

「六太も、すごく嬉しそうに言ってました。雁は、豊かになったって……」

 

清次は少しだけ視線を落とした。

 

「……でも、同時に、こうも言ってました。雁は十分に持った方だ、ここまで豊かにしてくれた王に感謝していると。そして、もし雁が滅ぶことになっても受け入れるって……」

 

言いながら、清次は少し笑った。

 

「……ここまではっきりとは言ってないですけどね。あれでも案外、色々考えているんです」

 

そして視線を落とし、声音を少し低めて続けた。

 

「どんなに凄い王でも、倒れない王朝はない。

 でも、俺は才国に今のままずっと続いて欲しいと思っていますし……六太も、本心では、今の雁がこのままずっと続けばいいと、きっとそう思ってるはずです」

 

盤上に静かに石を置いた清次は、ふっと息を吐いた。

 

「……どうやら、俺の勝ちみたいですね」

 

言葉の調子に誇りはない。ただ、淡々と、それでもどこか温かく。

 

風漢は一瞬だけ盤を見つめ、やがて肩をすくめた。

 

「そうだな。……いい勝負だったよ。おかげで、飽きた気がする」

 

「飽きた……?」

 

「碁はな」

 

風漢はそう言って、碁石を箱に戻す。

無造作に、しかしどこか丁寧に。玉のような石が小さく鳴った。

 

一拍の静けさのあと、風漢がふっと笑った。

 

「……どうでも良くなった気がしてな。元々腕も強くない。ただ、今日お前と一局打てたのは、いい旅の記念だ」

 

「それは、嬉しいです」

 

清次は、柔らかく目を細めながら応じた。

 

ふたりの間に、風が一筋吹き抜ける。

 

清次は手を膝に置き、ゆっくりと立ち上がる。

 

「それでは、ここら辺で。俺も才国に帰ろうと思います。……待ってくださっている方がいますから」

 

風漢は頷き、ふと遠くを見るように目を細めた。

 

「――またどこかで。風の向くままにな」

 

その一言に、清次は思わず振り返った。

 

けれど、風漢はすでに彼に背を向け、ゆっくりと人波の中へと歩み出していた。

黒髪を束ねたその姿は、振り返ることなく、雑踏のなかへと溶けていく。

 

清次はしばしその背を見送り、やがて、ふっとかすかに笑った。

静かに歩を返し、同じように別の道へと向かって歩き出す。

 

旅人の姿に戻ったその背は、喧騒のなかへゆっくりと紛れていく。

 

すれ違った誰もが、その名も、何者かも知らぬまま。

けれど、あの一局と、静かな会話のひとときだけが、確かにふたりの間に残っていた。

 

春風が街角を吹き抜け、盤上にひとつ、石が転がった。

乾いた音が、淡く夕暮れに響いて――それきり、静かに消えていった。





一応、慶は達王が在位してる感じで書いたのですが、達王はいつ頃登極したのか分からないので完全に捏造です。尚隆より後に登極した体で書きましたが、尚隆より前に登極しててもいいですよね。
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